タヌポンの利根ぽんぽ行 蛟もう神社門の宮

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こうもう神社
こうもう神社漢字

蛟もう神社(こうもうじんじゃ)は、孝霊天皇(神武天皇から数えて第7代目の天皇)の3年(前288)に水神である弥都波能売命(みつはのりのみこと)を、また文武天皇2年(698)には土神の波邇夜須毘売命(はにやすひめのみこと)を祀ったのがその始まりで、文間大明神ともいわれています。

記録では、「延喜式」(延喜5年(905)編集開始)の神名帳で、「相馬郡一座みつちの神社」と書かれています。
こうもう=みつちの名は、周囲が流れ海であったころの台地の姿が、水を分けて進む水蛇(みずち)に似ていたためといわれています。
まさに歴史的にはたいへん価値のあるもので利根町でいちばん古い由緒をもつ神社と言えます。
蛟もう神社には門の宮と奥の宮の2社があり、少し離れたところに建っています。ここでは蛟もう神社全般の由緒等と門の宮の境内施設をご紹介します。奥の宮については同名コンテンツ「蛟もう神社奥の宮」をご覧ください。

※以前の「蛟もう神社」は追記・再構成し「蛟もう神社門の宮」「蛟もう神社奥の宮」に分離独立させました(06/07/17)
※本ページの記述は、昭和55年3月「利根町教育委員会文化財保護審議委員会」による神社内の史跡案内および利根町史等によります

蛟もう神社門の宮 蛟もう神社奥の宮

タイトル画像は2画像のjavascript処理をしていますが、IE以外では固定1画像のみの表示となりますので、左に2画像のミニ画像を再掲します。(クリック拡大できます)

蛟もう神社とは

蛟もう=文間?

蛟もう神社の「蛟もう」という字は難しい字を書きます。現にWebでは画像で処理しないと「もう」の漢字は描けません。
読み方は「こうもう」なのですが、祝詞などで読み上げるときは「みつちのかみやしろ」と称しています。 いっぽう、蛟もう神社には、別名として文間大明神(もんまだいみょうじん)というのがあります。
この2つは音で聞くとまったく異なる名前なのですが、実は、蛟もうが変化して文間になったとも言われています。

文字変化

つまり、「蛟」と「もう」の2つの漢字のそれぞれの虫偏を削除する→さらに、「交」の字が「文」に変化、「罔」の字が「間」に変化して「文間」となる、というわけです。 蛟もう地区と言わず、このあたり一帯を文間地区と呼びますし、その名は遠く西の取手市の小文間という地名にまで波及していますが、「こうもう」という地名は神社名以外、どこにも残っていません。
書くのに難しい蛟もう神社より、その省略形から読みも変化した覚えやすい文間明神へと移行していったというのは、ありえそうな話です。

祭神は水の神と土の神

蛟もう神社の祭神ですが、水神宮のコンテンツでも紹介しましたが、水の神様である弥都波能売命(みつはのりのみこと)(別名:罔象女神)としているだけでなく、土の神様である波邇夜須毘売命(はにやすひめのみこと)(別名:埴山姫神、埴安姫神)も祭神としています。
「蛟もう」=「みつち」というのはヘビを表しているのですが、いっぽう「みつち=みつ(水)+つち(土)」と解釈できます。このことからも蛟もう神社の祭神が水の神と土の神であるというのがなんとなく納得できますね。
この水神と土神は、ともに伊邪那美命が火の神迦具土神を産んだときに生まれた神で、前者が伊邪那美命の尿(いばり)、後者が糞という、ちょっと強烈なものから誕生したとなっています。創世の神々、神代七代の神聖なる伊邪那美命ですから、現代のわたしたちの感覚とは異なるのでしょうね。水の神様である罔象女神の「罔」の字が蛟もう神社の「もう」の字とつながるのも面白いと思います。これもヘビを表す文字ですね。(05/08/12追記)

門の宮と奥の宮の2社

蛟もう神社には「門(角=かど)の宮」と「奥の宮」という2つの社があります。
西にある門の宮の社殿は、慶長3年(1598)の布川藩主松平信一が再建したという記録が残されています。
またちょうどその100年後の元禄11年(1698)には再造営されたという棟札が残されています。
(→ 棟札(むなふだ)とは、棟上げの時に建物名、施工主などを木札に書いて棟木などに設置したものをいいます)
これに対して奥の宮は元禄16年(1703)に再建されました。
どちらがメインなのかということですが、もともとは奥の宮が先に建てられたようです。が、門の宮が華麗な彫刻が施され、「朱」の色が目立ちますが、それに比較すると奥の宮は質素な感じです。

立木地区周辺地図

当初、境内にあった地図を元に作りましたが、最近の変化も加えて、立木地区周辺の地図に改訂しました。
円明寺の近隣スポットも合わせて掲載しています。

立木地区周辺地図

(05/08/09改訂) (05/02/27改訂) (05/02/22)

蛟もう神社 門の宮

両部鳥居

鳥居

利根町探索を始めてタヌポンが最初に写真に撮った両部鳥居がこの蛟もう神社門の宮の鳥居。(クリックすると神額の拡大写真になります)
両部鳥居の特徴は左右にある柱に対して縦に補強として副柱がついていることで、これを稚児柱と呼んでいます。稚児柱が縦ではなく真横についていて全体に左右に大きく羽を広げたようになっているのは三輪鳥居という種類です(狸の巻物「鳥居の簡単な見分け方」参照)。
利根町ではほかには諏訪神社境内にあるものだけだったような気がします。まだコンテンツをつくっていないのですが、龍ヶ崎市北方の王子神社もそうだったと思います。たった3つです。少ないですね。蛟もう神社の奥の宮は利根町でいちばん大きな鳥居のように思いますが両部鳥居ではありません。一般には有名な大きな神社にありますね。


下の左は鳥居をくぐって石段を登ったところから見下ろしたもので 05/04/08 撮影。右下は 05/10/15 撮影で、稚児柱の一部だけが新しくなっています。2005年の4月8日から10月15日までの間に補修されたことになります。町史に鳥居は欅造りとありましたが、補強した木材も欅なのでしょうか?

本殿側から見下ろした鳥居 稚児柱が新しくなった両部鳥居

門の宮社殿

門の宮
こうもう漢字朱色

さて、門の宮社殿はFLASHをご覧ください。
朱が美しい神社なので、赤を少し強調してみました。龍神ミズチの神社ですからそんな雰囲気で・・・。

このFLASHでは見えませんが、蛟もう神社には美しく貴重な大絵馬がいくつか奉納されています。ちょうど訪問同時期に利根町歴史民俗資料館にて絵馬展が開催されていてそこで見ることができました。利根町の寺や神社にはほかにもさまざまな絵馬が奉納されています。いつかまとめてご紹介したいと思います。(05/02/22) (05/02/14) (撮影05/02/11)


拝殿と本殿

拝殿 本殿

流れ造り、藁葺きトタン覆いと町史にあります。赤いトタン屋根の下が藁葺きになっているということでしょうか。とても藁があるようには見えないのですが・・・。
本殿(写真右)は瑞垣に囲まれています。なかなか立派な造りのように見えます。

注連縄と額

注連縄 相馬郡一座蛟もう神社の額

立派な注連縄です。この上部に掲げられているのが「相馬郡一座蛟もう神社」と記された額。
先に説明しました「延喜式」の神名帳には「相馬郡一座みつちの神社」、慶長3年の布川藩主松平信一の再建記録には「相馬郡一座門文間庄二十八か村総鎮守」とあります。相馬郡一座とは「この辺り一帯の」という意味でしょうか。この額自体がいつ頃奉納されたのかは分かりません。

神燈と手水舎

神燈

神燈は石段を上がってすぐのところに1対、建てられていますが、左手の神燈は上部が欠落しています。これは右の神燈です。文政年間(1818〜1829)に建立されたようです。御神燈、常夜燈、燈籠、石灯、いろいろな呼び方をされますね。
神燈からさらに右奥には手水舎が立っています。奉寄進御寶前と記されています(クリック拡大)。正徳4年(1714)建立。

手水舎

本殿内部

本殿内部

いまから思うと・・・
本来ここは、このように扉が開けられてはいないのではないでしょうか?
たまたまタヌポンが訪れたときが絵馬展がありそれを運び出したこともあって開いていたとか・・・
いまコンテンツを創っていてふとそんな想像をしてみました。

というのも、社務所がある布川神社など、
利根町の中でも1.2という大きな神社であっても、
特別な日以外はだれもいないようで、扉は閉まっているからです。
今度また訪ねて確かめてみます。

こんな素朴な疑問は幸か不幸か一度にどっと思いつかなくて小出しに出てくるものですから困ります。
でも、その度に何度でも訪ねてみなさい、という天啓と考えるようにしています。

扉と鍵

← 確かめてみました。やはり閉じられています。鍵もかかっています。
でも扉の大きな格子の幾つかは開いていて中を見るのは容易です。(06/07/16確認)

馬喰田伝説と絵馬

絵馬繋馬図と神馬図

繋馬図(つなぎうまず)と
神馬図(しんめず)

再訪問したとき絵馬展で見た2つの絵馬が拝殿内に返却され掲げられていました。
向かって左が神馬図、右が繋馬図。

繋馬絵馬については、縄を描き忘れたため夜中に絵に描かれた馬が出歩いて田畑を荒らしたという伝説が各地に残っているといいます。
これを馬喰田伝説と呼んでいます。

この繋馬図については、正徳元年(1711)に狩野元信が描いたものを領主の松平伊賀守が奉納したものといわれています。
馬の伝説には続編があり、縄をあとから描き加えて出られないようにしましたが、今度は餌桶を描き忘れたため、馬が弱って色がさめてしまったのだそうです。

左の鮮やかな色彩の神馬図は、昭和41年(1966)、日本画家、田中路人の作。
奇しくもその前年昭和40年頃まで、蛟もう神社ではまだ神馬を奉納する行事が行われていたといいます。

(05/05/25追記) (05/04/08撮影)

さて、その他の施設を入口に戻ってみてみましょう。

史跡案内標識

史跡案内標識

門の宮前に来るととすぐ左手に解説の立て札が立っています。
前に記した門の宮と奥の宮の2社の沿革などが書かれています。(クリック拡大できます)
それによるとこの門の宮のそのものが立木貝塚になっており、この周辺にはいろいろ遺跡などが残っているようです。

立木貝塚

立木貝塚標識と大黒天 立木貝塚案内
貝がら

立木貝塚は縄文時代後晩期(前2500〜前300)の遺跡だということで、土偶や土製耳飾、貝輪、骨角器などが出土することで全国的にみても貴重な遺跡として大切にされています。とくに土偶は最多出土の遺跡のひとつとして知られています。右上は門の宮正面入口右に大きな展示看板が建っています。(クリック拡大できます)

貝塚というだけあって貝殻が境内のあちこちに落ちています。
土偶なんかが見つかると面白いのですけれどそんな簡単にはいかないでしょう。
ここなどは多くの人に調べ尽くされてもうなにも見つからないんでしょうね。
左上の写真で、鳥居のすぐ右、立木貝塚の標柱の背後に七福神の大黒天が立っています。
☆七福神については「利根七福神」を見てください。

境内の石祠・石碑など

猿田彦大神

猿田彦の石碑

鳥居をくぐって石段を少し上った左脇に猿田彦(さるたひこ)の石碑がありました。
猿田彦は日本神道の神。邇邇芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨のときに道案内をしたということから旅人の神様ということで、道祖神が猿田彦と同一であるという説もあります。また猿田彦の奥さんは天宇受売神(あめのうずめのかみ)といいます。
史跡案内では、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征したとき蛟もう神社に参拝したという説があり、近くにはその愛妃、弟橘姫(おとたちばなひめ)の櫛塚や舟形山(ふながたやま)があるということです。
(周辺地図参照:タヌポンはまだ訪問していません=05/02/24現在・・・後日訪問達成「弟橘姫の櫛塚」参照)
このときの道案内をしたのも第何代目かの子孫の猿田彦だったのでしょうか?
ちなみに群馬県前橋近辺には橘山や北橘村があります。

余談ですが、ミズチやサルタヒコ、アメノウズメなどこうした名前を聞くと「女神転生」というゲームを思い出します。
タヌポンはこのRPGが大好きで、ほんとに女神転生制作スタッフは世界中の神々や妖怪等を調べ尽くしているものだと感心します。

中臣一万度行事

中臣一万度行事

こりゃあいったい何なんですか?というのが正直な感想です。
門の宮だけでなく奥の宮の境内にも立っています。
町史によれば文化15年(1818)建立とのことですが、それ以上は何も記されていません。
「忠臣」ではなく「中臣」ですから「なかとみ氏」のご先祖の祭神と関係があるのでしょうか?
ちなみに中臣氏の祖神は天児屋根命(あめのこやねのかみ)。ちょっとちがいますね。

石塔など5基

石塔など5基

境内右手、本殿右奥突き当たりにに石塔4基を置いた堂が見つかりました。
左から2番目のが辛うじて「奉待十五夜塔、天保年間(1830〜1843)建立」が分かるだけ。堂の右にも1基あります。

堂の位置。本殿右奥突き当たり

その他の石祠類

以下はいずれも不明の石祠。すぐ下左は本殿前右手の萱の木の根元に立っています。右下はさきほどの5基の石塔類の堂へ向かう途中の右手の草むらの中にあります。

萱の木の根元の石祠 不明の石祠

以下も不明。左下は本殿右手の奥にあるもの。右下の石碑は神燈と手水舎の中間辺りにあります。クリックして拡大すると碑の上部の文字が見えますがさて何と書いてあるのでしょう?篆書体の難しい字。教養がないので苦手です。タヌポンは「●垣寄附連名」まで勝手解読しましたが、どうでしょうか。本殿周りの瑞垣新築のときの寄附をした方の名前を連ねたもの、と推理しましたが果たして・・・。明治27年6月15日に建てられたものです。

不明の石祠 不明の石碑

町史には、石祠として「稲荷大明神」安永8年(1779)ほか8基、とあります。さきほどの5基の堂の石祠と上記の石碑以外の3基を加えればちょうど8基となりますが、どうもちがうような。「稲荷大明神」がどれなのか不明ですし・・・。
ほかに、昭和3年立木貝塚発掘記念伏見宮御手植の松(現在枯死)という記述がありました。これも境内の様子からは痕跡等不明です。

ご神木公孫樹の逸話

神木公孫樹

この門の宮左手にある公孫樹(いちょう)がご神木となっています。
しかし、この樹には奇妙な逸話があるのです(利根町史第4巻より)。

明治維新のとき神仏混交廃止令により、ここに付随して建てられていた神宮寺が取り壊されました。
そしてこの公孫樹の樹が残ったのですが、「神社に公孫樹があるのは縁起が悪い」ということで切り倒そうということになりました。
ところが、途中まで切っていくと、なんと公孫樹の幹から赤い血が流れ出したというのです。
これには皆、驚いて、結局、切るのを止めました。
このことで蛟もう神社のご神木が公孫樹という「異例」のものになった(大房・関口秀明氏談)ということです。

これはとても奇妙なお話ですが、タヌポンはもうひとつ別に、お寺にはよくても神社に公孫樹がそぐわない、ということも知りませんでしたし、奇異な感じを受けました。
というのは、いままで利根町の神社をいろいろ見てきましたが、神社でも公孫樹が神木となっているところ、また神木ではないにしろ大きな公孫樹が立っている神社がほかにもいくつかあったような気がするからです。
たとえば大平神社応順寺近くの稲荷大明神など・・・。
もしかすると皆さんの近くの神社にも公孫樹の樹があるのではないかと思います。
それらは皆、もともとは近くにお寺がありそれに付属していたものというのでしょうか?
このあたり、お寺と神社のそれぞれに対応する「ご神木」である樹木の種類が、ある程度決められているのかどうか、いつか調べてみたいと思っています。
こういった神社・仏閣などの基本知識等については探索の友、「狸の巻物」のページを設けましたのでその項目に今後、記していきたいと思います。

(05/05/25追記) (09/11/28・05/04/08撮影)

隣は公民館

公民館 本殿左隣

右上の写真は本殿の左。桜が咲いていますね。そのさらに左が公民館となっています。
公民館のさらに左は路地になっていてその路地を北に向かってしばらく行くと、薬師堂皇大神宮のポイントにつながっています。その路地に行くには一旦、蛟もう神社の前に出て神木のある駐車所のところから迂回すれば行けます。

ちょっとした苦労?

ただ、正攻法で行こうとすると路地の入り口でちょっと苦労します。もし、それを避けたい人は路地に入らずまっすぐ行き交差点から北に向かい土地改良記念碑の手前にある小路から逆に辿ってくるといいかも知れません。かなり大回りになりますが。
ちなみに、皇大神宮は前にこの蛟もう神社門の宮の境内にあったのですが平成10年(1998)9月に現在地に移されました。
えっ?ちょっとした苦労って何ですかって?ではヒント。次のうちの1つが正解。

  1. ご神木の霊が「引き返せ」と耳元で囁く
  2. 話好きのおばさんに引き止められ1時間は付き合わされる
  3. 猛犬2匹に吠え立てられる

(回答は・・・蛟もう神社奥の宮コンテンツの末尾付録へに)


★蛟もう神社の夏祭りや行事には若者の「恋」成就に関するものがあるらしいのですが、そんな季節には来た事がないし、少し離れているのでよく分かりません。この9月半ばの深夜の神事にはとても興味深いものがありますが、果たして見学等が可能なのかどうか。今後の宿題です。少しずつ分かるところから追記していく予定です。

★また神社訪問時、例の地図上で「鎌倉街道」なる名所を発見しました。帰り道に何かそれらしきところがあったので見てみると・・・これもまた後ほど・・・。→ 05/03/05に「利根町の鎌倉街道」をUP

(06/07/17追記再構成) (05/08/09・05/02/22追記) (05/02/14) (06/07/16・05/10/15・05/04/08・05/02/11撮影)

蛟もう神社奥の宮