タヌポンの利根ぽんぽ行 佐竹街道と中田切地区

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目  次


更新経過

2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
以前のコンテンツでは不明な個所が多々あると同時に、
銘文解読の誤謬もかなり見つかりました。
しかし、銘文を読み取ると、墓塔ばかりが確定し、ちょっと残念な気分。(15/04/25)


「佐竹街道」という言葉を知ったのは「利根町の鎌倉街道」の存在を知って
何かその関係の文献を調べていたときでした。
鎌倉街道の意味すら始めはよく分からなかったわけですから
「佐竹街道」と聞いても、別次元の話のようで混乱してしまいそうでした。

当時は、タヌポンの興味が鎌倉街道に集中していたときで、
「佐竹街道」のことについては、その項目を一瞥して、
どうも鎌倉街道と比べて現存している史跡らしきものは
規模も小さく魅力にも欠けるもののように思えました。
それで「いつかは取り上げてみよう」程度の姿勢でいたのです。

したがって、佐竹街道と鎌倉街道とを関連付けては考えていませんでしたし、
ましてやそれらが密接な関係があり、いや、というより、
佐竹街道と鎌倉街道はむしろほぼ同一」、
というようなものであったとは夢にも思っていませんでした。
まったくの別物と思っていたのです。

結論から言うと・・・。続きは以下で。

本コンテンツは、「佐竹街道」の説明をしながら、
その痕跡を残す「中田切地区」の主なポイントを紹介していきます。
これも、当初のコンテンツ作成より約6年の期間を経て、
東日本大震災後の変化も含みながら、大幅に再編成しました。(12/07/17)


利根町中南部地区マップ

本コンテンツで紹介するポイントは下のマップの左端(西)を中心とした地域です。

利根町中南部地区マップ

佐竹街道

佐竹街道と鎌倉街道は基本的に同じ

冒頭からの続きです。結論から言うと・・・

単純に言えばこうなのですが、それではある疑問が残ります。つまり・・・。
なぜ、「佐竹街道」と「鎌倉街道」とがほぼ同一でありながら、まるで別物として紹介されているように見えるのでしょうか。

佐竹街道を物語る痕跡

▼ それは、佐竹街道・鎌倉街道それぞれで、取り上げられる街道の場所が異なっていたからです。

▼ 鎌倉街道と佐竹街道はほぼ同一と言っておきながら、場所がちがうとはどういう意味かよく分からないと思います。
これはつまり「現代においてその史実を語る遺跡や面影等が残存している場所」がそれぞれ異なる、ということです。

▼ 鎌倉街道については、主に「大平から押戸地区」。そこに往年の鎌倉街道を偲ばせる痕跡がたくさん残っています。
ところが、佐竹街道のほうは、そこが一時、佐竹街道と呼ばれたことを示す痕跡があるのは「中田切」地区なのです。

▼ 佐竹街道と呼ばれていた痕跡のうちで如実なものが、あとで紹介する中田切で発見されている 一里塚 です。しかし、
それは鎌倉時代に造られたものではない、つまり鎌倉街道と呼称されていた時代の史跡ではなくそれ以降のものです。

▼ だから、旧鎌倉街道の一部であった中田切地区が「利根町の鎌倉街道」としてクローズアップされないで
「佐竹街道の史跡」として紹介されているわけなのです。まるで、鎌倉街道とは別物であるかのように。
「佐竹街道(旧鎌倉街道)の史跡」と注釈付きで記されていれば、もっと分かりやすかったでしょう。ところが・・・。

▼ では一里塚は、戦国時代である佐竹氏の所領であったときに築かれたものかというと実はそうではないのです。

▼ えっ、またややこしくなりましたね。でも、これが面白いのですね。その真相は、次の項目で引き続き、説明しましょう。

佐竹街道と一里塚

佐竹街道1 佐竹街道2

中田切の交差点から左の写真の小路を入っていきます。
先が見通せるため、少し先で、
行き止まりになっている様子が分かります。
予めこの先に何かがあることを知っているか、
目的を持った人でないとこの路を進んで行くことはないでしょう。
そんな路が佐竹街道。そしてその先に一里塚がひっそりと・・・。

鎌倉、佐竹から水戸街道

佐竹街道と一里塚

一里塚築造は江戸時代から

▼ さて、先ほどの一里塚築造、
その時期について説明しましょう。

▼ 佐竹街道という名になったのは、
先にお話ししたように、
常陸国のほとんどを掌握していた
戦国大名佐竹氏の本拠地
(現在の栃木県太田市)に
この道が通じていたからです。

▼ ところが、徳川家康の力が
強大となった慶長7年(1602)、
佐竹氏は国替えを命じられます。
秋田への転封(てんぽう)です。


余談ですが、このとき佐竹氏は、
常陸の国の名犬と美女をことごとく
秋田に連れていってしまったそうです。
秋田犬と秋田美人はここから生まれたとか。

美女だけでなくイヌもそうでしたか。どーーする、チョコ(タヌポン家の愛犬の名です)?きみは駄犬ですと!
このときの佐竹当主は義宣。隠居の義重も存命中でしたが、移封の折、そんなに多くの家臣たちを連れては行けなかったでしょうから、
この話は風説の類でしょうか。元から秋田にいる人、現茨城の人に失礼ですよね。でも・・・。


▼ この時点でまだ一里塚は築造されていませんでした。つまり、佐竹氏が一里塚を造ったのではないのです。

▼ それが築造されたのはその2年後、慶長9年(1604)のこと。
家康が秀忠に命じて、江戸の日本橋を起点とし、一里ごとに塚を築き、榎(えのき)を植えさせました。
これが、慶長14年(1609)、水戸藩が成立する以前のことでした。

水戸藩が「水戸道中」と改称

▼ ここで水戸藩のことを出したのには理由があります。

▼ すなわち、慶長7年(1602)佐竹氏が秋田へ転封されたときから、佐竹街道は「水戸道中」と改称されたのです。
しかし、それが浸透するのはなんといっても徳川姓を名乗れる御三家、水戸藩の成立が大きな力を発揮しました。
それまではまだ佐竹街道という名称も少し残っていたのでしょう。そのときに造られたのが一里塚というわけです。
「水戸道中の一里塚」が正しいのですが、築造初期は「佐竹街道の一里塚」として浸透していたのではないでしょうか。

▼ ちなみに水戸藩は、慶長14年(1609)家康が11男の頼房(当時7歳)に水戸25万石を与えて成立しました。
頼房は水戸徳川氏の祖とされています。

▼ ということで、つまり、古代からの官の道、鎌倉街道は、そのひとつが関東において佐竹街道と呼ばれ、
そして水戸街道へと名前を変えていったというわけです。

微妙に異なる実際のルート

▼ 名前の変更だけでなく、そのルートは、実は微妙なちがいがあります。

▼ 水戸藩が成立したゆえに、その一部は、布川地区をそれて取手・藤代経由に変更されたといういきさつもあります。
現実に現代の水戸街道(国道6号線)は利根町の布川地区とはまったく関係ありません。
そして同様に、水戸街道(国道6号線)とはまったく別路線である、我孫子市から成田に向かう成田街道、つまり、
現国道356号線の一部(JR成田線東我孫子〜布佐駅の北)も、実は当時の佐竹街道→ 水戸道中の一部だったわけです。

▼ 中田切の一里塚のほかに、東我孫子駅南にも一里塚が残存していますが、それ以東のものは現在、消失しています。
旧水戸街道のものだけが現存しているというのも不思議なことですね。
そのことはまた別の機会に、鎌倉街道・佐竹街道・水戸街道の変遷というテーマで触れたいと思います。(また宿題)

一里塚

一里塚

一里塚と言っても「元一里塚」です。
現在は庚申塚とも言うべきでしょうか。

1本、樹が立っていますが、それは、
家康が秀忠に命じて塚を造り
そこに植えさせたという
なのでしょうか。

一里塚の周囲は水田。
秋になれば、このあたり一面、
稲穂が黄金色に輝きます。

秋の一里塚

一里塚と庚申塔の所在地が混同

▼ 一里塚に関して、『利根町史』には、所在地として「中田切中坪」とあり、「元布川下井鎗」と補足されています。
ただこれは「一里塚」としてでなく「庚申塔」としての項目に入っているので、
「中田切中坪」(元布川下井鎗)というのは、中田切中坪=元布川下井鎗と解釈できますし、
また、庚申塔の所在地が現在は中田切中坪だが、昔は布川下井鎗という「別の」地域にあった、という風にも解釈できます。

▼ さらに、庚申塔と題して、その由緒が、元一里塚、とされています。なにがなんだかよく分からない記述です。

▼ この疑問は「元布川下井鎗」という地名をタヌポンが知らないことも起因しています。
土地の人なら、ああ昔は中田切のあの辺りを下井鎗と言ったんだよということかも知れません。

▼ しかし、中田切という地名は一里塚が建てられた当初からもあった古い地名です。
ということは、「中田切中坪≠布川下井鎗」の可能性が強い気がします。
さらに、一里塚自体は移動していないとすると、庚申塔が布川下井鎗からここ一里塚へ移動してきた、
というほうが正しいように思います。

▼ そう考えれば、以下で紹介する「一里塚の庚申塔」は本来の一里塚とはまったく関係のないものということになります。
と同時に、現在の一里塚とは、『利根町史』に「元一里塚」と称されるように、あまり一里塚としての痕跡を残していない、
ということもあるのでは、などと考えてしまいます。果たして真相はどうなのでしょうか。

▲ 上記に関して『利根町史』第1巻の附録に『利根町小字地図』があり、それで「布川下井鎗」を探してみました。
ところが、「布川字上井鎗」「布川字井鎗」「中田切字井鎗」はあるのに「布川下井鎗」は見つかりません。
ただ、「井鎗」の名が付く地区は近接しているので、「中田切中坪≠布川下井鎗」と仮定しても、至近距離と考えられます。
とはいうものの、2015年春の石仏調査追記時点では、いまだに一里塚と庚申塔の正確な関係が不明なままです。

一里塚の庚申塔

一里塚の庚申塔

大震災後に来てみたら、
庚申塔5基がきれいに台座の上に
設置されていました。
以前は、下の写真のように
ランダムな配置だったのです。

地震で倒れたからなのか、
それ以前から、設置し直されたのか、
そこのところは分かりません。

一里塚の庚申塔震災前

一里塚と庚申塔は無関係

▼ 『利根町史』には、この庚申塔のひとつは宝永6年(1709)造立で外3基とありますが、全部で5基あります。
当初、宝永6年が見つからず、造立年不明の塔が1基。それが2015年に当該の庚申塔であることが確認できました。

▼ 現在の状況と『利根町史』の記述で、とくに石仏の数に関しては他の地区でも多くの食い違いがでています。
『利根町史』編集前の調査・編纂・発行時期と現在とは、相当の時間差があるので食い違いは当然、出てくるでしょう。

▼ ただ、ポイントとなる「・・・外何基」の「・・・」の石仏は、なんとか「分かりやすく」残っていてもらいたいと思います。
ほか何基と省略される石仏よりも価値があるものである確率が高いと思いますが、銘文が読み辛い場合も多いです。

▼ ちなみに、以下に紹介する庚申塔の造立時期は、一里塚設置開始の慶長9年(1604)より1世紀以上も後です。
これらの庚申塔が造立された頃には、中田切の一里塚自体も、すでに設置されていたと考えられます。
元々は一里塚だけがあり、後に庚申塔をここに建てたのか、あるいはどこかから移したかということになります。
その移転の回数も1回だけではなく、何かの折にここにランダムに集められてきたという可能性もあります。

▼ というわけで、本来の一里塚と庚申塔には、とくに密接な関連はないと考えていいと思います。

▼ タヌポンとしては、一里塚としてでなく、いまや「庚申塚」と変貌したこのポイントにおいて、
当初不明だった宝永6年造立の庚申塔の存在確認が課題でしたが、2015年春、なんとかクリアすることができました。

▼ 宝永6年造立の庚申塔は、5基の中央にある少し小ぶりの駒形、下部に三猿が彫られたものでした。
ほかに、不明だったものもかなり判明、以前読み間違えていた銘文も正しました。以下、5基、左から詳細を紹介します。

庚申塔1(文字塔)

庚申塔1 庚申塔1左側面

表面は「庚申塔」のシンプルな文字塔。

左側面に、「文政五年壬午霜月穀旦」。
つまり、文政5年(1822)霜月11月の造立。

なお、「穀旦」の解読に苦労しましたが、
吉日や吉祥日・吉旦・吉辰・良辰と同様の、
特定の日を限定しないときに用いる言葉。
利根町の石仏調査で初めて登場しました。

台石には「上坪」とあります。
でも、どの地区の「上坪」でしょうか。
中田切の上坪とするのが妥当でしょうが、
他から移転してきた可能性がある以上、
「中田切」と明示されない限り、
断定は難しいのかも知れません。

台石両側面に何か彫られているようです。

本体: 高89cm、幅32cm、厚19cm。
台石: 高17cm、幅42cm、厚29cm。

庚申塔1台石右側面 庚申塔1台石左側面

台石右側面には、縦に5人の名前。
風化で一部しか読めません。
□関左衛門
權左衛門
十兵衛
□兵衛
□兵衛

写真右は台石左側面ですが、
これは隣接の庚申塔との間が狭く、
文字がある、としか言及できません。

庚申塔2(青面金剛刻像塔)

庚申塔2(青面金剛の刻像塔)

上部に日月雲の浮彫をあしらった、1面6臂の青面金剛を刻像した庚申塔。

各臂は、中央で合掌し、三又戟、法輪、弓、矢を持っています。

右上に、「明和九壬辰」、左上に「九月吉日」。
すなわち、明和9年(1772)9月の造立です。
ちなみにこの年は「迷惑な年」ということで、11月に改元し、安永元年に変ります。

青面金剛は、足下に邪鬼を踏みつけ、
その下の大きな台石のような部分には三猿が彫られています。

本体: 高91cm、幅46cm、厚30cm。

庚申塔3

庚申塔3

下部の三猿で庚申塔と断定できるのですが、上部がかなり白くコケが付着。
タオルで擦ったりしてようやく文字がなんとか読み取れるように。

これがまさしく『利根町史』が代表として挙げた庚申塔でしたが、
他の4基は比較的造立年が読み取りやすいのに、なぜこれだけを取り上げたのか。
その理由が不明です。5基のなかではいちばん古い造立ではありますが・・・。

それはともかくとして、銘は・・・中央に「奉造立庚申日待」、右に「宝永六丑年
左に「十月廿三日」、下方に「中田切村 七人」。
宝永6年(1709)10月23日の造立。23日は二十三夜と関係あるのかどうか?

本体: 高63cm、幅34cm、厚22cm。

庚申塔4(青面金剛王文字塔)

次は「青面金剛王」が刻まれた文字塔。利根町はなぜか「青面金剛」ではなく「青面金剛王」ばかりです。不思議?
文字塔ですが、塔の上部は、日月雲のレリーフで飾られています。よくある三猿は彫られていません。

以下写真中央は右側面で、「文政二年未卯秋九月吉日」、すなわち文政2年(1819)秋9月の造立。
写真右端は左側面。「天下泰平 五穀成就」とあり、これら左右側面の文字の下部には名前が刻まれています。
なお、五穀豊穣ではなく五穀成就とは?「五穀がよくできること、またはできるように願うこと」の意の熟語として存在。

庚申塔4(青面金剛王文字塔) 庚申塔4(青面金剛王文字塔)右側面 庚申塔4(青面金剛王文字塔)左側面

右側面下部には以下。

河内□右衛門
河内勝左衛門
中□清左衛門
高橋 良兵衛

左側面下部には以下。

櫻井 五郎兵衛
木村 助左衛門
池田 久左衛門
海老原傳右衛門

上記は講中のメンバーでしょうか。

本体: 高108cm、幅33cm、厚20cm。

庚申塔4(青面金剛王文字塔)右側面下部 庚申塔4(青面金剛王文字塔)左側面下部

庚申塔5(青面金剛王文字塔)

これも前記と同様の「青面金剛王」が刻まれた文字塔。日月雲の浮彫も同様。ただし文字はかなり凝っていますね。

右側面には「相馬郡中田切邑」。この塚に直接かどうかは不明ですが、中田切区に造立されたことは確かです。
左側面の「文政三年庚辰暮春勒之」は、文政3年(1820)暮春(=陰暦3月の異称)にこれを勒す(刻む)、の意。

庚申塔5(青面金剛王文字塔) 庚申塔5(青面金剛王文字塔)右側面 庚申塔5(青面金剛王文字塔)左側面
庚申塔5(青面金剛王文字塔)左側面下部

左は、上右写真、塔の左側面の下部拡大写真。
人名が4人ほど彫られていますが、風化でよく読み取れません。
願主か、施主か、世話人か、講中か・・・?

木村武右衛門
□□源右衛門
辻  □兵衛
□□ 左衛門

本体: 高109cm、幅35cm、厚24cm。

ふるけえどう

佐竹街道3

ここは取手東線と佐竹街道がクロスした交差点で、
上記一里塚のある方向からクロスした路の奥を見たところです。

ここをまっすぐ行く路も佐竹街道の一部のようです。この路は
以下で紹介する稲荷大明神・中田切区集会所に続いています。

佐竹街道は、集会所前を通り過ぎてさらに
もう少し行ったところを左折、北上する「ふるけえどう(古街道)」
と呼ばれている細道もその一部だと言われています。

しかし、その古街道はしばらく行くと右方(東)にそれています。
佐竹街道はその突き当たりを右折せずまっすぐ北上し、
横須賀地区から大平方面に向かっていると推定されています。

交差点からふるけえどうへ


さて、交差点に戻り、稲荷大明神に向かう前に、すぐ左手にひとつポイントがあります。
それが地蔵堂です。まず、これから紹介し、その後で、稲荷大明神を見てみましょう。

地蔵堂

地蔵堂

県道取手東線に面して「佐竹街道」とクロスした地点にあるのが地蔵堂。
堂の手前にはブロック塀に沿って
いくつかの石仏と大師堂があります。

地蔵堂は額もなにも出ていないので
見逃してしまうかも知れません。
しかし中には貴重な鎌倉時代の
地蔵像が残されています。

鎌倉期の作ということで、この地域が
鎌倉街道の一角であったという説の
根拠ともなりうると考えられています。

ほかに、ここ中田切地区には、源義経の伝説も残されています。
すなわち、兄頼朝に追われて弁慶とともに奥州に逃げ延びるときこの地を通り、ここで船に乗りました。
そのとき船頭をしたのが現在、中田切に住む河内家の先祖であったといわれています。
頼朝との和解ができたときには恩賞を与えるという約束状を義経からもらい、永く家宝としていたそうです。

赤地蔵

赤地蔵

地蔵堂の本尊は地蔵菩薩で別称「赤地蔵」と呼ばれています。
堂内の写真を見ると確かに厨子など赤い色が見えます。

「赤地蔵」は、この写真のどの地蔵でしょう?
右の大きな地蔵なのか左の小さな地蔵なのか。
おそらく厨子の中に安置されているのでしょうね。

さらに鎌倉期の作といわれるものが赤地蔵なのか、
そうでなく別のものなのか。
『利根町史』の説明だけでは判断がつきませんね。

ちなみに、地蔵菩薩は眼病に効験があるということです。

中田切の大師

地蔵堂に向かって左手前、ブロック塀のそばに建っているのは、番号札なしの大師堂。木造です。
中の大師像は、福耳というのか、とても大きいです。赤いマントのような衣も珍しいですが、なんかドラキュラみたいな・・・。

大師 大師像

大師像本体: 高52cm、幅27cm、厚14cm。

入口の石仏6基

石塔 石塔

ブロック塀とともに石塔の保全とかがなされた旨、大師堂脇の碑に記されています。
平成7年(1995)7月15日竣工ということですからそんなに経ってはいません。といっても、・・・17年前かぁ。

二十三夜供養塔 安永4年(1775)と『利根町史』にあります。どれでしょうか。あるとしたら左から3番か5番あたり?
一見して、どれも風化が進んでいるようで文字が判読しづらそうですが、左から見てみましょう。

墓塔1

以下、表面・右側面・左側面を見ましたが戒名ばかり。これは墓塔のようです。詳細は省略します。

墓塔1 墓塔1右側面 墓塔1左側面

本体: 高58cm、幅26cm、厚17cm。

墓塔2

墓塔2

表面上部に種子キリーク、その下に「良清淨圓大徳靈位」。
これも、戒名で、墓塔ですね。

造立日か命日かは不明ですが、 右に「安永五申天」、
左に「六月廿九日」とあります。
安永5年(1776)6月29日は、命日でしょうね。

本体: 高73cm、幅27cm、厚17cm。

子安観音塔

子安観音塔 子安観音塔左側面

赤子を抱いた像とくれば子安観音ですが・・・。
左側面に、「安政二卯年八月吉日」とあり、
安政2年(1855)8月の造立が分かります。
これで、子安観音とほぼ言えます。

というのは、江戸初期だとすると、
まだ子安観音は登場していないからです。
その場合は、如意輪観音や聖観音が、
赤子を抱いている、ということになります。
地蔵が赤子を抱いているケースもあります。

また、幕末等の子安観音塔には
銘文が少ない傾向があり、
月待のためのものか信仰形態が不明です。

いずれにせよ、この塔は、『利根町史』にある
二十三夜塔ではないですね。

二十三夜塔

二十三夜塔

刻像塔ではないし、これも形からして墓塔かなあと思ったら・・・。
中央に「奉待廿三夜供養塔」と読めます。
「十」と最初思いましたが「廿」でOK。
「二十三夜塔」であることはこれでわかりました。
次は造立年を探します。

右上に「天下泰平」、左上の「國土安全」に続きます。

右下は、「安永四未天」。左下は「九月廿三日」でしょうか。
すると、これが『利根町史』にある「安永4年(1775)」の二十三夜塔のようです。

二十三夜の本尊は一般に勢至菩薩ですが、
上部に彫られた種子は、確かに勢至菩薩のサクです。
二十三夜塔は、刻像塔より文字塔が多いようです。
刻像された月待ち塔の場合、利根町の傾向としては、
圧倒的に半跏思惟型の如意輪観音が多いです。

本体: 高77cm、幅30cm、厚27cm。

墓塔3

墓塔3

地蔵菩薩が刻像された光背型の塔。
光背右上に「妣臨比丘尼」とあります。
「妣」とは、亡き母という意味なので、
臨比丘尼という名の尼さんを母にもつ人が建てた墓塔と思われます。

妣臨比丘尼の下に小さく「安永六丁酉」「十二月十四日」とあります。
安永6年(1777)12月14日が命日でしょう。
そして、光背左下に「久治エ門」。
この人が臨比丘尼の子息ということでしょう。

頭の形で地蔵菩薩としましたが、この部分が一部欠損しています。
もしかすると別の観音菩薩かも知れません。

本体: 高48cm、幅26cm、厚14cm。

墓塔4

墓塔4 墓塔4右側面

真ん中のいちばん上に「先祖」の文字、
これは「先祖代々の・・・」と続く感じです。
下方には「淨光信□(士)」等が見えるので
これも、墓塔と想定されます。
石塔下部が少し地中に埋もれています。

右側面にある文字は、
下総國相馬郡中田切村」のようです。

本体: 高43cm、幅26cm、厚15cm。

中田切の稲荷大明神

稲荷大明神

この稲荷も創立は不詳。
慶応年間(1865〜)に
布川の大工藤兵衛により修復されたとあります。

大震災後に訪れたら、イメージが・・・。
真っ白な鳥居が鮮やかです。
また、鳥居から石段まで、わずかですが
参道も白く舗装されていますね。
以前は、確かこうではなかったハズ。

もしかして、地震後に、と思ったら・・・。

鳥居

稲荷大明神

鳥居の柱の裏を見ると、
平成20年(2008)8月建立。

ということは、4年以上も、
ここには来てなかったのかしら?
気が付きませんでした。でも、
地震のせいで鳥居が壊れたり、
倒れたわけではなかったのですね。

まだピカピカの鳥居は、明神鳥居。

稲荷大明神

神額

神額

神額も同時に新しくなりました。
この稲荷大明神も正一位です。
正一位、位階、神階とは 参照。

ちなみに、以前の鳥居(右写真)は、
昭和47年(1972)8月の建立で、
建て替えが必要なほど古いとは
思いませんでしたが、
計算するともう40年近く
経過していたわけですね。

神額

拝殿

拝殿

賽銭箱とか鈴などは見えません。
照明ランプが付いているだけ。

中をのぞいてみると、奥に
本殿らしきものが見えます。
上部の鴨居のところに額が
いくつか見えますが
どうも絵馬のようです。
もっとよく見てみたいですが
扉が開かないとムリなようです。

拝殿上部

▲ 上の拝殿写真は、2015年再調査時のものに変更。常夜燈とキツネが新しくなりましたので。

本殿

拝殿脇に廻ると本殿が少し垣間見える場所がありました。流れ造りで、なかなか立派。由緒がありそうに見えました。
祭神は、やはり倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。古い石灯籠も対で見えます。
中田切の稲荷大明神の祭礼は、12月15日初午で、戦前は、「強飯式」という行事が行なわれていたそうです。

本殿 本殿
稲荷神社改修工事看板

2015年再調査時、本殿脇で見つけました。
稲荷神社改修工事
平成二十四年十一月吉日」とあります。

平成24年の9月吉日で新しい常夜燈が建てられましたが、
11月までにはどこが改修されたのでしょうか?

本殿を囲う瑞垣部分が新しい木材のように見えましたので、
それが11月に完成したのかも知れません。

手水舎

入り口からすぐ右手にある手水舎。屋根の部分が平成16年(2004)12月新築で、下右は直後の2005年の写真

手水舎 手水舎奉納

手水石

手水石

正面「奉納」と彫られた手水石。
左側面(下左写真)には「天保七丙申□ 二月□□」「氏子中」。
天保7年(1836)2月に氏子中によって造立。

右側面(下右写真)には、「世話人」4名が記されています。
蝦原九兵エ・高橋由右エ門・渡邉□助・海老原傳吉」。

本体: 高33cm、幅76cm、厚35cm。

手水石左側面 手水石右側面

手水を紹介しましたので、ここでちょっとおさらいを。

正しい手水のとり方

さて、いままでとくに説明しませんでしたが基本的なことを。
手水とは「ちょうず」または「てみず」、手水舎は「ちょうずや」または「てみずや」と呼びます。
水が入っている本体を水盤もしくは手水鉢(ちょうずばち)ともいいます。お参りの前にするお清めの水ですね。

では「手水のとり方」です。
予めハンカチなどを用意しておくといいですね。口にくわえている人も時々見かけます。濡らした手を拭くためです。

  1. 右手で柄杓(ひしゃく)を取ります
  2. 水盤から水を汲み上げ、左手にかけて洗い流します
  3. 柄杓を左手に持ちかえ、同様に右手を洗い流します
  4. 再び柄杓を持ちかえて、左の手のひらに水を注ぎ溜めます
  5. その水で口をすすぎます(柄杓に直接口をつけない!)
  6. すすぎ終わったら、水をもう一度左手にかけて流す
  7. 最後に、柄杓を立て残っている水で柄の部分を洗い流し、元の位置に戻す

水は飲むのではなく「すすぐ」のですね。ガラガラとうがいなどしてはいけませぬです。
「口をすすぐ」のが大切、「手を洗う」だけでは足りません。
(上記は、いつか狸の巻物 神社設備・手水の項目に入れときますね)

力石

力石2基

手水舎の背後に大きな石が見えます。
2基あるようですが、右の1基は何か文字が刻まれています。
しかし、地中に埋まっている様子なので
少しシャベルで掘り下げてみました。

これらは「力石」と呼ばれるもののようです。

地中に埋まっていたほうの銘文は「二十四〆目」。
「〆」は「貫」の異体字です。

力石左: 高17cm、幅47cm、厚40cm。
力石右: 高39cm、幅27cm、厚54cm。

▼ さて、以下の眷属キツネと常夜燈は、なんと2015年再調査時には新しいものに変っていました。
これらの記述はそのまま残し、直下に現在の新しい石造物を紹介します。

旧眷属キツネ

どことなく愛嬌がある風貌に風化しているキツネが1対。年代ものです。大地震にもコン性入れて、眷族は健在でした。

眷属左 眷属右

旧常夜燈

常夜燈のほうは、右が、上から宝珠石、請花、笠石の3つが地震で落ちてしまったようです。まあ仕方ないところです。
この常夜燈は、竿石部分に、「明治18年(1885)11月吉日」と記されています。もっと古いものかと思いましたが・・・。

灯籠左 灯籠右 灯籠右

▲ 上記のキツネ・常夜燈は廃棄されたのか、2015年現在、どこにも見当りません。

眷属キツネ

眷属左 眷属右

新しく造立された眷属キツネ。
右のキツネは巻物、左は宝珠を
くわえているようです。

本体: 高54cm、幅17cm、厚38cm。

常夜燈

常夜燈 常夜燈背面

これも新しくなった常夜燈。
背面に「平成二十四年九月吉日」。
もう一対の背面(写真省略)には
中田切区」とあります。

平成24年(2012)9月の造立ですが、
前回訪問時は同年の5月でした。

本体: 高146cm、幅52cm、厚52cm。

不明の石塔

これは以前から右常夜燈の隣にあった古い石塔です。破棄されずにそのまま残されていますが、これが何かは不明です。
正面の大部分が剥落欠損して上の文字の断片しか見えません。庚申塔の庚の字と断定するには至りません。
下中央は、左側面で明快に読めるのは左下の「九月」だけ。下右は右側面で「天下泰平」のようです。

不明の石塔 不明の石塔左側面 不明の石塔右側面

本体: 高54cm、幅25cm、厚25cm。

道祖神2基

石祠

本殿から見て右斜め前に2基、
何か由緒がありそうな石祠が並んで建っています。
この後で紹介する集会所脇の石仏とは趣が少しちがいます。
しかし、いずれも、よく見ても、建立日は無論、
これが何なのか判断できる手がかりがありません。

ただ、『利根町史』に「道祖神2基」とあるので、
その記述が現在も妥当と言えるなら、
この2基しか該当するものは他にありません。

さらに写真右端の樹の根元に妙な石が・・・。力石ではなさそう。
何か文字が彫られているようですが、これも不明です。

道祖神左 道祖神右 樹の根元の石

道祖神左: 高38cm、幅23cm、厚12cm。道祖神右: 高48cm、幅25cm、厚28cm。石: 高31cm、幅23cm、厚9cm。

神木?

神木?

強いて言えば、集会所左裏手のこの2本。
右は公孫樹ですが、左は分かりません。

神木というほど大樹というわけでもないです。

▼ さて、この稲荷大明神の右手には中田切の集会場が隣接しています。四郡大師ほか貴重な石仏もあります。以下。

集会所と大師・石仏

中田切区集会所

ここの集会所の看板には、中田切集会所ではなく、「中田切区集会所」とありましたので、その名で紹介します。

中田切区集会所

初期のころ2回目に訪れたとき、
なにか会合が催されている様子でした。
他でもそうですが、それまで人を見かけたことが
まずないので、珍しいなと思いました。
雨戸を閉め切っているところがほとんどです。

せっかく地区の人たちがいたわけですが、
ひとりかふたり、ちらっとタヌポンを一瞥したくらいで
とくにだれも話しかけてはきませんでした。
タヌポンも会議中の人に声をかけるほどの質問を
持ち合わせていませんでしたので、結局、
最後まで会話は成立しませんでした。

大師52番

稲荷大明神の手水舎の背後、常夜燈の右手に大師堂があります。52番の札が見えます。

大師52番 大師52番札

以前(2005)は極端に大きさがちがうように見える像が2体(下右)堂に。現在は・・・並び順が右左変わっただけ?

大師像2015 大師像2005
奉納

堂内右の大師像の背後に棟札のような板が見えます。

奉納 菊池国雄」「平成参年壱月六日
平成3年(1991)1月に奉納されたものはいったい何?

大師堂・鞘堂が建て替えられたのかも知れませんね。

大師像左本体: 高33cm、幅28cm、厚17cm。
大師像右本体: 高31cm、幅26cm、厚17cm。

石仏13基

石仏13基

大師堂の裏、集会所の左脇に
石仏が13基ほど並んでいました。

でも、これはタヌポン泣かせの配列ですねえ。
前のスペースの狭さはともかく、
各石仏同士の間隔がほとんどありません。
ぴっちりくっ付けて設置されているので、
側面の建立日等の銘文がもしあったとしても
これでは、撮るのはもちろん、見ることすらできません。

すでに拓本等がとられていて
調査済みであればいいのですが、もし、そうでないと・・・。
まあ仕方ありません。できる範囲で見てみます。

十九夜塔1

十九夜塔1

刻像されているのは、左手に未敷の蓮華(みふのれんげ)を持った
聖観音(しょうかんのん)の立像と思われます。
上部に聖観音の種子サが彫られています。

右には、「爲十九夜念佛二丗安樂也
とありますので、十九夜念仏供養塔と思われます。
十九夜塔といえば、利根町は圧倒的に如意輪観音が多いのですが、
これは珍しいケースです。

ほかに、下部に左右にまたがって、「敬白」。
左に「元禄五壬申七月吉祥日」とあり、元禄5年(1692)7月の造立。
その下には、「人數十五人」。
台石部分に「中田切村」が彫られています。

本体: 高95cm、幅36cm、厚24cm。

十九夜塔2

十九夜塔2

これぞまさしく典型的な十九夜塔。

まず、刻像されているのは、半跏思惟型の如意輪観音。
光背右手に「爲奉待十九夜念佛二世安樂也」で、十九夜塔と分かります。

光背左には「元禄五壬申十月十九日」。
前述の十九夜塔と同年の元禄5年(1692)ですが、
これもたびたび目にする10月19日の造立。
造立日が19日であればほぼ十九夜塔と考えていいとされています。

観音像の左の一臂の一部が欠損しているのが惜しいです。

本体: 高95cm、幅42cm、厚25cm。

十九夜塔3

十九夜塔3

これも刻像されているのは、半跏思惟型の如意輪観音像。

□□夜念仏供養」とあり、また「□□十月十九日」という造立日が見えますので、
十九夜塔と思われます。ほかに「同行十□人」の文字も。

造立年がまったく読めないのが残念です。

本体: 高93cm、幅37cm、厚22cm。

十九夜塔4

十九夜塔4

これは、上下で2つに折れたものをつなぎ合わせた塔です。
つなぎ目のところが一部欠損したために、その部分の文字が見えません。
しかし、前後の関連で推定することができます。

この塔もやはり建立日の「十月十九日」や、「如意□観音」の文字が読めます。
したがって、これも十九夜塔と推定できるのですが、
刻像塔ではなく、文字塔になります。

万□二年」と大事なところが欠損していますが、
この形から見て、万治2年(1659)と思われます。
十九夜塔のなかで如意輪観音が刻像される前の段階、
もっとも古いタイプの貴重なものと思われます。

しかし、ここは、「十九夜塔」ばかり集めたようなそんな雰囲気があります。

ほかに「當人拾七人」などの文字も見えます。

本体: 高79cm、幅31cm、厚21cm。

十九夜塔5

十九夜塔5

肝心の上半分が欠落した石仏です。
しかし、刻像されているのは、やはり半跏思惟型の如意輪観音。
右には「同行三十一人」しか情報はありませんが、
左に、「甲子年」「十九」の文字が見えますので、
これも、十九夜塔である可能性は十分あります。
甲子年の可能性としては、「元治元年(1864)」「文化元年(1804)」
「延享元年(1744)」「貞享元年(1684)」「寛永元年(1624)」など。
タヌポンの勘としては延享元年(1744)あたりかな?

本体: 高46cm、幅33cm、厚22cm。

三山百番塔

三山百番塔 三山百番塔左側面

羽黒山 湯殿山 月山」の出羽三山の下に、
西國 秩父 坂東供養塔」、とあります。

出羽三山信仰を主体に三山の登拝をし、
さらに、西国秩父坂東の霊場100観音を
巡った記念の塔です。

左側面に「天保十四癸卯年十一月吉日」。
天保14年(1483)11月の造立です。

側面に文字が彫られたのはこの1基だけで、
しかもこれはちゃんと横から見られました。
当初のタヌポンの心配は杞憂で済みました。

本体: 高66cm、幅27cm、厚18cm。

墓塔5

墓塔5

地蔵菩薩が刻像された光背型の塔。
地蔵菩薩塔とタイトル付けしようと思ったのですが・・・。

光背右上に「源誉隆圓法師」、
左には「享保四己亥天十二月七日」。

即ち、享保4年(1719)12月7日命日で、
どうも僧侶の墓塔というのが妥当かと・・・。

本体: 高64cm、幅34cm、厚23cm。

墓塔6

墓塔6

種子のサの下に戒名が3つ。
快屋了然信士 明和八夘九月朔日
春□妙秀信女 明和五子四月十一日
霜山妙照信女

これらは戒名と、命日で、やはり墓塔と思われます。

本体: 高70cm、幅28cm、厚16cm。

墓塔7

墓塔7

真ん中に「妙法道春灵」・・・これも戒名のような気がします。
右に「元禄六癸酉」、左に「正月五日」、
即ち、元禄6年(1693)正月5日、が読めます。

本体: 高68cm、幅30cm、厚18cm。

墓塔8

墓塔8

板碑型の塔で、真ん中に蓮華の茎のような仕切りがあるもの、
これは左右に夫妻などの戒名が記された墓塔のケースが多いようです。

右に、種子サの下に「延宝二□□ 道春禪定門灵位
左も、種子サの下に「延宝二甲刁年 十月八日 妙悟禪定尼灵位

灵は霊、刁は寅の異体字。延宝2年(1674)の墓塔でしょう。

本体: 高69cm、幅34cm、厚20cm。

墓塔9

墓塔9

半跏思惟型の如意輪観音の刻像塔なのですが、
十九夜塔などの月待ち塔ではないようです。

光背右手に、「清空禅定尼薨」とあり、
左には「寛文五乙巳天 十二月十五日」。

寛文5年(1665)12月15日に、清空禅定尼が薨じた、ということでしょう。
したがって、またしても墓塔ということになります。

本体: 高65cm、幅38cm、厚20cm。

墓塔10

墓塔10

地蔵菩薩」が刻像されていますが、
右に「□本涼澟禅定門」「霊位」とあり、
これは戒名ですので、墓塔となります。

左には命日らしき日付が彫られていますが、
寛永拾癸酉年九月十六日」と、これは暫定です。
癸酉ははっきり読めるのですが、その上が剥落欠損もあり、不鮮明です。
寛永10年なら1633年とかなり古いものになります。

本体: 高60cm、幅25cm、厚17cm。

馬頭観音塔

馬頭観音塔

馬頭觀世音」の文字塔です。
右に「天明六午年」、左は「七月□日」。
一部不明なところもありますが、天明6年(1786)7月の造立。

本体: 高49cm、幅24cm、厚13cm。

▼ 以前、「庚申塔もあります」などと記しましたが、庚申塔は稲荷大明神境内・集会場ともにどこにも見かけませんでした。
もしかすると 一里塚の庚申塔 の5基のうち1基はここから遷した?そうすると 不明の石塔 は庚申塔ではないかも・・・。

▼ 中田切区集会場はとくに元が・・・寺であり廃寺となったというような話は聞いていません。
しかし、神道系の神社境内であるこの敷地に上記のように数多くの石仏、とくに墓塔が置かれているのはなぜでしょう?


(15/04/25・14/05/22 更新) (12/07/17 追記再編成) (10/01/31追記) (06/05/19) (撮影 15/03/24・15/03/18・15/03/16・12/05/08・09/05/18・09/04/29・09/04/03・07/09/08・07/07/28・07/07/08・06/09/10・06/05/20・05/09/04・05/08/20・05/07/10・05/03/20)


本コンテンツの石造物データ → 佐竹街道と中田切地区石造物一覧.xlxs(19KB)