タヌポンの利根ぽんぽ行 惣新田1(勢至堂と惣新田の自然)

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惣新田1 目次



関連リンク


更新経過

2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
当コンテンツも2度目のタイトル名含めた再編成をおこない、
「勢至堂と惣新田の自然」を副題とし「惣新田1」に変更。
内容的には、金毘羅神社が改築されたことの告知や、
28基の石塔のより詳しい解説や誤謬の訂正などを行ないました。(15/07/26)


サイト開設から比較的初期の時点に惣新田を訪れました。
豊かな自然とのんびりとした雰囲気が好きで、その後もたびたび訪問しましたが、
肝心のコンテンツの更新はずっと初期のまま。

大震災を経験して、2012年に以前のポイントを見ていくと、
メインスポットの勢至堂が美しく塗り変えられていたり、四郡大師堂も改築されています。
そうかと思うと、地蔵尊堂のあのほっとする空間が消失して、新道ができていたりします。

また初期コンテンツでは、未熟さゆえに誤った記述が多く、
それをヘンに修正したりして読みづらい構成になっていました。

これらを一気に更新するとともに、懸案だった28基の石仏調査も行い、
惣新田地区の再編成をすることにしました。

すでに、第1弾として、「惣新田の神社・石仏等」をUPしました。
こんどは、メインの「勢至堂」と、「惣新田・新利根川の自然」がテーマです。

この再編成にともない、コンテンツの一部の移管なども行いました。
前コンテンツで掲載していた惣新田北、龍ヶ崎北河原の鹿島神社については、
石仏調査ほかボリュームが大幅に増えたため、「惣新田の神社・石仏等」へ移管しました。

それでは、新しく塗替えされたひときわ鮮やかになった「勢至堂」から、以下、ご説明します。
(12/07/15)


利根町最東部マップ

勢至堂(二十三夜堂)

本堂

勢至堂

塗り替えられたことを知ったのは、
震災後。2012年になってからです。
たびたび訪問していたつもりですが、
気が付きませんでした。

正式名は勢至堂。
本尊が「勢至菩薩」だからです。
別名が「二十三夜堂」。
地元の人は「三夜様」(さんやさま)
と読んで親しんでいます。

二十三夜の月待信仰では、
一般に勢至菩薩を本尊としています。

二十三夜塔と刻まれた石仏は
各所で見かけますが、
こうした立派なお堂が建てられるのは
多くはないのではないでしょうか。

勢至堂拝殿

本堂は、流造りで、瓦形トタン葺と記されています。
朱塗りがとても美しいお堂です。
祭礼は7月の23日、二十三夜様ですからね。
お寺ではないので、ご住職がいるわけではなく、
仏事一切は、円明寺 に依頼す、とあります。

本尊は「勢至菩薩」

勢至菩薩

勢至堂の本尊は勢至菩薩。
これが「三夜様」(さんやさま)ですね。

この写真は、以前に、
格子の隙間から撮影したものです。
いちど正式に撮りたいものですが・・・。

『利根町史』では、厨子に
弘化2年(1845)造立の
記銘があるということです。
ちなみに厨子とは
仏像や舎利(遺骨)などを
安置する戸棚の形をした仏具。
法隆寺の玉虫の厨子が有名です。

勢至菩薩梵語

勢至菩薩は、梵語では、音はサク、と読みます。
左が梵字で、石仏等に彫られたこの文字を「種子」(しゅじ)と呼んでいます。

さて、そもそも二十三夜、とは何か?月待信仰ですがこれはまた別の機会に触れましょう。
十三夜、十五夜、十六夜、十七夜、十八夜、十九夜、廿日夜、二十二夜、二十四夜、二十六夜・・・
いろいろあります。月、大陰暦と関係あるのですが、一口には説明できません。
勉強してまとめなければなりませんので・・・後日。

勢至堂の由来

勢至堂案内看板

おや、何か由来の説明文がありますね。(クリック拡大)

この要旨は、以下。

いまから約280年前の享保年間(1716〜1735)に、
施主講中34人によって建立。
その後、まれに再建を重ねて
現在のものに再々建されたのが、
いまから148年前の天保6年(1835)

とすると、この案内板が造られたのは、
1835+148=1983(昭和58年)
バブル前のいい時代でしたね、あの頃は。
おっとつまらない感傷ではなく鑑賞を。

享保は正徳のまちがい?

でも、ここで疑問。

案内板が1983年のものとすれば、それから約280年前は、1703年。これは、享保年間(1716〜)より前になりますね。
説明文とくいちがいます。どれかがまちがってますね。タヌポンの計算かな?

ところで、『利根町史』(第五巻)には 正徳 2年(1712)建立、天明4年(1784)再建、
以下、天保6年(1835)再々建は、案内板通りとなっています。

『利根町史』のほうが昭和58年に作られた説明文より新しいので、正徳2年(1712)建立が正しいのではないでしょうか。

案内板の「いま(1983)から280年前」という記述が正しいとしたら、
享保 年間(1716〜1735)を 正徳 年間(1711〜1715)とすればすべてうまくいきます。
由来看板説明文の 享保正徳 のまちがいだったのではないでしょうか?

木鼻

木鼻

朱塗りだけを新たに施しただけではないようです。
この「木鼻」にあたる部分も、緑や白の塗料で、
上塗りされています。

勢至堂は、町の指定文化財にはなっていないのですね。
正徳2年(1712)より相当古いものでないと
指定とはならないのでしょうか。

鰐口と鈴

鰐口と鈴

鰐口があるかと思えば、鈴もありますが、
どうやら鰐口が破損して、鈴のほうが使われているようです。
明治の廃仏毀釈で神社では鰐口が仏教様式だというので
排除されたところもあるようですが・・・。

いずれにせよ、「仏教系=鰐口」「神道系=鈴」の基本は、
現在では、もはやあってなきが如しです。

境内の施設

勢至堂

ここは勢至堂の境内なのか、
集会所の敷地というべきなのか。
どちらが妥当なのか分かりませんが、
本堂のほかに各種施設があります。

写真の右手には手水舎がありますし、
本堂裏手には大師堂や何かの建物、
奥には古い祠もあります。
(祠は2014年に改築されたようです)

滑り台など遊戯施設がありますが、
他の地区と同様、子供の遊ぶ姿は
かつて一度も見たことありません。
いちばん奥に集会所があります。

以下、順に紹介していきますが、
とにかく初訪問で驚いたのは・・・。

全28基石塔群

入口石塔から奥を

惣新田に初めて訪れたとき、何よりも驚いたのは、
勢至堂よりも、入口左にズラリと並んだ石塔群でした。

大平神社(19基) も驚きましたが、さらに多い全28基。
まあ、とにかく下の スクロールスライド でご覧ください。

実際、いつかこれらをひとつひとつ調べることになるとは
想像していませんでした。それが、いま・・・。
これは、後半 石塔群全28基調査 でまとめて紹介します。

課題は、『利根町史』の「観音塔、明和2年(1765)」が
果たしてこの中に存在しているのかどうかということ。

28基、正面からはもちろん、左右と裏面確認で4方向、中腰で立ったり座ったりしてカメラを向ける、
読みにくい文字を手で触わりながら推量する、藪蚊に刺されながら・・・。あーー、考えただけでも疲れます。
その上、拓本などとったりする人はちょっとすごすぎますね。そこまでは、技術的にタヌポンにはできません。

四郡大師58番

四郡大師堂

これは、つい最近(2011〜2012)、
改築されていますね。きれいです。
下の番号札は旧のもので、
色あせた感じがします。

もうひとつ掲げられている札は、
何が記されていたものでしょうか。
四国58番の御詠歌かも知れません。

立ち寄りて 作礼の堂に やすみつつ
六字をとなえ 経を詠むべし

58番札所

以下は、大師像。右は平成17年度の供養の貼紙。当初、惣新田を訪れたときは、四郡大師そのものが不明でした。

大師像 先祖代々供養各地区案内

大師像左本体: 高31cm、幅24cm、厚17cm。大師像右本体: 高42cm、幅27cm、厚15cm。

大師像の銘文

以下は、右の大師像の台石、左から右側面、正面、左側面。いずれも、銘文が彫られています。これは珍しい例です。
正面は、「持戒善童子 玄俊善童子 雨慶善童子 苗諦善童子」、これは幼くして亡くした子供の戒名なのでしょうか。
左側面は「世話人 村中」、右側面「文政元寅十一月立 寄附 利右エ門」で文政元年(1818)11月の造立。

右大師像台石右側面 右大師像台石正面 右大師像台石左側面

以下は、他のコンテンツからの「四郡大師とはなにか」の説明用リンクとなっていますので、当初の無知な記述を残します。

四郡大師とは?

最初、タヌポンは番号札もそうですが、「たいし?聖徳太子?太子堂小学校というのもあるし・・・」などと考えましたが、
すべてのものが、なんのことやらさっぱり???でした。こういうことの経験がまったくなかったせいもあります。
何ヵ所か四郡大師の堂を見つけて、どうもこれは、四国八十八箇所札所めぐり、つまりお遍路さんのミニ版ではないかと。
ミニ版とはいうものの、88ヵ所ではなく、なぜか200ヵ所近くにも増えている様子で、このあたりも不可解なことでした。
ちなみに、四郡大師は、「よんぐんだいし」ではなく「しぐんだいし」と呼ぶようです。念のため。
利根町では、「だいっさま」と読んだりしています。

では、以下、その解説(『利根町史』第四巻)の要旨です。


突然ですが、ここでクイズです。

読者への挑戦 3択、いや5択です

Q.それでは、「大師様」とはいったいだれでしょう?

  1. それはやはり、仏門の 恵灯上人 が筋でしょうに。徳満寺管轄なんだし。
  2. 山本豊栄、この人なくしては新四国はうまれんかった。
  3. 大見川安右衛門、発起人がなんちゅうてもエライんや。
  4. クイズはいいから何か食うかい?そうそう 空海 さんを忘れてた。
  5. 分からん。つまり結局のところ 不詳 なのであーる、よくある話じゃ。

A.答えは「大師50番」を紹介してあるコンテンツで。

問題が(ある人には)あまりにもカンタンすぎるので、答えの位置をむずかしくしました(笑)。
えっ、ヒント?・・・それじゃ答えと同じなんだけど・・・まあいいか。利根町最東部マップ から大師50番リンクを見るとか。


四郡大師結願紀念碑

これも当初、教養のなさが災いし、大きな誤解をしてつまらない記事を書いてしまいました。
「結願紀念」を「改築紀念」と勘違いしてしまったのです。「結願」という意味を知らなかったがゆえの見間違いでもあります。

四郡大師結願紀念碑 四郡大師結願紀念碑碑陰

タヌポンのような誤解のないように
まずは「結願」の意味を。

【結願】(けちがん):
〔仏〕日数を定めて仏に願をかけたり、修法(ずほう)をしたりするときの、最終の日。また、その日の作法。(三省堂『大辞林』)

なお、惣新田の四郡大師は
昭和37年(1962)4月11日結願。
記念碑建立は同年の6月。

このあたりは未調査でよく分かりませんが、
「結願」の担当地区大師堂は
毎年、変わるのでしょうか。
徳満寺がいつも最終地点と思っていました。
持ち回りになっているのかも知れません。

本体: 高166cm、幅70cm、厚12cm。

昭和三十七年四月十一日       旧文間地区
幹事長  森河  守治 〃  海老原 しな 〃  関口  精策  〃  八島  まさ
寺院附  古山  法弘 〃  齋藤 源太郎 〃  沼ア  みね  〃  下田  茂一
副幹事長 杉山 亀太郎 〃  藤代 敬次郎 〃  鈴木  あき  〃  羽入 憲太郎
評議員  石塚   章 〃  中川  新平 〃  堀越 伊三郎  〃  小貫  京藏
 〃   高須 晃之助 〃  飯島 由次郎 〃  北澤 精一郎  〃  小倉 千代松
 〃   石井   明 幹事 下村 市太郎 〃  石川   肇  〃  中山  喜重
 〃   石橋 仁三郎 〃  高島 弥三郎 〃  糸賀  家光 世話人 石井  はな
 〃   薄井   廣 〃  野口   清 〃  坂本 義三郎  〃  長谷  とく
 〃   繻エ  慶吉 〃  澤部  清一 〃  下村  清助  〃  高島 清之助
 〃   桜井  芳松 〃  中久木幸一郎 〃  糸賀  三郎  〃  市田  光男
 〃   土屋  晴一 〃  中島  静治 〃  山形  浦吉  〃  金子   平
 〃   中川  長作 〃  細村  忠吉 〃  飯塚  平三  〃  下村   徹
 〃   大谷 光太郎 〃  佐藤  惣次 〃  飯島  たみ  〃  坂本  長次
 〃   大越  邦吉 〃  大竹 長三郎 〃  山口  ます  〃  田上   安
 〃   羽入  延次 〃  堀越  正直 〃  山口  こう  〃  青木  義熙
 〃   鬼澤  栄吉 〃  関口 慶三郎 〃  石田  みち  〃  中川  秋藏
昭和三十七年六月建立         飯嶋由次郎書 印

手水舎

入口の手水舎

さて、惣新田勢至堂の境内には、実は、2基の手水があります。
1基は、左写真の手水舎。入口道路沿いにあります。

これは、勢至堂の付帯設備と想像します。

手水1

手水1

正面の文字は、「奉納御寶前」です(写真左)。
右上が少し欠損しています。

手水鉢の右側面(下写真左)は、
惣新田村 施主 鈴木兵右(衛門)」

左側面(下写真右)は、「寛政元己酉二月」。
寛政元年(1789)2月の造立です。
「寛」の字が欠損していますが、以前はもう少し読めましたし、
□政元己酉・・・では□は必然的に寛と推定できます。
文政・安政の元年はいずれも己酉ではありません。

本体: 高25cm、幅71cm、厚40cm。

手水1右側面 手水1左側面

手水2

手水2

さて、左がもう1基の手水で、これは、
28基石塔群のいちばん奥の位置に置かれています。
手水鉢には、「嗽盥」という、難しい文字が記されています。

「盥」は「かん」と読み、「たらい」の意味。
もうひとつは、上部が欠損していますが、「嗽」(そう)と推定。
「嗽」の意味は「うがい」。したがって、「嗽盥」(そうかん)は、
口などをすすぎ清める手水鉢、ということです。

この名の手水鉢は、利根町ではこの1基だけです。
(タヌポン調査 15/07/20 現在)。
でも、文字を逆にした 盥嗽 の手水を円明寺で見つけています。

本体: 高27cm、幅74cm、厚30cm。

下は左が手水右側面、右は左側面の写真。表面の欠損といい読みづらい銘文なのでかなり古い造立と思いましたが・・・。
右側面は「寄附 願主 松□□之助」、「卋話人」に「鈴木□□助 石田□□□ 古山□□□ 井□春七」が断片的に。
いっぽう、左側面はおそらく造立年が刻まれていると思いますが、明白に読めるのは冒頭の「」だけ。
古い手水、との先入観から「明暦」や「明和」などを思い浮かべましたが、じっと見てみると「明治七」に見えてきます。
そういえば、卋話人などの名前も、昔によくある「・・右衛門」「・・左衛門」がなく、近代の名前のようにも思えます。
案外、明治7年(1874)の造立が正解なのかも知れません。これらの銘文は難読が多く、ちょっと自信が持てません。

なお、この手水は、手水1 の前身もしくは追加版ではなく、別の何かの付帯設備だったのではないかと思います。
「別の何か」・・・それは、この手水の背後にある、後で紹介する「金毘羅神社」ではないかと推定しました。

手水2右側面 手水2左側面

惣新田集会所

惣新田集会所

2005年の夏、この地区を訪問したとき・・・。
「ほら、祭りの音楽が・・・」
タヌポンの奥さんの声に振り向くと、
いちばん奥に建てられている集会所の中で、
楽しそうに盆踊りの練習をしている女性の姿が
窓ガラス越しに見えました。

『利根町史』によれば、惣新田集会所に「称名庵」があり、
本尊として、阿弥陀仏・不動尊像がある、ということです。
集会所の中をいつか見せてもらうことができれば、
また写真に撮れるようなら、ぜひここに紹介したいですが・・・。

境内の神社2社

金比羅神社

金比羅神社

見るからに年代を経た木造、
流れ造りと呼ぶのでしょうか、
何か由緒がありそうな
たたずまいを見せています。

最初見たとき、
これはもうほとんどれかけた
というイメージと同時に、
灰色がかった板や柱の風情に
かしい感情が湧いてきました。

遠い過去の日、同じように
このような暖かい日差しの中で、
こうした古い板切れが散乱して、
そんな広場で遊んでいたような・・・。

につながる?

由緒は結局、不明ですが、一般に、金比羅神社の祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)。
これもいつかは建て替え、もしかすると廃棄になってしまうかなと思って見回してみると・・・。これはすごい、と思いました。

木鼻 彫刻 彫刻

両サイドのこの素晴らしい彫刻!いま新しくこうした祠や堂宇を造るとしても、こういう風にはいかないでしょう。
とすればできるだけ長く、この状態を保ってほしいところですが、そうするには維持費もかかるのでしょうね。

この祠のどこを探してもこれが何であるかが分かる目印はなく、後で『利根町史』で、「勢至堂裏の金比羅神社」と判明。
『利根町史』には、大師58番の堂がこの金毘羅神社の付帯設備として記されています。では結願紀念碑もそうなる?
また、関連石塔として道祖神 宝暦6年(1756)ほか8基とあります。石塔群の調査結果に注意してみましょう。
道祖神はともかく、大師堂は仏教系なので勢至堂の付帯設備が自然と思うのですが、こう記される根拠は何でしょう?

新・金比羅神社

2015年4月末、再調査で訪問すると、あっと目を引く建物が!金比羅神社の祠が新しくなりました。

新・金比羅神社 新・金比羅神社

最近の通常の改築とは異なり、本殿前の木鼻などの彫刻もしっかりされて、なかなかの出来栄えです。

新・金比羅神社 新・金比羅神社

ここでちょっと心配になったのは、前の祠の存在。境内におられたご婦人に伺ってみました。
「前の彫刻は廃棄せずちゃんと保存されてますよ」。安心しました。この新・金比羅神社が建ったのは2014年の春先とか。

八坂神社(天王社)

さて、もうひとつ、勢至堂境内中央、結願紀念碑の背後にも、建物が見えます。
勢至堂関連というより集会場に付帯した倉庫のようなものだと思ったのですが、中をのぞいてみると立派な神輿が・・・。
この外観からでは、とても神社、もしくはその拝殿・本殿とは思えませんが、これがなんと八坂神社でした。

八坂神社(天王社)

この建物を見て、神社とはだれが
推測できるでしょうか。

これが何であるかが分かったのは、
集会所から西に少し行ったところの
三峰神社四郡大師84番 を祀る家で
その家の方からお聞きしてのこと。

古い地図に記された「天王神社」が
その家の敷地に記されているので、
訊ねてみたところ、それが、なんと、
境内の件の建物に結び付きました。

元々その家の敷地にあった神社は、
惣新田の別の方の氏神様であり、
数年前に引き取っていただいた、
それが集会所のプレハブの建物だ、
ということでした。
八坂神社(天王社)の移転 参照

お話しした時期から考えると、数年前とは平成10年(1998)から12年(2000)前後かと推測されます。
この「天王神社」というのが、すなわち八坂神社と同一なのですね。

移転前の平成5年(1993)12月発行の『利根町史』に掲載されている古い外観の八坂神社の概要は、以下。

八坂神社(天王社) 所在地は、惣新田上坪。祭神は、建速須佐男命(たけはやすさのおのみこと)。
施設として、本殿は木造、瓦葺。石塔として、十五夜供養塔 宝暦13年(1763)。大師堂 コンクリート造りほか6基。

十五夜塔や大師堂(84番)等はそのまま三峰神社に残り、八坂神社(天王社)だけの移転だったようです。

八坂神社と天王社

さて、八坂神社(天王社)と記されてはいるものの、なぜ2通りの名前があるのか。
また、古い地図では、天王神社として記されているのに、なぜ昨今では八坂神社の名称が優先されて呼ばれるのか。

こんなことが、タヌポンは、気になるのです。そして、ある「勝手な推測」をたててみるわけです。

あばれみこし

あばれみこし

当初撮った写真では、みこしの中にお札のようなものがあり、
八坂神社の文字が見えました。この建物が八坂神社であれば、
左写真のみこしは、欅造りの「あばれみこし」と呼ばれるものです。

ちなみにあばれみこしは、7月7日(七夕ですね)の例祭で、
堀や川に入って揉む、荒神輿という神事があるといいます。

このほかに宝物として、木太刀があると
『利根町史』に写真入りで記されていますが、どれか分かりません。
また、祭神・本殿なるものがどれになるのか不明です。
社殿らしくない建物にみこしだけがあり、
「八坂神社」と称しているのは、ちょっと違和感があります。

石塔群全28基調査

石塔群全28基

前半18基

前半18基

前半と後半を別けたのは、
その間に若干の間隔があるからです。

前半が、勢至堂に付帯するもの。
後半は、金毘羅神社に付帯していたもの。
一応そのように分類できるかと思います。
ただ、仏式、神式、いずれも混合しています。

前半での調査で留意したのは、
前述したように、『利根町史』の記述にある、
「明和2年の観音塔」の存在確認です。
もっとも「外9基」と記されているのは
数がまったく合いませんが・・・。

1.地蔵菩薩塔

1.地蔵菩薩塔

地蔵は、一般にほとんど文字が彫られていないものが多いですね。
丸彫りの像が多いから、像には刻銘できないものなのでしょう。
これもそうですが、台石には「女人講中」とあります。
女性と地蔵との関係は、やはり、地蔵が、
一般的には「子供の守り神」として信仰されているからでしょうか。

(あっと、台石の左右側面と裏面を確かめたかなあ。ああ、また宿題)

本体: 高70cm、幅22cm、厚15cm。

2.常夜燈

2.常夜燈 2.常夜燈裏面

写真は正面と裏面。
正面は「奉納御寶前」。
裏面は「寛政六甲寅三月吉日」で、
寛政6年(1794)3月の造立です。
裏面を撮影するのはちょっと苦労しました。
植え込みなどがあって撮りにくいのです。
この塔は、次の写真で示すように
左右側面にも刻銘があり、
塔の周りを1周しなければなりません。
28基すべてがこれだと思いやられます(笑)。

ところで、この形の塔を常夜燈としてますが、
どこに火を灯すのでしょう?
最上部の火袋の部分が欠損したもの、
と思っているのですが、もしかして、
実は別の名の塔の可能性は?

本体: 高88cm、幅59cm、厚60cm。

2.常夜燈右側面 2.常夜燈左側面

写真左が右側面、右が左側面。
右側面には、「講中 三百人 外十一人
この記し方もなぜ?という感じ。
講中 三百十一人ではだめなんでしょうか?
11人は、講中ではない人たち?

「北」のくずし字

左側面は、以下。

願主 北河原村 木村光悦
同  惣新田村 井原彌八

当初、「北」のくずし字が読めず、
北河原村が分かりませんでした。

ところで、前利根町長は井原氏、
確か惣新田の方。ご先祖様?

画像は「北」のくずし字例です。
知らないと「小」としか読めませんよね。
くずし字はただただ覚えるしかありません。
(文字例は『くずし語用例辞典』より)

3.六地蔵塔

4点の写真は、上は、左から正面、右側面、左側面。下が裏面。これも前の常夜燈と同様、4面を調べる必要がありました。

3.六地蔵塔正面 3.六地蔵塔右側面 3.六地蔵塔左側面
3.六地蔵塔裏面

左の裏面には地蔵が刻像されていないので、
4面で合計すると2×3=6体の地蔵菩薩が彫られていることになります。

正面には、読みづらいのですが「□□□童女」とあり、さらに、
右側面には「□林清休信士 文化四丁卯六月五日□□」、そして、
裏面にも、右下に「離□光□信士」等があり、戒名ばかりが目につきます。

でも、裏面には、中央に「奉納御寶前」「文化三寅七月吉日」とあり、
さらに左下には「講中六十四人」なども刻まれています。
墓塔ではなく、文化3年(1806)7月造立の「六地蔵塔」です。

以前の調査では、この肝心の裏面を確認しないまま、
地蔵6体も推定でしかありませんでしたが、これでOKです。
(1基につき4面撮影掲載するのはたいへん、こんなことがずっと続く?)

本体: 高74cm、幅28cm、厚26cm。

4.馬頭観音塔

4.馬頭観音塔

真ん中に刻像されているのは、頭部に馬らしきものがあるので、
おそらく馬頭観音ではないかと思います。
1面6臂ですが、合掌している2臂以外の持ち物が判然としません。

光背の左右に、かすかに「明和二酉□ 十二月十三日」と判読できます。
明和2年(1765)12月13日の造立のようです。

馬頭観音でも、観音は観音ですので、
『利根町史』の明和2年の観音塔とは、どうもこれのようです。
ほかには、観音塔はあっても、明和2年のものが見つからないので。

★ しかし、いつも思うことですが、『利根町史』では、石仏・石塔類の紹介は、
ほとんど1基のみの名称と造立年だけ記載し、残りは「外・・基」と省略されています。
誌面の都合もありすべてを記すわけにはいかないとは思いますが、それなら、
代表として掲載する1基は、なかでも重要なものを取り上げるべきではないかと。
しかし、現実は、どうもその吟味があまりなされていないような気がします。
また、外何基とあり、もし悉皆調査が過去になされているのなら、
データ集である『利根町史』第二巻にすべてを集録してほしいなあと思います。

本体: 高54cm、幅24cm、厚15cm。

5.子安観音塔

5.子安観音塔

右に、「奉待子安観世音」。
左に、「寛政十午九月吉日」。寛政10年(1798)9月の造立。

子安観音は、もともと仏教にはなかった観音で、
安産や幼児の成長を守護する観音として、
江戸中期頃より如意輪観音から変化してきたものと言われています。

また、明治になって長崎など隠れキリシタンが名乗り出た地域では、
慈母観音からマリア観音として礼拝した聖母像、と言われる場合もあります。

光背があっても銘文があまり刻まれていないものが多いのですが、
この惣新田の塔は各種の銘文があり、珍しいなあと思いました。

中組 女人中」という講中銘もあり、
中組とは、惣新田の中坪地区ということでしょうか。
もし中坪という地名が過去にあったとしたら、まさに勢至堂近辺が該当するでしょう。
ちなみにこれはマリア観音ではないですね、たぶん。

本体: 高69cm、幅28cm、厚18cm。

6.馬頭観音塔

6.馬頭観音塔

これも4.と同様、中央に刻像されているのは馬頭観音に思われます。
ただしこちらは1面2臂。合掌した坐像です。

光背右には、「安永十辛丑」、左に「二月吉日」。
安永10年(1781)2月の造立ですが、
この年は4月に改元され天明元年となります。

ちなみに光背型・舟型の石塔は、少なくとも裏面には銘文がなく、
さきほどの常夜燈などの4面撮影の苦労がなくてすみます(笑)。

本体: 高57cm、幅26cm、厚16cm。

7.道祖神

当初、惣新田では道祖神を見かけないなあ、と思っていましたが、やはりありました。下左が正面「道祖神」。

7.道祖神 7.道祖神右側面 7.道祖神左側面

上中央は右側面で「中組 十五夜女講中」。神道系石祠造立者が、仏教系の月待講中というのが妙なところ。

写真右端は左側面。「文化七午九月吉日」とあり、文化7年(1810)9月の造立です。

道祖神は、この発見前にも、同じ惣新田の 三峰神社 で見つけています。この境内でさらに、もう1基見つかります。

本体: 高56cm、幅35cm、厚26cm。

8.猿田彦太神

8.猿田彦太神 8.猿田彦太神左側面

表面に「猿田彦太神」。
上部に「日月雲」の浮彫がなされているなど
庚申塔の神道版と言ってもいい石塔です。
左側面は「萬延元庚申年十一月吉日」、
万延元年(1860)11月の造立ですが、
この年はまさに60年に1度の庚申の年。

とはいうものの、まったく同一ではなく、
庚申塔に比べて、利根町では数も少なく、
蛟蝄神社門の宮 以来、2基目です。
その後、鎌倉街道でも1基、見つかりました。

道教・庚申信仰の本尊、青面金剛に対して、
猿田彦太神は、天孫降臨の神話では、
「邇邇芸命」(ににぎのみこと)の天降りで
道案内をした神と言われています。

本体: 高68cm、幅27cm、厚18cm。

9.墓塔

ここから、墓塔が目立ってきます。勢至堂の関係者か、僧侶のお墓が多いようです。下左から、正面、右側面、左側面。

9.墓塔 9.墓塔右側面 9.墓塔左側面

正面上部に阿弥陀如来の種子キリークが彫られ、下に「坴蓮社順譽專良大徳覺位」とあり、僧侶の戒名のようです。
ちなみに「蓮社」とは、浄土宗で用いる法号で、宗脈・戒脈を相伝した人に許される称号。蓮社号(れんじゃごう)と言います。

戒名の左右に「享保十三戊申年」「三月朔日」、つまり享保13年3月1日。これが命日かと当初思いましたが・・・。
左側面に「享保九甲辰年」、右側面に「十月五日造立」つまり享保9年(1724)10月5日の造立。
とすると、亡くなる前の造立ということになる?それとも、戒名が付けられたのが4年後の享保13年ということ?
このあたり、逆修供養ということなのか、よく分かりませんが、どうも造立が先の「逆修戒名」と考えるのが妥当でしょうか。

本体: 高91cm、幅33cm、厚20cm。

10.墓塔

10.墓塔

これも、墓塔のようです。中央に「歸西 方譽了西法子」とあります。
法子とは、仏門の弟子の意。戒名(法名)の上に、「帰西」とあるのは、
浄土真宗の「西方浄土」と関係があるのでしょうか。

仏教に「一路帰西(イールクーシー)」、
死者の魂は一路、西方を目指す、という言葉があります。
まさに、亡くなったことを表す言葉ということでしょう。
したがって、左右にある「慶應四辰年 八月廿二日」、
慶応4年(1868)8月22日が命日でしょうか。

ちなみに、この日から2週間後に、明治維新となります。
文明開化の声を聞けずに「帰西」するのは、ちょっと残念な気がしますね。

本体: 高65cm、幅24cm、厚18cm。

11.廻国塔

左から塔の正面、右側面、左側面。正面中央に「奉納大乘妙典日本廻國」と記された典型的な廻国塔です。

11.廻国塔 11.廻国塔塔右側面 11.廻国塔左側面

正面上部に阿弥陀三尊を表す「キリーク・サク・サ」の種子、左右の「日月清明 天下泰平」は廻国塔では決まり文句。

右側面には「下総國相馬郡惣新田村 行者 治兵ヱ 治助」。元からの地元の行者なのでしょうか。
左側面に、「文化二乙丑十月吉日」とあり、文化2年(1805)10月の造立です。

本体: 高63cm、幅24cm、厚18cm。

12.墓塔

12.墓塔

これも浄土宗僧侶の墓塔のようです。
阿弥陀如来の種子キリークの下に
從蓮社良本長願大□」の法名が刻まれています。

左右にあるのは「天保七申」「五月十八日」で、
天保7年(1836)5月18日の造立(もしくは命日)。

本体: 高66cm、幅27cm、厚19cm。

13.墓塔

13.墓塔 13.墓塔左側面

無縫塔もしくは卵塔と呼ばれる僧侶のお墓。

これも、種子キリークの下に、
願蓮社良我□□和尚」の法名。

左側面には、「文政二卯年九月八日」。
文政2年(1819)9月8日の銘。

本体: 高63cm、幅24cm、厚20cm。

14.墓塔

14.墓塔

これも無縫塔。
前記と同様の内容ですが、
蓮社号といちばん下の「和尚」しか読めません。

本体: 高59cm、幅23cm、厚21cm。

15.薬師如来塔

15.薬師如来塔 15.薬師如来塔右側面 15.薬師如来塔左側面

薬壷(やっこ)を持っている様子なので、薬師如来像と推定。
表面右下に「□□童子」とだけ判読できますが、その他が難読です。

上中央写真は右側面で、「天保十三寅十一月」、天保13年(1842)11月の造立。

右端は左側面で、「惣新田□□□」だけ読めます。

本体: 高51cm、幅25cm、厚14cm。

16.廻国塔

16.廻国塔

中央上部は、やはりキリーク・サク・サの阿弥陀三尊の種子で、
その下に「奉納大乘妙典日本廻國供養塔」とあります。
上部左右にこれも、「天下泰平」と「日月清明」。

中段左右に造立銘「寛政五丑天」「十一月吉日」。寛政5年(1793)11月です。

最下部左右は、ちょっと難読。
右に「當村□□□」と名前らしき文字が風化で読めません。
左は「行者□隆從コ」でしょうか。

本体: 高67cm、幅26cm、厚19cm。

17.地蔵菩薩塔

17.地蔵菩薩塔

うーむ。やはり、丸彫りの塔は銘文が刻まれていないので、
地蔵、ということしか言及できません。

本体: 高75cm、幅26cm、厚14cm。

18.墓塔

18.墓塔 18.墓塔右側面

これも、浄土宗僧侶の墓塔。法名は以下。
新圓寂向蓮社良專巖譽善仲和尚」。

左右に「文化七午年 十一月二十七日
文化7年(1810)11月27日銘。

墓塔には珍しく、右側面に「世話人」の名が、
彌左エ門 □治右エ門 權左エ門 忠左エ門

多くの墓塔がありましたが、この勢至堂には、歴代で僧侶がいたのでしょうか。

本体: 高67cm、幅26cm、厚19cm。


後半10基

後半10基

さて、金毘羅神社に付属すると思われる10基。
最初の2基は、どこか一部が欠損している様子。
『利根町史』には「道祖神 宝暦6年」外8基なので、
この2基で1基にまとまればちょうど9基、
しかし、銘文を読むとそうは問屋が・・・。

数は合いませんが、「道祖神 宝暦6年」は、
すぐ見つかりました。

19.不明

19.不明

中央に「奉造立」が読めますが、
形からしても、このままで本来の姿とは思えません。
本体の下半分は、欠損しているものと思われます。

笠があり、一見神道系の石祠に見えますが、
一部判読できる銘文は仏教系のものに見えます。
したがって、笠と本体との関連も疑わしいものがあります。

表面右に「施主」左に「壬壬十月二十四日」などが見えますが、
これだけではこの石塔の実体は不明です。

本体: 高34cm(欠損)、幅35cm、厚27cm。

20.不明

20.不明

これも中央に「奉造立」とあり、
さらに左右には「享保十四己酉天 十月吉日」、
つまり、享保14年(1729)10月と造立年も分かるのに、実体が不明です。

上の19の石塔とセットになれば、と思いましたが「奉造立」の銘文が重複します。
これはこれで、下部が欠損した不明な石塔というしかありません。

本体: 高24cm(欠損)、幅27cm、厚17cm。

21.道祖神

ありました。これが、『利根町史』に記されている「道祖神 宝暦6年」に該当する塔。
当初、真正面(上左写真)から見ると、「道祖神」の文字が読めなかったのですが、左方向から斜めに見るとよく見えます。
下いちばん右の写真が左側面、「宝暦六丙子十月吉日」で、宝暦6年(1756)10月造立が分かります。

21.道祖神 21.道祖神右側面 21.道祖神左側面

中央は右側面で、「惣新田 下組中」とあります。当地区は中組なのではないかと思いますが、下組講中の造立ですか。

ところで、石祠などで、このように黄色に風化しているものを時々見かけますが、これは?
白いのは ウメノキゴケ らしいのですが・・・。鉄さびのような茶色に変色したものもあります。

本体: 高58cm、幅39cm、厚24cm。

22.聖書館熟堂?

22.聖書館熟堂? 22.聖書館熟堂?右側面 22.聖書館熟堂?左側面

この石祠は難物ですね。こんなの初めて見ました。石祠表面内部は「聖書館熟堂」と記されているように見えます。
造立が、左側面(上右写真)に「文政十二丑九月吉日」、文政12年(1829)で、まだ江戸時代ですよねえ。
この時代に「聖書」って?これが、キリシタン石仏なんて、ありえるのでしょうか。何かの学塾の名前のようにも思われます。

写真中央、右側面には「生國常州筑波郡谷田□ 沼尻天□」。常州は常陸国、谷田□は谷田部でしょう。
施主の名に「天」などがあり、隠れキリシタン研究家に聞けば、何かは分かるかもしれませんが・・・。

本体: 高53cm、幅36cm、厚23cm。

23.水神宮

やはりここにもありました「水神宮」。惣新田では先に見つけた 三峰神社 とでつごう2基。ないハズはないと思ってました。

23.水神宮 23.水神宮右側面 23.水神宮左側面

中央写真は右側面で「下組女人講中十九(人)」とは、ここ勢至堂よりもう少し河内町よりの人たちの組でしょうか。
三峰神社水神宮は上組でしたが、21.道祖神26.十五夜塔も下組、27.庚申塔 も下講中、これはどうしてでしょう。
5.子安観音塔 にあるように、寛政10年(1798)からすでに中組という地名の組織が存在していますので、
下組の施主が多い石塔の存在は、その主体である金毘羅神社が以前はもっと東、下組にあったことを物語っている?
もしくは、金毘羅神社関連の施主・願主は、下組が担当する決まりになっていた、とか、そういうことかも。

左側面は「文化十三子九月吉日」文化13年(1816)9月の造立。水神宮は、利根町全体で、17社(2015/06/30 現在)。
ところで、どうして「女人」講中なんでしょう。女性だけが水害にあうわけではないのに。惣新田は女性パワーが強い?

本体: 高56cm、幅37cm、厚29cm。

24.札所塔

24.札所塔 24.札所塔右側面 24.札所塔左側面

表面上部に大日如来をあらわす種子の梵字バンが彫られているようです。その下に「新四國 南無大師」とあります。
新四国とは、文政元年(1818)に約200ヵ所の霊場を開設し終えた写し巡礼の四郡大師のことを指しているようです。

州の異体字

上右端写真は、石塔左側面で、「天保十一子四月吉日 豫州作禮山写」とあります。
豫州の州は左のような異体字になっています。豫洲とは伊予の国のことで現在の愛媛県。
作礼山とは、四国巡礼58番札所である、「作礼山 千光院 仙遊寺」を指し、
まさに前述の 四郡大師58番 がその「写し」となるわけです。

天保11年(1840)4月の造立とあり、四郡大師の巡礼を済ませた記念の巡拝塔かと思いましたが、
右側面には「□再建立 世話人」の銘が見えます。当初、立てた札所塔を再建立したものと推定しました。
世話人には「宮本・鈴木」など5〜6人の名が断片的に見えますが欠損していてすべては読めません。
また、再建立の上にも何か文字が彫られているようにも見えますが判読できませんでした。

この塔が金毘羅神社の付帯設備となっているということは、やはり 四郡大師58番 も神社関連設備ということでしょうか。
四郡大師は仏教系なので勢至堂の付帯設備が妥当と思うのですが、そのあたりはまったく神仏習合というしかありません。

本体: 高66cm、幅27cm、厚18cm。

25.子安観音塔

25.子安観音塔 25.子安観音塔左側面

子安観音の刻像塔。

子安観音は地蔵と同様、文字の刻銘がない、
あるいは少ない場合が多いですが、
これは珍しく、舟形光背の左側面に造立銘。

寛政四子十月吉日」。
寛政4年(1792)10月、如意輪観音から
子安観音へ変化する初期のものでしょうか。

本体: 高59cm、幅25cm、厚17cm。

26.十五夜塔

26.十五夜塔

十九夜塔でよく見かける半跏思惟型の如意輪観音の刻像塔です。
中央に「奉納十五夜講中」、
十五夜塔の本尊は如意輪観音ではないのですが、これは利根町特有の傾向です。

左に「明和八卯九月吉日」、明和8年(1771)9月の造立銘があります。

最下部に「惣新田 下組 女人 十五人」と、ここも下組です。

本体: 高68cm、幅30cm、厚17cm。

27.庚申塔

27.庚申塔

三猿は見えませんが、邪鬼を踏みつけた青面金剛の刻像庚申塔。
上部に日月雲の浮彫。像は6臂で、三又戟と法輪を上に、中ほどで合掌、
下の2臂は、金剛杵のような武器を持っているように見えます。

右に「天明八申九月日」、天明8年(1788)9月の造立。
左下「下講中」というのは、惣新田下組の講中ということでしょう。

本体: 高62cm、幅25cm、厚17cm。

28.庚申塔

これは、「庚申塔」の文字塔。下左から、正面、右側面、左側面の写真。

28.庚申塔 28.庚申塔右側面 28.庚申塔左側面

前半の 8.猿田彦大神 と同様、庚申の年の造立。すなわち、「万延元年庚申歳十二月吉日」万延元年(1860)12月。

当時、これらの2基がどの位置に造立されたのかは分かりませんが、現在とほぼ同様な立地であったとしたら、
あえて、猿田彦大神と庚申塔に言葉を変えて建立したのではないか、そんな風に思います。
まったく同じものを2基造立するのは、ちょっと芸がないように思いますので。
またその時は、刻像できる石工がいなくて、あるいは予算がなくて(笑)、いずれも、文字塔にしたのではないか、など、
勝手な想像をして楽しんでます。ただ、この時代は幕末に近い頃、像を彫らなくても文字が読める人も多かったからかも。

右側面に「當村下坪」とあり、これも、中坪ではありません。ここの10基はすべて下坪・下組が施主のものかも知れません。

本体: 高64cm、幅26cm、厚17cm。

惣新田の自然・新利根川

麦畑

惣新田の水田

利根町が広い!と実感するのが惣新田と加納新田を訪れたとき。
利根町の最東部、その北部が惣新田、南部が加納新田。

右の写真は、惣新田の水田。
ここから左方面が惣新田地区、写真では見えませんが
右方向が加納新田地区になります。

撮影時は5月、ちょうど田植えの真っ最中。
反対の西側は一面が麦畑。まさに時は「麦秋」。
タヌポンはもしかするとこのような麦畑は
初めて見たのかも知れません。まずそのシーンから。

♪だれかさんと だれかさんが 麦畑〜♪ という歌がありましたね。

こんなきれいな麦畑は入るのがもったいないです。ましてや・・・なんて。

あ〜・・・・・・・・のんびり・・・・・・・・。では、次は、惣新田入口から。

惣新田入口

左は、新利根川を挟んで、左岸の道。大分むぎ焼酎、二階堂のCFにあるような光景。この先はどこに・・・。
右は、右岸の道。これも、懐かしい風景。護岸工事の是非を問いたくなる岸辺の道。蛍なんかもいそう・・・。

惣新田北の入口 新利根川と岸辺の道

惣新田の街並み

惣新田の街並み 惣新田の街並み
惣新田の街並み

だれもいないけど、あたたかい
はじめてなのに、なつかしい
かなしいほどに、うつくしい


・・・・・・・
ムギより最近はイモばかりだなあ。
いいCMでも、買うとは限らない。

上記のように書けた時代が懐かしい。
2015年現在、アルコールは
ドクター・ストップに(泣)。

勢至堂から三夜橋へ

三夜橋

勢至堂の裏にあるのが、「三夜橋」

それを渡るともう龍ケ崎市大徳町。
北河原と呼ばれているようです。

左・上流。右・下流。そういえば昔、1億総中流なんて。いまは一握りの上流に巧妙に搾取されるサイレント・マジョリティ。

三夜橋から上流(西)向く 三夜橋から下流(東)向く

大房橋と水門

大房橋と水門

三夜橋を渡って左に少し行くと、
南北の用水と新利根川がぶつかり、
そこにも橋が架かっています。

橋の上には水門の設備があり、
辺りの長閑な雰囲気とはちょっと違和感があります。

この橋は大房橋と呼んでいるようですが、
ここはどうも釣りの穴場のようですね。

新利根川の自然

バス釣の穴場

釣り人に聞いてみると、最近はおしなべて
「バス」という答えが返ってきます。
ブラックバスです。

タヌポンはバス釣りはしたことがないのですが、
面白いのかなあ?
へら鮒のほうがいいと思うんだけど・・・。

川鵜

おっと、魚をねらっているのは人間だけではないようです。これは、なんと、川鵜のようですね。

川鵜 川鵜

Columbus Blog 05/08/14(「ウっと驚いた日」参照)

赤い橋

すぐ近くにはこんな風景も。ここまでくると人工物ではなくもう自然に溶け込んでいますね。いいなあ。

Columbus Blog 05/08/13(「赤い橋」参照)

朽ちた橋 朽ちた橋
朽ちた橋

しかし、この橋も朽ちて落ちてしまったのか、
危険だから撤去されたのか不明ですが、
消失してしていることを2007年夏に発見(左写真)。

惣新田最東端

利根町の正確な最東端は、加納新田地区になりますが、下左写真は、惣新田地区の最東部で、河内町方面を見た場面。
そこから右折して細道を下ってしばらく行くと、用水路に小さな橋が架かっています。橋から河内町方面を見たシーンが右。
前方遠くに見える白い建物は、特別養護老人ホーム あじさい苑。この景色もなかなかいいです。

惣新田最東端 惣新田最東端

(15/07/26・12/07/15 追記再構成) (05/08/25・05/08/20・05/08/14 追記) (05/05/07) (撮影 15/04/26・12/07/09・12/05/13・12/04/29・09/05/20・09/04/02・08/08/06・07/08/05・07/07/08・06/10/07・06/09/23・06/09/10・05/08/27・05/08/14・05/08/13・05/05/07・05/05/06・05/05/04)


本コンテンツの石造物データ → 惣新田1石造物一覧.xlxs (19KB)