更新経過
「宮本天庸先生之碑」を発見。碑陰の読み下し等紹介。(16/06/23)
2013年より石造物データをページ末に掲載するため各コンテンツを順次見直ししています。
本コンテンツもその一環で、ようやく再調査を重ねて、更新。(16/06/09)
根本寺は、利根町でも最も古い寺のひとつと言われています。
当初、未調査だった根本寺墓地の石仏調査をしてみると、
初期の十九夜塔と思われる寛文時代(1661〜1673)のものが3基も見つかりました。
根本寺は、鎌倉街道コンテンツの一部として構成していましたが、
今回再編成するに当たって、大幅な書き換えをして、単独コンテンツとして独立させました。(12/08/23)
根本寺に最初に訪れたのは、正門である山門からではありません。
しかも、根本寺と知らずに、偶然、境内の裏口に踏み込んでしまったのです。
それは、利根町の鎌倉街道の探索ルートの出口のひとつだったのです。
そのいきさつは、利根町の鎌倉街道−6 の「ルート8」をご覧ください。(05/09/16)
根本寺の所在地は、茨城県北相馬郡利根町押戸。
☆ なお、根本寺の由来や新義真言宗、宝冠阿弥陀如来等々について、
利根町にお住まいと思われる「M氏」より、多くの情報をいただきました。
この場を借りて重ねてお礼申し上げます。
根本寺は、マップの左上(北西)方面にあります。
根本寺は、鎌倉街道内の「交差点2」から「ルート8」をたどって、出口(入口3)から境内裏手に行けます。
山門の前はいつもクルマが何台か駐車されていてなかなか写真が撮れません。やっとクルマがないときにパシャと・・・。
瓦葺の山門は羽中の 応順寺 から
移築されたと言われています。
明治のころ羽中地区では、
毎年の洪水に見舞われましたが、
押戸地区には広い谷津田があり、
水難を免れることができました。
一粒の米もなくなった羽中では
応順寺の大切な山門を押戸に売って
米を買い、それを皆でわけて
命をつないだということです。
右手に見えるのが大師堂で、
その隣りに押戸集会所があります。
山門を潜り抜けて、左手奥に行くと、
鎌倉街道 への登り口があります。
山門には、「享和3年(1803)押戸村甚蔵銘」の鰐口があるとか。
でも、山門に鰐口はちょっとヘンな感じですが・・・?
下から見上げて探してみたのですが、どうも見当たりません。
なかなか立派な彫刻が見えるばかりです。どこにあるのでしょう?
奇妙なことに、後半で紹介しますが、
山門から入って右手に稲荷大明神があるのですが、
そこで、なんと鰐口を見かけました。
神社には鰐口ではなく鈴が通例なのですが、
これは神仏習合等々の歴史の経過で見慣れたことですが、
それはともかく、まさかそれが件の鰐口ではないですよねえ?
→ 実はそうでした! 甚蔵銘の鰐口
根本寺の創建時は不詳ですが、利根町の中でも古い寺のひとつといわれています。いちばん初めに訪問したときは、
2005年でしたが、本堂は建てられたばかりの様子でとても美しく、輝いていました。下の本堂写真は2012年時。
しかし、寺院の雨水枡は、どうしてこんなに立派なものが多いのでしょうか。いつも不思議に思います。
雨水枡本体: 高90cm、幅90cm、厚90cm。
写真は、真新しい扁額。揮毫等は未調査です。
根本寺の宗派は真言宗。
真言宗には大別して、新義真言宗と新義真言宗があり、
根本寺は新義真言宗の豊山派。
新義真言宗とは: 金剛峯寺で真言宗を興した空海(弘法大師)亡き後300年も経つと真言宗も衰退してくるが、そこに興教大師である覚鑁(かくばん)という革新派の傑僧が現れて改革を進めようとする。しかし、ご多分に漏れず守旧派と鋭く対立し金剛峯寺を飛び出して根来寺を根拠に新しい宗派を築く。これが新義真言宗といわれるもので、さらにいくつかの会派に分かれる。
『利根町史』では、徳満寺は新義真言宗と記述しているのに、根本寺は真言宗とだけ書いてある。そのためこの寺は(古義)真言宗だと思っていたが、実は新義真言宗豊山派である。(本堂や鐘楼の屋根に印されている寺紋は、違い金輪紋で総本山の奈良の長谷寺と同じ)(M氏情報)
美しい本堂とすぐ隣りに墓地もあるのに無住で、仏事一切は土浦の岩崎真隆和尚に託す、と『利根町史』にありますが、
2008年現在時点では、松戸の岩崎隆視氏が依頼先とのこと(M氏情報)。
→ その後、2013年時点で不確かですが、筑波の方が依頼先とか。
無住となったのは昭和3年で、それまでは長塚永存氏が根本寺第37代住職。獨愼という号で俳句も嗜む方でしたが病没。
☆ 2016年再調査時、法事があったようで、偶然ですが「岩崎」氏とお話しする機会を得ました。まだお若い方のようで、
本サイトとタヌポンのことをご存知でした。恐縮です。ただ、上記の土浦の岩崎真隆和尚、もしくは松戸の岩崎隆視氏、
それとも現在は筑波におられる「岩崎」さんなのか、聞き忘れました。もっとお話ししたいところでしたが、機会があればぜひ。
山門入口手前に標識があり、利根町指定有形文化財
「木造両界大日如来坐像」と記されてあったので、
最初、本堂内部にあるこの写真の像を、
木造両界大日如来坐像なんだろうと勝手に紹介してしまいました。
しかし、文化財の大日如来像は歴史資料館に保管されていて、
この像は、阿弥陀如来ということが分かりました。
→ 『利根町史』の写真で見る限り印形が弥陀の定印なので、
阿弥陀であることはまちがいない(M氏談)。
ところが、宝冠を被っている阿弥陀如来が珍しいことと、
阿弥陀如来が真言宗の寺の本尊であることが奇異という、
2つの「常識」があることを後で知りました。
以下は別の機会に撮った本堂内。いっそう絢爛豪華に。燦然とした人天蓋も付加されて無住がもったいないような・・・。
真言宗は、大日如来を教主として仰ぎますので、大日如来を本尊とするのが基本ということです。
しかし、実際は、阿弥陀・薬師などの如来や、観音・地蔵などの菩薩、不動明王、帝釈天や毘沙門天など、
さまざまな仏を本尊としている場合もあるようです。宗派によって本尊が確定されるとは言えないようです。
本尊について: 覚鑁大師は当時澎湃として湧き起こった阿弥陀信仰をいち早く取り入れ、阿弥陀如来は大日如来の化身だとした。したがって阿弥陀如来を本尊に据えても不思議はないということになる。真言宗豊山派総本山、長谷寺の本尊は十一面観音で、観音様は密教系だから良いとも考えられるが、総本山というからには大日如来であって欲しかった(M氏談)。
根本寺の場合も上記の例かと思いましたが、そうではなく、元々、真言宗ではなく天台宗であったから、という説があります。
県歴史館の後藤道雄氏の説によれば、根本寺の由緒としては不詳とはいうものの、院号、寺号から、もとは天台宗で、
利根町で最も古い寺のひとつではないかと推測されています。また、真言宗の寺に阿弥陀如来の本尊があるのは異であり、
長い年月の間に土地の所有者によって宗派が変わることもありうる、と想定されています。
これについては、鹿嶋市にも芭蕉ゆかりの根本寺があり、これは聖徳太子創建と伝えられる臨済宗の古刹。
ところが、ここも利根町の根本寺同様、1575年(戦国末期)までは天台宗だったそうです。(M氏調査)
利根町指定有形文化財となっている木造両界大日如来座像。
押戸集会所前にその旨の案内標識が立っています。
実際の像は、資料館に保管されているということですが、
撮影や掲載が可能かどうかなども不明です。
ということで、利根町HPより引用させていただきました。
胎蔵界大日の法界定印と金剛界大日の智拳印の印形を、
四本の手で結んだ珍しい両界大日如来。室町時代末期の作で、
残念ながら光背は破損してしまったようです。
以下はM氏の推論ですが、興味深いのでご紹介します。
なぜ宝冠を被っているのか → そもそも如来像は薬師如来であれ、釈迦如来であれ、阿弥陀如来であれ、如来と名のつく仏像はすべて薄衣をまとっているだけで、装身具は一切身につけていない。ただひとつだけ例外があり、それが大日如来(理由は不明)。大日如来は他の如来の一段上にいて、法力を発揮するときは他の如来を通して行うのだそうである。根本寺の阿弥陀如来が宝冠をつけているのは、密教系の寺院だからなのだろうか?
和鐘の正面とはどの向きをいうのでしょうか。
やはり、撞座(つきざ)のある面?
それなら、下の4番目ですが、撞座の上には、
「南無大師返照金剛」と銘があります。
でも、真裏にも撞座はありますね。
以下、境内側から見た鐘楼を時計回りに。
最初の銘文は「持寶山根本寺」。これがやはり正面なのかな?
次は、「寄進檀家一同」。
裏側には「昭和54年春再鋳」と並んで、
「茨城県真壁町 鋳物師 三十六代 小田部庄右エ門」
この大師は、最初に根本寺を訪れたとき見逃していました。
写真のように、本堂に向かって右脇。しかも、2堂。(どうして見逃したりしたの?)
左の堂宇には43番の札が2種左右に付いていて、平成6(1994)年10月新築と記されています。右には番号はありません。
それぞれ2体ずつ大師像が安置されていますが、左堂の左の大師、右堂の右の大師の台石にはなにか銘文が見えます。
左が、43番大師の2体のうち、左の大師像です。下は、その台石の拡大写真。
以下のように刻まれています。施話人とは、施主ではなく世話人、でしょうね。
藤左エ門 勘兵エ 新兵エ 兵左エ門 清左エ門 源左エ門
施話人 五左エ門 七□右エ門 七左エ門
施話人の後が1名しか見えず、再々調査。3名でしたが、1文字読めません。
43番大師左本体: 高38cm、幅32cm、厚15cm。台石: 高14cm、幅46cm、厚26cm。
43番大師右本体: 高38cm、幅28cm、厚13cm。台石: 高13cm、幅36cm、厚25cm。
これは、右の小さいほうの大師堂の中の右の大師像。
台石には「念佛講中」とあります。
ただこれだけの情報しかないのですが・・・。
右大師堂大師右本体: 高32cm、幅24cm、厚17cm。台石: なし(木製)。
右大師堂大師左本体: 高32cm、幅28cm、厚17cm。台石: 高11cm、幅29cm、厚40cm。
大師堂の周囲に、石碑や石仏がいくつか見つかりました。
大師堂右横に建てられています。
「護国教會結願記念碑」。
昭和36年(1961)4月11日の造立。
惣新田や加納新田でも見かけましたが、
徳満寺だけでなくいろんな場所で、結願が行われていくのでしょうか。
徳満寺のご住職の話では、以前はそういう場合もあったが、
最近は、八十八番札所である徳満寺にて結願となっています、とのこと。
本体: 高92cm、幅52cm、厚8cm。
評議員 寺田 保治 幹 事 地湧杢三郎 卋話人 大津 なか
〃 坂本宗一郎 〃 大野 竹夫 〃 杉山 みつ
〃 星野 豊治 〃 圡屋 仁助 〃 蜂谷 しヅ
〃 山口 栄吉 〃 藤沢美壽江 〃 飯田 義䧺
〃 櫻井文次郎 〃 角田隆次郎 〃 佐々木喜太郎
〃 飯田長太良 〃 石井 藤吉 〃 大津 ゆめ
幹 事 荒井 勇䧺 〃 白戸之助 〃 石引保之助
〃 杉山 清 〃 本谷福三郎 〃 野口 太市
〃 伊藤 䧺親 〃 飯野政之助 〃 金沢 かつ
〃 大野 繁䧺 〃 吉浜 賢 〃 大野 うた
〃 加藤章太郎 〃 木村幸太郎 〃 橋作之助
〃 野口 留吉 〃 染谷 由松 〃 玉川 治男
〃 海老原晴二 卋話人 永沢慶三郎 顧 問 伊藤松之助
〃 野幸之助 〃 荒井 きよ 会 長 生芝 正溪
〃 染谷康五郎 〃 伊藤 まつ 住 耺 鈴木 秀山
昭 和 三 十 六 年 四 月 十 一 日
頭部のない地蔵や石塊、風化の激しい観音像など、
一見して、説明の付きそうなものはなさそうです。
が、いちばん右端の1基はなんとか判読できました。
ほかにも、ほんの一部だけ銘文が読めるものもあります。
ちょっと未消化ですが、以下、左から順に。
光背右上が剥落欠損していますが、「□□養十九夜」が見えます。
刻像されているのは、良く見かける如意輪観音の半跏思惟型ですので、
これは、十九夜塔と呼ぶことができるでしょう。□□は、奉供が付くものと思われます。
しかし、光背左は銘文が読み取れません。造立年は不明です。
本体: 高45cm、幅29cm、厚14cm。
頭部が剃髪していないように見えるので、地蔵ではないと思ったのですが、
左手に宝珠、右手に錫杖とくれば、やはり地蔵菩薩というべきでしょうか。
銘文も何もないので、造立年等まったく不明です。
本体: 高71cm、幅27cm、厚16cm。
これも、いわゆる「首なし地蔵」。
錫杖を持っています。それ以外はなにも分かりません。
本体: 高51cm(上部欠損)、幅25cm、厚17cm。
この塔も上部が欠損していて、肝心の部分が見えません。
右上は「□□夜講」。
□□は十五・十七・十九などによって、月待の「十九夜塔」などと言えるのですが・・・。
刻像されているのは、半跏思惟型の典型的な如意輪観音像。
如意輪観音の場合、十九夜の本尊なので十九夜塔としたいところなのですが、
利根町の場合、「なんでも如意輪観音」という傾向があり、断定できません。
また、光背左上も上部欠損で、「□□二未十一月吉日」だけ読めます。
可能性として、2年で未年の年を探してみると・・・えっ、見つかりません。
ということは、十二年なのかも知れません。そこで調べると、以下。
慶長十二未(1607)と享保十二未(1727)しかありません。
慶長は古すぎるので、これはまず、享保12年として間違いないと思われます。
可能性として、二の上に一があったとして、「三未」「十三未」も考えられます。
ありました。宝暦十三未(1763)
享保十二未(1727)もしくは宝暦十三未(1763)のいずれか。
この場合、享保にしておきます。
本体: 高47cm(上部欠損)、幅31cm、厚14cm。
これも、刻像されているのが、如意輪観音像の典型です。
しかし、風化が激しく、また剥落等もあるのか、銘文が読めません。
ただ、光背部分上部左右を少しタワシ等で擦ってみれば、
なにか文字が読めるかもしれませんが、これは次回訪問の宿題です。
徒労に終わる可能性大ですが・・・。
→ やはり徒労に終わりました。
光背右は剥落していて文字不明。
左はなんとか「□□吉日 同行廿五人」だけ判明ですが、
肝心の上部欠損でどうにもなりませんでした。
本体: 高44cm、幅30cm、厚17cm。
右に「奉供養十七夜𣥇」、左に「元文二巳天十月吉日」の刻銘。
全体的に風化も激しいようですが、なんとか上部の銘文で判読。
元文2年(1737)10月造立の十七夜塔です。
しかし、十七夜の次が見たこともない文字。
「止」偏で旁が「卂」・・・「𣥇」・・・しん、と呼ぶようです。
意味は不明。(三省堂『漢辞海』にも出ていない!)
十七夜塔というのは、利根町では珍しいですね。大平神社で1基 見ただけかも。
刻像されているのは、やはり如意輪観音の半跏思惟像。
ここでは多く、地蔵以外すべてで、もう4基目です。
如意輪観音は十九夜塔の本尊ですが、十七夜塔でも主尊となっています。
もっとも十七夜塔では、ほかに聖観音や勢至菩薩も本尊の場合があります。
本体: 高60cm、幅27cm、厚16cm。
さて、それでは、山門を出て、集会所前から、
お隣りの「根本寺の墓地」へ行って見ましょう。
本堂の右手や大師堂裏からも行けそうですが、
まだ集会所隣りにもある大師堂や石仏を紹介してませんので。
なお「根本寺の墓地」は通常「押戸共同墓地」と
呼ばれているようです。以下、この名で統一します。
根本寺山門を出るとすぐ左手は押戸の集会所。その前に大師堂と3基の石塔が立っています。
集会所の正面入口は、これら石塔の右手から道路を左折したすぐになります。
ここにも大師堂がありました。しかし、番号札は見当たりません。
境内の内と外とはいえ、近隣に3つもの四郡大師堂があるのは、根本寺が空海大師の真言宗のお寺だからでしょうか。
堂内の左の大師像台石には、「村内安全 念佛講中」と記されています。
中央の模様は、徳利と盃のように見えますが・・・。
台石左側面(↓)には、「文久元酉年十二月」とあり、文久元年(1861)12月造立。
文政元年(1818)全霊場を開設し終えてから約40年後です。
大師像左本体: 高24cm、幅25cm、厚19cm。台石: 高18cm、幅35cm、厚27cm。
大師像右本体: 高42cm、幅28cm、厚17cm。
右に「奉造立爲男女共二世樂之也」が読めます。
ここでは「二世樂之」ですが、「二世安楽」という銘文もよく見かけます。
これは現世と来世の両方の安楽を願うこと。
仏教用語で、「にせいあんらく」ではなく「にせあんらく」と読むのがミソ。
似たようなことで「逆修」も、「ぎゃくしゅう」ではなく「ぎゃくしゅ」。
左には、「寛文四年 秀誉法印道霊也」の文字が見えます。
寛文4年(1664)とは、かなり古い造立です。
「印」は、左のような異体字が彫られています。
法印とは、法印大和尚位の略で、僧位の最上位。
下位に法眼・法橋があります。
本体: 高140cm、幅59cm、厚41cm。
種子(アーンク・サク・サ)の下に
「湯殿山月山羽黒山西國秩父坂東供養塔」
各地の霊場を巡拝した記念の塔です。
通常、西国・秩父・坂東の百観音だけの場合等は「巡拝塔」「百番塔」と呼びますが、
出羽三山を含めたものは「三山百番塔」と
呼称しています。
左側面は「文政九丙戌十一月吉日」。
文政9年(1826)11月の造立です。
本体: 高121cm、幅36cm、厚23cm。
「東西國十一番」。この意味はどうとらえたらいいのでしょうか。
「坂東11番霊場および西国の11番霊場」なのか「(関)東にある西国11番霊場」なのか。
いずれにせよ、それらの「写し巡礼地」という意味で、根本寺を11番札所としたのでしょう。
すなわち、西国11番霊場では、「深雪山(みゆきやま)上醍醐寺」(京都府京都市伏見区醍醐醍醐山1)を訪問し、
その霊場の砂等を持ち帰り、この根本寺に「写した」、ということではないかと思います。
ちなみに「深雪山上醍醐寺」は、西国三十三ヵ所霊場中最大の難所のひとつと言われています。
石塔下部が当初土中に埋まり、「持」と「根本」としか読めませんでしたが、少し掘ってみると「持宝 根本寺」。
根本寺はともかく、持宝とはなにを意味しているのでしょうか。
右側面は「安永七戊戌二月吉祥日」。安永7年(1778)2月の造立です。
さて、問題は、左側面。種子の下に「新四國四十三番」とあります。
これは、根本寺境内の大師43番と同様の意味で、ここがその札所であることを示すわけです。
しかし、新四国である四郡大師の始まりは文政元年(1818)であり、
この塔が造立された上記安永7年(1778)より40年後のことです。
これは、新四国発足時に追加して、ここに銘文を彫ったのでしょうか。そういうことが可能なのか判断が付きません。
なお、右側面の上部には、左のような梵字「ユ」が彫られています。
これは弥勒菩薩を表すものですが、内容と梵字の選択には不可解なものがあります。
梵字には、日本人一般にとって読めないだけに、なにかしら魔術的なイメージがあります。
おまじない的な意味で、こういうところに1文字彫ることで、神秘性を持たせたのかも。
本体: 高85cm、幅27cm、厚19cm。
さて、それでは、押戸集会所正面前を通り過ぎて、その右隣りにある「押戸共同墓地」に行ってみましょう。
集会所右隣りがすぐ墓地です。門柱のような石柱が建っていますが、とくに表面には何も記されていません。
下右写真は、右の石柱の裏面。「御大典記念」とあります。
「御大典」とは一般に天皇の即位の式典ですが、標石が真新しいので、今上天皇の即位の礼とすれば、
1990年(平成2年)1月以降の造立かと思われます。本体: 高226cm、幅41cm、厚37cm。
以前は、確か左手のほうに柳の木があったと思いますが、枯れたのか、伐られたのかありません。
墓地に柳は・・・というのもあるかも。そのかわり駐車場としてなのか、左手は見通しがよくなっています。
ずっと奥の背後の山は、まさに鎌倉街道の東の先端部分、押戸の船着場は右手のほうでしょうか。
さて、墓地の入口に、門番のように、地蔵が2基、左右に立っています。左の地蔵から見てみましょう。
この塔は難物でした。光背左右、とくに右がさっぱり読めません。
2016年の再調査の3回目で、なんとかタワシ等で擦って・・・。
そこに現れた文字も、ちょっと難解です。
右から「奉納百堂参詣願造立爲二世安樂悉□成就也」。
「百堂」という文字が見えます。
「百堂供養」とは、農閑期に近隣の祀堂など百の堂宇を巡拝し念仏を唱える行事で、
100ヵ所巡拝した記念に供養塔を建てたりします。
これは、参詣願とあるので、これから巡るところでしょうか。
□の文字も「願」も、ちょっと読みづらいです。
左のほうは「寛文十戌年十月朔日 押戸村同行廿四人」が明快に。
これも当初は寛文4年と読み間違えていました。
寛文10年(1670)10月1日の造立。
次の塔も地蔵菩薩の像容で、前述にも地蔵塔が3基もあり、
銘文が読めないと「地蔵菩薩塔です、以上」の説明だけになってしまいます(笑)。
本体: 高131cm、幅57cm、厚39cm。
各種銘文が比較的容易に読めるので、単に地蔵と書かないですみます(笑)。
光背最上部に、小さく地蔵菩薩の種子 カ[ह]が彫られています。
右に、「奉造立地藏講日記十五夜供養為二世安禾也」。
光背右の地藏のあとの2文字は最初読めず、翌日再訪問して目視し直しました。
濡れ雑巾で拭くと「講」と「記」が。なるほど。しかし、その後、間に「日」も。
福木の地蔵塔調査で判明したことですが、「日記念仏」という民間信仰が存在、
この塔は、地蔵菩薩塔・日記念仏塔・十五夜塔を兼ねているもので、
地蔵講中が日記念仏と十五夜念仏の修行を何年か続けた上で造立した石塔です。
→ 日記念仏については 福木集会場(南)周辺日記念仏塔 参照。
二世安楽がふつうですが、「二世安禾」とは?禾とは得体のしれない文字です。
→ これは異体字というより樂の崩し字のようです。禾の活字に似ているので使用。
十五夜塔の本尊は、大日如来や阿弥陀如来、聖観音等で、
地蔵菩薩は本来、異なるわけですが・・・。
左のほうには、「元禄十三庚辰年十一月三日」「同行男女五十七人」。
元禄13年(1700)年11月3日の造立です。
本体: 高112cm、幅52cm、厚24cm。
以前に訪れたとき、額にセミの抜け殻が。→ (Columbus Blog 05/07/31 参照)
入口地蔵2基のところから
まっすぐ墓地の中央に向かうと、
左手に石仏が並んだ小広場にでます。
前列17基、後列14基で
合計31基あります。
どれも風化が激しそうで解説は
付けられないと思いましたが、
3基ほどなんとか文字が
読めそうなものが見つかりました。
ところが驚いたことに、それらはいずれも「十九夜塔」で、しかも「寛文年間」の古いもの。これはすごい発見です。
これはちょっと難物で、最初は見逃していました。前列左から6基目。
半跏思惟型1面6臂の如意輪観音の刻像塔です。
お寺の水桶を借りて、表面に水をかけてやると文字がよく見えるように。
右に、「奉造立拾九夜」の文字。
左には、「寛文十一年」「亥十一月拾九日」。
寛文11年(1671)11月19日の造立です。
本体: 高92cm、幅43cm、厚26cm。
前列左から8基目。これも半跏思惟型1面6臂の如意輪観音の刻像塔。
これは、そのままの目視でいちばん最初に判別できたものです。
中央右に、「奉造立十九夜堂」、右下に「為二世安楽也」の文字が見えます。
そして、左には「寛文十一亥年」「八月十九日」。左下に「同行十七人」。
寛文11年(1671)8月19日の造立です。
本体: 高67cm、幅37cm、厚19cm。
地蔵菩薩刻像の十九夜塔もあるのですね。ほとんどは如意輪観音なのですが。
前列左から11基目。上の塔の3基右や、すぐ左にも地蔵塔があります。
光背右に、「拾九夜供養同行十六人」がなんとか読み取れます。
左には、「寛文九年酉八月十九日」、寛文9年(1669)8月19日と古いです。
なお、『利根町史』第4巻の270ページには、
「当町(利根町)の場合は、十九夜塔に地蔵菩薩を刻んだものは見当たらない」
としています。根本寺は調査されたのでしょうか。
本体: 高77cm、幅36cm、厚23cm。
押戸共同墓地には、
左の「六地蔵塔」ほか
さまざまな石仏が
数多く見えます。
背後の山のほうにも
たくさん建てられています。
すべてを確認するのは
気の遠くなるような・・・。
でも、その多くは、
お墓に隣接したもので
墓塔・墓碑と思われます。
3基の十九夜塔が
見つかったところを
再訪問して見ましたが
特筆できるものは
ありませんでした。
六地蔵塔本体: 高119cm、幅47cm、厚46cm。
特記できるすべてが十九夜塔の初期のものばかり、ということは根本寺がそれだけ古いお寺である証拠ではないでしょうか。
▼ さて、一般的な石仏類を紹介しましたが、ここには当地区の文化人の墓碑等がいくつか存在していることが分かりました。
数多くの墓碑から特定のものを探し出すのはちょっと難しいとは思いましたが、以下、チャレンジしてみました。
町の広報誌によると共同墓地には、押戸の学塾主だった宮本天庸の孫で愛知教育大学名誉教授の宮本平直氏の墓や、
宮本天庸が建てた祖先神霊碑、そして江戸時代の貞忠から昭和の蒼崖まで、3代にわたって俳人が出た大津家の墓地、
また、異色なものとして史上最強力士と呼ばれる雷電為右衛門の弟子で期待されながら早世した花房良助の墓があります。
墓の位置に関する情報がないので、果たして見つかるか不安でしたが、今回は珍しく勘も効いて意外と早く見つけました。
探索を始めてすぐに、漫然と墓地のちょうど中心地あたりに行くと、大きな石碑のあるコーナーが目に入りました。
それが以下。でもなぜか、宮本平直奥都城よりも次に紹介する宮本氏祖先神霊碑のほうに先に目が行ったのが不思議です。
神霊碑の写真を撮った後で、大きな「宮本平直」を見て、「あっ、これが宮本平直の墓碑じゃないか!」なんて、ヘンですね。
「正四位云々」の肩書と、「奥都城」という見慣れない文字が先に目に入り、「これは非該当」と即断してしまったようです。
違和感は、やはり「奥都城」(おくつき)の文字。神道式の墓をこのように呼ぶのですが、初めて見ました。
神道式の墓もあるということは、つまりこの墓地は「根本寺の墓地」ではなく、やはり「共同墓地」になるわけですね。
碑表は、「正四位勲三等瑞寶章」「宮本平直奥都城」
碑の裏面に宮本平直の経歴が記されています。明治38年(1905)3月6日、押戸生まれ。
祖父は、明治時代に学塾を開き、郷土の多くの子弟を教育した宮本天庸。幼少よりとくに数学に秀れた才能を有し、
東京帝国大学理学部数学科を卒業。旧制中学校、高等学校の教諭、講師を歴任し、大学教授となり、学界、教育界に貢献。
昭和61年(1986)9月14日没、享年82。「帰幽」も神道用語で、神の世界に帰ることを意味します。
この石碑は、昭和62年(1986)3月、宮本元子氏が、建立。
本体: 高210cm、幅100cm、厚11cm。台石: 高34cm、幅141cm、厚61cm。
以下、碑の裏面
宮 本 平 直 経 歴
明治三十八年三月六日 父直之助母つたの長男として出生
大正十二年三月 茨城県立竜ヶ崎中学校卒業
昭和二年三月 第一高等学校卒業(理科甲類)
昭和五年三月 東京帝国大学理学部卒業(数学)
昭和五年〜昭和十八年六月
富山縣立砺波中学校教諭
富山縣立神通中学校教諭
熊本陸軍幼年学校教授
第五高等学校講師
昭和十八年七月〜昭和四十三年三月
愛知第一師範学校教授
愛知学芸大学教授
愛知教育大学教授
愛知教育大学名誉教授
昭和六十一年九月十四日 帰幽 享年八十二歳
昭和六十二年三月 宮本元子 建之
当初、紡錘形の墓碑を探そうとしたため、前記の大きな「奥都城」よりも、この碑に先に目が行ってしまったわけです。
しかし、裏面の碑文はまだしも表面はほとんど読めません。そんなに古い建立ではないのですが、味わいが出ています。
本体: 高107cm、幅54cm、厚14cm。台石: 高13cm、幅96cm、厚38cm。
石碑中央に「宮本氏祖先神霊」が大きく記され、
その直下に「宮本定君神霊」「長束氏比女霊」が並び、
その下には「準十四等官 宮本覚君神霊 海老原氏比女霊」。
上記以外は、左右に、宮本姓と名の下に
「君神霊」「比女霊」が付記された名前が列記されています。
これが神道系の墓碑銘文の記し方なのでしょうか。
いちばん左下には「常陽 楊 春樹書」とあります。
以下の碑裏面の銘文によれば、この神霊碑は、明治15年(1882)12月、宮本天庸によって建てられました。
宮本家は寛文以前の旧家ですが、寛文8年(1668)〜寛政4年(1792)の120年間、宗廟席次が不明でした。
いっぽう、わが国では本来、祖先の霊は神礼にて祀るものでしたが、仏教伝来以降、仏礼によって祭るようになりました。
そこで、寛政以降が明確となったいま、葬祭を神式に改め、宮本氏祖先神霊を建立したという趣旨が記されています。
宮本天庸に関しては、明治43年(1910)9月に「宮本天庸先生之碑」が門人たちによって建立されていますが、
碑の所在が個人邸でよく分かりません。いつか、宮本天庸の詳しい紹介も含めて碑の情報も紹介したいと思っています。
→ 宮本天庸先生之碑 発見!
左は碑の裏面と
銘文部分の拡大。
拡大写真をじっと見れば、
なんとか読めますが、
これも『文化学芸碑』拓本の
お世話になりましょう。
吾家世業農其先常州松山人也歴数世曰宮本丹波同
曰五郎右衛門皆極劔搏之術蓋寛文以前之人也其後
通称平左衛門経三四世曰五兵衛惟一世而復称平左
衛門爾来至于今皆称之而自寛文八年至寛政四年凡
百二十余年間昭穆未明寛政以降家系漸審當享保文
化之際家難数起覆亡将至焉曽祖考勤行節倹夙夜勉
業於此家産復起至非凶歳免饑寒子孫蒙其沢豈不深
我是以孝子哀孫謹建碑大書於祖先之下以為中祖祖
考以筆学授弟子歿年六十有三余今幸能雖二親雙存
豈圓二妹一女已死客歳祖妣歿継已妻今年又亡長子
悲哀無止矣夫人之在世也自古無不死者死則必祭以
礼而中葉自仏人我國漸祭以仏礼豈不悖國典哉今更
祭以國禮謹奉祖先以来之私謚銘日
無際天地 有際人生
壽夭是命 不朽惟名
明治十五年十有二月 哀孫宮本天庸謹誌
堀田 大吉 鐫
[読み下し文]
わが家は世々農を業とし、其の先は常州松山の人なり。数世を歴て宮本丹波といい、同じく五郎右衛門という。皆劔搏(けんばく)の術を極む。蓋し寛文以前の人なり。其の後平左衛門を通称す。三四世を経て五兵衛という。惟一世にして復平左衛門と称す。爾来今に至るまで皆これを称して、寛文八年より寛政四年に至る凡そ百二十余年間昭穆※未だ明らかならず。寛政以降家系漸く審らかなり。享保、文化の際に当り、家難数起り覆亡将に至らんとす。曽祖考勤行節倹し、夙夜業を励む。此において家産復起り、凶歳に非ざれば饑寒を免るるに至る。子孫其の澤を蒙ることを豈深からざらんや。我是に孝子哀孫たるをもって謹みて碑を建て祖先の下に大書してもって中祖と為す。祖考※筆学を以て弟子に授け歿年六十有三なり。余、今幸にして能く二親雙存すと雖も豈図らんや、二妹一女已に死し、客歳※祖妣※歿し、継ぎて己が妻今年又長子を亡くし悲哀止むなし。夫れ人の世に在るや、古より死せざる者無し。死すれば則も必ず祭るに礼をもってす。而るに中葉仏我國に入りて自り、漸く祭るに仏礼をもってす。豈國典に悖らざらんや。今更めて祭るに國禮をもってす。謹みて祖先以来の私謚※を奉る。銘に曰く 際無きは天地なり 際有るは人生なり 寿と夭とは是命なり 朽ちざるは惟(これ)名なり
明治十五年十有二月 哀孫宮本天庸謹誌 堀田大吉鐫
※ 昭穆(しょうぼく): 中国の宗廟(そうびょう)での霊位の席次。太祖を中央とし、向かって右に2世・4世・6世などを並べて昭とよび、左に3世・5世・7世などを並べて穆とよぶ。(Kotobank)
※ 祖考(そこう): 1 死んだ祖父。また、死んだ祖父と死んだ父。⇔祖妣(そひ)。2 遠い先祖。(goo辞書)
※ 客歳(かくさい): 去年。昨年。客年。きゃくさい。(goo辞書)
※ 謚(えき): 諡(し)とは本来別字だが、古くから、おくりなの同意文字として通用した。(『文化学芸碑』注)
宮本家の墓碑コーナーで「神道系の墓誌」を見つけました。
これを見ると、男性には「宇斯」「大人」「大人命」
女性には「刀自」「比女」の文字が付けられています。
これは神道での戒名にあたるもので、
大人(うし)は領有・支配する人、転じて男性・先人に対する尊称。
宇斯(うし)も同様です。
刀自(とじ)は、戸口を支配する者、転じて主婦、女性への尊称。
命(みこと)はさらにこれらを尊称したもの。
ほかに幼児では、稚郎子(わかいらつこ)・稚郎女(わかいらつめ)
少年は、郎子(いらつこ)・郎女(いらつめ)
青年は、彦(ひこ)・姫(=比女)(ひめ)等がありますが、
最近は、成人の場合は、「大人命」「刀自命」、子供だと「彦・比古命」「姫・比売命」を付けるのが一般的とか。
神葬祭では、「戒名料が不要」「居士・進士などのランクがない」「現在の名前にそのまま付加できる」という特徴があります。
菩提寺が遠方、姑と一緒の夫の墓はどうも、共同墓地を購入した、なんて人で仏教にこだわらない人なら・・・。
宮本天庸先生之碑発見!
根本寺北の道路沿いに宮本天庸の生家があり、その庭に高さ3mの大きな石碑を発見しました。(これも「根本さん情報」)
ただし、現在は宮本家ではなくなり別の方の敷地に。道路からは下左のように垣根で碑の全容が見えません。
いつも留守宅のようで、しかも左手からすぐにこの石碑まで行けるので、ちょっとお邪魔して撮らせていただきました。
碑陰上部に、宮本天庸と石碑建立経緯などの説明文が刻まれていますが、撰文したのはだれなのか記されていません。
本体: 高303cm、幅109cm、厚18cm。
[碑表]
石碑の表は「宮本天庸先生之碑」
「先生」の文字横に、これを書した銘が刻まれています。
「元帥 伊東祐亨書」
伊東元帥の揮毫は碑表の文字だけでしょうか。
碑陰の撰文にはとくに言及されてはいませんが、
元帥がここまで記すかは疑問です。
伊東祐亨(いとう・すけゆき):天保14年(1843)−大正3年(1914)。薩摩藩士から明治維新後、海軍軍人、華族。元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・伯爵。初代連合艦隊司令長官を務めた。(Wikipedia)
石碑の建立は、次の碑陰上段の文末にあるように、
「明治四十三年九月」明治43年(1910)9月ですが、
前年歿なので、1周忌として建てたのでしょう。
[碑陰上段]
天庸先生名坦號栗
園通稱平左衛門以
天保九年生於押戸
幼好學刻苦有所得
繼祖業ヘ郷閭子弟
後年卜居於印西十
餘一來學者不尠先
生為人至誠謹嚴有
君子之風明治己酉
年歿於東都之寓居
享年七十有二於是
門人等相議而建碑
伊東元帥為書于碑
維時明治四十三年
九月也
[碑陰上段読み下し]
天庸先生名は坦、號は栗園、通稱は平左衛門、天保九年※を以て押戸に生る。幼くして學を好み、刻苦得る所有り。祖業を繼ぎ、郷閭※の子弟をヘう。後年、印西十餘一※に卜居す。來たりて學ぶ者、尠なからず。先生人となり至誠謹嚴、君子の風有り。明治己酉の年※、東都の寓居に歿す。享年七十有二。是に於て門人等相議りて碑を建つ。伊東元帥為に碑に書す。維(これ)時に明治四十三年九月なり。
[タヌポン補注]
※天保九年: 1838年。宮本天庸はこの年に生れ1909年に歿、享年72。
※郷閭 (きょうりょ): 《むらざとの門の意》 郷里 (goo 辞書)
※印西十餘一: 十余一(とよいち)は、現在の千葉県白井市の大字。
※明治己酉の年: 明治42年(1909)
[碑陰中段] (コンテンツ幅の関係上、中段・下段に分割説明)
寄付連名 一金三円篤志 浅野七良右工門 一金一円五十銭 蜂谷文太郎 一金一円豊田 木村 トミ
一金三円 野 清次 一金一円五十銭 岡野 ハツ 一仝 杉山 大助 一金五十銭 小林 安藏
一仝 大津倉之助 一金一円 大津 長吉 一金一円 蜂谷仙太郎 一金一円奥山 長嶋安太郎
一仝 飯田 繁柗 一仝 仝 喜助 一仝 伊藤松太郎 一仝 齊藤辰之助
一金二円 杉山栄次郎 一仝 杉山 熊吉 一仝 野源之助 一仝 海老原幸三郎
一仝 大越馬之助 一仝 仝 要助 一仝 飯田 力子 一仝 大野芳三郎
一仝 寺田市之助 一仝 大津 慶藏 一仝 石嶋 種吉 一仝 朝日出兼三郎
一仝 瘤R与三郎 一仝 蜂谷貞一郎 一仝 野 タケ 一仝 坂本小一郎
一仝 仝 平吉 一仝 浅野幸之介 一仝 蜂谷 熊次 一仝 長沼松五郎
一仝 仝茂右工門 一仝 岡野 要吉 一仝 野 平吉 一金一円五十銭大房鈴木清三郎
一仝 大越清三郎 一仝 飯田柗太郎 一仝 寺田 勇吉 一金一円セハ人大塚 民治
一仝 寺田 泰助 一仝 杉山壽太郎 一金五十銭 大越芳太郎 一仝 セハ人野 音吉
一仝 飯田 森治 一仝 飯田 力藏 一仝 蜂谷長之助 一仝 地湧 周藏
一仝 杉山 玄道 一仝 浅野 兼輔 一仝 関 カト 一仝 大野 キク
一仝 仝 乕吉 一仝 飯田七之助 一仝 蜂谷源次郎 一仝 宮本 常吉
一仝 関 虎吉 一仝 仝 マキ 一仝 南 大越伊之助 一仝 坂本 重吉
一仝 大越 浅吉 一仝 蜂谷小太郎 一仝 仝 伊三郎 一仝 地脇 寅吉
一金一円五十銭 岡野釧之助 一仝 星野吉太郎 一仝 岡野 清平 一金七十銭 幸田 キチ
一仝 飯田コ太郎 一仝 野幸三郎 一金二円 奥山 石川 大助 一金五十銭 大野金之助
一仝 川村 佐市 一仝 川村光之助 一仝 永澤常次郎 一仝 坂本 作治
一仝 浅野清次朗 一仝 野 亀藏 一金一円五十銭セハ人長沼 文吉 一金三円千秋 塚本 平藏
一仝 大越 モト 一仝 大津 勘治 一仝 セハ人大野賢之助 一金二円佐沼海老原七五三松
一仝 杉山 省吉 一仝 杉山 訊恭 一仝 海老原俊渓 一金一円龍ケア町 川村峯吉
一仝 永澤貞一郎
[碑陰下段]
一金五十銭川原代 山ア 清助 一金五十銭 佐山 中臺 仙藏
一仝 立木 角田 源治 一仝 仝 実平
一金一円 瘤R 祐門 一金一円 羽原 渡辺 元吉 一金五円二十五銭 寺田近吉外廿四名
一仝 飯塚 覚三 一仝 印旛郡和泉 武藤四郎左工門 発起者
一金一円 須藤堀 浅野 夛七 一仝 仝 治兵工 野 清次
一金五十銭 飯野豊太郎 一金 白幡 山ア市郎治 大津 喜助
一仝 前新田 沼尻 要助 一金五十銭 仝 正平 仝 倉之助
一仝 渡辺治三郎 一仝 浦部 村越 長吉 杉山栄次郎
一仝 太平 五十嵐慶次郎 一仝 橋 久 仝 與三郎
一仝 横須賀 蓮沼惣四郎 一仝 セハ人 生態源九郎 大越馬之助
一仝 下曽根 直井亮 助 一仝 今井 礒谷 忠藏 寺田市之助
一仝 押付 六本木庄作 一仝 平塚 福田治良平 飯田コ太郎
一金一円 長沖 齊賀 佐助 一仝 山ア藤三郎 仝 森 治
一仝 古谷源次郎 一仝 セハ人 福田耕之助 仝 柗太郎
一金五十銭羽黒 酒井清次郎 一仝東葛飾郡布瀬 山ア 八郎 関 寅吉
一金一円 戸台 中村 泰助 一仝 織田 常吉 岡野 要吉
一金五十銭袖浦 木村 春次 一仝 藤心 早川 林藏 杉山壽太郎
一金一円 大留 蛯原 廣久 一仝 我孫子町 須藤 佐吉 岡野釧之助
一金五十銭 小坂 文藏 一仝 千葉郡睦村平戸 土屋松五郎 寺田 泰助
一仝 矢口歌之助 一仝 染谷 隆亮 石工
一仝 羽田慶三郎 一金一円 佐山 花澤 與市 大塚 岩吉
一金一円 須 鈴木 和吉 一金五十銭 佐藤 鶴吉
一仝 植田孝四郎 一仝 市川半一郎
一金五十銭印バ郡宝田 赤海綱吉 一仝 船穂村戸神 齊藤芳太郎
一仝 平川賢治郎
一仝 武藤文治郎
▲ 上記寄附金を集計すると、128円45銭。明治40年の物価では、白米10kgが1円56銭、大工手間賃:1日1円とのこと。
大雑把に換算すると、1円が現在の5000円〜10000円。この石碑の建築費は現在の100万円前後というところでしょうか。
なお、この石碑の石工も「大塚岩吉」。利根町のこの時代の数多くの石碑を刻んでいます。
(16/06/23 追記・16/06/15・16/06/11 撮影)
碑の裏面に「・・・丘の蝉時雨」という句が彫られているので、奥の山側と見当を付けて探したら難なく見つかりました。
大房の共同墓地 での探索ではさっぱりでしたが、今回はやたら勘が冴えているのは?この日も猛暑で助かりました。
江戸時代の貞忠から昭和の蒼崖まで、
3代にわたって俳人が出た大津家。
今回の目的の墓碑は、遠祖を偲んで、
子孫の大津知太郎が詠んだ句碑。
大津知太郎イコール大津蒼崖です。
昭和35年(1960)の建立。
写真の石仏右が句碑なのですが、
句は、碑の裏面に彫られています。
しかし、卒塔婆が何本も立てられ、
その背後はすぐ崖となっているため
撮影はどうにもうまくいきません。
句が彫られているので便宜上、
句碑としましたが、基本は墓碑です。
利根町唯一の一茶真筆の短冊 大津家から発見
左が裏面に句が彫られている「大津家之墓」。
これを見れば、句碑というより、まあいわゆるお墓ですね。
さて、俳人輩出の大津家の蔵書の中から、
小林一茶の短冊が発見されています(右写真)。
短冊には「ちる雪を ありがたがるや 若菜つミ 一茶」とあります。
これは、当町で最初に確認された一茶の真筆で、
琴平神社に一茶の句碑が建てられることになった昭和63年(1988)、
それを祝うかのように発見された記念の短冊です。
一茶の布川行脚は、宿泊合計289回 とたびたび利根町を訪れた一茶。(→ 小林一茶と利根町 参照)
この句は、利根町で詠んだものなのか不明ですが、
句の中に利根町の何かが感じられるものだったら、さらによかったですね。
なお、一茶の没年は文政10年(1827)、
大津家の3俳人との接点はありませんが、その祖先も俳句を嗜み、
一茶との交流がきっとあったに違いないでしょう。
本体: 高69cm、幅27cm、厚27cm。台石上: 高27cm、幅43cm、厚43cm。台石下: 高31cm、幅61cm、厚61cm。
写真左は、碑の右側面。
大津倉之助 | 昭和二十年五月八日 | |
妻 て つ | 大正十二年九月二十日 | |
大津清 | 昭和二十九年一月二十六日 | |
妻 か つ | 昭和三十一年十月十一日 | |
博 | 大正十一年十一月二目 | |
大津康 | 昭和二十九年十二月十七日 |
写真右は、碑の左側面
實入量察居土 | 名 忠治 号 貞忠 | |
慶應四年四月十二日 | ||
成入量融大姉 | 慶應二年六月二日 | |
大津久兵衛 | 明治十三年七月四日 | |
妻 き く | 万延元年九月二目 | |
大津久藏 | 明治ニ十三年八月二十八日 | |
妻 す ぎ | 昭和六年一月五目 |
上記、碑の左側面に記された大津貞忠は江戸末期の俳人。
名は忠治、通称が久左衛門で、慶応4年(1868)4月12日没。
左は「北総ヲシト 亀友庵 貞忠」と号しての句。ヲシトは押戸です。
「余の鳥の 声はさびけり 時鳥(ほととぎす)」
(『利根町史』第1巻に掲載・嘉永4年12月刊本・坂本家所蔵)
貞忠以来、大津家には蘆村、蒼崖と
俳人が続いています。蘆村は、
碑の右側面3人目の大津清です。
明治12年(1879)生まれで、
昭和29年(1954)没。享年75。
農民俳人としての一端が伺える以下の句
「野仕事の ふたりや永い 日のわびし」
を残しています。(右図:『利根町史』第1巻)
左は、『下総諸家小傳』(以下『小傳』と呼称)に掲載されている大津貞忠。
50音順で100名掲載のうち26番目です。
押戸の大津貞忠通稱は久左衛門亀友と號
す俳諧を好むまた意を会計學に鋭くす
『小傳』のリストアップの基準がいまいち不鮮明で、
取り上げられた人物以外にも多くの文化人がいます。
しかし、それゆえに掲載された人物はそれだけ著名だったとも言えます。
ところが、利根町出身でリストに載っているにもかかわらず、
その功績が『小傳』以外には伝わっていない人物もいるのも不思議です。
それは、大津貞忠が俳諧だけでなく、会計学にも通じていた、
この記述も同様の意味で、『小傳』で初めて分かる意外な事実です。
家譜に「和算を 剣持豫山 に学びてその蘊奥を極む」(『利根町史』第6巻)とあり、
会計学とは、豫山(剣持章行)から学んだ和算の一部ということでしょうか。
豫山に学んだといえば、ほかに上曽根の飯島利庸がいます。
→ 飯島利庸墓碑と飯島君之墓銘 参照。
『下総諸家小傳』については、別項目で特集予定。(13/09/06 追記)
大津蘆村は、竜ヶ崎北方(きたかた)の小池尚之(こいけしょうし)から永々斎の名を譲られ、永々斎3世を名乗っています。
永々斎とは、上曽根の俳諧師大野以兄(おおのいけい)が初名乗りした相伝の宗匠名で、小池尚之が2世を継ぎました。
4世はなく3世まで。大津蘆村は、ほかに「一本の すすきにも秋の 調度かな」の句を残しています。
この句は自選句を自ら揮毫したもので昭和16年(1941)63歳時の作。大津家奥庭に句碑として建てられています。
これが、撮影が困難だった碑の裏面です。
背後スペースがないのでこの角度で撮るのが精いっぱい。
写真では、読めそうもないので、
『文化学芸碑』の拓本をお借りしました。
祖たちに 幾とせ丘の 蝉時雨
昭和三十五年春 知太郎 よ し 建立
句の「祖(おや)たち」とは、建立者の知太郎(蒼崖)にとっては、
碑側面に記された遠祖の忠治(貞忠)・久兵衛・久蔵・倉之助、
そして父である清(蘆村)等、代々の祖先を示すと思われます。
その蒼崖も、昭和58年(1983)永眠することに。享年83。
ほかに、大津家所蔵の短冊に以下の句が残されています。
「エンヂンを かけて即ち 農始め 蒼崖」
「眼とずれば われも菩薩や 日なたぼこ 蒼崖」
▼ 余談ですが、よく墓の移転はよくないと言いますが、
この句碑がある以上、蝉時雨が聞こえない場所は、
やはり、祖先の意向にそむくことになるでしょうね。
ところで、利根町の歴史散歩58号には、この墓碑には名前が出てこない大津慶雨(本名:慶蔵)の記載がされています。
元治元年(1864)2月12日生まれ、昭和6年(1931)7月19日没。建具職人で、苦労しながら俳句をつくったといいます。
大正8年(1919)秋の作に「船縁(ふなべり)を 叩いて月を 囃すらん 慶雨」とあります。どういう関係でしょうか。
▼ さて、次は、異色の人物。お相撲さんの墓碑です。この碑がいちばんの探索難物と思われ、後回しにしたのですが・・・。
花房とは本名ではなく四股名のようですから、
「花房家の墓」を探しても意味がありません。
実際に花房苗字の墓は一見して見当たりません。
ところが、この日の tanupon は
冴えているというか、運がいいというか。
力士だから、奥の山手のほうだろうかなあ、
というまさにヤマ勘ズバリです。
左のような地点に最初に目を付け、さらに、
奥に行くのを遮っているような碑に遭遇し、
「手始めにこれなんかどうかな」と調べたら、
それが、なんとピンポーン。一発です。
(こんなツイてる日はロトシックス買うべきだったなあ)
本体: 高81cm、幅31cm、厚21cm。
碑表面は「文化三寅年」「現折良英信士」「十月十三日」文化3年(1806)10月13日没で、特筆することはありません。
注目は真ん中の右側面。「羽州雷電為右工門弟」「花房良助」 羽州とは、出羽(でわ)国の異称。
花房良助の名を見つけるというより、「雷電為右工門」を見つけるのが主眼でした。
雷電為右工門(1767〜1825)は、現役生活21年、江戸本場所在籍36場所中(大関在位27場所)で、
通算黒星が僅か10、勝率.962で、大相撲史上未曾有の最強力士とされています。(Wikipedia)
花房良助は飯田総本家出身で、雷電の内弟子だったといいます。しかし、雷電の弟子にふさわしい強さだったため、
仲間からねたまれ毒殺されたとのこと。偉大な横綱になったかも知れないのに実に残念なことです。
あるとき、雷電自身も押戸に来て、杉山与右衛門家に泊ったといいます。このとき紺のももひきをおいていったので、
家の主人が試しにはいてみると、その片足へ全身がはいってしまったとか。(利根町の歴史散歩57号)
写真右は、碑の左側面で、以下。
「本覚浄阿信士 安永九子二月朔日」「相識童子 文化四卯十二月十一日」「観月妙真信女 享和二年十二月十五目」
ところで、碑の右側面に戻って、「羽州」がちょっと疑問です。雷電為右工門は信濃出身ですので、出羽国の意味は?
(13/08/24 追記・13/08/19 撮影:拓本等については『利根町の文化学芸碑第3集』より引用・転載させていただきました)
前述の文化人の墓碑で1基、未調査のものがありました。
後日、再訪問して探しましたが、これもすぐに見つかりました。
花房良助碑 のすぐ右隣りです。
長塚家の墓地区画ですが、目当ては左手の長塚永存の墓碑。
左下の正面には、「持寶山三十七世」
「權大僧都法印永存 不生位」とあります。
この人を最後に、根本寺は無住となってしまいます。
長塚永存は、俳号を「獨愼」といい、
徳満寺の 鳴鐘壓死碑 にも追悼句をのこしています。
この墓碑自体はとくに句等は彫られていません。
中央は左側面で、「永 昭和三年八月二十日遷化 享年六十八歳」と、僧侶のため「遷化」が使用されています。
隣は「惠 昭和四十九年六月十六日 俗名長塚よし 享年八十六歳」、戒名は右側面に「惠光院芳心妙淨清大姉」
さて、この墓碑の裏面も、背後が崖で、しかも暗く実に撮りづらい位置。
それでもなんとか斜めから・・・。
「昭和三十三年十二月吉日 長塚誠道建之」
町史編纂委員をされていた長塚誠道氏が住職のご子息だったのですね。
でも、その誠道氏も、平成11年発行の『利根町史』第6巻には「故人」とありました。
第6巻編纂途中での逝去と思われます。ご冥福をお祈りいたします。
花房良助碑がある飯田家の墓地あたりの後ろの崖ですが、ここから多数の人骨が出てきたと町の広報誌にあります。
また、深い横穴がえぐられていて当町唯一の横穴古墳と推定されていますが、まだまったく調査がされていないようです。
広報誌記述から相当経ちますが、未調査なのか、成果がなかったのか、その後の報道等は聞いていません。
花房良助碑辺りから長塚家墓碑の背後の崖部分を見てみましたが、調査がされた後なのかどうなのかもよく分かりません。
推測ですが、人骨発見当時とちがって町の予算も組めず、手つかずなのかも知れません。(13/09/06 追記・13/08/26 撮影)
▼ では、墓地をあとにして、もういちど、根本寺の境内にもどってみます。
もうひとつ、おおきなポイントを紹介しなければなりません。それが、以下の「根本寺の稲荷大明神」です。
根本寺の山門を潜って境内に入ると、すぐ右手に稲荷大明神が見えます。その左隣りに鐘楼があります。
2005年に初めて根本寺を訪れたときは、鳥居は本殿と同様の朱色で、
神明鳥居系の宗忠鳥居という種類でした。(右写真→)
その直後の平成18年(2006年)5月に、
現在のアルミ製の明神鳥居に建替えられたようです。
以前は、なかったのですが、今度は神額が付いています。
やはり正一位稲荷大明神です。
本堂がきれいになったから、次は神社も、ということでしょうか。
さて、ここで、よく見かける「正一位」について、調べてみました。
正一位(しょういちい) とは、
位階(いかい)制度のなかのひとつの位で最高位にあたります。
ひとつ下は従一位(じゅいちい)。
人にも神(神社)にも与えられますが、
とくに神に対するものを 神階(しんかい)と呼んでいます。
この位階制度は律令政治の導入・発展とともに、
603年(推古天皇11年)の冠位十二階の制度から、
718年(養老2年)の養老令により整備されました。
人に対する位階は、
一位から三位まで正・従の6階、四位から八位までは正・従にそれぞれ上・下がつく(例:従四位上・正八位下)ため20階、
その下は、初位に大・少そして正・従がつく(例:大初位下・少初位下)ため4階、合計 30階 となります。
九位というのはありません。いっぽう、神に対するものは、正六位から正一位までの 15階 しかありません。
正・従は、せい・じゅうではなく、しょう ・ じゅ と呼ぶのが正解。三位は さんみ、四位は しい、七位は しちい と読みます。
さんい、よんい、なないなどは誤りです。ちょっとまちがえやすいですね。
神階の制度は明治時代に廃止されましたが、この根本寺の稲荷大明神のように、
現代でも社名に神階をつけているものがたくさんあります。
それはいいとして、この根本寺の稲荷大明神のように、正一位しかタヌポンは見たことがありません。
また、こんな小さな神社に最高位の称号はどうなんでしょう?
これには、理由があります。
もともと古代の神社の祭神とは、その神社固有のもので、それに神階が与えられました。
もし分祀する場合は、原則として神階は引き継がれず、引き継ぐ場合には勅許が必要でした。
しかし、律令制の崩壊とともにそうした決まりもなくなっていきました。
たとえば、稲荷神社は、伏見稲荷大社の神階が「正一位」であるため、
そこから勧請を受けた全国の稲荷神社も同様に「正一位」を名乗っているわけです。
では、伏見稲荷大社ほどの社格のない神社では、ということになりますが、人と異なり神社は長く残りますので、
永年の間にどんどん神階が上昇していき「正一位」が多くなっている、というのが実情のようです。
そういえば、利根町だけと思われる 布川神社(由緒参照) も「正一位」を名乗っていますね。
注)上記の位階・神階については、時代の変遷とともに簡略化していくほか、勲位(勲等)・品位などの種類もあり複雑です。ここでは、初期の狭義の位階・神階の説明とします。(Wikipedia等による)
平成10年(1998)4月に奉納。一般に宝珠と巻物をくわえているのが対であるようですが、これはどちらも巻物?
本体: 高59cm、幅15cm、厚35cm。台石: 高78cm、幅37cm、厚56cm。
本殿(拝殿)前の鍵が壊されていて扉が開くようなので、いいのかなあと思いながら、この機会に写真を、と。
稲荷神社の祭神は、全国共通で、「倉稲魂命」(うかのみたまのみこと)。キツネの表情としっぽがいい味出してます。
拝殿前に設置されている鰐口。まさかと思って写真を拡大してみたら(下右)、なんと「甚蔵」の名が記されています。
「押戸村 甚蔵」「享和三癸亥 歳二初午」の銘。享和3年(1803)2月初午、まさしくこれですね。
山門に取り付けようとしたけれど難しかったとか、そういう理由なのでしょうか。それなら本堂はどうなのでしょう。
本来寺院に取り付けるべき鰐口をなぜ稲荷神社に?鰐口に稲荷に関連した「初午」銘があるのも偶然のこと?
当初から稲荷神社に設置するのが目的?分からないことばかりですが、そもそも「甚蔵」とは、何者ですか?
『利根町史』をよく見てみると、境内の項目に甚蔵銘の鰐口が記されています。その直前に山門の紹介があったので、
この鰐口が山門にもともと付属していたものとタヌポンは勘違いしていたようです。鰐口=寺院のもの、の先入観もありました。
これは応順寺から移築された山門とは関係なく、はじめから稲荷大明神に付帯していたと考えたほうがよさそうです。
参考 初午と稲荷
お稲荷さんの誕生日とされるのが2月の初午の日。和銅4年(711)に、稲荷神社の総本社、京都伏見稲荷大社の祭神、
宇迦御霊神(うかのみたまのみこと)が伊奈利山に降り立ったと言われている日。
平成10年(1998)4月奉納と言えば、
眷属キツネが建造されたのと同時期ですね。
この時期には、いろいろ活発な催しがあったのでしょうね。
(16/07/09・16/06/23・16/06/09・13/09/06・13/08/24 追記) (12/08/23 再構成) (11/01/26・10/12/24・10/12/18・10/12/17・08/01/22・08/01/19 追記) (05/09/16)
(撮影 16/06/15・16/06/11・16/06/08・16/06/01・13/08/27・13/08/26・13/08/19・12/08/22・12/08/20・12/08/19・11/02/23・10/12/17・09/04/03・05/09/17・05/07/31・05/02/26)
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