タヌポンの利根ぽんぽ行 もえぎ野台

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もえぎ野台 目次


利根町の中央を南北に走る千葉龍ケ崎線の北東部にある住宅街のもえぎ野台。
そこは昔、東西に鎌倉街道が通っていたところと推定されています。

よろい塚・かぶと塚という大きな塚はさすがに残っていますが、
宅地開発によっていまは鎌倉街道の俤はまったく残っていません。
(鎌倉街道は、もう少し東の奥山地区に残存しています。「鎌倉街道」でご覧ください)

基本的に住宅地なので塚のほかには見所は少ないのですが、
昔からの旧家の隣に遺跡らしきものが見つかりました。が、沿革等がまだ不明です。
また、団地の中央の公園墓地に、2つのお堂が建てられ、
その周りにたくさんの石仏類が並べられていました。これらは想像するに、
宅地開発時に発見されたものをここに集めたのではないかと思います。

もし、もえぎ野台の開発がなければ、いまごろはこの辺り一面が
タヌポンの探検・探索地域になっていたことを思うととても残念に思います。
しかし、実は、もえぎ野台ができる前からタヌポンはすでに利根町に引越してきていて、
その気になれば見ることはできたわけです。
当時は、何の興味もなかったのですから同罪です(笑)。
でも、見たかったなあ。もったいないなあ。
(もえぎ野台にお住まいの皆さん、勝手を言って申し訳ありません


利根町北部マップ

利根町北部マップ

大日如来と阿弥陀如来

もえぎ野台西公園墓地

北側の通路にある入口から入るとお墓の右手にお堂が2つ並んで建っているのが見えます。
正面に立ってみると下の写真のようになります。お堂の左右にたくさんの石仏が建てられています。

もえぎ野台墓地廟全景

ちょっと疑問に思うのは、なぜ大日如来と阿弥陀如来だけをとくにとりあげてお堂を造ったのかということです。
ここに関する史料等がないので分かりませんが、堂の中をのぞくと、それらしき仏像が見当たりません。
もえぎ野台の宅地化と同時に造られた堂と思いますが、この辺りにあった寺院に何か仏像が残されていたのでしょうか。
大日如来と阿弥陀如来に関連する古い石仏や像などが安置されているのなら納得できるのですが・・・。
ここの所有者が何か大日如来および阿弥陀如来と密接に関連する宗派のお寺だからということなのかも知れません。

阿弥陀如来堂

阿弥陀如来堂

向かって左側が阿弥陀如来堂です。

えっ、阿弥陀如来って何?

仕方ありませんね。
また調べてみますか。
どれどれ・・・。

阿弥陀如来

阿弥陀如来とは

とまあ、こんな感じです。タヌポンの実家は浄土真宗なので(タヌキ教ではないですぞ!)そう言えば亡くなった祖母が
「南無阿弥陀仏」(なんまんだぶ)とよく仏壇にお経をあげていましたね。タヌポンはお経などあげたことない「罰当たり」です。
知らないし、いまは仏壇もないからあげられませんです。

大日如来堂

大日如来堂

これは右側にある大日如来堂。
さて、大日如来とはなんぞや?
ということですが、これを簡単に
説明するのはたいへんです。

説明の言葉ひとつひとつに
また説明の必要が出てくるわけで。
タヌポンみたいに何も知らないモノが
理解するには時間を要しますね。

大日如来

大日如来とは

と、こんなところですか。分かります?大乗仏教って何?法身仏って?胎蔵界?もう、際限がありませんね。
でも、少しずつ。とくに試験はありませんので気楽にたのしくやりましょうね。とりあえず、今回はここまでとして。

石仏群 全35基

下の写真左は、阿弥陀如来堂の左にある石仏9基。右は大日如来堂の右にある5基。

左石仏群 右石仏群
中央石塔群

阿弥陀如来堂と大日如来堂との間にある石仏群。なんと21基ありました。

上の9基+5基+21基=35基。
これらは、無縁仏のようなのですが、
如意輪観音や地蔵等の刻像塔もあり
これだけたくさんあれば、
特筆すべきものもあるかと・・・。

いつかひとつひとつ精しく
視てみたいと思っていました。
そして、コンテンツ再編成のために
ついに「そのとき」が訪れました。

ほぼ全基墓塔

たとえば、以下の石仏。左は宝暦6年(1756)12月と古い地蔵塔ですが、「・・・童女」とあり、墓塔。
中央は「信士・居士・信女」3名の戒名が列記されていますし、右も、「信女」と、墓塔ばかり。

墓塔 墓塔 墓塔
墓塔 墓塔

左は大日如来像のようですが、
文字関連はまったく読めません。

次の写真は、石仏の右側面ですが、
享和3年(1803)4月3日、
文化10年(1813)8月24日と
列記されています。

こういう日にちまで刻銘されているのは、
ほとんど墓碑・墓塔の場合ですね。
月待や念仏供養塔では、
10月15日の十五夜塔、
9月19日の十九夜塔などで、
日付まで記されることはありますが、
特筆すべき石仏は「吉日」が多いです。
墓塔での命日にまさか「吉祥日」は
ありえませんから(笑)。

というわけで、せっかくの35基、せっかくの調査の甲斐もなくほぼ全滅でした。(ほぼの意味は不明のものがあるため)

かぶと塚とよろい塚

かぶと塚とよろい塚

もえぎ野台団地の中央には、
貯水池のような調整池があるのですが、
いつもほとんど水はないような状態です。(なぜ?)

この調整池の西と南にこんもりとした塚があり、
それぞれ「かぶと塚」「よろい塚」と呼ばれています。

右のFlashは、調整池(北)から右方(西)のかぶと塚
左方(南)のよろい塚、をそれぞれ眺めたところです。

かぶと塚

かぶと塚

横須賀方面から北向きに見た眺め。

かぶと塚といわれていますが、
形は「かぶと」には見えませんね。

この同じ地点から、右を向くと、
下の「よろい塚」が見えます。

よろい塚

よろい塚

横須賀方面から東向きに見た眺め。

2つの塚の見分け方ですが、
天辺に2.3本、樹が目立つのが、
かぶと塚、という風に
タヌポンは見分けています。
こちらのよろい塚は、
塚の稜線は比較的なだらかです。

これも、亀のような形に見えますが
「よろい」のようには見えません。

「よろい」「かぶと」の命名には、
形ではなく別の理由があるようです。
それが以下の伝説。

かぶと塚とよろい塚伝説

この2つの塚にはこんな言い伝えがあるそうです。(『利根町史』・関口秀明氏談)

この話はなんだか崇徳上皇、菅原道真と並んで日本の三大怨霊と言われる 平将門の首塚 を連想させますね。

塚探索

人間の首と胴ではゾッとしないですが、こういう塚を見ると、登ってみたくなりませんか?お宝探し、です。
いまの子どもたちは、まるでこんなことには興味がないような様子ですが、タヌポン世代は、探検好きです。
いまは、危険なことはすべて大人が封じている感じもします。「もし何かあったらだれが責任とるのだ」なんてね。
では、昔の子どもだったタヌポンが、ちょっと探検してみることにします。自分で責任とりますからね。(とれるのか?)
小さいころから探検をしておかないと、企業が「チャレンジ精神をもって」なんて笛吹いても、新人は石橋を渡りません。

もえぎ野台自然公園 もえぎ野台自然公園
もえぎ野台自然公園

さて、調整池とかぶと塚の間に自然公園がありますが、
かぶと塚へと登れる道を探しましたが、どうも見つかりません。

左写真で、背後に見えるのが塚のようですが、
柵を越えて、登っていけそうな気もしますが・・・。
なんか見えすぎで、何もなさそうな気配もします。

よろい塚入口?

よろい塚のほうにはなにか草むらを掻き分けていけば
登れそうな気配がする場所(左写真)がありましたが、
ちょっとその気にはなれませんでした。
ここに入って行くには、ちょっと装備しないと・・・。

しかし、いつかここに入り込んでしまいそうな予感も・・・。

階段発見

よろい塚入口?

実は、この階段がどこにあるのかよく分かりません。
もういちど探しに行けば、分かると思いますが・・・。

それと、重要なことは、タヌポンは、
この階段を、これから登って行ったのではなく、
実は、降りてきて、発見した
のです。

ところで、突然話が変わりますが、
「よろい」と「かぶと」があるなら、
「たて」と「つるぎ」を探したくなるというものです。

かぶと塚とよろい塚の他にも、この辺りには、
似たような塚がいくつかあります。

それらの周囲を闇雲に周りながら、得体の知れない路を通り、わけが分からないまま突き進んで、その結果、
たどり着いたのがこの階段下だったというわけです。以下、その過程の風景をランダムに紹介します。
でも、それが地図上で、どの位置にあたるのか、探検直後に調べておかなかったため、いまとなってはよく分かりません。

以下、ランダムというより、フィルムの逆回しのように、階段手前から時間をさかのぼるように逆時系列で紹介します。

階段の上は山路

左写真が、階段が見えてきたところ。右は、その直前に通ってきた山路。ちゃんと路があるのです。

階段手前 階段手前の山路
山路への上り口

右上の山路に登る手前のようです。
左に何か建物が写っています。
これがもうひとつの入口だったのかも知れません。
どこだったかさっぱり分かりませんが・・・。

塚の頂上

これは、明らかに「塚の頂上」です。ただし、「よろい塚」「かぶと塚」の頂上ではないことだけは確かです。
右の写真は、この頂上に登る過程のやはり山路のような通路。こんなところがあったのかと驚いた記憶があります。

塚の頂上 塚の頂上手前

塚への路

これも、塚の周囲を探して回っていたときの風景。この路の先に、何かがあったはずです。

tsukaenomichi tsukaenomichi

「たて」も「つるぎ」も、石仏も発見できませんでしたが、まだ探索は途中です。
こんどは、地図も持参して、場所をそのつど確認しながら見ていきます。
やはりあの階段から登って行くのが早道かも知れません。

庄兵衛台住居跡

庄兵衛住居跡?

もえぎ野台の北の千葉龍ケ崎線寄りに
「庄兵衛台住居跡」と呼ばれる遺跡?があるような案内が、
これも 蛟蝄神社の史跡案内 に出ていました。
写真のちょっと奇妙な空き地が地図上では
該当していそうなのですが、結局は不明のままです。

古墳跡地のようなのですが、これがそうだとは見えませんね。
庄兵衛何某という人もどういう人なのか、
その史料もまだ見つかりません(探そうとしていない!)。

全体的に、古城や古墳等について、
本サイトでは未熟ゆえにあまり紹介できていません。
今後の課題ではあります。(課題・宿題ばかり・・・)


(12/07/27 追記再構成) (06/07/29・06/07/09・05/12/06 追記) (05/04/26) (撮影 12/05/18・10/12/05・08/08/06・07/05/27・06/09/24・05/09/17・05/05/05・05/04/17・05/03/14・05/02/27・05/02/26)