♪だれかさんと だれかさんが 麦畑〜♪
という歌がありましたね。
こんなきれいな麦畑は入るのがもったいないです。ましてや・・・なんて。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あ〜のんびり。
さて、そろそろ。惣新田の集会所に行ってみますか。地図は・・・。
集会場広場の手前のほう、道路から見て右向きに建っています。
地元の人は「三夜様」(さんやさま)と読んで親しんでいます。
朱塗りのとても美しいお堂です。しかも、かなり年代を経たもののように思われます。

おや、何か由来の説明文がありますね。(右クリックして拡大)
これによると、
いまから約280年前の享保年間(1716〜1735)に、
施主講中34人によって建立。
その後、まれに再建を重ねて
現在のものに再々建されたのが、
いまから148年前の天保6年(1835)
と記されています。
とすると・・・この案内板が造られたのは・・・1835+148=1983。
1983とは、昭和58年ですか、バブル前のいい時代でしたね、あの頃は。
おっとつまらない感傷ではなく鑑賞を。
享保は、正徳のまちがいでは?
でも、ここで疑問。
1983年とすればそれから約280年前ということで280を引くと1703年。
これは、享保年間(1716〜)より前になりますね。
説明文とくいちがいます。どれかがまちがってますね。タヌポンの計算かな?
ところで、利根町史(第5巻)には正徳2年(1712)建立、天明4年(1784)再建、
以下天保6年(1835)は案内板通りとなっています。
町史のほうが昭和58年に作られた説明文より新しいので、正徳2年の建立が正しいのではないでしょうか。
案内板の「いま(1983)から280年前」という記述が正しいとしたら、享保年間(1716〜1735)を正徳年間(1711〜1715)とすればすべてうまくいきます。
由来看板説明文の享保は正徳のまちがいだったのではないでしょうか?
本尊は「勢至菩薩」
勢至堂の本尊は勢至菩薩。惣新田の人たちが「三夜様」(さんやさま)と呼び敬愛しているものです。
町史では、厨子に弘化2年(1845)造立の記銘があるということです。
ちなみに厨子とは仏像や舎利(遺骨)などを安置する戸棚の形をした仏具。玉虫の厨子が有名ですね。
参考: 勢至菩薩についてはこちらのサイトがとても詳しいです。
梵語では、音はサク、と読みます。梵字は以下。

さて、そもそも二十三夜、とは何か?これについてはまた別の機会に触れましょう。
十六夜、十七夜・・・いろいろあります。月、大陰暦と関係あるのですが、一口には説明できません。
勉強してまとめなければなりませんので・・・後日。
鰐口と鈴
鰐口(わにぐち=写真左)があるかと思えば、鈴もあり、どうやら鈴のほうが使われています。
明治の廃仏毀釈で神社では鰐口が仏教様式だというので排除されたところもあるようですが・・・。
ここの鰐口は単に壊れているのかも知れません。
はて、この勢至堂は神社ではありませんが、お寺というわけでもありません。鐘楼もありません。
勢至菩薩は仏教関連ですから・・・まあ、お堂、ということでしょうね。

写真の右手には勢至堂が右向きに建っているのですが、その背後、つまりこの写真の左手にはズラリと石碑、石塔群が並んでいます。
大平神社のとき(19基)も驚きましたが、それよりも多い全28基。
まあ、とにかく下のFlashでご覧ください。
町史には、観音塔、明和2年(1765)ほか9基とありますが、その9基とか観音塔とはどれのこと?
(調べるのは・・・・・・いつか)
以降の叙述において、後の調査等により誤謬発見(紫で修正・追記します=05/08/14)
さて、Flashのひとつ上の写真では、ブランコの後方とその奥に、祠が2つほど見えますね。
手前のほうが大きく新しいですね。その右手には改築(改築ではなく結願)記念碑が建てられています。
四郡大師堂と四郡大師結願記念碑
大師58番

これは四郡大師の祠というかお堂ですね。惣新田のは改築(改築ではなく結願)記念碑が建てられているくらいですから立派ですが、小規模のものを含めて利根町にはたくさんあります。土地の人は「大師様」(だいしさま)と読んでいます。第84番(この大師は58番)とか番号がついています。
(昭和37年の結願記念日に改築もされている可能性はあります)
四郡大師とは?
最初、タヌポンは番号もそうですが「たいしさま?聖徳太子?太子堂小学校というのもあるし・・・」などと考えましたが、
なんのことやらさっぱり?でした。
どうもこれは、四国八十八箇所札所めぐり、つまりお遍路さんのミニ版(かどうか、なんと200ヵ所あるとも・・・)なのだということが分かりました。
では、以下、その解説(利根町史第4巻)
と、これが要旨です。
突然ですが、ここで問題です。
読者への挑戦 3択、いや5択です
Q. それでは、大師様とはいったい誰でしょう?
A.次号のお楽しみ→ 答えはこのページ後半、大師50番で
なお、惣新田の四郡大師は昭和37年6月改築(改築ではなく結願)。記念碑の裏には碑文を書かれた人の名が記されていました。
同じ方かどうか分かりませんが、田植えの風景を撮るときにお話した方と同姓でした。その節はありがとうございました。
さて、もうひとつ奥のほうに見えた祠なんですが、そのすぐ脇に手水があります。
でも実は、この集会場に着いてからすぐに目に入ってきたのは入口の道路脇、勢至堂の前にある手水舎です。
古い祠の前に、この2つの手水舎を先に紹介します。

左が入口の手水舎。目の前はすぐ道路、右横には勢至堂が建っています。
右の写真がもうひとつの手水。次に説明する古い祠のそばにあります。こちらのほうがそうとうの年代モノという感じです。
でも、なぜ2つも手水が???
この疑問は、あとで少し解決のヒントを思いつきました。
問題の祠。見るからに年代を経た木造、流れ造りと呼ぶのでしょうか、何か由緒がありそうなたたずまいを見せています。
最初見たとき、
これはもうほとんど壊れかけたというイメージと同時に、
灰色がかった板や柱の風情になぜかしら
懐かしい感情が湧いてきました。
遠い過去の日、やはりこのような暖かい日差しの中で、
こうした古い板切れが散乱していた広場で遊んでいたような・・・
壊は懐につながる?
由緒は結局、不明ですが、
祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)。
これもしばらくすると建て替えするか、もしかすると廃棄するのかなと思って見回してみると・・・。

両サイドのこの素晴らしい彫刻!これはすごい、と思いました。
いま新しくこうした祠や堂宇を造るとしても、こういう風にはいかないでしょう。
とすればできるだけ長く、この状態を保ってほしいところですが、そうするには維持費もかかるんでしょうね。
「こんぴら」なのか「ことひら」なのかは後で思ったこと。この祠のどこを探してもこれが何であるかが分かる目印はなく、
後で調べておそらく「金比羅神社」であろうと推定しました。
前は、勢至堂とは一線を画していたのか、これの関連の石塔として道祖神 宝暦6年(1756)ほか8基、
そしてさきほどの改築前の大師堂とがセットになっていたようです。
そこで、先ほどの2つの手水の話。
最初、金比羅神社は勢至堂とは別の次元に置かれていたからこそ手水が2つもあるのではないか。
つまり古いほうの手水は金比羅神社のもの。入口の手水舎は勢至堂のもの、ということ。
タヌポンはそう推理しましたが、あたっているかどうか。
さて、もうひとつ、右手の奥、改築(改築ではなく結願)記念碑の裏にも建物があります。
何かの倉庫のようなものだと思ったのですが、中をのぞいてみると立派な神輿が・・・。

みこしの中にお札のようなものがあり、八坂神社の文字が見えます。
これで、利根町史により、この建物が八坂神社であり、みこしは、欅造りの「あばれみこし」と呼ばれるものであることが推測できます。
ちなみにあばれみこしは、おそらくは7月7日(七夕ですね)の例祭で、堀や川に入って揉む、荒神輿という神事があるといいます。
一応、注連縄なんかが張られていますが、この建物がはたして八坂神社そのものなのかどうか・・・。
(このほかに宝物として、木太刀があると町史に写真入りで記されていますが、どれか分かりません)
上記の推測が正しいことが判明(05/08/14追記)
集会所から西に少し行ったところに 三峯神社と大師(84番)を祀る民家を発見しましたが、その家の方にお尋ねしました。
その家にはほかに「天王神社」と呼ばれる神社らしきものが古い地図に書き込まれていたので、聞いてみますと、
それは同じ惣新田の別の方の氏神様であり、数年前に引き取っていただいた、それが集会所にあるプレハブの建物だ、ということでした。数年前とはおそらく平成10から12年ころ、2000年前後かと推測されます。
この「天王神社」というのが、すなわち八坂神社と同一なのですね。
利根町史に掲載されている古い外観の八坂神社の概要を以下、引用します。
八坂神社(天王社)
所在地は、惣新田上坪
祭神は、建速須佐男命(たけはやすさのおのみこと)、本殿は木造、瓦葺
石塔として、十五夜供養塔 宝暦13年(1763)、さらに大師堂 コンクリート造りほか6基
このように記されていますが、所在地は、惣新田上坪とあるだけで、勢至堂内とか裏とかとは記されていません。
また、大師堂 コンクリート造りほか6基とは、現在どこにあるものでしょう?
いっぽう、町史をよく見ると勢至堂の付帯設備のなかには大師堂が記述されていません。
となると、八坂神社の項目の「大師堂 コンクリート造り」とは
さきほど紹介した改築された(改築されたかどうかは不明)大師堂と同一である可能性が高いように思われます。
(上記はまちがいの可能性が高いと思います。ただ町史の勢至堂の付帯設備のなかには58番の大師堂が記述されていないのは事実です)
つまり
そして、
と考えたほうが辻褄があいます。
ところが
タヌポンがそう断定できない理由があります。それは・・・。
改築(改築ではなく結願)記念日が、昭和37年(1962)6月。
利根町史第5巻の発行が、平成5年(1993)12月3日。
この差は30年。改築後、四半世紀以上も経っているのに町史編纂時に改築(改築されたかは不明)後の変更情報が反映されていないとは!!!
江戸時代ならともかくこの情報化時代では考えられないと思うのですが・・・。
さて、真相はいかに・・・。
突然ですが、ここでタヌポンの探索方針のひとつを・・・
真相等について惣新田や利根町教育委員会の方にお聞きすればすぐ氷解することなのでしょうが、
このサイトはタヌポンが少しずつ解明していくこと、自然の流れに逆らわないことを基本テーマとしています。
これを読んでいただいた方がご親切にも真相をお知らせていただいても、
それはそれでとてもありがたく、それもタヌポンにとっての自然の流れと解釈しています。
要は、指摘や好意は素直にいただくが、こちらからは安易に、人に聞かない。
なるべく人様の手を煩わせず自分で調べる、ということであります。
探索方針、以上です。
結願記念日である昭和37年(1962)6月を改築記念日と間違えたために、上記の疑問が生じたことが判明しました。
町史編纂の平成5年(1993)12月3日には大師堂の改築はともかく、
その時点では八坂神社(天王社)の移転はまだだったのですね。その数年後だったのです。
ただし移転時に、旧八坂神社(天王社)に付随していた大師と供養塔などの6基も集会所に同時移転したかどうかは不明です。少なくとも大師については、移転元の民家に現在も別の大師(84番)が存在しているのでちがうと思います。
供養塔などの6基もちょうどその数だけ民家に残されているので、移転は、八坂神社だけ、というのが正しいのではないかと思います。
集会所の大師は昭和37年に結願も行ったくらいですから勢至堂にもともとあった付帯設備というべきでしょう。
「ほら、祭りの音楽が・・・」
タヌポンの奥さんの声に振り向くと、
いちばん奥に建てられている集会所の中で、楽しそうに盆踊りの練習をしている女性の姿が
窓ガラス越しに見えました。

(神社ならこの公孫樹がご神木でしょうね)
(続く)
(05/08/20追記)
(05/08/14修正追記) (撮影05/08/13)
(05/05/07) (撮影05/05/04)
勢至堂の右脇の道を北に向かうと新利根川が東西に流れています。
そこには「三夜橋」という小さな橋が架かっています。
それを渡るともう龍ヶ崎市大徳町。
ここは新利根川の北になるので北河原と呼ばれているようです。
三夜橋を渡って左に少し行くと、
南北の用水と新利根川がぶつかり、そこにも橋が架かっています。
橋の上には水門の設備があり、辺りの長閑な雰囲気とは
ちょっと違和感があります。
そのたもとに神社を見つけました。
でもこちら側は利根町ではなく龍ヶ崎市の管轄となります。
樹木に挟まれてちょっと傾き加減ですが、まさに神明鳥居系の鹿島鳥居が見えます。奥に本殿らしき瓦葺きの建物が鎮座しています。

鹿島神社の祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)と言われていますが、この神社もそうなのでしょうか。
本殿の扉は固く閉められ太目の注連縄が張られています。
(クリックして拡大できます)
鳥居左脇にあるのは金毘羅大権現。万人講と台座に記されています。
その後方右手には「二十六夜愛染明王・飯縄大聖不動明王」と記された石祠。

松ノ木の前にはもう1基、月と太陽のマークの扉のある石祠が・・・明治44年(1911)10月建立、女人講・北河原とあります。
おそらく月待講のものでしょう。

これは天明2年(1782)建立。
法供養廿三夜講、と記されているようです。
明治42年(1909)9月19日北河原と記された石祠は、なんとなく扉が開きそうです。
中を覗いてみると、三峯神社御眷属守護、とあります。
もちろん、そっと元に戻し、屋根(笠?)のねじれも直しておきましたです。

以下は散在している石像。鳥居右脇の手水です。

奥に進むと道路沿いに棕櫚が何本か植わった塚のような場所が見えます。
石塔のようなものもいくつか見えます。
奥には建物がありますが、地図上では北河原分館となっています。
集会所のようなものでしょうか。
さて塚の正面まで・・・。
そうですね。
利根町以外にも大師はあるのでしたね。
四国四郡、そのミニ版といっても利根町だけではなく、
現在の龍ヶ崎市、稲敷郡河内町、
また利根川南の千葉県の一部にも及んでいるのでした。
面白い趣向を始めたわけですが、その根底となっているのが
真言密教。
とすれば、大師というのは、当然、弘法大師、空海を指します。
これがさきほどの問いの答えです。
簡単すぎましたね。
さて、ここ北河原の大師は50番。クリック拡大して確かめてください。
大師を囲んでいくつかの石祠が無造作に置いてあります。
いちばん左は「師」とか「翁」の文字が見えます。墓碑でしょうか。右の写真2基は庚申関連。
いちばん右の四角いのは西国霊場五十番とあります、この大師そのもののことでしょうか。

大師堂の右手に1基、これはお坊さんの墓碑のように思われます。その右にさらに3基。
真ん中の大きいのがお寺の和尚さんの墓。その左は天保年間(1830−1843)建立のもの。
右には実は1基のさらに右にもう1基地中に半分ほど埋まっている石碑があるようです。
和尚さんの墓石には「当寺」とあります。この場所なのかどうか分かりませんが、この墓碑は元々はお寺にあったようです。
現在お寺はどうなっているのでしょうか。

新利根川の自然
さて、水門のような設備のある合流地点に戻ってみます。
ここに架かる橋は大房橋と呼んでいるようですが、ここはどうも釣の穴場のようですね。
釣り人に聞いてみると、最近はおしなべて
「バス」という答えが返ってきます。
ブラックバスです。
タヌポンはバス釣りはしたことがないのですが、
面白いのかなあ?
へら鮒のほうがいいと思うんだけど・・・。
おっと、魚をねらっているのは人間だけではないようです。これは、なんと、川鵜のようですね。
(いずれも拡大できます)

Columbus Blog 05/08/14(「ウっと驚いた日」参照)
すぐ近くにはこんな風景も。
ここまでくると人工物ではなくもう自然に溶け込んでいますね。
いいなあ。

Columbus Blog 05/08/13(「赤い橋」参照)
来るたびに懐かしい、訪れるたびに新しい発見。
タヌポンはすっかりここが気に入ってしまいました。

(三夜橋から新利根川を望む)
(05/08/25追記) (05/08/14撮影)