タヌポンの利根ぽんぽ行 蛟蝄神社奥の宮

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蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)は、いまから約2300年前、
孝霊天皇(第7代天皇)3年(紀元前288)に水神である弥都波能売命(みつはのめのみこと)を
現在の門の宮の場所に祀ったのがその始まりで、文間大明神ともいわれています。
そして、文武天皇(第42代天皇)2年(698)には
土神の波邇夜須毘売命(はにやすひめのみこと)を合祀し、東の高台に遷座しました。
これが奥の宮で、蛟蝄神社の本社となります。
門の宮は、取り壊す予定でしたが、氏子たちの強い要望で、祭神を分祀し、門の宮となりました。

記録では、「延喜式」[延喜5年(905)編集開始]の神名帳で、
「下総国相馬郡一座小社蛟蝄(みつち)神社」と書かれています。
こうもう=みつちの名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、
水を分けて進む水蛇(みずち)に似ていたためといわれています。
なお、延喜式神名帳に記されている神社は式内社と呼ばれ、
書かれていない式外社と区別されます。利根町の式内社は蛟蝄神社だけです。
歴史的にはたいへん価値のあるもので、利根町でいちばん古い由緒をもつ神社と言えます。

当初タヌポンは門の宮が本社と思っていましたが、この奥の宮が正式な本社となります。
門の宮が朱色の鳥居など華やかなのに比べてこの奥の宮は質素な感じがしますが、
よく見るとなかなか風格があり、とても美しいと感じました。

修復事業スタート

ご奉賛のお願い

しかし、300年の風雪に耐えて
ここまでもちこたえてきましたが、細部の老朽化は激しく、
御鎮座2300年である2012年を迎えるに際し、
本殿等の改築・改修をすることになりました。

宮司さんに聞くところによると、驚いたことに、
本殿を支える床下の柱の一部を盗まれ
ブロックでなんとか補強しているとか。
→ episode 柱泥棒?に掲載・参照

本殿等の改修の完成は数年後になりそうですが、さらに美しい建物になることを期待します。

蛟蝄神社には、現在門の宮と奥の宮の2社があり、少し離れたところに建っています。
ここでは本社である蛟蝄神社奥の宮の境内施設をご紹介します。
蛟蝄神社全般の由緒・沿革等については 蛟蝄神社門の宮蛟蝄神社とは をご覧ください。

奥の宮所在地:利根町立木882 TEL:0297−68−7278

※本ページの記述は、昭和55年3月「利根町教育委員会文化財保護審議委員会」による神社内の史跡案内および利根町史ほか神社社務所発行のパンフレット等によります。
※本ページの樹木のデータ・情報は、利根タブノキ会発行「利根町の巨木とタブノキ」によります。

Topics: 蛟蝄神社公式Website 2011/10/11開設!

立木地区周辺地図

立木地区周辺地図

蛟蝄神社奥の宮へのアクセスと石段

石段からのアクセス

蛟蝄神社奥の宮に行く方法ですが、門の宮前から続く広くはない道路から直接、境内に上がる石段が設置されています。
当初、タヌポンは、奥の宮の境内に行くには、この石段からしか入れないものと思っていました。
石段は、門の宮を出て東に約600mほど行くと左手に見えてきます。石段登り口左には蛟蝄神社の古い石柱も見えます。

奥の宮入口・立木環境保全地域 奥の宮入口・立木環境保全地域

奥の宮近辺はさまざまな貴重な自然の宝庫になっていて、立木緑地環境保全地域に指定されています。
その旨を記した標識(上右写真)も石柱の左脇に立っているので、入口はすぐ分かります。

奥の宮入口

石段の右手にも、左写真のように、
利根町指定有形文化財の標柱のほか
神社の案内看板があらたに設置されています。

ちなみに、蛟蝄神社は、
門の宮・奥の宮両社の建物、奉納されている絵馬1点、
そして史跡としての立木貝塚の3項目で、
利根町の有形文化財に指定されています。

裏参道からのアクセス

裏参道へつづく道

これは、さきほどの石段のすぐ手前(西)。
蛟蝄神社へのアクセス標識がでていますが、
この右手の坂道を登ると、奥の宮の裏参道に出るのです。
この道があることに、タヌポンは長い間、
まったく気が付いていませんでした。
この下の道の奥から手前の方向にいつも進んで来るので、
こうした斜め逆戻りの坂道が盲点になっていました。
この坂道は、クルマで奥の宮境内へ行くためには
唯一(実は別ルートあり)の手段で、
タヌポンがペーパードライバーでなければ、
もっと早く見つけていたかも知れません。

蛟蝄神社は交通アクセスがあまりよくないので、この道はクルマで行かれる方は覚えておくといいと思います。
家族でお参り・厄払いなどするときには、この道から境内へ。上には駐車場もできています。

別ルートというのは、北東の大房方面から南下するように裏参道へ来るルートですが、
これは「やまなみ園」の敷地の中を通れば来ることができそうです。
こちらのほうが道幅が広くて運転しやすいと思いますが、素通りするやまなみ園には恐縮しますね。
やまなみ園前でクルマを停めて歩いてきても、さほどの距離ではなく石段を上る苦労は避けることができます。

そして、もうひとつ。裏参道へと通じる道がほかにあるのですが、
なんとこちらのほうを上記の道より先にタヌポンは見つけていました。
しかし、それはクルマの通れない細い道。あとで、裏参道のポイントといっしょに紹介します。

石段

石段

石段が75段(町史には77段と記載)で、ちょっときつめです。
鳥居の全容が見えて来る頃は、ふぅ。
やっと上って下を見ると、ひぇーっ!高所恐怖症のタヌポンは目が回ります。
石段途中に蛟蝄神社や交通安全祈願の赤い幟旗が立てられる場合もあります。
以下は正月時。祭礼のときにはちょうちんなどが設置されます。

正月時、石段上から
明治24年夏4月建立

石段そのものについては、上った右手に、
明治24年(1891)夏4月建立の石柱が立っています。
ちなみに旧暦は4〜6月が夏。

境内の主な施設

鳥居

奥の宮の鳥居は門の宮のように赤くありません。なぜなんでしょう?両部鳥居ではない典型的な明神鳥居です。
この鳥居は利根町の神社のなかでいちばん大きいのではないでしょうか?布川神社 のほうかな?どちらかです。

→ こんなことを書くと、ちょっとまたむずむずしてくるタヌポンです。奥の宮と布川神社へ行って鳥居の高さを調べてこようかなどと。
その場合、どうするんだろう?ヒモに錘を付けて投げ上げて鳥居にかけ、後でヒモの長さを測る・・とか。ああ、いつかやってしまいそう・・・

御影石造りで、文政11年(1828)の建立。鳥居のすぐ前に石段と手すりがあり、撮影はとても難しいです。
鳥居の裏側から撮影するのは比較的容易なのですが・・・。

鳥居 鳥居

神額

神額

この神額もちょっと古そうです。
材質も色も鉛のような感じで、
暗めなので、きれいに撮れません。
奥の宮の鳥居と神額を正面から美しく撮るのは
タヌポンの課題です。

参道

鳥居をくぐって・・・参道。神燈と高麗犬(こまいぬ)いずれも1対、そして本殿へと続いています。
平成22年(2010)4月に拝殿右に新しい社務所が建てられました(右下)ので、ちょっと感じが左写真とはちがいます。

参道 参道

神燈

神燈

神燈一対。文政7年(1824)、八塩、京橋講中によるもの。
力強い字で彫られています。
京橋というのは現東京中央区の京橋、でいいそうです。
ここから遠方の人なのに、どんな縁なのでしょうか。

神燈 神燈

唐獅子

これも一対。嘉永5年(1852)信州上田 松平忠優(まつだいら ただます=1812-1859上田城・上田藩主)の建立。
町史の唐獅子にならって記しましたが、狛犬・高麗犬、どれでもよさそうに思います。ちがうのかな?

狛犬左 狛犬右

唐獅子と狛犬

唐獅子左

Wikipediaによれば・・・

飛鳥時代日本に伝わった当初は、唐獅子で、
左右の姿に差異はなかったといいます。
ところが、平安時代になって
それぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が
対で置かれるようになります。
右側の獅子像が「阿形(あぎょう)」で口を開いており、
左側の狛犬像が「吽形(うんぎょう)」で口を閉じ、
古くは角を持っていたそうです。
しかし、その後、2頭の外見上のちがいが少なくなって、
現在では左右いずれの像も狛犬と呼ぶ、ということです。

しかし、蛟蝄神社奥の宮のこの一対は、外見上のちがいが少なくなった近世の狛犬ではなく、
飛鳥時代の当初に伝わった、左右の姿に差異はなかったときの唐獅子に立ち返ってつくられたのかも知れません。
町史編纂者が、あえて狛犬とはせずに、唐獅子と記したのはそういう意味なのかも、とはまたしても勝手な想像。


さらに、またしても余談ですが、唐獅子、と言えば、
何といってもタヌポン世代は、「背中(せな)で吼えてる唐獅子牡丹♪」。
池袋文芸座、昭和残侠伝5本立て、オールナイト。
高倉健、池辺良のコンビがサイコーでした。
ああ、懐かしい怠惰な日々・・・。
(Youtubeは3題目まで。4〜7題目の歌詞がいいんだけどなあ。あれっ、また消されてる。しょうがないね、違法掲載だからね。
では、また探して、と。あっ、こんどは5題目まであるぞ。作詞・作曲は水城一狼っていう人?ふうん)


手水舎

手水舎

参道中央右にある手水舎。
献備と記されています。
文化年間(1804〜1817)の建立。

拝殿と本殿

拝殿

拝殿

拝殿は寄棟造、
本殿は神明造、銅板葺、
と町史にあります。

2011年1月に初めて
宮司さんとお話しすることができ、
いろいろ教えていただきました。
この拝殿も萱葺きなのだそうです。
その証拠が以下↓。
屋根の破れたところから
萱が見えます。

萱葺き

奥の宮の拝殿・本殿は、タヌポン訪問時はいままでいつもぴったりと扉を閉ざされていて、中を見ることはできませんでした。
初詣に来ればよかったのですが、2011年になって一気に内部を見るだけでなく、いろいろなことを知ることができました。
また、本殿等の改修事業にともない、以前よりも恒常的に神社の方が社務所におられるようになったようです。
本コンテンツ冒頭のタイトル写真は閉ざされていたときの拝殿。上の正月時とは雰囲気がちがいますね。

神紋

屋根の神紋

寄棟造りのサイドの屋根には
左三つ巴の神紋が見えました。
布川神社 も同じ紋ですね。

拝殿内部

以下は拝殿内部の様子ですが、新年バージョンの装飾かも知れません。新年祈願祭式次第が貼られていました(右下)。

拝殿内部 新年祈願祭式次第

奥の宮の絵馬

絵馬については、奥の宮には3点と、門の宮のコンテンツ「蛟蝄神社の絵馬」で紹介・説明しました。
以下、左写真から「神功皇后と武内宿禰図」「雨乞い図1」左右共通で文化財の「雨乞い図2」と、あれれ?まだありますね。
大きな龍神(?)の絵馬があります。また左写真の下部には2文字だけの小さい絵馬(?)も見えます。
その文字も蛟の次の文字が蝄には見えませんが?これは、いつか機会があれば宮司さんに尋ねてみましょう。

絵馬 絵馬

本殿

本殿

神明造といえば、
千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)。
屋根の両端でクロスさせたのが千木。 (↓以下写真参照)
屋根の上で棟に直角に
何本か平行して並べたのが鰹木。
鰹木はちょっと見えにくいですね。
← 屋根の上を見てください。

本殿

宮司さんの話では、この本殿は、利根町指定有形文化財のため、全面的に改築することはできないそうです。
改築するとすれば、300年前の木材を使ってやれ、というお達しとかで、それでは不許可と同じですね。
したがって改築は拝殿と幣殿(本殿・拝殿をつなぐ建物)だけで、本殿は修復作業となるようです。
困窮財政の町からは補助金はゼロで、メリットのない制約ばかりが多い「町指定有形文化財」というのが実情のようです。

拝殿前の設備

2011年に訪れたときに、大分変化したと思いましたが、変化はもう少し前からかも知れません。

注連縄

2005年時(写真右)と比べると一目瞭然。立派になりました。
門の宮の賽銭箱は新しくなりましたが、奥の宮のほうは以前のものが健在のようです。

注連縄2011 注連縄2005

絵馬掛け

絵馬掛け

拝殿に向かって右側。
以前はありませんでした。
これで、利根町で絵馬掛けのある神社は、
早尾天神社、布川神社、奥の宮と3社となりました。

祈祷案内

厄年等の情報。以下も右は2006年時の案内。2011年版(左)はより詳しくなっています。
連絡先は変わらず、宮司宅 0297−68−7278へ。

祈祷案内2011 祈祷案内2006

社務所と参集殿

参集殿

旧社務所

これは、鳥居の左手、境内の南にある参集殿。
ここは以前はいつも鍵がかかっていましたが・・・。
なお、以下、新・社務所が誕生してから、
この旧社務所は参集殿という名に変わりました。

新・社務所

2010年4月に新しい社務所が拝殿の右脇に建ちました。タヌポンが知ったのは2011年になってからです。
左下写真で、新・社務所の左に見えるのは、初詣用の臨時テントですが、これは後日撤去されます。

新社務所 新社務所

おみくじ結び処

おみくじ おみくじ

新・社務所前にできた、これも新しい施設。

新・社務所では、さまざまなものが用意されています。
お守りも、「うまく行く」「学業成就」「厄除」「健康」「安産」「合格」と、6種のセンスのあるデザインのものがそろえられています。
タヌポンも健康御守を買うことにしました。600円です。以前よりにぎやかなイメージになりましたね。

蛟蝄神社の例大祭

2011祭事予定

このコンテンツの不備は、
蛟蝄神社の例大祭についての記事がまだできていないことです。
その理由は・・・いいわけになりますので、今後の予定だけ。
今年2011年10月10日の神事撮影まで、お待ちください。

→ お待たせしました。神事撮影してきました。
詳しくは、蛟蝄神社公式Website 例大祭逸話 のページで。

えっ、単にリンク貼るだけで、安易な紹介ですって?
うーーん、これにはちょっとワケがあるんです。

タヌポンの撮った写真が・・・まあ、そういうわけです。例大祭(馬鹿まち)の意味なども上記のページでどうぞ。(11/10/11追記)

境内の石碑・石祠など

蛟蝄神社奥の宮の境内には、庚申塔や石祠よりも、記念碑のような石碑が比較的多く見られます。
石段から境内に入ったところの右側辺りから、順に見てみましょう。

中臣一万度行事の碑

中臣一万度行事碑

境内右手にある奇妙な石碑。
門の宮境内にも同様の石柱がありましたが、
これが何を意味しているのか当初はまったく分かりませんでした。
中臣祓という祝詞を
数多く唱えたことを記念して建てた碑ということです。
詳しい内容は 門の宮の中臣祓一万度行事 をご覧ください。
文化15年(1818)の建立。
同様の石碑が 布川神社 境内にもあります。

壽臧碑?

中臣一万度行事の石碑より少し奥、背後にたくさんの石祠類が無造作に置かれている内側に建っています。
下右の写真はその碑の上部の拡大。難しい字ですが、壽臧碑・・・というのかも知れません。
碑の台座には、菊池翁門人等が建立とあります。また碑文の冒頭に、菊池蛟崖翁の名が見えます。
この近辺にいた雅号を蛟崖とする菊池老人の業績をたたえる碑のようです。壽臧の意味等など不明です。

壽臧碑 壽臧碑上部拡大
赤の石祠隣り

なお、この碑の背後の多くの石祠類は、
一般の民家の不要となった氏神様等を
暫定的に置いてあるということです。

文間明神祠碑

氏神様の石祠からさらに奥に進むと、新・社務所の手前に文間明神祠碑が立っています。
早尾天神祠碑 と同様、ここには文間明神つまり蛟蝄神社の由緒・施設等々などの情報が記されています。
これも碑の台座に「寺田蛟城諸門人」が建立したことが記されています。またこの碑文自体も寺田蛟城が作成したようです。
寺田蛟城の蛟城とは号だと思いますが、やはりこの近隣にいた学者の方だったそうです。
むかしは、利根町にも門人が集まる先生が数多くいたんですね。
写真右は碑の上部の拡大。この碑文は、ヒントなしに読むことができました。
碑文の全文は風化してないようで読めそうです。ちょっとトライしてみましょうか、気が向いたら。

文間明神祠碑 文間明神祠碑上部拡大

さて、こんどはまた鳥居のところにもどって、左側手前から見てみましょう。

記念碑

記念碑 奉納

境内左に回って手前、
社務所に向かって左側には
2つの石碑が立っています。
左にあるのがこの記念碑。

右写真は碑の背面。
この碑は大正12年(1923)10月に
田畑や山林を寄進したときのもの。
それにしても、
「記念碑」とはシンプルなネーミング。

石階寄付連名碑

記念碑の右、旧社務所のすぐ左隣にあるのが、この碑。下右の拡大写真で、石階寄附連名と読めます。
背面には、明治24年(1891)5月建立とありますが、あれっ、この日付は前にどこかで記しましたね。
そうです、入口の 石段の石柱 ですね。4月と1ヵ月ズレがありますが、なるほどこれで符合しますね。
石段(石階)を建てたときの記念碑であり、これがその寄付名簿、というわけでしょう。

石階寄附連名碑 石階寄附連名碑上部拡大

巨岩

2つの巨岩

旧社務所前から境内左奥に向かうと
おおきな岩が2つ並んで置いてあります。
奉納されたものということですが、
とくに何かの記念というわけではないようです。
でも、これを運ぶのはたいへんですね。

さて、巨岩からさらに奥に向かうと、また石碑などがいくつか立ち並んでいます。まず手前のものから・・・。

不明の歌碑?

不明の歌碑

これは、歌碑のようなのですが、
どうもよく分かりません。
台座にも何も記されていないので、
これはお手上げです。

古い手水

古い手水

不明の歌碑?の右隣りにある手水。
左三つ巴の神紋が彫られていますので、
現在の手水舎の前に使われていた手水なのかも知れません。

直江某氏の碑

直江氏碑

これは古い手水の右隣りの碑。
碑文も達筆なので断片的にしか読めません。
直江某氏のために建立された石碑のようですが、
詳しいことは分かりません。
地元の名士なんでしょうね。

伊勢太々記念碑

伊勢大々記念碑

直江某氏の碑の右隣に伊勢太々記念碑が続きます。
伊勢太々とは伊勢太太講(だいだいこう)のことで、
伊勢神宮の参宮を目的として
中世末より近世にかけて盛んに行われた講のこと。
いちどに全員は行けませんから、旅費を積み立てて、
講中から代表を選んで交代で参詣しました。
太太神楽(だいだいかぐら)を奉納することから太太講ですが、
省略して伊勢講とも呼ばれます。
記念碑は、講の発足かあるいは代表の参詣時等を記念して
建てられたものでしょう。
「大」の字ではなく、「太」の字を用いて「だい」と呼ぶんですね。

さて、この奥にも若干、石祠等が置かれていますが、これらも民家の氏神様などで、特筆するものはないようです。
ここで、もういちど旧社務所までもどってみましょう。

金毘羅大権現と常夜燈

金毘羅大権現と常夜燈

旧社務所近辺は、以前より大幅に変わりました。
雑木等を伐採し、駐車場トイレなども整備されました。
その関係か、以前あった石祠なども若干移動したようです。
この金毘羅大権現の石祠も以前より立派になりました。

金毘羅大権現は、天保12年(1841)11月建立とあります。
常夜燈は、安政4年(1857)9月建立。

神木と境内の樹木

神木・スダジイ

神木

石段を登ったすぐ右手にある
ご神木のスダジイ。
かなり老朽が激しく、
幹が細くなっているようです。
もし、枯れ死するようなことがあると、
神木はどうなるのでしょうか。
巨木から選ぶのか、
神聖さから選ぶのか。

ヒマラヤスギ・タブノキ・サワラ・杉林

ヒマラヤスギ

奥の宮境内は保存緑地に指定されるほど自然が豊富。
スダジイ、タブノキ、スギ、チヂミザサなどの群落が見られます。
左は、参道左手に見える背の高いヒマラヤスギ。7〜8m位ありそうです。
以下に紹介したタブノキよりもっと大きい巨木もあるということなのですが、
さて、どのあたりでしょうか。

タブの木

境内右手はサワラや杉の林となっています。

サワラの木 林
境内奥の林

左は、本殿の左の奥の林。
なにか道が先に続いているようで、
ちょっと進んでみたくなります。

宮司さんの話では、
昔は、大房方面に抜けられたそうです。
でも、いまは行き止まりということで、ちょっと残念ですね。
お聞きしていなかったら、
またふらふらと迷い込んでいたかも知れません。

裏参道

裏参道への入口

前述の「裏参道からのアクセス」にも関連してくるのですが、蛟蝄神社奥の宮の境内へ通じるもうひとつの道。
それを、タヌポンは早くから発見していたのです。

裏参道

門の宮から奥の宮へ行く道の途中。
どちらかというと門の宮に近い距離。
左手を見ると、細い路地があります。
クルマは通れない幅で、
緩やかな上り坂になっています。
先は右にカーブしているようです。
これは突き進んで行くしかありません。

目印は、二十三夜塔

このT字路の目印は、交差点の門に立っている二十三夜塔。塔の左サイドには、「大明神」「戸代井」の文字が見えます。
これは、道しるべもかねているようです。大明神とはもちろん、文間大明神の蛟蝄神社奥の宮を指しているでしょう。
戸代井とは、現在の戸田井橋方面にちがいありません。

二十三夜塔 二十三夜塔サイド
草木に隠れた二十三夜塔

ただし、この目印も、季節によっては、
左写真のように、草木の陰に隠れる場合もあります。
ご注意ください。

自然のなかの参道

自然のなかの道

バイクで坂道を登りはじめて、
ドキドキしました。
この先に何があるんだろう?

鎌倉街道 とちがって、
いちおうは舗装されてはいます。
でも、行き止まりではなく、
何かが待ち受けているような・・・。

このときは、まだ、
二十三夜塔に記された「大明神」が、
奥の宮のことだとは
想像していなかったのです。

自然のなかの道 自然のなかの道

鳥居、発見

交差点

自然のなかの参道は、
思ったよりは長く続いていました。
そして、ついにとある交差点に着きました。
というより、タヌポンは白い標識に目をとらわれて、
そこが交差点であることが分かりませんでした。
写真の右手に脇道が出ています。
それは斜め前方へ下る坂道なのですが、
そのときは見落としていたのです。
それが、実は、奥の宮の石段左手から上る
例のクルマ用の坂道だったのです。
裏参道からのアクセス 参照)
また、写真の交差点の左手には、
やまなみ園の入口や脇道もあったのですが、
前方ばかりに気をとられて気付いていません。

見えてきた鳥居

先へ先へとあせって、
行き着いた先に
見えてきたものは・・・。

!!!!!!!!
こ、これは!

そうです、奥の宮のあの鳥居でした。
石段を1段も上らずに、
境内に来られる方法があったのです!

見えてきた鳥居

さて、上記の写真は、「裏参道」発見時のときのカット。2011年現在は、少し様子が変化しています。

裏参道その後

2011年の裏参道

右手に見えるのが旧社務所。
これは変わりませんが、
左手のスペースに、駐車場ができていますね。
周りの樹木も若干、伐採されています。
便利になった反面、
タヌポンの好きな鬱蒼とした雰囲気は少し軽減しました。
が、まだまだ周りは自然が豊富です。

さて、こんどは、ここから逆にたどって、
以前、よく見ていなかった交差点付近や、
裏参道のポイントを見てみましょう。

駐車場

駐車場

ポイントを見る前に駐車場の案内。
たくさんは停められませんが、これで安心。
たまたま使用禁止の貼紙がありますが、
トイレがあるのは助かりますね。
小さな神社などはともかく、
観光地ではぜったい必要です。

駐車場のないときの様子

ちなみに左は、駐車場がなかったときの写真。
なかなかいい雰囲気だと思いませんか?
利便性の追求と自然の保護は両立しないのか、
なんてことをこんなとき思いますね。
しかし、自然保護というのも、存外、コストがかかる、
ということも知らないといけないし・・・。
ただ放置しておけばいいわけではないから厄介です。

道祖神

駐車場と交差点の中間地点。下左写真の左手に見えてくる青い屋根の建物が道祖神の祠です。
中の石祠にも手がかりはなく由緒等はまったく分かりませんが、道祖神であることだけ宮司さんより確認しました。

左手に道祖神 道祖神

庚申塔群

庚申塔群

道祖神の祠と道路を挟んで向き合うように並んでいます。
いくつかありますが、ほとんどは庚申塔関連でしょう。
2011年に訪ねたとき、
写真の真ん中の塔が、手前に倒れていました。
直そうかと思い手をかけましたが、意外な重さにびっくり。
力なく、起こすのを断念しました。
周囲にも倒れている石祠がいくつかあったせいもあります。
そのなかの1つだけなんとか立ててみました。
それが、以下の八幡宮の石塔です。

八幡宮

八幡宮

以前は、草の中に埋もれていましたが、
辛うじて文字が読めたので覚えていました。
倒れてほかの石塔類のなかに混在していたので、
なんとかそばの樹に立てかけて撮影しました。

交差点近辺

交差点

ここが例の交差点。
さきほどの鳥居発見時と同じ方向です。
左手がやまなみ園入口。
右手が石段下へ続く下り坂の車道。
この道が以前、どうして気が付かなかったのか不思議です。

やまなみ園裏口

これは特別養護老人ホーム「やまなみ園」入口。
いや、入口というより裏口ですね。
この中を通って正門からでれば、
比較的スムーズにクルマ移動ができる感じです。
蛟蝄神社へのアクセス標識も付きました。
この裏口も以前はもっと分かりにくかったような・・・。

魅力的な小道

やまなみ園裏口左の小道

やまなみ園裏口に向かって左手。
敷地の柵に沿って、
北のほうに小道が延びています。

これがまたとても魅力的な道で、
想像もつかない景色と空間が
タヌポンを待っていました。

この先の期待感をもって、
奥の宮の本コンテンツを終了します。

episode

付録

門の宮「ちょっとした苦労?」の回答

路地入口に猛犬2匹

でも、ここ最近、見かけないですね。どうしたんだろう?
ここで、こんなことを書いたから飼い主が・・・したのかな。
そうだったら申し訳ないような・・・。いないとちょっと寂しいですね。

柱泥棒?

柱泥棒?

先日、宮司さんとお話ししたとき、信じられないことを聞きました。
世の中には、妙なことをする人がいるもので・・・。
左の写真は、奥の宮本殿の床下。
↑矢印のところがブロックで支えられています。
これはなんと、床下の柱を切り取ってもっていかれたのだそうです。

なんという罰当たりな話なんでしょうか。
それにしてもいったい、柱を切り取ってどうしようというのでしょうか。
由緒ある神社の本殿を支える柱だから、さぞかしご利益がある?
ということで、もって帰って飾りとする、というのでしょうか。
それでかりにご利益があったとしても、
盗みによるさらに大きな災厄がふりかかることでしょうね。

それにしても、これは、どのようにして・・・。深夜にやってきて、のこぎりで切ったのでしょうか。うーーん。
床下にいて、そんなことをしたら本殿が上からつぶれてきて・・・なんて思わなかったのでしょうか?
いずれにせよ、なんとも不可解、奇妙な話ですね。タヌポンには、ちょっと理解に苦しむ話です。(11/03/07 追記)


(12/05/10・11/10/11・11/03/07 追記) (11/01/22再構成) (10/12/06・07/05/21・06/07/17・05/08/09・05/02/22追記) (05/02/14)
(11/03/05・11/01/19・11/01/02・09/04/02・08/08/06・07/07/08・06/09/16・06/07/16・06/06/24・06/06/04・05/09/17・05/08/27・05/08/13・05/04/08・05/03/20・05/02/11撮影)