タヌポンの利根ぽんぽ行 蛟蝄神社門の宮

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最近、少し変化の出てきた蛟蝄神社。2012年には本殿等の修復・改築が行われるようです。
その前に、従来コンテンツを見直し、再構成しました。奥の宮も大幅に改訂しました。(11/01/22)


蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)は、いまから約2300年前、
孝霊天皇(第7代天皇)3年(紀元前288)に水神である弥都波能売命(みつはのめのみこと)を
現在の門の宮の場所に祀ったのがその始まりで、文間大明神ともいわれています。
そして、文武天皇(第42代天皇)2年(698)には
土神の波邇夜須毘売命(はにやすひめのみこと)を合祀し、
東の高台(現在の奥の宮)に遷座しました。このとき、門の宮は、取り壊す予定でしたが、
氏子たちの強い要望で、祭神を分祀し、門の宮となりました。

記録では、「延喜式」[延喜5年(905)編集開始]の神名帳で、
「下総国相馬郡一座小社蛟蝄(みつち)神社」と書かれています。
こうもう=みつちの名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、
水を分けて進む水蛇(みずち)に似ていたためといわれています。
なお、延喜式神名帳に記されている神社は式内社と呼ばれ、
書かれていない式外社と区別されます。利根町の式内社は蛟蝄神社だけです。
歴史的にはたいへん価値のあるもので、利根町でいちばん古い由緒をもつ神社と言えます。

ところで、延喜式ってなにかご存知ですか?
いままでだまっていましたが、タヌポンもよく知らないのです(笑)。
これではいけませんので少々調べて以下、説明します。→ 延喜式(10/12/03追記)

蛟蝄神社には、現在門の宮と奥の宮の2社があり、少し離れたところに建っています。
ここでは蛟蝄神社全般の由緒等と門の宮の境内施設をご紹介します。
門の宮所在地:利根町立木2184 TEL:0297−68−7278

本社である「奥の宮」については「蛟蝄神社奥の宮」をご覧ください。

※本ページの記述は、昭和55年3月「利根町教育委員会文化財保護審議委員会」による神社内の史跡案内および利根町史ほか神社社務所発行のパンフレット等によります。
※本ページの樹木のデータは、利根タブノキ会発行「利根町の巨木とタブノキ」によります。

Topics: 蛟蝄神社公式Website 2011/10/11開設!

蛟蝄神社とは

蛟蝄=文間?

蛟蝄神社の「蛟蝄」という字は難しい字を書きます。現にWebでは画像で処理しないと「もう」の漢字は描けません。

→ なんて言いましたが、最近、ブラウザが進化したのか、なんとか難字も掲載できるようになりました。
ということで、もうを蝄に置換しました。もう、他のコンテンツにもたくさんあるので困ります。

読み方は「こうもうじんじゃ」なのですが、祝詞などで読み上げるときは「みつちのかむやしろ」と称しています。
いっぽう、蛟蝄神社には、別名として文間大明神(もんまだいみょうじん)というのがあります。
この2つは音で聞くとまったく異なる名前なのですが、実は、蛟蝄が変化して文間になったとも言われています。

文字変化

つまり、「蛟」と「蝄」の虫偏を削除 → 「交」が「文」に変化、→ 「罔」が「間」に変化して「文間」となる、というわけです。
蛟蝄地区と言わず、このあたり一帯を文間地区と呼びますし、
その名は遠く西の取手市の小文間という地名にまで波及していますが、
「こうもう」という言葉はこの神社名以外、どこにも残っていません。
書くのに難しい蛟蝄神社より、その省略形から読みも変化した覚えやすい文間明神へと移行していったというのは、
ありえそうな話です。

→ 赤松宗旦の利根川図志には、
蛟蝄神社の蝄は罔象の義にとれる字なるが、後には蟲旁なしに書きたるが、更に轉じて文間と爲るべし
とあります。罔象とは後述の蛟蝄神社の祭神、水の神様である罔象女神を指しているようです。

祭神は水の神と土の神

蛟蝄神社の祭神ですが、水の神様である弥都波能売命(みつはのめのみこと)(別名:罔象女神)としているだけでなく、
土の神様である波邇夜須毘売命(はにやすひめのみこと)(別名:埴山姫神、埴安姫神)も祭神としています。
「蛟蝄」=「みつち」というのはヘビを表しているのですが、いっぽう「みつち=みつ(水)+つち(土)」と解釈できます。
このことからも蛟蝄神社の祭神が水の神と土の神であるというのがなんとなく納得できますね。
この水神と土神は、ともに伊邪那美命(いざなみのみこと)が火の神迦具土神を産んだときに生まれた神で、
前者が伊邪那美命の尿(いばり)、後者が糞という、ちょっと強烈なものから誕生したとなっています。
創世の神々、神代七代 の神聖なる伊邪那美命ですから、現代のわたしたちの感覚とは異なるのでしょうね。
水の神様である罔象女神の「罔」の字が蛟蝄神社の「蝄」の字とつながるのも面白いと思います。
これもヘビを表す文字ですね。

門の宮と奥の宮の2社

蛟蝄神社には「門(角=かど)の宮」と「奥の宮」という2つの社があります。
西にある門の宮の社殿は、慶長3年(1598)の布川藩主松平信一(のぶかず)が再建したという記録が残されています。
またちょうどその100年後の元禄11年(1698)には再造営されたという棟札が残されています。
(→ 棟札(むなふだ)とは、棟上げの時に建物名、施工主などを木札に書いて棟木などに設置したものをいいます)
これに対して奥の宮は元禄16年(1703)に再建されました。
どちらがメインの社かということですが、当初は門の宮でしたが、遷座したので奥の宮が本社といっていいようです。
現在の建物自体は、いずれも上記のように再建・再造営されたもので、ほぼ同時期、いまから約300年前のものですね。
門の宮が華麗な彫刻が施され、「朱」の色が目立ちますが、それに比較すると奥の宮は質素な感じです。
ところで、2011年新年に訪問したとき、2012年の鎮座2300年を機に本殿等の修復工事をする旨の案内がありました。
門の宮・奥の宮双方の修復がされるのでしょうか。

延喜式

延喜式(えんぎしき)とは、平安時代の中期に編纂された三代格式(さんだいきゃくしき)のひとつで、
律令の施行細則のことをいいます。この延喜式のなかの延喜式神名帳に、わが蛟蝄神社の名が記されているわけです。

でも、この説明ではよく分かりませんね。では、むかし社会の授業で習ったことをおさらいしてみましょう。

ここで律令という言葉が出てきましたが、この場合の律令とは養老律令(ようろうりつりょう)のことを指します。
757年(天平宝字元年)に施行された基本法令ですが、ちなみに、この法令の元となっているのが
701年(大宝元年)、藤原不比等らによって編纂された大宝律令です。

養老律令や大宝律令、藤原不比等などはタヌポンもなんとなく記憶があります。でも、ここまでですね、記憶にあるのは。
延喜式との関係はどうなっているのでしょう?

さて、三代格式(さんだいきゃくしき)格式(きゃくしき)とは、
奈良時代の養老律令に追加して平安時代に施行された細則のことをいいます。
くわしくいえば、令の細目を規定したものが式、追加法が格です。
法律というものは時代が変化していくと少しずつ改訂していく必要がありますね。
まさに、この時代の改定・追加されたものが格式というわけです。

そして三代格式ですが、これは弘仁格式貞観格式延喜格式の3つで、
それぞれ編纂された年代の元号が記されていますが、その完成には少し時間がかかっています。
ちなみに、弘仁格式は嵯峨天皇が藤原冬嗣に、貞観格式は清和天皇が藤原氏宗に、延喜格式は醍醐天皇が藤原時平に、
それぞれ命じて編纂させたもの。
この三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけで、細かな事柄まで規定されていることから、
延喜式は、古代史の研究では欠かせない重要な文献となっています。

貴重な文献となっている延喜式、装束に関する記述も全巻にわたり豊富です。
その編纂は、延喜5(905)年、醍醐天皇の命を受けて左大臣藤原時平が開始し、延長5(927)年に完成、奏上されました。
その後、修訂が加えられ、施行されたのは40年後の康保4(967)年。全50巻、約3300条からなり、
神祇官関係(巻1〜10)、太政官八省関係(巻11〜40)、その他の官司関係(巻41〜49)および雑式(巻50)
という巻次構成となっています。
このうち、神祇官関係(巻1〜10)のなかの巻9と巻10は延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)といい、
神社の一覧表となっていて、祈年祭奉幣を受けるべき2861社の神社が記載されています。
この神名帳に記載のある神社を一般に式内社と呼び、社格のひとつとされました。
つまり蛟蝄神社は、当時の朝廷から重要視された神社であることを物語っているのです。

3000社近くもあるわけなのですが、現在では消滅したり不明となっている神社も多いといいます。
下総(当時)地区にあった神社で、現在も存在している延喜式神名帳に記載のある神社、式内社は、以下の11社です。
下總國11座:大社1小社10(大社は香取神宮)
香取神宮・寒川神社・蘇賀比盗_社・老尾神社・麻賀多神社・高椅神社・健田神社・桑原神社・茂呂神社・意富比神社・蛟蝄神社

延喜式神名帳には、蛟蝄神社は、下総國相馬郡(しもうさのくにそうまこおり)一座として記されています。
この下総國相馬郡とは、現在の利根町、取手市(旧藤代町久賀を除く)、龍ヶ崎の一部(川原代・北文間)、守谷市、つくばみらい市(小絹)、常総市(坂手・菅生・内守谷)、我孫子市、柏市の一部(沼南・富勢)の地域を指します。

注)上記の「座」とは、記述上、神社の数を示しているように見えますが、ただしくは祭神を数える単位です。
したがって、下總國11座というのは、下總國にある11社の神社ではなく、下總國の11の神、という意味になります。
蛟蝄神社の宮司さんより、ご指摘がありました。ご注意ください。(11/01/21追記)

出典:Wikipedia等による

立木地区周辺地図

立木地区周辺地図

蛟蝄神社 門の宮

両部鳥居

稚児柱が新しくなった両部鳥居

利根町で初めて見つけた両部鳥居が
この蛟蝄神社門の宮の鳥居。
両部鳥居の特徴は左右の柱に対して
縦に補強の副柱がついていることで、
これを稚児柱と呼んでいます。
左の写真(05/10/15 撮影)では、
稚児柱だけが新しくなっています。
(以下の05/04/08 撮影時の鳥居参照)

神額

稚児柱が縦ではなく真横に付いていて左右に大きく羽を広げた形のものは三輪鳥居という種類です。
狸の巻物「鳥居の簡単な見分け方」参照
両部鳥居は、利根町では、ほかに諏訪神社境内にあるものだけです。一般には有名な大きな神社にありますね。
蛟蝄神社奥の宮の鳥居は利根町でいちばん大きな鳥居のように思いますが両部鳥居ではありません。
近隣では龍ヶ崎市北方の王子神社でも見つけましたが合計3つ、少ないです。
見た感じが優美で好きなのですが、建てるには稚児柱の分だけ敷地も要るし、費用もかかるのかも知れません。

以下は05/04/08 撮影のもの。左は鳥居をくぐって石段を登ったところから見下ろしたところ。
町史に「鳥居は欅造り」とありましたが、稚児柱の補強した木材も欅なのでしょうか?

本殿側から見下ろした鳥居 旧鳥居

拝殿と本殿

蛟蝄神社門の宮の拝殿・本殿等は、鳥居の奥の石段を上ったところにあります。
前の道路とおなじ平面上には、正面の鳥居のほか、向かって右手には、利根七福神の大黒天や立木貝塚の史跡案内、
左手には、神木の大公孫樹のある駐車場と、石段との間に蛟蝄神社の由緒等が記された史跡案内の看板などがあります。
それらは後で説明するとして、まずは、石段を上って、拝殿のほうに向かってみましょう。
上ったところが、蛟蝄神社門の宮の境内と言ってもいいでしょうか。

門の宮拝殿

門の宮
こうもう漢字朱色

さて、まずは、Flashを。
朱が美しい神社なので、
赤を少し強調してみました。
龍神ミズチの神社ですからそんな雰囲気で・・・。

このFlashでは見えませんが、
蛟蝄神社には美しく貴重な大絵馬が
いくつか奉納されています。
ちょうど訪問同時期に利根町歴史民俗資料館にて
絵馬展が開催されていてそこで見ることができました。
あとで紹介しますが、利根町の寺や神社には
ほかにもさまざまな絵馬が奉納されています。
(撮影05/02/11)

拝殿

流れ造り、藁葺きトタン覆い
と町史にあります。
赤いトタン屋根の下が
萱葺きになっている
ということでしょうか。
とても萱があるようには
見えないのですが・・・。

左の写真は2011年正月撮影。
賽銭箱が新しくなったように見えます。
2012年の本殿等改修事業で、
少しでも寄付を集めたいのかなあ、
なんて思いましたが賽銭箱では・・・。

注連縄

立派な注連縄ですね。でも、左は2011年、右のは2006年のもの。写真の比率はちょっとちがいますが、
それを差し引いても、以前のほうがとくに結び目とかが立派に見えませんか?

注連縄 注連縄旧

相馬郡一座蛟蝄神社の額

「相馬郡一座蛟蝄神社」と記された額。
先に説明しました延喜式神名帳に記されたとおりです。
慶長3年(1598)の布川藩主松平信一の再建記録には
「相馬郡一座文間庄二十八か村総鎮守」とあります。
相馬郡一座とは、「相馬郡にある一柱の神様」という意味で、
神様は、一柱、二柱という数え方のほかに
一座、二座という数え方があります。

この額自体がいつ頃奉納されたのかは分かりません。

本殿

本殿

本殿は瑞垣に囲まれています。
なかなか立派な流れ造りです。

本殿

拝殿・本殿内部

拝殿内部

これは2005年の2月訪問時。
なぜか扉が開いていて、
このように写真を撮ることができました。
当時、利根町歴史民俗資料館で、
絵馬展が開催されることになり、
たまたま絵馬を出展する関係で、
開いていたのかも知れません。

奥はひと続きで本殿内部も見えます。

本殿内部
子供神輿

拝殿内の左右の棚には、
カラフルな神輿のようなものが置かれていました。
蛟蝄神社の祭礼は、夏祭りとしては旧暦の6月15日とあります。
例大祭として、旧暦9月15日ということですが、
門の宮では14日に行い、その後、奥の宮で
深夜の「湯立ての神事」が行われるということです。
これらにはまだ参加したことがないので、
いつか機会があれば撮影したいと思っています。

扉と鍵

後日、訪問してみると、やはり扉は閉じて鍵もかかっていました。
でも、扉の格子の幾つかは開いていて中を見るのは容易です。
(これは破損しているということかしら?)
また、先日は、絵馬展のことも関係あるかも知れませんが、
2月11日だったので、建国記念日は紀元節ということで
祭礼日ということになるようです。

蛟蝄神社の絵馬

蛟蝄神社には、門の宮に4点、奥の宮に3点、合計7点の絵馬が奉納されています。
数では、布川神社の7点と同数で利根町では最多です。
なかには利根町指定有形文化財となっている絵馬が1点ありますが、これは奥の宮に所蔵されています。

名称 作者 年代 寸法cm(縦×横) 所属・備考
神功皇后と武内宿禰図 藤原雲峰 天保12年(1841) 99.0×155.0 奥の宮
雨乞い図1 明治6年(1873) 84.5×170.0 奥の宮
雨乞い図2 明治24年(1891) 100.0×164.0 奥の宮・町指定有形文化財
韓信股くぐり図 古川高之助 文久2年(1862) 80.0×168.0 門の宮
繋馬図 伝狩野元信 伝正徳元年(1711) 113.0×162.5 門の宮
桃園結義図 藤原周忠 寛政3年(1791) 103.0×122.0 門の宮
神馬図 田中路人 昭和41年(1966) 112.5×163.0 門の宮

絵馬展を見て2ヵ月ほど経ったある日、これはとくに祭礼の日ではないと思うのですが、再度、訪問してみると・・・。
なんと、またしても扉が開かれていました。そして、絵馬展で見た2つの絵馬が拝殿内上部に掲げられていました。
どちらも「馬を描いた絵馬」とは文字通りで面白いのですが、そのひとつには不思議な伝説があります。

馬喰田伝説と絵馬

絵馬繋馬図と神馬図

向かって左が神馬図(しんめず)、
右が繋馬図(つなぎうまず)。

繋馬絵馬については、
縄を描き忘れたため
夜中に絵に描かれた馬が出歩いて
田畑を荒らしたという伝説が
各地に残っているといいます。
これを馬喰田伝説と呼んでいます。

馬の伝説には続編があり、
縄をあとから描き加えて
出られないようにしましたが、
今度は餌桶を描き忘れたため、
馬が弱って色がさめてしまった
のだそうです。

神馬図と繋馬図(門の宮所蔵)

左の鮮やかな色彩の神馬図は、昭和41年(1966)、日本画家、田中路人の作。
奇しくもその前年昭和40年頃まで、蛟蝄神社ではまだ神馬を奉納する行事が行われていたといいます。
右の繋馬図は、正徳元年(1711)に狩野元信が描いたものを領主の松平伊賀守が奉納したものといわれています。
なんかあまり鮮明に見えませんね。色がさめてしまったというのはそういうこと?

神馬図 繋馬図

韓信股くぐり図と桃園結義図(門の宮所蔵)

門の宮にある残りの絵馬。どちらも題材は中国。韓信は「背水の陣」を生み出した漢の英傑。桃園は三国志の名シーン。
どちらも、絵の作者のプロフィールが分かりません。

韓信股くぐり図 桃園結義図

奥の宮所蔵の3点も以下、紹介します。

神功皇后と武内宿禰図・雨乞い図1(奥の宮所蔵)

左の神功皇后と武内宿禰図は、布川神社にも同じタイトルの絵馬がありました。右の雨乞い図は作者不詳です。
雨乞い図の右に見えるのは 笠貫沼 のようです。

神功皇后と武内宿禰図 雨乞い図1

雨乞い図2(奥の宮所蔵・利根町指定有形文化財)

雨乞い図2

蛟蝄神社では唯一の町指定有形文化財。
なるほど、タヌポンも
これがいちばん好きです。
これは蛟蝄神社奥の宮の絵なんでしょうか。
ずいぶんいまより石段が長く、
境内も高い位置にあるように見えます。


不明の絵馬と額

不明の絵馬と額

さて、門の宮の拝殿内には、
他に左のような額なども掲載されていました。
写真左も絵馬の一種なのでしょうか。
右のほうは額ですが、
何と書いてあるのかさっぱり。読めませんねえ。

境内の石祠・石碑など

神燈

神燈

神燈は石段を上がってすぐのところに1対、建てられていますが、
左手の神燈は上部が欠落しています。これは右の神燈です。
文政年間(1818〜1829)に建立されたようです。
御神燈、常夜燈、燈籠、石灯、いろいろな呼び方をされますね。

手水舎

神燈からさらに右奥には手水舎が立っています。奉寄進御寶前と記されています。正徳4年(1714)建立。

手水舎 手水舎

瑞垣寄付連名碑

この石碑は神燈と手水舎の中間辺りにあります。右写真は碑の上部の文字ですがさて何と書いてあるのでしょう?
篆書体の難しい字。教養がないので苦手です。タヌポンは「水垣寄附連名」まで勝手解読しましたが、どうでしょうか。
本殿周りの瑞垣新築のときの寄附をした方の名前を連ねたもの、と推理しましたが果たして・・・。明治27年6月15日建立。
ちなみに、瑞垣は水垣とも書きます。それにしても碑の前に邪魔な木がありますね。画像処理で消す?

不明の石碑 不明の石碑

中臣祓一万度行事

中臣一万度行事

拝殿の左斜め前に、入口に向かって建てられている石碑。
町史によれば文化15年(1818)建立とのことですが、
それ以上は何も記されていません。
「忠臣」ではなく「中臣」ですから
「なかとみ氏」のご先祖の祭神と関係があるのでしょうか?

上記のようなことを記しましたが、
当初これが何なのか皆目分かりませんでした。

いま写真を整理してみて初めて分かったことですが、
この門の宮のは、頭に中臣祓と「祓」の文字がありますね。
判読できなかったからだと思いますが見落としていました。
同様のものが、奥の宮と布川神社にもあり、
それには「中臣一万度行事」となっていたせいもあります。
中臣祓という言葉が最初から分かっていれば、
もう少し早くこの石碑の意味が分かったかもしれません。
以下、当初より5年経過して判明したことを記します。

意味がわかりました!

神道の祭祀に用いられる祝詞(のりと)のひとつに中臣祓詞(なかとみのはらえことば)というものがあることを知り、
一挙に中臣一万度行事の意味が判明しました。略して中臣祓とか中臣祭文(なかとみさいもん)とも呼ばれますが、
この中臣というのも、やはり中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから名づけられているとか。
祝詞のなかでもっともポピュラーなもので大祓詞(おおはらえのことば)とも呼ばれます。
また、この中臣祓詞を神前で何度も(あるいは1万回)読み、穢れをはらい清めることを万度祓(まんどばらい)と呼びます。
したがって、中臣一万度行事(なかとみいちまんどぎょうじ)碑とは、神前で長い祝詞である中臣祓詞を何度も(1万回)奏して罪を祓いきよめることを行った記念として建てられた碑ということになります。

大祓詞の音読・意味の解説

Youtubeで見つけました。
下作延神明神社(川崎市高津区下作延)
の金子善光宮司によるものです。

Youtubeは内容が削除される場合が
多々ありますのでご注意ください。
ご一報いただければまた探します(笑)。

大祓詞の音読・意味の解説

うーーむ。
これを1万回唱えるわけですか。
うーーむ。
宮司さんなら、1日10回として、
年に3650回。
なるほど3年で到達できますか。
1日3回なら、10年かかりますね。
えっ?やりますかって?
タヌポンはつつしんで
ごえんりょいたします。

石祠・石塔など5基

石塔など5基

境内右手、本殿右奥突き当たりに
石祠など4基を安置した木造の祠が見つかりました。
左から2番目のが辛うじて以下の内容が読めます。
「奉待十五夜塔、天保年間(1830〜1843)建立」。
祠の右にも1基、不明の石祠があります。

祠内部 堂の位置。本殿右奥突き当たり

その他の石祠類

以下はいずれも不明の石祠。左は本殿前右手の萱の木の根元に立っています。
真ん中はさきほどの5基の石祠類の祠へ向かう途中、右手の草むらの中にあります。
石祠のなかを覗き込むと「泉」と「守」の文字がかろうじて見えますが、これだけでは分かりません。
右の石祠は、本殿右手の奥、石祠類の祠の右にあります。

萱の木の根元の石祠 不明の石祠 不明の石祠

町史には、石祠として「稲荷大明神」安永8年(1779)ほか8基、とあります。
さきほどの5基の祠の石祠類と上記の石碑以外の3基を加えればちょうど8基となりますが、どうもちがうような。
「稲荷大明神」がどれなのか不明ですし・・・。
ほかに、昭和3年立木貝塚発掘記念伏見宮御手植の松(現在枯死)という記述がありました。
これも境内の様子からは痕跡等不明です。

さて、その他の施設を入口に戻ってみてみましょう。

門の宮の巨木

門の宮の鳥居脇や境内には、特筆すべき巨木があります。奇妙な逸話をもつ大公孫樹や利根町には珍しいアラカシなど。

神木の大公孫樹

神木公孫樹 神木公孫樹の黄葉
冬の神木公孫樹

門の宮を訪れるとまず目に入ってくるのがこの大公孫樹。
樹高23.0m、幹周11m85cm、枝張りは13m、根回り6m73cm。
文句なしの巨木。神木として申し分ありません。
雄木でギンナンはなりませんが、黄葉がとても素晴らしいですね。
さほど広くない駐車場で仕方ないところですが、
根元をコンクリートで覆われているのがちょっと可哀想です。

サイカチとアラカシ

サイカチ アラカシ

左がサイカチ、右がアラカシ。

サイカチはマメ科の高木で日本特産の木。
20〜30cmもある実はサポニンを含み
昔は洗剤として使われました。
この門の宮のサイカチは、
樹高24.0m、幹周1m95cm。

アラカシは西日本に多いのですが、
関東では珍しい種類のシイの樹です。
樹高18.0m、幹周1m80cm。
タヌポンは メインサイトのイントロの刺身
どんぐり19種の写真を掲載したい
と思っていたのですが、
探していたアラカシはここにあったのですね。

神木公孫樹の逸話

神木公孫樹

この門の宮の神木公孫樹には
奇妙な逸話が伝えられています。
(利根町史第4巻より)

それは、明治維新のとき・・・。
神仏混交廃止令により、
ここに付随して建てられていた
神宮寺が取り壊されました。
そしてこの公孫樹が残ったのですが、
「神社に公孫樹があるのは
縁起が悪い」ということで
切り倒そうということになりました。
ところが、途中まで切っていくと、
なんと・・・。

公孫樹の幹から
赤い血が流れ出した

これには皆、驚いて、結局、切るのを止めました。
このことで蛟蝄神社のご神木が公孫樹という「異例」のものになった(大房・関口秀明氏談)ということです。

これはとても奇妙なお話ですが、タヌポンはもうひとつ別に、お寺にはよくても神社に公孫樹がそぐわない、
ということも知りませんでしたし、奇異な感じを受けました。
というのは、いままで利根町の神社をいろいろ見てきましたが、神社でも公孫樹が神木となっているところ、
また神木ではないにしろ大きな公孫樹が立っている神社がほかにもいくつかあったような気がするからです。
たとえば 大平神社応順寺 の近くの 稲荷大明神 など・・・。
もしかすると皆さんの近くの神社にも公孫樹の樹があるのではないかと思います。
それらは皆、もともとは近くにお寺がありそれに付属していたものというのでしょうか?
このあたり、お寺と神社のそれぞれに対応する「神木」である樹木の種類が、ある程度決められているのかどうか、
いつか調べてみたいと思っています。
こういった神社・仏閣などの基本知識等については、探索の友、「狸の巻物」のページを設けましたので、
その項目に今後、記していきたいと思います。

石段下の施設など

史跡案内標識

門の宮前に来るとすぐ左手に解説の立て札が立っています。門の宮と奥の宮の2社の沿革などが書かれています。
それによるとこの門の宮のそのものが立木貝塚になっており、この周辺にはいろいろ遺跡などが残っているようです。
またここには、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征したとき蛟蝄神社に参拝したという説があり、
近くにはその愛妃、弟橘姫(おとたちばなひめ)の櫛塚や舟形山(ふながたやま)があることなどが記されています。
(史跡案内に掲載された周辺略図および「弟橘姫の櫛塚」参照)

史跡案内標識 史跡案内標識拡大

立木貝塚

立木貝塚標識と大黒天 立木貝塚案内
貝がら

立木貝塚は縄文時代後晩期(前2500〜前300)の遺跡。
土偶や土製耳飾、貝輪、骨角器などが出土することで
全国的にみても貴重な遺跡として大切にされています。
とくに土偶は最多出土の遺跡のひとつとして知られています。
右上は門の宮正面入口右。大きな案内看板が建っています。

貝塚というだけあって貝殻が境内のあちこちに落ちています。
土偶なんかが見つかると面白いのですけれど
そんな簡単にはいかないでしょうね。
ここなどは多くの人に調べ尽くされて
もうなにも見つからないんでしょうね。

利根七福神

利根七福神

鳥居のすぐ右、立木貝塚の標柱の背後に
七福神の大黒天が立っています。
七福神については「利根七福神」をご覧ください。

猿田彦大神

猿田彦の石碑

鳥居をくぐって石段を少し上った左脇に
猿田彦(さるたひこ)の石碑がありました。
邇邇芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨のときに
道案内をしたということから旅人の神様ということで、
道祖神が猿田彦と同一であるという説もあります。

ちなみに猿田彦の奥さんは天宇受売神(あめのうずめのかみ)、
天照大神の天岩戸隠れ でストリップを演じた美女神ですね。

余談ですが、サルタヒコ、アメノウズメなどの名前を聞くとRPGの「女神転生」を思い出します。タヌポンのお気に入りゲームで、女神転生制作スタッフは世界中の神々や妖怪等を調べ尽くしているものだと感心します。

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隣は公民館

公民館 本殿左隣

右上の写真は本殿の左。桜が咲いていますね。そのさらに左が公民館となっています。
公民館のさらに左にある路地を北に向かってしばらく行くと、薬師堂皇大神宮 のポイントにつながっています。
その路地に行くには一旦、蛟蝄神社の前に出て神木のある駐車所のところから迂回すれば行けます。

ちょっとした苦労?

ただ、正攻法で行こうとすると路地の入り口でちょっと苦労します。
もし、それを避けたい人は、かなり大回りになりますが、路地に入らずまっすぐ行き交差点から北に向かい、
土地改良記念碑 の手前にある小路から逆に辿ってくるといいかも知れません。
ちなみに、皇大神宮 は前にこの蛟蝄神社門の宮の境内にあったのですが平成10年(1998)9月に現在地に移されました。
えっ?ちょっとした苦労って何ですかって?ではヒント。次のうちの1つが正解。

  1. ご神木の霊が「引き返せ」と耳元で囁く
  2. 話好きのおばさんに引き止められ1時間は付き合わされる
  3. 猛犬2匹に吠え立てられる

(回答は・・・蛟蝄神社奥の宮コンテンツの末尾 付録 にて)


★ 蛟蝄神社の夏祭りや行事には若者の「恋」成就に関するものがあるらしいのですが、そんな季節には来た事がないし、
自宅から少し離れているのでよく分かりません。この旧暦9月半ばの深夜の神事にはとても興味深いものがありますが、
果たして見学等が可能なのかどうか。今後の宿題です。少しずつ分かるところから追記していく予定です。

★ また神社訪問時、史跡案内に掲載された周辺略図上で「鎌倉街道」なる名所を発見しました。
→ 05/03/05に「利根町の鎌倉街道」をUP

(11/01/15再構成) (10/12/22・10/12/03・06/07/17・05/08/12・05/08/09・05/05/25・05/02/22追記) (05/02/14)
(11/01/02・10/03/21・09/11/28・09/02/10・07/08/12・07/07/08・06/09/16・06/09/10・06/07/16・05/10/15・05/04/08・05/02/11撮影)