タヌポンの利根ぽんぽ行 布川神社

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目  次


更新経過

前の更新直後に、馬場地区の皆さんが難所、石段脇の雑草取りと清掃をしてくださいまして、
さっそく再調査をさせてもらいました。
ただ、後列の石仏がかなり土中に埋まっていたことなどもあって、
もう少し調査を重ねて、と思ってとうとうそのまま1年が経過。
やっと、当時の再調査結果を追記→ 再調査
しかし、ここはまだ調査が徹底していないので、いつかは・・・。(16/07/29)


2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
布川神社の石造物は、とくに 石段脇の石塔類 の再調査を進めたいと思っていたのですが、
難所のため、まだ準備不足でまったく更新ができませんでした。
そのかわりというか、そのほかは随所で変更点を加えるとともに、
叙述自体を見直しし、項目の順序を変更するなど再構成しました。(15/04/13)


下記以来、4年半。追記もせずにほっぽらかしにしたまま・・・。
境内社がかんたんには見つからないこともありましたが、これではいけないと・・・。
見てみると、あちこちに不備や誤謬があるので、一気に修正。
新しく書き加えた項目を含めて叙述・構成もかなり変更しました。
とりあえず、布川神社の再構成コンテンツをお届けします。(11/01/11)


利根町で 蛟蝄神社 と並ぶ重要な歴史をもつ布川神社。
タヌポンの家からも近いというのに、また家族の七五三のお参りなどもここでやったというのに、
利根町の神社仏閣の中では紹介がほとんど最後になってしまいました。
近くだからいつでも行けるということと、
いろいろ見所などが多い割には一見したところでは何もないように見えることや、
さらには 布川神社臨時大祭 という本祭が3年に1度の開催であること・・・
などでついついコンテンツ創りをサボっていたわけです。(なんかいいわけしてるみたいですね)
でも、ようやく、ここに。(06/07/22)


布川地区マップ

布川神社の由緒

祭神と配祀

布川神社の祭神は、久々能智之命(くぐぬちのみこと)。
古事記では、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)が生んだ木の神とされています。
「久々」とは植物の茎を表しています。この神を祭神としているのは利根町の神社では布川神社だけだと思います。
配祀としては、水波能女命(みずはのめのみこと)、久那斗神(くなとのかみ)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。
これらは、水神宮、道祖神、弁財天などの祭神となっている神々ですね。

由緒沿革

古く鎌倉時代の寛元年中(1243〜1247)豊島摂津守の建立。
別当徳満寺院の記録では、享保19年(1734)正一位布川大明神とあります。
(正一位については本サイト 正一位、位階、神階について 参照)
明治維新の際、つまり明治元年(1868)布川神社と改称しました。
同2年には神祇官銅鏡1面を進めて神体となす、と『利根町史』にあります。

神事、尋橦(つくまい)

利根川図志「つくまい圖」

例大祭は旧暦6月14日、15日、16日の3日間行われ、
初日に神輿が〆切(現在は内宿)の御仮殿(おかりや)に遷座し、
16日最終日に本殿に還御、このときに境内で尋橦(つく)の舞が
開催されました。(布川神社臨時大祭 参照)

尋橦は元禄の頃(1688〜1703)から明治末にかけて
行われていましたが、明治42年(1909)以降は途絶えています。

尋橦とは、船型に長さ8間(14.4m)ほどの帆柱を立て、
雨蛙の面をつけ竹弓を持った舞人が、柱の上に登って
種々の舞をまうというものです。
このとき童子が鶴・亀・鹿・猿・龍などの面をつけ
船中で地舞をまったということです。

右は、赤松宗旦『利根川図志』「ツクマヒ圖」より。

この面を雨蛤(アマガヘル)の面といふ。古物なり。年々緑青にてぬり種々に彩色す。目口鼻ハ丹色なり。錏(シコロ)赤紙裏は青黄赤の紙にてはる。

tanupon 補注:
圖は、図の異体字。
錏とは、兜の左右・後方につけて垂らし、首から襟の防御とするもの。

尋橦は利根町が元祖―赤松宗旦『利根川図志』の記述

布川大明神 來見寺より東方山ノ端(はし)に在り。馬場町の上なり。祭~句々廻馳(くゞのち)ノ命、例祭六月十四日、〆切の假殿に~輿を出す。十五日屋臺等を出し甚賑へり。十六日~輿本殿に歸る時、境内に尋橦(つくまひ)の舞あり。先庭上に船形を造る。これを御船(おふね)といふ。これに帆柱を立つるをツク柱といふ(長八間許)。舞人雨蛤(あまがへる)の面といふを被り、立附(たちつけ)をはき竹弓を持ち柱に上り、その上にて種々(さまざま)の狀(かたち)を爲す。觀る人戦慄す。この時船中にて、八九歳の男子數人をして地舞(ぢまひ)を舞わしむ。鶴龜鹿猿龍等の面を被る。中にも蟒蛇(だいじゃ)が姫を呑まむとするを、山伏の防ぎ護る狀(さま)を爲すは、素戔嗚尊の故事を學ぶなるべし。舞の狀(さま)笛鼓の囃等、至って古風なり。

左は「布川大明神六月十四日宵祭の圖」、右は「六月十六日布川大明神帰輿并ツクマヒ圖」。

宵祭の図 ツクマヒ図

尋橦は、このようにわが国では利根町が発祥の地でしたが、途絶えてからもう1世紀。別の地区で引き継がれていますが、
いずれその地がいつの間にか元祖となってしまうことでしょう。利根町での復活はとてもムリな様子。実に情けない話です。

神社入口から石段上まで

鳥居

布川神社の入口は、とくに平らな参道はなく、いきなり数段の石段上に鳥居が立てられていて、それが入口となります。
そこからさらに数十段の石段を昇れば境内になりますが、鳥居前は小広場となっていて馬場地区の集会所があります。
3年にいちどの 布川神社臨時大祭 には、神社境内はもちろんのこと、石段も、またこの広場も主要な開催場所になります。

入口鳥居

鳥居は、御影石造りの明神鳥居。
以下は、2011年の正月時の写真。
直前の12月、徳満寺 で開催された
地蔵祭りで登場した竹灯籠
ここにも配備されていました。
石段上までずっと連なって、
大晦日の夜には
とてもいい雰囲気だったでしょう。

2011年の正月時鳥居
鳥居裏(右) 鳥居裏(左)

左写真は、鳥居の裏側。並び順。

鳥居の左柱(写真右)の裏に
寛政四壬子歳四月吉日
寛政4年(1792)4月(建立)と記されています。

相対する右柱(写真左)の裏には
太々講中」とあります。
太々講とは伊勢参りの伊勢太々講ですね。

神額

神額

左は、鳥居の神額ですが、写真を拡大していて気が付きました。
額の左に、小さく銘があります。調べてみると・・・

陸軍少将 伊豆凡夫 謹書

伊豆凡夫(いず つねお)
筑前富士原の人。元治元年(1864)生〜昭和19年(1944)歿。明治19年(1886)、陸軍士官学校卒業。陸軍大学に進み、日清戦争で大山巌の副官として参戦。日露戦争では乃木希典に従い参謀中佐として参戦し、明治42年(1909)少将に昇進。退役後は、根津嘉一郎とともに富国徴兵保険会社(富国生命の前身)を創設するなど実業界で多くの団体役員を兼ね、公共事業にも尽力。書にも秀で、号を蘿山と称する。

なんと、維新前の元治、慶応から、明治、大正、昭和と5代も経験した激動の人物ですね。
なるほど。おかげで、生命保険会社が昔は、徴兵保険というシステムで伸びてきたことが分かりました。
ちなみに徴兵保険とは、いまで言う学資保険のようなもので、
子供のうちから「万が一(より高い確率?)」のために積み立てていく比較的小額の庶民向きの保険だったようです。

ところで、鳥居が建てられたのは寛政4年(1792)ということですから、伊豆凡夫少将はまだ生まれていませんね。
ということは、この神額は、少なくとも、「2代目」以降のものと言えます。余談ですが、この神額がつくられた当時、
伊豆少将に書をお願いした利根町の担当者はだれだったのでしょう。どういう縁故でそれが可能になったのか。
そんないきさつに興味があります。町史に記録するようなことでなくても、こんなことのほうがタヌポンは知りたいですね。

狛犬

広場の敷地から8段ほど石段を昇ったところで、ちょうど中2階のようになっていてそこに鳥居が立っているのですが、
鳥居の2つの柱の前に狛犬1対が建てられています。神社に向かって右が阿像(写真中央)、左が吽像(写真左)。
阿像は口を開き、吽像は閉じている、というのが一般だそうです。右写真は狛犬の尻の模様。五曜紋みたいのは何でしょう?

狛犬左・吽像 狛犬右・阿像 狛犬右背後
狛犬左・吽像

狛犬は、「寛政元年」(1789)の作(『利根町史』)。
台石前面に「伊勢講連中」とあります。

狛犬は風化すればするほど味わいが出てきますね。
ちなみに左の狛犬の脇には、
布川台地区へ通じる上り坂が続いています。

阿像本体: 高70cm、幅77cm、厚37cm。
吽像本体: 高67cm、幅76cm、厚40cm。

手水

手水

鳥居の背後には、手水が設置されています。
表面中央に、「奉納」、
右に、文化十二年乙𠅆正月吉日(𠅆は亥の異体字)、
即ち、文化12年(1829)正月の奉納。
左に、「江戸 小網町」「布川屋□□衛門」、
布川 世話人十五人」、と刻まれています。

小網町とは現在の中央区日本橋小網町でしょうね。
布川屋というのはおそらく利根川布川地区での
船荷を扱う江戸商人というところでしょうか。

本体: 高48cm、幅119cm、厚47cm。

上記は、写真を拡大してよく見ると「布川屋庄左衛門」と読めそうです。この件に関して、tanupon 所属の会の古田会長が、
『江戸商家・商人名データ総覧』(田中康雄編・柊風舎)にて確認してくださいました。それによると、
布川屋庄左衛門・住所「小網町三丁目」・業種「奥川船積問屋」・記事「積場所=下総布川、常州藤蔵河岸、十里、木颪、田川(河内町)、布佐、取手」
ということで、まず、まちがいないと思われます。ちなみに、木颪とは、現在も残る地名「木下(きおろし)」です。
布川屋庄左衛門は、江戸在住でも、たびたび布川および神社、近郊河岸を行き来していたのでしょう。
しかし、『江戸商家・商人名データ総覧』は厖大な量でとても高価です。古田会長は、まさか購入されたとか?

石段

数えてみるといちばん下から鳥居のところまでは8段、それから上の境内までは66段なので計74段のはずなのですが、
語呂がいいからなのか77段と称されています。(あれっ、77段なんてだれが言ってたっけ?忘れました)

石段 石段・布川大祭時

左上のブルーの道路標識が気になりますが、先ほど説明した左の上り坂に設置されたものです。
布川台に布川小学校があるためのものですが、いまはもう統合されて廃校となっているんですよね。

右上の提灯が立てられているのは3年に1度の布川神社臨時大祭時です。
このとき、「禊(みそぎ)」と言って若衆が水を浴びながらここを7往復する儀式が行われます。
タヌポンは若衆ではないのでそんなことはやりません、いや、やれません。
若かったとしても能力的にとてもムリです。1往復がやっとでしょう。
また布川地区の中でも特定の地域に限定した伝統的な行事ですのでその資格もありませんから大丈夫(?)です。
布川神社臨時大祭「禊」参照

石段

左は、さきほど説明しました
地蔵祭りで登場した竹灯籠 が設置された2011年版の石段。
利根木楽竹楽の会、里山クラブ珍竹林のみなさんが
またつくられたのでしょうか。ご苦労様です。
これは、竹筒の内部にろうそくを入れます。
ろうそくを替えればこのまま次回も使えそうですね。

さて、それでは、石段を昇って、境内のほうへ・・・。途中、右手に古い常夜燈や八坂神社等がありますが後述します。

▼ 余談ですが・・・最近は疲れるので、石段そのものに用がないときは布川台の旧布川小校庭から回り込んで行きます。
高齢でも健脚のかたはたくさんいらっしゃいますが、そうでない人にも上れるようになるといいなあ、なんて。
長崎のグラバー亭に、周りから浮いたようなエスカレーター があったのには驚きました。助かりますが、景観的には?
▼ 旧布川小が日本ウェルネススポーツ大学になったのはよかったのですが、どうもこの裏口が防犯のためか閉ざされたとか。
もし、そうなら境内にいくにはここを登るしかなくなります。所有者の権利ですが、もうちょっと住民のことも考えてほしいなあ。

石段上

利根町指定有形文化財の標柱

利根町指定有形文化財標柱 利根町指定有形文化財標柱

石段を上がりきったところに左右に石燈籠と並ぶようにして利根町指定有形文化財の標柱が立っています。
いずれも布川神社に所蔵されている絵馬の名前が記されています。
「神功皇后と武内宿禰」、「宇治川先陣争い図」、「天の岩戸」の3点。
これ以外にもいくつか飾られているようなのですが、とくにこの3点が価値があるということでしょうか。
こういうところの価値判断というのは専門家でないとよく分かりませんね。絵馬については、布川神社の絵馬 で。
(写真右の奥に写っている石祠は後述する「舩魂宮」。石燈籠は、ほかに拝殿前に少し新しい常夜燈があります)

拝殿と本殿

拝殿

拝殿

これが拝殿。
普段は扉は開いていません。
下は大祭時。
この拝殿の写真は2005年撮影。
その後、拝殿まわりの設備が
多少変化しています。

布川大祭時の拝殿
文化財標識

少なくともこの案内看板は以前はありませんでした。
上の拝殿前、右の常夜灯の前に現在立っています。
タヌポンの撮影記録を見ると、
2005/3/20から2006/07/22の間に設置されたと推定されます。
内容は利根町指定有形文化財の絵馬についてです。
後で 布川神社の絵馬 で説明します。

拝殿の額

拝殿上部に掲載されていた額。左は、「正一位布川大明神」。右は、「布川神社」の扁額。
扁額は、奥書に「明治十五年壬午孟春」とあり、明治15年(1882)正月の作。孟春とは陰暦正月のこと。

布川大明神 布川神社の扁額
布川神社の由来

左は、布川神社の由来が記された額。
平成5年(1993)7月謹書。
この内容は冒頭で紹介しましたのでここでは割愛します。

本殿

本殿は、日吉造りという建築様式。
日吉大社が典型で、正面と側面の三方に庇がついていて屋根を背面で切り落としたような形の様式です。
※ 日吉は「ひえ」と「ひよし」の両方の読み方があるようです。日吉大社 の場合は「ひえたいしゃ」と思っていましたが、
最近は「ひよしたいしゃ」と呼ぶそうです。また、全国には「ひよし」神社も「ひえ」神社も、たくさんあるということです。

本殿 本殿右の瑞垣 前の本殿

上の写真は2011年正月時ですが、瑞垣が新築されたようです。
前は周りの瑞垣の一部に切り株があり、除去できなかったのかそのまま残して瑞垣が造られていました。
上の右下の写真と比べるとよく分かります。

祭壇

左は祭礼時に見た祭壇。こうなっているんですね。
もしかするとここには本来、ご神体である「神祇官銅鏡」が
安置されているのかも知れません。
この撮影時はちょうど布川神社臨時大祭3日目で、
ご神体がまだ神輿の中に納められたままで戻ってきていないときです。

さて、本殿に関して、本殿裏に気になる石祠を見つけたので、先にそれを見てみましょう。

布川大明神の石祠

正一位布川大明神

本殿の真後ろに建っていたのがこの石祠。
正一位布川大明神」とあり、嘉永3年(1850)造立(『利根町史』)。

台石に「氏子中」とありますが、文字に装飾がなされているせいか、
当初、「子」は「学」、「中」は「米」または「栄」などと読んでしまい、
「氏学栄」ってなに???という感じでした。もう慣れましたが(笑)。
妙なところに点を付けた昔の漢字をよく見かけます。石工の遊び心なのか?

ひとつ分からないことに、『利根町史』では、
この石祠は「境内社」の項目に列記されています。
境内社とは、別の神社から祭神を勧請して建てるものと理解していましたが、
「布川神社が布川神社を勧請する」とはどういう意味になるのでしょう?

正一位布川大明神

本  体: 高79cm、幅61cm、厚62cm。
台石上: 高30cm、幅53cm、厚54cm。
台石下: 高37cm、幅73cm、厚71cm。

幕末に新しく造立したばかりなのに、
すぐ明治維新となり、神社正式名を
布川大明神から布川神社へと
変更えざるを得なくなった・・・。
まだ新しい石祠を廃棄するのも
もったいないので本殿裏に設置した。
ただそれだけのことではないかと
思いますが、これも境内社と呼ぶ?

でも、これは境内社の定義をタヌポンが理解していないだけで、「形」として別の石祠や堂宇になってさえいれば
本殿と同一のもの、あるいはその前身であった旧石祠すらも境内社と呼ぶ、そんな定義なのかも知れません。
また、これとは別に、以下で紹介する利根町では布川神社で初めて見かけた「舩魂宮」という石祠が、
今度は、『利根町史』で境内社の項目には入っていなくて別項目として取り上げられているのです。
これは舩魂宮が通常の神社関連のものとは別格のものだからというような意味だからなのでしょうか。
境内社かそうではないかは、いまだに判然としないものがあります。

では、また、拝殿前に戻って・・・。

注連縄と鈴

注連縄と鈴 鈴

注連縄は、定期的に新しいものと交換されているようです。
境内の東の隅の廃棄場に古い注連縄があるのを見つけたこともあります。
上写真はいずれも2011年の正月時ですが、鈴が以前とちがうようです。
本体の本坪鈴(ほんつぼすず)は分かりませんが、鈴緒の先端が六角枠の重量感のある新品に替わっていました。

常夜燈

常夜燈(左)

左右一対の常夜燈がありますが、写真は左の燈。
よく見ると、竿の部分だけ真新しく見えます。
もしかすると、3.11大地震で倒壊して破損・修理したのかも知れません。

右の常夜燈の同じ竿の部分を見てみると、こちらは上下同様の色調で、下の写真。
出征軍人 武運長久□□」が見えます。
ということは、明治以降〜昭和初期、いわゆる戦時中の建立でしょう。

常夜燈(右)竿部

戦争など永久に
放棄すべきなので、
こんな部分はないほうが
いいのかも知れません。

本体: 高307cm

雨水桝と神紋

雨水桝

これが何なのかよく分かりませんでした。
雨水がたまるだけで、きれいじゃないので、
手水というのではなさそうです。柄杓もないし・・・。
だいたい手水なら左右に2つも要りませんしね。
左三つ巴(ひだりみつどもえ)の紋が記されているので、
布川神社の神紋を示すだけの機能のものかと・・・。

→ 大きな寺院でも見つけました。雨水桝というのでしょうか。
どうも、本堂や拝殿などからの雨水をためて流す装置のようです。
地面の同じ場所が雨水で侵食されるのを防ぐことができます。
なるほど。平成2年(1990)8月に氏子の皆さんより奉納。

雨水桝裏面

以下、裏面。

氏子総代海老原正吉
□□香取□□
世話人□□杉野□□
□□□岡本幹男
□□□雑賀竹之助
□□□松浦新助
□□□海老原三郎
□□□香取和夫
□□白井庄次
平成二年八月吉日

本体: 高92cm、幅102cm、厚80cm。

布川神社の絵馬

石段を上ってすぐに、利根町指定有形文化財の標柱があり、絵馬があることが分かります。
次に境内に入って拝殿前の案内看板にも文化財としての絵馬の説明があります。
では、実物はどこに。どうやったら見られるのでしょう。

拝殿内部の絵馬

拝殿のなかには、絵馬や額などがたくさん掲げられています。でも、通常は見ることができません。
以下の写真は、布川神社臨時大祭のとき、たまたま開いていたので、これはチャンス!と撮ったものです。
ほかに七五三や大晦日などイベントがあるときには見られるかも知れません。

絵馬「宇治川先陣争い図」「神功皇后と武内宿禰図」「天の岩戸図」

利根町指定有形文化財の3点。
左から順に
「宇治川先陣争い図」
「神功皇后と武内宿禰図」
「天の岩戸図」

絵馬「八岐大蛇退治図」 絵馬「神楽図」と「胡笳歌図」

左は、中央に「八岐大蛇退治図」。文化財絵馬3点の左方に掲出。写真右は、左端から「神楽図」「胡笳歌図」。
以上で計6点。布川神社所蔵の絵馬にはもう1点「鶴・孔雀図」がありますが、ここに紹介した写真には写っていません。

布川神社所属の絵馬

布川神社に納められている絵馬は以下。全部で7点。利根町では蛟蝄神社と並ぶ最多の点数です。
利根町では、すべてが文化財に指定されている琴平神社の3点ほか、全部で25点があるということです。

名称 作者 年代 寸法cm(縦×横) 備考
神楽図 春川 99.0×60.0
宇治川先陣争い図 藤井春川 慶応元年(1865) 92.5×157.5 町指定有形文化財
胡笳歌図 藤井春川 88.0×166.5
天の岩戸図 玉峨 慶応元年(1865) 120.0×155.0 町指定有形文化財
神功皇后と武内宿禰図 玉峨 慶応元年(1865) 100.0×60.5 町指定有形文化財
八岐大蛇退治図 玉峨 慶応2年(1866) 58.0×89.0
鶴・孔雀図 玉峨 安政6年(1859) 38.0×60.0

(利根町の絵馬:編集・発行 利根町教育委員会 平成17年1月26日 より抜粋)

絵馬作者「玉峨」の謎

「天の岩戸図」などの作者の「玉峨」を調べてみると・・・江戸時代後期の画家「東 東洋(あずま とうよう)」の号とあります。
陸奥生まれで仙台四大画家の一人、京都で表絵師狩野梅笑門下に入り、その養子となるほか円山応挙や池大雅にも師事。
寛政年間(1789〜1801)には法眼に叙され、85才の高齢で歿、ということなのですが・・・。
この東 東洋は、宝暦5年(1755)〜天保10年(1839)の人物。
当該絵馬の制作年代の安政6年(1859)〜慶応2年(1866)はいずれも歿後となってしまいます。
これはどういうことなのでしょう?別人なのでしょうか?

  1. まったくの別人
  2. 同じ号を名乗る弟子
  3. 制作年代の誤謬
  4. 制作年代ではなく歿後に奉納された時期
  5. 東 東洋の没年等の誤謬

真相はどうなのでしょうか?

→「玉峨」は、上記の人物とはまったくの別人であることだけは判明しました。
布川の絵馬の作者「玉峨」は、利根川図志の挿絵を担当し、赤松宗旦と各地を廻ってスケッチしていた絵師と思われます。
これが布川在住の絵師であったのではないかという説も出てきています。もう少し研究を待ちます。

天照大神は男?天の岩戸図

天の岩戸図絵馬と天照大神

「玉峨」作の「天の岩戸図」絵馬では、
天照大神(あまてらすおおみかみ)が
あごひげを生やした男神として描かれています。
一般に天照大神とは女神と相場は決まっています。
これはとても奇異な感じですね。
しかし、天宇受売命(あめのうずめのみこと)の嬌声で、
岩戸をつい開けてしまい、
その扇情的な踊りに幻惑されてしまう天照大神とは
男神である、と作者「玉峨」が考えたとしたら
それも一理あるかなとタヌポンは思いました。
狸の巻物「神代の物語4. 天岩戸隠れ」参照)
「天の岩戸図」の奉納者は氏子中。

神功皇后と武内宿禰図

神功皇后と武内宿禰図

「玉峨」作のもうひとつの文化財、「神功皇后と武内宿禰図」
小さく見えますが、比率的には、下の写真とほぼ同じ。「鶴・孔雀図」は大型です。

これには、12人と数多くの奉納者の名が記されています。いずれも布川在住の人物と思われます。
香取源右衛門・白井庄左衛門・渡辺新左衛門・海老原平左衛門・小川東秀・野沢藤兵衛・森杉源左衛門・鈴木弥兵衛・香取市良左衛門・香取治左衛門・荒木嘉七・香取新五左衛門

鶴・孔雀図

鶴・孔雀図

上の拝殿内の写真には見えなかった「玉峨」作「鶴・孔雀図」。

奉納者に、玉村嘉代と記されています。
ところが、裏面に、伊勢屋長九郎 娘という記名があります。
この伊勢屋というのは屋号で本名は玉村氏。
ということで、伊勢屋長九郎の娘=玉村嘉代と思われ、
玉村嘉代さんが、玉峨に絵を依頼して奉納した、
ということになります。

いっぽう、伊勢屋(玉村)長九郎氏は
自らが描いたたいへん上手な絵を数多く残しています。
苗字が「玉村」なので、もしかしてこの人が玉峨なのでは?
という説を、元図書館長の香取達彦氏が想起され、
現在、調査を進めています。

宇治川先陣争い図 「春川」は、東京芸大(の前身)教授?

宇治川先陣争い図

さて、「春川」および「藤井春川」のほうですが、
これは別人なのでしょうか。
ちなみに号を春川と名乗った画家として、
幕末・明治の日本画家
「狩野友信(かのう とものぶ)」があげられます。
明治45年(1912)に70才で歿、ですので、
天保14年(1843)生まれとなります。
右の宇治川先陣争い図は、1865年の作。
この年には狩野友信なら23歳。
若いように思えますが、16才の時、
将軍家茂より奥絵師に任命されていますから
十分、可能性はありますね。
開成学校や東京大学予備門・東京美術学校(現東京芸術大学)教授等を歴任したということですから、
「春川」は、ぐっと現実味のある、わたしたちにとって身近な感じがしますね。

さて、「宇治川先陣争い図」ですが、奉納者は、布川から杉野六兵衛・白井庄左エ門、江戸亀島町の和田屋三右エ門、
守谷町の斉藤徳兵衛、世話人として、杉野平八の名が記されています。(13/06/24 追記)

その他の境内施設

舩魂宮

石段を上って境内左手にある舩魂宮。明治7年(1874)布川川岸「舩持中」により航行安穏を祈願し奉納されました。
前述したように『利根町史』では、布川神社の境内社としての項目にはいっていません。

舩魂宮

舩魂は「ふなだま」と呼び、石祠には「舩玉宮」と記されています。
利根町ではこれが唯一、布川地区だけの利根川運航に関わるもので、
日本でこれが唯一とおもいきや、函館や鹿児島にも舩魂神社が見つかりました。
でも、函館や鹿児島の港町とちがい利根川での運航は途絶えていますから、
利根町での舩魂宮の再興・発展はもうないでしょう。

下写真は石祠の左側面。「明治七戌歳三月吉日」の造立です。
明治5年(1872)に開業した鉄道は、目覚ましい進歩を遂げましたが、
この石祠が造立されたころは、まだ利根川での船運は盛んでした。

舩魂宮左側面

本体:
高117cm、幅59cm、厚62cm。

ところで、この舩魂宮の祭神とはいったいなんという名の神になるのでしょうか?
他の舩魂神社の祭神を見てみると、とくに舩魂神社固有の祭神はないようです。舩魂神、とでもいうのでしょうか。

台石の「舩持中」の舩の字の一部欠落は最近のことのようです。『町史』の写真ではきちんと写っていますので。

なお、石祠は千鳥破風(ちどりはふ)の屋根になっています。
千鳥破風とは、末広がりの三角形をした屋根の造りを言います。三角形の千鳥に似せているという意味でしょう。
破風とは本来は破風板のことで建物の屋根の妻側、三角形のところに山形に取り付けられた板のことを指します。

中臣一万度行司塔

これは石段を上がって右手、文化財標柱のさらに右奥に、なんと外向きに建てられています。
蛟蝄神社の門の宮、および奥の宮両方の境内にも同様の石塔「中臣一万度行事」が立っています。
こちらは「中臣一万度行司」になっていますが、これが何を表しているのか当初、皆目、見当がつきませんでした。

中臣一万度行司塔 中臣一万度行司塔左側面 中臣一万度行司塔右側面

本体: 高146cm、幅44cm、厚29cm。

石塔左側面は「天下泰平 衆善昂生 國土安穏 諸難灾除」。
右側面は「文政三庚辰九月建焉」、文政3年(1820)9月の造立。

ようやく、中臣祓詞(なかとみのはらえことば)という祝詞があることが判明。詳しくは、以下を参照。

→ 意味が分かりました!
蛟蝄神社門の宮「中臣祓一万度行事」をご覧ください。なお「行事」と「行司」は基本的に同義です。

旧常夜燈

旧常夜燈左 旧常夜燈右

これは石段を上った先の常夜燈。
境内の内側から見た並びの写真。

古そうですが、造立年等不明です。

左本体: 高192cm、幅56cm、厚56cm。
右本体: 高203cm、幅56cm、厚56cm。

石段上の標石

石段上の標石

こういう石柱をなんと呼ぶのでしょうか。
なにか文字が彫られています。

中央上部が欠損していますが、
伊勢大々講」のようです。

右下は「□玉村長・・・
左下「三拾四」は、講中34人の人数でしょうか。

下部が埋め込まれて見えないようです。
玉村長・・・は、もしかすると、
前述絵馬 鶴・孔雀図 の「玉村長九郎」かも知れません。

本体: 高29cm、幅16cm、厚14cm。

利根七福神・絵馬掛け・社務所

恵比寿 絵馬立て
社務所

布川神社にも 利根七福神 のひとつ「恵比寿天」があります。
2011年正月、その前にテントが設営されていたため
真正面から撮れませんでした。ちょっと斜めです。

本体: 高90cm、幅40cm、厚33cm。

その右手、拝殿に向かって左の燈篭の前に絵馬掛けがあります。
最近は、「就職が決まりますように」というのも増えていそうですね。
絵馬掛けは、利根町ではほかに早尾天神社で見かけました。
蛟@神社奥の宮にもあります。

左は社務所。拝殿に向かって左手にあります。
ここもイベントがないときは留守です。

石段途中の常夜燈など

ほかに石段途中にもう1基、古い常夜燈を見つけました。これは次項紹介の八坂神社のすぐ下段にあります。

石段途中の常夜燈

本体に「常夜燈
台石正面に「氏子中
台石右側面に「願主 香取□五左衛門 世話人 海老原幸助 香取治助

台石の左側面等も見てみたいのですが、何せここはとても足場が悪い!
さらに暗いし、夏場は蚊も多いし・・・うーーん、撮影できるかなあ。

石段途中の常夜燈台石

本体: 高134cm。

小屋

石段を挟んで反対側にあるのが右の写真にある小屋。
何が格納されているのでしょうか。
もしかすると、なかに境内社の石祠が・・・
ということはないですよねえ?
あるとすれば、小屋の裏あたりかなあ。
そこは調べてないけれど、どうなんでしょう。

八坂神社と境内社

八坂神社

石段の途中にある八坂神社。
これは、布川神社の境内社です。
境内社なのに鳥居まであります。
鳥居のない本社も多いのに・・・。
蛟蝄神社奥の宮の裏手にも
八坂神社 がありますが、
これは境内社ではなく本社です。

うーーーん。うーーーん。
さきほどから何か気になる思いが・・・。
何かこれと同じものを見たような・・・。
デジャヴュ?いや、そうではなく・・・、
同じような光景。同じような石段途中。
しかも同じ右手に少し入ったところ。
境内社なのに鳥居まである・・・。
そうそう、思い出しました。以下。
琴平神社「八坂神社」参照

鳥居建立記念碑

改築ではなくて、建立記念です。平成16年(2004)9月。まだ新しいです。初めて鳥居が建てられたということでしょうか。

鳥居建立記念碑

おもしろいのは、布川神社氏子一同ではなく、八坂神社氏子一同とあること。
同じ地区のおそらくほぼ同じメンバーなのではないかと思いますが、
境内社関連の事業は、その境内社の氏子として名乗るということでしょうか。

鳥居建立記念碑
根本弥太郎□□香取和吉□□海老原謙二
香取和夫□□海老原好信□□下山守一
鈴木真二□□伊藤正弘□□永井一郎
白井寧雄□□野田弘二□□石塚裕一
白井武男□□米元重一□□田中国弘
内藤光男□□野田富雄□□海老原
豊島□□□□木村定夫□□松浦平蔵
白井美保子□□雑賀竹之助□□伊藤重雄
白井文好□□武藤一男□□中村豪行
森田時男□□西峰良助
□□□□□□□□□□□八坂神社氏子一同
□□□□□□□□平成十六年九月吉日建之

本体: 高208cm、幅36cm、厚29cm。

ところで、ここで、タヌポンはある素朴な疑問というか、もしかしてという思いを抱きました。それは、以下・・・。

布川神社祭礼と祇園祭り

豪壮かつ華麗な祇園祭りは、日本3大祭りのひとつと言われる千百年の伝統を有する京都八坂神社の祭礼です。
八坂神社は全国で3000社もの分社をもつと言われており、小規模な祇園祭りが各地で行われているようです。
利根町の近くでは、取手市にも八坂神社があり、やはり祇園祭りと称して例年夏に祭礼を行っています。
ところで、『利根町史』には、布川神社の祭礼を、時代の変化によって様変わりしているとはいえ、
もともとは「布川の祇園祭り」と称していることを記しています。

これは、どういうことなのでしょうか。
布川神社臨時大祭というのは、境内社として勧請した八坂神社があって初めて成立する祭礼なのでしょうか。
布川神社に境内社の八坂神社が登場したのがいつかは分かりません。
その時期がすなわち「布川の祇園祭り」が誕生した時期だったのでしょうか。
それとも、布川神社に八坂神社があるのはたまたまのことであり、
八坂神社がなくとも自由に「祇園祭り」を開催してもかまわないということでしょうか。

また、こういうケースも考えられます。
もともと祇園祭りと呼ばない布川神社独自の祭礼があったが、
各地での祇園祭りの流行にともない、八坂神社を境内社としたときに名称を祇園祭りに変更した、とか。

  1. 布川神社の祭礼は、八坂神社と関係があるのか
  2. 関係がないなら、なぜ祇園祭りと呼称したのか
  3. 関係がある場合、祇園祭りを呼称する前に独自の例大祭はあったのかどうか
  4. 布川神社の氏子と八坂神社の氏子はほんとうに同一か

このあたりの基本的な疑問がいまタヌポンの胸に・・・・。さて、真相は???

→ どうも結論からいうと、布川の祇園祭りという呼称は八坂神社とは無関係 のようです。
境内社にたまたま八坂神社があるからややこしいですね。
この地区では、単に夏祭りのことを「祇園」と呼んでいるふしも見られます。
それだけ京都の祇園祭りが著名であるということですね。

祗園と八坂神社

ところで、では、祗園と八坂神社の関係ですが・・・
八坂神社は、古くは祇園社・祗園感神院・祗園天神などと呼ばれていたというのです。
その祇園の名の由来ですが・・・

平安時代、関白藤原基経が現在の八坂神社のある地に寺を寄進。
そのことがインドにて須達(しゅだつ)長者が祇園精舎を寄進した仏教の故事に似ているとして、
かの地が「祇園」と名付けられたとされています。

そして、祇園祭りは・・・
貞観11年(869)疫病が流行した際、それを退散させるため66本の鉾を立てて祭りが行なわれました。
それが祇園祭りの始まりといわれています。ただし恒例化されたのは天禄元年(970)以降になります。
(参考文献:『神社辞典』『中世京都と祇園祭』ほか)

八坂神社本殿

八坂神社

祭神は、建速須佐之男神(たけはやすさのおのかみ)。
もとの祭神は祗園天神・牛頭天王。

実はカメラを向けたとき、思わず、「ギョッ」としてしまいました。
あまりにも異様なのでこの写真ではカットして掲載しましたが、
本殿に向かって左下に何故か人形が・・・。
この下の写真です。クリックして見てください。
どうしてこんなものが・・・。謎です。気味が悪いですねえ。
チャイルド・プレイという映画がありますが、
見方によってはかわいい人形も不気味に見えるときがあります。
髪が伸びる日本人形なんかも・・・。ヒェーーッ!

人形

見つからない境内社

さて、町史には、八坂神社のほかに以下の神社が境内社として存在していることが記されています。
しかし、しっかりと調べているとも言えませんが、いまだに見つからず、いったいどこにあるのという感じです。

三峯神社、秋葉神社、愛宕神社と続けて記されているのでそれに続く祭神名は3社に共通なのかどうか不明です。
三峯神社と愛宕神社は共通でもありうる気がしますが、秋葉神社は火之迦具土命(ひのかぐつちのかみ)が祭神なのでは?
→ なんと愚かなことを!火産霊命(ほむすびのみこと)とは、火之迦具土命(ひのかぐつちのかみ)のことなんですね。
別名ですがイコールです。でも、ぜんぜんちがう名。こんなの分かりません!共通に付く「火」で推理すべきでしたか?
でも、それでは三峯神社と愛宕神社も火之迦具土命(ひのかぐつちのかみ)を祭神としている?このあたりは疑問です。

▲ 上記の境内社は、2015年春現在、やはりたいしてしっかり調べてもいませんが、未発見のままです。(ホントにあるの?)

石段脇の石仏類

鳥居の右手から奥、ちょうど集会所の建物の背後に石仏類がいくつか並べられていました。
境内社がないか探しているときに見つけましたが、あとで、ここにはたいへん貴重な石仏があることを知りました。

石塔類

しかし、ここはよく調べるには障害が数多くあります。
・まず、神社の鳥居脇からは通路が狭くてたどり着けないこと、
・集会場裏からはかなり高所なので脚立等が必要なこと、
・そして、雑草が生い茂り、それは冬枯れしない小笹であること、
・さらに、地中に埋もれている石仏が多いこと、
・しかも背後の崖の土止めとされ動かすのがはばかれること。

詳しく調べたいのですが、一人の力では限界があります。
2015年春の再調査時も小笹健在で溜息ひとつで断念しました。
いつかもう少し体制と準備を整えて再チャレンジしたいと・・・。

余談。高所恐怖症気味だし、足をすべらせて落ちたりすると・・・。
どうしたものか、手をこまねいているのが実情です。

日本最古に次ぐ十九夜塔

日本最古に次ぐ十九夜塔

徳満寺日本最古の十九夜塔 があります。
タヌポンは当初、主に神道系石祠を探索していたので、
こうした石仏にはあまり注意をはらっていませんでした。

しかし、「HN:さわらびY」さん という方よりコンタクトいただき、
徳満寺の十九夜塔に次ぐ、日本で2番目に古い十九夜塔が、
この石段脇崖上に無造作に置かれた石仏群に埋もれていることを知りました。
これらについて、さわらびYさんの以下のページ後半に詳しく掲載されています。
十九夜塔の源流探索

ここは、清掃も行き届かなくて雑草はいつも伸び放題。
よくよく見れば2列でかなりの数の石仏があるようなのですが、
ちょっと危険な場所でもあるので、
タヌポンの力だけで雑草をすべて取り除くのは困難です。

それで、とりあえず、2番目に古い十九夜塔の前だけを
大き目の剪定ハサミを持参して石垣下から雑草を刈り取りました。
2番目に古い証拠となる「万治二年」の文字は
石仏の下部(次の写真参照↓)に記されているからです。

日本最古に次ぐ十九夜塔下部拡大

石仏の下部には以下のように記されていました。右から、縦に、
十九夜念佛一結施主
五十六人為二世安楽也
于時万治二己亥稔
十月十九日敬白

とあります。
十九夜念仏供養塔で、万治2年(1659)が確認できました。
ちなみに日本最古の徳満寺の十九夜塔は万治元年のものです。
銘文中、于時は年号の前に付く決まり文句、稔はイコール年です。

文字の上には、如意輪観音が線画で描かれていますが、
よく見かける半跏思惟像の浮彫りの石仏はこの後の時代のもの。

本体: 高88cm、幅45cm、厚19cm。

(撮影 当該石仏探しと雑草取り等々で、3回も挑戦・・・12/06/10・12/06/08・12/05/18)

それにしても、このような日本で1.2という石仏が利根町にあるとは驚きましたが、他県の方からの指摘では情けない話です。
そして、このようなものを、このような場所に、まるで廃棄されたかのようになっているのはなんとかならないものかと・・・。

なお、(布川)神社のそばにこうした石仏があるのは奇異な感じがしましたが、後述でも示しますが、
これらの石仏は、布川神社ではなく、馬場集会場の前身、いまは廃寺となった「正福院」に属していたからでした。

再調査

上記の愚痴を聞いてくださった所属会のかたが、地元馬場地区の皆さんで暑い中、雑草を取り、清掃してくださいました。
おかげさまで、これで調査がぐんと楽になりました。ただ地中に埋まっている石仏に関しての掘り起こしは今後の課題です。

石仏前列6基 石仏後列列6基

▼ まずは、前列左から、6基。

時念仏塔

時念仏塔

刻像されているのは禅定印をむすんだ「大日如来」。

光背右に、「時念佛一結衆七十五人 布川村馬場」。
左に、「寛文十二年十月廿三日敬白」とあり、
寛文12年(1672)10月23日と古い造立です。

本体: 高100cm、幅52cm、厚30cm。

百堂念仏塔

百堂念仏塔

刻像されているのは地蔵菩薩ですが、
光背右に「奉造立百堂念佛」とあり、百堂念仏塔と判明。

近隣の祀堂など百の堂宇を巡拝し念仏を唱える行事で、
100ヵ所巡拝した記念に供養塔を建てたりします。徳満寺でも2基、発見しています。

光背左には「天和二壬戌年霜月晦日 同行百人」。
天和2年(1685)11月の造立。

本体: 高97cm、幅46cm、厚26cm。

十九夜塔2

十九夜塔2

たいへん文字が微かなので読みにくいですが、
光背右に「十九夜念佛結衆同行三十六人」と記されているようです。

左には「寛文十三癸暦拾月吉日 布川村」。
これも、寛文13年(1673)10月の古い造立。
お決まりの「半跏思惟・如意輪観音」が刻像された十九夜塔です。

本体: 高92cm、幅48cm、厚18cm。

▼ 上記右の塔は、「日本最古に次ぐ十九夜塔」として、前述しました。
前列残り2基は、いずれも戒名等が彫られた墓塔のようで、2基目は上部欠損もしていますが、紹介しておきます。

墓塔1

墓塔1

板碑型の墓塔。上部にキリークの種子が彫られています。
中央に「大阿闍梨祐善法師」と僧侶の戒名。
左右に「天和二壬戌年 四月廿六日 敬白
天和2年(1685)4月26日遷化、ということのようです。

本体: 高64cm、幅36cm、厚10cm。

墓塔2

墓塔2

これも板碑型の墓塔。
右に「□□禅定門」、左に「□□禅定尼」と男女の戒名。
外側に日付だけが読めますが、上部欠損していますので、没年不明です。

この塔は、まあ、参考まで、というところです。

本体: 高50(上部欠損)cm、幅36cm、厚17cm。

▼ 以下から後列ですが、前列と近接しているので、さらに銘文等が読みづらくなります。

十六夜塔

十六夜塔

右下に「十六夜念佛一結廿一人」。
念佛以下が一部剥落欠損して読みづらいです。

左に「寛文十二子年十月□□
寛文12年(1672)10月とこれまた古い造立。

「十六夜塔」なら刻像されているのは「聖観音」が妥当でしょうか。

★ なお、『利根町史』の徳満寺末寺だった正福院(現在廃寺)の記述にある、
「寛文12年(1672)」造立の塔はこの塔のようです。

本体: 高65cm、幅43cm、厚20cm。

十九夜塔3

十九夜塔3

光背右に「十九夜念佛一結衆二十八人」。
左には、「貞享三丙刁天十月十九日」。
これも比較的古い貞享3年(1686)10月19日の造立です。
刁は寅の異体字。

上部には種子(キリーク)が見えます。

本体: 高65cm、幅46cm、厚28cm。

子安観音塔

子安観音塔

これは暫定です。
銘文が見当たらないことと、像容から見て、
明快に赤子を抱いているとも言えませんが、子安観音像と推定。
そうでないとしたら、如意輪観音像ですが、銘文がないと・・・。

後列石塔群は、全体的に土中に10cm程度は埋まっている様子ですので、
すべてを掘り起こしてみないと正確なところが分かりません。
また、傾いたものもいくつかあります。それらを正しく見えるようにする・・・。
しかし、その作業はちょっと途方にくれるものです。

本体: 高45cm、幅30cm、厚19cm。

不明の塔

不明の塔 大日如来種子

上部に、大日如来を示す種子バンが彫られ、
その下には、23文字の梵字が並んでいます。
これは、「光明真言」と呼ばれるもののようです。


大日如来種子

光明真言の下には「爲供養」とあるようですが、
この情報だけでは墓塔なのか何なのか
見当も付きません。

これも、塔の下部も含めて全容が
判明した後でないと・・・。

本体: 高48cm、幅35cm、厚19cm。

▼ 上記の右は、如意輪観音が刻像された塔ですが、上部の半分が欠損していますので、これは割愛します。

無縫塔

無縫塔

これも上部に、おそらくアという梵字。これも大日如来を示すもの。
その下に「阿闍□」とあり、無縫塔(卵塔)でもあることですので、
僧侶の墓塔ということになります。
問題は、どの寺に所属していた僧なのかということですが、
これは「正福院」と断定していいようです。

本体: 高32cm、幅28cm、厚27cm。

力石1

力石1

前述の集会所の建物の背後の石仏類に混じって、
1基、写真のような石を見つけました。

力石と呼べるかどうか分かりませんが、参考まで。

本体: 高20cm、幅60cm、厚40cm。

布川神社前広場

通りに面して小広場を挟んで布川馬場集会所が建っています。その前右手に真横を向いて建っている祠が四郡大師です。

四郡大師62番

大師 大師62番
大師像

布川地区の要所、布川神社ですから当然、ありますね。
62番です。ただし堂内の大師像は1体だけ。

大師像本体: 高38cm、幅25cm、厚16cm。

力石2

力石2

「力石」もしくは「さし石」と呼ばれる石が、
大師堂の脇に2基、置かれています。
とくに銘文等は刻まれていませんが・・・。

当該の石がそうかどうか分かりませんが、
集会場前に以前あった松の根元の力石(約30貫)で、
若者たちが力くらべをしたと言われています。
米元重郎・白井好太郎氏は力石を担いで、
布川神社の石段を登ったとか。
(『茨城・栃木の力石』「高島慎助著 岩田書店」より)。

手前石本体: 高27cm、幅45cm、厚32cm。
奥石本体: 高19cm、幅46cm、厚40cm。

布川馬場集会所

布川馬場集会所 盆踊り

左は馬場集会所と大師堂。右は右奥に見える建物が集会所です。
ここは、実は以前、徳満寺末寺の正福院があったところです。
現在、廃寺となっていますが、集会場内に「十一面観音像」が安置されているとか。(『利根町史』)
また、十六夜供養塔 寛文十二年(1672)外石塔六基、とあります。
前項の 石段脇の石仏類 はおそらく正福院に附属していたものと思われます。
とすると、十六夜塔 は寛文12年造立のものかも知れません。

この広場で夏は盆踊りなどの催しが開かれます。3年に1度の大祭時もこの広場は重要な役割を果たします。
それでは、2005布川神社臨時大祭 へどうぞ。

(旧)布川小学校

(旧)布川小学校と布川神社

布川小学校へ 桜

利根町のなかで石段を登った上に境内がある神社・仏閣がいくつかあります。
お寺では 円明寺徳満寺、神社では、蛟蝄神社琴平神社日枝神社八坂神社 そしてこの布川神社。
それも登った境内の地面の高さで別の道路や建物などにつながっていたりする場合もあります。
円明寺徳満寺 はひとつ上のメインの道路へ、琴平神社徳満寺 の境内へ、
蛟蝄神社奥の宮 は裏参道の道へとそれぞれ続いています。

そして、上の写真のように、布川神社の場合は(旧)布川小学校の校庭へとつながっています。
つまり石段下の布川神社前の道路よりは高い位置に(旧)布川小学校が建っているというわけです。
そういうわけで、(旧)布川小学校の生徒たちにとって布川神社の境内は休み時間での遊び場のひとつであり、
タヌポンの娘もかつてはそこで遊んだひとりでした。

(旧)布川小学校の桜

以下の画像をクリックするとスライドショーになります。

桜

学校、とくに全国の小・中学校は
だいたいが桜の名所ですね。
この布川小もとてもきれいな花を
咲かせてくれます。
まあ、いわゆる「花見酒」は
さすがにできませんので、
花見の名所には
リストアップされないでしょうね。

悲しいことにこの布川小学校も平成20年(2008)4月1日より、太子堂小と合併し、(新)布川小学校となりました。
布川小学校の名は残りますが、校舎は太子堂小であり、この布川神社裏の布川小の建物は空家となってしまいました。
空家の再利用は町で検討するとは言え、娘の母校が消えてしまうのは寂しい限りです。
再開発されても、この桜は斬らないでほしいと切に願います。

→ 平成24年(2012)4月より、「日本ウェルネススポーツ大学」が開学!桜は無事に残りました。
布川小は第二キャンパス、利根中も第一キャンパスとして、生まれ変わりました。(13/11/12 追記)

布川台地区と道祖神

布川台集会所・道祖神社務所

布川小学校前から北に少し進み最初の角を左折してしばらく行くと左手に布川台集会所があります。
建物の横に道祖神の鳥居がありました。集会所は道祖神の社務所ともなっています。
左は2005年11月、右は2007年7月末。右は夏の祭礼時の様子ですが、よく見ると道祖神の鳥居が朱色に。
塗りなおしたのか新築なのか、この期間に変更があったようです。

布川台集会所・道祖神社務所 布川台集会所・道祖神社務所2年後

布川台の道祖神

直下は、2015年3月末、その下の写真は2005年5月時。鳥居の色が朱になったのと眷属キツネが増えたのが変更点。

布川台の道祖神2015年時 石祠類2015年時

中央の石祠が本殿。祭神は久那戸神(くなどのかみ)。文久3年(1863)正月の建立。
ほかに左に2基、右に1基、石祠がありますが、これらは風化が激しく、2基の造立時以外は不明です。
すぐ左の石祠は寛政6年(1794)2月、右は安政2年(1855)造立。いちばん左の石祠の詳細は不明。
これらは過去の道祖神本殿石祠と推定されます。いちばん前は、手水、なんでしょうね。法量は左から以下。

左端石祠本体: 高49cm、幅32cm、厚22cm。寛政6年石祠本体: 高49cm、幅43cm、厚24cm。キツネ本体: 高46cm、幅16cm、厚40cm。
手水本体: 高18cm、幅35cm、厚22cm。本殿石祠本体: 高72cm、幅58cm、厚55cm。安政2年石祠本体: 高44cm、幅27cm、厚31cm。

布川台の道祖神 石祠類
道祖神左のミニ眷属 道祖神右のミニ眷属

本殿石祠の両脇石祠の中には、小さなキツネが飾ってありました。稲荷神社関連の可能性も否定できませんが・・・。
→ これらのキツネは2015年時には見当たりませんでした。そのかわり大きなキツネが本殿石祠の隣に設置。

以下は本殿石祠。正面「道祖神」、左側面「文久三癸亥年正月吉日」、右側面「□□講中」「大々講中」が見えます。

布川台の道祖神本殿2015年時 布川台の道祖神本殿2015年時左側面 布川台の道祖神本殿2015年時右側面

(16/07/29・15/04/13 追記再構成) (15/03/19・14/05/26・13/11/12・13/06/24・13/05/14・12/08/29・12/06/20 追記) (11/01/11追記・再編成) (06/07/22)
(撮影 15/07/21・15/03/26・15/03/25・12/08/28・12/06/10・12/06/08・12/05/18・11/01/02・07/07/28・06/07/22・05/11/16・05/08/09・05/07/31・05/07/30・05/07/29・05/07/17・05/05/29・05/04/08・05/04/03・05/03/19・05/03/02・05/01/18)


本コンテンツの石造物データ → 布川神社石造物一覧.xlxs (18KB)