タヌポンの利根ぽんぽ行 蛟蝄神社の祭事と記念事業

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目  次



関連リンク


2016年夏、蛟蝄神社奥の宮および門の宮コンテンツの全面的な再編成にともない、
従来の「蛟蝄神社奥の宮」・「蛟蝄神社奥の宮」に加えて、
「蛟蝄神社の祭事と記念事業」コンテンツを新規にUPしました。
内容はタイトル通りで、以下。

  • 蛟蝄神社の祭事
  • 御鎮座2300年奉祝記念事業の経緯

蛟蝄神社は、奥の宮が本社であり、上記の事業や祭事は、
奥の宮を中心に進められていますが、
今後、門の宮の整備についても検討されています。
門の宮に新たに動きが出た場合は、門の宮コンテンツもしくは、
祭事、事業関連は、本コンテンツにて紹介します。(16/09/01)

蛟蝄神社全般の由緒・沿革等については 蛟蝄神社門の宮蛟蝄神社とは をご覧ください。

奥の宮所在地:利根町立木882 TEL:0297−68−7278
門の宮所在地:利根町立木2184 TEL:同上


立木地区周辺地図

蛟蝄神社の祭事

2016祭事予定

▲ 2016祭事予定

蛟蝄神社の祭事として、
奥の宮の参集殿の前に左のような案内がされています。

以前は「夏祭」として旧暦6月15日に、
豊穣を祈って田植えの神事や、祇園祭りとして
神馬を募り競馬を行なった(『利根町史』)とありますが、
現在は行なわれていません。
門の宮にある子供神輿も数年前から途絶えています。
少子化ですし、仕方ありませんね。

さて、蛟蝄神社の最大のイベントは、
秋の例大祭、通称「馬鹿待ち」と呼ばれるもの。
珍しい深夜の神事の魅力が、遠く離れた地域や
都心からの参詣客も呼び寄せています。

元旦祭

「元旦祭」は、一般の人にとっては「初詣」ということで、昨今、神社の進化とともに、年々、参詣客が増えにぎわっています。
御祈祷の常時受付も可能(利根町では蛟蝄神社のみ)になり、厄払いを兼ねての参詣も増えました。甘酒などの接待も。

2016年元旦。参詣客でにぎあう境内

▲ 2016年元旦。参詣客でにぎあう奥の宮境内

奉賛会による甘酒のサービス

▲ 奉賛会による甘酒のサービス。ノンアルコール。


建国紀念祭

建国紀念祭

▲ 旧拝殿前に掲げられた建国紀念祭の案内

建国記念日(2月11日:旧紀元節)には、
氏子総代や利根町長、県会議員等が参加して、
祝詞があげられ、お祓いが行なわれますが、
一般人にはとくにイベントはありません。

わたしたちが参加できるものとしては、
夏越大祓と師走大祓、そして秋の例大祭です。

夏越大祓と師走大祓

茅の輪神事

▲ 大祓え「茅の輪神事」の説明

人は知らず知らずのうちに罪や穢(けが)れを犯し、心身が穢れてしまうといいます。
そこで、罪や穢れを祓い清めるために6月末と12月末に「大祓」を行います。
「形代」(かたしろ)に罪、穢れを移し、茅の輪をくぐり、大祓詞を奏上します。
夏越大祓は、心身が活力のある本来の姿に立ち返り夏を乗り越えるよう、
師走大祓は、新年を清々しく迎えるために神事を執り行います。

茅の輪に設置された「形代」

▲ 茅の輪に設置された「形代」


「茅の輪」潜りのあとお祓いをして、拝殿に。拝殿内では、全員で祝詞を奏上します。(→ 門の宮 大祓詞 参照)

2016夏越大祓の茅の輪

▲ 参道に設置された茅の輪(2016年夏越大祓時)

建国紀念祭

▲ 拝殿で「祝詞」を奏上。2回繰り返し読み上げます。


新しい習慣、夏詣

師走大祓直後の正月「初詣」に対して、夏越大祓の後の「夏詣」(なつもうで)という新しい習慣ができつつあります。
蛟蝄神社では、門の宮の整備とともに「夏詣」を啓蒙・推進していこうと企画しています。

例大祭(馬鹿待ち)

満月が祝う特別な日

満月

▲ 晴れれば「満月」が煌々と冴える日。

蛟蝄神社の最も重要なお祭りとして、
旧暦の9月14日午後10時」に古式にのっとり神事を行います。
以前は「蛟蝄の神馬と鹿島の神鹿との交歓のある日」として
通称「馬鹿待ち(ばかまち)」として親しまれています。

毎年「旧暦9月14日」と決まっていますので、
15日にかけて晴れればかなりの確率で満月となります。
ちなみに14日は仏滅、15日は大安と決まっているのも不思議。

年によって10月初旬から11月半ばと1ヵ月半も、
時期がずれますので、気温的にはかなり差が付く場合もあります。

つい先年までは、15日午前2時からが開始時刻だったとかで、
さすがにそんな時間では参詣客もよほどマニアックな・・・。

馬鹿待ちは婚活の日

『利根町史』によれば・・・。

本来は新嘗の直会であったものが燿歌(かがい)として若い男女に伝承され、嫁聟選びの日ともなった。

燿歌(かがい)とは・・・。

上代、東国地方で、歌垣(うたがき)をいう語で、歌垣とは古代、求愛のために、男女が春秋2季、山や市(いち)などに集まって歌い合ったり、踊ったりした行事。(デジタル大辞泉)

2015年の例大祭

鳥居から手水へ

まず鳥居を潜って手水でお清めします。この後、まっすぐ拝殿に向かうのが本来ですが・・・。

鳥居へ

▲ まずは、鳥居を潜るところから・・・。

手水でお清め

▲ 次に、手水でお清めします。


奥の宮での衣替え神事

本来は奥の宮の拝殿内本殿前にて、衣替えや祝詞等々の神事を行なうのですが、2015年は参集殿にて斎行。

奥の宮での衣替え神事

▲ 御神体が遷座されている参集殿にて衣替え等の神事。

工事中の拝殿

▲ 2015年では未完成の拝殿。本来はここで神事を。


奥の宮から門の宮へ

参集殿での神事を済ませ、これから氏子たちが松明を持って、「裏参道」を通って門の宮へ向かいます。約700mの道のり。

門の宮より帰還

▲ 衣替え神事後、運びだし。

門の宮より帰還

▲ 松明を灯し、準備。

門の宮より帰還

▲ 「裏参道」から門の宮へ出発。


門の宮より還幸

門の宮より帰還

▲ 門の宮の神事をすませて奥の宮へ還幸。

門の宮での神事(衣替え・祝詞等)を終えて、
「裏参道」を再び通って、奥の宮に還幸します。
この間、往復で30分から45分程度でしょうか。

2015年の例大祭では、タヌポンは門の宮へは行かずに、
奥の宮で待機していました。
このカットを撮るためです。

門の宮に行ってしまうと、戻ってくるとき、
三脚かついで、隊列より一足先に
走ってこなければなりません。
くたびれてしまいますので。(笑)
また、門の宮は光源が少なく、暗くて撮りづらいです。

湯立て神事(ゆだてしんじ)

氏子・崇敬者の無病息災をご祈念して行なう神事。本来は子(ね)の刻(午前0時)に行ない豊凶を占うものでした。
使われているお湯は、以前は近くの笠貫沼から運んできた水を湧かしたものでした。(現在もそうでしたっけ?)

湯立て神事

▲ 玉串に見立てた枝葉を湯につけ勢いよく振り上げます。

湯立て神事

▲ 飛び散るお湯を浴びると無病息災になるとか。あっちっち。


御衣焚き神事(みそたきしんじ)

御衣焚き神事

▲ 御衣を包んだ大松明(たいまつ)を境内中央へ。

古い神御衣(かんみそ=神様の着物)を
茅(かや)と眞菰(まこも)の大きな松明の中に納め、
本来は御神木のそば(が理想)に運び焚き上げます。
御神木は石段脇で手狭なので、境内中央に運びます。

勢いよく燃え上がる炎は、
なぜか人の心も萌え上がらせ・・・る年でもないか(苦笑)。

「ほんとに毎年、高価な着物を燃やしているんですか」
という下賤なタヌポンの問いなど、皆さんは控えましょう。

古くは文武天皇の時より始まり、例大祭を「更衣祭」と呼び、
「オコロモガイ」は夜の明け方に行なう比類のない祭典。
参詣者は十余里の遠方から来集し、その数1000を数え、
いずれも夜を徹し翌朝帰るのが常だったとか。

徳川幕府からも祭使として松平信勝が訪れ、「更衣祭」の風景を詠じて、
 大神の衣焚あがるかゞり火に人も山なす神まつりかな
歌人、高野充行の歌にも、(→ 参考 高野充行歌碑
 更る夜にとよみかくらの聲すなり今や宮人御衣をかぶるらん
 秋のよの日もろともに澄み行くは御ちの社の神楽なりけり (『北相馬郡志』より)

御衣焚き神事

▲ 点火し御衣を燃やします。

御衣焚き神事

▲ 参詣者にも火掻き棒?を持たせてもらえます。


直会(なおらい)

直会

▲ 最後に宮司さんよりご挨拶(直会)

御衣焚き神事の火が消えれば、
例大祭のすべての神事が終了です。

直会のお神酒が配られ、宮司さんよりご挨拶。
氏子・崇敬者の無病息災を祈念して、例大祭の終了となります。

幟旗

幟旗

奥の宮の石段下には、「御祭禮」の幟旗が立てられます。
昼間なので、なにかありそうに見えますが、
例大祭は、夜の神事。深夜22時スタートなので、ご注意。

例大祭はどなたでも見学・撮影もできます。
いわゆる「拝観料」等はいっさい不要です。
ただ深夜なので社務所は閉じており、
おみくじ等は頒布しておりません。
また、台風など荒天の場合、中止する場合もあります。

御鎮座2300年奉祝記念事業

記念事業スタート

奥の宮の社殿や参道等は、300年の風雪に耐えてなんとかもちこたえてきましたが、細部の老朽化は激しく、
御鎮座2300年である2012年を機に、修復すべく、記念事業がスタートしました。

▲ 驚いたことに、社殿床下の柱の一部が盗まれブロックで補強しているとか → episode 柱泥棒? 参照。

ご奉賛のお願い

改築・修復事業の主な内容は以下。

幣殿・拝殿については全面的に「改築」されますが、
本殿は「修復」にとどまっています。
宮司さんの話では、本殿は、利根町指定有形文化財のため、
全面的に改築することはできないそうです。
改築するとすれば、300年前の木材を使ってやれ、
というお達しとかで、それでは永久不許可と同じですね。

事業経過

2011年春より、翌年が御鎮座2300年であることと300年を経た社殿老朽化を踏まえて、蛟蝄神社建設奉賛委員会が発足、
翌年から6年間の募財期間を定めて、活動が開始されました。考えてみれば、委員会発足は東日本大震災の直後ですね。
募財の集まり、事前の各種申請、建築確認等々の手続きを経て、工事に着手したのが2013年末くらいでしたでしょうか。
その後、約2年半を経過して、瑞垣以外はすべて完成、現在(2016年夏)に至っています。

☆ 奉賛委員会発足後まもなく 蛟蝄神社公式Website が開設され、宮司さんの Twitter でも工事進捗が報告されています。

時期 内容
2011(平成23年) 5月 記念事業スタート・奉賛者募集開始
2013(平成25年) 年末 本殿裏の樹木伐採本殿遷座御敷地 の設定
2014(平成26年) 4月2日 遷座祭1(本殿から御神体を参集殿に遷座)
2014(平成26年) 4月10日 拝殿内絵馬等取り外し作業
2014(平成26年) 5月1日〜5月2日 拝殿・幣殿・敷石解体作業
2014(平成26年) 6月15日 本殿 曳き工事スタート
2014(平成26年) 6月28日 地鎮祭
2014(平成26年) 6月30 拝殿基礎工事スタート
2014(平成26年) 7月7日 拝殿コンクリート流し
2014(平成26年) 7月24日 本殿の曳き工事完了(7mほど後ろに)
2014(平成26年) 8月29日 参道第1期工事スタート
2014(平成26年) 9月5日 社殿足場・参道コンクリート流し
2014(平成26年) 9月11日 拝殿工事本格スタート
2014(平成26年) 10月13日 参道第1期工事完了
2014(平成26年) 10月17日 上棟式
2014(平成26年) 10月 銅板葺きスタート
2015(平成27年) 1月 拝殿の足場はずれ壁・床工事に
2015(平成27年) 2月 拝殿床張り作業
2015(平成27年) 4月 拝殿前コンクリート作業
2015(平成27年) 5月21日 本殿2期工事スタート
2015(平成27年) 6月28日 銅板屋根設置作業
2015(平成27年) 12月15日 遷座祭2(参集殿から本殿に御神体を戻す)

2013年末 本殿裏の樹木伐採

拝殿・幣殿を大きく改築するにあたって、まず、本殿を切り離して、後方に遷座(移動)させなければなりません。
そのために、本事業の具体的な目に見える工事としては、本殿背後に繁茂した樹木の伐採から始まりました。
伐採した蛟蝄神社の森(杉)は約60年前に挿し木をしたものですが、挿し木の場合、40年ほどで傷みが出てきます。
そのため木材としてはほとんど活用できなかったようです。記念事業後に実生の杉の植樹を計画中とか。
これらの樹木伐採は、2013年の暮れに行われました。

本殿背後の樹木伐採 伐採された樹木

本殿遷座御敷地

本殿遷座御敷地 屋根銅板協賛募集

拝殿を広く改築するために、
4〜5間(約7m)ほど
本殿を後ろに移動させます。

2014年の新年に訪問すると、
その「本殿遷座御敷地」が左のように
注連縄に囲まれて示されていました。

また、この頃、
「願い事が書ける」屋根銅板の募集も。
タヌポンも1口、後日協賛しました。
拝殿が完成したいまは、無論、
募集はもう締め切られています。

御奉賛金2015年12月15日現在

御奉賛金も、2013年12月15日現在で、
30,320,000円の表示。
翌2014年春より工事がスタートできる旨、
案内ができました。

2014年4月2日 遷座祭1(本殿から御神体を参集殿に遷座)

拝殿奥の本殿扉

▲ 旧拝殿奥の本殿扉を開けて御神体を。

第1回目の重要な祭事、遷座祭は、
2014年4月2日の夜、斎行されました。

本殿の移動や拝殿の改築をする前に、
まず御神体を安静な場所に遷座させなければなりません。
こんな時に必要となってくるのが参集殿。
祭壇を設置し背後に御神体をお運びします。
祝詞奏上、玉串奉奠等々、神聖な儀式が執り行なわれます。

今後の一般の御祈祷、厄払いなどは、
新しく拝殿・本殿が使用できる状態になるまでは、
この御神体を前にして、つまり参集殿にて
執り行われることになります。

奉賛会による甘酒のサービス

▲ 御神体を参集殿へ遷座させます。

2016祭事予定

▲ 参集殿に設置された祭壇にて祝詞奏上など神事。


2014年4月10日 拝殿内絵馬等取り外し作業

遷座祭が終了すれば、さっそく拝殿の解体作業に移りたいところ。その前に拝殿内の奉納絵馬や額の取り外し作業から。

拝殿内絵馬等取り外し作業

▲ 2014年4月10日早朝から開始。

拝殿内絵馬等取り外し作業

▲ 数多くの奉納品があります。


奥の宮の絵馬

「神功皇后と武内宿禰図」右下拡大

左は、奥の宮にある3点の大絵馬のうちのひとつ。
門の宮コンテンツで紹介した 神功皇后と武内宿禰図 の右下。

藤原雲峰画」と落款が見えますが、
問題なのは、絵馬の額の下の木枠部分が破損していること。

これは、修復するには経済的な面でも、
優先度がかなり低くなると思われます。
とりあえず、このまま倉庫にしまわれてしまうことに。
利根町の文化財の保存については、いつも心が痛むばかりです。

奥の宮の絵馬の詳細については、以下を参照。
蛟蝄神社の絵馬

奥の宮の奉納額

絵馬については、奥の宮には3点と、門の宮のコンテンツ「蛟蝄神社の絵馬」で紹介・説明しました。
以下、左→右写真で「神功皇后と武内宿禰図」「雨乞い図1」文化財の「雨乞い図2」、これらもすべて取り外されました。

ほかに、大きな龍神の額や小さな絵馬(?)、各種奉納額等々、掛けられていましたがこれらもすべて・・・。
拝殿がまったく新しくなると、これらの古い額は、一部を除いて以前のようには掲載できなくなるでしょう。

絵馬 絵馬

龍神大額

門の宮の絵馬「神馬図」(神馬図と繋馬図 参照)を描いた「田中路人」の作。この額の裏面を見ることができました。
奉納 昭和四十三年元旦」で昭和43年(1968)元旦の奉納。「願主 駐憲太郎」「氏子 世話人一同」も銘記。

龍神大額 龍神大額裏面

この額は、さすがに新社殿でもかざられるのではないかと思いますが、2016年夏現在、まだのようです。

蛟龍の額1

この額の文字は当初、「蛟蝄」かと思われましたが、「蛟龍」(こうりゅう=みつち)であることが判明しました。
友野現宮司の曽祖父の弟(曽祖叔父)である「津久井武」氏(当時川原代八幡神社宮司)の揮毫によるものです。

蛟龍の額1 蛟龍の額1裏面

拝殿の改築作業の一環に立ち会えたおかげで、この額の裏面を期せずして見ることができました。

昭和五十五庚申年秋例祭吉日」の「奉献」、昭和55年(1980)秋例祭とは調べてみると10月23日(木)になります。
奉献は「竜ケ崎市下町四九七三 友野忠吉」と「藤代町藤代四九一 津久井 武(川原代八幡神社宮司)」の兄弟2名。
蛟蝄宮司」と題して続柄が記されています。朱文字部分はタヌポン補足。

友野友之助 ┬ 吉之助 ─ 光(宮司)─ ○ ─ 雅弘(現宮司)
      ├ 忠吉
      └ 武(号、龍子)
        表面古文「蛟龍」謹刻

▲ ところで、川原代八幡神社は現存しています→ 川原代八幡神社。現在の宮司さんはどなたでしょうか。

蛟龍の額2

蛟龍の額2

もう1点「蛟龍産」と記されているのでしょうか、
作業している方に持ってもらって撮影しました。

佐の崩し字

左下に「大房村 佐藤儀右衛門」とあります。
左は「佐藤」の「佐」の崩し字。まったく難解です。

句額1

これです、タヌポンが風化が気になっていた句額。子安神社のコンテンツで紹介しました(→ 大野野人句額 参照)。

句額1取り外し作業 句額1

これはおそらく新拝殿には取り付けられないだろうと思っていますが、それなら別の所でもきちんと保管ができるかどうか。
いずれにせよ、もっと細部の写真を撮って、掲載されている句を明らかにしたいと思っているのですが・・・。

句額2

こんな句額(短歌額)も見つかりました。俳句3首、短歌4首、掲載されています。

奉献 大願成就」と題し「昭和十七年八月七日」昭和17年(1942)8月7日に「遠山村十余三區一同」より奉納されたもの。
遠山村十余三區とは、明治の町村制にともない下埴生郡遠山村発足等を経て、現在は千葉県成田市となっています。

句額2

いよよ降る喜雨に枕の安らけり    香月
龍神の生の力の雷雨かな       映洋
有難や惠みの雨にこの稔り      春風
久方の雨にしあれば田や畑
 神の惠みにうるほひにけり     春村
この雨の降られる十余三ひかれたる
 御ふらせ給ふ龍神の水      耕明子
里人のみ祈り居ればたちまちに
 惠み給えし雨の御神      志□利女
目に見えぬ幸有難し龍神の
 水降らせ給ふ十余三の里へ     耀洋

伊勢講額1

伊勢講額1

伊勢大大御神樂」、篆字の奉納額。
嘉永二歳次己酉穐九月中澣之日」「蛟城田林直信敬書
嘉永2年(1849)秋九月中旬、寺田林直が書いたもの。

寄進者は以下の10名。

大房村 大野五平治 坂本五郎左衛門 坂本重左衛門
    坂本彦右衛門 地脇吉郎左衛門 高㙒長右衛門
    山ア甚平 坂本與四藏
立木村 白戸C兵衛 飯塚與右衛門

伊勢講額2

伊勢講額2

天照皇大〃御神樂
これは「あまてらす・すめら・だいだいおかぐら」でしょうか。
明治二十三歳三月一日」「傀城書」、
明治23年(1890)3月1日、傀城という人の書。

以下、10名の寄進。

文間村
 字大房 地脇吉郎左衛門 高野英之助 大野嘉三郎
     海老原清治郎 坂本儀三郎 玉川玄眞
     地脇春吉 寺田茂兵衛
 字立木 飯塚由平 吉濱巳之作

伊勢講額3

伊勢講額3

奉納 参宮記念」の参宮とは
やはり伊勢神宮の参拝ということでしょう。
大正四年三月五日参拝 同年八月」は、
大正4年(1915)4月3日参拝し、同じ年の8月に額を奉納。

奉納者は以下の4名。

立木  角田清二郎 田ア勘之助 古川よし
上曽根 飯塚庄之助

明治天皇の額?

明治天皇の額?

「タヌポンさん、こんなの出てきましたよ」。
宮司さんに見せられて、絶句。
「まさか、ですよね?」
これは、恐れ多くも真贋すら問うこともできません。

しかし、署名の書体は似ているような。
明治天皇が蛟蝄神社に御来駕されたなどという記録は、
まったくありませんし、聞いた事もありません。
まあ、こんな額があったということだけ報告しておきます。
後世に量産されたもののひとつ、ということなのかも。

その他の寄進額等

以下、ほかにも数多くの大小の額や祭具等々の寄進物があったようです。これらは、どうなるのでしょうか。

その他の寄進額等 その他の寄進額等 その他の寄進額等
獅子入れの祭具

左のような獅子頭も見つかりました。
もしかすると、この地域と奥の宮だけにあった、
以下の行事に使用されたものかも知れません。

獅子入れ

毎年正月14日に「あわんとり」(どんど焼き)の行事が終わると、夕食後、獅子入れの行事にうつる。地区の若衆が蛟蝄神社奥の宮の社前に集まり、威勢よく鐘、太鼓、笛などを打ち鳴らす中に、神前において獅子の祈祷を行ない、塞の神の立札、火盗難防除、家内安全の神札を神主より若衆頭が受け取り、一同社前に集合、神酒を頂き勝どきを上げて出発する。地区の西端から、一軒、一軒残らず戸ごとに獅子を舞い入れて、土間や軒先で獅子舞をなし、家人に獅子をいただかせて歩く。各戸では終夜寝もやらず、米、菓子、果物、金銭、酒等を供し、行事を盛り上げる。獅子が去ると前記神札が配られ、供物を収納していく。また、道の辻々、村境に塞の神の立札の神札が立てられ、厄災の侵入を防ぐ。この獅子入れの行事は夜を徹して行なわれるが、昔は、二次会、三次会にまでも及び、酒代に窮して獅子を質入れしたところ、毎夜質屋の蔵で獅子が暴れるので、質屋が恐れをなして、のしをつけて神社におさめた、という実話もある。(『蛟蝄神社由来記』)

永年に亘っての保存・管理は難しい

破損しているものなど、
多少は廃棄処分にせざるを得ないかも知れません。

永年に亘っての保存・管理は難しいものがあります。

2014年5月1日〜5月2日 拝殿・幣殿・敷石解体作業

拝殿の主要な奉納品等は保管されました。いよいよ、拝殿と幣殿の解体作業に入ります。同時に敷石も除去されます。
いままでの拝殿・幣殿は見納めとなりますので、以下、紹介しておきます。

解体される拝殿と幣殿

『利根町史』には拝殿は寄棟造とあります。新拝殿がどんな造りになるのかこの時点では分かりません(聞きません)でした。

旧拝殿 旧幣殿

本殿はそのまま残す

拝殿奥の本殿扉

▲ 重機で解体。拝殿の萱葺きが一目瞭然。

遷座祭で御神体を遷し、拝殿の絵馬等を取り外したら、
さっそく解体作業です。
本殿に瑕を付けないように切り離せば、
あとは重機で一気に・・・。

新しく生まれ変わるとしても、
なんとなく切ない感じもします。

奉賛会による甘酒のサービス

▲ 本殿と幣殿を慎重に切り離します。

2016祭事予定

▲ 「埃高き」落城。よくいままで耐えてくれました。


奉賛会による甘酒のサービス

▲ 今回は本格的だなあ、と唐獅子。

2016祭事予定

▲ 本殿が浮かび上がってきました。


2014年6月中旬時の本殿

レールを敷いて曳き工事をスタート。本殿遷座御敷地 まで下げたときの本殿。右下は拝殿解体前、瑞垣があったときの姿。
神明造、銅板葺ですが、やはり300年も経て、ところどころに傷みがみられます。改築はできませんが修復はされます。

拝殿・幣殿解体後の本殿

本殿は浮いたままで固定はこれから。

拝殿・幣殿解体後の本殿 解体工事前の本殿

2014年6月28日 地鎮祭

前記からまもなく、本殿前に祭壇が造られ、氏子総代の方々が勢ぞろい。地鎮祭が行なわれました。

地鎮祭

▲ 本殿前の祭壇。拝殿建設区域が囲われています。

地鎮祭

▲ 祭壇前の奉納の品。あれっ、へんな名前が・・・。


地鎮祭

▲ 祭事はたいへんですが、管轄神社ですから力も・・・。

地鎮祭

▲ 拝殿が建つコーナーでもお祓い。


地鎮祭

▲ 建設奉賛委員会長による鍬入れ。

地鎮祭

▲ 皆さんで記念写真。あっ、タヌポンは写ってないですよ。


2014年6月30日 拝殿基礎工事スタート

地鎮祭が終わった翌々日から、さっそく拝殿の基礎工事が始まりました。ちょぅどその日は夏越大祓の祭事の日。

拝殿基礎工事スタート 拝殿基礎工事スタート・夏越大祓の日

2014年8月上旬〜10月上旬 参道工事・社殿足場など

参道工事・社殿足場など

社殿建造用足場も設置され本格的に。
同時に、参道第1期工事もスタート。

2014年10月17日 上棟式

参道1期工事も終了し、社殿の屋根も様になってきたところで、上棟式。五色の旗(吹流し)が秋晴れの空に。
この五色は陰陽五行説からくるもので、方角や、色の並べ方も決まっているようです。上棟式の場合は、以下。
右から「青(東)→黄(中央)→赤(南)→白(西)→紫(北:黒の代用)」。なんかよく論理がいまひとつ分かりませんが、
各4方の方位の守り神(青龍・朱雀・白虎・玄武)に敬意を払い、工事の安全とすみやかな進捗を願うもののようです。

上棟式 上棟式
上棟式

▲ タヌポンさんもどうぞ上へ。いや、高所恐怖症なので・・・。

上棟式

▲ ここでもお祓いなど一通りの儀式を。


上棟式

最後に恒例の餅投げ。
タヌポンは遠慮して取りませんでしたが、
4.5個入りの袋を1つおみやげにいただきました。

帰宅して1個食べてみると搗き立てで絶品の味!
楽しみにしていたのに、お餅が大好きな奥さんが
タヌポンの知らぬ間にいつのまにか残り全部を。
「もう、ないわよ」って。
けんか、です。いまでも、ねちねちうらみごとを。

2014年10月下旬〜 銅板葺きスタート

上棟式が終わると、さっそく拝殿の屋根の銅板葺きが始まりました。新しい銅板は、太陽を浴びて美しく光り輝きます。
この銅板の裏面に願い事が書ける、というのでタヌポンも1口、奉納。数に限りがあるので・・・あっ、もう締切です。

銅板葺きスタート

▲ 職人の人が1枚1枚丁寧に銅板を切り取っていきます。

銅板葺きスタート

▲ 拝殿の屋根に銅板を取り付けます。


2015年正月時の拝殿

左は、2015年正月、初詣時の拝殿。

新しい銅板が光っています。
前の足場も、1月末にははずれ、
壁・床工事に移っていき、
2月には、拝殿の床はり、そして、
4月、拝殿前のコンクリート作業へと
行程が進んでいきます。

2015年5月21日 本殿2期工事スタート

以下は6月30日の夏越大祓時の写真。すでに拝殿背後の本殿には足場が組まれ、修復工事が進んでいます。
拝殿も、もう90%ほど完成した姿。今度は入母屋造りです。

本殿2期工事 本殿2期工事

2015年例大祭時 工事95%完成

2015年例大祭時

2015年10月26日の例大祭時。

本殿の修復もほぼ終了。
拝殿も、もう少し、というところです。
2016年の正月の初詣には間に合いそうですね。

2015年12月15日 遷座祭2(参集殿から本殿に御神体を戻す)

2015年の師走、ついに遷座祭。本殿周囲の水垣設置のみを残して工事は完了しました。
御神体を本来あるべき場所に。これからは、新しい拝殿・幣殿・本殿の前で、御祈祷・神事が斎行されます。

遷座祭2

▲ 遷座祭1の時と逆。祭事後、参集殿から・・・。

遷座祭2

▲ 御神体をお運びします。向かう先は・・・。


遷座祭2

▲ 新しい拝殿の中・・・へ。

遷座祭2

▲ 奥の本殿の扉はもう開かれています。


遷座祭2

▲ 拝殿の天井には、龍神が・・・。

遷座祭2

▲ 御神体を中へ。


遷座祭2

▲ 修祓・祝詞・玉串奉奠・・・神事は進みます。

遷座祭2

▲ 御神体も遷座され本殿の扉が閉まりました。


大工さんがご多忙のようで、瑞垣工事がなかなか始まりません。2016年夏現在、年内にどうかな、という感じだそうです。

episode

柱泥棒?

柱泥棒?

以前、宮司さんとお話ししたとき、信じられないことを聞きました。
世の中には、妙なことをする人がいるもので・・・。
左の写真は、工事前の奥の宮拝殿の床下。
↑矢印のところがブロックで支えられています。
これはなんと、床下の柱を切り取ってもっていかれたのだそうです。

なんという罰当たりな話なんでしょうか。
それにしてもいったい、柱を切り取ってどうしようというのでしょうか。
由緒ある神社の社殿を支える柱だから、さぞかしご利益がある?
ということで、もって帰って飾りとする、というのでしょうか。
それでかりにご利益があったとしても、
盗みによるさらに大きな災厄がふりかかることでしょうね。

それにしても、これは、どのようにして・・・。深夜にやってきて、のこぎりで切ったのでしょうか。うーーん。
床下にいて、そんなことをしたら建物が上からつぶれてきて・・・なんて思わなかったのでしょうか?
いずれにせよ、なんとも不可解、奇妙な話ですね。タヌポンには、ちょっと理解に苦しむ話です。(11/03/07)

▲ 上記エピソードも、柱を切り取られた旧拝殿は解体され、新しくなったいまはもうだいじょうぶ。
エッ、また新しい拝殿下に潜り込んで悪さをするヤツがいるかも・・・って。うーん、こんどはどうかなあ。
きっと、宮司さんは対策をたてているでしょう。賽銭泥棒がだれであるかも実は知っててみて見ぬフリしているようだし・・・。


(16/09/08 新規UP)
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