タヌポンの利根ぽんぽ行 蛟蝄神社門の宮

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目  次



関連リンク


更新経過

2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
蛟蝄神社については、ちょうどその頃より記念事業の修復工事が始まり、
そのため、その工事完了をもって再調査をしようとしたため、
見直しは全コンテンツの最後となってしまいました。
記念事業はまだ瑞垣の工事を残していますが、2016年夏、ようやく。
本コンテンツは8月後半に更新完了しましたが、
奥の宮の改訂と同時を企図したために、9月に入ってのUPとなりました。(16/09/08)


稲荷大明神

最近、少し変化の出てきた蛟蝄神社。というのは・・・。
門の宮は変りませんが、奥の宮本社の社務所に常時、
宮司さんなどがおられるようになりました。
利根町では初めての神職常駐の神社となり、
厄払い等の御祈祷もお願いすることができるように。
また、2012年には本殿等の修復・改築が行われるようです。
その前に、従来コンテンツを見直し、再構成しました。
奥の宮のコンテンツも大幅に改訂。(11/01/15)


「蛟蝄神社」の内容拡大にともない、
「蛟蝄神社門の宮」「蛟蝄神社奥の宮」に分離し、再構成。
(06/07/17)


蛟蝄神社には、現在門の宮と奥の宮の2社があり、東西に少し離れたところに建っています。
このコンテンツでは蛟蝄神社全般の由緒等と主に門の宮の境内施設をご紹介します。
なお、門の宮と奥の宮の2社の本殿はいずれも、建造物として
利根町指定文化財に認定されています。(05/02/14)


門の宮所在地:利根町立木2184 TEL:0297−68−7278

本社である「奥の宮」については、「蛟蝄神社奥の宮」をご覧ください。


※本ページの記述は、『利根町史』、『蛟蝄神社由来記』、昭和55年3月「利根町教育委員会文化財保護審議委員会」による神社内の史跡案内および利根町史ほか神社社務所発行のパンフレット等によります。また、樹木のデータは、利根タブノキ会発行『利根町の巨木とタブノキ』によります。


立木地区周辺地図

蛟蝄神社門の宮は、地図の中央、本社の奥の宮は、その右手、約700m東にあります。

蛟蝄神社とは

2300年の歴史をもつ式内社

▼ 蛟蝄神社(こうもうじんじゃ)は、いまから約2300年前、孝霊天皇(第7代天皇)3年(紀元前288)に、水神である
弥都波能売命(みつはのめのみこと)を現在の門の宮の場所に祀ったのがその始まりで、文間大明神ともいわれています。
そして、文武天皇(第42代天皇)2年(698)には土神の波邇夜須毘売命(はにやすひめのみこと)を合祀し、
東の高台(現在の奥の宮)に遷座しました。(したがって、奥の宮が、現在の本社ということになります)。
このとき、門の宮は、取り壊す予定でしたが、氏子たちの強い要望で、祭神を分祀し、門の宮となりました。

▼ 記録では「延喜式神名帳」[延喜5年(905)編集開始]に「下総国相馬郡一座小社蛟蝄(みつち)神社」と書かれています。
みつちの名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇(みずち)に似ていたためといわれています。
延喜式神名帳に記されている神社は式内社と呼ばれ、式外社と区別されます。利根町の式内社は蛟蝄神社だけです。
歴史的にはたいへん価値のあるもので、利根町でいちばん古い由緒をもつ神社と言えます。(→ 延喜式 参照)

▼ 2300年の歴史ということで、「水神(弥都波能売命)を祀る神社としては、関東最古」と呼べるものです。

門の宮と奥の宮の2社

前述のように、蛟蝄神社には「門(角=かど)の宮」と「奥の宮」という2つの社があります。

▼ 西にある門の宮の社殿は、慶長3年(1598)の布川藩主松平信一(のぶかず)が再建したという記録が残されています。
またちょうどその100年後の元禄11年(1698)には再造営されたという棟札が残されています。
(→ 棟札(むなふだ)とは、棟上げの時に建物名、施工主などを木札に書いて棟木などに設置したものをいいます)

▼ これに対して奥の宮は元禄16年(1703)に再建されました。
どちらがメインの社かということですが、当初は門の宮でしたが、遷座したので奥の宮が本社といっていいようです。
現在の建物自体は、いずれも上記のように再建・再造営されたもので、ほぼ同時期、いまから約300年前のものですね。
門の宮は華麗な彫刻が施され、屋根の葺き替え前は「朱」の色が目立ちましたが、奥の宮は質素な感じがしました。
2016年現在、記念事業により、奥の宮は拝殿が建て替えられ、美しく立派な様相となっています。

▼ 2011年新年に訪問したとき、2012年の鎮座2300年を機に本殿等の修復工事をする旨の案内がありました。
これは主に本社である奥の宮の修復がメインですが、門の宮についても屋根の葺き替え工事が行なわれました。
宮司さんの話では、記念事業後も、随所での修復作業は可能な限り続けていく予定とのことです。

蛟蝄=文間?

▼ 蛟蝄神社の「蛟蝄」という字は難しい字を書きます。現にWebでは画像で処理しないと「もう」の漢字は描けません。

→ なんて言いましたが、最近、ブラウザが進化したのか、なんとか難字も書体の制限下で掲載できるようになりました。
ということで、もうを蝄に置換しました。もう、他のコンテンツにもたくさんあるので困ります。Twitterなどではまだ対応できていません。

▼ 読み方は「こうもうじんじゃ」なのですが、祝詞などで読み上げるときは「みつちのかむやしろ」と称しています。
いっぽう、蛟蝄神社には、別名として文間大明神(もんまだいみょうじん)というのがあります。
この2つは音で聞くとまったく異なる名前なのですが、実は、蛟蝄が変化して文間になったとも言われています。

文字変化

つまり、「蛟」と「蝄」の虫偏を削除 → 「交」が「文」に変化、→ 「罔」が「間」に変化して「文間」となる、というわけです。
蛟蝄地区と言わず、このあたり一帯を文間地区と呼びますし、その名は遠く西の取手市の小文間という地名にまで波及、
ところが「こうもう」という言葉はこの神社名以外、どこにも残っていません。書くのに難しい蛟蝄神社より、
その省略形から読みも変化した覚えやすい文間明神へと移行していったというのは、ありえそうな話です。

上記については、赤松宗旦の『利根川図志』にも、以下の記述があります。
蛟蝄神社の蝄は罔象の義にとれる字なるが、後には蟲旁なしに書きたるが、更に轉じて文間と爲るべし
罔象とは後述の蛟蝄神社の祭神、水の神様である罔象女神を指しているようです。

注)「みつ(づ)はのめのかみ(みこと)」は、『古事記』では「弥都波能売神」、『日本書紀』では「罔象女神」と表記します。

▼ 以下は、タヌポンの私見ですので、ご参考まで。

蛟蝄という言葉は、「こうもう」ではなく、「みつち」を記す漢字であって、後世に音読みされたものなのかも知れません。
この地域は従来から「もんま」と呼ばれ、そこに「みつち」を祀る「通称」の「文間大明神」が存在していた、そして、
文献的には「みつち」を漢字で「蛟蝄」と記したため「蛟蝄神社」が延喜式神名帳などに残った、のではないか。
そうすると、「蛟蝄が変化して文間になった」のではなく、それらは別次元のことである可能性も否定できないのではないかと。
こうもう神社ではなく、みつち神社というべきだ、という人もいるとか。タヌポンは真実を知りたいだけでこだわりはありません。
現在がこうもう神社として親しまれているのであれば、実際はみつち神社であったとしても変える必要はないと思います。

☆ 蛟蝄神社の創始に関連することで、記念事業の進行中「重大な発見」に遭遇しました。それも1つだけではなく・・・。
ここは、原点に立ち戻り考察してみる必要性を感じました。これについては、奥の宮コンテンツにて、詳説しました。

祭神は水の神と土の神

▼ 蛟蝄神社の祭神ですが、水の神様である弥都波能売命(みつはのめのみこと)(別名:罔象女神)としているだけでなく、
土の神様である波邇夜須毘売命(はにやすひめのみこと)(別名:埴山姫神、埴安姫神)も祭神としています。
「蛟蝄」=「みつち」というのはヘビを表しているのですが、いっぽう「みつち=みつ(水)+つち(土)」とも解釈できます。
このことからも蛟蝄神社の祭神が水の神と土の神であるというのも、なんとなく納得できるような気もします。

▼ ちなみに、この水神と土神は、ともに伊邪那美命(いざなみのみこと)が火の神迦具土神を産んだときに生まれた神で、
前者が伊邪那美命の尿(いばり)、後者が糞という、ちょっと強烈なものから誕生したとなっています。
創世の神々、神代七代 の神聖なる伊邪那美命ですから、現代のわたしたちの感覚とは異なるのでしょうね。
水の神様である罔象女神の「罔」の字が蛟蝄神社の「蝄」の字とつながるのも面白いと思います。これもヘビを表す文字。

相殿神(配祀神)

蛟蝄神社の公式Websiteでは、主祭神を弥都波能売命、相殿神(あいどのしん)を波邇夜須毘売命ほか4神としています。
4神とは、倉稲魂(うかのみたま)神、素戔嗚(すさのを)尊、菅原道真公、誉田別(ほんだわけ)大神。
これらは、順に稲荷神社、八坂神社、天満宮、八幡神社の祭神です。『茨城の神社覚書T』(鎌田啓司著)によれば、以下。

「現配祀神の倉稲魂命外三神は、明治42年(1909)村内の稲荷、八坂、天満、八幡の4社を合併、合祭されたものである」

「村内の4社」とは、後述の 稲荷大明神天神宮八幡宮 が該当するのかも知れませんが、八坂神社は不明です。
宮司さんいわく「天満宮はもしかすると 円明寺の天満宮 かも知れません、八坂神社もどこかにあるはず」と想定外の回答。

相殿神に3神追加

2016年9月1日付で、蛟蝄神社の公式Websiteでは、相殿神を4神から7神に変更しています。増えた3神は以下。
句句廻馳大神(くくのちのおおかみ)・軻遇突知大神(かぐつちのおおかみ)・金山彦大神(かなやまひこのおおかみ)

新たに相殿神を記した古文書が発見されたということで、調べてみますと、『下総國舊事考』(清宮秀堅著)と判明しました。
「弘化二年乙春三月 下総 清宮秀堅 識」の自叙があり、『茨城の神社覚書T』よりも古い発行の著作であることは確実。
面白いことに、これまで「水の神」と「土の神」だけでしたが「木の神」「火の神」「金の神」の5神がそろいました。
「木火土金水」の陰陽五行説になぞらえた配祀のような。なぜ、この事実がいままで伝えられていなかったのでしょうか。

延喜式

延喜式神名帳

延喜式(えんぎしき)とは、平安時代の中期に編纂された
三代格式(さんだいきゃくしき)のひとつで、律令の施行細則のことをいいます。
この延喜式のなかの「延喜式神名帳(えんぎしき・じんみょうちょう)」(左・巻9)に、
わが蛟蝄神社の名が記されているわけです。

でも、この説明だけでは、「それが何なの?」という人も。
では、むかし社会の授業で習ったことをおさらいしてみましょう。

ここで律令という言葉が出てきましたが、この場合の律令とは、
養老律令(ようろうりつりょう)のことを指します。
757年(天平宝字元年)に施行された基本法令ですが、
ちなみに、この法令の元となっているのが、701年(大宝元年)、
藤原不比等らによって編纂された大宝律令です。

養老律令や大宝律令、藤原不比等などはタヌポンもなんとなく記憶が・・・。
でも、それらと延喜式との関係はどうなっているのでしょう?
また、三代格式というものも、習ったかどうか記憶にありません。
ましてや延喜式などは初耳同然。歴史は苦手でしたからねえ。(苦笑)

三代格式で現存しているのは延喜式だけ

▼ さて、三代格式格式(きゃくしき)とは、奈良時代の養老律令に追加して平安時代に施行された細則のことをいいます。
その中で、令の細目を規定したものが式、追加法が格です。法律は時代の変化とともに改訂する必要がある場合もあります。
この改定・追加されたものが格式というわけです。(安倍政権下では憲法改定の是非が問われていますがそれはともかく)

▼ 三代格式とはそれぞれ編纂(開始)された年代の元号を付けて 弘仁格式貞観格式延喜格式 と呼ばれています。
ちなみに、弘仁格式は嵯峨天皇が藤原冬嗣に、貞観格式は清和天皇が藤原氏宗に、延喜格式は醍醐天皇が藤原時平に、
それぞれ命じて編纂させたものですが、それぞれ、その編集開始から完成には少し時間がかかっています。
この三代格式のうち、ほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけで、細かな事柄まで規定されていることから、
延喜式は、古代史の研究では欠かせない重要な文献となっています。

▼ 貴重な文献となっている延喜式、装束に関する記述も全巻にわたり豊富です。
その編纂は、延喜5(905)年、醍醐天皇の命を受けて左大臣藤原時平が開始し、延長5(927)年に完成、奏上されました。
その後、修訂が加えられ施行されたのは40年後の康保4(967)年。全50巻、約3300条からなり神祇官関係(巻1〜10)、
太政官八省関係(巻11〜40)、その他の官司関係(巻41〜49)および雑式(巻50)という巻次構成となっています。

延喜式内社

▼ このうち、神祇官関係(巻1〜10)のなかの巻9と巻10は延喜式神名帳といい、
神社の一覧表となっていて、祈年祭奉幣を受けるべき2861社の神社が記載されています。
この神名帳に記載のある神社を一般に 式内社 と呼び、社格のひとつとされました。
つまり蛟蝄神社は、当時の朝廷から重要視された「延喜式内社」という破格の神社であることを物語っているのです。

▼ 3000社近くもあるわけなのですが、現在では消滅したり不明となっている神社も多いといいます。
下総(当時)地区にあった神社で、現在も存在している延喜式神名帳に記載のある神社、式内社は、以下の11社です。
以下の上の画像前半から、下画像の前半まで、「下総國十一座 大一座 小十座」として11座記されています。

注)上記の「座」とは、記述上、神社の数を示しているように見えますが、ただしくは祭神を数える単位です。
したがって、下總國11座というのは、下總國にある11社の神社ではなく、下總國の11の神、という意味になります。
蛟蝄神社の宮司さんより、ご指摘がありました。ご注意ください。

延喜式神名帳 延喜式神名帳

下總國十一座 大一座
       小十座
 香取郡一座 大
  香取ノ神宮 名神大月 次新嘗
 千葉郡二座 並 小
  寒川ノ神社 蘓賀比咩ノ神社
 迊瑳郡一座 小
  老尾ノ神社
 印播郡一座 小
  麻賀多ノ神社
 結城郡二座 並 小
  高椅ノ神社 健田ノ神社
 岡田郡一座 小
  桑原ノ神社
 葛餝郡二座 並 小
  茂侶ノ神社 意冨比ノ神社
 相馬郡一座 小
  蛟蝄ノ神社

・11座のうち大社とは香取神宮を指します。
・蛟蝄神社は、ミツチノ神社とルビがふられています。
・下総國相馬郡(しもうさのくにそうまこおり)は、以下の地域。
現在の利根町、取手市(旧藤代町久賀を除く)、竜ケ崎の一部(川原代・北文間)、守谷市、つくばみらい市(小絹)、常総市(坂手・菅生・内守谷)、我孫子市、柏市の一部(沼南・富勢)

▼ 11社の現在のリスト。延喜式神名帳の記載どおり、すべて現存しています。

地域(郡) 現在の神社名称 現在の鎮座地
下総國香取郡 香取神宮(かとりじんぐう) 千葉県香取市香取1697
下総國千葉郡 寒川神社(さむかわじんじゃ) 千葉県千葉市中央区寒川町1-123
下総國千葉郡 蘇賀比盗_社(そがひめじんじゃ) 千葉県千葉市中央区蘇我町1-188
下総國匝瑳郡 老尾神社(おいおじんじゃ) 千葉県匝瑳市生尾75
下総國印旛郡 麻賀多神社(まかたじんじゃ) 千葉県成田市台方1
下総國結城郡 高椅神社(たかはしじんじゃ) 栃木県小山市高椅702-1
下総國結城郡 健田須賀神社(たけだすがじんじゃ) 茨城県結城市結城195
下総國岡田郡 桑原神社(くわはらじんじゃ) 茨城県常総市国生1186
下総國葛飾郡 茂呂神社(もろじんじゃ) 千葉県流山市三輪野山619
下総國葛飾郡 意富比神社(おおひじんじゃ)=船橋大神宮 千葉県船橋市宮本町5-2-1
下総國相馬郡 蛟蝄神社(こうもうじんじゃ) 茨城県北相馬郡利根町立木882

境内入口

両部鳥居

稚児柱が新しくなった両部鳥居

利根町で初めて見つけた両部鳥居が
この蛟蝄神社門の宮の鳥居。
両部鳥居の特徴は左右の柱に対して
縦に補強の副柱がついていることで、
これを稚児柱と呼んでいます。

この鳥居も当初からしばらくで、
稚児柱だけが新しく補強されたり、
その後、2015年夏には、
鳥居全体の塗り直しも行われました。

「欅造り」と『利根町史』にあります。
木製だと、何年か後には、また、
修復が必要になるでしょう。

ちなみに、稚児柱が縦ではなく真横に付いていて、左右に大きく羽を広げた壮大な形のものは三輪鳥居という種類です。
狸の巻物「鳥居の簡単な見分け方」 参照。
両部鳥居は、利根町では、ほかに 諏訪神社境内にあるもの だけです。一般には有名な大きな神社にありますね。
蛟蝄神社奥の宮の鳥居は利根町でいちばん大きな鳥居のように思いますが両部鳥居ではありません。
近隣では 龍ケ崎市北方の王子神社 でも見つけました(現在、建て替えられて明神鳥居に変化)が合計3つ、少ないです。
見た感じが優美で好きなのですが、建てるには稚児柱の分だけ敷地も要るし、費用もかかるのかも知れません。

▼ 下は、拝殿・石段上側から見た鳥居。左は2005年、右は2016年。樹が1本、消えていますが2011年秋の大風で倒木。

本殿側から見下ろした鳥居 本殿側から見下ろした鳥居

神額

神額

「蛟蝄神社」と記されているわけですが、妙な書体ですね。

社の異体字

「社」の字に点が付いていますが、これも異体字。
数多く出てくるので、後世で異体字と定義したのか、
だれか石工などが昔、間違えて、もしくは筆の勢いで、
点を付けてしまったのがただ広まっただけなのか、
いずれにせよ、異体字というのは妙な字です。

史跡案内標識

門の宮前に来ると以前はすぐ左手に解説の立て札が見えました。門の宮と奥の宮の2社の沿革などが書かれています。
それによるとこの門の宮のそのものが立木貝塚になっており、この周辺にはいろいろ遺跡などが残っているようです。
またここには、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征したとき蛟蝄神社に参拝したという説があり、
近くにはその愛妃、弟橘姫(おとたちばなひめ)の櫛塚や舟形山(ふながたやま)があることなどが記されています。
(史跡案内に掲載された周辺略図および「弟橘姫の櫛塚」参照)

史跡案内標識 史跡案内標識拡大

立木貝塚

立木貝塚は縄文時代後晩期(前2500〜前300)の遺跡。土偶や土製耳飾、貝輪、骨角器などが出土することで
全国的にみても貴重な遺跡として大切にされています。とくに土偶は最多出土の遺跡のひとつとして知られています。

下の写真は門の宮正面入口右で、大きな案内看板が建っています。立木貝塚も町指定文化財となっています。

立木貝塚案内 貝がら

貝塚というだけあって貝殻が境内のあちこちに落ちています。ここでは、ほかに、特異な仮面を被った「みみずく土偶」や、
その省略形のもの、頭部に結髪を表現したものや耳に滑車型耳飾りを付けたものなどが発見されています。

こうした土偶の用途は、呪物、護符、祭りなどの説があります。土偶のほかにも、鹿骨製釣針や浮袋栓、土器片錘などから、
網漁をしていたことや、貝殻を鎌形にした穂摘具からアワやキビも栽培していたことが推定されています。

さて、土偶なんかが見つかると面白いのですけれどそんな簡単にはいかないでしょうね。本気で調べたことはありませんが、
すでに調べ尽くされて、よほど深く掘らなければ土偶などは見つからないのでは?石仏調査で、掘り起こしはもう十分!

▼ 下は、左より「伏見宮博英玉殿下御手植之松」と「立木貝塚出土品」(『蛟蝄神社由来記』より)

伏見宮博英玉殿下御手植之杉 立木貝塚出土品

昭和3年(1927)から4年にかけて、数度にわたり
考古学御研究のため、神社にご訪問・参拝されました。

『利根町史』では、「昭和3年立木貝塚発掘記念
伏見宮御手植の松(現在枯死)」とあります。
由来記掲載写真のキャプションは「杉」となっており、
これは「松」の誤植と思われますが、枯死ということで、
境内の様子からは、痕跡等不明です。
なお、伏見宮殿下は、その後海軍少佐として
太平洋戦争にご参加、戦死されました。

『蛟蝄神社由来記』と門の宮図

以下は「蛟蝄神社奉賛会・編纂者吉浜正次」の「明治百年記念」『蛟蝄神社由来記』表紙と巻末附図の門の宮境内図。

『蛟蝄神社由来記』 門の宮図

明治100年の昭和43年(1968)に発行。
伏見宮の松の枯死が記されていないので、
この時点では、地図上の地点に
松があったと思われます。

後述する神宮寺の位置も分かりますが、
ほかに現在では存在しない建物等の名も。
神楽殿、月見殿、社務所は跡地ですが、
「念仏庵」や「石神堂」「十九夜塔」は、
現在、不明です。どうなったのでしょうか。
皇大神宮 は移動先がわかりましたが・・・。

利根七福神大黒天

利根七福神大黒天

鳥居のすぐ右、立木貝塚の標柱の背後に七福神の大黒天が立っています。
この像は、確か2011年秋の大風で背後の樹木が手前に倒れたとき、
同時に倒れ破損したと記憶しています。まもなく現在のように修復されました。
鳥居の身代わりになってくれました、とは宮司さんの談。
七福神については「利根七福神」をご覧ください。

本体: 高100cm、幅38cm、厚36cm。

大黒天説明

猿田彦大神

猿田彦大神 猿田彦大神裏面

鳥居をくぐって石段を少し上った左脇に
猿田彦(さるたひこ)の石碑がありました。

表面に「猿田彦大神(さるたひこおおかみ)」、
裏面に「明治三十一年三月日」、
明治31年(1898)3月の造立です。

邇邇芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨のとき
道案内をしたことで旅人の神様といわれます。
道祖神が猿田彦と同一であるという説も。

ちなみに猿田彦の奥さんにあたる神が、
天宇受売神(あめのうずめのかみ)。
天照大神の天岩戸隠れ でストリップを演じ、
天照大御神を誘った美女神です。
天照神が女神ではなく男神とされる説は、
こんなところからきているのかも。

本体: 高95cm、幅60cm、厚12cm。

拝殿と本殿

石段と拝殿

蛟蝄神社門の宮の拝殿・本殿等は、鳥居の奥の石段を上ったところにあります。
前の道路とおなじ平面上には、正面の鳥居のほか、向かって右手には、前述の
七福神大黒天や立木貝塚の案内版、左手には、神木大公孫樹のある駐車場、
石段左奥に蛟蝄神社の由緒等が記された史跡案内の看板などがあります。

それでは、石段を上って、拝殿のほうに向かってみましょう。
上ったところが、蛟蝄神社門の宮の境内と言ってもいいでしょうか。

ちなみに石段は鳥居から上までは21段、下から鳥居までは5段あります。
合計26段ですので、登るのはたいしたことはありません。(奥の宮は75段)

拝殿

奥の宮の改修工事を中心とした記念事業とは別(?)に、2012年中に門の宮の屋根の葺き替え工事が行われました。

拝殿

「流れ造り、藁葺きトタン覆い」
と『利根町史』にあります。
藁があるようには見えないのですが
トタン屋根の下が藁葺きになっている、
ということのようです。

下は2005年の初訪問時。
この時の赤の印象はなくなりましたが、
秋の強風で倒れた樹もなくなって
上部もかなりすっきりしました。

拝殿2005年
拝殿

蛟蝄神社には、美しく貴重な大絵馬が
いくつか奉納されています。
ちょうど最初の訪問同時期に、
利根町歴史民俗資料館にて絵馬展が開催されていて、
そこで見ることができました。
あとで紹介しますが、利根町の寺や神社には
ほかにもさまざまな絵馬が奉納されています。

神紋

屋根の神紋

葺き替えられた屋根には、神紋が施されています。

左三つ巴

「左三つ巴」が蛟蝄神社の神紋、ということでしたが・・・。

実は、もうひとつ別の神紋があることが、
記念事業の工事の最中に判明しました。
この件は、奥の宮のコンテンツにて説明します。
新発見2「第2の神紋」

注連縄

立派な注連縄ですね。でも、左は2011年、右のは2006年のもの。写真の比率はちょっとちがいますが、
それを差し引いても、以前のほうがとくに結び目とかが立派に見えませんか?

注連縄 注連縄旧

相馬郡一座蛟蝄神社の額

相馬郡一座蛟蝄神社」と記された額。
先に説明しました延喜式神名帳に記されたとおりです。

慶長3年(1598)の布川藩主松平信一の再建記録には
「相馬郡一座文間庄二十八か村総鎮守」と定められたとあります。
徳川家康が松平信一の家臣鈴木弥次郎重村を奉行として命じたもの。

相馬郡一座とは、「相馬郡にある一柱の神様」という意味で、
神様は、一柱、二柱という数え方のほかに
一座、二座という数え方があります。

この額自体がいつ頃奉納されたのかは分かりません。

本殿

本殿

本殿は瑞垣に囲まれています。
なかなか立派な流れ造りです。

この本殿は、後述の立木貝塚と同様、
町指定文化財 になっています。
奥の宮の本殿 も同様です。

本殿

拝殿・本殿内部

拝殿内部

これは2005年の2月訪問時。
なぜか扉が開いていて、
このように写真を撮ることができました。
当時、利根町歴史民俗資料館で、
絵馬展が開催されることになり、
たまたま絵馬を出展する関係で、
開いていたのかも知れません。

奥はひと続きで本殿内部も見えます。

本殿内部
子供神輿

拝殿内の左右の棚には、
カラフルな神輿のようなものが置かれていました。
蛟蝄神社の祭礼は、夏祭りとしては旧暦の6月15日とあります。
豊穣を祈る田植えの神事が以前は行なわれたようです。
また、祇園祭りとして神馬を募り競馬も行ったとか。
写真の子供神輿などの行事もいまは難しいようですね。

例大祭として、旧暦9月15日ということですが、
神社の神馬と鹿島神宮の神鹿との交歓の意味で
これは、通称「馬鹿まち」と呼ばれています。

例大祭の詳細は奥の宮コンテンツにて紹介します。

扉と鍵

後日、訪問してみると、やはり扉は閉じて鍵もかかっていました。
でも、扉の格子の幾つかは開いていて中を見るのは容易です。
(これは破損しているということかしら?)
また、以前は、絵馬展のことも関係あるかも知れませんが、
2月11日だったので、建国記念日は紀元節ということで
祭礼日のため解錠されていたのかも知れません。

なお、宮司さんの話では、門の宮の拝殿内の整備等も含めて、
行ないたいことは山積しており、今後の課題ということです。
奥の宮本社の修復がいまようやく、実を結びつつあるところです。
蛟蝄神社は少しずつ着実に、レベルアップしていきそうです。

蛟蝄神社の絵馬

蛟蝄神社には、門の宮に4点、奥の宮に3点、合計7点の絵馬が奉納されています。
数では、布川神社の7点と同数で利根町では最多です。
なかには利根町指定有形文化財となっている絵馬が1点ありますが、これは奥の宮に所蔵されています。

名称 作者 年代 寸法cm(縦×横) 所属・備考
神功皇后と武内宿禰図 藤原雲峰 天保12年(1841) 99.0×155.0 奥の宮
雨乞い図1 明治6年(1873) 84.5×170.0 奥の宮
雨乞い図2 明治24年(1891) 100.0×164.0 奥の宮・町指定有形文化財
韓信股くぐり図 古川高之助 文久2年(1862) 80.0×168.0 門の宮
繋馬図 伝狩野元信 伝正徳元年(1711) 113.0×162.5 門の宮
桃園結義図 藤原周忠 寛政3年(1791) 103.0×122.0 門の宮
神馬図 田中路人 昭和41年(1966) 112.5×163.0 門の宮

絵馬展を見て2ヵ月ほど経ったある日、これはとくに祭礼の日ではないと思うのですが、再度、訪問してみると・・・。
なんと、またしても扉が開かれていました。そして、絵馬展で見た2つの絵馬が拝殿内上部に掲げられていました。
どちらも「馬を描いた絵馬」とは文字通りで面白いのですが、そのひとつには不思議な伝説があります。

馬喰田伝説と絵馬

絵馬繋馬図と神馬図

向かって左が神馬図(しんめず)、
右が繋馬図(つなぎうまず)。

繋馬絵馬については、
縄を描き忘れたため
夜中に絵に描かれた馬が出歩いて
田畑を荒らしたという伝説が
各地に残っているといいます。
これを馬喰田伝説と呼んでいます。

馬の伝説には続編があり、
縄をあとから描き加えて
出られないようにしましたが、
今度は餌桶を描き忘れたため、
馬が弱って色がさめてしまった
のだそうです。

神馬図(門の宮所蔵)

神馬図

拝殿正面左上の鮮やかな色彩の神馬図は、
昭和41年(1966)、日本画家、田中路人の作。
画右下に「路人画」と落款があります。

奇しくもその前年昭和40年頃まで、
蛟蝄神社ではまだ神馬を奉納する行事が
行われていたといいます。

繋馬図(門の宮所蔵)

繋馬図

拝殿右上の繋馬図は、
正徳元年(1711)に狩野元信が描いたものを
領主の松平伊賀守が奉納したものといわれています。

なんかあまり鮮明に見えませんね。
色がさめてしまったというのはそういうこと?

韓信股くぐり図(門の宮所蔵)

韓信は「背水の陣」を生み出した中国は漢の英傑。大望のあるものは目前の侮りなどは忍ぶべきという故事を描いたもの。
右上に「伊勢大々 御神楽」と「文久二壬戌四月」文久2年(1862)4月の作。左端に「古川高之助謹画」と押印があります。

韓信股くぐり図

以下、奉納者と世話人の名。當村とは立木村。

當村
木邨忠八 川上嶌吉 古川市平 酒井松三郎 同 政之助 飯野茂平 海老原和平 藤野清次 大古平吉 染谷吉左ヱ門
大房
海老原友次
丗話人
木邨鉄之助 古川高之助 飯塚万平 染谷粂蔵

桃園結義図(門の宮所蔵)

三国志(演義)の劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを結ぶ名シーンを描いたもの。

上部に「奉掛御寶前」、右に「山田子行藤原周忠六十五歳謹模寫」、左に「維持寛政三辛亥星舎烹葵吉辰」とこれは難解。
寛政3年(1791)の作ですが、星舎とは年号末尾に付く言葉、吉辰は吉日と同義。問題は、「烹葵」という言葉。
唐の詩人白居易の作に「烹葵」とあり、どうも、これは7月に行うもののようです。したがって7月を表す言葉なのでは?

桃園結義図

以下、奉納者の名前。

当村
 染谷金平 本谷和吉 本谷傳八 本谷惣介 本谷豊吉 蛯原太吉
 蛯原清次郎 蛯原當七 大野新蔵 □□豊七 酒井源太郎 木村新
 太郎 古川民蔵 古川喜四郎 川上清蔵 古川佐介
横須嘉村
 北澤忠蔵
生板村
 田嶋要吉 鳴毛新蔵 小野田久蔵

▼ 奥の宮所蔵の3点も以下、紹介します。

神功皇后と武内宿禰図(奥の宮所蔵)

この神功皇后と武内宿禰図は、布川神社にも同じタイトルの絵馬がありました。

神功皇后と武内宿禰図

上部に「奉獻」、右に「藤原雲峰画
左に「天保十二歳在辛丑春三月上澣之日
天保12年(1841)3月上旬の作。

奉納者として、以下。

大房村
 玉川玄瑞 大野五郎右衛門 高埜喜内 菊地治郎兵衛
 大㙒孫八 菊地清吉 高野長左衛門 地湧政兵衛
 海老原市平 䂖上金兵衛 坂本庫治 地湧元治
 寺田仁三郎 佐藤儀右衛門

雨乞い図1(奥の宮所蔵)

この雨乞い図は作者不詳です。図の右に見えるのは 笠貫沼。鳥居は奥の宮です。絵馬は、異常気象による旱天続きで、
明治24年(1891)5月の末より6月まで祈雨したときの状況を描き、奉謝の意味から同年7月20日に奉納されたもの。

雨乞い図1

以下は、上部の巻物部分の拡大

雨乞い図1上部巻物拡大

画面上部の巻物に、奉納の経緯が記されています。

掛巻も惶く言巻も綾に竒しき延喜式内の神社 蛟蝄大神ハ水土の御神にして御神コの灼然き事ハ往古より古老のロ碑に傳りて千餘百年普く諸人の知る所なれバ遠き世の事ハ称言奉らず近き維新の御代に至り 明治六年同十年同十四年同十九年の旱魃ありしも雨を祈り奉りし毎々恩恵のあらざるハなし今年の如き雨を慕ふ事一日千秋の思をなす挿秧の期節に迫れるも數十日間更に雨降らず早苗ハ延出て倒れんとし畑の作物ハ播種せしも発生する濕なく田も畑も皆悉に枯害せられんとす吾が 大神の蒼生を惠み給ふ 御霊に依てし此災ハ可止去と氏子の人々集ひ議りて昔より祈り來りし例により御沼に身禊して雩する事七日間神官又丹精を盡し祈り奉りしかバ如此の状を所聞食給ひけん旱天俄に雲を起し沛然として甘雨を令零給ひ一晝二夜に及びしより田の作物ハ速に植並べ畑の作物ハ頓に発生栄え行事の眼前 御惠を蒙り奉りし 御神徳を感佩し今茲二十四年五月の末より六月に亘り祈雨せし其現時の景況を描写せしめ額となし奉り聊報惠の微志を表し事の由を北相馬郡文間村の大字大房の氏子等畏み畏みも曰す

(裏面)

献額
世話人 文間村大字大房
 地脇吉郎左衛門 寺田幸之 海老原誠次郎 関口秀三郎 石上儀助 地脇春吉 坂本儀三郎 坂本伝之助
 田口又兵衛 高野英之助
明治二十四年七月廿日

雨乞い図2(奥の宮所蔵・利根町指定有形文化財)

蛟蝄神社の絵馬では唯一の町指定有形文化財。なるほど、タヌポンもこのデザインがいちばん好きです。

雨乞い図2

これは蛟蝄神社奥の宮の絵なんでしょうか。
ずいぶんいまより石段が長く、
境内も高い位置にあるように見えます。

右に「奉納」、右下に「同郡 下ヶ戸村中
下戸村は、現在の我孫子市の一角。
左に「明治六癸酉年六月吉祥日
明治6年(1873)6月の作。

この絵馬は、高野源蔵(充行)が
願文を書いたと言われています。
→ 参考 高野充行歌碑

翰墨林の額

翰墨林の額

さて、門の宮の拝殿内には、
他に左のような額なども掲載されていました。
書家の方にお聞きして、「翰墨林」であることが判明しました。

翰墨林(かんぼくりん)とは、古筆手鑑のひとつで、
古筆家正統の秘帖と呼ばれる、貴重な国宝級のものらしいです。

この文字の右上に小さく「慎其獨」と記されています。
これは、礼記-中庸の「君子必慎其獨也」からの言葉で、
君子は、ひとりの時でも行いを慎むものである、の意で、
「小人間居為不善」とセットで用いられたりします。

明治十二年(1879)九月 岩城書」とあります。

境内の石祠・石塔など

常夜燈

右常夜燈

左は、2011年3月11日の大震災前の状態。
石段を上がってすぐのところに左右1対、建てられていましたが、
左の燈は上部が欠落していました。これは右の燈です。
現在、この周囲の雑木なども適宜、伐採されています。

以下、修復されないままの状態で、燈の竿石の銘文を調査。

本体: 高173cm、幅55cm、厚55cm。

奥の宮の常夜燈が最近(2016年春)修復されたばかり。門の宮はまだ倒れたままです。下は、拝殿に向かって左・右の順。

倒れた常夜燈左 倒れた常夜燈右

左の常夜燈竿石銘文

以下、竿石の正面、右側面、左側面。正面は「奉納御宝前」、右は「横須賀村 願主 弓削嘉兵ヱ
左側面は、「文政八酉十月吉日」、つまり文政8年(1825)10月の造立。

左常夜燈竿石正面 左常夜燈竿石右側面 左常夜燈竿石左側面

右の常夜燈竿石銘文

以下、竿石の正面、右側面、左側面。正面は「奉納御寶前」、右は「横須賀村 願主 岩井重右衛門
左側面は、左の燈と同時「文化八未十二月吉日」、文化8年(1811)12月造立。一対の塔なのですが・・・。

右常夜燈竿石正面 右常夜燈竿石右側面 右常夜燈竿石左側面

▲ 一対の常夜燈で同村の2名からの造立なのに、左右で14年もの違いがあります。文化・文政のしかも8年まで同じなのに。
石工が彫り間違えた、ということもあるのでしょうか。どうしても、まったく同時期に造られたとしか思えないのですが・・・。
これが仮に石工の誤刻とし一対が同時期に造立されたものと仮定すると、どちらが正しいかは明らか。それは文政8年です。
なぜなら、文化8年だとすると、まだ次の元号が定められていない時期に「文政」と刻められるハズがないからです。
しかし、文政8年酉年に、文化8年未年と干支まで間違えてしまうとも考えにくい気がします。やはり時間差がある造立?
ちなみに『蛟蝄神社由来記』では、2基を当然、一対として、同時に文化8年造立と記しています。納得できません。

手水舎

右常夜燈の奥は手水舎が立っています。地震後の写真、傾いているのは手水舎か、手水石か、それとも地面か?(笑)。
手水鉢中央には、「奉竒進 御寶前」、左右外側に「正コ四甲午天 正月吉祥日」で正徳4年(1714)正月の造立。
また、中央左右に「願主 飯塚安兵衛 同 小澤与兵衛」とあります。本体: 高57cm、幅89cm、厚54cm。

手水舎 手水舎

玉垣寄付連名碑

玉垣寄付連名碑上部篆額

常夜燈と手水舎の中間辺りにある石碑。
左は、上部の篆額部分の拡大写真。「玉垣寄附連名」とあります。

『蛟蝄神社由来記』には「玉垣修繕記念碑」とありますので、
新築ではなく、本殿周りの玉垣の修繕のときの寄附をした人、
古川由右エ門外60数名の名前を連ねたもの、と言えます。
最後に「布佐町石工 堀田大吉」が刻まれています。
ちなみに、玉垣は、瑞垣、水垣ともいいます。

碑陰には、「明治廿七年六月十五日」とあり、
明治27年(1894)6月15日の造立。

本体: 高135cm、幅113cm、厚23cm。

玉垣寄付連名碑 玉垣寄付連名碑・碑陰

            同    吉濱 七三郎
            同    渡辺 初太郎
            同    染谷 惣四郎
            同    吉濱  亀吉
            同    本谷 亀太郎
            同    中村  清治
            同    山下  留吉
金二円  古川由右エ門  大字大房
金一円  木村 兼三郎 金五十銭 大野 隣之助
同    川上  廣治 同    菊地  周吉
同    飯塚  由平 同    佐藤 慶三郎
同    吉濱  正作 同    中村  角藏
同    同市良右エ門 同    野  嘉市
金七十銭 山田  豊吉 同    地脇  春吉
同    木村惣左エ門  大字横須賀
金六十銭 酒井  熊治 金六十銭 弓削 嘉兵エ
同    海老原 熊治 金五十銭 蓮沼傳左エ門
金五十銭 吉川 吉次郎 同    篠ア又右エ門   世話人
同    大竹  林海 同    弓削  茂助 金一円五十銭 古川 市平
同    小山  倉藏  河原代村       金一円    角田庄兵エ
同    白戸  運平 金五十銭 木村 伊三郎 同      川上 徳治
同    同   ヤス 同    櫻井  重助 同      蛯原 茂助
同    田ア 勘之助  布鎌村大字中谷    金五十銭   同  作平
同    同  粂太郎 金五十銭 山本 初太郎 同      本谷源太郎
同    本谷  市良  押付新田        大字大房
同    同  徳次郎 金五十銭 鬼澤  常松   世話人
同    吉濱 芳之助 同    坂本  佐七 金七十銭   坂本傳之助
同    飯塚  竹松  布川町        金五十銭   同 儀三郎
同    玉川  亀藏 金五十銭 小嶋  榮藏 同      蛯原清次郎
同    白戸 清兵エ  東京浅草區山之宿   同      大野 兼吉
同    上原  房吉 金五十銭 尾張屋 要藏 同      坂本 源作
同    門間 又次郎    大字大房
同    染谷文右エ門 同    地湧周藏
同    飯野  仲藏                布佐町
同    吉濱 清之助                  石工 堀田大吉

明治22年に町村統合があり、布川村は布川町となりました。東京浅草區山之宿は、現在の台東区浅草の一角。

中臣祓一万度行事塔

中臣祓一万度行事塔 中臣祓一万度行事塔左側面

拝殿に向かって左手、拝殿を背にして
建てられている奇妙な石塔。
正面は「中臣祓一万度行事」。
左側面に「文化五戊辰年二月吉祥日」、
文化5年(1808)2月の造立。

同様の塔が、奥の宮と 布川神社 にも。
それらは「中臣一万度行事」とあります。

これらはいったいどういう意味でしょうか。
古代豪族の中臣氏と関係あるもの?

写真を見比べて分かったことですが、
門の宮は、中臣祓と「祓」の文字があります。
これがヒントになりました。

意味がわかりました!

神道の祭祀に用いられる祝詞(のりと)のひとつに 中臣祓詞(なかとみのはらえことば) というものがあることを知り、
一挙に中臣一万度行事の意味が判明しました。略して中臣祓とか中臣祭文(なかとみさいもん)とも呼ばれますが、
この中臣というのも、やはり中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから名づけられているとか。
祝詞のなかでもっともポピュラーなもので 大祓詞(おおはらえのことば) とも呼ばれます。
また、この中臣祓詞を神前で何度も(あるいは1万回)読み、穢れをはらい清めることを 万度祓(まんどばらい) と呼びます。
したがって、中臣(祓)一万度行事(なかとみ[はらえ]いちまんどぎょうじ)塔とは、
神前で長い祝詞の中臣祓詞を何度も(1万回)奏して罪を祓いきよめることを行った記念として建てられた塔、の意味です。

大祓詞

以下、大祓詞全文。内容的に区切れるところで、段落を付けました。細部において多少、文言が異なる場合もあります。

▼ 高天原に神留まり坐す、皇が親神漏岐神漏美の命以て、八百万神等を、神集へに集へ給ひ、神議りに議り給ひて、我が皇御孫命は、豊葦原瑞穂国を安国と平けく知食せと事依さし奉りき。
▼ 此く依さし奉りし国中に、荒振神等をば神問はしに問はし給ひ、神掃へに掃へ給ひて、語問ひし磐根樹根立、草の片葉をも語止めて、天の磐座放ち、天の八重雲を、伊頭の千別に千別て、天降し依さし奉りき。
▼ 此く依さし奉りし四方の国中と、大倭日高見の国を安国と定め奉りて、下津磐根に宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて、皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて、天の御蔭日の御蔭と隠り坐して、安国と平けく知食さむ国中に成り出む。
▼ 天の益人等が過ち犯しけむ、種種の罪事は、天津罪国津罪、許許太久の罪出む。此く出ば、天津宮事以ちて、天津金木を本打ち切り、末打ち断ちて、千座の置座に置足はして、天津菅麻を本刈り断ち、末刈り切りて、八針に取裂きて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ。
▼ 此く宣らば、天津神は、天の磐戸を押披きて天の八重雲を、伊頭の千別に千別て、聞食さむ。国津神は、高山の末、低山の末に登り坐て、高山の伊褒理低山の伊褒理を掻き別けて、聞食さむ。
▼ 此く聞食しては、罪と言ふ罪は在らじと、科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝の御霧、夕の御霧を、朝風夕風の吹き掃ふ事の如く、大津辺に居る大船を、舳解き放ち、艪解き放ちて、大海原に押し放つ事の如く、彼方の繁木が本を、焼鎌の利鎌以て、打ち掃ふ事の如く、遺る罪は在らじと、祓へ給ひ清め給ふ事を、高山の末、低山の末より、佐久那太理に落ち多岐つ、早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神、大海原に持出でなむ。
▼ 此く持ち出で往なば、荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に坐す、速開都比売と伝ふ神、持ち加加呑みてむ。
▼ 此く加加呑みては、気吹戸に坐す、気吹戸主と伝ふ神、根国底国に、気吹放ちてむ。
▼ 此く気吹放ちては、根国底国に坐す、速佐須良比売と伝ふ神、持ち佐須良比失ひてむ。
▼ 此く佐須良比失ひては、罪と伝ふ罪は在らじと、祓へ給ひ清め給ふ事を、天津神国津神八百万神等、共聞食せと宣す。

以下は、上記をすべてひらかなで読み下しました。

▼ たかまのはらに、かむづまります、すめらがむつ、かむろぎ、かむろみのみこともちて、やほよろづのかみたちを、かむつどへにつどへたまひ、かむはかりにはかりたまひて、あがすめみまのみことは、とよあしはらのみづほのくにを、やすくにとたひらけくしろしめせと、ことよさしまつりき。
▼ かくよさしまつりしくぬちに、あらぶるかみたちをば、かむとはしにとはしたまひ、かむはらヘにはらヘたまひて、こととひし、いはねきねたち、くさのかきはをもことやめて、あめのいはくらはなち、あめのやへぐもを、いづのちわきにちわきて、あまくだしよさしまつりき。
▼ かくよさしまつりしよものくになかと、おほやまとひだかみのくにを、やすくにとさだめまつりて、したついはねに、みやばしらふとしきたて、たかまのはらに、ちぎたかしりて、すめみまのみことの、みづのみあらかつかへまつりて、あめのみかげひのみかげと、かくりまして、やすくにとたひらけく、しろしめさむくぬちになりいでむ。
▼ あめのますひとらが、あやまちをかしけむ、くさぐさのつみごとは、あまつつみくにつつみ、ここだくのつみいでむ。かくいでば、あまつみやごともちて、あまつかなぎを、もとうちきり、すゑうちたちて、ちくらのおきくらに、おきたらはして、あまつすがそを、もとかりたち、すゑかりきりて、やはりにとりさきて、あまつのりとのふとのりとごとを、のれ。
▼ かくのらば、あまつかみは、あめのいはとを、おしひらきて、あめのやへぐもを、いづの、ちわきにちわきて、きこしめさむ。くにつかみは、たかやまのすゑ、ひきやまのすゑに、のぼりまして、たかやまのいぼり、ひきやまのいぼりを、かきわけて、きこしめさむ。
▼ かく、きこしめしては、つみといふつみはあらじと、しなどのかぜのあめのやへぐもを、ふきはなつことのごとく、あしたのみぎり、ゆふべのみぎりを、あざかぜゆふかぜの、ふきはらふことのごとく、おほつべにをるおほふねを、へときはなち、ともときはなちて、おほうなばらに、おしはなつことのごとく、をちかたのしげきがもとを、やきがまのとがまもちて、うちはらふことのごとく、のこるつみはあらじと、はらへたまひきよめたまふことを、たかやまのすゑ、ひきやまのすゑより、さくなだりに、おちたぎつ、はやかはのせにます、せおりつひめといふかみ、おほうなばらに、もちいでなむ。
▼ かくもちいでいなば、あらしほのしほのやほぢの、やしほぢのしほのやほあひにます、はやあきつひめといふかみ、もちかかのみてむ。
▼ かくかかのみてば、いぶきどにます、いぶきどぬしといふかみ、ねのくにそこのくにに、いぶきはなちてむ。
▼ かく、いぶきはなちては、ねのくにそこのくににます、はやさすらひめといふかみ、もちさすらひうしなひてむ。
▼ かく、さすらひうしなひてば、つみといふつみは、あらじと、はらへたまひきよめたまふことを、あまつかみくにつかみ、やほよろづのかみたち、ともにきこしめせと、まをす。

[タヌポン補注] (Wikipedia 等による)

皇御孫命 (すめみまのみこと):瓊々岐命(ににぎのみこと)。天照大神直系の孫、天孫降臨の主役。
豊葦原瑞穂国 (とよあしはらのみづほのくに):日本国。
瀬織津比売 (せおりつひめ):『古事記』・『日本書紀』には記されていない神。大祓詞にのみ登場する神。
速開都比売 (はやあきつひめ):『古事記』では速秋津比古神・速秋津比売神、『日本書紀』では速秋津日命と表記。『古事記』では別名水戸神(みなとのかみ)と記している。神産みの段でイザナギ・イザナミ二神の間に産まれた男女一対の神で、水戸神はその総称。水に関係のある神。
気吹戸主 (いぶきどぬし):祓を司る神。これも『古事記』・『日本書紀』には記されていない神。葦原中国(日本の国土)の罪・穢を祓い去る神。日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称。
速佐須良比売 (はやさすらひめ):瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言う場合も。これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神。なお、速佐須良比売も『古事記』・『日本書紀』には登場しない。

うーむ。これを1万回唱えるわけですか。うーーむ。そんなことが可能なんでしょうか。
神職のかたなら、1日10回として、年に3650回。なるほど3年で到達できますか。1日3回なら、10年かかりますね。
えっ、やりますかって?タヌポンはつつしんでごえんりょいたします。最近はカラオケもやってないので声も出ないし・・・。

ところで、この祝詞は、要するにどんなことを言っているのか、というと・・・以下、要旨です。

大祓詞の要旨

▼ 高天原の皇祖神の命令によって、八百万の神々が集まり議論が重ねられ、皇御孫命(瓊々岐命)は豊葦原瑞穂国の平和で穏やかな国としての統治を任せられた。しかし、豊葦原瑞穂国には恭順を示さない神々もいた。そこで、瓊々岐命は従わなかった神々を徹底して討伐し、追い払った。国土が平穏になったので、瓊々岐命は玉座を発ち、幾重もの雲を千切るようにかき分け、高天原から地上に降臨。倭を都と定め、統治の中心地とし、そこに太く立派な柱を立て、屋根の上には高天原に届くかのように千木を大空高くそびえ立て、荘厳で立派な宮殿を造営した。

▼ さて、この国の民に多くの罪穢が出る場合は、天照大御神の神秘な儀式にならい、祓の神事をおこない、神聖で完全な祓の祝詞を唱えるとよい。祓祝詞を唱えたならば、天津神は高天原の宮殿の磐門を開き、国津神は山の頂上で、雲や霧や霞をかき払ってその詞を聞き届ける。そうすれば、罪と名が付くものは一切残らず全て消え失せるだろう。

▼ 祓い清められた全ての罪は、山の頂から勢いよく流れ落ちて、急流にいる瀬織津比売が大海原に持ち去り、その沖の潮流渦巻くあたりにいる速開津比売が、その罪を呑み込む。呑み込まれた罪は、次には海底にあって根の国・底の国(黄泉の国)へ通じる門を司る気吹戸主が、息吹いて地底の国に吹き払うだろう。そして、最後に根の国・底の国の速佐須良比売がそれをことごとく受け取り、どことも知れない場所へ持ち去って封じてくれるだろう。

▼ あらゆる罪穢をすっかり消滅させて浄化すれば、この世界に罪という罪は一切ない。天津神・国津神・八百万の神よ、『祓え給え清め給え』と申し上げることを、お聞き届けくださり、どうかお力をお授けくださいと、慎んで申し上げる。

祝詞をあげるのも、たまにはいいかも。蛟蝄神社奥の宮では、夏越大祓(6月30日)と師走大祓(12月31日)があり、
拝殿で祝詞があげられます。このとき、参詣者にも祝詞文が配布され、いっしょに祝詞を読み上げることができます。

子安大明神

石段上左手奥、大公孫樹などの樹木を背景として、上記、中臣祓一万度行事塔と向かい合わせに建っています。

子安大明神

石祠内部に「子安大明神」とありますが、造立年等ほかはいっさい不明。

子安信仰が盛んになる幕末あたりからから近代にかけての造立かもしれません。

仏式なら子安観音が主尊ですが、神道では、
祭神として浅間神社と同じ、木花開耶姫(このはなさくやひめ)。

蛟蝄神社の境内社ということになるのでしょう。

本体: 高51cm、幅41cm、厚30cm。

石段左の子安大明神と中臣祓一万度行事塔

社殿右のポイント

社殿の右

それでは、社殿の右側から、
境内の石祠などを見てみましょう。

前方奥に、鞘堂があり、4基ほどの石祠・石塔が見えます。
でも、その手前右、木立に隠れて1基、
石祠を発見しました。
その石祠から、以下、紹介します。

泉守道者

石祠表面内部に「泉守道者」とあります。これはいったい何でしょう。どう読むかも難しいですね。「泉」とは「黄泉」のようです。

泉守道者 泉守道者の石祠右側面

「よもつ・もりみちひと」もしくは、
「よもつ・みちもりびと」と読むのでしょうか。
菊理媛とともに『日本書紀』の一書だけに
登場する黄泉の国の番人。
(『古事記』や『日本書紀』本文には登場せず、
『日本書紀』の一書に一度だけ出てくるもの)

菊理媛(ククリヒメ)は、くくるの名の意味からも
イザナギ・イザナミの仲立ちをする神ですが、
それ以前に、イザナミの言葉をイザナギに
言伝するのが、泉守道者です。
縁結びの神として、菊理媛は
全国の 白山神社 の祭神となっていますが、
泉守道者も縁結びの神と言えそうです。

右側面に「宝暦五乙亥天九月吉日
すなわち、宝暦5年(1755)9月の造立。
施主 源左エ門」とあります。

本体: 高53cm、幅28cm、厚27cm。

鞘堂の4基

鞘堂の4基

境内右手、本殿右奥突き当たりにある木造の鞘堂。
内部には石祠など4基が安置されています。

中には、仏教系の石塔も見えますが、
神社境内なのに、これはどうしてでしょうか。

鞘堂の右外に1基、置かれていますが、
これは廃棄された民家の氏神の石祠のようです。

以下、左から順に見ていきます。

道祖神1

道祖神1 道祖神1左側面

石祠内部に「道祖神」とあります。

左側面には「安永二巳正月吉日」、
安永2年(1773)正月の造立。

本体: 高46cm、幅31cm、厚25cm。

十五夜塔

十五夜塔 十五夜塔右側面

上部 [月雲]の浮彫の下に「奉待十五夜塔」。
十五夜の月待塔で、この場合、主尊は
阿弥陀如来なのですが・・・。

表面左右に「天保二卯年 九月吉日
天保2年(1831)9月の造立です。

右側面には「宮前坪 女人講中」とあります。

本体: 高63cm、幅25cm、厚15cm。

天神宮

左から石祠正面、右側面、左側面。正面内部に「天神宮」。右側面は一部欠損しています。本体: 高58cm、幅36cm、厚29cm。

天神宮 天神宮右側面 天神宮左側面

右側面は「神宮寺住法印定惟 本谷□□」なのですが、次の稲荷大明神と同時に造立されたもののようです。
したがって、本谷□□は、本谷小九右衛門と思われます。石祠の大きさもほぼ同じです。

ここで、神宮寺、寺住、法印等、仏教用語が登場。これは、門の宮に神宮寺が隣接していたためです。
前記の十五夜塔もそのせいでしょう。神宮寺については、後述します。

左側面「安永八己亥七月吉日」で、安永8年(1779)7月の造立。

稲荷大明神

これも左から石祠正面、右側面、左側面。石祠正面内部に「稲荷大明神」とあります。本体: 高57cm、幅36cm、厚29cm。

稲荷大明神 稲荷大明神右側面 稲荷大明神左側面

右側面は「神宮寺住法印定惟 本谷小九右衛門」、左側面「安永八己亥七月吉日」は安永8年(1779)7月の造立。
『利根町史』に石祠「稲荷大明神」安永8年(1779)とあるのはこの石祠を指すものと思われます。外8基とは・・・。

社殿左のポイント

社殿の左

次に、社殿左ですが、あまり特筆するものはありません。

拝殿手前、建物の角に力石のような石が2基、
奥に不明の石塔が2基ほどありました。

春から秋にかけて雑草が生い茂る空き地がほとんどで、
蛟蝄神社の現在の敷地としては、
あまり活用されていないような感じです。

不明の石祠1

不明の石祠1

ずっと奥、本殿の左方に1基、石祠を見つけました。

しかし、銘文等いっさい見えず、なんであるかが分かりません。

本体: 高50cm、幅27cm、厚17cm。

不明の石塔

不明の石塔

前記の石祠の少し右手に置かれた石塔。

これもまったく内容は不明です。
あえてここに掲載したのは、次に紹介する、
いまはなき神宮寺の跡地であることを示すものが、
どこかにある、というような記述を見たような気がしましたので。
これが、もしかして、というところですが、見当違いでしょう。

本体: 高35cm、幅26cm、厚17cm。

神宮寺(跡地?)

神宮寺(跡地?)

『蛟蝄神社由来記』によれば、以下。

延宝3年(1675)真言宗布川徳満寺末寺として建立。開山法心法印 社僧として別当職であった。社領10石配分されていた。敷地は門の宮西隣で面積約5反3畝歩。明治5年(1872)神仏分離令により廃寺となった。

神宮寺の建坪は45坪、境内は1574坪もあったようです。

宮司さんの話では、写真の位置から左手の公民館あたりまで、
神宮寺の敷地だったのではないか、ということです。

公民館

神宮寺(跡地?)

神社の施設とは関係ありませんが、
前述したので参考まで。
もともとはここも蛟蝄神社もしくは
神宮寺の敷地だったのではないかと思います。

力石

力石

社殿の西南角に、無造作に置かれていましたが、
力石と呼べるにはちょっと小さいかな、という感じです。

左本体: 高15cm、幅43cm、厚26cm。
右本体: 高12cm、幅39cm、厚17cm。

門の宮の巨木

門の宮の鳥居脇や境内には、特筆すべき巨木があります。奇妙な逸話をもつ大公孫樹や利根町には珍しいアラカシなど。

神木の大公孫樹

神木公孫樹 神木公孫樹の黄葉
冬の神木公孫樹

門の宮を訪れるとまず目に入ってくるのがこの大公孫樹。
樹高23.0m、幹周11m85cm、枝張りは13m、根回り6m73cm。
文句なしの巨木。神木として申し分ありません。
雄木でギンナンはなりませんが、黄葉がとても素晴らしいですね。
さほど広くない駐車場で仕方ないところですが、
根元をコンクリートで覆われているのがちょっと可哀想です。

サイカチとアラカシ

サイカチ アラカシ

左がサイカチ、右がアラカシ。

サイカチはマメ科の高木で日本特産の木。
20〜30cmもある実はサポニンを含み
昔は洗剤として使われました。
この門の宮のサイカチは、
樹高24.0m、幹周1m95cm。

アラカシは西日本に多いのですが、
関東では珍しい種類のシイの樹です。
樹高18.0m、幹周1m80cm。
タヌポンは メインサイトのイントロの刺身
どんぐり19種の写真を掲載したい
と思っていたのですが、
探していたアラカシはここにあったのですね。

神木公孫樹の逸話

この門の宮の神木公孫樹には奇妙な逸話が伝えられています。(『利根町史』第4巻より)

神木公孫樹

それは、明治維新のとき・・・。
神仏混交廃止令により、
ここに付随して建てられていた
神宮寺が取り壊されました。
そしてこの公孫樹が残ったのですが、
「神社に公孫樹があるのは縁起が悪い」
ということで切り倒そうということに。
ところが、途中まで切っていくと・・・。

公孫樹の幹から
赤い血が流れ出した

これには皆、驚いて、結局、切るのを中止。
このことで蛟蝄神社のご神木が公孫樹という「異例」のものになったということです。
(大房・関口秀明氏談)

▼ これはとても奇妙なお話ですが、タヌポンはもうひとつ別に、公孫樹がお寺にはよくても神社にそぐわない、
ということも知りませんでしたし、奇異な感じを受けました。
というのは、いままで利根町の神社をいろいろ見てきましたが、神社でも公孫樹が神木となっているところ、
また神木ではないにしろ大きな公孫樹が立っている神社がほかにもいくつかあったような気がするからです。
たとえば 大平神社の神木羽中の稲荷大明神の公孫樹 など・・・。
もしかすると皆さんの近くの神社にも公孫樹の樹があるのではないかと思います。
それらは皆、もともとは近くにお寺がありそれに付属していたものというのでしょうか?
このあたり、お寺と神社のそれぞれに対応する「神木」である樹木の種類が、ある程度決められているのかどうか、
いつか調べてみたいと思っています。

▼ → 蛟蝄神社の友野宮司にこの点をお伺いしてみると・・・。「公孫樹は落葉樹なので、そうでないものが好まれるのかも」。
なるほど。葉が「散る」のはあまり縁起がよくないということですか。
それなら、奥の宮は落葉樹ではないシイの樹やスギ、榊などが多いから比較的に掃除がラクなのでは、の問いに、
「とんでもない、針葉樹は時期を問わず、無差別に細かく落葉するので、年中、落ち葉掃除でたいへんなんです」とのこと。

奥の宮への道

奥の宮への裏参道?

門の宮から奥の宮へ行くには、単純に門の宮の前の道路を東に700mほど進むと、奥の宮境内への石段前に到達します。
ところが、探索の早い時期に、その途中から、奥の宮へ向かう脇道をタヌポンは発見していました。それを以下、紹介します。
この路は「石段を登らずに奥の宮境内に直接行ける近道」であり「秋の例大祭で行き来する重要な路」でもあったのです。
奥の宮の石段から鳥居を潜って神社拝殿に向かう道を正規の参道とすれば、これは長い裏参道と呼ぶものでしょうか。

裏参道

門の宮から奥の宮へ行く道の途中。
どちらかというと門の宮に近い距離。
左手を見ると、細い路地が見えます。
クルマは1台がやっと通れる道幅で、
緩やかな上り坂になっています。
先は右にカーブしているようです。
これは突き進んで行くしかありません。

入口目印は、二十三夜塔

このT字路の目印は、交差点の門に立っている以下の塔。左から、その正面、右側面、左側面。道標を兼ねた塔のようです。
かなり地中に埋まっているので掘り下げが必要。正面「二十三夜塔」。左右に造立年が刻まれていますが右上部が欠損。
□□元辰年 一月吉日」が読め、欠損部分にさんずいがみえるので、「明治元年」の1月造立でしょうか。
右側面は、「此方 戸代井 大明神 道」で、この場合、大明神は門の宮を指しているようです。戸代井は戸田井橋方面。
下部に欠損と不明な個所も多いですが、「世話人」「飯野伊之助 海老原宮□ 主願飯野傳左エ門 永沢□□」。
左側面は、「此方 北河原 成田 道」、その下は女性らしき名が4名「□く はな 飯野せき たま」。
北河原は北東、現在の惣新田北の竜ケ崎の地区、成田は南東の方角です。本体: 高72cm、幅24cm、厚18cm。

二十三夜塔 二十三夜塔右側面 二十三夜塔左側面
草木に隠れた二十三夜塔

この目印も、季節によっては、
左写真のように、草木の陰に隠れる場合もあります。

また、安定性を保つために、
また多少は、地中に埋め込まねばならないので、
下部は見えなくなってしまいます。

それにしても、「塔」はともかく、
土に埋もれた左右側面部分の文字は、「主願」といい、
女性名に飯野だけ苗字があったり、不可解な文言ばかり。

自然のなかの参道

自然のなかの道

バイクで坂道を登りはじめて、
ドキドキしました。
この先に何があるんだろう?

鎌倉街道 とちがって、
いちおうは舗装されてはいます。
でも、行き止まりではなく、
何かが待ち受けているような・・・。

このときは、まだ、これが、
奥の宮へ続く道であることは
想像もしていませんでした。

以下は、その途中の道ですが、この先は、2016年以降、左右、とくに左手の樹木がかなり伐採されてしまいました。
左の崖下の空き地にソーラーパネルが大量に設置され、採光をよくするための措置のようですが、いいような悪いような・・・。

自然のなかの道 自然のなかの道

2016年現在の様子はのちほど紹介するとして、「裏参道」発見当時の足取りを以下。

交差点で鳥居、発見

交差点

自然のなかの参道は、
思ったよりは長く続いていました。
そして、ついにとある交差点に着きました。
ここで、タヌポンは白い標識に目をとらわれて、
そこが交差点であることに気付きませんでした。
ちなみに標識は「立木緑地環境自然開発地域」。

写真の右手に脇道が出ています。
斜め前方へ下る坂道なのですが、
当初はまったく見落としていました。
それは、奥の宮の石段左手から上る
クルマ用の坂道だったのです。

また、写真の交差点の左手には、
やまなみ園の入口や脇道もあったのですが、
前方ばかりに気をとられて気付いていません。

見えてきた鳥居

この途中にいくつか
ポイントがあったのですが、
先へ先へとあせって、
行き着いた先に見えてきたものは・・・。

!!!!!!!!こ、これは!

そうです、奥の宮の鳥居です。
石段を1段も上らずに、
境内に来られる方法があったのです!

見えてきた鳥居

▼ さて、前記までの写真は、「裏参道」発見時のときのカット。2011年頃以降は、大きく変化してきています。その要因は、
若い宮司さんによる再建と記念事業、そして2011.3.11の東日本大震災、さらにソーラーパネル業者による樹木伐採。

裏参道その後

2011年の裏参道

右手に見えるのが旧社務所で現在は参集殿。
この建物自体は変わりませんが、
左手のスペースに、駐車場ができています。
周りの樹木も若干、伐採されています。
便利になった反面、
タヌポンの好きな鬱蒼とした雰囲気は少し軽減しました。
が、まだまだ周りは自然が豊富です。

さて、こんどは、ここから逆にたどって、
以前、よく見ていなかった交差点付近や、
裏参道のポイントを見てみましょう。

駐車場

駐車場

ポイントを見る前に駐車場の案内。
たくさんは停められませんが、これで安心。
たまたま使用禁止の貼紙がありますが、
トイレがあるのは助かりますね。
小さな神社などはともかく、
観光地ではぜったい必要です。

手洗いは、参集殿の中でもお借りすることができます。

駐車場のないときの様子

ちなみに左は、駐車場がなかったときの写真。
こういう雰囲気が割と好きなんですが・・・。
利便性の追求と自然の保護は両立しないのか、
なんてことをこんなとき思います。

しかし、自然保護というのも、存外、コストがかかる、
ということも知らないといけないし・・・。
ただ放置しておけばいいわけではないから厄介です。
これらは単なる雑草なので、放置すれば、
荒れ放題になるばかりですから、
そんな「廃墟」に惹かれるというのは身勝手な趣味ですね(苦笑)。

道祖神2

駐車場と交差点の中間地点。下左写真の左手に見えてくる青い屋根の建物が道祖神の鞘堂です。
なお、以下の石祠・石塔は、奥の宮に近い位置にありますが、便宜上、この門の宮コンテンツにて紹介します。

左手に道祖神2の鞘堂 道祖神2の鞘堂

左から、正面「道祖神」、右側面「文化六巳十一月吉日 世ハ人□□」は、文化6年(1809)11月の造立。世話人名欠損。
左側面は「下組十九夜講中」、十九夜とくれば、おそらく女人講中と思われます。本体: 高48cm、幅34cm、厚22cm。

道祖神2石祠 道祖神2石祠右側面 道祖神2石祠左側面

庚申塔と石祠群

道祖神鞘堂と道路を挟んで向き合うように並んでいます。左が探索当初の2005年、右は2011年ですが大地震の直前、
すでに1基、前に倒れています。右端は廃棄の氏神石祠で、中央の4基は庚申塔。その左隣りに石祠が数基あります。
改めて調査しようとした大地震後の現在は、さらに倒壊がすすんで、定位置に残ったのは氏神石祠と右から3番目の塔のみ。

庚申塔と石祠群2005年 庚申塔と石祠群2011年震災直前
庚申塔と石祠群2016年調査時

左は、2016年調査時。これでも、
すでに悪戦苦闘2時間経過後。

無事な姿の唯一の庚申塔の左隣りに、
暫定的に、軽めの石祠を置き、
本来、その位置におくべき庚申塔は、
本来の位置が不明だったので、
とりあえず、泥濘を払って
樹木に立て掛けました。
もちろん、そうした作業に入る前に、
30分程度は雑草刈りが必要でした。

難題は2基、前に倒れている庚申塔。
これが周囲の泥を掘り出しても、
非力タヌポンは持ち上げられません。
両側面は辛うじて視られますが、
肝心の正面が見えません。

これではと諦めかけたのですが・・・。

後日、日頃、お世話になっている根本さんの「力」を借り、この重い2基をなんとか2人でひっくり返すことができました。
しかし、立たせるには安定させるすべがないのでそれ以上はムリ。根本さんも腰を痛めている最中なので恐縮でした。
ということで、なんとか以前の写真もふくめて説明材料はそろえられましたので、以下、氏神石祠の右から順に。

庚申塔1

庚申塔1 庚申塔1左側面

厚みがあり、重かった庚申塔。
掘られた文字部分の土が残って、
かえってシャープに文字が見えます。

定番の「日月雲」の浮彫下に、「庚申塔」。

左側面「萬延元庚申年十二月朔日」は、
万延元年(1860)12月1日、
60年に1度の庚申の年の造立。

でも、ちょっとおかしな文字が見えます。
それは「延」の字。
刻まれた字は延の異体字ではなく、
政の異体字のようです。
安政の次が万延で、これを彫った石工は、
安政時代の石塔でこの政の異体字を
好んで使っていたので間違えたのでは?
万政という年号はありませんし、
どう見てもこれは延に見えません。

本体: 高73cm、幅36cm、厚23cm。

庚申塔2

庚申塔2 庚申塔2左側面

1面6臂の邪鬼を踏んだ青面金剛、
下部には三猿も刻まれた典型的な庚申塔。
日月雲のレリーフもあります。

6臂はショケラは持たず中央で合掌し、
刀剣と宝珠、弓矢をもっているようです。

左側面は「寛政十二庚申八月廿二日」と
立木村講中」。
寛政12年(1800)8月は、
これも60年に1度の庚申の年の造立。

この塔も厚みがあって重いです。
逆勾配で、持ち上げて立てるのは至難の業、
固定することもできませんし・・・。

本体: 高74cm、幅36cm、厚24cm。

庚申塔3

庚申塔3 庚申塔3左側面

唯一、踏みとどまったここでは最大の庚申塔。
でも少し前傾気味でまた地震があると・・・。
これが倒れると・・・手強いですね。

1面6臂、邪鬼は踏んでませんが、
三猿も彫られた青面金剛の刻像塔。
持ち物も、三又の戈と弓矢、合掌で
前記の塔とほぼ同様。

左側面に「奉供養庚申塔」とあり、
その右に「元文五申正月十八日
下方に「同行邑中」。

元文5年(1740)正月の造立ですが、
これも実は60年に1度の庚申の年。
3基並んで庚申年の庚申塔が勢ぞろいです。

本体: 高86cm、幅40cm、厚21cm。

庚申塔4

庚申塔4 庚申塔4左側面

これはなんとか動かせる大きさ。
しかし、定位置が不明な所に転がっていて、
仕方なく、近くの樹木に立て掛けました。

邪鬼を踏んだ1面6臂の青面金剛、
ちょっと装束がユニークです。
下部右が欠損しているので、
三猿の存在は現状では不明です。

左側面「安永五申十月吉日 立木村講中
安永5年(1776)10月の造立。
60年に1度の庚申年ではありませんが、
それでも申年とは、律儀な仕様。

上部も少し欠損しているのか、
日月は不明、雲の浮彫だけ見えます。

本体: 高66cm、幅29cm、厚15cm。

▼ 以下、石祠が3基ほど散在していますが、笠と本体がすべて分離して、どれとどれが本来の姿なのか判然としません。
笠抜きで、分かる情報だけ紹介します。

八幡宮

八幡宮

これは、大地震前から、草の中に埋もれていて、
そばの樹に立てかけて撮影し、掲載したことがありました。
それが、大地震後、再び、雑草の中に埋没。

そして、再び、タヌポンにより同じ樹に立て掛けられました。

石祠表面に「八幡宮」とあるだけで、
あとはいっさい不明の石祠です。

蛟蝄神社の祭神の相殿神に
誉田別大神(ほんだわけのおおかみ)つまり八幡神が含まれるのですが、
そのことと、この石祠がどういう関連があるのか知りたいところです。

本体: 高47cm、幅27cm、厚13cm。

道祖神3

石祠正面内部に「道祖神」。右側面に「文政十亥九月吉日」で文政10年(1827)9月造立。左側面は「吉濱庄右エ門」。

道祖神3 道祖神3右側面 道祖神3左側面

本体: 高32cm、幅22cm、厚13cm。

不明の石祠2

不明の石祠2 不明の石祠2左側面

左側面「安政四巳三月吉日」で、
安政4年(1857)3月造立としましたが、
「政」の字がどうも曖昧です。
「安□四巳」とくれば、元号は、
安政しか考えられないのですが・・・。

それはともかく、石祠内部が読めないので、
なんとも困ります。

本体: 高37cm、幅21cm、厚13cm。

▼ 以上、奥の宮の「裏参道」を西に進み、道祖神鞘堂と対面の石塔群を調査。そして、例の交差点に戻ってみます。

交差点近辺

交差点

ここがくだんの交差点。
鳥居発見時と同じ方向で見たシーン。

左手がやまなみ園入口。
右手が石段下へ続く下り坂の車道。

明らかに見える左右の道筋。
これらに以前、どうして気が付かなかったのか不思議です。

やまなみ園の門柱にも気づかなかったとは・・・
きっと周囲がかなり雑草等が繁茂していたときだったのでしょう。

やまなみ園裏口

これは特別養護老人ホーム「やまなみ園」入口。
いや、入口というより裏口ですね。
この中を通って正門からでれば、
比較的スムーズにクルマ移動ができる感じです。
蛟蝄神社へのアクセス標識も付きました。
この裏口も以前はもっと分かりにくかったような・・・。

魅力的な小道

やまなみ園裏口左の小道

やまなみ園裏口に向かって左手。
敷地の柵に沿って、北のほうに小道が延びています。

これがまたとても魅力的な道で、
想像もつかない景色と空間がタヌポンを待っていました。

この先は、以下のコンテンツ参照。
やまなみ園の散歩道

変化する裏参道

二十三塔の目印地点から 自然のなかの参道 を通ってきた奥の宮への「裏参道」ですが、後半から大変化を遂げています。
下左がその後半部分、奥の宮から門の宮へ向かう途中。とくに南の樹木が大きく伐採され、すっかり見通しがよくなりました。
これは、写真右に見える、昨今、事業化されたソーラーパネルの南からの採光促進、効率化のための措置と思われます。

変化する裏参道 変化する裏参道
変化する裏参道

いったいどのあたりまで、「自然」が消失してしまうのか、
気になるところですが、これは所有者の権利ではあります。

蛟蝄神社奥の宮の秋の例大祭で、この道を往復するのですが、
暗い夜道よりむしろ歩きやすいかも知れません。
旧暦9月14日の夜と決まっていますので、
晴れれば必ず満月となります。月の光が煌々と冴えて、
いっそう神秘的な神事となるかも知れません。

ことし2016年の例大祭は、10月14日(金)午後10時より斎行。
いつもは奥の宮で待機していることが多いのですが、
こんどは、2つの社を往復してみようかと思います。

変化する裏参道・伐採工事

2016年8月、二十三塔のところから、上記の個所まで、
連日、伐採工事が進行しているようで、通行止めです。

二十三塔の左の道のすぐ先まで重機が・・・。
以前より見通しがさらによくなっています。
もうあのあたりまで、伐採が進んでしまっている・・・。
鎌倉街道の抜け道的な雰囲気は消えて・・・
自然のなかの参道 はなくなりつつあります(下右写真)。

変化する裏参道・伐採工事 消える自然のなかの参道

▲ 再度訪問した時、工事関係者に尋ねると、やはり採光のためで、この路の両側をほとんど伐採していくそうです。
道路のパネル側は業者が所有。逆側も現所有者の了解を得たうえで、両側の樹木の伐採を敢行していくとのこと。
例大祭の行事で「奥の宮・門の宮への還幸」については、雰囲気はそうとう今までとは変わることでしょう。


(16/09/08 再構成) (13/06/24・13/06/05・13/04/29・13/01/20 追記) (11/01/15 再構成) (10/12/22・10/12/03) (06/07/17 再構成) (05/08/12・05/08/09・05/05/25・05/02/22 追記) (05/02/14)
(16/08/24・16/08/19・16/08/05・16/07/31・16/07/30・16/07/28・16/06/30・16/05/25・14/06/19・14/04/10・13/06/05・13/04/05・11/01/02・10/03/21・09/11/28・09/02/10・07/08/12・07/07/08・06/09/16・06/09/10・06/07/16・05/10/15・05/04/08・05/02/11 撮影)


本コンテンツの石造物データ → 門の宮石造物一覧.xlsx (17KB)