tanupon が利根町に移住してきたときは、このサイト開設(2004)のずっと前で、
その時点で、果たして利根町と柳田國男との関係を認知していたかどうか心もとないです。
柳田國男のことで明らかに記憶にあるのは、現利根町役場の新庁舎が竣工して、
左のような看板が庁舎前に建てられたとき(1988年ころ)かも知れません。
竣工後まもなく「柳田國男記念公苑」が旧役場の地所に建てられました。
すぐに訪問したわけでなく、サイト開設直後の2005年秋に
「柳田國男記念公苑文化発表会」というイベントがあり、初めてそこを見学しました。
イベント直前から「民俗学の父柳田國男の第2の故郷、利根町」と見聞きし、
関係者の意気込みと自分の感覚とのずれで、「ふうん」という感じでした。
柳田國男は、民俗学者ということで、小説家とはまたちょっと趣が違います。
したがって、学校の歴史等や高校受験用では「必須項目」ではないように思います。
夏目漱石や川端康成ならその著作の多くはだれもが知っていますが、
柳田國男となると、tanupon にとってもせいぜい『遠野物語』くらいでしょうか。
利根町に住む tanupon が、現在においてもこの体たらくですから、
「利根町が第2のふるさと」の全国的な認知はほとんどゼロに等しいのではないでしょうか。
有名作家の出身地すらよく知らないのに、民俗学者のしかも第2の故郷なのですから。
というわけで、tanupon は申し訳ないのですが、余程の画期的な企画でもないと、
「柳田國男の第2の故郷、利根町」では町おこしなど到底無理なのではと思っています。
一時期、わが町のいちばんのセールスポイントと目されていた?「柳田國男」について、
このサイトで、もうほとんど最後に残されたコンテンツテーマとして、
いまごろやっとここに取り上げたのも、そんな理由もあったのですが・・・。
柳田國男記念公苑は旧利根町役場があったところ。布川神社前を東に少し進み左折して300m程先の左手にあります。
新庁舎が現在地に落成竣工式を迎えたのは平成元年(1988)、その流れで跡地に記念公苑が造営されました。
以下は、Wikipedia による一般的な柳田國男の解説です。これだけでは、まったく利根町との関連は分かりません。
写真は、昭和24年(1949)10月、國男75歳時の肖像。(この写真は記念公苑の旧小川邸内に展示されています)
柳田國男(やなぎた・くにお、1875年[明治8年]7月31日−1962年[昭和37年]8月8日)は、日本の民俗学者。現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、最晩年に名誉町民第1号となった。没後に正三位勲一等。「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者で、多数の著作は今日まで重版され続けている。
ふつうは上記程度知って入れば、ほぼ十分ですよね。
でも、「やなぎだ」ではなく「やなぎた」と濁らないとは知りませんでした。
昨今ではノンフィクション作家「柳田邦夫」のほうが著名?ワープロ変換上位ですし。
國男では、兵庫県、昔の播州播磨の国出身であることにご注意。
あとで紹介する、むしろこの人が利根町の文化人代表というべき、
『利根川図志』著者、赤松宗旦の赤松家と同郷なのです。
『利根川図志』は利根町在住当時の國男少年に多大な影響を与えた地誌。
ただし、同郷というだけで両家が昔から懇意であったというわけではありません。
3代目宗旦と國男の長兄鼎(かなえ)がこの地にて懇意になったというだけで
2人して播州からここにやってきたという誤解を招いたことを、「是は事実ではない」と
柳田國男は自ら校訂した岩波文庫『利根川図志』の冒頭解題で示しています。
突然、「松岡家」と出てきて?と思いますが、実は、國男は当初、松岡家の男ばかり8人兄弟の6男として生まれました。
ただし、兄3人は早世しています。残り5名、いずれもそれぞれの分野で名を残した優秀な家系と言えるでしょう。
松岡國男は、後に柳田家の養子となり、ここで初めて「柳田國男」が誕生します。
それは、16歳で利根町布川を去って、上京後の明治34年(1901)27歳のときでした。
松岡家の系譜
松岡左仲 ━━ 小鶴 ┏ 松岡 鼎(医師)
┃ (操と改名) ┃
┣━━━ 松岡賢次(儒者・医者) ┣ 松岡俊次(早世)
┃ ┃ ┃
中川至 ┣━━━━━━━━━╋ 松岡泰蔵(井上通泰= 国文学者・歌人・医師)
┃ ┃
たけ ┣ 松岡芳江(早世)
(尾芝) ┃
┣ 松岡友治(早世)
┃
┣ 松岡國男(柳田國男)
┃
┣ 松岡静雄(海軍大佐・言語学者・民族学者)
┃
┗ 松岡輝夫(松岡映丘=日本画家)
西暦 | 和暦 | 年齢 | 主なことがら | |
1875 | 明治 | 8年 | ![]() |
7月31日、兵庫県神崎郡福崎町辻川に生まれる。 |
1885 | ![]() |
18年 | 11歳 | 高等小学校を卒業。辻川の三木家にて「第一の乱読期」を過ごす。 |
1887 | ![]() |
20年 | 13歳 | 通泰に伴なわれて上京。茨城県北相馬郡利根町布川に開業していた兄、鼎のもとで過ごす。 |
1888 | ![]() |
21年 | 14歳 | 小川家の蔵書を借りて「第二の乱読期」を送る。徳満寺の間引きの絵馬を見て、強い衝撃を受ける。 |
1889 | ![]() |
22年 | 15歳 | 両親と弟たちも上京し、布川にて同居する。 |
1890 | ![]() |
23年 | 16歳 | 冬、上京し、通泰宅に同居。 |
1891 | ![]() |
24年 | 17歳 | 開成中学校に編入学。和歌を学び田山花袋と知りあう。 |
1893 | ![]() |
26年 | 19歳 | 鼎一家、我孫子市布佐に転居。第一高等中学校(のちの一高)入学。 |
1895 | ![]() |
28年 | 21歳 | 7月、「文学界」に新体詩を発表。島崎藤村と出会う。 |
1896 | ![]() |
29年 | 22歳 | 7月に母が、9月に父が相次いで病死。 |
1897 | ![]() |
30年 | 23歳 | 9月、東京帝国大学法科大学政治科に入学。 |
1898 | ![]() |
31年 | 24歳 | 伊良湖岬の小久保惣三郎宅に逗留。ヤシの実を拾う。 |
1900 | ![]() |
33年 | 26歳 | 東京帝国大学を卒業。農商務省に就職。 |
1901 | ![]() |
34年 | 27歳 | 旧飯田藩出身の柳田直平の養嗣子となる。 |
1904 | ![]() |
37年 | 30歳 | 柳田直平四女孝(19歳)と結婚。 |
1908 | ![]() |
41年 | 34歳 | 宮崎県椎葉村の中瀬村長宅に滞在し、狩の故実の話を聞く。 |
1909 | ![]() |
42年 | 35歳 | 『後狩詞記』出版。 |
1910 | ![]() |
43年 | 36歳 | 『遠野物語』出版。郷土会を創立。 |
1913 | 大正 | 2年 | 39歳 | 3月、雑誌『郷土研究』を創刊。 |
1914 | ![]() |
3年 | 40歳 | 4月、貴族院書記官長となる。 |
1920 | ![]() |
9年 | 46歳 | 朝日新聞社客員となり、東北旅行(『雪国の春』)、中部・関西旅行(『秋風帖』)。 |
1921 | ![]() |
10年 | 47歳 | 沖縄旅行(『海南小記』)。外務省より、国際連盟委任統治委員の要請を受け、5月にジュネーブに行く。 |
1924 | ![]() |
13年 | 50歳 | 朝日新聞社編集局顧問論説担当。 |
1925 | ![]() |
14年 | 51歳 | 雑誌『民俗』創刊。 |
1927 | 昭和 | 2年 | 53歳 | 北多摩郡砧村(世田谷区成城)に新居を新築「喜談書屋」と呼ぶ。 |
1933 | ![]() |
8年 | 59歳 | 毎週木曜日、自宅で「民間伝承論」の講義。この会が木曜会となり、のちの日本民俗学会月例会となる。 |
1935 | ![]() |
10年 | 61歳 | 民間伝承の会を創設。雑誌『民間伝承』を創刊。 |
1941 | ![]() |
16年 | 67歳 | 第12回朝日文化賞受賞。 |
1947 | ![]() |
22年 | 73歳 | 書斎に民俗学研究所を設立する。 |
1949 | ![]() |
24年 | 75歳 | 学士院会員、日本民俗学会を設立、初代会長となる。 |
1951 | ![]() |
26年 | 77歳 | 11月、第10回文化勲章受章。 |
1957 | ![]() |
32年 | 83歳 | NHK放送文化賞受賞。4月、民俗学研究所解散。 |
1961 | ![]() |
36年 | 87歳 | 2月、『定本柳田國男集』の出版を決める。7月、『海上の道』出版。 |
1962 | ![]() |
37年 | 88歳 | 日本民俗学会主催の米寿祝賀会が開かれる。 8月8日永眠。遺言により、蔵書は成城大学に寄贈(柳田文庫)。 |
以上、記念公苑資料館内、略年譜[利根町教育委員会]より(一部割愛)
以下、資料館に展示されている松岡家の家族等に関するパネルを転載します。
柳田國男は近代日本の夜明けの時、明治8年(1875)7月31日に兵庫県神崎郡福崎町辻川に生まれた。
父は松岡賢次(後に操と改名)母たけ(尾芝家の出)の第六子である。
父は三代にわたる医業を継いだが、のち漢学の師範・荒田神社の宮司を務めるなど、維新前後の波瀾の中で屈折した生涯を送り、読書好きな地方知識人としての性格は、読書癖と神秘的他界感覚として國男に大きく受継がれた。
母は学問らしい学問はよくしなくとも、世相を明確に理解して敢然と立ち向う勝気な性格であった。國男の中に脈打つ潔癖なリアリストの素質と負けじ魂とは母親ゆずりのものである。故郷辻川での生活は楽なものではなかったが、その後の國男の生涯の思想の形成に永続的な影響を付与している。
國男は、男ばかり8人兄弟の六子(兄3人は早世)であったが、彼と弟たちを未知の東国布川に結びつけたのは長兄、鼎であった。
神戸師範学校を卒業した鼎は、19歳で郷里の小学校の校長を務め結婚したが、國男の言う「日本一小さな家」での二夫婦同居の悲劇に二度まで結婚の挫折を経験。教職をも退かざるを得なかった鼎は母の工面で上京、東京帝国大学医学部別科に学ぶ。卒業した折、知りあった布川出身の医師海老原精一から同じ布川の医師小川東作が若死して後を継ぐ者が居ないので診療に来てほしいとたのまれ、小川家の長屋を借りて医院を開業。真面目な性格から患家の信頼も厚く、落着くに従って先ず國男を、ついで両親・静雄・輝夫の弟たちを引きとり、自身は生涯を地味な地方医師として了ったが、両親への孝養、弟たちの面倒を果した。晩年はその信用から町長・県議・県医師会長を務めた。
人物の写真は、明治21年(1888)11月30日、徳満寺境内にて。立者中央が鼎、椅者中央が國男少年(当時14歳)。
上記は利根町主体で記されていますので、最後の文章「町長・県議・県医師会長を務めた」は少し誤解を招きそうです。
鼎は明治26年(1893)に手狭な小川邸の「済衆医院」から、川向こうの我孫子市布佐に転居「凌雲堂医院」を開業します。
したがって、町長とは利根町長ではなく布佐町長であり、県議は千葉県議、そして、千葉県医師会長を務めました。
布佐町長時には、栄橋架橋を立案。これを設計したのが小川東作の弟東吾でした。
→ 栄橋架橋については、共に栄える栄橋 。小川東作・東吾については、小川家の墓碑 参照。
「私の家は日本一小さい家」だと國男は折にふれて人に説いかけている。この家がそんなに小さなものではなく、当時も今も普通一般の家である、彼が強調したかったのは長兄鼎の結婚の悲劇を幼少体験として、その原因を家の構造にあるとした。このことが民俗学、指向の一因ともなった。(写真は、資料館に展示された家の模型)
この程度の広さに2夫婦、しかも新婚の夫婦が同居するのは、
現代では有りえないと思います。当然、嫁姑の問題も派生しました。
2度とも嫁が家を出たばかりでなく、2度目の嫁は、
実家でも戻ることを拒否され入水自殺さえしてしまいます。
柳田國男自身も『故郷七十年』で以下のように語っています。
・・・「天に二日なし」の語があるように、当時の嫁姑の争いは姑の勝ちだ。わずか一年ばかりの生活で兄嫁は実家に逃げて・・・(中略)・・・私はこうした兄の悲劇を思うとき「私の家は日本一小さい家」だということをしばしば人に説いてみようとするが、じつは、この家の小ささ、という運命から私の民俗学への志も源を発したといってもよい・・・
上記の件に関して、tanupon は記述の裏に秘められたなにかを感じとってしまいます。(下衆の勘繰りというものか?)
柳田批判
日本民俗学の祖としての功績は非常に高く評価できる反面、自身の性格と手法によって切り捨てられた民俗・風習があることも指摘されている。例えば性に関する民俗は言及を避けた。柳田が意図的に無視した漂泊民、非稲作民、被差別民、同性愛を含む性愛、超国家的民俗などの解明は同時期に宮本常一によって多くの先駆的研究が為された他、のちに網野善彦により歴史学の分野でも注目を集めた。(Wikipedia)
民俗学においてときとして大きな比重をもつであろう「性」に関する言及を柳田國男が避けた、ということは、
もしかすると、それは、長兄鼎の結婚生活の悲劇に起因しているのではないか、などと tanupon は思うわけです。
身内のそんな話はしたくないものです。しかし、それは別として、民俗学者なら冷徹に調査を進めるべきではないかとも。
そうでなければ、「この家の小ささ、という運命から私の民俗学への志も源を発した」が徹底されないようにも思います。
さて、柳田國男が利根町に来るきっかけとなったのが、鼎が知り合った布川出身の医師海老原精一の周旋によるものでした。
世話好きの海老原精一は、布川出身の人であり、小川家当主東作の長女「とし」を妻としており、両家は親戚関係でした。
しかし、記憶力抜群の國男も、『故郷七十年』の記述では、海老原精一を「関東の播州人」と誤解していたふしが見られます。
ここで、松岡鼎・國男と小川家とのかかわりについてみてみましょう。
布川の小川家は御典医であった道専が職を退いて布川に住んで以後、東秀・秀庵・東作と四代続いた医家で、近隣の信望も厚かった。
東作には二人の弟※があったが、次弟は上野の彰義隊に加って負傷、末弟は工学を学んで東作が若死した後を継ぐものとてなく困り果てたのを、同じ布川出身の眼科医海老原精一の周旋で、松岡鼎を医師として迎えることとなった。
その土蔵には万巻の書が積まれており、國男が鼎に引きとられて後、彼の読書癖を充分に満足させるものがあった。特に布川の医師赤松宗旦の『利根川図志』全六巻は、彼の思索を体系づけるものとして大きな感動を与え、早速に弟輝夫と銚子旅行を実行させ、その無尽蔵の読書癖ともに、旅行体験の積み重ねの中で、民俗学への歩を踏み出させるものであった。
※ 二人の弟とは、次弟は、小川乕之助(とらのすけ)。末弟は、小川東吾。
乕之助は、國男が『故郷七十年』等で、「布川の小川の小父さん」と呼んでいます。
東吾は、理博士。茨城県初の工学博士であり、旧栄橋の建設に尽力しました。
小川東作は医者としての名声だけでなく、漢文の書もよくし、素晴らしい文章を数多く残しています。
それは、医学の勉学で赴いた江戸での儒人・田口江村との出合いに起因しています。
ふたたび柳田國男が晩年書き残した回顧録『故郷七十年』を見ると、その中に、田口江村に触れた部分があります。
田口江村(たぐち・こうそん、1808−1873)は漢学者。大政奉還の際に徳川慶喜に意見を求められた(『倉敷人物百選』)
「小川家のどの代の人かしらないけれども、大変に学者を愛する人がいた。田口江村が維新の際に行くところなくて困り、この家にきて、邸内に三間ばかりの長屋風の細長い家を建てて住んでいた。江村が東京へ帰る時に、家をそのまま置き渡していった。その家を私の長兄が利用したのであった。幕末のころ江戸の周辺に縁故を求めて逃げていた人々が多かったがこれもその一つで、幕末の裏面史としては哀れな話であった」
上記の「小川家に大変学者を愛する人がいた」とは、小川東作をさしています。
しかし、田口江村が小川家に転がりこんで、哀れな暮らしをしていたはずはありません。東作は、江村を敬慕して止まず、
それが東作の家に寄留してくれたのは願ってもない幸運で、一家を挙げて歓待しました。(『利根町史第7巻』)
ちなみに、鼎が住む前の長屋は「玉琴精舎」と呼ばれ、田口江村が息子の石合震と共に子弟に教育を授けていました。
石合震について『利根町史第2巻』では、以下のように記しています。
・・・明治七年茨城県北相馬郡布川村に移住し学舎を建つ、之を玉琴精舎と号す、漢字文章及和洋算術を教授す、来学する者前後数百人、而して又明達会なるものを同村来見寺に開き、官令及諸新聞紙を講説して衆庶に聴かしむ、十三年十二月文部省御用掛を命ぜられ后東京図書館書記、又内務属に転ず。
田口江村・石合震という傑物が利根町を去りましたが、入れ替わりに柳田國男が布川にやってきたということになります。
東作が明治15年(1882)に45歳の若さで没し、小川家では医業を継ぐものを求めていたという事情がありますが、
田口江村・石合震親子にとっても、最大の理解・支援者を思いがけなく喪ったことにもなるわけで、そうでなければ、
実際は、「来学する者前後数百人」という布川の「玉琴精舎」にもう少し留まっていたかったのではないかと思ったりします。
田口江村・石合震父子は、東京に戻っても小川家への謝恩のためか、新刊本を惜しげもなく届け続けました。
そのなかには尾崎紅葉と硯友社の同人雑誌『我楽多文庫』もあり、國男少年が「乕之助小父さん」を介して愛読していました。
柳田国男が、明治20年(1887)、13歳の時から約3年間を過ごした小川家の母屋。書物を濫読し、赤松宗旦の『利根川図志』と出会った土蔵(資料館)や不思議体験をした氏神(記念公苑所蔵・後述)などと共に、「日本民俗学発祥の地」を代表する建造物である。後に昭和32年(1957)、この母屋は、千葉県市川市の和洋女子大学に移築され、静かな落ち着いたたたずまいの中で、華道や茶道などの授業に使われてきたが、老朽化により平成8年(1996)に取り壊された。記念公苑の母屋は、この旧小川邸をほぼ忠実に再現したものである。《 写真=平成8年6月・和洋女子大学で撮影 》
柳田国男は、『故郷七十年』の中で、「利根川ベリの生活で、私の印象に最も強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものであろうか、堂の正面右手に1枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである」と述べています。
今も布川の徳満寺本堂に掲げられ、「間引き絵馬」として知られるこの絵馬は、産褥の女が、鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なもので、障子に映っだ影絵には角が生えており、そばには地蔵様(現在は足の部分だけが残る)が立って泣いています。
この絵馬は、先に当地方を襲った饑饉の被害の甚大さを物語る貴重な資料の一つで、食糧が欠乏した場合の調整は死以外になく、人工中絶ではなく、もっと露骨な方式が採られてきたことが伺えます。これを見た国男は、「その意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になった」と述べており、後に、民俗学を志す原点になったともいわれています。
当時は「間引き絵馬」は地蔵堂(現在、本堂と呼ばれています)にあったのですね。現在は客殿内廊下に掲げられています。
この解説では「今も布川の徳満寺本堂に掲げられ」とありますが、解説が記されたときは客殿が本堂と称されていました。
▼ ちなみに、國男少年が見た地蔵堂正面右手には、現在、守田寶丹書の 延命地蔵尊の扁額 が掲げられています。
この扁額は、制作年が不明でしたが、これで少なくとも國男少年が見た明治21年(1888)以降と思われます。とすると、
守田寶丹は、大正元年(1912)72歳で歿なので明治21年は48歳。それ以降に布川徳満寺に訪れていたことになります。
小川家の長屋ずまいも、両親と3人の弟を迎えては当然手狭であったので、先ず國男が次兄通泰のもとに、次で両親と2人の弟は近くに一軒を借りて住まわせた。
鼎自身も結婚、対岸の布佐に凌雲堂医院を開業、両親と弟たちを引きとり、同じ年一高に進んだ國男にとってこの布佐が青春時代の故郷になった。次兄通泰の紹介で会うことの出来た森鴎外にも可愛がられ、一高の寄宿舎生活の中では、多くの良き友に恵まれ、校外での友人との広い交りが彼をして抒情詩人としての素質を開花させた。島崎藤村、田山花袋といった友人との交流もこの布佐の兄の家ででした。
終生、心の友とした花袋との文通の中に國男の青春の片鱗をかいま見ることが出来る。
写真は、昭和21年(1946)5月、布川に来た13歳ころの國男。(これも記念公苑の旧小川邸内に展示)
小川東作の子・龍(りょう、後に海軍軍医中将)、龍の義理の甥、岡田武松(後に中央気象台長)らとも親交を結びました。
ちなみに、明治27年(1894)國男20歳のときに、岡田武松とともに筑波登山を体験しています。
國男を詩歌の道にさそったのは次兄通泰である。眼科医として大学の助手をするかたわら、御徒町に医院をいとなんでいた通泰が、一高時代の國男に和歌の師として紹介したのが松浦辰男※(萩坪)で、その歌学の影響は神秘的幽冥感として國男の感受性にながくあとを引くことになる。
生涯の友人、田山花袋と知りあったのも、明治25年この松浦辰男の門人としてであった。その歌会で國男の爽やかな人柄に目をつけていた「品の好いお婆さん」が居た。此の人が柳田家の祖母で、彼女の希望をきいた松浦の媒酌で、当時大審院判事であった柳田直平のもとに養子に入り、3年後の明治37年直平の4女孝と結婚する。名実ともに柳田國男の誕生である。
※ 松浦辰男(まつら・たつお、1844−1909)は、明治時代の歌人。
江戸時代の桂園派最後の歌人と称され、『芳宜の下葉』などの歌集があります。
人間の生死について、この世で死んだら「幽冥界」という世界に帰るものと考え、
若くして旅立った妻や友人たちを懐古する悲痛な歌を多数詠んでいます。
いかなる人間にとってもその幼少年期の体験が重要な意味をもつことにかわりないが、松岡家の場合のそれは通常の意味をこえて普遍的で持続的である。
次兄、通泰は井上家の養子として最も恵まれた環境を得て眼科医のかたわら、御歌所寄人としての歌人、万葉集の研究者となった。
國男・静雄・輝夫の三人はその負けじ魂で競いあった。特に静雄は兄國男に「まことに充実した生涯」と嘆息させた凝り性と利かぬ気に貫ぬかれた。兄に対する長兄・次兄の援助に水をささぬよう、中学校を退学、独立独歩、海軍士官の道をえらび兵学校を首席で卒業、日露戦争の緒戦に戦功をあげた。
大佐にまで進んだが、その潔癖さ故に大佐で退官、南方諸民族の研究では人類学者清野謙次をして讃嘆させ、晩年は言語学・国語学を独学して多くの著作を残した。
布川の凧絵師堀内八十松に画の才能を認められた末弟輝夫は、のちの日本画家松岡映丘である。東京美術学校教授を務め、橋本明治・高山辰雄・杉山寧など多くのすぐれた日本画家を育てた人物であった。
さて、利根町で約3年ほど少年時を過ごした柳田國男ですが、徳満寺での「間引き絵馬」の戦慄体験のほかに、
もうひとつ特筆すべき神秘体験をしています。それは、以下の柳田國男記念公苑の中、小川神社 で紹介します。
多感な時期に刺激的な体験をし、また小川家の土蔵で万巻の書を濫読したことが民俗学者となる基礎をつくった・・・。
利根町での生活が、民俗学の父、柳田國男の大きな礎となったと言えるかも知れません。そして第2の故郷の呼称も・・・。
でも、一般的には、『作品』が世に誕生してから、人はその存在を認めるものではないでしょうか。
柳田國男がそのまま布川に晩年まで住み続けていれば、もう少し利根町=柳田國男の認知がされていたことでしょう。
柳田國男記念公苑は、旧利根町役場跡地約2,000㎡の敷地に、國男が少年時代を過ごした旧小川家の母屋(193㎡)、
管理棟および國男が書物を濫読した土蔵(資料館)で構成されています。最近、宿泊もできることを知りました。
民俗学者の柳田國男がまだ松岡姓だった少年の頃、すなわち明治二十年、生まれ故郷の兵庫県福崎町をあとに、ここ布川に来て過ごした。小川家には既に兄鼎が離れを借りて医業を営んでいて、そこへ引き取られたのである。利根町が「第二の故郷」と言われる所以である。寄留は三年足らずだったがその間に見聞したことが、やがて民俗学への開眼につながったと言われている。
國男は自分の来し方を顧みて、三回の濫読(らんどく)時代があったと言う。一回目は生まれ故郷にあった頃、大庄屋の三木家に預けられた時。二回目は小川家の土蔵にたくわえられた万巻の書に接した時。三回目は内閣文庫に記録課長として出向した時である。
小川家は代々学者だったので書籍の数はおびただしく、とりわけ國男にとって特記すべきは赤松宗日著の『利根川図志』との出会いであった。この時大いなる興味を持って読んだ國男は後年この本を校訂復刻している。
更に徳満寺の地蔵堂に掲げられていた水子絵馬に心が凍え、また小川家の氏神の玉に神秘を体験した。
國男は天与の資質に恵まれ、常民の暮らしに独自の考察を与え、民俗学と言う新しい分野の学問を樹立し昭和二十六年文化勲章を受章したのである。その業績を讃え記念としてこの公苑は設置されたのである。
「柳田國男記念公苑」だけ彫られた、
なんということもない石碑。
設立当時の「利根町長 鈴木嘉昌」銘、
裏面に「平成四年九月十六日」。
利根町役場竣工より3年後、
1988年の造営です。
バブル崩壊寸前のころ・・・。
上の由来には、公苑の造営年が
どこにも記されていません。
この石碑の裏面で代用というわけ?
左の写真のように利用案内看板がありますが、
もう少し詳しい説明パンフレットが資料館にあります。
これを見て、初めて宿泊もできることを知りました。
■ 使用時間 | ![]() |
|
一般見学 | ![]() |
午前9時〜午後4時30分 |
会議・講座等 | ![]() |
午前9時〜午後9時 |
宿泊 | ![]() |
午後3時〜翌日の午前8時30分 |
■ 休苑日 | ![]() |
月曜日・祝祭日 | |
年末年始(12月28日〜1月4日) |
■ 使用料 | ![]() |
|||
見学者 | 無料 | |||
集会室 | ![]() |
![]() |
午前 9時〜12時 |
午後 13時〜17時 |
夜間 17時〜21時 |
宿泊 15時〜8時30分 |
集会室 A〜F |
1室あたり 514円(税込) |
1室あたり 693円(税込) |
1室あたり 693円(税込) |
1室あたり 3,024円(税込) |
●申込みおよび問い合わせ
利根町生涯学習センター内 教育委員会・生涯学習課へ。
〒300−1615茨城県北相馬郡利根町中谷967
TEL O297−68−3263
上記は、2013年10月30日現在の案内です。集会室を利用される場合は料金をご確認ください。
記念公苑に入ると右手にヤマモモの木が立っています。
これは記念公苑が出来たのを機会に柳田為正氏より寄贈されたもの。
柳田國男は昭和2年(1927)東京都北多摩郡砧村(世田谷区成城)に移り、
書斎を「喜談書屋」(写真下)と名付け研究に専念。
当時の世田谷はまだ武蔵野の自然が残っており、御進講の折りに
ヤマモモにふれたのがもとで御下賜された雌雄2本の苗木を
自宅の庭に植え大切に育てました。
小川神社は小川家の氏神を祀った祠で、敷地の西端奥にあります。母屋の左手から庭園を回り込むと見えてきます。
小川の祠は明治十四年から十五年頃、当主の東作が祖母の屋敷の神様にお祀りし、その長命にあやかろうと日頃から愛玩していた玉を御神体としたものである。
由来のことは知らずに、いたずら盛りの國男少年は家人の留守を見計らい石の扉を開けて見た。
ところが予想もしなかった綺麗な玉が入っていたのに驚いて、興奮のあまり気が遠くなってしまった。よく晴れた青い空を見上げたところ数十の星が見えたという。その時突然にピーッとひよどりが鳴いて通った。その拍子に身がひきしまって人心地がついたという。後年、あの時ひよどりが鳴かなかったら気が変になっていたかも知れないと、異常心理について振り返り、そうした境遇に永くいてはいけないという暗示だったのかも知れないと述べている。
当時間もなく両親が郷里から布川に出て来て家の中が複雑になったのを機に上京して、学問の道へと進んだのである。
國男少年は繊細な感受性の持主だったわけで、民俗学の樹立につながった資質の片鱗を垣間見るエピソードであった。
國男少年は、感受性の鋭いデリケートな心情の持ち主だったようです。
上記の体験のほかにも、「自分を見失ってしまう」ようなことがたびたびあったと述懐しています。
『山の人生』のなかで「神隠しされやすい少年だった」とも述べています。
余談ですが、こうしたオカルト的な話は tanupon は比較的好きなのですが、自分にはまったくそうした体験はありません。
蛟蝄神社の深夜の例大祭でデジカメで写真を撮った人が、「オーブが写っている」と驚いて見せてくれたことがありました。
tanupon にはそんな写真が撮れたことはなく、霊感など感じたことはないので「どうも超能力はないようです」と言ったら、
蛟蝄神社宮司の奥様が即座に、「tanupon さんにはありませんね」と断定されて、ちょっと悔しいような思い(笑)。
記念公苑内資料館に小川神社の御神体の玉が展示されていますが、「本物」は利根町歴史民俗資料館にあります。
したがって以下は仮の玉ですが、別の日に撮ったもの。何かまったく別物に見えます。光沢も模様も違いますよね?
歴史民俗資料館の本物は撮影不可と言われましたが下左のほうに似ています。材質はなんでしょうか?
→ 利根町歴史民俗資料館
神社祠の裏手に小さな階段が見えます。現在(2013)は下右のようにチェーンで閉ざされていますが、
以前は、下左のようにイベント時に上ることができました。これはどこに通じているのでしょうか。
地図を見れば歴然で、これは以前は布川小学校に通じていたものと思われます。左上のイベント開催時に、
小学校でもなにか展示があって、それを見に、人が上っているところでしょう。tanupon は未体験です。
現在、布川小学校は旧太子堂小学校に変更され、ここには平成24年(2012)4月に大学のキャンパスとなりました。
日本ウェルネススポーツ大学 第2キャンパスです。ただし、この階段からキャンパスに入れるかは確かめていません。
小川神社祠の右手奥に、柳田國男は小川家万巻の蔵書を濫読したといわれる白壁の土蔵があり、資料館となっています。
土蔵は、外観では2階建てでかなり大きそうに見えますが、
資料館内部は1階の半分くらいの小スペースです。
資料館には2階に上る階段がありません。
この裏手にあるものと思われます。
そこへはどこから入れるのでしょうか。
國男少年が見た蔵書の山を見てみたいものですが、
もうここにはなにも残されてはいないのでしょうね。
資料館展示品については、パネル等、
すでに数多くを前述・紹介しました。
残りは訪問してご覧ください。
柳田國男記念公苑に初めて訪れたのが、
この2005年のイベントでした。
そのころ、役場前に旗が多数立てられ、
「柳田國男の第2の故郷」のPRがなされていました。
いったいそれがどれほどの認知・効果があるのか、
その呼び込みで、どの程度の集客があるのか、
懐疑的な気持ちで確かめてみようと、訪問してみたのでした。
「文化発表会」という主旨ではなく、
「柳田國男フェスティバル」ということで、
あくまでも柳田國男に関するイベントだと思っていたのです。
会場に到着して、思いのほかの数多くの集客を見て驚きました。柳田國男にこんなにもみんな関心があるのかと?!
しかし、どうも様子がちがいます。子供たちの「イベント参加」をよくみると、利根町の人ばかりのようです。
俳句・生け花・演奏・・・。いろいろな「文化的な」催し。しかし、柳田國男の匂いは微塵もかんじられません。
唯一の民俗的要素の催しが以下。でも、集会室の上部に飾られた柳田國男関連の肖像写真を見る人はあまりいない様子。
最後に資料館をのぞいてみました。
町史編纂委員長の宮本和也氏だけがおられて、
「こんなところへ来るなんてうさんくさいやつ」
というような目で tanupon をギロリと一瞥(笑)。
そのとき、ああ、ここは単なるイベント会場なのだ、と実感。
でも、まあ、おそらく利根町の人だけの参加でしょうが、
これだけ集まれば、いくばくかの「柳田國男」の認知はされる、
それが、少しずつ拡大されていけば・・・。
ふだんは見向きもされない石碑が、
左のように子供たちに利用されるのは、
むしろ得難いことのように思いました。
利根町商工会女性部が2008年に立ち上げた「とねひな飾り」。tanupon も見学しましたがこれが初回だったのですね。
町内の多くの人たちから、ひな壇飾りや創作びな、また平安時代の雅を思わせる貝絵なども寄せられました。
2008年以降、毎年開催されていたかどうかについては、記憶が定かでありません。
お嫁にいらした 姉様によく似た 官女の 白い顔♪ 昔の曲は、どうしてみな哀愁があるのでしょうか。
検索すると、この歌は作詞したサトウハチローの姉(婚約後結核で亡くなった)に対する鎮魂歌だとか。
でも、もしそうならば、1題目の「きょうはうれしいひな祭り」というのは tanupon なら別の言葉に代えます。
我孫子市布佐の 相島芸術文化村 で、1995年に 日本貝アート協会 が設立されました。出品はその関連かも知れません。
(13/11/16) (撮影 13/10/30・08/02/29・05/10/15)