タヌポンの利根ぽんぽ行 上曽根の観音堂

TOP・探訪目次>上曽根の観音堂


目  次


下曽根の文小学校前に大通りを挟んで南に下る小路があります。
それを少し進んで右にカーブするコーナーにあるのが観音堂です。

ここには、お堂を挟むようにして両サイドにたくさんの石祠が並んでいます。
左に13基、右にはなんと29基もあります。これは利根町最多です。
また、ここでも四郡大師の祠を見つけました。

注意)この観音堂は、実は上曽根と下曽根地区の境にあり、
地図上では下曽根地区に入るような気がしますが、
正確には上曽根に属し、旧地名では、上曽根下坪と言われる所在地になるようです。

2014年夏、42基の石仏の再調査を行ないました。
新たに2基、墓塔以外で見つけることができました。
また、前回記した銘文の読み違いもありましたので修正追記しました。


利根町西部マップ

利根町西部マップ

観音堂と観世音菩薩

観音堂

この流れ造りの本堂以外は、
鰐口も常夜燈も賽銭箱も
何の設備もありません。
唯一、「観世音」と記された篆額が
掲げられています。

篆額
観世音菩薩像

お堂の中を、小さな格子窓から覗いて見ると、
本尊の観世音菩薩らしき像が安置されています。

観世音菩薩とは一般に略して
観音様と言っているのと同じです。
観世音は、衆生の人びとの声である「世音」を
「観」ずる、聞いたり見たりしてくれるという意味。
「菩薩」は「如来」が変身した姿で、
人の心の姿を映し出し、間違った心を
気づかせてくれるといわれます。
それは人びとを救わんとする
仏の大慈悲の働きということです。
参考→ 観音とは

四郡大師64番

大師64番

ここにも大師堂がありました。
場所が場所だけに、
通称、上曽根の大師なのか、
下曽根の大師というべきなのか、
迷うところです。

番号札は以下。

大師64番札

堂内の大師像は下左写真。さて、右下は、堂の上部に掲げられている額ですが、文字がほとんど読めません。
もし、これが建立日などの情報でなかった場合は、札所番号がある限り、何であるかほぼ推定ができます。
四国霊場64番札所の御詠歌と同様のものが記されていたと思われます。すなわち、
まへはかみ うしろはほとけ ごくらくの よろづのつみを くだくいしづち
ちなみに四国霊場64番札所は、石鉄山 前神寺。所在地は、愛媛県西条市洲之内甲1426。

大師像 御詠歌額

本体: 高33cm、幅24cm、厚15cm。

利根町最多全42基の石仏

1列29基も最多

石仏13基

観音堂の左手には13基(左写真)。
観音堂右手、大師堂右隣には、
ブロック塀に沿って(下写真)、
なんと29基もの石仏がズラリ。

全42基は利根町で最多ですが、
1列で29基というのも最多です。
2位は、惣新田の石仏で1列で28基
でも惣新田はその28基だけなので、
1ヵ所で42基はすごいですね。

『利根町史』(平成5年発行)には、
庚申塔 元文2年(1737)ほか
石塔類17基とありますが、
またしても数がまったく合いません。
ここ10数年で、10数基もの差、
何か開発移転等があったのかも?

石仏29基

さて、当初は、とてもこんな数多くの石仏をひとつひとつ見ていくのはできないと思っていたのですが、
サイト開設8年目にしてようやくひととおり利根町全体のコンテンツ化ができてきているので、この辺でもう少し精しくと・・・。

全42基もあるので、風化の激しいものもあるでしょうが、半分ほどは建立年代など判明するかと期待したのですが・・・。
間近に石仏を見ていくと、なんと文字など読めそうなものはほとんどない、という現実に遭遇。がっかりです。

多くが墓塔のようで、いくつか観音菩薩像が彫られた石仏もあることはあるのですが、
文字がさっぱり読めないので、月待供養塔なのか念仏塔なのかはむろん、戒名が消えた墓碑の可能性もあり、
結局は、単に「・・・観音像の石仏です」程度しか説明ができないものばかり。非力さに悲しくなってしまいます。

なんとか若干の説明ができるのは、13基からはたったの1基だけ、29基からは4基だけ、という、惨ざんな結果。
もちろん、拓本などしっかりとったりする、その道の熟達者ならもう少しはなんとかなるのでしょうが。

ということで、42分の5にすぎませんが、以下、説明を。あーーー、再チャレンジするかどうか・・・。

→ 再チャレンジというほど綿密ではありませんが、2014年夏に再訪問。以下、2基ほど追記が可能に!
13基のほうはやはりさらに風化するばかりで、これは諦めるより仕方ありませんでした。
29基のほうは、左から12基、16基目が新たに紹介できるように。また以前のものの若干の誤謬も修正しました。
それ以外は、銘文は読めますがほぼすべてが戒名が記された墓塔のようでした。古い時代の無縁仏でこれは割愛します。

薬師観音?

薬師観音

13基並んだうち、いちばん左の石仏。

薬師観音が刻像されているようですが推定です。
薬壷を持っているように見えるからです。

右に「往□□□師□□」と文字が見えますが、
断片的でほとんど内容は読み取れません。
左は、「正徳元□天□□」と
かろうじて正徳元年(1711)建立が分かります。

ほかの12基は全滅です。
ほとんどが暮塔のように思います。

本体: 高49cm、幅29cm、厚23cm。

左から12、16基目と右端4基

右から5基

当初、29基のほうは、なぜか、
なんとか少し説明の付くものは、
右端から5基のなかに4基とも
すべて入っていました。
左は、その右端の5基の写真。

すなわち、左写真で、
右から2基目以外が、当該4基です。

このほかに、2014年再調査で、
新たに2基、判明・追加しました。

以下、29基の左から紹介します。
新規の2基(左から12、16基目)から
右端の4基の順番になります。

読誦塔

読誦塔 読誦塔右側面

左端から12基目に見つけました。

奉讀誦普門品一萬巻供羪塔
普門品=観音経一万巻を読誦した記念に
建てられた塔です。
左右に「天下泰平 國下安穏」、
上曽根邑 講中十八人」とあります。

塔の右側面に彫の深い跡があるのですが、
ちょっと建立年とは読めません。

本体: 高62cm、幅27cm、厚19cm。

十九夜塔

左から16基目に典型的な「如意輪観音」の十九夜塔を発見しました。
同じような如意輪観音が刻像された塔がほかにもあるのですが、それらは戒名だけが彫られた墓塔でした。
この塔は、右に「奉納十九夜念佛爲二世安楽也」と記され、左には「宝永二年 酉十月十九日」とあります。
宝永2年(1705)の建立ですが、10月19日とあることからも十九夜塔であることは確実です。
ほかに「上曽根村願主□□ 同行十六人」が左方に見えます。願主の後が読めないのですが「女講中」などではなさそう。

十九夜塔 十九夜塔左 十九夜塔右

本体: 高57cm、幅38cm、厚22cm。

以上の2基が2014年の再調査で新たに判明しました。ほかは、文字等を見ると戒名や命日等が記されているようです。
余談ですが…。じっと碑文を眺めて文字を読み取ろうとしていると、最近は体力が続かなくなってきたようで困ります。
しかも、いつも石仏調査は炎天下ばかりで、今回は少し立ちくらみがしたので、もう少し涼しい時にと思っています。
さて、以下は29基の右端の4基。石仏サイズを測るついでに銘文の再チェック。読み間違い等を修正・追記しました。

十五夜塔

子育て観音

真ん中にかすかに「□□十五夜塔」の文字が読めます。
□□は欠損していますが、「奉納」か「奉待」もしくは「種子」が彫られていたと推定。
赤子を抱いているので「子育て観音」の十五夜月待の刻像塔と思われます。
当初はこうした塔の先入観もあって十九夜塔としていました。

また右の文字も、天保3年と当初記しましたが、
文化三寅正月吉日」、文化3年(1806)の読み間違いのようです。

左には、「□□下組講中十二人」とあります。
下組というのは下曽根ととるより、
やはり上曽根村の下坪と解釈するのが妥当でしょう。

本体: 高82cm、幅30cm、厚18cm。

庚申塔

庚申塔

三猿」が彫られてさえいれば、確実に庚申塔と呼べます。

でも、塔の中央・左右をよく調べてみると文字が微かに読み取れます。
中央に「奉建立青面金剛」。
青面金剛は確実に読めますので庚申塔であることは確実です。

ところで、『利根町史』に元文2年(1737)の庚申塔とあり、
ほかに庚申塔らしきものは見当たらないのですが、
右方上部の文字は「元文四□未天」に見えます。
これで正しければ□の読めない文字は必然的に「己」となります。
また左方には、「□立卯月吉日」と見えます。
元文4年(1739)4月の造立と判断しましたがどうでしょうか。
『利根町史』編纂時の調査はかなり前でその分風化も少ないでしょうし、
見識のある方々の調査ですので、元文2年は正しいものと思われます。
でも、この庚申塔では「四」と「未」に見えるのですが・・・。さて真相は?

本体: 高68cm、幅26cm、厚19cm。

二十三夜塔

二十三夜供養塔 二十三夜供養塔右側面

やっと確実に読める文字が・・・。
二十三夜供羪塔」。 二十三夜の月待供養塔です。
二十三夜の場合は、本尊は、
勢至菩薩の場合が多いと聞きます。

上部に庚申塔のように「日月」のレリーフ。

亥の異体字

右側面には、建立日。
文政十年亥十月吉日
左は「亥」の異体字です。
文政10年(1827)10月の建立。

本体: 高63cm、幅28cm、厚20cm。

廻国塔

廻国塔

お供え台のようなものが、これだけにあったりするので、
これもやはり墓塔かと思ったのですが、中央部、とくに塔の下をよく見ると・・・。

□□大乗妙典□□日本回國」の文字がなんとか読み取れます。
ということは、日本66ヵ国の霊場巡りの記念の廻国塔と思われます。

本体: 高86cm、幅34cm、厚20cm。台石: 高26cm、幅53cm、厚40cm。

以上で説明は終わりです、お粗末様でございました。うーーん、蚊と雑草の少ない晩秋にでも再挑戦してみるか・・・。
上記のように以前記しましたが、2014年再調査時、午前中で太陽光の具合か意外に文字等概要が分かりました。
ほとんどが戒名が記された墓塔のようです。江戸中期前後で無縁仏となったものでしょう。墓塔の紹介は割愛します。

episode: 1基消失?

1基消失?

あるとき、写真の整理をしていたら・・・。
右から6番目の石塔が1基なくなっています。
この写真では後に倒れているようには見えません。
初期の訪問時には確かに13基そろっていたハズ。
この写真撮影時、ちょっと帰宅を急いでいたようで、
気が付きませんでした。あっと、これは大震災前の話です。

さて、どうしたのでしょう?まさか、盗難?

余談ですが、写真右背後に写っている建物は、
「やさしく、かしこく、たくましく」の 文小学校 です。
→ 間違いです、図書館でした。文小は写真の左ですね。
ああ、早とちりばかり。かしこくないなあ。(12/06/23 訂正)

上記から約半月後に再訪問して、確認しました。当該石仏のあたりに近づいて見てみると・・・。

1基消失の解決

倒れた石仏

なんと、後に倒れていますね。
重みで草の中に埋もれてしまっています。見えますか?
前の写真で後に倒れているように見えなかったのは、
後方が少し傾斜で低くなっていたからのようです。

だれかが直してやらなければずっとこのままでしょう。
では、タヌポンが・・・よいしょっと。結構、重いんですよね。
セメントなどで台座に固定しないとまた倒れてしまいそうです。
とりあえず、石仏の底の背後に小石をかませておきましたが、
このままだとまた倒れてしまうのは時間の問題かも知れません。

でも、とりあえず、めでたく13基、復元しました。

さて、その後ですが、あの大震災を経た後で訪問してみると、異状ありません。どの時点か不明ですが固定されたようです。


(14/07/14 追記) (12/06/21 追記再構成) (07/07/08・07/06/18追記) (05/10/23) (撮影 14/07/12・12/06/10・12/04/24・07/09/08・07/07/08・07/05/05・05/07/17)


本コンテンツの石造物データ → 上曽根の観音堂石造物一覧.xlsx(13KB)