タヌポンの利根ぽんぽ行 琴平神社

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タヌポン宅にいちばん近い神社と言えば、琴平神社。
だからよく訪れて写真も少しは撮っていたのに、掲載が遅れていました。

その理由は、神社の名前のせいでした。
琴平神社。
さて、皆さんはなんと読みましたか。
ことひら?それとも、こんぴら?

この素朴な疑問の解答が、なかなか判明しないのです。
名前がはっきり分からない神社を紹介するなんて、と思っていたのですが、
それでも、なんとかコンテンツをつくり・・・。

掲載して、幾年月(おおげさですがそれでも5.6年)経った2011年になってやっと、
なんと琴平神社ではなく、蛟蝄神社奥の宮で、
宮司さんにお会いして、その解答を得ることができました。
結論は、コンテンツ後半にて。

琴平神社の由緒沿革について、創立は不詳ですが、
天明6年(1786)再建、万延元年(1860)増補と『利根町史』にあります。

このコンテンツでは、後半で、神社のほかに、
近くの石碑と利根町役場内の稲荷神社の写真も紹介します。


布川地区マップ

琴平神社は利根川に架かる栄橋のたもと付近、利根町役場と徳満寺の中間地点にあります。

ことひらか、こんぴらか(1)

琴平神社は「ことひら神社」なのか「こんぴら神社」なのか。
仮にそのどちらであったとしてもこうした似通った名のいわれはなにか。
このことをクリアにしてからコンテンツを創ろうと思っていたのです。
ところが大して調べてもいないのですが、いまだにこれが不透明なのです。

地元では、こんぴら

タヌポンの近くにある「琴平神社」に限って言えば、タヌポンの予想に反して、
地元の人たちは「こんぴら神社」と呼んでいることが最近(2005後半)、分かりました。
しかし、これは、先日、無量寺 の沼などについて聞いたおそばやさんの「ますだや」の若主人からだけの情報です。
20年もここに棲んでいますが、いままでほかにだれにも尋ねたことがありません。
若主人を信じないわけではないのですけれど、別の人は「ことひら神社だよ」というかも知れません。
それほど確固としたちがいがないようにみえます。

一般的には、どっちもアリ?

近所の神社ではなく一般論としての呼び方を少し調べてみた結果は・・・。
どちらの言い方も全国にあり、どっちでもいい、という実にいい加減な感じなのです。
こんなのはタヌポンは少々、気持ちが悪いのでなんとか白黒をはっきりさせたいと思うのです。

琴平は「ことひら」では?

最初は漢字の使い分けで、「琴平は、ことひら。金毘羅や金刀比羅は、こんぴら」というのではないかと推論しました。
「金毘羅宮(こんぴらぐう)が琴平町(ことひらまち)にある」という記述が見つかったので、やはり、などと一瞬、思いました。
したがってこちらの琴平神社は、ことひら神社と思ったわけです。
しかし、ますだやの若主人は「ああ、こんぴらさんね」とこともなげに言うではないですか。
「ことひらではないのですか」の問いに、「うーん、こんぴらって言ってるね」

両方ある金毘羅宮

そうこうしていると、ある記述には金毘羅宮(こんぴらぐう)、別の記述には金毘羅宮(ことひらぐう)と、
わざわざ両方ともふりがなまでうったものが見つかりました。
同様に、金毘羅だけではなく金刀比羅の字にも、ことひらとこんぴら両方のふりがながそれぞれ付いた記述があるのです。
金刀比羅の刀を「ん」と読むのもヘンだと思うのですが、まあよくある話しではあります。

さらに本家本元、香川県には「こんぴら温泉郷」があり「ことひら温泉郷」もあります。
ところが、これすらも、調べてみるとまったく同一のもの、という始末なのです。
現地の観光協会に電話して聞いてみたからホントです。
歴史・由緒など詳しいことは遠慮して聞きませんでした。
ぜひこちらへ来て資料館などで調べてくださいなんて言われると困りますからね。
行ってみたいとも思いますが、いまはちょっと忙しいので・・・。

かくして、タヌポンの漢字による使い分け案は無残にも砕け散ってしまいました。
「正式にはいったいどっちなの、はっきりしてよ」と言いたくなります。

結局はよく分からない

で、いまのところ結局はどうにも分からないのですが、ひとつだけ言えるのではないか(と思う)のは、
香川県にある琴平町という町の名だけは「こんぴら」ちょうなどとはいわない、「ことひら」に限定のような気がします。
ことひら「まち」なのか、ことひら「ちょう」なのか、は分かりませんが・・・。
あとは要するに、なんでもあり、です。

で結局、名前の由来がよく分からないままここに利根町の琴平神社を紹介することにしました。

ことひらか、こんぴらか(2) に続く

琴平神社への3つの入口

さて、利根町の琴平神社にも 徳満寺 と同様、中に入るには3つの入口、というか方法があります。

1.正規の入口

まず、ひとつ目は正規の入口。利根町役場の右から利根川に平行して少し下った路地に向かえばすぐの場所にあります。

正規の入口

鳥居が2つ続いています。
入口から順に、
一の鳥居、二の鳥居と呼びますが、
こうした並びの鳥居が
2つ以上あるのは、
利根町では、この琴平神社だけです。

白い標柱は
利根町指定有形文化財の案内。
そのひとつに
杉野嵩雲(すぎのすううん)絵馬
「水難救助図」があります。
応順寺のコンテンツ参照
杉野嵩雲はあとで紹介する
書家杉野東山の弟です。

この写真は、正月(2008)のもの。
門松が立てられています。

2.掘割からの入口

2つ目の入口が以下。これは正規の入口前の道路を役場方面に向い、右にカーブしたその少し先の右手にあります。

掘割の入口

階段からその少し先の窪んだところ一帯は
布川城の掘割だったといいます。

赤松宗旦が著した『利根川図志』(巻三)に、
「金毘羅社」と題して以下の一節が記されています。
(やはり金毘羅=こんぴらと呼ばれていたのですね)

・・・・地蔵堂(徳満寺)の西にあり。その間路の左右に乾隍(からほり)の迹(あと)あり。さればこの地、城の大手なるべし・・・

ここを上がると・・・

さらに奥にある数段の階段を登って左に行くと徳満寺へ、右に曲がると琴平神社の境内・本殿につながります。
以下の右写真が、掘割から見上げた琴平神社の本殿です。右手に見えます。左写真は掘割に並んだ古い墓塔群。

徳満寺と琴平神社をつなぐ道へ 右上が琴平神社本殿

3.徳満寺からの入口

ということは、琴平神社への3つ目の行き方は、分かりますね。

琴平神社境内から徳満寺を見る

そうです。上の左の写真、階段を上った先の左方、
徳満寺からの入口です。

左写真は、その階段の上にある、
「徳満寺←→琴平神社」を結ぶ通路で、
琴平神社側から徳満寺方向を見たところです。
前方に見えるのが、徳満寺の地蔵堂です。
ちょっと見えにくいですが、地蔵堂にぶつかる少し
手前の左に、例の掘割への下り階段があります。

琴平神社へは、徳満寺の地蔵堂の左手から
この通路をたどれば訪れることができるわけです。

徳満寺で紹介した「琴平神社からの徳満寺への入り口」とはすなわちここ、「琴平神社への徳満寺からの入口」でもあります。
タヌポンの棲みかに近いこの掘割が、徳満寺と琴平神社へのいちばんの近道であったことが分かりました。
しかも距離だけでなく、正規のルートよりも階段を上がる数がどちらもグンと少なくて済むのです。これは、発見です。

掘割の墓塔群

庚申塔群

また、掘割では、階段を登る手前左手には
石仏が7基ほど並べられています。
階段を上る右手にも1基、見えます。
これらは戒名が刻まれているので古い墓塔と思われます。
ここは墓地ではないので無縁仏なのでしょう。

階段を登って徳満寺境内へと続く通路の脇にも
石塔類がズラリと並んでいますが、
碑に刻まれた文字はさまざまで
特に何かに統一されたものではないように思われます。
この詳細は→ 徳満寺2の 地蔵堂裏の石碑と石仏 参照。

本地垂迹説

琴平神社と徳満寺が裏で繋がっていた、というとなんかヘンな意味にとられそうですが・・・。
徳満寺紹介の時にも話したように、隣接しているというだけでなく、お寺と神社はなんだか仲がいいようですね。
これは徳満寺・琴平神社だけでなく全国の神社仏閣にも同様のことが言えるようです。
両者の歴史をひもといてみればその理由が少し分かります。

本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)というのがあります。
歴史の時間に習いましたね、昔。
難しい言葉だからこういうのがあったということは覚えていても正確にどんな意味だったかは・・・。
ちょっとおさらいしてみましょう。

仏様が神様の姿になってこの世に現れた

ひとことで言えば、日本の古代からの神々と仏教の仏様とが一緒であるという考え方、を言います。
538年(552説もあります)、日本に仏教が伝来して以降、こういう考え方をしないとうまくいかなくなったのです。
もっと正確にいえば・・・

本地(ほんじ、と濁って読みます)とは仏さまの本来の姿、を指します。
垂迹(すいじゃく)とは、その形を変えたもの、という意味になります。
衰弱してミイラ化してるとかそんな意味ではありません。
つまり本地垂迹とは仏様が神様の姿になってこの世に現れた、というものです。

仏様が少し優位?

本地垂迹説の意味では、どちらかというと仏様のほうが格が上のように思われます。

新しく日本に入ってきた仏教の力がもう見逃せないほど強くなって、
もともと存在はあるものの、とくになにも教義をもたない日本の神様がちょっと分が悪くなりました。
仏教のほうも時の権力者であり神様の象徴でもある天皇家には逆らわないのが得策です。
そこで両者の歩み寄りということになりましたが、どちらかといえば神様のほうがより歩み寄ったということでしょうか。
神仏混交ということになりましたが、よく見てみれば、この時点では、仏様が少し優位だったわけです。
天皇家自体も、聖武天皇ほか多くの「第一線」の権力者が仏教に帰依し、寺や仏像など多くが造られました。

廃仏毀釈などもあったが・・・

これが明治になって、古代の日本の神、天皇家への尊崇ということで「神仏判然の令」により「廃仏毀釈」などが行われました。
再び神と仏は分かれたのですが、まあすでに相当仲がよい時代が長かったせいか、
明治維新初期はたいへんでしたでしょうが、かたち上は実際はそれほど分離は進まないまま今日まで至っているようです。
第二次世界大戦の敗戦でさらにまた逆転とはいかなくとも神格化も弱まりましたしね。

神仏習合時代の名残

神社の象徴とも言える鳥居が立っている寺があるかと思うと、どこを探しても鳥居が見当たらない神社もあるし、
寺院の象徴である鐘つき堂がない寺もあるのに、それがなぜか神社にあったりするのは、
ずっと過去、神仏習合の時代からの名残と言えるでしょう。

本地垂迹説という言葉はあまり現代では使いませんが、現実は、神様仏様はほぼ同格で存在しているようです。
タヌポンの実家にも仏壇と神棚がありましたし、初詣は神社なのか寺がいいのかさっぱり分かりませんね。

まあ、そういうことで、めでたしめでたし。

入口石段から境内まで

札所塔・道標

琴平神社の「正規の」入口石段登り口脇に立てられています。下写真中央は右側面、右は左側面。
巡礼行に、坂東三十三箇所・西国三十三箇所があり、これらは、観世音を安置した33ヵ所の霊場を指します。
秩父三十四箇所とあわせて日本百観音の巡礼となるわけですが、その巡拝記念として建てたものと思われます。

巡拝塔 巡拝塔右側面 巡拝塔左側面

表面に、阿弥陀三尊の梵字種子の下中央に「西國秩父坂東」。その左右に「奉納札所」と「諸願成就所」。左側面には、
金毘羅大權現」、「地蔵尊ゆけし」の文字。琴平神社だけでなく徳満寺の地蔵尊にもここから行ける、ということですね。
右側面には上下に「西」と「」、「と里で」(取手)「みつかいどう」(水海道)」が刻まれ、道標も兼ねた札所塔です。

あれっ、建立年は?もしや裏面に?どうして確認してないのかな。また行ってみなきゃあ!!…ということで、翌日再撮。

巡拝塔裏面

ちゃんと記されていました。「寛政九丁巳十一月日」、寛政9年(1797)11月でした。
でも、下のほうに何かごちゃごちゃ刻まれています。右に・・・願主、ですか?
あー、濡れ雑巾ででも拭かなきゃあ、読めないですねえ。
まだ5月末なのになぜこんなに暑い?炎天下で座り込んでゴシゴシと・・・。
いちばん下は少し台石に埋め込まれている様子。

巡拝塔裏面下部拡大

願主
玉村嘉兵□(衛)」
大谷茂右□□(衛門)」
根岸武兵□(衛)」
香取新兵□(衛)」

本体: 高66cm、幅31cm、厚31cm。台石: 高29cm、幅56cm、厚56cm。

さし石

石段を登るとすぐ右手に大きな石が見えます。左は2011年のあの大震災直前。右はその後、樹が伐られた後の石のUP。

さし石 さし石

横書き「奉納」の下に、
縦に「さし石」。
その左には「布佐町」「石橋□□郎

布佐町とは、栄橋から利根川を渡った
すぐの我孫子市布佐。石橋□□郎は、
当初「石□□明□」に見えたりしました。
いずれにせよここは読みづらいです。

それにしても「さし石」とは何でしょう?
「力石」なら分かるのですが・・・。
石段上の神社境内に、他にも
5.6個あるのですが・・・。

調べてみると、以下のことが分かりました。「力石」より少し小規模なものを「さし石」と呼ぶそうです。
以下は、「姫路市教育委員会文化財課」の『文化財見学シリーズ「力石」をたずねて』より抜粋。

1 「力持ち」は、江戸時代、江戸を中心に関東各地で行われていたが、やがて日本各地にひろがったといわれ、それに用いられたのが「力石」である。力石を定義づけることは容易ではないが、「神社境内・会所・村境などに置かれ、若者が力だめしに抱えあげたり、豊凶の占いにも用いられた一定重量の大小の小判形・楕円形・卵円形の石」のことを力石と呼んでいる。
2 力競べに用いられた石には、「力石」・「さし石」と呼ばれた二種類があり、「さし石」は、「力石」よりひとまわり小さい。力石が最高70貫(262.5kg)、さし石は16貫(60kg)ぐらいである。「力石」を持ち上げる方法は、両方の手を力石の長径にかけて胸までかかえ上げ、次いで肩に担ぐ方法が一般的である。馴れている人は薄歯の高下駄を履いたり、一升枡の上に両足を乗せたりして力石を担いだといわれている。「さし石」は、胸または肩まで持ち上げた後、両手で頭上高くさしあげるの常とし、力のある者は、片手でさしあげたといわれる。

そういえばここは、江戸から「大関」も来たという「金毘羅相撲(角力)」の開催地。「力石」は利根町ではここしか見られません。
→ 上記、訂正してお詫びします。実はほかにも随所にあることが分かりました。利根町は8ヵ所27個の力石があるとのこと。
(『茨城・栃木の力石』「高島慎助著 岩田書店」)。ああ、また宿題です。それらの写真を撮りに・・・。

本体: 高24cm、幅38cm、縦52cm。これは重さを測るべきですが、ちょっとムリですね。持ち上げてみる気は・・・まったくありません。


「さし石」の先は、平らな中2階のような場所になります。一の鳥居は少し進んでさらに10段上ったところにあります。
右手に、まるで土止めのように数多くの石仏がランダムに・・・前列数基はそれでも並んでいるようには見えます。
庚申塔を集めたようですが、背後のものは、雑草等も生い茂り、土に埋もれ、また欠損しているのもあり調べようがありません。

石段途中の庚申塔群

庚申塔群

10基以上ありそうですが、以前は
石祠の笠だけというのもありました。
以下、主なものを抜粋で紹介します。

下は、階段下を振り向いたところ。
道路の先は利根川。白地の旗は
元旦だけ立てられるもののようです。

← 塔前の樹木伐採後の写真に変更(13/10/19 撮影)

元旦上から

庚申塔1

庚申塔1 庚申塔1裏面

いちばん右、樹木の陰の塔。

シンプルな文字塔の「庚申塔」です。
裏面に「昭和三年十一月」の銘。
これを撮るのは苦労しました。
狭いし、雑草だらけで。冬場にすれば・・・。
昭和3年(1928)11月と比較的新しい建立。
その下に、願主(施主?)2名の名前。
石井末松」「渡辺郡一郎」。

本体: 高71cm、幅51cm、厚13cm。

庚申塔2

庚申塔2 庚申塔2左側面

これは「面金剛王」の文字塔です。

剛の異体字

「剛」は左のような異体字です。
「」も異体字。


上部に「日月」レリーフ、下部には「三猿」。

左側面に「寛政九年丁巳九月吉日
寛政9年(1797)9月の建立です。

本体: 高103cm、幅42cm、厚28cm。

庚申塔3

庚申塔3 庚申塔3左側面

これも、「庚申塔」の文字塔ですが、
上部が少し欠損しています。上部には
日月」の浮彫があったものと想定されます。

また、下部もかなり削り取られていますが、
三猿等があった痕跡は見当りません。

左側面を覗いてみると、
何かしら文字が刻まれている様子。
石仏を動かして確認したいところですが、
土止めの役割もしているようで・・・でも。
おっ、なんとか手前に倒せそうです。
天保二辛戼三月吉日
天保2年(1831)3月の建立と判明!
戼と丣は異なる字ですが、ここでは卯の意。

あっ、右側面見るの、忘れてしまいました。

本体: 高67cm、幅29cm、厚17cm。

庚申塔4

庚申塔4 庚申塔4左側面

これは青面金剛一面六臂の刻像塔です。
手は棒剣、三又の戈、弓と矢、法輪、そして、
左手に「ショケラ」を提げています。
ショケラとは、上半身裸の女人像。
頭には、蛇を纏っています。

左側面に「安政五年午」。
安政5年(1858)の建立です。

これも土止め役割のようで、足下には、
掘り起こすと何か判明しそうです。
おそらく「邪鬼」か「三猿」か。
でも掘るのはムリですね。

本体: 高50cm、幅24cm、厚14cmですが、
本来は高さはもっとあるでしょう。

庚申塔5

庚申塔5 庚申塔5右側面

またも「庚申塔」文字塔が続きます。
上部の「日月」は線画のようです。

萬延元庚申年」「十一月建之
万延元年(1860)は60年に1度の庚申の年。

右側面には下部に「講中」が見えます。

本体: 高43cm、幅21cm、厚15cm。

庚申塔6

庚申塔6

これはやはり「庚申塔」文字塔。
「塔」の文字部分が地中にあると思われます。
したがって、全体の高さはあと10cm程度あるでしょう。

上部の「日月」はレリーフ。
慶應二寅」は、慶応2年(1866)。「九月吉日」の建立。

本体: 高35cm、幅22cm、厚14cm。

庚申塔7

庚申塔7

これは、建立年以外は庚申塔6とほぼ同様。
安政六未年」安政6年(1859)、「九月吉日」の建立。

本体: 高37cm、幅21cm、厚15cm。

庚申塔8

庚申塔8

三猿」が明確に分かるので庚申塔であることは決定。
しかし、上部のかなりの部分が欠損しています。
六月」の文字だけ左方に見えます。

上部欠損していますが・・・本体: 高33cm、幅30cm、厚6cm。

一の鳥居

一の鳥居

庚申塔のあるフロアから
さらに石段を10段上ると、
鳥居が前後に立つフロアになります。
神額のある一の鳥居は明神鳥居。
昭和49年(1974)11月の建立。
右柱裏「昭和四拾九年拾壹月吉日
左柱裏には朱書きで「氏子一同

神額

新しい神額

あるとき(07/07/28)、訪れたら、
金ぴか(黄色?)の額に変わっていました。
下左の写真の神額での最終撮影日は06/10/08。
この期間のどこかで、付け替えられたというわけですね。

右下は、境内の拝殿・雨水枡の前に置かれた
さらに古い神額。
神社ではなく、金毘羅大権現と記されています。
これがすなわち先に説明した本地垂迹の例で、
日本の神々が仏教に取り入れられた際の称号として
大権現が使われたと思われます。
琴平神社と変更された(あるいは元の名に戻された)のは、
おそらく明治になってからなのでしょう。

古い神額 古い神額

新・一の鳥居

2018年11月頃、ウォーキングで前を通ったら、工事中とあり、石段の上にクレーン車が乗っていました。
鳥居新築工事とあり、11月末に見てみると、工事は完了し、神額も「金刀比羅神社」に変化していました。

鳥居新築 鳥居新築

(18/12/22 追記・18/11/27 撮影)

二の鳥居

二の鳥居

神明系で靖国鳥居のようです。
額束がなく、当然神額はありません。

鳥居の柱の裏には、
大正10年(1921)8月建立とあり、
町史の宇佐美もと奉納に合致します。
一の鳥居よりこちらが古いのですね。
左柱裏「大正拾年辛酉
右柱裏「八月吉日建之

前方の石段の中腹右に
何か祠のようなものが見えます。
また、左手には古い手水があります。
まずは、左手のほうを・・・。

空き地の石祠群

二の鳥居の左手を見ると、ちょっと空き地のようになっていて、そこに古い手水やいくつかの石祠等が立ち並んでいました。
2011年3月の大震災をはさんで何度か訪れましたが、震災とは無関係にその都度、石祠の並び等が少し変化しています。
また、季節によって、雑草がきれいに刈られていたり、逆にぼうぼうのときもあり、小さな石祠は半分隠れたりしています。

空き地の石祠群 空き地

いろいろありますが、判読できるものを抜粋して以下、紹介します。個人の氏神様のようなものは割愛しました。

手水

空き地の手水

二の鳥居の柱のすぐ左にある手水石。
表面に「奉納」と刻まれているだけで、あとはなにもなしです。

これが琴平神社もしくは金毘羅大権現に
付帯していた手水とは思えません。
おそらく、以下で説明する「水神宮」に
附属するものではないかと思います。
建立年とか分かればいいのですが・・・。

この「空き地」には元は「水神宮」が整備されており、
もしかすると、二の鳥居が水神宮のものなのではないか、
とか想像したりします。多分違うと思いますが・・・。

本体: 高30cm、幅68cm、厚41cm。

『利根川図志』地蔵市図

左は、赤松宗旦の『利根川図志』に掲載されている「地蔵市」の図。
よく見ると、徳満寺の本堂から南に降りてくる道の途中に、
鳥居が描かれています(左赤丸印)。

これが、琴平神社(金毘羅大権現)を示すものかと思われますが、
位置的にはもっと西方ではないかとも思います。
しかも鳥居は東向きです。
これが、もしかして、かつては整備されていた
「水神宮」の位置なのでは、
などと、勝手な推測をして楽しんでいます。

五大明王の石碑

五大明王の石碑

手水の隣に、左のような大き目の石碑があります。
これについては、総州六阿弥陀詣の 星野一楽関連の記事
詳説しましたので参照してください。

後述の「水神宮」に関して、星野一楽が
新たに神廟を祀った旨の銘文が記されています。
江戸3大石匠の一人、「窪世祥」が手掛けた逸品です。
中央には、「水神」が線画で描かれています。
このような場所に「放置」されるのはしのびない気もしますが、
やはり「水神宮」に縁がある地と言えばここになるのでしょう。
「文化財保護」の観点から言えばもう少し町でなんとかならないものかと。

天保歳壬辰」即ち、天保3年(1832)の建立。

本体: 高98cm、幅47cm、厚12cm。

中村仏庵

五大明王の石碑ですが、下の銘文の解読ばかり気にしていたものですから、「水神」の線画周辺をよく見ていませんでした。

五大明王の石碑・線画部分拡大

線画の左右に何か文字が刻まれています。


右に見える文字は「佛庵連梵書」。
「佛庵連」とは書家中村仏庵のことで連は仏庵の名です。

中村仏庵(なかむらぶつあん)は、江戸後期の書家で、宝暦元年(1751)生、天保5年(1834)歿、84歳。名は連もしくは蓮、字(あざな)は景連。通称は弥太夫・吉寛。号に、至観・仏庵・南無仏庵・雲介など。代々神田岩本町に住した幕府御畳方大工の棟梁。当時より当代随一の仏学者と称され、古物鑑定・考証家としても鳴らす。書はとくに梵書・隷書に巧み。町人でありながら旗本格・幕府御用という身分で多くの幕府要人、文人等と交友がありました。

線画上の五大明王をあらわす梵字を仏庵が記したのは明白ですが、「佛庵連梵書」と特記してあるので、
碑の下部の文字が同様に仏庵の書なのかどうかはっきりしません。撰文は楳塢野長(ばいおやちょう)なのですが・・・。
願主の星野一楽・石匠窪世祥・書家中村仏庵らは、星野一楽の句碑 でもコンビを組んだ知己の仲、
この五大明王の石碑の文字は、梵書だけでなくすべて仏庵の仕事と考えてもよさそうですがどうなのでしょう。

もうひとつ、線画の左に刻まれた文字。「痴□道人保画」のように見えます。無論、雅号ですが、これはいったいだれでしょう。
第一線級の書家・石匠たちにふさわしい技量を持った著名な画師と思えるのですが…。

さらにもうひとつ基本的な疑問がありました。
この碑は、水神の線画といい、「水神宮」に関する撰文といい、タイトル的には「水神の碑」が妥当かと思います。
それなのに、なぜ「五大明王」の梵字を筆頭に刻んでいるのでしょうか。これがよく分かりませんでした。

調べてみると、五大明王とは、不動明王を中心に位置し、東に降三世(ごうざんぜ)明王、南に軍荼利(ぐんだり)明王、
西に大威徳(だいいとく)明王、北に金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王を配すものと言われます。
五大明王の中心的な存在が「不動明王」ということで、これが水神と深い関りがあるというのです。
えっ?不動明王像は、背後に火焔光を背負ったものが特徴で、水より火のイメージが強いわけですが・・・。
どうも、いまひとつ理解できていないようで。宿題ですね。(14/06/05 追記)

稲荷大明神1

明王の石碑の隣は、小ぶりな稲荷大明神の石祠が2基見つかりました。そのひとつが以下。下中央は左側面、右は右側面。
表面は「稲荷大明神」。左に「明治廿九年五月」つまり明治29年(1896)5月建立。右の「荒木重吉」が願主でしょうか。

稲荷大明神1 稲荷大明神1左側面 稲荷大明神1右側面

本体: 高50cm、幅24cm、厚11cm。

稲荷大明神2

稲荷大明神2

最初に撮影した時のものが左写真。
表面上部に「稲荷大明神」はいいとして、
右方が「寛政十」と読んでしまいました。しかし、その下に干支が記されています。
後日撮った写真では、「寛政十□庚申」と読み込めます。
ということで、本石祠の造立は、「寛政十二庚申」で寛政12年(1800)。
左方に「九月九」が見えます。

前記の稲荷大明神とあわせてこの2基は、金毘羅大権現というより、
「水神宮」の境内社と考えた方がいいように思います。
水神と稲荷はご利益的にも相性はいいでしょうし・・・。

本体: 高45cm、幅34cm、厚24cm。

水神宮

水神宮の石祠

ひときわ大きい立派な水神宮。上部笠の幅は70cm以上。
本殿石祠は一般に鞘堂に鎮座され、見られない場合が多いのですが、
それでも、このように大きいものは珍しいかと思います。
それだけ、この水神への尊崇は大きいものだったということでしょう。
本来は、鞘堂や拝殿なども建てられていたのかも・・・。

扉が開かれていて中に石が安置されています。
五輪塔の一部でしょうか。「水輪」?

向かって右の扉に「水」、左の扉に「神」とあるので、
水神を祀ったものであることが分かります。

本体: 高114cm、幅71cm、厚61cm。

扉に「水」 扉に「神」
水神宮左側面 水神宮右側面

石祠の左右側面に文字が刻まれています。

右側面は、「社主 徳万寺」「建立施主賢栄

左側面には「遷宮施主 布川布佐檀那
延宝二甲刁十二月日」の銘。
延宝2年(1674)12月の建立です。
「刁」はチョウと読み「寅」の異体字ですが、
日本だけのもので本来「刁」と「寅」は別字。

「賢栄」は、「徳満寺2の三峯社」でも登場。
延宝4年(1676)に三峰社の石祠を造立、
まさしく同一人物です。この石祠も巨大。
馬頭観音堂」の「賢栄」は別人のようです。

徳満寺は元亀年間(1570〜1572)の開山、
その100年後にはすでに、
水神宮が存在していたというわけです。
遷宮」というのもちょっと気になります。
どこかから遷したのか単なる勧請なのか…。

43段の石段

石段は43段

二の鳥居の先には、最後の石段が続いています。
こんどはちょっと段数も多く、43段。
でも、1段1段の高さは低いのでなんとか。
足の長いあなたにはかえって上りにくいでしょうか?

30段近く上ると、右手に・・・。

八坂神社

八坂神社

階段途中で右横を見ると
また鳥居があります。
これも明神鳥居ですが、
その額束を見るとなんと
八坂神社の神額がかかっています。

また奥の拝殿らしき建物には
厳重にカギがかかっています。
なにか大切なものが入っている?

八坂神社神額

ちなみに八坂神社の祭神は、建速須佐之男神(たけはやすさのおのかみ)。もとの祭神は祗園天神・牛頭天王。
琴平神社のなかに八坂神社の出張所みたいのがある、こういうところが神社って不思議だと思いますね。

境内社とは

調べてみると、この八坂神社のような存在が分かりました。
こうしたものを境内社といい、摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)があるそうです。
祭神の親戚筋を祀るものを摂社、別の神社から勧請された神を祭るものを末社と呼びます。
勧請(かんじょう)とは祭神を招くことを言います。摂社と末社がいくつも並ぶ大きな神社もあります。
はたして、ここの琴平さんと八坂さんは親戚や否や→ この場合は「末社」でしょうね。

歴史民俗博物館の人に聞くと、琴平神社には実はもっとたくさんの境内社があるのだそうです。
探してみてくださいって、えーと、さきほどの空き地の石祠なんかもそうなのでしょうか?
水神宮は琴平神社の境内社なのかどうかは疑問です。そうなると、稲荷大明神の2基の石祠も、
琴平神社の境内社というより、水神宮の境内社のような気もします。
以下で紹介する「疱瘡神」の石祠以外にもっと見落としている石祠があるのでしょうか?

石鳥居寄附者連名碑

八坂神社鳥居の右脇の崖上に立っているのが、「奉納」の題額が彫られた「石鳥居寄附者連名」碑。
この場所に建てられているということはてっきり八坂神社前の細身の鳥居に関するものと思いきや、
碑陰(下中央写真)を見てみると、「大正拾年八月吉日建之」つまり大正10年(1921)8月とあります。これはどこかで・・・。
前述「二の鳥居」の建立年月と同一ではないですか!八坂神社の鳥居も全く同時期という可能性は・・・ないですよね。
二の鳥居 の側に建てるべきなのでしょうが、もしかすると寄附者連名碑が先で、八坂神社勧請はその後なのかも・・・。

さて、碑陰の左下に小さく刻まれた文字(写真右)。これを撮るのに苦労しました。「東京南千住 石工師 酒井定吉

本体: 高99cm、幅37cm、厚10cm。

鳥居寄付連名碑 鳥居寄付連名碑碑陰 鳥居寄付連名碑碑陰左下拡大

[碑表]

石鳥居寄附者連名
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□一金拾円当町卋話人石井末松
一金百七拾五円当甼主唱發起人大谷清蔵□□一金五円□□□東京□□島村嘉助
一仝百七拾五円□□主唱發起人宇佐美 モ ト一仝五円□□□□□□大谷芳松
一仝五拾円□□□卋話人□□□□□□豊島 ヤス□□一仝五円□□□□□□宮田仗助
一仝五円□□□□大社村運搬者□□□椎名寅吉□□一仝五円□□□□□□山本冨蔵
一仝拾五円□□□東京□□□□□□□小菅淺次郎一仝五円□□□□□□小久保ハナ
一仝拾円□□□□□□□□□□□□志村徳蔵□□一仝三拾五円横濱□□宍倉右エ門
一仝拾円□□□□□□□□□□□□伊藤勝蔵□□一仝拾円□□□□□□伊藤仙助
一仝拾円□□□□□□□□□□□□柑本菊□□□一仝五円□□□房州□□觀音九
一仝拾円□□□□□□□□□□□□粉川友吉□□一仝五円□□□□ ノ口鈴木芳蔵
一仝五円□□□□□□□□中野仙吉

冒頭の「石井末松」氏は、石段途中の 庚申塔1 にも名前がありました。
この碑の「主唱発起人」は、『利根町史』に記された宇佐美モトだけでなく、大谷清蔵も名を連ねています。
布川よりも、東京や横浜などから寄附が集まっているのはどういう理由でしょうか。

疱瘡神

八坂神社拝殿左に見つけました。利根町では他には「惣新田」「押付本田水神宮」での発見で現在3基。(13/10/22 現在)

疱瘡神 疱瘡神石祠右側面 疱瘡神石祠左側面

疱瘡とはつまり天然痘のことで、これを擬神化したものです。祭神は「天然痘を退治する神」というところです。
石祠左に「内宿講中」とありますが、内宿とは、布川のこの近辺の地名です。昔、天然痘が流行って苦しんだんでしょうね。
現代はワクチンのおかげで撲滅していますが、つい最近、少なくとも明治時代まではとても恐ろしい病気でした。
拝殿前の大きな賽銭箱の背後に回り込んで石祠の左側面を見ると「弘化四未十二月吉日」。弘化4年(1847)12月建立。
(苦労して覗き込んでもなにもなし、空振りに終わることも多々。文字が見えても読めないことも。これはうまく撮れました)
天保9年(1838)、当時住んでいた土浦から生まれ故郷の布川、おそらくこの近辺に戻ってきた医師赤松宗旦。
弘化4年は働き盛りの42歳。死の病を目の当たりにしながら、どんな思いで『利根川図志』構想を描いていたことでしょうか。

本体: 高69cm、幅45cm、厚14cm。

石段を上り終えて境内へ

石段から境内へ 石段上境内から二の鳥居、八坂神社を見る

八坂神社を後にするともう石段は残りわずか。頂上はもうすぐ。登り切った上が、琴平神社の境内になります。
上の右写真は、石段最上部の境内から二の鳥居、八坂神社を見下ろしたもの。
神社境内に行くには、入口からここまで石段を上ってくるより、先の掘割のほうから来たほうがラクだとは思いませんか?

拝殿と本殿

境内・参道

境内と参道

正規の石段を登りきった上で左を向くと、
つきあたり奥に拝殿が見えます。
ここが琴平神社の境内になります。

小さな境内ですが、短いながらも、
いちおう拝殿までは「参道」と言っていいようです。

タヌポンはこの参道両サイドにある石碑等には
最初、あまり注意を払いませんでした・・・。
しかし、そこには小林一茶の句碑が立っていたのです。
これはこの後、金毘羅相撲の項目で紹介します。
左に見える建物は社務所のようです。
祭礼日以外はほとんどいつも閉まっています。

拝殿

拝殿

中央に賽銭箱、左右に、
1対の雨水枡が設置されています。
左枡の前に置かれているのは
金毘羅大権現と記された
旧神額のようです。右は・・・(次項目)。

拝殿の中は・・・以下。
利根町指定有形文化財の
絵馬・篆額は見当たりませんね。

拝殿内部

水神宮の神額

水神宮の神額

右側の雨水枡の前に置かれた神額はなんと「水神宮」でした。
これはどういうことでしょう。
琴平神社が以前は水神宮であったとは思われません。

神額は鳥居があってはじめて機能するものです。
とすると、「この神額の付いた鳥居が設置された水神宮」が
この近くにあった、ということなのではないでしょうか。

先ほど、石段の中腹で 水神宮 の石祠を発見しました。
昔は、あの石祠の前にこの神額を配した立派な鳥居が
建てられていたのではないでしょうか。
そうでなければこの神額の存在意義が考えられません。

雨水枡

雨水枡(右)

よく見るとこの雨水桝もなかなかいい味を出しています。
拝殿に向かって右のほうですが、2014年5月撮影。
なぜかこのときは上の水神宮神額が消えています。
(裏面を調べたかったのに・・・紛失しては後の祭り)

それはともかく、「奉献」と記され、以下、左がその背面。
當町 よね屋 伊藤斉太郎」「大正八年
拝殿に向かって左のもう一対の背面は、下右写真。
當町 白井安太郎

いずれも大正8年(1919)同時に奉納されたものでしょう。
名前の文字が紅白に色分けされていますが、
雨水桝自体はどんな色だったのでしょうか。

雨水枡(右)裏面 雨水枡(左)裏面

本体: 高66cm、幅77cm、厚77cm。台石: 高8cm、幅92cm、厚92cm。

祭礼時

左は、元旦の初詣時。右は、9月の金毘羅相撲開催日。さすがに拝殿そして社務所も開かれています。
ちなみに、琴平神社の祭礼は、2月10日。例大祭は、9月10日ですが、少年相撲の関係で9月末の休日となっています。

初詣時の拝殿 本殿初詣

竹に綯った注連縄

注連縄

神社に注連縄はつきものですが、
よく見るといろいろな種類があります。
しかし、琴平神社の拝殿にある注連縄(しめなわ)は
竹の棒に縄を綯(な)っていくという
とても珍しいものなのだそうです。
(でも 布川神社の注連縄 も同じような気がしますが・・・)

神社には、参道では左側通行とか、
右・左ということに関していろいろ決まりがあり、
この注連縄も時計回り、つまり左綯え(ひだりなえ)に
稲藁を綯っていくということです。

注連縄とは

注連縄とは、それを張ったところから奥が聖域であるということの目印を示すものです。
もし注連縄がある鳥居があれば、それから奥に参道がある場合、店など置いてはいけない決まりになっています。
また注連縄などについている紙のことは紙垂(しで)と呼びます。そして紙垂は4垂と決まっています。
注連縄の注連(ちゅうれん)とは、中国で死霊が入り込まないように水を注いで清め連ね張った縄を意味している、
ということです。(語源由来辞典 より)

木鼻と紅梁

左は木鼻(きはな)、右は紅梁(こうりょう)。
紅梁とは、柱と柱に通した梁のことで、この紅梁の突き出した両端に彫刻を施したものを木鼻といいます。

木鼻左 紅梁

篆額

篆額

琴平神社には有形文化財指定の
書家杉野東山による篆額が奉納されているといいます。
左の写真のように神社拝殿上部に掲げられたものも
篆額らしきものなのですが、どうもこれではないようです。

まさに篆書体というべき「奉献」の文字に、
時安政六年歳次」「己未正月吉祥日
東桺謹書」「施主榎本治助」とあります。

杉野東山のものは天保15年(1844)作ということですが、
これには安政6年(1859)なのでちがいます。
東桺(桺=柳)というのは初めて見ますが東山の別号とか?
(13/10/22 追記)

ちなみに篆額とは、碑などに篆文で書いた題字て、建物名などを木板に彫刻して神社や寺の軒下に掲げたもの。
いわば額縁の始まりというようなものでしょうか。

杉野東山篆額

杉野東山篆額

さて文化財の篆額はどこにあるのでしょう?
以下のリンクで見ることができましたが、左にちょっと拝借。
やはり、上の写真の篆額とは似て非なるもの、という感じですね。
→ 利根町公式website 杉野東山篆額(すぎのとうざんてんがく)

この額の裏面には、「天保十五(1844)甲辰盂春、彫工塗箔、押戸村 杉山林哲、同宗哲」と記されているとあります。
このなかで「盂春」とありますが、これは「孟春」の読み(または書き)まちがいではないでしょうか。「孟春」なら正月の意味。
「盂春」とは、ちょっと聞いたことがありません。それとも、tanupon の認識不足でしょうか。

杉山林哲

さて、押戸村 杉山林哲ですが、平成11年(1999)発行の『利根町史』第6巻に新しい事実が発見され記されています。
林哲は、大平神社の お大平様伝説 「1.大平さまと水神さま」の「河牛に乗った水神像」を彫った大仏師と言われていました。
子孫がこの地にいないため、林哲の詳細が不明でしたが、最近、彼が再興した仏像の胎内から、1枚の墨書紙片が発見。
これにより、林哲が明和6年(1769)生まれで、押付新田の水神像は彼の39歳時の作であることが判明しました。
額部に3眼、頭部に5匹の蛇を絡ませた王冠を被らせ、右手に剣、左手に竜索、金色の亀甲に吉祥座を組ますという、
伝説に基づいて忠実に再現したもので、大きめの岩座のくりぬかれた部分に右角の欠けた潜牛が据えられています。

このほかにも、林哲の手になる仏像や神像が以下のように明らかにされています。

地域・安置場所 神像・仏像名 作像年 備考
押戸、毘沙門堂 毘沙門天立像 文化11年(1814)
沼南町、竜泉院 子安地蔵菩薩立像 文化14年(1817) 現在、千葉県柏市泉81
沼南町、竜泉院 阿弥陀如来立像 文政2年(1819) 再興(胎内に墨書紙片)
東奥山新田、水神社 水神半跏像 文政3年(1820)
大房、薬師堂 脇侍の日光菩薩・月光菩薩を
従えた薬師三尊像と十二神将
文政5年(1822) 大房、薬師堂
沼南町、竜泉院 出世大黒天 文政6年(1823)
立木、薬師堂 薬師如来座像 文政11年(1828) 再々興・通称野良薬師
布川、下柳宿集会所 毘沙門天立像 天保7年(1836) 元、極楽寺
藤代町、能場不動堂 木造不動明王 天保9年(1838)
布川、琴平神社 杉野東山篆額 天保15年(1844) 利根町指定文化財
沼南町、竜泉院 宗祖・開山・大権・達磨像 嘉永3年(1850) 林哲82歳時

林哲は、父の林営、子の宗哲と3代にわたる仏師であったことから、杉山家は「仏師屋」と呼ばれていました。
宗哲の作品では、以下の3例が確認されています。

地域・安置場所 神像・仏像名 作像年 備考
押戸、毘沙門堂 毘沙門天立像 安政3年(1856) 再興
我孫子市布佐 馬頭観世音菩薩像 万延元年(1860) 所在地不明
沼南町、竜泉院 子安観世音菩薩座像 文久3年(1863) 現在、千葉県柏市泉81

ちなみに墨書紙片が発見された仏像のある竜泉院は、我孫子市、鎌ヶ谷市、松戸市に挟まれた旧千葉県東葛飾郡沼南町。
この沼南町は平成17年4月1日、柏市と合併し、竜泉院の所在地は千葉県柏市泉81に。上記は平成11年現在のデータ。
また、当初、押戸に杉山林哲の子孫がいないため云々とありましたが、住宅地図には杉山家が何軒か見つかりますし、
一昨年の蛟蝄神社例大祭時に、母方が押戸の杉山林哲の子孫と言われる東京在住の女性にお会いしたこともありました。
そのときは、杉山林哲に関してあまり知識がなかったため詳しくは聞けませんでしたが、いつかお尋ねできる機会も・・・。

(13/06/25 追記)

由緒書額と句額

琴平神社の由緒等が記された比較的新しい額も掲げられていました。内容は町史と同様で、『香取家文書』によるものです。
ほかに、写真右のような句額も掲げられていますが、達筆で読めません。でも、まあ少し解読してみました。
者うちハの 風を楚ろ敷 茂可な」は「葉団扇の 風恐ろしき 茂かな」?(金毘羅の眷属として天狗がいます。その関連か)
嘉永三庚戌八月」つまり嘉永3年(1850)8月。「□(錚)江(花押?)」の作者のくずし字が読めません。(13/10/22 追記)

由緒書き額 句額

本殿

拝殿の後ろは本殿。流造り、瓦葺です。祭神は、大物主命(おおものぬしのみこと)。
この中に文化財の篆額や絵馬が保管されているのでしょうか。

本殿 本殿

幣殿

改築された幣殿

拝殿と本殿をつなぐ幣殿。
最近(2011年1月現在)、改築・補修されたようです。
といっても、しばらくここまで確認していませんでしたけど。

琴平神社の絵馬

琴平神社に奉納されている絵馬は3点あり、いずれも利根町指定有形文化財となっています。

名称 作者 年代 寸法cm(縦×横) 備考
布川河岸図 太助 天保14年(1843) 91.0×181.0 利根町指定有形文化財
水難救助図 杉野崇雲 嘉永4年(1851) 110.0×147.0 利根町指定有形文化財
搾油図 文政13年(1830) 74.0×153.0 利根町指定有形文化財

布川河岸図(ふかわかわぎしず)

布川河岸図

江戸時代、利根川水運の要所として
賑わいをみせた布川。
「布川河岸図」では、
当時の布川の活況の様子が、
多くの高瀬舟でうかがえます。
山の上には琴平神社も見えます。

絵馬の裏面には、
当時の河岸関係者と思われる寄進者が
連名で140名記されており、
願主は「源七」となっています。

水難救助図(すいなんきゅうじょず)

水難救助図

杉野嵩雲が描いた「水難救助図」の絵馬。
琴平神がおぼれている子供を救う様子が描かれています。
嘉永4年(1851)琴平神社に奉納されたものです。
子供がおほれているのは、やはり利根川でしょうね。
大きな舟が行き交う水深の深いこの川では、
水難事故も多かったと思われます。

なお、この絵馬の背景上部には、
金箔を押した痕跡が残っています。

奉納者は、伊勢屋嘉七。

搾油図(さくゆず)

搾油図

琴平神社に奉納されている「搾油図」の絵馬。
当時の搾油作業が生き生きと描かれています。
しかし、この「搾油図」が杉野嵩雲作とは
利根町の絵馬展のパンフレットには記されていません。
(利根町教育委員会編集発行= 05/02月開催時配布)
でも実家が搾油業であるなら
彼の絵である可能性は高いのではないかと思いました。
しかし、みる人が見ると嵩雲はもっと上手なのだとか。

奉納 文政庚寅初冬 良旦。奉納者として、油職人中。
世話人に、川俟 栄蔵・稲邨 孫七・羽中 喜右衛門・当處 晋五郎・宮淵 善兵衛の名が記されています。(13/06/24 追記)

下総諸家小伝と杉野東山・嵩雲

下総諸家小伝と杉野東山・嵩雲

天保14年(1843)に女貞園が上梓した『下總諸家小傅』(以下『小傅』)に、
杉野東山・嵩雲兄弟が、並んで掲載されています。

『下總諸家小傅』

『小傅』は、利根川流域の文化人列伝とも言えるもので、
流山から銚子に至るまで、とくに布川・布佐河岸中心に、
俳諧・国学・医師・和歌・挿花ほか多種に亘って、
秀でた人物を50音順に100名取り上げています。
杉野東山・嵩雲は51・52人目に挙げられています。


布川の杉野利恭。字は原父、東山と號す。又耕
硯堂の號あり。書をよくす、八躰を得たり。

今宮の杉野忠吉。通稱は嵩雲、松替と號す。丹
の技を善す。兼ねてその説に詳し。東山の弟。

八躰(はったい): 漢字の8種の書体。諸説あり、漢代の「説文解字」では、秦の八体として大篆・小篆・刻符・虫書・印(ぼいん)・署書・殳書(しゅしょ)・隷書を挙げる。(大辞林) ※ 今宮(いまみや): 銚子の内。※ 丹青(たんせい): 絵の具。彩色。絵画。また、絵の具で描くこと。たんぜいとも。(Kotobank) (13/10/22 追記)

境内その他の施設

手水舎

手水舎

拝殿の右手前には手水舎があります。
写真の奥のほうは、徳満寺への抜け道。
少し行った左に掘割に下りる階段があります。

本体: 高36cm、幅80cm、厚37cm。
台石(×2): 高20cm、幅13cm、厚32cm。

手水石 手水石右側面

手水石表面は、彫の深い「御寶前」。

左写真は、右側面で、
折戸酒や 源心
と彫られているようですが
詳細は不明です。
「折」は「杉」のようにも見えますが、
折戸なら大房にその地名があります。

境内左手の石祠など

境内左手の石祠など

石段から境内に入ってすぐ左手には、
最初訪れたときに見逃していた
石祠や灯籠、石碑などがあります。
写真中央は小林一茶の句碑ですが、
これは後半の金毘羅相撲で紹介します。

常夜燈1

常夜燈1

崖を背後にしてそびえたつかなり大きな常夜燈です。
見上げるほどですから2メートル以上あるでしょう。
笠石の正面に「常夜燈」と彫られています。

常夜燈1笠石正面拡大

台石の左側面(下左写真)には、
六軒 願主 石井彌助」。
利根町福木の小字名に五軒屋が
ありますが、この場合の六軒は、
印西市の地名と思われます。
利根町大房に、六軒党という、
名士集団もいたようですが・・・。

裏面(下右写真)には、
文久三亥年六月吉日」。
文久3年(1863)6月の建立。

測ってみると、284cmでした。

常夜燈1左側面 常夜燈1裏面

稲荷神社

稲荷神社

上記常夜燈の左に置かれている石祠。
石段途中の空き地などで無造作に置かれていたものに比べて、
このようにしっかりと設置されていますので、
なんらかの由緒が分かっているのかも知れません。
でも、石祠本体からは神社名はなにも読み取れませんが・・・。

石祠背面(下左写真)に、「文政七甲申年二月初午」、
文政7年(1824)の建立銘が見えます。
しかし、「2月初午」で、これが稲荷神社であることが明白になりました。
というのは、2月最初の午の日が、お稲荷さんの誕生日とされているからです。
和銅4年(711)に、京都伏見稲荷大社の祭神、宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)が
伊奈利山に降り立った日であると伝承されているのです。

また両サイド(下中央・右)にはキツネのレリーフがあるので、
稲荷神社であることは間違いありません。
しかし、台座正面の「谷津氏」は不明。

高102cm(台石含)。本体: 高37cm、幅24cm、厚21cm。

稲荷神社石祠背面 稲荷神社石祠左側面 稲荷神社石祠右側面

常夜燈2および3

手水舎の右には常夜燈が2基並んでいるのですが、右の1基は震災前から上部が破損していました。(下左写真)
そして2014年5月末現在は、すべて倒壊して、右下写真のような状況です。

震災前の常夜燈2および3 震災前の常夜燈2および3

皮肉なことに元々上部が欠損しているほうが、以下の写真で建立年等が読めます。

常夜燈3側面 常夜燈3側面

安永七戊戌年二月吉日
施主 嶌弥□□ 石□忠□
願主 渡辺源四郎 同 源藏
安永7年(1778)2月の建立。

いちばん右の写真は、
倒壊した常夜燈のほうでしょうか。
栄村 木村惣右衛門」が見えます。

常夜燈3側面

空居心経碑

書家杉野東山銘がある心経(しんぎょう)の碑。銘が記された碑の裏を見ると、文政10年(1827)。
現代人にも馴染みのある般若心経、当初、碑陰にあるように杉野東山が揮毫したものと思っていたのですが、
表面の銘文最後に「空居」と記されていることから、空居心経碑と呼ばれ、空居の揮毫とされています。
空居については詳細が分かっていません。さる「やんごとなき方」という説もあります。

碑の願主に渡邉彦七と併記して星野一楽(甚兵衛)の名があり、また江戸一の名匠「窪世祥」が手がけた作品です。
この石碑は、町の文化財の「筆頭」として指定すべき価値のあるものですが、“当局”は何を考えているのか無指定です。

→ 総州六阿弥陀詣 金毘羅神社の心経の碑 参照。

本体: 高161cm、幅96cm、厚23cm。

心経の碑 心経の碑、碑陰

以下は、碑陰の銘文。濱宿に「古田善兵衛」とあるのは、古田月船 ということが判明しています。

奉献金毘羅大權現□□□□□□□□□□□□□心経講中
宿大谷治右衛門□□玉村清右衛門□□中野徳右衛門□□植村七兵衛□□山崎傅兵衛
□□□□□荒木□□高津半四郎□□谷津茂兵衛□□渡辺源兵衛□□星野長兵衛
□□□□□杉野源助
宿新井治部右衛門市澤□□伊八□□鳥居清□六□□玉邑市兵衛□□草河仁右衛門
□□□□□古田善兵衛□□玉村嘉兵衛
宿新井又兵衛□□杉野太兵衛□□坂戸金兵衛□□小宮山伊兵衛□□玉邑長九郎
上柳宿渡邉與四兵衛□□辻内利兵衛□□杉埜忠右衛門□□中嶋□□源蔵□□今井半四郎
□□□□□石川□□酒巻弥右衛門□□渡辺清兵衛□□渡辺□□平吉
下柳宿久保田太右衛門酒巻弥兵衛
香取源右衛門□□香取治左衛門□□香取□□新兵衛
宿埜澤藤兵衛

□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□渡辺□□□彦七
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□星埜□□甚兵衛
□□□文政十年丁亥秋八月吉辰建焉□□□東山杉埜利恭書
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□江戸窪世祥刻

力石

力石

心経碑の隣に大きな石がたくさん置かれていました。
これらは、奉納された力石(ちからいし)です。

大きさからみると、これらも、
前述、入口の巡拝・道標塔背後の さし石 でしょうか。

この石を高く「差し上げて」力自慢をしたようです。
金毘羅相撲で大関などがこの地に来たということですから、
力士同士で競ったのかも知れません。

6基ほどあるようですが、文字が刻まれたものを以下、紹介します。

力石 力石

左は「奉納 ㊎ 六軒 関口千藏」、
右は「㊎ 奉納 目方二十八〆目
押附 豊嶋勝太郎
」。

〆は「貫」の略字です。とすると、
3.75kg×28=105kg おっと、
これはさし石ではなく力石ですね。

㊎マークはどういう意味でしょうか。
なんとなく想像はできますが・・・。

本体(左): 高23cm、幅41cm、縦62cm。
本体(右): 高27cm、幅36cm、縦60cm。

力石 力石

左は「㊎ 押付 岡見米吉」、
右は「奉納 明神石 四十貫」。

明神石というのも、
なんとなく分かるような・・・。
40貫とはこれは重いですね。

本体(左): 高18cm、幅26cm、縦28cm。
本体(右): 高24cm、幅43cm、縦73cm。

他の2基(力石は個?)は、『茨城・栃木の力石』(高島愼助著・岩田書院刊)に詳細が出ていましたので、以下、紹介します。

●「奉納 布川町 □村助次郎」  本体: 高20cm、幅30余cm、縦73cm。
●「六軒 秋□藤吉」  本体: 高15cm、幅38cm、縦56cm。

★ ㊎マークは、ほかの地区ではどうも見当りません。とすると、これは「金」毘羅大権現への奉納の意味ではないでしょうか。

金毘羅相撲(角力)

土俵

琴平神社と利根町役場の中間地点に
金毘羅相撲の土俵があります。
ふだんは以下↓のようにシートがかけられています。
背景に見えるのは利根町役場です。

土俵
階段から土俵方向を

左は掘割の階段から土俵方面を見た写真。

昔、金毘羅角力と呼ばれるイベントが毎年8月10日(旧暦)に盛大に行われました。
それが布川琴平神社の奉納相撲で、現代も引き継がれ、
子供中心の相撲大会になっています。

相撲大会の模様を取材しました → 琴平角力

高瀬舟

高瀬船

奉納相撲は、寛政7年(1795)から始められましたが、
当時の布川は、近くの利根川に高瀬舟が
毎年1000艘も行き交うという水上交通の要衝の地でした。
利根川は西廻り航路、江戸大阪航路と並ぶ
近世3大航路のひとつで、高瀬舟はなくてはならない存在。
急流で川底が浅い日本の河川の特徴にあわせて、
船底を扁平にしきっ水を浅くした平底縦長に設計されたものです。
「米5、6百俵を積むもの常なり…」と『利根川図志』にあります。

写真は利根町歴史民俗資料館に展示されている高瀬舟の模型。

鉄道、クルマ社会が発達した現在とちがい、布川は当時は有名ないわば「港町」のようなものだったのでしょう。
さもなければ当時の最高位の大関や花形力士などがここにくるわけありません。町民の鼻息も、さぞや荒かったことでしょう。
さらに赤松宗旦の記録では、金毘羅相撲にも触れ、「詣人村々より来りて雲の如く」とあります。
いかに盛大であったか分かりますね。また、見物人が群れを成している様を小林一茶が句にしています。それが、以下。

小林一茶の句碑

一茶は当時、何回も布川を訪れていて来見寺などでも句を残しています。

べったりと人のなる木や宮角力・・・文化14年(1817)作

この句碑が、琴平神社の正規の入口から石段を登って拝殿に向かう参道の左手に立っています(以下の写真)。
また「正面は親の顔なりまけ相撲」の句もあり、先ほど紹介した子供相撲も同時開催されていたことが分かります。

句碑 句碑解説

さて、現在の金毘羅相撲は旧暦の8月10日に合わせたのか、9月後半の祝日に開催されています。
・2005年の金毘羅相撲のもようはこちら 「琴平角力」
・句碑の右隣にも石碑があり、空居心経碑 と呼ばれています。(「総州六阿弥陀詣」一番徳満寺の項目参照

[碑陰]

句碑 碑陰

べったりと人のなる木や宮角力 一茶
碑表は一茶自筆 七番日記
文化十四年(一八一七)八月

昭和六十三年(一九八八)九月二十三日建之
一茶の句碑を建立する会
施工 雑賀石材店

本体: 高161cm、幅96cm、厚23cm。

ことひらか、こんぴらか(2)

さて、最初のこんぴら、ことひらの話に戻ります。

こんぴらの語源

こんぴらという言葉は調べてみると、サンスクリット語(梵語)の kumbhra (クンピーラー)からきているようです。
クンピーラーとは、インド ガンジス川の鰐(わに)が神格化されて仏教の守護神となったもので、
薬師十二神将の宮毘羅(くびら)にあたります。

十二神将

ここで、参考まで、薬師如来を信仰する者を守護するという十二神将を紹介します。
十二というからには干支が関係してくるのが想像できます。
十二神将は十二夜叉大将ともいい、それぞれ7千、総計8万4千の眷属夜叉を率いて
薬師如来を信仰するものを守る武神ということです。

  1.     子    宮毘羅大将 (くびら)
  2.     丑    伐折羅大将 (ばさら)
  3.     寅    迷企羅大将 (めきら)
  4.     卯    安底羅大将 (あんてら)
  5.     辰    頞你羅大将 (あにら)
  6.     巳    珊底羅大将 (さんてら)
  7.     午    因達羅大将 (いんだら)
  8.     未    波夷羅大将 (はいら)
  9.     申    摩虎羅大将 (まこら)
  10.     酉    真達羅大将 (しんだら)
  11.     戌    招杜羅大将 (しょうとら)
  12.     亥    毘羯羅大将 (びから)

※干支との組み合わせは諸説あります。これは一例。

ワニの「クンピーラー」そして宮毘羅大将の「くびら」の読み方がこんぴらの起源なら、
ことひらというのは後から付けられた当て字のような気がします。

金毘羅の前に琴平?

それなのに、香川県の本家、金刀比羅宮では・・・。
当初、琴平神社と称していたが、本地垂迹説により、金毘羅大権現となり、永万元年(1165)崇徳天皇を合祀した・・・

えっ、やっぱり琴平が先なの?もう、何だかわけが分からないです。
その「当初、琴平神社」にしても、ことひらと呼ぶのか、琴平と書いてもこんぴらと呼ぶのか?まったくややこしいですね。
漢字と読み方それぞれどっちが先でどっちが正しいのか、はっきりしてもらいたいと思うのですが・・・。

象頭山は琴平山

あーーーあ、考えてても分からないから、歌でも・・・

♪こんぴら 船々 追手に帆かけて シュラシュシュシュ
廻れば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現
一度まわれば〜♪

ところで、この象頭山(ぞうずさん)も象の頭に形が似ているからそう呼ばれているそうですが、
正式には「琴平山」というそうです。

!!!

で、その「琴平山」は、ことひらやま?それとも、こんぴらさん?

ことひらか、こんぴらか(3) に続く

利根町役場近辺

金毘羅角力の土俵のすぐ近くにあるポイントを2つ、ここで紹介しておきます。

小久保喜七君頌徳之碑

石碑

金毘羅角力土俵から道路を挟んだ前方のコーナーに建てられています。

小久保喜七は、明治・大正にかけての政治家、自由党員。自由民権運動家。
古河市の第11・12代副議長を務め、明治41年(1908)衆議院議員。
中田、栗橋間の利根川架橋の建設を推進した人物らしいです。

平成4年(1992)の12月、当時、来見寺 境内にありましたが、
傾いて危険な状態だったので河川整備事業の一環でここに移したとあります。
タヌポンは当時、すでにこの近くに住んでいましたが、
サイト立ち上げ前でしたし、まったく気が付きませんでした。

[碑表]
小久保喜七君頌徳之碑
□□□□□□□□□男爵田中義一書

田中義一とは、第26代内閣総理大臣です。
碑は、大正十五年十二月、大正15年(1926)12月建立で、当時の田中義一は、
高橋是清の後の政友会総裁・勅撰貴族院議員で、翌1927年に総理となり、
田中義一内閣が発足。たいへんな時代の悪評も高い政治家ですが、大物は大物。
こういう人物から揮毫されるような小久保喜七であったということです。

本体: 高270cm、幅156cm、厚17cm。台石: 高61cm、幅260cm、厚87cm と、見上げるほどのかなりの大きさです。

[碑裏]金木犀横、石碑背後の常緑樹の枝が繁茂し、真正面から撮影できません。が、文字は目視できれいに見えます。

小久保喜七君頌徳之碑裏面

利根河發源乎毛越之境東南流朝宗于海長七十餘里其潤土壌通舟楫生育魚蝦之功
固多然洪水亦數有之就中小貝川自常北来會其下河道極窄一旦暴漲逆流横溢懐襄
之勢不可阻遏稲敷北相馬二郡毎被其害自古各邑防備甚苦而不過彌縫一時其定百
世之計除萬世之患者輓近獨有我小久保君耳君名喜七號城南下総国猿島郡新郷村
人距家里許有熊澤息游軒墓少慕其為人喜誦其書頗通治水之理明治四十三年関東
大水利根尤其時君為衆議院議員親往履勘之規書既熟也見内務大臣平田東助進説
太力大臣嘉納之明年諮諸議會君又察汎濫之因専在小貝欲先修治之百方周旋議乃
沢矣於是新鑿河道於上游導而直通之使水勢自順大正十二年竣工下流之民初得高
枕而享水利相慶日比我小久保君之力也屬者二郡人士相謀欲建碑以圖不朽乞序文
仍記其大略如此君弱冠奔走于國事不顧禍難起自茨城県會議員入衆議院毎次當選
併督政友會嘗擧于勅任参事官敍正五位勲三等天資聴敏器識淵深一意奉公而操守
堅確加之辯辭明快衆咸推服焉乎生無他嗜好往往賦詩遺懐寄託微婉不失忠厚之旨
今茲君齢方六十二而気力益旺其事功之可觀者豈止治水一事哉銘曰
□□□關左巨浸馮夷揚波横流之惨瓠子決河或遏或疏既治既補
□□□計軼王景功亜神禹維是偉績聞達孔彰興人攸誦勒傳无疆
大正十五年十二月
□□□□□□□□□□□□宮内省圖書寮編修官正六位久保得二撰
□□□□□□□□□□□□□□□□□宮内屬兼掌典補藤田義彰書
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□大塚兼吉刻

[読み下し文]

利根河は源を毛越の境に發し、東南に流れ海に朝宗す。長さ七十餘里、其の土壌を潤おし、舟楫を通し、魚蝦を生育するの功、固より多し。然れども洪水もまた數これ有り。就中、小貝川は常北より来り會し、其の下の河道は極めて窄く、一旦暴漲すれば、逆流横溢し懐襄の勢、阻遏すべからず。稲敷・北相馬二郡毎(つね)に其の害を被り、古より各邑防備に甚苦しみて一時を彌縫するに過ぎず。其れ百世の計を定め、萬世の患を除く者、輓近獨り我が小久保君有るのみ。君名は喜七、城南と號す。下総国猿島郡新郷村の人なり。家を距(へだ)つること里許、熊澤息游軒の墓あり。少きより其人と為りを慕い、其の書を喜誦し、頗る治水の理に通ず。明治四十三年、関東大水、利根尤なり。其の時君衆議院議員たり。親しく往き履勘の規畫既に熟するや、内務大臣平田東助に見え、説を進むること太(はなは)だ力(つと)む。大臣これを嘉納し、明年諸議會に諮る。君又汎濫の因は専ら小貝に在るを察し、先ずこれを修治せんと欲す。百方議を周旋し、乃ち沢ぶ。是に於て新たに河道を上に鑿(ひら)き、游導してこれを直通し、水勢をして自(おのずか)ら順ならしむ。大正十二年竣工す。下流の民初めて枕を高くして水利を享くるを得、相慶びて曰く、比れ我が小久保君の力なりと。屬者二郡の人士、相謀りて碑を建て以て不朽を圖らんと欲し、序文を乞う。仍(よっ)て其の大略を記すること此の如し。君若冠にして國事に奔走し、禍難の起るを顧みず。茨城県會議員より衆議院に入り、毎次當選し、併せて政友會を督す。嘗て勅任参事官に擧げられ、正五位勲三等に敍せられる。天資聴敏、器識淵深、一意奉公にして操守堅確、加之辯辭明快、衆咸(みな)推服す。生れてより他に嗜好なし。往往にして詩を賦して懐(おもい)を遣り、微婉を寄託し、忠厚の旨を失わず。今茲に君齢方に六十二にして気力益々旺(さかん)なり。其の事功の觀るべきは豈治水の一事に止まらんや。銘に曰く、

關左の巨浸 馮夷波を揚ぐ 横流の惨 瓠子河を決す 或は遏(とど)め或は疏(とお)す 既に治め既に補う 計は王景に軼(まさ)り 功は神禹に亜ぐ 維れ是の偉績 聞達孔彰なり 人を興し攸(ここ)に誦す 勒して无疆に傳う

大正十五年十二月

宮内省圖書寮編修官正六位久保得二
宮内属兼掌典補藤田義彰書
大塚兼吉

[語意]
朝宗(ちょうそう): 多くの河川がみな海に流れ入ること。(goo 辞書)
舟楫(しゅうしゅう): 1 ふねとかじ。また、ふね。2 ふねで運ぶこと。水運。(goo 辞書)
魚蝦(ぎょか): 魚とエビ。また、魚類一般。(Kotobank)
懐襄(かいじょう): 懐はとりかこむ。つつむ。懐山襄陵=山をつつみ陵にのぼる。(漢辞海)
阻遏(そあつ): はばみとどめること。妨害すること。阻止。(goo 辞書)
輓近(ばんきん): ちかごろ。最近。近来。(goo 辞書)
熊澤息游軒(くまざわ・そくゆうけん): 熊沢蕃山=ばんざん、元和5年(1619)−元禄4年(1691)は江戸時代初期の陽明学者。諱は伯継(しげつぐ)、蕃山また息遊軒と号した。岡山藩初期の藩政確立に取り組み、零細農民の救済、治山・治水等の土木事業により土砂災害を軽減し、農業政策を充実。(Wikipedia)
履勘(りかん): 測量する、実地検査する。
規畫(きかく): はかり定めること。計画。(三省堂大辞林)
平田東助(ひらた・とうすけ): 嘉永2年(1849)−大正14年(1925)日本の明治・大正期の官僚・政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任。山縣有朋の側近としても有名。(Wikipedia)
加之(しかのみならず): そればかりでなく。それに加えて。(Kotobank)
關左(かんさ): 南を向けば東は左であるところから、「関東」 に同じ。(goo 辞書) →素朴な疑問。南向きとする根拠は?
巨浸(きょしん): 非常に多量の水。おおみず。(Yahoo 辞書)
馮夷(ひょうい): 中国の神話にみえる水神。冰夷とも記す。(Kotobank)
横流(おうりゅう): あふれ流れること。勝手な方向に流れ出ること。(goo 辞書)
瓠子(こし): 中国の地名、昔黄河はこの地で決潰。
王景(おうけい): 後漢の王景は汴渠を修復して滎陽から千乗の河口に至るまで流路を改修し、10里に水門を設け分水回注させて洪水を防いだ。(Kotobank)
神禹(しんう): 夏の禹王。治水の神といわれる。
亜ぐ(つぐ): 「継ぐ」と同語源。(Yahoo 辞書)
聞達(ぶんたつ): 世間に名が知れわたること。(goo 辞書)
孔彰(こうしょう): 甚だ明らかである。
无疆(むきょう): 限りがない。(中国語辞典)
久保得二(くぼ・とくじ): 久保天随(てんずい、明治8年(1875)−昭和9年(1934)。日本の中国文学者。本名は久保得二、別号は兜城。台北帝国大学教授などを務め、漢詩の詩作も。1917年から漢詩専門誌で西廂記に関する連載を持ち、1920年には宮内省図書寮の編集官となった。文学博士。(Wikipedia)
大塚兼吉(おおつかけんきち): 布佐の石工に大塚岩吉がいる。親子と推定される。


どうも政治家を褒め称える文は半分にして読んでしまいます。政治とは100:0で賛成という場合が少ないので、
清濁併せ呑む腹芸等が必要になるからかも。まあ、治水に尽力された方と思います。(13/10/22 追記・13/10/19 撮影)

▼ なお、小久保喜七は下総国猿島郡新郷村(現古河市中田)生まれなのにどうしてこの地に碑があるのでしょうか。
この場所は正式には「〆切利根川堤小公園」と言い、治水事業との関連では、碑設置場所として一見妥当とも思われます。
でも実際は、元々来見寺の境内にあったとのこと。来見寺との関連がいまひとつ理解できません。また建立者が不明ですが、
想像するに来見寺との関係が深い利根町の有力者であったと推定します。tanupon の勝手読みでは「小川東吾」あたりかと。
小川東吾なら茨城初の工学博士であり、この碑建立の数年後の昭和5年には 旧栄橋の架橋設計 にも尽力しています。
小久保喜七の土木・治水作業とも結びつきます。そして代々の墓が来見寺にあります。いっぽう、喜七は政治家としては、
自由民権運動とからんで、明治17年の加波山事件、22年の大隈重信狙撃事件等で逮捕されますが、無罪となっています。
加波山(かばさん)事件など、それだけで一冊の本が出ているくらいですからここでは詳細は割愛します。(13/10/27 付記)。

→ この碑は、元来見寺境内にあったものをこちらに移動させたものと聞きましたが、その折なのかどうかは分かりませんが、
大半を破損して新たに作り直した、ということを聞きました。つまり「田中義一」の揮毫もなにも失われて別人が記したとのこと。
以前の碑をよく知る方が「なぜこんなやり方をしたのか納得できない。田中義一書は嘘になってしまう」と酷評されています。
撰文が残っているならもう少し意義のある形に修繕できなかったものでしょうか。これでは誤解を招きます。(14/06/04 追記)。

役場内の稲荷神社

稲荷神社

神額などないのですが、
キツネの置物があるので、
稲荷神社ではないかと思います。

役場移転・新築のときに
一緒に建てられたものと思われます。
役場正面から左手の通路の先に
建てられています。

ことひらか、こんぴらか(3)

いよいよそのときがやってきました。えっ、なにがですって?
もう、みんなどうでもいい、なんて顔をして。もういいかげん、はっきりさせたいとは思いませんか?
ことひらか、こんぴらか、を。ついに、「いちおうの」決着がつけるときがやってきました。

では、結論から申し上げます。

登記上は、ことひら

利根町の琴平神社の正式な名称は、「金刀比羅神社」(ことひらじんじゃ)でした!

偶然お会いした蛟蝄神社の宮司さんにお聞きしましたので、まちがいありません。

でも、ホントのところは、やはり「どっちでもいい、どちらでも問題ない」という、なんともいい加減な答えなのです。
登記上では、金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)としている、ということです。
そう言えば、『利根町史』も由緒額もそうなっていましたね。ふりがなはないけど、漢字は金刀比羅神社でした。
そして、宮司さんはこんぴら神社ではなく、ことひら神社のみの呼称をしていました。

金毘羅大権現の場合は?

でも、大権現が付いた金毘羅、つまり金毘羅大権現は、「ことひらだいごんげん」とは言わないですよね。
そうすると、神仏習合時代の琴平神社は、一時的に「金刀比羅神社」(ことひらじんじゃ)の正式名称を、
まったく忘れてしまっていた、ということなんでしょうか。
一般の人が「こんぴら相撲」「こんぴら大権現」というのは、仕方ないとしても、
当時の神道・神職に就いている人が、金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)を忘れて、
こんぴら神社などと言っていたとしたら、ちょっと問題なんじゃあないかと・・・。

まあ、でもいまは現代。これでいいんじゃあないでしょうか。正式と通称がある、ということで。

ことひらか、こんぴらか。これでおしまいです。


(18/12/22・14/06/05・14/06/04・13/10/27・13/10/22・13/06/25・13/06/24・12/08/30・11/01/25 再構成) (10/01/16・05/11/09・05/04/23・05/03/19) (05/03/12)
(撮影 18/11/27・04/12/23・04/12/25・05/01/01・05/03/19・05/08/20・05/09/19・05/09/23・06/09/16・06/10/08・07/07/28・08/01/02・09/03/17・10/02/19・11/01/02・11/01/24・12/08/13・13/10/19・14/05/30・14/05/31・14/06/01)


本コンテンツの石造物データ → 琴平神社石造物一覧.xlsx (18KB)