タヌポンの利根ぽんぽ行 円明寺周辺

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目  次


更新経過

岩井城近隣について、2016年2月と5月に2度の案内を乞い、早く更新をと思っていました。
しかし、このページにはほかにもいろいろ未調査部分があり、
それらを一挙に更新しようとしたため、遅くなりましたがここにようやく。

岩井城と御岳塚、解決編御岳塚と霊神碑大師と石仏2が、新規に追加した項目ですが、
その他、冒頭から細部に亘って、細かく修正・追記しました。
ボリュームが1.5倍になり、ちょっと再々編成・整理も必要かなあ、というところです。(16/05/28)


下記から追記を何回か重ねてきましたが、
2013年頃から本格的な再調査を各コンテンツで順次行ってきて、
この円明寺周辺にはいまだ調査が終了していません。

そんな中で、地元探検家の方より御岳塚や岩井城への道筋や、
各種石仏・石祠の情報をいただき、それらを含めた再撮・計測等を
これから始めていこうとしています。
まず、手ごろなところから、見落としていた 立木南の道祖神? を紹介します。(16/05/03)


同じ立木地区でも、円明寺からその東にある蛟蝄神社に至るまでは、
地形的に少し丘陵的になっていて、いかにも山里といった風情があります。

そこには岩井城の館跡とか御岳塚という塚があるということなのですが、
まだそれがどの位置に該当しているのかはっきりとは分かりません。

その代わりというのもなんですが、とてもクルマでは通れない多くの抜け道や、
細い路地の何ヵ所かで、道祖神の鳥居やお堂などを見つけました。(05/05/27)


立木地区周辺マップ

このページでは主にこの地図の左方、西部の円明寺近隣のポイントを紹介します。

抜け道の宝庫

円明寺の周辺地区は、実はタヌポンがもっともお気に入りの場所のひとつです。その最大の理由は、
下の写真のような「探検」気分が味わえる「抜け道」のような箇所が、随所にあるからです。
これは、この円明寺の周囲一帯が丘陵地になっていて、そこから平地に下る道が各所に付いているからです。

円明寺周辺の抜け道 円明寺周辺の抜け道
円明寺周辺の抜け道

先日、タヌポンの奥さんと話をしていて、昔、小学生のころ、
文京区に住んでいて、近くに人の住んでいない洋館があり、
こわごわ、ドキドキしながら探検したときの話を聞きました。

タヌポン自身も、少年時代、故郷の「まだ整備されていない」
小公園の裏手の崖を登って、崖の上の美大の「庭」へ。
ここには原野のような自然あふれる草原があり、
夏休みなど毎日のように「探検」に出かけました。
その懐かしいセピア色の情景は、
いまも、まざまざと思い出すことができます。

円明寺周辺の抜け道

数年前に、帰省したとき、その懐かしい場所を訪問したら、
あのときの探検の成果はあとかたもなく、消えていました。
すり鉢形のカエル釣りをした沼も、マメコガネのいた草原も、
冒涜を犯すような気持ちで裸婦の彫塑像を
覗きみたあの古びたアトリエも・・・。

現在、それらは昔の面影は微塵もなく、
「現代的な美しさ」という無味乾燥な整備がされ、
やけに明るいキャンパスに一変しています。

タヌポンの奥さんが、他にも見た皇室S家邸宅。
その風情あふれる長土塀の面影も、いまはおそらく
監視カメラの付いた空ろな壁と化しているでしょう。

円明寺周辺の抜け道

現代は、ある程度以上の規模の市町村は、
子どもたちが怪我をしない、
変質者が隠れられないような見通しのよい設備、
そのような画一的な遊び場ばかりをせっせとつくっています。

子どもたちは、よほど地方の山里などに行かなければ、
わたしたちが経験したような「探検」気分を
味わうことはできないでしょう。

ロッククライミングの設備や、ファミリー迷路はあっても、
崖の途中に木苺が生っていることや、胡桃の樹などもなく、
迷路は平坦で、カブトムシやクワガタもいないでしょう。

円明寺周辺の抜け道

それはいいことなのか、そうではないのか。
それしか仕方ないのか。単なる怠慢なのか。
そんな疑問すらないのか、あるのか。

それらはなかなか難しい問いになります。

さて、円明寺周辺にある、魅力的な抜け道。
初めて遭遇したときは
ほんとうに童心に返ってどきどきしました。

円明寺周辺の抜け道

気が付くと、家路を急がねばならない時刻となっている、
時間を超越した魅力の空間が、円明寺周辺にあります。

以下、抜け道と、その先に何があるのか。
少しずつ見ていきましょう。
実は、未探検のところもいくつかあるのです。

また、ここにあげた抜け道ではなくても、
いくつか見つけた道祖神なども、
すべて見通しのあまり効かない細い路地の1角にあります。
その先に何があるのか、初訪問時は、
なるべくゆっくり歩いて見てください。
人に残された時間は少ないのですけれど、
ここでは、ゆっくりと時が流れている、そんな気もします。

以下、抜け道の場所を分かりやすくするために、先に、目に付きやすい鳥居のある3基の道祖神から見てみましょう。

円明寺周辺の道祖神1(円明寺東南三叉路)

蛟蝄神社から西に向かう細道、なだらかな上り坂の途中、円明寺の少し手前に三叉路(T字路)があります。
その交差点付近から急に上り坂がきつくなります(下左)。また、南からぶつかる登坂も直前で急坂になります(下右)。

交差点から円明寺方面上り坂 南から交差点に伸びる上り坂

このような微妙な勾配の交差点の東南の門に、細身の明神鳥居が立っています。調べてみるとそれは道祖神でした。

道祖神と鳥居

左は、2012年、下は2005年当時。
少し様子がちがいます。
・背後のブロック塀が新しくなった
・敷地も舗装されきれいになった
・本殿石祠の傾きも是正された
・左に1基、石仏が設置された
ただし、以上は、果たして、
大震災後の影響かどうかは不明です。
2005以来、何度も素通りしましたが、
注意して見ていなかったのです。

旧道祖神と鳥居

本殿石祠

下左から、石祠正面、右側面、左側面。石祠表面内部に、はっきりと「道祖神」と記されています。

本殿石祠 本殿石祠右側面 本殿石祠左側面

左側面に「文政九丙戌九月吉日」、右側面には、「女講中」、文政9年(1826)9月、女講中による造立です。

本体: 高63cm、幅33cm、厚26cm。

これらは2012年になって、やっと調べたことで、それまでは、ここは、吹き溜まりのような地点で、
ゴミなどが多くたまっていたせいもあってか、調査を怠っていました。さて、新たに見つけた左の石塔は?

庚申塔

庚申塔 庚申塔右側面

青面金剛王」とあり、庚申塔です。
この塔は、下部が数センチ程度、
コンクリートに埋められており、
」の字が半分しか見えません。
利根町の「青面金剛」の文字の庚申塔は、
これで例外なく、青面金剛王です。

正面右に「慶應二寅年」とあり、
慶応2年(1866)の造立です。

同様に、右側面も下部が欠損してますが、
古川芳右エ門」銘。

それにしても、この石塔は、いつどこから
降って沸いたようにここに?
以前の所在地はどこなのでしょう?

本体: 高40cm、幅26cm、厚19cm。

古川家の石祠

円明寺の近隣には、名家古川家があります。その邸宅の庭に2基並んで設えられた石祠を拝見させていただきました。
上の庚申塔で見た古川氏とは別、ということのようですが、いずれにせよ由緒のある家柄のようです。

下中央は、左の石祠の右側面で、「古川太左エ門」とあり、右の石祠の右側面も同様です。
また下右端写真は、右の石祠の左側面で「安政四巳年 九月吉日」、これも左石祠左側面も同様。
つまり、まったく同時期、安政4年(1857)9月に、まったく同じ石祠を2基、造立、というゴージャスなものです。

古川家の石祠 古川家の石祠(左)の右側面 古川家の石祠(右)の左側面

石祠左本体: 高41cm、幅19cm、厚14cm。石祠右本体: 高40cm、幅18cm、厚13cm。

円明寺周辺の道祖神2(円明寺東)

2016年時の円明寺東の道祖神堂宇

さて、円明寺周辺の2基目の道祖神。
円明寺の裏通りの細道を東に少し行ったところの左手に建っていました。
これは2016年時の写真ですが、2012年時と変わりません。

下は、2005年時の写真。
ちょっと右に傾いていましたが、現在の鳥居になったのは震災前。
同様に木造で新築されたようです。神明鳥居系の鹿島鳥居の形です。

2005年当時の円明寺東の道祖神

本殿石祠2

鳥居奥の石祠

これが本殿の石祠ですが、上の三叉路の石祠とちがい、
ここには石祠の表面にも側面にも何も記されていません。

本体: 高64cm、幅31cm、厚39cm。

道祖神と判明したのは、この所有者である婦人にお会いしたため。
ちょうど鳥居裏の掃除をされているところに通りかかったのです。
道祖神を祀っていることと、足の病に効能があるということ。

ところが、その後で、婦人がなにかつぶやくように、言われたこと。
それが、いまだに謎として残っています。

それは・・・以下。

道祖神は北向き?

「道祖神というのはふつう北向きに建てるものなのですが、これは南向きですね。うるさかったのかしら」

これが、つぶやくように言った婦人の言葉。とくに、タヌポンへの質問ではなく、独り言のような感じでした。
後でよくよく考えてみると、謎のような発言で、タヌポンに様ざまな疑問を残しました。以下、ランダムに。

  1. 道祖神が「ふつう北向きに建てる」のは真実か
  2. 後の調査により南向きの道祖神が数多く存在している事実のうえで、婦人のいう根拠はどこにあるのか
  3. 「うるさかったのかしら」のうるさいと思う主体はだれか、またうるさいの意味はなにか
  4. なぜタヌポンへの問いではなく独り言のようであったのか

1.について、確かに、先に紹介した道祖神1と次に紹介する円明寺周辺の道祖神3は、婦人の指摘のように北向きです。
しかし、この道祖神発見直後に見つけた利根中学校(当時新館中学校)近くの 横須賀の道祖神 は、南向きでした。
また、利根町全域の道祖神をほぼ見てきた現在、ある程度の傾向を知ることができます。以下、統計表参照。

利根町全体で37基見つけています(2016春現在)が、そのうち祠などの設備をともなう規模の14基についてみてみます。
その他の23基は石祠だけのもので、近隣に置かれた他の石仏との関連で向きが決められる傾向がありますので。

利根町の道祖神の向き

No 名称もしくは所在地 規模 向き
1 大房集会所の道祖神 鳥居・祠 西
2 横須賀の道祖神 鳥居・祠
3 円明寺周辺の道祖神1 鳥居・祠
4 円明寺周辺の道祖神2 鳥居・祠
5 円明寺周辺の道祖神3 鳥居・祠
6 布川台の道祖神 鳥居・石祠
7 福木三峯神社の道祖神 鳥居・祠
8 上中谷集会所の道祖神 鳥居・石祠 西
9 中谷の道祖神 鳥居・祠
10 立崎上坪の道祖神 鳥居・祠
11 立崎中坪の道祖神 鳥居・祠
12 立崎下坪の道祖神 鳥居・祠
13 鎌倉街道道祖神
14 蛟蝄神社裏参道の道祖神

上記14基の例を見ても、確かに「北向き」は比較的多めではありますが、圧倒的に多いというほどではなく、
東西南北、いずれの向きも存在し、さらに他県のサンプルが増えれば大差はなくなってくる傾向もあるように思います。

また、調べてみると、例外的な象徴として、あえて「北向き道祖神」と命名している神社すら何社かあるようです。
一般にいえば、むしろ「北向き」のほうが珍しく、避けるべきこと、また「怖いもの」とする情報すら見つけました。
その根拠としては、

  1. 北枕からの連想
  2. 北向きは日が当たらなく神に対して失礼に当たる
  3. 貴人の家は南向きで、主人が南面するのが普通。したがって上座は北であり、尊い神は南を向くのが妥当

とすると、婦人の「ふつう北向きに・・」というのは、誤解か、もしくは、この地域特有のローカルルールと言えそうです。
道祖神とは、主にその地域に厄災・流行り病などが入り込むのを防ぐ役割りをもつ神といわれます。
そういう意味では、円明寺近辺では「北」がいわば、鬼門ともいうべき向きだったのかも知れません。
立崎地区にある3基の道祖神がすべて東を向いているのは、ここでは東から災いが襲ってくるということかも知れません。
そう言えば、布川台の道祖神が北向きなのは、当時の豊島一族の敵が北にいたからだ、ということも聞いたことがあります。
病気・厄災だけでなく、戦国時代の敵方の方向も、道祖神を立てる向きに関係していた、というのはあり得る話に思えます。

ということで、疑問の1.の「北向き」の件は、ローカルルールであったと考えたほうが妥当かと思います。

「うるさい」のは先祖?

さて次は、北向きに立てると、なにが(もしくはだれが)「うるさい」と思うのか、ですが・・・。

これは、想像の域を脱しません。以下のような解釈を考えてみました。

なかなか難しいところですが、どうも、これが持ち主の婦人の発言で、独り言のようでもあったということは、
おそらく彼女の先祖が建てた祠であり、南向きとした先祖の意志が伝わっていなかったからなのではないかと思います。
したがって「うるさい」と思う主体は、婦人のご先祖であり、そのように婦人が想定している可能性があります。

うるさいの意味は、住居側に北向きに立てるのは敷地も狭くなるし「うるさく」というより「わずらわしい」。
だから路を挟んで向こう側に建て、あえて、その地域のルールの「北向き」を無視して自分の好みを優先した。

自分の先祖がそんな考えをもっていたのではないかと、婦人は、想像していたのではないでしょうか。
ですから、そのような身内の行為の想像上の理由をまったくの部外者のタヌポンに質問できるはずがありません。
だからこそ、つぶやきのような言葉となったのではないかと想定します。

と、こういうようなことを、いろいろ推理しておもしろがっているのが、タヌポンの趣味です。
まあ、だいたいは見当はずれで、次に婦人に再会し、訊ねてみると、「あれっ、そんなこと言ったかしら?」。
そんな結果になるのではないかと思います。でも、道祖神や地蔵等の「北向き」には今後、注意してみることにします。

円明寺周辺の道祖神3(十九夜塔と道祖神)

さきほどの道祖神2の前の道をさらに東に150mほど進むと、直進と右折のT字路に来ます。
右の路を見てみると50mほど先の突き当たりが右にカーブしているのが見えますが、そのコーナーに何かあるようです。

円明寺周辺の道祖神3

今度は縦にスマートな明神鳥居です。
最初紹介した道祖神1と同様、
銀色のアルミか鉄製のようです。

鳥居の背後に、
石祠2基が安置された
青い屋根の祠があります。
その後ろ一帯は、竹薮などで、
とても入り込むのはムリです。

石塔2基の祠

上の写真と下の2つのとはいずれも、撮影した日が違います。屋根の色や、石祠の内部の状態やなど。
下右は、下左の写真で草に1文字隠れていた祠の建立月を撮るためのもの。昭和41年(1966)9月、でした。
いずれも、撮影年はちがうのですが、なぜかここに来るときは、雑草が生い茂る時期。実にめぐり合わせが悪いです。

青い屋根の祠 石祠2基

道祖神の本殿石祠

講の異体字

ここのメインは左。前の鳥居の本殿となる道祖神の石祠です。表面内部に「道祖神」と刻銘されています。
右側面(下中央)には、「安永七戌二月吉日 講中」とあり、安永7年(1778)2月の造立。講は右のような異体字。
左側面(下右)には、「奉供羪十五夜講」の刻銘。道祖神に「十五夜」等が併記されているのは初めて見ました。

道祖神の本殿石祠 道祖神の本殿石祠右側面 道祖神の本殿石祠左側面

本体: 高60cm、幅37cm、厚31cm。

十九夜塔

十九夜塔 十九夜塔右側面

中央に「奉供養十九夜塔」とあります。
「塔」の文字が地中に一部隠れています。
埋め込まれたまま固定されたようです。
したがって、左側面は狭くて検分できません。
上記の道祖神右側面も、同様で、
なんとか撮影ができましたが・・・。

正面左右に「文化十二乙亥年九月吉祥日」、
文化12年(1815)年9月の造立です。

右側面に「女講中」が見えます。

1778年の十五夜講の講中により
道祖神が建てられ、それから約30年後に、
こんどは十九夜の供養塔が建てられる・・・。
この2基に関連が果たしてあるのかどうか、
興味深いものがあります。

本体: 高55cm、幅24cm、厚18cm。

上記の鳥居のコーナーを右に曲がると、どこにたどり着くのでしょうか。何か旋回するような方向になりますが・・・。
結局は、また円明寺方面へ戻ることになり、最初はぐるりと1周したりしました。こうした回り道もまた楽しいものです。

御岳塚への抜け道?

御岳塚への抜け道?

さて、南向きの道祖神2のある細道まで再度来て、
その先のT字路から先の探索をしようと東に進んでいきますと・・・。
T字路に着く手前でふと左手を見ると、前方に、
農道というかあぜ道に近い道が北に向かって伸びています。

私道のようで進んでいっていいかどうか迷いましたが、
この辺りに岩井城の跡や御岳塚があるとも聞いていたので・・・。

岩井城館跡と御岳塚

岩井城

『利根町史』第4巻に以下のような記述があります。

明応のころ(1492〜1500)立木には相之谷弥三郎という人がいて、殿様をしていた。家老に岩井大膳という者がいて、千葉孝胤と内通し、返り忠によって、相之谷弥三郎を滅ぼしてしまった。円明寺の裏にある岩井城跡は、千葉家への功績によって、文間地区の代官となった岩井氏が居城としたところだという。(大房・吉浜正次談)

岩井城は別名文間城と言い、この後支配者は千葉氏から多賀谷氏、豊島氏となり、徳川時代へと変化していきます。

(参考)赤松宗旦の『利根川図志』(巻3)の奥山の項目にも、物語性の強い常総軍記ですがそれを出典として、奥山の砦が、豊島氏から土岐氏に奪われたことが記されています。この奥山の砦が岩井城かと思いましたが、現在の地名では立木地区で奥山はもう少し北に位置しています。泉光寺 の北に奥山城の古墳があるとも聞いていますのでやはり、奥山城・奥山の砦と岩井城は別個のものと考えたほうがよさそうです。

この岩井城と対になっているのが、御岳塚。岩井城が西、少し離れて東に御岳塚、という立地関係のようです。
さて、タヌポンが、足を踏み込もうとした先には、いったい何が・・・。

城跡・塚への南からの入口

意を決して、私道の農道に足を踏み入れ、先に進んでいくと、何か怪しい気配のする竹薮にさしかかりました。

竹薮

しかし、結論を言うとこれは途中で、断念してしまいました。
少し入った先でもう路は途絶えた(ように見えた)からです。
とても先に進めそうもありません(ちょっと怖気づいていたかも)。

ところが、もしかすると、この後で、
北の自動車道から登ったときに、
このすぐ先までタヌポンは来ていた可能性があるのです。

ともあれ、竹が生い茂る中を、あてもなくさまようのは、
あまり気味のいいものではありません。
何か石仏とか見つかると俄然、やる気が出てくるのですが・・・。


南からの探索を断念、か?

後日談になりますが、この再調査をずっとタヌポンは後回しにしていました。なかなか調査タイミングの難しい場所です。
この竹薮から見ていくほうがいいのか、あるいは北の道路側からのこれまた抜け道のようなところから入ればいいのか、
その判断も難しいことと、雑草の茂り具合からみて冬場が妥当なのですが、ついつい後回しになってしまいました。

耕地に変化

そうこうするうちに大震災が起こり、ようやくその気になって
「重い腰」を上げ再調査しようと思い立ちました。

ところが、この竹薮まで来ようとしたら、すぐ手前の敷地は
竹薮の一部を含めかなり広い面積ですっかり耕地化されていて、
その先に、やはり怪しい森が見えているというものの、
農地に直に踏み込まないとそこには行き着けません。

あぜ道も10cmほどでほとんどないも同然です。
せっかく柔らかく耕された農地に、身重のタヌポンの足跡を
くっきりと付けるような失敬なまねは申し訳ないし憚れます。
ここからの探索は、今後とも断念せざるを得ないなあと。
残念ですが、でもなぜかちょっとほっとした気持ちも少々。

→ しかし、しつこいタヌポンは、再度、ここに訪れたりします。(再び、南からの抜け道へ に続く)


円明寺裏参道北の抜け道

岩井城館跡・御岳塚へは、別のルートを探してみましょう。丘陵地を北に抜け、自動車道から南へ登る道です。
これについては、単純に横須賀方面から進んで行けばいいのですが、別の機会に北への抜け道をひとつ発見しました。

この抜け道を通って、自動車道に出てみます。下は、円明寺西の裏参道の石柱が立っている前の道。まずは、ここを北に。
道路の左には、円明寺に付属した墓地ではなく、利根町営霊園があり、下右写真ではその東端部分が写っています。

円明寺西の裏参道 裏参道前を北に

円明寺裏参道北交差点

裏参道前の道を北に向かい、十字路交差点に来たときの東西南北の様子を、以下に紹介します。
以下の4つの写真の中心に位置し、そこから、前後左右が、東西南北それぞれの方角に見えるシーンです。

→ は、北交差点から、
北の抜け道方面を見たところ
次項目で紹介します。
裏参道交差点から北向き

↓ 交差点から東方面。
この先を500mほど行くと
道祖神2があります。

裏参道交差点から西向き 交差点 裏参道交差点から東向き
↑ 交差点から西。
左に見えるのは、
利根町営霊園。
裏参道交差点から南向き
← 交差点からふり返って
円明寺方面を見たところ。
右は町営霊園。
左は円明寺境内隣の空地。

北への抜け道入口

北への抜け道

途中、円明寺の背後を東西に走る
道路にぶつかる四辻になりますが、
直進します。(右折すると道祖神2へ)

洞穴のような口を開けた抜け道が
すぐに見えてきます。

右横には、トーテムポールや
円明寺キャンプ場の案内などが
出ています。

トーテムポール

この北の自動車道への抜け道は、なだらかな下り坂になっていますが、これも、鎌倉街道 のような魅力的な自然の路です。
特筆するポイントはありませんが、やはり舗装はされていない薄暗い路で、雨上がりは滑りやすいのでご注意を。

抜け道を抜けきったら、眼前に、用水路を挟んで左は立木、右には押戸の広々とした水田が、輝いて見えます(下左)。
振り返ると、こんなところに抜け道があったのかと驚きます(下右)。そう、この路もやはり「南への抜け道」なのですね。

立木と押戸の稲 立木と押戸の稲

さて、この抜けきった道を右折します。

自動車道と言っても、軽自動車が辛うじてすれちがうことができる程度の細い道。でも、抜け道と比べれば大差です。
上は、右折した先を見たシーン。あの塚あたりに「岩井城館跡」があるようなのです。しかし、どこから入れば・・・。

北側自動車道から東方向を 北側自動車道から東方向を

どこか塚近辺の周りに、先ほどの抜け道のような道路から右手に入れる道が見つかればいいのですが、果たして・・・。

いきどまりの路

右に入り込む路とは、
左写真の場所も候補なのですが、
これはまだ寒い時期、3月の中旬に
タヌポンの奥さんといっしょに
クルマで来たときに撮ったものです。

この路がなにか怪しいと
少し入ってみたのですが、
途中で行止りになっていました。
もっと慎重に探せば、抜け道が
見つかるのかも知れませんが。

その後、詳しい地図で調べてみると、
岩井城館跡とはこの写真で言えば
左の樹木が茂っている背後の山が
やはりその位置に該当するようです。
しかし、この森林の中に、直に
入っていくのはちょっと無謀です。

地主の方との出会い

御岳塚はともかく岩井城館跡は「館跡」というくらいですから何か痕跡が残っているかも知れません。
これはもういちど精しく探索してみる必要があります。そして、それから、半年後の夏の再訪問時のこと。

こんどは、この自動車道の前方から手前にバイクに乗って走ってきたときの話です。
上記の写真の場所を過ぎて自動車道を西にさらに少し進むと、左手の畑で農作業をしている人を見かけました。

で、岩井城のことを聞いてみると、なんと、その人がこのあたりの土地の所有者であり、
城跡の管理等も代々されているとのこと。もしかして、殿様の末裔なのでしょうか?
城跡のことや 御岳塚がその見晴らし台であった ことなどを教えてくれました。

少し戻ったところにある脇道から登って行けるとのことを聞き、タヌポンは俄然、やる気になりましたが・・・。

そのとき、時刻は夕方4時半、でも、殿様は仕事の手をやめてお話をいろいろ聞かせてくれますし、
それも聞きたい気もしますが、はやく塚や城跡に行きたい気もします。
とりあえず行ってみます、とお礼を言って話を切り上げたのですが・・・。

城跡・塚への北からの入口

城跡・塚への抜け道

見てください、これですよ。
この奥に入っていく気になります?!
結局、進んで行くことにしたのですが。

タヌポンは半ズボン。これがまちがい。
下生えの笹や竹の切り株に
脛をぶつけ、すり傷だらけ。
最初の入口は胸まで届く雑草で
踏み分け道も見えません。

闇雲に草を掻き分け進みましたが、
ヘビもいるんじゃあないかとドキドキ。
竹の間にはクモの巣がかかっていて
何度も顔と頭を襲います。

途中で、来るんじゃなかったかなと、
少し後悔したのも事実です。

ようやくいくぶんかは開けてきたところに出ましたが、何とかこれでも道かな、という程度。
かなり歩いた(と思うだけで実際はほんのわずかなのでしょうが)と思うところで、以下のような光景。

掘り割り? 盛り土?

掘り割りっていうのは?盛り土ってこれかなあ?薄暗いし、蚊もいっぱいだし、ピンボケですねえ。

掘り割り? 盛り土?

射程距離にきているようなのですが、決め手がありません。さらに進んでいきましたが、どうやら行き先は・・・。
さきほどの 岩井城・御岳塚への南からの入口 へ向かっているような感じがしました。

これではちがうのかなあ、と戻ってみましたが、結局、それらしいところは見つけられませんでした。
とても残念ですが、「城跡」というものは地質学的な見方を心得ていないと、見ても分からないのかもという気がしました。
教えてもらって、「あっ、これがそうだったの?」というものかも知れません。

もどって顛末をお話ししようと、さきほどの方のところに行きましたがもう帰られたようでした。
これは、季節を代えて再挑戦しようかと。少なくとも雑草が少なく、薮蚊のいない時期、冬場がいいかと思います。
そして、今日に至っていますが、そう思うときはいつも夏場。探索好機の冬場になると忘れてしまうんですねえ、これが。

御岳塚発見

つい2.3日前に、7年ぶりかで更新、大きく追記再編成したばかりで、次の更新は、おそらく冬かと思っていました。
岩井城や御岳塚の探索は、どうしても、藪蚊や樹木・雑草の少ない時期でないと難しいので、まあ多分そうなるかと。

ところが、そんな舌の根も乾かない内に(ちょっと比喩がおかしい?)、なんと、御岳塚、見つけちゃいました。
岩井城館跡は、おそらく見つけた御岳塚から少し西にあると思いますが、これは、最後の宿題にしました。
では、2012年夏、御岳塚発見のいきさつを、以下。

北からの抜け道の模索

南からの御岳塚等への入口は、先に 南からの探索を断念か、で記したとおりなので、冬場の探索に備えて、
もういちど北の自動車道からの入口がないかどうか、以前入ったところの様子はどうなっているのかを確認に行きました。
しかし、これは、あくまでも確認のためで、そこから例の竹薮・林の中への探索をするつもりはまったくなかったのです。

入口は、以下左のような場所(右写真はその目印地点の道路を挟んだ反対側の景色)を少し東に進んだ地点です。
(以下の左写真の「倉庫」から林の向こうは行き止まりに見えますが、実は道があるようです。しかし、お勧めできません)

抜け道の模索の拠点南側 抜け道の模索の拠点北側

候補は2ヵ所

何回か往復して、候補は以下の2ヵ所に絞られました。これしか考えられません。上の目印地点に近いほうが左。

抜け道候補1 抜け道候補2

場所的には、上の左の入口のほうが、合っている気がしますし、以前もこのようなところから入ったような気がします。
ところが、この何か配電関連設備の右横の道を入って行くと、何もなく行き止まりです。あれっ?という感じです。
もう少し左(西)のほうだったのかも知れませんが、現在は、樹木と雑草でとても道筋が見えません。

それで、以前も少し躊躇したのですが、右写真の場所に、おそるおそる足を踏み入れました。その時点では無人でした。
ここは、左に小さな花畑もあり、単なる資材置き場以上の人の気配がします。まさかここに住んでいるとも思えませんが。

奥に進み、左手を見ると、山のほうに道が続いているように見えます。「これに違いない」と、ほぼ確信しました。
難を言えば、地図などから見て、少し、目印地点より西に行き過ぎているのが気になりますが、まあひとまず目標達成です。
相変わらずの半ズボン、防虫スプレーは持っていましたが、探索する予定はないので、これを冬場にと次の予定に・・・。

しかし、後ろ髪を引かれます。見えているなら登ってみてもいいのではないか、とか。わずかの距離では、とか。
イヴに取り付いた蛇のような、ありとあらゆる誘惑がタヌポンを襲います。しかし、タヌポンはそれを振り払いました。

えっ、それでは御岳塚発見って何なの?ウソ?・・・まあまあ、まだ話は終わってないです。でも、この場所はここで終わり。

再び、南からの抜け道へ

耕地に変化

この日は、円明寺近辺と中谷地区での補足カットの再撮が目的でした。
そのひとつが、南からの探索を断念か、のきれいに耕された農地です。
今回、写真を追加しましたが、2.3日前の更新では掲載してはいませんでした。
ほかにもいろいろ撮ったりしたのですが、そのカットを撮るのも、
その日(昨日)の目的のひとつでした。

ところが、その場所に行って、写真を撮ったあと、
「むらむらっ」としてきました(笑)。

「右手の耕地でないところを伝って、向こうの林までたどりつけないだろうか」
「奥のほうの途中で、やはり耕地にぶつかるなあ、左はぜんぜん道がないし、ダメか」
「でも、この耕地、まだ種まきはしてないようだ。あぜ道は狭いけれど少しだけなら踏み外してもいいかも」
「まあ、試しに少し、進んでみて、難しそうなら、引き返そう」
「でも、向こうの林まで行けたとしたら、その中に入るのか?半ズボンだし、奥までなんてムリだよなあ」
「まあ、とりあえず、進んでみよう。近くまで行けるようなら、次の対策もたてられるかも知れないし」

さっきの自動車道での誘惑を断ち切ったばかりというのに、場所を変えたら未練が出てしまったような・・・。

しかし、これが、なんと、成功しました。林にたどり着き大きな樹木に手をかけた瞬間に、石碑が目に入ってきたのです。

御岳塚入口

御岳塚入口

これが、耕地のいちばん奥の右手。
大きな樹木が目印で、
その両脇から中に入れそうです。
ただし、多くの竹や樹木が茂っていて
何本かは斬らないと進めないかも。

入口に近づくと、すぐに左手が
小高く盛り土されているのを発見。

そして、右手には・・・。

盛り土

御嶽教の石碑

御嶽教の石碑 御嶽教の石碑

「・・・霊神」という刻銘を見て、惣新田にあった 特殊な石碑 を思い出しました。左写真と、右写真の左も「・・・霊神」です。
これは、「御嶽教(おんたけきょう)」を信奉する人の戒名であり、墓碑になります。→ 御嶽教とは 参照。

さすがに、この中は薄暗くて、ちょっとピンボケです。意外と蚊が少ないのは、スプレーしているせい・・・かな?

御嶽山寄附人名碑

御嶽山寄附人名碑

上右写真の右の石碑。
「御嶽山寄附人名」と刻銘されています。
これで、この場所がまちがいなく「御岳塚」であることが分かります。
ここに塚を設けたときの寄付名が碑の裏に記されているものと思います。
碑の裏までは、確認する余裕はありませんでした。

倒れた石碑

左は、おそらく大震災で
倒れた石碑。上と同様な
石碑と思われます。
これを持ち上げ起こすのは
容易ではありません。

この石碑は、
入口付近にありました。

竹林

高くなった塚の下に石碑が4基ほどあり、
周りは平地ですが、鬱蒼とした竹林です。

この竹林の間を縫って、
塚の背後に時計逆回りに周り込んで西に向かえば、
「岩井城館跡」に行けるような気がします。

しかし、さすがに、今回の探索はここまでとしました。
時間が4時を過ぎています。
こんどは蚊と雑草の少ない季節に来ようと思います。

御岳塚

御岳塚

ということで、つまりは、
左の写真そのものが、
「御岳塚」ということになります。

先年、お会いした持ち主の「殿様」が、
このように竹薮を切り開いて
耕地にしてくれたおかげで、
目の前に「御岳塚」が
見られるようになった、
というわけですね。

あとは、右手辺りに
「参道」などがあると、
とても助かりますが・・・。

岩井城と御岳塚、解決編

2016年、ついに、上記、岩井城と御岳塚およびその周辺の地理に関して、すべてが明らかになるときが訪れました。
それは、「根本さん情報」で、いままでなんどもお世話になった探検家、根本敏明氏の功績です。

まずは、根本氏作成の以下の案内図2種をご覧ください。この2つの地図は、南北が反対になっていますのでご注意。

岩井城・御岳塚案内図1

この地図を見ると、入口やタヌポンが「あやしい」と思っていた個所は、やはり何らかの道筋があったことが分かりました。
しかし、侵入を断念せざるを得なかった樹木の伐採等を、何ヵ月もかけて氏は行い「道」を切り開いてこられたわけです。
その努力と、たぬまぬ開拓精神、並外れたスタミナ・パワーには、敬服すると同時に脱帽せざるを得ません。

▼ なお、予めお断りしておきますが、地図があるとはいえ、この中を「探検」するのはたいへん危険です。
また、根本さんは「町道」の杭を目印に進まれましたが、地図内には私有地も含まれます。十分ご注意ください。

岩井城・御岳塚案内図

岩井城・御岳塚案内図1 pdf ダウンロード → PDF形式 (iwaijo_ontake_annaizu1.pdf [10885KB])

岩井城・御岳塚案内図2

根本氏は、スケッチもたいへんお上手です。今回、以下で、「観測所」と記された入口からのルートを動画等で紹介します。
なお、スケッチ上の赤線は、次に紹介する「岩井城への径」で紹介するルート。ダウンロード用 pdf にはありません。

岩井城・御岳塚案内図2

岩井城・御岳塚案内図2 pdf ダウンロード → PDF形式 (iwaijo_ontake_annaizu2.pdf [23765KB])

岩井城への径

塚があり、掘割りや、馬出し・・・。城郭跡地に詳しい人なら、地形で分かるのでしょうが、
タヌポンはなんといっても、塚の上に、岩井城のシンボルといっていい石祠を発見したことが、なによりの収穫です。


入口は管渠流量計

入口はやはりこのヘンな設備の立っているところでした。タヌポンは、左のほうに行って行き止まりだったので断念しました。
前方まっすぐでよかったのですが、以前は見通しはよくなかったですね。根本さんが樹木を伐採してくれたおかげです。
なお、この設備は「超音波管渠流量計」。下水、工場排水などの流量を超音波センサによって測定する装置、とのこと。

入口の超音波管渠流量計 入口の超音波管渠流量計

途中見える石祠

途中見える石祠

入口から時計回りにぐるぐる・・・と。

途中、右手に塚が見えて、
また頂上付近に石祠が見えたりしますが、
もう少し左手に進み、
根本さんいわく「正門」あたりから登って、
尾根伝いに石祠に向かうのが醍醐味、とのこと。

岩井城正門

岩井城正門

後半、少し間口が広くなった坂のような個所にきます。
ここが、どうも岩井城の正門だったのではないかと、根本さん。

登って右手に行くと尾根伝いとなり、その先に石祠があります。

岩井城城館跡

尾根伝いの左手にはケヤキなどの巨木があり、その背後にひろびろとした平地が見えます。
ここに岩井城の城館があったようです。

ケヤキの巨木 左手は城館跡

岩井稲荷大明神

ケヤキの巨木

これが、岩井城のシンボル。
そして、ここが、見晴らし台。

石祠は向こう向き・・・
つまり北向きに建てられています。
北とは、現在の奥山・押戸方面。
水田・畑が見える方角です。

岩井稲荷大明神 岩井稲荷大明神左側面

石祠内部に「岩井稲荷大明神」とあります。

左側面には「大正八年十一月」、
大正8年(1917)11月と、
比較的近年の造立。

本体: 高49cm、幅41cm、厚30cm。

さて、根本氏提供の地図には、ほかにも数多くの「新発見」ポイントがあるのですが、たどり着くには、難しい面があります。
石祠のようなシンボル的な存在があれば紹介したいところですが、雑草や竹などわずかの期間に繁茂していきますので、
様相がすぐに変化してしまいますし、道に迷ってしまう恐れがあります。また湿地帯などぬかるみもあります。
ということで、地図の掲載にとどめて、ここでの詳しい紹介は割愛させていただきます。

なお、上記の岩井城跡から、御岳塚へも路がつながっています。そこには以前、円明寺東の畑のほうから訪問しましたが、
同様にそこから再訪問し、霊神碑などの再調査を同時に行いました。以下、重複する碑もありますが紹介します。

御岳塚と霊神碑

御岳塚の上から

御岳塚 御岳塚の上から畑方面を見る
御岳塚上に散乱した台石

上左は、畑方面から塚下に入り、塚上を見上げた写真。
上右は、塚の上に登り、畑方面を眺めた風景。

左は塚の上。石が散乱しています。
これは、以下で紹介する霊神碑などの石碑が、
2011年の東日本大震災で倒壊し、塚下に落下、
その石碑の台石等が残ったものと推察されます。

すべてがそうではないとしても、
これらをひとつひとつ持ち上げて
入念に調べてみる気にはなれません。
重くて、疲れます(笑)。

御嶽山石祠

御嶽山石祠本体

入口からかなり奥に箱型の石塊を見つけました。正面上部に「御嶽山」とあります。これが御神体の石祠本体のようです。
左側面には、「明治三十年丁酉九月建」。明治30年(1897)9月の造立です。本体: 高38cm、幅29cm、厚29cm。

御嶽山石祠本体 御嶽山石祠本体左側面

笠

上の石祠本体とはまったく別のところで発見。
石祠の笠のようです。
上記本体石祠の上にあった笠とは断定できませんが、
かといって、別の笠は見つからないし、
この笠に適合する石祠本体もほかに見当たりません。

とはいうものの、これを持ち上げて、
かなり離れた位置にある石祠の上に載せてみる、
というような力仕事もとてもできません(笑)。

笠: 幅60cm

台石

台石

これまた上記の石祠本体と笠、いずれの場所からも離れた場所。
なにか石塊が転がっています。

近づいて見てみると、下にあるように台石でした。

台石正面は、左三つ巴の紋のレリーフに「講中」銘。
左側面には「明治三十年丁酉九月九日建」。
明治30年(1897)9月造立、とは、上の石祠本体と符合します。
銘が「重複」という難点はありますが、
これは御嶽山石祠の台石だったのではないでしょうか?

塚の上に鎮座していたものが3方に転げ落ちた、というわけです。

台石: 高16cm、幅40cm、厚30cm。

台石正面 台石左側面

散在する霊神碑

入口に戻って散在している大きな石碑を見てみます。ここには以前来た時に撮ったものもそのまま置かれています。
台石が付いているものが多いし、とても巨大ですので、これらは元々塚のこの位置にあったものと思われます。
しかし、竹が数多く伸び放題なので、撮影も検分もなかなか難しいものがあります。無論、ビクとも動かせません。

散在する霊神碑 散在する霊神碑

霊神碑1

霊神碑1 霊神碑1裏面

表面は「弘信喜コ靈神」。
この碑は以前、発見して掲載しました。
ピンボケでしたが、こんどは・・・。

裏面に「大正六年十月」とあり、
大正6年(1915)10月の造立。
その下に、「講義」以下、細かく文字が・・・。
坂田□東 村田□□ 俗名□□ 発□□講
断片的にしか読み込めませんでした。

本体: 高107cm、幅63cm、厚11cm。

霊神碑2

霊神碑2 霊神碑2裏面

三角型の自然石表面に「光誠靈神」。

裏面に「大正四年十月 講中建之」とあり、
大正4年(1913)10月の造立。

その下に「□沢傳吉」以下、
多数の講中名が列記されています。
背後の竹を伐採しないと
最下部拡大写真が撮りにくいですね。

本体: 高113cm、幅90cm、厚14cm。

霊神碑3

霊神碑3 霊神碑3裏面

義覺靈神 喜光靈神」と、
2神の霊神名が列記されています。

裏面に「義 吉濱三之□ 喜 永沢喜一郎」と
俗名が銘記されています。
その横に「大正十一年三月建之」、
大正11年(1920)3月の造立です。

本体: 高94cm、幅44cm、厚8cm。

御嶽山寄附人名碑(再掲)

御嶽山寄附人名碑 御嶽山寄附人名碑裏面

表面上「御嶽山寄附人名」、
これを見つけて、ここが御岳塚であることが
分かりました。再掲です。

裏面「明治三十二年十一月吉日建」とあり
明治32年(1899)11月の造立です。

これは、霊神碑ではないので、
日付は「吉日」とされています。

寄附人名」ということで、
表面に寄附の内容と人名が記されています。
詳細は、以下。

本体: 高110cm、幅55cm、厚10cm。

御嶽山寄附人名碑裏面拡大上

上部には、明治30年(1897)2月15日付で、山林、1畝8歩の寄附。
立木村から7名が列記されています。
ちなみに、1畝は約100u=30歩、1歩は1坪で3.3u。

明治三十年二月十五日
    立木
   山 角 田庄兵エ
   林 海老原安之助
   壱 同  彦 助
   畝 同  宇 平
   八 田 ア勘之助
   歩 角 田喜佐治
     酒 井善 吉

下部には、上記同年同月で、畑、1畝24歩の寄附。
立木から8名、奥山4名、押戸から2名、列記されています。

明治三十年二月□□日

御嶽山寄附人名碑裏面拡大下

    立木
  畑  角 田庄兵エ
     海老原安之助
  壱  同  彦 助
     同  宇 平
  畝  田 ア勘之助
     角 田喜佐治
  廿  酒 井善 吉
     海老原作 平
  四 奥山
     永 沢喜一郎
  歩  同  傳 吉
     同  源 治
     長 沼□□□
    押戸
     蜂 谷市五郎
     藤 松□□□

霊神碑4

霊神碑1

清光靈~」とあります。

これは、完全に横倒し、の巨大な石碑で、真上から撮影。
裏面におそらく記されているだろう造立年等見たかったのですが、
ビクともしません。2人がかりでも、どうでしょうか。

最近、石仏調査ばかりしていますが、
3.11大地震で倒れた石仏を起こすのに苦労しています。
いや、起すのに苦労、というより、起こせないことばかり・・・。
タヌポンは、色男でもないのに、金も力もありません。

本体: 高147cm、幅67cm、厚6cm。

大師と石仏

さて、まだ精しくは紹介していない「抜け道」が2つありましたね。それは、道祖神2から東に進んだところにあります。

もうひとつのT字路の手前

道祖神2の先のT字路からさらに進むと、
今度は左右に道が別れたもうひとつのT字路に突き当たります。
左写真では、この道をもう少し先に進んだところです。
道の左右は畑で、夏場はとうもろこしがおいしそうです。

ただし、突き当たるといってもその先には
舗装されていない農道が続いているので、
正確にいえば4つ辻なのですが、
直進方向の農道は、見た感じでは行止りのようです。
でも、ほんとはここも入り込んで
調べてみたい道なのですが・・・。(根本氏はむろんここも開拓!)

T字路から北への抜け道

さて右に行くか、左に行くか。北、つまりT字路の左方面に向かうと以下・・・。

T字路から北への抜け道

先に進むと白い花の咲いた樹の奥に、
洞穴のような暗い路が続いています。

これは多分、北の自動車道に
続く路だと思いましたが、
どの地点に抜けて行くのか
確かめてみない手はありません。

途中にどんな見所が
隠されているかも知れませんし・・・。

洞穴のような暗い路が続く

廃堂と石仏3基

やはり鎌倉街道のような雰囲気のなだらかな坂道を下っていくと左手に祠が見えてきました。でも、廃棄された祠の様子。

ところが、その右に石仏が3基ほど棕櫚のような樹の葉っぱに隠れているのが見えます。

廃堂と石祠

しかし、撮影は断念せざるを得ませんでした。
薮蚊の攻撃が凄まじかったからです。
片手で葉っぱを横に押さえながらシャッターを切りましたが、
撮れた写真はピンボケばかりでダメです。

雑草刈りをするなんて余裕はとてもありませんでした。
また石祠を隠している葉っぱを切り取る道具も
持ち合わせていませんでした。

防虫スプレーなど装備を整えて、後日、再訪問します。

石仏3基

さて、2日後に防虫スプレーを装備して、先ほどの廃堂の右にならんだ3基の石塔を撮影しようとしたのですが・・・。
確かに、腕や足などスプレーしたところには、しばらくは蚊はきませんでした。
しかし、スプレーしていないタヌポンの瞼をめがけて蚊が突進 してきます。これには、驚きました。

いちばん左は享保時代(1716〜1735)のもの、いちばん右は宝永8年(1711)とあります。
それぞれ頭に大日如来の梵語が彫られ、法印という文字が読めます。これらは、僧侶の墓塔のようです

僧侶の墓塔 僧侶の墓塔 僧侶の墓塔

後日談

廃堂と石仏

2012年にもういちど来てみたら、こんな具合。
訪問季節がまたしても悪すぎますが、こんどは大震災後。

例の石仏が見当たりません。
ようやく2基ほど見つけましたが、
手前に倒れていたりして、確認はできません。
時期も悪くまたしても藪蚊の大群に攻められ、退散です。
目を閉じて、防虫スプレーを頭から顔、全身にかけましたが、
効き目が続くのは2.3分。どうしようもないです。

抜け道の大師

この廃堂のところからほんのわずかの距離ですが進むと、また左手に、こんどは立て直したらしい堂宇を見つけました。
でもそれほど新しいものでもないようです。廃堂の直後に見たから比較的よく見えただけで、扉もうまくしまらない感じ。

大師

近づいて中を覗いてみましたが、
これはどうも大師様のようです。
四郡大師のひとつがこんなところにもあったのですね。
しかし、ここも薮蚊がすごいので早々に退散しました。

実は、左は、2012年になって再撮したもの。
なぜか同様の季節で藪蚊の攻撃にさらされながらの撮影。
前回と異なるのは、倒れた石仏が2.3基右手に見えること。
しかし、これを持ち上げて調べたりする余裕は、
まったくありませんでした。環境条件が悪すぎます。
この石仏を調べるのは・・・予定はたてられませんね。

大師像は4体

大師像4体

藪蚊に襲われながらもなんとか祠の中を撮影。
よく見ると4体の像が安置されています。
いちばん左の頭部はどうなっているのでしょう?埃?

しかし、ここも薄暗く、写真写りはいまいちです。
なぜ3回も来て、いずれも凶暴藪蚊の7〜9月という夏場ばかり?

大師と石仏2

2016年時の「円明寺周辺」コンテンツの最大の更新理由は、岩井城と御岳塚、解決編 なのですが、
せっかくなら、このページ全体の未調査部分をいっしょに片づけ、一気に更新したいところです。
そうして始めたこの項目。上記の「廃堂付近の石仏」および「抜け道の大師」の個所にも未調査の石仏が何基かあります。
ところが、震災で倒壊したのに加えて、薄暗い場所、さらに、この発念自体の時期がまたしても藪蚊の多くなった季節。

しかし、根本さんにならって「携帯蚊取り線香」を腰にぶら下げて、なんとかクリアしました。以下、新発見の石仏も。
まずは、「抜け道の大師」のところから・・・。

大師75番?

これは、抜け道の大師 の再掲ですが、中の大師像も変わらず4体。サイズを測るのに苦労しましたが、思わぬ発見を。

大師左から。1本体: 高37cm、幅18cm、厚18cm。2本体: 高39cm、幅18cm、厚18cm。台石: 高18cm、幅33cm、厚29cm。
3本体: 高36cm、幅18cm、厚18cm。台石: 高18cm、幅31cm、厚29cm。4本体: 高33cm、幅24cm、厚18cm。

抜け道の大師 抜け道の大師・大師72番?
抜け道の大師・左から3番目大師像の台石

左から3番目の大師像の台石だけに文字が彫られています。

讃岐國
 伊与谷
  善道寺
   七十五番
弘法大師
 願主
  染谷文右エ門

讃岐の善道寺は、現在も四国巡礼75番札所となっていますが、
伊与谷とは?伊与=伊予は西の愛媛県になります。

いずれにせよ、ここが四国写し巡礼であるわけですから、四郡大師の75番札所になるのでしょうか。
利根町の別の個所で75番札所はまだ発見していません。また、そもそも、この大師堂のある地区にはどんな由緒が?

散乱する石塊

散乱する石塊

大師堂の周囲には、大地震の影響か、石塊が散乱しています。
奉納」とか文字が刻まれたものもあります。
大師堂の基礎の石もずれて、いまにも堂が傾きそうです。

そんな中で、左写真右手前に2基、堂の背後に1基、
確実に内容が分かる石仏を見つけました。
そのうち1基は、倒れたままで、立てるのは困難でしたが、
4面に文字が刻まれているので、転がして各面を撮影・検分。
この過程で、ある疑問と、この地域についての由緒について、
重要なヒントを得ました。

以下、入口付近から堂の背後の順に3基紹介します。

十五夜塔

十五夜塔

これは、地震があったにもかかわらず思いがけなく保存状態のいい石仏です。
刻像されているのは、利根町ではこれが初出の「十一面観音」の立像。
左手に花を持ち、右手を前にして開く与願印の2臂です。
最上部には、十一面観音をあらわす種子の「キャ」が彫られています。

光背右下には、「奉供養十五夜講」とあり十五夜塔ですが、
十一面観音は、本来は十五夜月待の主尊ではありません。

光背左上に「宝暦四戌十一月日」、つまり宝暦4年(1754)11月の造立。
光背左最下部に「同行十人」が見えます。

さて、問題は、光背右上の「第五番」の意味です。
これは、この石仏が本来置かれていた場所が、何かの第5番札所であった、
ということを示していると考えられます。
では、さきほどの四郡大師の75番などとの違いはどう考えたらいいのでしょう?
その答えは、次に紹介する札所塔で、推測することができます。
ヒントは、石仏造立の宝暦4年とは四郡大師発祥の文政時代以前であることです。

本体: 高93cm、幅32cm、厚21cm。

札所塔

十五夜塔の背後に倒れていたこれが問題の石塔。持ち上げても安定性にかけるので、なんとか横に転がしながら撮影。
左から、正面、左側面と裏面。正面上部「サ」の種子の下に「西國冩東二番札所」とあり、こんどは新たに2番が登場。
ますます混迷してきますが、左側面は「奉供養十五夜御手洗講中」、裏面には「安永七戊戌正月吉日 同行十六人」。
安永7年(1778)正月、前記十五夜塔より4半世紀後の造立です。本体: 高93cm、幅25cm、厚15cm。

札所塔 札所塔左側面 札所塔裏面

さて、上の石塔表面の中央の文字の左右に、小さな文字で、以下のような御詠歌が記されています。(変体カナ使用)
ふるさとを 者るばるこゝ尓 きミいてら 者な乃みやこも ちかくなるらん」。これはすなわち、
現在の西国三十三所巡礼の第二番札所である和歌山県の金剛宝寺護国院(紀三井寺)の御詠歌と一致します。
古里を はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん

つまり、この塔が建てられていた場所が、西国三十三所の写し巡礼の第2番札所であったことを示しています。
では、前記の十五夜塔の5番とは食い違いがあり、これらは別々の場所にあったものなのでしょうか?

さて、実は、この塔には、まだ見ていないもう1面、すなわち右側面があります。それが以下。

札所塔右側面

なんと、表面とは別の札所番号が記されています。
これも種子「サ」の下に「秩父冩東五番札所」。
とうとう「5番」が登場しました。
つまり、この塔が本来存在していた場所は、
西国写し巡礼の第2番札所であると同時に、
秩父写し巡礼の第5番札所でもあったわけです。

そして、その「本来存在していた場所」とは、
この右側面下部に記された「別當神宮寺」ということです。
別当の神宮寺とはすなわち、蛟蝄神社門の宮に隣接していた徳満寺の末寺です。

つまり、ここにある石仏等は、元々は、蛟蝄神社西隣りの神宮寺に存在し、
神宮寺が廃寺となったとき(明治5年)にここに遷移された、ということでしょう。

なおこの塔には、やはり御詠歌が同様に彫られていますが、
秩父巡礼の第5番札所である埼玉県小川寺・長興寺のそれではなく、
立木の神宮寺にふさわしいオリジナルのものになっています。以下。
□□□て 立木と□れぬ てらとまり 旅人のゆめ さます松かぜ

参考:蛟蝄神社の神宮寺について(『蛟蝄神社由来記』より)

神宮寺のこと 延宝三年真言宗布川徳満寺末寺として建立。宮台山神宮寺と号す。開山法心法印 社僧として別当職であった。社領十石配分されていた。敷地は門之宮西隣で面積約五反三畝歩。明治五年神仏分離令により廃寺となった。

なお、札所塔の左側面に「御手洗講中」とありましたが、当時の蛟蝄神社の敷地内に「御手洗池」が存在していました。

馬頭観音塔

もう1基は、大師堂の背後。表面に「南無妙法蓮華経馬頭觀卋音」とあります。下は左から、正面、右側面、左側面。
左側面は下部がちょっと読みづらいのですが、「康熙二千 明治二十□ 皇紀五百四□□」。
造立年の明治20年(1887)は、皇紀(康熙)で言えば2547年に当りますので□はそのような文字になりそうですが・・・。
右側面は「染谷忠兵エ」。染谷氏は、大師像の台石にも登場しますね。本体: 高63cm、幅27cm、厚18cm。

馬頭観音塔 馬頭観音塔右側面 馬頭観音塔左側面

廃堂そばの3基

さて、次は、廃堂付近にあった3基の石仏、僧侶の墓塔だと思いますが、もう少しきちんと調べてみましょう。
根本さんのマネをしてズボンに付けた「携帯香取り線香」の効果はバツグンです。これなら、あの地点も楽勝です。
馬頭観音塔を調べて、ふと左手を見ると・・・。下左写真。2基しか見えません。が、近づいて正面に廻ると、右写真。
真ん中の1基が倒れています。これは厄介だなあ、と見てみると、なんと表面が上になっていました。これなら・・・。

廃堂と付近の3基の石仏 廃堂正面と付近の3基の石仏

以下、廃堂に近い石仏から順に紹介します。倒れた2基目は、表面の汚れは枯れ落ち葉の破片できれいに取れました。

墓塔1

墓塔1

大日如来を示す種子「ア」の梵字下に、「法印權大僧都隆應」とあります。
その両サイドに「享保四亥天 十二月六日」。
つまり隆應が他界したのが、享保4年(1719)12月6日ということです。

最下部に「不生位」(ふしょうい)とあるのは、
真言宗の僧侶の位牌において、位号のところに書くもので、
ほかに「本不生(ほんぶしょう)」もあります。

僧侶の墓がここにあるのは当初不可解でしたが、
元々は、蛟蝄神社の神宮寺に所属していたことが分かりました。
神宮寺は新義真言宗徳満寺の末寺ですから、不生位を使用しているわけでしょう。

本体: 高66cm、幅28cm、厚13cm。

墓塔2

墓塔2

これも大日如来を示す種子「ア」の梵字下に
この塔は、3名の僧侶の名が列記されています。右から、以下。

法印權大僧都幸心 寛永十七年五月廿一日
法印權大僧都隆快 宝暦二壬申年十二月六日
法印權大僧都快應 寛保三亥年六月廿八日

寛永17年は古く1640年。宝暦2年は1752年、寛保3年は1743年。
したがって、この造立年は、宝暦2年以降かと思われます。

本体: 高87cm、幅32cm、厚18cm。

墓塔3

墓塔3

前2基と同様、上部は大日如来の種子。
下に「爲法印傳秀菩提也」とあり、
左右に「宝永八辛夘稔 二月初二日」。
つまり、法印傳秀は、宝永8年(1711)2月2日が命日。
ちなみに「初二日」とは月の始めの2日の意。
2月2日で分かりやすいのに・・・。「稔」もイコール「年」です。

これも、やはり神宮寺の僧侶ということでしょう。

本体: 高78cm、幅37cm、厚15cm。


出口は水辺公園

抜け道出口

さて、このとんでもない藪蚊の大群がいる抜け道を通り抜けると、どこに出るのかですが、それは、以下。
立木の水辺公園(仮称) のある交差点に。
少し先に 土地改良記念碑 も建っています。

でも、出口ということは、すなわち入口でもあります。
藪蚊いっぱいの大師を見るにはここからも行けるということです。

T字路から南の抜け道

円明寺東南の抜け道

それでは、もうひとつ、
先ほどのT字路を右折して、
その先にみえる抜け道。

円明寺東南にある左の抜け道から、
円明寺と蛟蝄神社をつなぐ
東西の道路に出て、
子育て観音のある場所まで
行ってみましょう。

円明寺東南の抜け道

上の抜け道は、途中から急にイメージが変化します。抜け道に入る前に、左手の長閑な田園を楽しむこともできます。
以前は、このもう少し右手の手前に、大きなビワの木があり、実をたくさん付けている のを見ました。
農作業をしていた婦人に聞くと、数年前に枯れてしまったとのこと。残念です。震災前には確かあったハズですが・・・。

田園風景 田園風景

畑の中の石祠

畑の中の石祠 畑の中の石祠

左手の畑の中に、ポツンと、
樹々のかたまりが見えます。

近づいて正面から見ると、
石祠でした。

でも、銘文はまったくなく、
道祖神か農家の氏神様か、
というところ。
これも、「根本さん情報」。

本体:
高44cm、幅25cm、厚17cm。

上の抜け道を出ると、円明寺前から蛟蝄神社へと続く道にぶつかります。左折してすぐのところが、子育観音です。

子育観音

子育観音の祠

さて、円明寺前の通りから
コーナーに道祖神がある路を
まっすぐ蛟蝄神社の方向に向かうと、
左手に大師堂のような祠があります。

しかし、これは余程丹念に
民家を一軒ずつ見ていかないと
見逃してしまいそうです。

というのは、路傍とはいうものの
道路から少し奥まったところにあり、
その前は草木が祠を隠すかのように
繁っていてとても見えにくいのです。

左がそうなのですが、これは
民家の庭も同然のような場所です。

これが、大師堂に一見似ていますが、
子育観音を祀る祠でした。

子育観音像

祠の前面は観音開きのガラスの格子戸になっていますが、簡単な留め金で止めてあるだけで鍵はかかってないようです。
せっかくですから、開けて見せていただきました。それが、2005年時で、下左の写真。ところが・・・。

子育観音 子育観音

右上は、2012年の写真。このときは、観音開きのガラスの格子戸には、鍵がかかっています。
仕方なく、格子の狭い隙間から撮ったのですが、この2つの写真を見比べてみると・・・。

2012年の写真では、観音像の光背が破損していますね。また、観音像自体も少し向きがずれています。
これは、やはり大地震のせいなのでしょうか。それとも鍵がかけられる前のだれかの不埒ないたずらとか。
いずれにせよ、残念なことです。補修とか可能なものなのでしょうか、よく分かりませんが・・・。

手が4本、いわゆる4臂のようですが、千手観音ほどではないにしろ、その意味するところは何なのでしょう?
多くのひとへの慈愛?4面6臂とか、顔自体もたくさんもつ像もあります。考えようによってはちょっと不気味ではあります。

また、如来、菩薩、観音や、観世音、観自在など微妙な違いのある言葉や、仏像の種類、各部の名称等々、
加えて宗派による違い、仏教建築各種の名称等々、仏教関連は実に多くの語彙があり、覚えるのは容易ではないですね。

→ 観音様と弁天様については、羽中の観音堂「観音様と弁天様(観世音菩薩と弁財天)のちがい」参照。

蛇口装備の手水

手水

祠の右手には手水が見えます。
利根町の神社・仏閣にある手水は、
ほとんどが水道が引かれていないのですが、
年代物に見える手水なのに、蛇口が完備されています。

手水自体は、造立年等は不明なのですが、
近年のものには見えません。

2016年時の様子

子育観音の祠2016 手水2016

2016年、再訪問すると、ご覧のとおり。
これでは勝手に調査、というわけには
いきませんので、お断りして。

手水をよく検分してみましたが、やはり
銘文は何も彫られていませんでした。

本体: 高21cm、幅43cm、厚30cm。

立木南の道祖神?

上記の子育観音のある道に併行して1本南を東西に通っている道路。ここは一見して見通しもよく、車の往来もわずかです。
そのためか、目的とする地探索の往路・復路で、軽快にバイクを飛ばせる道でもありました。
それが盲点で、以下のポイントを見逃していました。これも、「根本さん情報」です。

立木南の道祖神? 立木南の道祖神?
立木南の道祖神?

神道系の石祠のようですが、残念ながら石祠中央内部の文字が読めません。

表面周囲の文字は、上部に「奉 建立」、
右に「享保七寅天正月吉日」、つまり享保7年(1722)正月の造立。
左に「願主 御手洗」。

石祠下部が5センチ程度地中に埋まっているので、
吉日の「日」は見えません。また左の願主は、「御手」しか読めません。
しかも「手」は「主」のように見えたりもするので、
当初、腹這いになって御が頭に着く苗字はなにかを考えたりしていました。

それが最初に根本さんに案内してもらったときですが、ちょうどそのとき、
すぐ背後の農地で婦人が仕事をされていて、根本さんがご挨拶しました。
わたしは、この辺りで頭に『御(おん)』の付く苗字の方はいないかどうか尋ねました。
すると・・・。なんと、その方が「御手洗」さんだったのです。

下を掘り起こして観るのは憚られたので、確かめてはいませんが、
主に見える手の下に「洗」が彫られていればまちがいないでしょう。
ただし、これが道祖神なのか水神宮なのか、正体は不明です。

本体: 高50cm、幅35cm、厚30cm。

なお、石祠右隣りに見える宝珠形の石は、五輪塔最上部の空輪(くうりん)と思われます。(16/05/03 追記・16/04/29 撮影)


(16/05/28・16/05/03・12/08/05・12/08/01 追記再編成) (06/09/03・05/09/10・05/08/10・05/08/09・05/08/08 追記) (05/05/27) (撮影 16/05/25・16/05/19・16/05/18・16/04/29・16/02/19・12/08/04・12/07/28・12/06/30・11/05/08・09/04/02・09/03/27・08/08/03・07/08/19・07/06/17・06/11/12・06/09/10・06/09/09・05/08/13・05/08/09・05/08/06・05/07/31・05/04/23・05/03/14)


本コンテンツの石造物データ → 円明寺周辺石造物一覧.xlxs (17KB)