タヌポンの利根ぽんぽ行 来見寺

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来見寺 目次



関連リンク


更新経過

石造物データ掲載のために各コンテンツの見直しをし、ようやく「難所」の来見寺に。
石造物自体の再調査もそうですが、その他の項目の見直しを含めて、再構成し直しました。

しかし、左の目次で分かるように、1ページのボリュームとしてはかなり巨大なものとなり、
途中、徳満寺のコンテンツのように、来見寺1と来見寺2に分離することも考慮しました。

ただ、1と2の分離する項目の選定がなかなか難しく、それは次回の課題とすることにしました。

今回、いままで墓塔の集団と決めつけていた境内西の「無縁塔」の1300基の石塔に、
若干ながら一部、調査を進めてみました。その甲斐もあり、歴代住職の無縫塔28基や、
雛壇の1.2段目に廻国塔など何基かの新発見も。(16/07/20)


コンテンツ内の浅間神社を分離し、新たにコンテンツ 浅間神社 をUPしました。(13/10/24)


2004年秋に本サイトを開設し、この来見寺のコンテンツは、自宅に近接した立地のため、
比較的早くにUPしました。その後、数年を経過し利根町全域を広く浅く紹介した後、
各コンテンツの見直し更新と目次スタイルの変更を2012年春より開始、
同年後半に99%改訂し終えたのですが、最後に残されたのが本コンテンツでした。

最後になったのは、直前の徳満寺と同様、自宅近隣でいつでも身近に再訪問できるから、
ということでしたが、いざ再構成しようとしたとき、さほど追記するほどの調査ができていません。
結局、来見寺を残してすべての既存コンテンツの目次等更新が完了したのが2012年9月で、
それ以降は更新が途絶えてしまうことに。冬場に入り体調不全等の理由もあったのですが・・・。

しかし、2013年春に至り、これではいけないと自らを叱咤激励し、ようやくここに。
全ページ目次改訂の悲願(ならぬ単なる目標遂行にすぎませんが)をなんとか実現できました。(13/04/19)


来見寺は、徳満寺と並んで利根町を代表する寺で、なんと徳川家康ゆかりの名刹です。
永禄3年(1560)、当時の府川城主豊島頼継(としまよりつぐ)が開基したので、
当初、頼継寺(らいけいじ)と呼ばれました。

この名が現在の来見寺となったのは、また府川が布川と変化したのも、
さらにこの布川の地が「松替の郷」と呼ばれるようになったのも・・・
なんと徳川家康がからんでいるのです。
そして入口の山門が赤いのも・・・。(05/03/21)


正確には曹洞宗 瑞龍山 来見寺と言います。
所在地:利根町布川3080 TEL:0297−68−2558


布川地区マップ

来見寺は布川地区中央部にあります。

布川地区マップ

瑞龍山来見寺

宗派 は、禅宗の曹洞宗。住職 は、北見孝斎。由緒 としては、永禄3年(1560)、府川城主豊島頼継が開基。
小田原最乗寺独峯和尚の開山。当初、豊島頼継の名をとり頼継寺と称しました。

来見寺入口

来見寺過去帳によれば、
3世住職の日山(にちざん)和尚は
三河国岡崎生まれで
幼年時から同国龍海院にて
東照神君家康とは筆硯の仲でした。
慶長9年(1604)、
神君が鹿島神宮参りの折に
寺に泊まり旧交を温め、
「我来見の上は、来見寺とつくべし」。
頼継寺から来見寺へ改めるよう
号しました。
またこの地、府川の川上に
絹川(鬼怒川)があるのだから、
にかけて府川を川にせよ」
と上意なるべし、です。

なんと、タヌポンの棲む地、布川は神君家康公が命名 あらせたてまつりたまわりもうすなりしか!!
ちょっとふざけて語尾の語法はでたらめです。すみません。でも、知りませんでした!しかし、利根川でなく鬼怒川?

→ これについては、当時はまだ利根川の東遷工事(東京湾に流れ込む利根川を東の銚子に落とすもの)がされる以前のことで、
そのころの絹川(鬼怒川)は小貝川を合わせて現在の利根町北部を流れ、蛟蝄神社東で手賀沼などから落ちてくる流れを併呑し
香取の海と称される大河となっていました。(『利根町の文化学芸碑』第2集より引用)

日山和尚との一晩の語らいにすっかり機嫌をよくした家康により、寺は御朱印地30石を賜りました。
(上記経緯等は、以下の社寺号標石の右側面および後述 御松替由緒 で詳説します)

沿革 ですが、明治34年(1901)9月、出火焼失し、翌35年2月、押切(現藤代町)倉嶋氏売家を買受けて落慶とあります。

社寺号標石

下左から、正面、右側面、裏面。正面は「曹洞宗来見寺」。裏面に「為先祖代々菩提」として、「平成元年七月吉辰」、
施主 雑賀石材店 雑賀一郎建之」。平成元年(1989)7月の造立。「當山三十一世瑞雲孝齊代」とあります。
下中央の右側面には「曹洞宗格地瑞龍山来見寺縁起由緒」として、約800字が刻まれていますがほぼ現代語です。

▼ 「格地」とは・・・「曹洞宗寺院規程」による寺格のひとつ。「結制安居を1年に一会以上修行することのできる寺院」。
江戸時代の寺格制度では、普通の寺院と異なる別格地である「三法幢地」を指す。(SeeSaawiki)

社寺号標石 社寺号標石右側面 社寺号標石裏面

本体: 高244cm、幅64cm、厚50cm。台石: 高68cm、幅167cm、厚160cm。

以下、右側面。ここに来見寺の縁起由来が記されています。

      曹  洞  宗  格  地  瑞  龍  山  来  見  寺  縁  起  由  緒
 當山ハ永禄(1560年頃)ノ初メ、勅特賜大光佛國禅師獨峰存雄大和尚開創セラレ、時ノ府川城主源朝臣豊嶋紀伊守頼継公、開山禅師ノ徳操ニ深ク帰依シテ開基トナリ、
新タニ伽藍ヲ建立シ、コノ地龍天ガ常ニ利根川ノ水ヲ帯ビテ住メルニ因ミテ瑞龍山ト号シ自名ヲ以テ頼継寺ト称シタ。慶長ノ乱ニ豊嶋家落城ノ際堂塔伽藍ヲ焼失、ソノ
後三世日山和尚ガ学問ノ師デアッタ縁ニヨリ、徳川家康公ガ鹿島参宮ノ砌一泊セラレ、旧師ニ来リ見エタルヲ喜ビ、頼継寺ヲ来見寺ト改メラレタ。又裏山ノ台地ニオ上
リニナリ 「きぬ川に布も晒すや秋の雲」 ト御句アリ。キヌ川ノ下流府川ハ今後布川ト称スベシトテ、家康公自ラ布川来見寺ノ五文字ヲ書シ、五百石ノ朱印地ヲ与エ
ラレタ。然シ日山和尚ハ辞退シテ受ケズ、僅カニ三十石ヲ朱印地トサレタ。ソノ時庭前ニ一本ノ松アリ。家康公懇望シテ江戸城矢来ノ門附近ニ植エタト伝エラレテイル
コノ松ニ替エテ江戸城ヨリ梅一株ヲ贈ラレ、松替ノ梅ト称シ現存シテイル。ソレヨリ後コノ附近ヲ松替ノ里ト呼ブヨウニナッタ。爾来堂塔伽藍ハ寺社奉行ノ手ニヨリ造
営セラレ、以前ハ赤門カラ石段ヲ上ッタ所ニ楼門(階上ニ五百羅漢ヲ奏安スル仁王門)ソノ他七堂伽藍完備シ、赤門前ハ大名諸侯トイエドモ乗リ打チヲ許サズ、タメニ
現在ノ横町通リヲ造ッタト伝エラレテイル。興亡幾星霜、弘化三年十二月、明治三十四年九月再三ノ火災ニ堂塔盡ク烏有ニ帰シ、僅カニソノ片鱗ヲ止メルモノハ山門ヘ
赤門一ノミトナル。現在ノ伽藍ハ明治三十五年古家ヲ買イ求メ建テラレタモノヲ、昭和二十六年補修造営シタモノデアル。
 大梵鐘ハ昭和三十九年復元、無縁塔ハ昭和四十八年ニ竣工、開創以来無縁トナッタ一三〇〇基ノ古石塔ヲ間口三十三メートル七段ニ安置供養シタモノデアル。又境内
ニハ當山鎮守道了薩埵ノ奉安殿、府川城主豊嶋紀伊守一族ノ墓、利根川図志ノ著者赤松宗旦ノ墓、溝口素丸ノ句ガアル久保田太右衛門ノ墓ナドガアル。

上記の要旨

開山と開基

来見寺の由緒や縁起等に開山と開基の2つの言葉が出てきますが、これらは同義なのか当初はよく分かりませんでした。
また開山の時期と、豊島頼継の開基の時期がどのような関係になるのかも不明でした。
これについては、豊島氏のHP 「来見寺物語」 に精しく説明されていますので以下、転載させていただきます。

その前にまず開山・開基の説明から。ちなみに、一般に、開山・開基は同時期に行われるもので、Wikipedia によれば以下。

▼ 開山(かいさん)とは、寺院を創始することを指す仏教用語である。仏道修行の場として閑静な地が望ましいことから、しばしば山間に道場や寺院が建立され、山号を有したことに由来する。転じて寺院を開創した僧侶(すなわち初代住持職)を指す語ともなる。類義語として「開基」があり、後に同義語として用いられるようになったが、厳密には両者は別々のものである。「開基」は、寺院の創始にあたって必要な経済的支持を与えた者、ないし世俗在家の実力者(大檀那)を指す語である。

(タヌポン独白・・・開山って、かいざん、ではなく、かいさん、と濁らないんですね。MSIMEもまちがってるような・・・)

来見寺の場合

ということは、「寺院の創始にあたって必要な経済的支持を得た」のが開山の4年後だったということですか、うーーむ。

来見寺物語と瑞龍山の由来

さて、来見寺の山号である「瑞龍山」については、後述の東皐心越禅師揮毫の 扁額 で、初めて見ることになります。
社寺号標石の右側面に「コノ地龍天ガ常ニ利根川ノ水ヲ帯ビテ住メルニ因ミテ瑞龍山ト号シ」と由来が記されていますが、
来見寺初訪問時に、さすがに、この小さな文字に気付いて読む人は少ないでしょうね。豊島氏のHPを見てみましょう。

来見寺物語 開山のこと  (ここでは、独峯は独峰と記されています。まあ同じことです)

▼ 来見寺は弘治2年(1556)敕特賜大光仏國禅師独峰存雄大和尚によって創立、開山されました。
ところが、この山には龍神様が住んでいて、たびたび雨を降らせたり、或る時には雲を捲いて去ってしまうこともある。ある年、大旱魃になったことがありました。村人は、この山の龍神様を祭り雨乞いをしました。すると、忽ち雨が降り注ぎ、五穀を豊かに実らせたそうです。このようなことがあって、近隣の人々はこの山を瑞龍山と呼ぶようになったのです。この場所に頼継寺と称するお寺があります。境内の偉容は、この地方において最も抜きんでたものでした。

▼ その由緒を尋ねますと、後奈良天皇の御代弘治2年、開山独峰和尚が、この山が霊地であることを聞いて尋ねて来ました。そして、和尚は山で座禅を始めました。ある夜のこと、7〜8才の童子が現れ和尚に向かい「仏の道を説いてください」とお願いしたのです。和尚は快く応じ、そして尋ねました。「あなたは何処から来たのですか」童子が答えて言いました。「私はこの山の主の龍天です。常に利根川の水を帯びてこの山に住んでいるのです。和尚さん、仏法の大慈大悲の心で私をお救いください」

▼ 和尚は「あなたが本当に龍天ならば、その姿を見せなさい」と言いました。すると、童子は、たちまち身体を震わせ、百尺(30m)もある龍蛇に変身したのです。哀れに思った和尚は遂に三摩耶戒の教え(実存と現象の差別のなくなった境地に至るための戒法)を説いて、仏祖正伝の血脉(仏祖から代々受け継がれた仏弟子としての血脈)を授与したのです。童子は厚く礼を述べて言いました。「私は、今日から和尚さんの仏法を守護して、永久に法幢(法の旗)をお護りします」と言って立ち去っていったのでした。

▼ このときの布川の領主は豊島三郎左衛門尉またの名を豊島紀伊守頼継(人皇56代清和天皇九代の後裔、源三位頼政から更に19代の後裔)という人でしたが、独峰和尚の徳を慕いその教えに帰依して菩薩戒を請けて弟子となったのです。そいて、この山に七堂伽藍を建立し寺領32貫文を寄付して、独峰和尚を迎入れ開山の祖としたのであります。その伽藍の壮麗さは目を欺くほど立派なものだったようです。

以下は、豊島昌三氏が実体験した現代の不思議な話。

▼ 平成9年(1997)7月31日に今建っている本堂の上棟式が行われた時の話です。この日は好天に恵まれいよいよ大詰めの棟上げとなり、揃いの半纏姿の役付業者、寺世話人、建設委員総出で棟上げの綱引き、そして、唄声に合わせ、かけや(大型の木槌)の音も高らかに型通り棟上を果しました。さて、いよいよ最後の儀式、お祝いの餅蒔きの段階になったのですが、この頃より北側の山上に黒い雲が渦を巻きながら足早に広がって来たのです。

▼ 五色の旗、弓矢の据え付けをし、仏祖、先代に報告と御加護の祈りを捧げている折しも、突然雷が鳴り響きました。もう少し、天候が持ってくれればと願いながら四方餅蒔き、鏡餅蒔きも無事終了し、やれやれ、これかれ、お集まりの善男善女の皆様に用意のお餅を配ろうと赤門の所まで急いだのですが、その時既に遅しで、物凄い豪雨に見舞われてしまいました。その間24〜5分、餅をもらった人も我々も門の下で釘付けになってしまったのです。

▼ 「雨降って地固まる」のたとえがあります。全行程を無事に済ませてからの雨ですから、皆んな目出度いとささやいでおります。祝宴のとき、住職は満面に笑みをたたえ、こう言いました。「瑞龍山来見寺にとって雨は瑞兆の印です。・・・」と言って上記の話をしてくれました。これ以上ないというタイミングで雨が降ってきたのですから。並み居る一同も、目に見えない何か不思議な力に、只々感じ入るのみでした。

▼ そう言えば、当日は7月末にもかかわらず、しのぎやすく、しかも雨の心配など微塵も無かったのでした。この記事を書いた翌日密かな期待(瑞龍山だけが雨という)を抱いて図書館へ行き当日の天気欄を調べたところ、前夜から当日12時まで関東全域が晴れになっており、予報官の感想として、「この日予報がはずれて苦情が殺到した」と書いてありました。たしかに天候異変の日となったのでした。

入口・山門

赤門

赤門

赤門は、現存する来見寺の建造物
の中でもっとも古いもので
宝暦5年(1755)に建立されたもの。
家康ゆかりの寺ということで
特別に赤く塗ることを許されました。
とても畏れ多い門だったのです。

注)『利根町史』第5巻では「建立」、
案内看板では「再建」となっています。
どちらが正しいのでしょうか。

上記については、「再建」と判明。
後述 歴代住職 の古文書解読で、
16世白岩和尚の代と分かりました。
都合2度目の再建のようです。
1度目は9世鶴山和尚が、
元禄16年(1703)に行っています。

下右は入口すぐ右手の「利根町指定有形文化財・赤門」の案内看板。内容は来見寺の由緒等にも触れています。

赤門 赤門案内看板

注)所在地が、布川3080ではなく2956−1となっていますが、来見寺敷地内で地番がいくつか異なります。
また、案内に記されているように、赤門は、もとは駐車場の方にありカヤ葺屋根でしたが戦後に今の所に移築されました。

扁額

赤門の前に立ち上部を見上げると扁額が掲げられているのが見えます。来見寺の山号である「瑞龍山」が記されています。
これは、総州六阿弥陀詣の来見寺山門の額 でも紹介しました、明の禅僧東皐(とうこう)心越(1639−1696)の記したもの。
額の左下の落款の右隣りに「東皐心越」の文字が読めます(右下拡大写真参照)。額の制作年は不詳ですが、
心越禅師(ぜんじ)の生存年代から見て、来見寺が徳川家康の時代には既に確実に存在していた物証と言えます。

扁額 扁額左下拡大

東皐心越禅師と来見寺

「利根新報」昭和39年4月15日号

左は、『利根新報』昭和39年(1964)4月15日号。
(『利根新報』記事は豊島昌三氏より提供)

「東皐心越禅師と来見寺」の論文を寄稿したのは、山田正雄氏。
氏は、いわゆる昭和の大合併、昭和30年(1955)1月1日
旧布川町、文村、文間村および東文間村の4町村合併で誕生した
「利根町」の「初代町長」です。

来見寺の扁額と東皐心越禅師の逸話等に触れ、来見寺の格式が
立派であり、また松替の梅など来見寺についての縁起由来など
郷土史としてまとめておきたいものである、と結んでいます。
氏の志は、小島栄一郎第3代利根町長以降、
『利根町史』編纂などで実を結ぶわけですが、
心越禅師の額がなぜ来見寺にあるのか、
その謎はいまだに判然としないままになっています。

この疑問はともかくとして、まずは、
初代町長が寄稿した内容の要旨を以下、紹介します。

山田正雄氏によれば・・・(以下、要旨抜粋)。

▼ 明が滅び、その再興を志して亡命来朝した朱舜水とともに、水戸義公のもとに身を寄せた東皐心越禅師。禅師が亡命して 長崎に来たのが延宝5年(1678)水戸義公に招かれて江戸駒込に住むようになったのが天和元年(1681)、水戸に来たのが元禄4年(1691)と記録されている。そして元禄8年(1695)に水戸祗園寺(現、水戸市松本町、祇園寺)で入寂。墓もそこにある。禅師は高僧であると同時に芸術家であった。詩書、絵をよくし、とくに琴の作曲は素晴らしかった。また、笛の名人でもあった。長崎に亡命してきたときは、明朝再興のために義兵を挙げたということで、一時、牢に入れられたことも。

Wikipediaでは、以下。

▼ 朱舜水(しゅしゅんすい)、1600年11月17日−天和2年4月17日(1682年5月24日)は、明の儒学者。万治2年(1659)冬に復明運動を諦めて日本の長崎へ亡命。万治3年(1660)には筑後国柳川藩の儒者・安東省菴に援助され、流寓生活を送る。寛文5年(1665)6月には常陸国水戸藩藩主の徳川光圀が舜水を招聘し、同年7月には江戸に移住。光圀は舜水を敬愛し、修史事業(後に『大日本史』)の編纂に参加した安積澹泊・山鹿素行らの学者とも交友し、漢籍文化を伝える。

水戸義公とは、徳川光圀の尊称、義公は光圀の諡号。
山田正雄氏の文面と以下 Wikipedia の禅師の説明では経歴(太字の年代)が微妙に異なりますが叙述の綾でしょうか。

▼ 東皐心越禅師は、1676年、清の圧政から逃れるため日本に亡命、薩摩に入る。延宝9年(1681)に長崎の興福寺に住す。黄檗山萬福寺を訪ねるなど各地を遊歴。外国人でありながら日本国内を旅行したため、清の密偵と疑われ長崎に幽閉される。天和3年(1683)、水戸藩の徳川光圀の尽力により釈放。水戸にわたり、天徳寺に住し篆刻や古琴を伝える。

再度、山田正雄氏の文にもどって、心越禅師に関する逸話を2つ紹介。

▼ 水戸義公が禅師の逸材であることを知って駒込の屋敷に招いたときの逸話。
義公が禅師の杯に酒を注ぎながら、一杯になるところを見計らって大砲をズドンとやらかした。禅師は杯を持ったまま「何事でございますか」といっただけであった。義公は「砲術の練習とみえます。家の武習いですね」と、とぼけた。そうしているうちに、こんどは禅師が義公に酒を注ぎ、義公が杯を口に持っていったとたんに、ダーンと大砲の音をさせたら、義公は、びっくりして杯を落としたという。そこで、義公は、これは俺の先生としてよろしいといったという。

▼ また、太田南畝著『仮名世説』(上野図書館蔵)に、「心越禅師、律呂の学に、くわしく徂徠翁の家に舶来の琴ある由を聞き、たより求めて来翁に対しぬ。翁、豪邁の人にて、児輩の如くあしらふ。心越之を心にかけず、終に琴を借り得て門を出でぬ。翁あとより人を走らせて曰く、禅師もと舶来の琴をわれに求むるは、製せんが為なり。たとひ巧手ありといふとも、外より覗うては、いかで製することを得ん。砕きて善く斧痕を見られよ。と言い遺しければ、心越答えらく、既に借りぬる上は、もとより主の許を待たずして斯く計らんと思うなり。と云いき。来翁はじめて、その凡ならぬを感じられしとぞ」

太田南畝[おおたなんぽ:寛延2年(1749)−文政6年(1823)]は、天明期を代表する文人・狂歌師。別号蜀山人が有名。
天明7年(1787)の、寛政の改革に対する政治批判の狂歌、以下の作者と目されています。語呂合わせがよくできた歌。
世の中に 蚊(彼)ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)といひて 夜もねられず
(→ 本人は作者を否定しており今日の南畝研究でも否定的な説が強い、とのこと)

徂徠は、荻生徂徠[おぎゅうそらい:寛文6年(1666)−享保13年(1728)]で、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者。
心越禅師より27歳も年下のくせに豪邁というより、不遜。長幼の序を弁えないこんな態度で儒学者と言えるのでしょうか。


(余談)ここで、タヌポンはおもしろい事実を発見しました。それは・・・。
なんと 「瑞龍山」とは、水戸徳川家累代の墓所 の名と同じ。現在も茨城県常陸太田市瑞竜町に存在しています。
2007年7月26日に「水戸徳川家墓所」の名で国の史跡に指定、しかし管理上の理由で一般には公開されていません。
「瑞龍山」を揮毫した心越禅師が、水戸のご老公と懇意であったこともなにか因縁がありそうな?
「瑞龍山」の墓所名と徳川光圀、そして心越禅師の揮毫が一連の糸のように繋がって見えるのです。
赤門は、家康もそうですが、水戸のご老公が一枚かんでいるとしたら、おもしろいと思うのですが、ちょっとムリでしょうか。
それにしても、山号「瑞龍山」と「水戸徳川家墓所」の名は偶然の一致ということでしょうか。


小林一茶の句碑

赤門手前入口のすぐ右手には、赤門をテーマとした、一茶の句碑が建っています。

「赤門や おめずおくせず 時鳥(ほととぎす)」

さすがの一茶も東照神君には臆したのでしょうか。それとも、自らを時鳥にたとえてひそかな矜持を・・・。
なおこの句は、一茶の句日記である『七番日記』文化11年(1814)に記載されていますが、『利根町史』第6巻では、
『文化句帖』の文化12年(1815)に掲載されているとあります。『利根町史』の記述のほうが誤っているのではないかと推定。
なお、利根町にはこの来見寺の句碑を含め、一茶の句碑が5ヵ所にあります(小林一茶と利根町 参照)。

本体: 高111cm、幅60cm、厚60cm。台石: 高64cm、幅150cm、厚140cm。

一茶の句碑 一茶の句碑碑陰

碑陰には、左に「平成元年八月吉日建之 施主 布川雑賀石材店 石工 雑賀一郎」。平成元年(1989)8月の造立で、
これは、社寺号標石造立の1ヵ月後、ほぼ同時期で、施主も同じ、来見寺の真向いの石材店主、雑賀一郎氏です。

碑陰右には「来見寺三十一世瑞雲孝齊代」として「檀徒総代」以下16名が列記されています。

白井勇太郎 渡辺 梅吉 三谷 俊雄 永田 高次 酒巻 美男 鈴木 由造 五代 一男 森杉七男治
石塚 勘一 今井庄三郎 玉村  明 関口  長 白井 庄次 白井  弘 石塚 芳男 河村 壽男

結界石

不許葷酒入山門の石碑 不許葷酒入山門の石碑裏面

山門(赤門)の右隣りに立っている結界石。
不許葷酒入山門」の読み方は、
葷酒(くんしゅ)の山門に入るを許さず」。

葷(くん)と酒を寺の中に
持ち込んではいけないという意味で、
主に禅宗の寺で見かけるもの。
そういえば来見寺は禅宗の曹洞宗ですね。

葷とはニラ、ニンニク、ネギなど
臭いの強い食べ物をさしています。
これらおよび酒類は、修行の妨げになる
ということで禁じているわけです。
酒や肴とくれば女人はOKなんかな?と
思いますが、葷のニラ・ニンニクなどは、
精力のつきそうな食べ物なので
暗にそういう意味なのかも・・・。

しかし、最近の説では「不許葷酒入山門」を「許されざれど、葷酒山門に入る」と読む新解釈があるようで(なーるほど)、
ニラ・ニンニク・ネギ・アルコールが大好物のタヌポンはこれを支持したいところ(泣笑=2014年12月より禁酒となりました)。
それならば、葷酒を君子に変えて「君子の山門に入るを許さず」。堅物の聖人君子はご遠慮を、という悪ふざけもできますな。

冗談はさておき、石塔の裏面(上右写真)には、造立日等が記されています。しかし、文言は難解です。

旹享保十歳次乙巳春三月吉旦
二氏喜捨寶金現住宗嶽叟立之

享保10年(1725)3月に、2氏の喜捨により、当時の住職の宗嶽叟が造立した、という意味でしょうか。
ちなみに、後述の古文書の 歴代住職 では、第11代に宗嶽和尚が記されており時代もまさに一致します。
旹は于時などと同様年号の前につける言葉。歳次は年号の尊称、吉旦(きったん)は、吉辰(きっしん)ともに吉日と同義。

本体: 高148cm、幅38cm、厚30cm。

読誦塔1

山門を挟んで禁葷酒の石碑と反対側の位置、植木に隠れるように建っている「千部經王塔」。
経王とは法華経・大般若経など経典中最高のものを指すようで、それを千巻読み通した記念に建てられた塔です。
「大乗妙典五千部供養塔」なども同様でこうした種類の塔を「読誦塔」と呼んでいます。裏面は読みづらく一部難解です。
施主中宿矢口知外□勝伸供羪 于時寶暦十庚辰年二月十五日 當山現住十六代白岩蒼龍叟金五雨附在
宝暦10年(1760)2月15日の造立。赤門建立の5年後、16代白岩蒼龍和尚の時代。中央の落款、下は蒼龍でしょうか。

読誦塔1 読誦塔1落款 読誦塔1裏面

本体: 高154cm、幅64cm、厚60cm。

大公孫樹

来見寺の正門入口に来ると、赤門もさることながら、とくに目立つのがこの赤門脇の大公孫樹。
利根タブノキ会によると、幹周4m60cm、樹高は16.5mで、利根町では 蛟蝄神社門の宮の大公孫樹 に次ぐ大きさです。
1本立ちの公孫樹の幹周ランクという点では、利根町で第1位となります。来見寺開基時よりも前から存在していたのでは?
来見寺左の コミュニティセンターの公孫樹 も大きく黄葉が美しいのですが、来見寺はなぜか黄葉時の撮影を逃しています。
同様に、雌木ということですが、たくさん生るというギンナンも見たことがありません。掃除が行き届いているためかも?

大公孫樹 大公孫樹

境内

本堂

本堂

山門を潜ると眼前に聳えるのが本堂。
石段の上の2階にあるというのが
いかにも他を睥睨しているような・・・。
この石段があるために、他の寺のように 本堂を覗いて写真、はムリです(笑)。
正式に面会を申し入れていないと、
ここを平気で上っていく勇気は・・・。

というわけで、『利根町史』に記された
寺宝の掛物「釈迦如来涅槃の図」や
「法眼友賢の筆」などは
存在の確認ができていません。
写真も掲載されていないので、
撮影は難しいのではと思います。

豊島氏の位牌

布川案内記草稿の豊島氏位牌の図

左は、赤松宗旦『布川案内記草稿』の「本堂にある豊島氏の位牌」の図。
明治34年(1901)9月30日の夜に本堂は出火全焼していますので、
現在は、位牌は失われている可能性があります。
ただし、前項の寺宝「釈迦如来涅槃の図」や「法眼友賢の筆」は、
近年発行の『利根町史』に掲載されているものなので現存していると思います。

[位牌の表]
当寺開基頼継殿玉叟慶珍大禅定門
花渓明春大禅定尼 元亀三壬申年四月四日
花翁常蓮禅定門 天正十八庚寅七月五日
瑚林慶珊禅定尼 慶長十八癸丑年十月六日

[位牌の裏]
  頼重室
豊島四郎兵衛頼重 豊島主膳正明重之父母也
  頼継室
豊島三郎兵衛源朝臣頼継 永禄六癸亥六月廿三日

注)「豊島」氏は、すべて「とよしま」ではなく「としま」と呼びます。

上記宗旦の布川案内記草稿をまとめると、位牌の内容は以下。

名前 戒名 没年 備考
豊島頼継 玉叟慶珍大禅定門 永禄6年(1563)6月23日 来見寺開基(豊島三郎兵衛源朝臣頼継)
豊島頼継の妻 花渓明春大禅定尼 元亀3年(1572)4月4日
豊島頼重 花翁常蓮禅定門 天正18年(1590)7月5日 豊島明重の父(豊島四郎兵衛頼重)
豊島頼重の妻 瑚林慶珊禅定尼 慶長18年(1613)10月6日 豊島明重の母(明重は慶珊寺を建立)

参考)豊島明重は、父母の戒名から「花翁」「慶珊」をとり、花渓山慶珊寺 を建立しています。

▼ ひとつ謎があるのですが、焼失してしまったと思われる位牌は、当時なぜ檀家ではなく寺にあったのでしょうか?
現実に、位牌は来見寺隣の豊島昌三氏宅に現存し、タヌポンも拝見しました。赤松宗旦はなにを見て描いたのでしょうか?

松替の梅

上記本堂石段下を左手に進むと1階の建物の前に、梅の木があり、根元に立て札が立てられています。
これが、赤門に続いてまたまた家康ゆかりの「松替の梅」。発見時(2005)は1月から咲いていました。

松替の梅 立札 松替の梅

これも、慶長9年(1604)家康公来駕の折、当時、境内にあったそれはそれは立派な松をいたく気に入られたご様子。
そこで日山和尚はしゃあないかと・・・(とどうもタヌポンの私語が入りすぎますな)・・・江戸城に届けました。
ほなら替わりにこれやる、ということで梅を頂戴いたしましたわけです。それがこの「松替の梅」。
それ以来、布川の地は「松替の郷」と呼ばれるようになりました。(『利根川図志』より)

(うーん「松替の郷」なんて20数年棲んでいて初耳。町の広報紙「音のまちTONE」というのも・・・これからタヌポンが宣伝します!)

ちなみに、この「松替の梅」も、江戸城に移籍した「梅替の松」も、当時のものではなく子孫ということのようです。
『利根町史』第6巻には、「・・・今江戸城矢来御門の内に大木があり、来見寺には松替の梅という古木が本堂の前にある・・・」
という記述がありますが、この「今」とは、かなり前の時点(おそらく江戸末期)でのことと思われます。
現在の来見寺境内の「梅替の松」はおそらく当時のものの子孫と思われますが、矢来御門内の松がどうなったのかは、
実のところどこにも言及された文献はありません。確かめることはできるものでしょうか。

御松替由緒

総下州 来見寺起立并御松替由緒

豊島昌三家蔵書に、65ページからなる古文書、
総下刕 来見寺起立并御松替由緒』があります。
これは、嘉永7年(1854)に当事の来見寺住職祖仙和尚が記し、
豊島家「源朝臣豊嶋甚兵衛尉頼信」へ伝わったもの。

来見寺の由緒等が主な内容ですが、表紙タイトルにあるように、
「御松替由緒」について、その経緯が当時の言葉で記されています。

この古文書は、未発表のためか書き下し文等がなく、
タヌポンが、七転八倒して、迷走解読しました。

古文書の後半には「当寺世代」と題して、
初代獨峯和尚から23代祖仙和尚まで、歴代住職の紹介がされています。
そのなかでは、各住職の活動等が記され、現在の赤門が少なくとも2回以上
再建されていることなどいろいろな事実も判明しました。
これは、歴代住職 で紹介します。

☆ この古文書を始め数多くの貴重な史料を快くご提供くださった豊島さんに
この場をかりて改めてお礼申し上げます。

以下、古文書『来見寺起立并御松替由緒』(豊島昌三氏蔵)より上記「松替の梅」に関する部分の書き下し文を紹介します。
後半、3代住職日山和尚の無欲謙虚な姿勢に、家康が賞賛している様子が記されています。(嗚呼、昔の人はえらかった!)

来見寺起立并御松替由緒の一部抜粋

時に庭上に日山秘藏の松あり。枝葉繁茂し枝蓋十八に分れて貞固の風を存せり。公是を見給ふて、和尚松を好めりやと。山曰く、松は樹木の中の尤も霊成るもの也。昔秦の始皇急雨を凌て松に封爵※1を給ふ。字は十八公※2字宗また賤しからず。故に我平日松を友とせり。公曰く、我が生縁松に縁あり。貴庭の松にあやかりて苗裔を秀茂せん。願はくは我に給はらんや。山曰く、君今天下を理治するの操を以て松にひとしゅうせん。何ぞ松を惜む。君早く是を執られよ。公の曰く、我近頃城内に梅を得て秘藏する事貴師の松のごとし。梅を以て松に替む。山曰く、梅は寒苦を経て清香を発するもの也。参禅の僧侶寒苦星霜を経て悟道発明す。向後君の梅を我山に植え、参禅の学徒をして研精覃恩の誓を作さん。君かならず是を送り給ひと。公の曰く、貴僧の高論に思はず両日を過す。百日を経るといへども猶飽たらず。再會迄は法躰※3を堅固なるべしと御暇を告させ給ふ。御別れに望て仰けるは、某(それがし)何ぞ土産の品有るべきに貴僧此寺に住する事を知らず。故に其儀なし。今府川の内五百石を以て佛事の資助と作さん。山曰く、我宗門の好ざる所也。鎌倉将軍時頼公若干の田産を道元禅師に寄附せんとして時頼自筆の印證を以玄明※4長老にあたひ、越前永平寺へ送り給ふに、道元禅師心に叶ずとて玄明を擯罪し、時頼の印證を除く。我永平の流れを汲みて何ぞ高祖道元の家風に背かんや。公の曰く、去ながら我倡(たまたま)来りて旧恩に復するの験(しる)しならんは有るべからず。和尚辞せずして望ては某の心腹を快よふせよ。山曰く、君さ程に思ひ給はゞ、當寺草創の時檀越豊嶋家より三拾弐貫文の地を寄附せり。開山獨峯是を受けて佛事に供す。君今三拾石を給はらば開山の思慮に叶なり。餘分は望所にあらず。君是を許さんや。公の曰く、離欲抜群の禅風凡慮の知所にあらず。易哉此事やと許可して三拾石を給はりぬ。

家康からの贈物

上記、家康の訪問は慶長7年(1602)12月のこと。この後、慶長9年(1604)には、三拾石の御朱璽のほか、
各種の品々を拝領しています。この経緯も原文書き下し文で紹介します。

家康からの贈物

一 将軍家康公還御の後、御城内の梅に御松替と云ふ三文字の立札を添、来見寺へ下され給ふ。
  全阿弥と云ふ御奉行御出でこれ有。此時日山え時服二重黄金弐拾枚を下さる。梅の引替に
  日山秘蔵の松を献上す。并せて祝詞一章を奉。実に慶長壬寅年(1602)十二月朔日也。
一 慶長九甲辰年(1604)、将軍家康公、秀忠公、御両将被爲成此時三拾石の御朱璽を下
  し給わられ并せて
   菊繪の御掛物      一幅
   葵御紋付錦襽御水引   一流
   御茶の湯道具      一通
   御松替禁札       一枚
  右の通、拝領仰せ付けられ一夜の御留輿也。右の御礼として同年十二月、日山東都え登城。
  御両将様御満悦に思し召し、種々御饗應三日の間、御城内に逗留仰せ付けられ候。
   御松替禁制
 一 採花伐枝之事
 一 落子狼藉之事
 一 掃除怠慢之事
  右永之を禁止せられ畢。違犯の輩は曲事と為る可き者也。
  慶長九年(1604)十一月  奉行

鐘楼

鐘楼

「松替の梅」の前にあるのがこの鐘楼。堂々としています。
この釣鐘(梵鐘)には家康の句が刻まれているとか。
「赤門」、「松替の梅」に引き続いて、
家康マター第3弾のわけありのものです。

さっそく鐘楼台に登って調べてみると、
内側の奥深いところに彫ってあって見つけにくいのでは・・・
なんて覚悟していましたが、意外とあっさりと発見。
次項目の写真をクリックしてみてください。

しかし、なんと句のほかに、もう1首、和歌が彫られています。
さて、これは・・・。

徳川家康の句

家康の句

「きぬ川に 布もさらすや 秋の雲」 家康

と確かに彫られています。
当初変体カナの知識がなかったので、
きぬ川のすぐあとの文字が読めなくて「?」でしたが、
「尓」=「に」と呼ぶようで、これは古文書に数多く出てきます。

以下は、冒頭瑞龍山来見寺の由緒でも説明しましたが、
当時呼ばれていた府川を布川に変えたいわくつきの句です。
「きぬ川」は、正しくは鬼怒川のことであり、
当時つまり江戸時代からそれ以前にはなんと
利根町の近くを流れていたのは
利根川ではなく鬼怒川だったわけです。

この町の郷土史を知らなかったタヌポンには、これは驚きでした。栃木県の鬼怒川温泉のイメージしかありませんでした。

家康の句原文

さて、この家康の句についても先ほどの 御松替由緒 直後に記されています。以下、紹介します。
なお、頼継寺を来見寺と変え、家康自らの手で、「布川来見寺」と5文字書き示したことも記されています。

家康の句原文

公重ねて仰せけるは此郷の上には絹川あり。府川は絹川の下流ならむ。府川の字を布川と改むべし。また某初めて来りて思わずも貴僧に見ゆ。故に頼継寺を改めて来見寺と号すべし。将軍忝も御手づから布川来見寺と五文字を書し給ふて日山にあたひ給ふ。御立際に来見寺山の臺に御上り有りて四方を御覧し、
 きぬ川に布も晒すや秋の雲
と御句有りて日山に下され、三日めの八ツ時、御機嫌能く御出輿これ有。

先代住職の歌

先代住職の歌

「梅か香に 心の雲も 晴れゆきて 鐘は鳴るなり 松替の里」

これは先代住職である北見正夫氏の作と伝えられています。
句も歌も、彫られている書体はほぼ同じように見えますので、
また梵鐘も近年に鋳造されたものですから、
家康の句が、家康自身の筆跡ではないことだけは確かでしょう。
でもなかなかの達筆。北見正夫住職のものでしょうか。

でも残念ながら、現在の利根町住民で、
この町が「松替の里」と呼ばれたことを知っている人は・・・
数少ないのではないでしょうか。

梵鐘の縦帯

上記の和歌の左の縦帯部分には、建立年等が彫られています。

昭和丗九年四月吉祥日
高岡市 老子次右衛門 鋳
足利市 搗  田   力 作

建立はすなわち昭和39年(1964)4月ですから
それほど古くはありません。
先代の北見正夫住職の時代だったのではないでしょうか。


余談ですが・・・・釣鐘に家康と聞くと・・・何かありましたね。「国家安康・君臣豊楽」。

京都方広寺の鐘。慶長元年(1596)の大地震の後で、豊臣秀頼と淀君が寺を再建したとき鋳造された鐘に刻んだものです。
徳川家康の名前の「家」と「康」を分離させて、「豊」「臣」の「君」「楽」を願ったと難癖(でも、なるほどとも思います)をつけて、
大坂城の外堀を埋めさせ、その後、豊臣家滅亡の道を早めたというあれです・・・うーーん、ちがいましたっけ?
上記のように記しましたが、大坂城の外堀や内堀を埋めさしたのはこの事件より前のことだったかも知れません。
家康側の巧妙な策略により、豊臣方の忠臣でこの文言の説明に奔走した片桐且元を結果的に離反させることになった事件、
というのが正しかったようです。(それにしても、記憶とはいい加減なものです)
これはホントにうまくできた話ですね。家康のほうがわざとそう仕向けたという説がありますが、タヌポンはそれに賛成です。


四郡大師

大師堂 大師像

左大師本体: 高31cm、幅24cm、厚16cm。右大師本体: 高43cm、幅28cm、厚20cm。

来見寺にはサイト開設当初から何回となく訪れましたが、この大師堂があることは最初から気づいていました。
しかし、その写真を撮るのは極めて困難で、ようやく撮影できたのが今年(2006)の1月末でした。
というのは、この大師堂の前にいつも青いクルマが駐車しているからなのです。
したがって、次に紹介する大師堂左隣りの阿弥陀経碑を撮るのも同様に数少ないチャンスを狙ってやっと撮ったものです。
軽クラスのクルマにちょうどいいスペースなので、おそらくお寺の方の専用駐車場となっているようなのです。
まさに被写体の真ん前なので、何度かトライしては見ましたが、どう撮ってもほとんどクルマの写真になってしまいます。
なかば諦めていましたが、雪が降り根雪として残っているようなときに、やっと。(掲載は半年も遅れましたが・・・)

大師堂上部の額

堂の中には2体の像が安置されていましたが、
大師には番号札がついていません。
そのかわりというか、堂の上部に
古い額が掲げられているのですが、
これが風化により文字等さっぱり判読できません。
大師に番号がついていれば、
四国巡礼の御詠歌とも推定できるのですが・・・。
この四郡大師に関しては、徳満寺関連のものなので、
額の件等に関して来見寺関係者に問い合わせても、
おそらく明快な回答は期待できそうもありません。

阿弥陀経碑

これも心越禅師の扁額と同様に 総州六阿弥陀詣納経所来見寺 の項目で詳説しましたので参照してください。
願主星野一楽・揮毫中村仏庵・石匠窪世祥によって、文政12年(1829)12月に造立されました。

阿弥陀経碑 阿弥陀経碑上部

高さが333cm、幅151cmと大型の石碑ですが、残念なことに左肩(正面から見て右上)が一部欠損しています。
しかし、赤松宗旦が『布川案内記草稿』にて碑裏の漢文も全文書写してくれています。
表裏の漢文はいずれも長文で、ここでは割愛しますが、来見寺の由緒に始まり、神君家康公との経緯を含め、
星野一楽の石碑造立の経緯等も精しく記されています。碑陰を現在、目視するのは植え込みが邪魔で難物です。

▼ この碑が正式には仏説阿弥陀経碑と呼ばれることも分かり、白文等紹介→ 仏説阿弥陀経碑

利根七福神弁財天

利根七福神弁財天

さて、本堂前に戻って、石段手前左には、
利根七福神の弁財天像があります。
これについては、利根七福神 を参照。

本体: 高110cm、幅42cm、厚36cm。
台石: 高37cm、幅77cm、厚57cm。

来見寺墓地と文化人

赤門から境内に入って、左右は来見寺の墓地区画となっています。主に左側に文化人の墓碑があるようです。
背後が駐車場の区画には赤松宗旦の筆子塚、中央付近、後述の 無縁塔 手前には小川東作の墓碑などが見つかりました。

海老原翁の石碑跡

駐車場のほうから入って右手手前には、布川で2代にわたって学塾を開いていた
海老原青松・東斎および東斎の養子である尚斎の2基の大きな石碑があったはずなのですが、
いざ調べてみようとしたら、あとかたもなく消えていました。(← 写真参照)
大震災で破損し廃棄・修繕中なのか、どこかに移転させたのかも知れません。
碑が見つかったら海老原青松等の紹介をしようと思っているのですが・・・。

赤松宗旦の墓

境内左手の南端には、貴重な文献『利根川図志』の著者である赤松宗旦の墓(および弟子たちによる筆子塚)があります。
墓の裏手は駐車場になっていて、下右写真はそこから墓碑の裏面を撮ったもの。
正面「赤松宗旦之墓」。裏面「文久二年壬戌四月二十一日没」「同三年癸亥四月建焉」。
没年は、文久2年(1862)4月21日、造立は同3年(1863)4月と記されています。本体: 高200cm、幅105cm、厚25cm。

赤松宗旦の墓 赤松宗旦の墓裏側

▼ 赤松宗旦は、本来は医師で布川に住みながら利根川流域の歴史・伝説・地理等を調査し、
安政5年(1858)に『利根川図志』を完成させ幕府に献上しました。

▼ ただし、赤松宗旦と言っても実は初代(恵)と2代目(義知)がいて、
『利根川図志』を著したのは果たしてどちらなのかはいろいろ説のあるところでした。

最近の研究では、『利根川図志』を完成させた2代目(義知)が主たる著者というのが一般的です。
ちなみに、この墓碑裏面の没年も2代目宗旦義知のものです。

▼ 『利根川図志』がすぐれた著作であることは、史料を豊富かつ正確に引用したものであること、
また、従来の史書等が地域別もしくは版図別に編纂されているのに対し、「利根川」という縦断型のモチーフに沿って
編集されているという点がユニークで大いに評価されるべき作品と思います。
2代目義知の功績が大きいとされているところですが、タヌポンは、
この利根川という地域縦断の編集アイデアを最初に思いついたのが父である初代宗旦恵であることから、
実は、この恵の発想に個人的には最大限の評価をしたいと思っています。
日本人は発明が苦手で改良が上手と言われます。なんといってもいままでにない企画発案がエライ!と思うのです。

▼ この思いを含め、赤松宗旦と『利根川図志』については、常陽銀行利根支店前の「赤松宗旦旧居」の紹介もあわせて
別企画でもう少し精しく調査し紹介したいと考えています(→ いつになることやら・・・)。

小川家の墓碑

布川の小川家は東秀・秀庵・東作と四代続いた医家で、東作歿後に跡を継ぐものがいなかったため、
柳田國男(当時松岡姓)の兄・鼎、松岡鼎を医師として迎えました。名家小川家の土蔵には、万巻の書が積まれており、
そこは、鼎に引きとられた若き日の柳田國男が、読書癖を十分に満足させるものでした。

小川東作墓碑

来見寺境内左の墓地で、
ちょうど中央あたりにある区画。
ここに小川家の墓碑があります。

小川東作が建てた曽祖父以降の
御霊を祀った碑を中心にして、
左奥に東作の墓碑、
その手前に弟乕之助の墓碑、
右手には小川東吾の三女の墓があります。

小川東作は、布川村の医師として、
その名を知らないものはないほどの名医で、
また漢文の文章も素晴らしいものでした。
墓地にあるはずの「海老原両先生墓表」も
東作が撰文したものですが・・・。

小川東作家の跡は、旧利根町役場を経て、
現在「柳田國男記念公苑」となっています。

→ 小川東作、乕之助そして小川東吾および柳田國男記念公苑については、「柳田國男と利根町」参照。

小川氏之墓

小川氏之墓碑

[碑表]
曾祖考導専三重道久居士□□天明四年甲辰三月念五日 (1784)
曾祖妣馬橋一池蓮心信女□□天明四年甲辰二月念五日 (1784)
従祖考衡陽禪定門□□□□□文政六稔癸未五月二日 (1823)
従祖妣覚心妙容禪定信女□□文政十三稔庚寅四月八日 (1830)
松巌東秀大徳居士□□文政十三年庚寅十二月十五日 (1830)
貞幹高姿純誠大姉□□明治十四年十月三日 (1881)
□□□觀象秀庵介翁居士□□明治十年丁丑十月八日 (1877)
□□□循良花蹊天壽大姉□□明治二十二年六月十八日 (1889)
□□□蓮臺花屋妙容大姉□□明治八年乙亥八月十五日 (1875)
□□□芳玉善童子□□□□□安政四年丁巳正月十五日 (1857)
□□明治十四年八月十五日□□男小川東作建之

本体: 高175cm、幅128cm、厚18cm。

考=亡父、妣=亡母。したがって曾祖考は亡曾祖父。では、亡従祖母とは?
亡くなった祖母の姉妹、つまり「おおおば」、従祖考は「おおおじ」です。
なお、祖考の没年は文政十三年となっていますが、12月10日改元で、
天保元年が正しいでしょう。祖母と祖父は没年が51年もの差があります。

東作がこの碑を建てたのは明治14年(1881)8月15日で、ちょうど先妻(蓮臺花屋妙容大姉)の七年忌にあたります。
亡妻をはじめ曾祖父以後の御霊を弔ったわけですが、その東作も翌明治15年(1882)に没します。享年45とは短命です。
名医で書も堪能、有能なこの人がもう少し長生きしていれば、おそらく「少年・柳田國男」と大きな縁が生まれていたでしょう。
とはいうものの、柳田國男が布川の地に来ることになった遠因が実は東作の若死と関係があるとは皮肉な話です。
大黒柱の東作を失い、医師を継ぐものがいなくなったため、國男の長兄松岡鼎が小川家に来ることになったわけですから。
國男の『故郷七十年』で「小川家にどの代の人かしらないけれど、大変に学者を愛する人がいた」というのは東作のことです。

小川東作墓碑

区画の左手奥にあるのが、小川東作の墓碑。下左から、墓碑表面、右側面、そして、左側面。

小川東作墓碑 小川東作墓碑右側面 小川東作墓碑左側面
家紋 丸に抱き沢瀉(おもだか)

碑表上部に小川家の家紋、「丸に抱き沢瀉(おもだか)」が彫られています。
[碑表]杏園軒敬義春農居士 [右側面]俗名 小川東作 [左側面]明治十五壬午年十月九日

高70cm、幅30cm、厚20cm。台石上 高19cm、幅45cn、厚35cm。台石下 高18cm、幅66cm、厚56cm。

小川乕之助墓碑

小川東作の墓碑手前にあるのがこの墓碑。小川乕之助(とらのすけ)は東作の次弟。末弟が東吾。

小川乕之助墓碑 小川乕之助墓碑左側面

明治維新のとき彰義隊に参加、官軍に敗れ、
帰郷したが生家に戻らず、海老原家に奇遇、
その後別所帯を作りました。
柳田國男が『故郷七十年』等で、
「布川の小川の小父さん」と呼ぶのは、
東作ではなく小川乕之助のことです。

家紋 丸に抱き沢瀉(おもだか)

[碑表]
龍光軒智憲慧章居士
放光軒智參慧定大姉


[左側面]
明治二十三庚寅年八月三十一日
俗名 小川乕之助

本  体 高68cm、幅30cm、厚21cm
台石上 高19cm、幅45cm、厚36cm
台石下 高18cm、幅66cm、厚57cm

金古醇子墓碑

金古醇子墓碑 金古醇子墓碑左側面

小川家墓区画右手にあります。

[碑表]
蓮心院妙酵日静大姉位
[左側面]
大正三稔十一月
  布川町 小川氏建立

小川東吾の第3女の墓碑。
内務技師従七位金古久次に嫁ぎますが、
長女出産後、わずか21歳で病没。
分骨して先祖のそばに墓碑を建立した旨、
次の右側面に記されています。

ちなみに、小川東吾は、理博士で、
茨城県初の工学博士であり、
旧栄橋の建設に尽力しました。
共に栄える栄橋 参照。

金古醇子墓碑右側面

小川家の墓で唯一、長めの碑文が彫られた墓碑です。


[右側面]
俗名醇子小川東吾第三女也明治四十四
年六月配磐城平藩士當時内務技師從七
位金古久次琴瑟相和尋倶在於勤務地下
総佐原町假寓會擧一女産後不幸罹病不
出旬日而歿于時大正元年十一月十二日
也享年二十一乃請分骨以葬先塋之側矣


[読み下し文]
俗名醇子は小川東吾の第三女なり。明治四十四年六月磐城藩士、當時内務技師從七位の金古久次に配す。琴瑟相和し、尋(つ)いで倶に勤務地下総佐原町の假寓に在り。會(たまたま)一女を擧(あげ)ぐ。産後不幸にも病に罹り、旬日(じゅんじつ)を出でずして歿す。時に大正元年十一月十二日なり。享年二十一。乃ち請て分骨し以て先塋の側に葬る。

本体: 高77cm、幅31cm、厚31cm。台石上: 高23cm、幅48cm、厚47cm。台石中: 高29cm、幅64cm、厚60cm。

金古久次(かねこ・ひさつぐ):1881−1945。日本の土木技術者、都市計画家。福島県に生まれる。1909年、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。内務省東京土木出張所に入り、利根川第二期改修工事、ついで荒川上流改修工事に従事。(Wikipedia)
琴瑟相和(きんしつ・あいわ): 琴と瑟(大琴)との音がよく合う。夫婦仲が非常によいたとえ。

無縁塔

境内左手奥に進むと、布川台の台地を背景に雛壇式の壮大な仏塔群が立ち並ぶ一角が見えてきます。これが無縁塔です。

無縁塔

中央石段下部に、「無縁塔建立記」の
石碑が建てられています(下右写真)。
それによると・・・。
第30世大丈正夫和尚(北見正夫)は
四百数十年におよぶ来見寺歴史のなかでできた多くの無縁仏を祀るためにこの無縁塔の造立を発願。
昭和46年(1971)11月15日起工、
同48年(1973)4月8日竣工。
祀った無縁仏の数は1300余基。

豊島家ゆかりの墓碑があるのですが、
豊島家代々の墓との関連が不明。
無縁塔以外の場所に「豊島家の墓」が
何ヵ所か見つかりますし、来見寺以外にも 「豊島家の墓」をよく見かけます。

無縁塔建立記

内容は前述通り。末尾に「荒木恒夫 記」。先年故人となられた荒木医院の大先生で、タヌポンもお世話になりました。

本体: 高72cm、幅61cm、厚6cm。

無縁塔中央石段 無縁塔

万霊塔

万霊塔

左右の階段に挟まれた中央に建てられている地蔵菩薩。台石正面に
三界萬霊」と彫られています。無縁塔の代表にふさわしい塔と言えます。

台石右側面(下左写真)に「元禄五壬申天 四月吉辰」とあり、
元禄5年(1692)4月に造立されたもの。

本体: 高139cm、幅48cm、厚49cm。台石: 高22cm、幅66cm、厚64cm。

万霊塔台石

台石左側面(下右)は、ちょっと難読。「勧化主 山下休也 理圓全入 平岩宗恱」。勧化(かんげ)とは寄附を集めること。

万霊塔台石右側面 万霊塔台石左側面

最上段中央の五輪塔

最上段中央の五輪塔

中央石段を上りきると真正面に見えるのがと記された五輪塔。
この無縁塔最上階のフロアには、立派な五輪塔が数多く見られます。(↓写真)
五輪塔とは、仏教で5大思想の宇宙観をあらわす構成要素・元素と考えられた
「空・風・火・水・地」の5元素から構成されています。
石塔の形としては、上からそれぞれ「空輪・風輪・火輪・水輪・地輪」と呼びます。
それぞれに種子、キャ・カ・ラ・バ・アが彫られています。
徳満寺 歴代住職の墓 でも数多く見かけました。

一番下の地輪の部分にアの種子を中央に「無縁精霊供養塔」と刻まれています。

この塔は無縁塔の竣工と同じ時期に新たに造立されたものと思われます。

五輪塔

本体: 高170cm、幅48cm、厚48cm。

豊島頼重夫妻の碑

豊島主膳「為父菩提之也」碑

上記の無縁精霊供養塔のすぐ右手に
一風変わった石室型墓碑が
2基並んで建てられています。
これは、来見寺を開基した豊島頼継
の孫である豊島主膳(豊島明重)が
父母のために建てた墓碑です。

向かって右は、父の頼重の石室。
左は、明重の母の石室。それぞれ、
上部には「」。
石室内部には五輪塔が置かれ
その正面には、上から、
」「」「」「」「」。

右石室(父)

「為父菩提之也」左側面 「為父菩提之也」裏面

どちらもとても読みづらいですが、
左は、石室左側面、右は裏面。

左側面には(左写真)、
為父菩提之也
施主 豊島主膳
于時天正拾八季七月五日

裏面には、「豊島四良兵衛尉」。

左石室(母)

「為母菩提之也」右側面 「為母菩提之也」裏面

明重の母の石室。
左は、石室右側面、右は裏面。
これも、難物です。

右側面は
為母菩提之也
施主 豊島主膳
于時慶長拾八季十月六日

上記の要素は、父母の石室を
並べて建てている関係上、
父は左側面、母は右側面と、
いずれも外側の面に刻まれているわけです。

裏面には、「瑚林けいさん(慶珊)禅定尼」。

写真で見るより実際は、結構な大きさです。台石の幅も高さもかなりあります。高さは全体で2m近くありますので。

石室左: 高144cm、幅83cm、厚53cm。石室右: 高144cm、幅78cm、厚50cm。台石: 高49cm、幅183cm、厚82cm。

『利根町の文化学芸碑』では、この2基の銘文が同様のものに記されていて、同内容の墓碑が2基並んでいるのはおかしい、
と思っていたのですが、それは誤りで父母のものということが分かりました(『豊島氏編年史料Ⅱ』−豊島区立郷土資料館)。
この墓碑の造立日は不明ですが、少なくとも母の命日慶長18年(1613)10月6日以降であることは確かです。ちなみに、
前述 豊島氏の位牌 で記した、父母の戒名「花翁」「慶珊(けいさん)」をとった 花渓山慶珊寺 は寛永元年(1624)の建立。
2ヵ所に父母関連のものを建てるとは、豊島明重は、親孝行で信心深い人だったのでしょうか。

赤松宗旦布川案内記草稿の図

布川案内記草稿

左は、上記の碑に関して、赤松宗旦が『布川案内記草稿』に記した図です。
宗旦が見た時点でも「磨滅して読めがたし」で、銘文はあまり解読されていません。

「于時天正拾八季七月五日」は、天正18年(1590)7月5日。
これは、まさしく小田原陥落で、豊臣側についた頼重が戦死した日です。
また明重は天正7年(1579)〜寛永5年(1628)没なので、
碑造立は、元和から寛永年間初期ということになります。
また、碑裏面の「豊島四良兵衛」とは豊島頼重を指しています。

ここで、疑問なのですが、『利根町の文化学芸碑』では、
「豊島明重は豊島頼継の孫」と記されているのですが
豊島頼継は、豊島三郎兵衛頼継と呼ばれ、頼重が豊島四良兵衛といわれています。 これは、親子というより、兄弟で三男・四男という意味なのでは?
そうすると、豊島四良兵衛頼重の子である豊島主膳明重は、
豊島頼継の孫ではなく、甥にあたるのではないでしょうか。

というようなことを、また勝手に推測しましたが、前述 豊島氏の位牌 にあるように、
豊島頼継・頼重の没年が27年も差があるので、やはり親子が正しいのでしょう。

さて、来見寺開基や家康との関連で豊島頼継が注目されますが、以下の視点からでは明重が全国的に著名です。

江戸城初の刃傷事件の主人公、豊島明重

「刃傷」といえばなんといっても忠臣蔵、浅野内匠頭ですが、江戸城での「元祖刃傷事件」はなんと豊島明重が起したもの。

[背景]かつては武蔵国に一大勢力を張った名門豊島氏、室町時代に太田道灌との戦いに敗れ没落し、
秀吉の小田原攻めでは味方した北条氏が滅亡後、布川豊島氏は所領を失ってしまいました。豊島頼重も戦死しています。
しかし、文禄3年(1594)に頼重の子、豊島明重は新たな関東の領主となった徳川家康に拝謁して家臣に取り立てられ、
武蔵国の久良岐郡富岡庄を与えられ、元和3年(1617)には御目付役1700石を賜わります。
孝養心の篤い明重は両親の菩提を弔うため富岡八幡宮の近くに慶珊寺(慶珊は母の戒名からとる)を建てたり、
また社殿を造営するなど領民からも厚い信望を得、昔の隆盛を少し取り戻した感がありました。
こうした平和の続く寛永5年(1628)、降って湧いたように起こったのが、江戸城初の刃傷事件です。

[発端] ことの起こりは、当時頭角を表わしていた老中井上正就の嫡子の正利と堺奉行嶋田直時の娘との縁談。
豊島明重がこの仲人の労をとって縁談は着々と調い、いよいよ婚儀の日が近づいたある日・・・。
突然、井上家側から今回の話は無かったことにする、と一方的に破談を申し入れてきたのです。
しかも、井上家では山形22万石の大名・鳥居成次の娘を迎えるというのです。
この裏には、将軍家光の乳母で大奥の支配者春日局の意向があり、井上正就はその申し出を断ることはできませんでした。
これでは、仲人としての明重の面目は丸潰れです。
しかも、嶋田直時の後任の堺奉行に明重が内定していたのに、正就の娘婿の水野守信がこれに決まってしまいました。
納まらないのは明重、井上を問い詰めますが「上意である」と言逃れをするばかり。
明重は、武士としてあるまじき井上の二枚舌と、将軍の威光を傘にした理不尽な横やりに激昂。ある決意を固めます。

[刃傷]そして運命の寛永5年(1628)8月10日。
登城した明重は西の丸廊下で井上正就と出合うや「武士に二言はない」と叫び、一気に脇差を抜き正就を斬り倒します。
驚いた小姓役の青木忠精が背後から羽交いじめにしますが、明重は「もはやこれまで」と脇差を自らの腹に突き刺すと、
刃は背中まで突き抜け青木忠精の腹まで裂いてしまうことに。明重、正就そして巻き添えを食った青木忠精の3人が絶命。
これが江戸城での初の刃傷事件です。赤穂の殿様とちがって遺恨の相手を討てたことがまだしもよかったかも知れません。

[終結]4日後、明重の息子の継重(14歳)も父の殿中刃傷の罪に連座して切腹を命ぜられます。
ここに名門豊島家は断絶となり、富岡の領地は没収されることに。領地を拝領してからわずか30余年後のことでした。
しかし、他の豊島氏一族も連座を免れないところでしたが、この時代はまだ戦国時代の遺風が色濃く残っており、
老中酒井忠勝が武士の遺恨を晴らした明重の行為を称賛して寛大な処置を進言。
明重の家断絶のみで、他の一族は連座を免れました。
また、明重と紀州藩主徳川頼宣とはかねてより交流があり、頼宣は手紙で明重の死を悼んでいます。
さらに明重の遺児は後に紀州藩に仕え、吉宗が将軍になった際に御家人になっています。(Wikipedia ほかより引用)

ちなみに、この刃傷事件は、柴田練三郎の小説「孤剣は折れず」で触れられています(以下、参照)。

孤剣は折れず

「孤剣は折れず」、これも豊島昌三氏よりお借りして読了しました。なかなかの傑作で、楽しみながら読めました。

孤剣は折れず

左がその単行本。当時320円とは隔世の感。分厚い割には文字も小さく、
老眼には辛いけど、昔は、コストパフォーマンスがいいですねえ。
いまの発行なら、上・下で2冊、計5000円くらいするかも。
しかし、この本は、Amazon マーケットプレイスで、文庫本だけ。1円とは悲しい限り。

[あらすじ] 物語の主人公は、浪人で小野一刀流の達人、神子上源四郎。そしてヒロインが、刃傷事件で没落した豊島明重の娘で、生き残りの美人姉妹の妹の美音。源四郎は、斜陽の小野道場の元門下生で柳生道場に鞍替えした剣士を斬ったことなどから柳生に狙われることになります。また父と弟(切腹させられた継重)を死に至らしめた春日の局に一矢報いんとする姉妹の立場が似ていたこともあって、源四郎と美音は惹かれあいます。これに武田信玄の50万両の埋蔵金の話も加わって、豊島氏の再興という夢も膨らみますが、薄幸の姉妹は結局、姉は冷酷な剣豪宮本伊織と家光の妹の広姫との痴情のもつれから惨殺され、妹は源四郎と結ばれるもつかの間、胸の病であの世に。源四郎と柳生一族や伊織との対決が鬼気迫る筆致で記され、一気に読み通せます。

鶴田浩二がもてもての神子上源四郎役、桜町弘子がヒロイン美音、そしてじゃじゃ馬広姫役が美空ひばり、という豪華キャストの東映映画もヒットしたとか(1960年)。

この小説のなかで、柴田錬三郎は、豊島氏について、以下、若干の説明をしています。

豊島家は、遠く桓武平氏の一族たる秩父武常から興っている名門。秩父武常は、天喜2年(1054)、源頼義・義家にしたがって、安倍貞任、宗任を征討するために奥州に転戦して、大いに軍功があり、源氏の姓を賜る。その曾孫清光は武蔵権守に任じ、南武蔵の地に不抜の勢力を張った。

上記は、豊島氏のある一説。桓武平氏の一族だった秩父武常が、いつのまにか源氏の姓?まあ賜姓なんでしょうが・・・。

「吾妻鏡」に秩父清光が、その子清重とともに、源頼朝の平家追討の軍に馳せ参じて、武勲をたてたことが記されている。鎌倉時代に入って、豊島氏は、豊島城(平塚城)に拠って、河越・畠山・江戸氏らとともに、関東武士として、その武名を誇る。また石神井城・練馬城を築く。室町時代に入って、文明9年(1477)、豊島勘解由左衛門尉泰経は、太田道灌と戦って敗北し、400年の長きに渉って支配してきた所領ことごとくを失う。それから約40年後に、豊島頼継は、下総国府川城に拠って、先祖の武蔵を常総の野にあらたにせんと努めた。

太田道灌に破れた「元平氏の豊島氏」が、40年後に府川城にきた豊島氏と果たして同一の子孫かどうかは疑問。
布川は「もともと源氏の豊島氏」の説もあり、戦国時代以前が隆盛期だった豊島氏の出自やその後は諸説紛紛です。

豊島家と改修記念碑

先ほどの豊島主膳「為父菩提之也」碑の一角はほかにも豊島氏関連の墓碑が建てられ、1つの小コーナーとなっています。
「為父菩提之也」碑に向かって左脇には、豊島頼継の遠孫である豊島浅吉氏造立の改修記念碑も建てられています。
碑には、「来見寺開基豊島頼継公の遠忌400年に当たり墳墓を修理」とあり、昭和34年(1959)5月の造立。
ただし、前述の赤松宗旦の 豊島氏の位牌 では、頼継の没年は永禄6年(1563)6月なので、4年の食い違いがあります。
ちなみに、豊島浅吉氏は豊島昌三氏のお父上。厖大な浅吉ノートも拝見しました。ご存命中にお会いしたかったですね。

豊島家 改修記念碑

なお、豊島氏に関しては系図等諸説あり、不明な点が多いようです。以下が精しく調べていますが・・・→ いんざい新報

豊島家コーナー手前に1基、宝篋印塔が見えます。豊島家とは関連なさそうですが、墓塔でもないので以下、紹介します。

宝篋印塔

宝篋印塔

塔身の部分に「經王塔」とありますが、名称的には宝篋印塔が妥当でしょうか。

基礎部分正面に以下のように銘文が彫られています。
宝永4年(1707)3月の造立。「無染」は当時の11代住職名です。

一部読みづらい個所もありますが、塔は固定され右側面はぴったりと隣接。
確認できないので、右側面に続く文字があったとしても判読できません。

宝篋印塔基礎

一乗妙典功徳無量
一字一石寶塔之中
旹寶永四丁亥三月良晨
施主當郷馬場世加源八
瑞龍山來見寺無染関□□

本体: 高193cm、幅72cm、厚70cm。基礎: 68cm、幅73cm、厚73cm。

▼ 無縁塔最上段の右手は、上記のほかは、墓碑・墓塔ばかりのようですので、今度は、中央から左手のほうを見てみます。

久保田一夢斎

久保田一夢斎の寿蔵碑区画

上記の豊島氏のコーナーの反対側、
無縁塔中央石段を上って左のところに
久保田一夢斎の寿蔵碑があります。久保田一夢斎は、
布川に俳諧の葛飾派の流れを注いだ溝口素丸の門人で、
布川下柳宿出身の武術家だったといわれています。
小林一茶も溝口素丸を師と仰いだということですから、
久保田一夢斎と一茶は同門ということになります。
小林一茶と利根町寿蔵碑、発見 参照)

なお、布川出身の久保田一夢斎ですが、
現在、千葉県匝瑳郡の直系子孫が檀家となっているとのこと。
墓碑がこの「無縁」塔にあるのは不思議な気がします。

寿蔵碑

久保田一夢斎の寿蔵碑表

[碑表]

ほかの墓石が隣接していますので、真正面からは撮れません。
これも、間近で見るとかなり大きいのですぐ目につきます。

中央に「一夢齋拳覺全頭居士
右に「茅花打止てたのしや筆つ花
左に「夢さめて広野にあそぶ胡蝶かな  天地菴 素丸

「茅花打ち」とは春に茅花(ツバナ=チガヤ)を抜いてそれに針を刺し、
畳に散らしたものを交互に打ち刺し、取った数を競う遊び。
昭和初期までこの地区の子供たちの遊びとして盛んでした。
武術家から俳諧の道へ進んだ一夢斎の心境を示した句でしょうか。

久保田一夢斎の寿蔵碑左側面

[左側面]

通路があるので、見やすく、撮りやすい左側面です。

上部に「同會」とあり、下部に「靈位」。
文政五午十月六日」、文政5年(1822)10月6日が、「道岳泰翁信士
嘉永五子八月十三日」、嘉永5年(1852)8月13日が、「楚曲妙昌信女

久保田一夢齋夫妻の没年と戒名と思われます。
これより前の安永10年(1781)に
一夢齋自らによってこの寿蔵碑が建てられました。

さて、碑の右側面から裏面にかけて、
かなりの長文で一夢齋の心境が語られています。
白文が混在した文章になっています。

下は、左から、右側面、右側面の3分割写真を接合したもの、裏面の上部、の写真です。
背後にコンクリート塀が近接しているなど撮影は困難で、しかも左側面のようには読み取れません。
欠損している箇所もあります。読み下し文など、一部、『利根町の文化学芸碑』から引用・転載します。

久保田一夢斎の寿蔵碑右側面 久保田一夢斎の寿蔵碑右側面 久保田一夢斎の寿蔵碑裏面

右側面・裏面の碑文

[右側面]□は欠損。

進退有時唯住天我元考往昔武門也といへど時移星去て農を業とす即いつしか
刀剣術を好十一歳春同所香取吉左衛門門に入天流之居合□□鞘出を習十五歳にして
常州下妻下栗村鈴木藤内天流一返流門に入極意に至之所故あり懈怠す壮年に
下総相馬郡中谷村直江仲右衛門森茂影流門に入専学といへとも我為愚甲冑御馬之働に
誤あらんかと武州川越候の家臣匂坂条部左衛門に跪武術導を学しかと甚深にして
未及所に即家督相續すへきよし両親望難背家に帰修業すといへとも奥義に不至非神力
者不可叶三七日断食定命内命廿余減不惜と一百日潔斉して祈願応護難有すてに

[碑陰]□は欠損・風化。

□田影山二流奥義を極今年四十一歳にして門弟五百有余人是正に此神加護な□□
あたへ給所也然而永応護之祈念奉恐入剣術師を逳謹上再拝
夫和哥本朝の古風なりといへとも辺鄙に師なくさればにや光陰早し老身くつ
おれをまたす身しりそくの時ならん今より風流道に老を養はんと幸東都葛飾
天地庵絢堂素丸門に連り古翁之跡をしたへ俳諧に遊事神慮之なす所なり
其有増碑にして神慮の不忘事を子孫につたへ残すといふこと爾
            下総相馬郡布川柳宿
                    久保田太右衛門尉道継
 安永十辛丑年         □月十日

[読み下し文](現代かな)
進退は時に有り、唯天に住す。我元往昔を考えるに武門なりといえども、時移り星霜去りて、農を業とす。即ちいつしか刀剣術を好み、十一歳の春、同所香取吉左右衛門の門に入る。天流居合電光鞘出を習い、十五歳にして常州下妻下栗村の鈴木藤内の天流一返流の門に入り、極意に至りし所、故ありて懈怠す。壮年に下総相馬郡中谷村直江仲右衛門森茂の影流門に入り、専ら学ぶといえども、我愚かなる為に、甲冑御馬の働きに誤りあらんかと、武州川越侯の家臣、匂坂(さきさか)条部左衛門に跪きて武術導を学びしかど、甚深にして未だ及ばざる所に、即ち家督相續すべきよし、両親の望み背き難く家に帰る。修行すといえども奥義に至らず、神力に非ずは叶うべからず、三七日断食、定命の内、命廿余減ずるも惜まずと、一百日潔斎して祈願す。応護有難く、すでに□(欠損)田影山二流の奥義を極め、今年四十一歳にして門弟五百有余人。是正に此の神の加護な□□(風化)与え給う所なり。然れども永き応護の祈念恐れ入り奉り、剣術師を逳り謹んで再拝上(たてまつ)る。
夫れ和哥は本朝の古風なりといえども、辺鄙に師なく、さればにや光陰は早く、老身崩おれをまたず、身退くの時ならん。今より風流道に老いを養わんと、幸い東都葛飾の天地庵絢堂素丸の門に連り、古翁の跡を慕い俳諧に遊ぶ事、神慮のなす所なり。其の有増を碑にして神慮の忘れざる事を子孫につたへ残していうこと爾(しかり)。

下総相馬郡布川柳宿 久保田太右衛門尉道継
 安永十辛丑年 □月十日

[語意]
天流(てんりゅう): 流祖は安土桃山時代の人で常陸の住人斉藤伝鬼坊勝秀。
直江仲右衛門森茂(なおえ・ちゅうえもん・もりしげ): 中谷の直江家は、直江楚興(弘庵)直江楚正(求馬)直江延貞直江真佐雄 を紹介している。直江仲右衛門は久保田一夢斎の壮年時の師ということから、当時は宝暦年間(1751−1763)頃と推定される。直江一族の遠祖と思われる。
影流(かげりゅう): 陰流。室町時代、文明15年(1438)頃、伊勢愛洲氏の一族の愛洲久忠(愛洲移香斎)が編み出した武術の流派で兵法三大源流のひとつ。(Wikipedia)
三七日(さんしちにち): 3×7=21の21日間。法事の三七日(みなぬか)とは別。(Kotobank)
応護(おうご): 仏語。衆生の祈願に応じて、仏や菩薩(ぼさつ)が守り助けること。(goo 辞書)
天地庵絢堂素丸(てんちあん・けんどう・そまる): 正徳3年(1713)−寛政7年(1795)江戸時代中期の俳人。幕臣で、書院番をつとめた。長谷川馬光の門人で其日庵(きじつあん)3代をつぐ。寛延4年(1751)大島蓼太(りょうた)ら雪門系とくんで「続五色墨」をあみ、葛飾派の勢力をきずいた。門人に小林一茶ら。享年83。江戸出身。本姓は吉田。名は勝昌。通称は十太夫。別号に白芹。著作に「説叢(せっそう)大全」など。本名溝口。(日本人名大辞典)
有増(あらまし): ひととおり、おおかた、おおよその意。(Weblio 辞書)
(じょう): 老翁。おきなの意。本来は判官を意味する。(Kotobank)

さて、寿蔵碑の台石を見ると、細かく造立の関係者・団体名が右側面に亘って記されているようですが、上部不鮮明です。

久保田一夢斎の寿蔵碑台石 久保田一夢斎の寿蔵碑台石

本体: 高160cm、幅59cm、厚45cm。台石: 高18cm、幅88cm、厚75cm。

久保田太右衛門家墓碑

一夢斎の寿蔵碑の冒頭の写真手前に写っている立方体のような墓碑。これも久保田家の墓碑です。
碑表面に整然と文字が彫られています。読むと、代々剣客の道を歩んできた歴史がうかがえます。

久保田太右衛門の墓碑表

[碑表]
永禄六癸亥六月廿三日兵佐
継家一男継廣弘治三年母方
苗久保田改藤一良武者修行
出永禄五壬戌三月羽州於秋
田病死五弟雅成長兵庫時継
自浪士称仙客業八十才至而
兵左衛門改同嫡兵作継利右
故中平分家隠居後行帰本

永禄六=1563、弘治三=1557
永禄五=1562

[読み下し文]
永禄六癸亥六月二十三日、兵佐家を継ぐ、一男継広弘治三年に母方の苗(びょう)久保田と改め、藤一良武者修行に出て、永禄五三月羽州秋田に於て病死す。五弟雅成、長じて兵庫時継は自から浪士仙客と称す。八十歳に至りて兵左衛門と改め、同嫡兵作利右を継ぐ。故に中平分家隠居後行きて本に帰る。

左から墓碑の右側面、左側面、そして裏面。銘文を読んでみるとちょっと不可解なことが・・・。

久保田太右衛門の墓碑右側面 久保田太右衛門の墓碑左側面 久保田太右衛門の墓碑裏面

[右側面]
□□□□慶安元戊子十一月五日
寒清軒徹心全冬居士
□□元禄六癸酉五月廿三日
□□延宝元癸丑八月十九日
□□享保十三年戊申二月六日
□□享保八癸卯八月十七日
□□金質妙芸大姉
□□□□明暦元己未八月廿七日

[左側面]
安永九庚子八月廿三日
□□俗名久保田太右衛門
安永九子六月廿三日
□□俗名右妻高須村吉田太兵衛
□□□□□□□□□□□□□娘三

〔碑裏]
屋道望屋居士
質貞産大姉
全聞髄居士
質貞妃大姉


上記でおかしいのは、ほかはすべて戒名が記されているのに、[左側面]の「端」「吉」は冒頭の1文字だけしかないことです。
これは、すなわちどういうことかというと、「端」「吉」のフルネームというか戒名が列記された墓石が欠落していること。
立方体の墓碑というのはなにかヘンだと思っていましたが、この上に「端」「吉」の暮石が本来載っていたということです。
これはつまり、この墓碑が、俗名「久保田太右衛門」の墓であるということが分かります。一夢斎と同じ代々の名前です。

なお来見寺過去帳によれば、「端」「吉」とある戒名は、端 端岩知的居士、吉 吉誉善慶大姉(太右衛門母)とのことです。

本体: 高52cm、幅36cm、厚36cm。台石上: 高28cm、幅57cm、厚58cm。台石下: 高22cm、幅69cm、厚70cm。

久保田花遊と下総諸家小傅

久保田花遊と下総諸家小傅

天保14年(1843)に女貞園が上梓した『下總諸家小傅』(以下『小傅』)に、
通称太右衛門、久保田花遊が掲載されています。

『下總諸家小傅』

『小傅』は、利根川流域の文化人列伝とも言えるもので、
流山から銚子に至るまで、とくに布川・布佐河岸中心に、
俳諧・国学・医師・和歌・挿花ほか多種に亘って、
秀でた人物を50音順に100名取り上げています。
久保田花遊は36人目に挙げられています。


布川の久保田花遊。通稱は太右衛門。家の名
を麗日園と號す。意を俳諧にもはらふに發
句に云「木犀の香は誰が庭ぞ家つゞき」。

久保田花遊も久保田太右衛門ですが、
家名を継いだ、一夢斎の子孫と思われます。
武士道から風雅の道に進んだのは一夢斎からでしょうか。

▼ さて、久保田一夢齋関連のコーナーから一気に最上段通路の左端に行きます。ここに1基だけ、読誦塔を見つけました。

読誦塔2

読誦塔2

法華千部塔」とあります。赤門脇の「千部経王塔 読誦塔1」と同様の読誦塔の一種。
無縁塔の中央石段上の通路を左に進むと突き当たりに建っています。

ところで、来見寺は禅宗の曹洞宗ですが、法華経との関連はどうなのでしょうか。
一般に法華経とは「南無妙法蓮華経」で、日蓮宗がメインのようですが、
必ずしも日蓮宗だけでなく、そもそもは天台宗の根本経典とも言われます。
これに対し、曹洞宗などの禅宗では、根本経典を定めないことになっていますが、
般若心経を重要視しているようです。
ところが、日本に曹洞宗をもたらした道元は、法華経を最重要視していたようで、
「正法眼蔵」にも法華経が多く引用あるいは参照されています。

廿の異体字

台石に「廿三世」と記されています。23世祖仙和尚の代の造立と思われます。
廿は左のような異体字使用。

下は左から、右側面・左側面・裏面。右側面は「爲當山祠堂立靈有縁無縁等」、
左側面「武州足立郡赤井村松夲氏姓 東都産大定祖先叟」は、祖先和尚が
「武州足立郡蓮沼村昌福寺祖薗和尚の剃徒」であったことと関係がありそうです。
裏面に「維時安政五年 午三月吉辰建之」、安政5年(1858)3月の造立。

読誦塔2右側面 読誦塔2左側面 読誦塔2裏面

本体: 高126cm、幅45cm、厚42cm。台石上: 高45cm、幅77cm、厚75cm。台石下: 高27cm、幅110cm、厚107cm。

歴代住職の墓

無縁塔最上段左手には、紡錘形の石塔がズラリ。卵(無縫)塔と言えば僧侶の墓。つまり、ここは来見寺歴代住職の墓です。
左写真は初代墓碑から見たもの、右は逆に最新の墓碑から見た写真。全28基。初代から28代で、最後は29.30代を併記。
それでは、右端の初代、開山獨峯和尚の墓碑から以下順に紹介します。ほとんど銘文が消えているものばかりですが・・・。
→ 23基目までは、後述の「古文書の歴代住職」を参照しながら見ていくことをお勧めします。

歴代住職の墓・右端より 歴代住職の墓・左端より

▼ 1基目から6基目

歴代住職の墓初代から6代

1基目から6基まで。
つまり初代から第6代住職までの墓碑。

4代目くらいから少し銘文が読めそうです。

開山・二世・三世

左から、初代、2代、3代と続いているわけですが、銘文は風化でまったく読み込みません。
▼ 古文書では、開山 獨峯雄和尚 天正10年(1582)12月7日遷化。ニ世 隆山奥和尚 遷化の年月不詳。
三世 日山舜和尚 慶長20年(1615)正月29日遷化、となっています。(遷化とは高僧の死去の意)

開山 2代 3代

開山本体: 高67cm、幅30cm、厚30cm。二世本体: 高62cm、幅33cm、厚33cm。三世本体: 高63cm、幅36cm、厚36cm。

四世・五世・六世

左から4代、5代、6代。4代は「當寺四代」、5代は「當寺五代」、6代はかすかに「六代」が見えるだけ。
▼ 古文書では、四世 用山養和尚 元和9年(1623)正月16日遷化。五世 格翁和尚 正保3年(1646)遷化。
六世 松岩和尚 慶安元年(1648)正月24日遷化。

4代 5代 6代

四世本体: 高73cm、幅44cm、厚38cm。五世本体: 高65cm、幅33cm、厚29cm。六世本体: 高68cm、幅30cm、厚26cm。

▼ 7基目から12基目

歴代住職の墓7代から12代

左は、前掲「1基目から6基目」の左の6基、
つまり、7代から12代まで。

7代の詳細、といっても、銘文は少なめですが、
以降で説明します。
以下、3基ずつ。

七世・八世・九世

左から7代、8代、9代。7代の銘文は「中興開山一室□大和尚□」、ほかは「當寺八代」「當寺九代」です。
▼ 古文書では、七世 一室和尚 延宝元年(1673)3月27日遷化。八世 奞州和尚 延宝6年(1678)9月29日遷化。
九世 山和尚 正徳3年(1713)3月27遷化。7世一室は確かに合っています。

7代 8代 9代

七世本体: 高65cm、幅46cm、厚44cm。八世本体: 高90cm、幅44cm、厚40cm。九世本体: 高72cm、幅26cm、厚26cm。

十世・十一世・十二世

左から10代、11代、12代。10代の銘文は見えませんが、11代は「當山十一代 寛延四未 閏六月廿二日
ようやく日付が見える塔が。寛延4年(1751)は塔造立年ではなく、11代宗嶽和尚の没年です。12代は「當寺十二代」のみ。
▼ 古文書では、十世 無染和尚 享保14年(1729)10月23日遷化。十一世 宗嶽和尚 寛延4年(1751)6月22日遷化。
十ニ世 骨山和尚 享保18年(1733)5月6日遷化。宗嶽和尚の没年も合っています。

10代 11代 12代

十世本体: 高64cm、幅36cm、厚33cm。十一世本体: 高65cm、幅30cm、厚30cm。十二世本体: 高60cm、幅26cm、厚26cm。

▼ 13基目から18基目

歴代住職の墓13代から18代

後半に入り、背後には、
卒塔婆立のある個所に。

十三世・十四世・十五世

13基目は中央に「前永平當山十三世鷲峰仙大和尚」、左右に「元文四己未□ 五月二十八日」、元文4年(1739)歿。
14基目は「當寺十四世太安長大和尚禪師」「寛保二壬戌天 五月二十八日」、寛保2年(1742)歿。
前記11世宗嶽和尚のほうが長命で12〜14代の後まで生きました。15基目は、また「十五代」しか分かりません。
▼ 古文書では、十三世 鷲峯和尚 元文4年(1739)5月28日遷化。十四世 大安和尚 寛保2年(1742)5月28日遷化。
十五世 日峯和尚 宝暦11年(1761)11月26日、遷化。

13代 14代 15代

十三世本体: 高67cm、幅26cm、厚28cm。十四世本体: 高59cm、幅29cm、厚31cm。十五世本体: 高73cm、幅29cm、厚26cm。

十六世・十七世・十八世

3基とも「當山十六代」、「當山十七代」、「當山十八代」とシンプルな銘文。
ただ1基目16代だけは、「明和五子 三月十五日」、明和5年(1768)の歿年が銘記されています。
▼ 古文書では、十六世 白岩和尚 明和5年(1768)3月15日遷化。十七世 月産和尚 安永8年(1779)6月15日遷化。
十八世 義恩和尚 天明8年(1788)7月7日遷化。

16代 17代 18代

十六世本体: 高68cm、幅35cm、厚33cm。十七世本体: 高66cm、幅34cm、厚36cm。十八世本体: 高75cm、幅33cm、厚33cm。

▼ 19基目から24基目

歴代住職の墓19代から24代

では、次の6基。
19代から24代まで。

十九世・二十世・二十一世

この3基も情報が少ないです。左から順に「當山十九代」、「當山二十代」、「二十一代」だけの刻銘。
▼ 古文書では、十九世 白峯和尚ただし歿年無記名。二十世 諦山和尚 寛政11年(1799)10月24日遷化。
廿一世 承天和尚 文政3年(1820)5月5日遷化。

19代 20代 21代

十九世本体: 高76cm、幅30cm、厚31cm。二十世本体: 高80cm、幅35cm、厚35cm。二十一世本体: 高52cm、幅29cm、厚28cm。

二十二世・二十三世・二十四世

これもシンプルな銘で、情報は少ないのですが、いままでとはほんの少し文言が違います。
最初の「當山二十二代塔」は、塔の文字が付加されています。「當山二十三丗代」は、丗=世の字も付加。
とはいうものの、これらは特別な意味はありません。
▼ 古文書では、22世末山和尚、23世祖仙和尚まで。この時点で両人は存命で没年不詳。時代は幕末・明治から近代。

二十二世本体: 高66cm、幅26cm、厚24cm。二十三世本体: 高58cm、幅30cm、厚28cm。二十四世本体: 高63cm、幅29cm、厚29cm。

22代 23代 24代

▼ 25基目から28基目

歴代住職の墓25代から30代

いよいよ最後の4基。
では、あと4代かと思いきや、
実はちゃんと6代分あるのです。

二十五世・二十六世・二十七世

左から「當山二十五丗代」。次の二十六世に該当する塔は風化のせいか文字が読めません。
少し大きめの3基目は「二十七世忍山大仙大和尚」とあります。明治か大正時代の住職ではないでしょうか。

25代 26代 27代

二十四世本体: 高79cm、幅33cm、厚35cm。二十五世本体: 高64cm、幅28cm、厚28cm。二十六世本体: 高57cm、幅26cm、厚26cm。

二十八世・二十九世・三十世

28・29・30代

いよいよ最後の28基目の塔。
表面に「當山歴住諸大和尚亡僧伽等品位」とあり、何か合同の戒名のような・・・。
それもそのはず、台石表面には以下の二十八世・二十九世・三十世の名が。

二十八世天質正童大和尚 二十九世忠山賢孝大和尚 三十世大丈正夫大和尚
台石左側面には以下。 「前住釐山龍祝大和尚 前住芳隣慧犀大和尚

本体: 高87cm、幅36cm、厚37cm。台石: 高25cm、幅45cm、厚46cm。

28・29・30代台石表面 28・29・30代台石左側面

古文書の歴代住職

當寺世代

前述『総下刕 来見寺起立并御松替由緒』。
後半の11ページに歴代の住職が
當寺世代」と題して紹介されています。
この箇所は比較的解読しやすいと判断し、
以下、拙いながらも結果をご紹介します。

残念なのは、古文書故に当然なのですが、
開山の獨峯和尚から23世祖仙和尚まで。

タヌポンは、浅間神社石祠に彫られた
44世法運が24世の誤りではという仮説を
解きたかったのですが、23世までとは!

24世から現在の31世までの記録は、
どこかにあるのでしょうか。
前記、住職の墓碑(無縫塔)の銘文では、
ほとんどなにも分かりませんね。

以下の表で、白抜き文字部分が原文箇所。(1)〜(69)は、タヌポンの補注です。

住職名 原文 書き下し文
開山 獨峯雄(1)和尚 天正十壬午年十二月七日迁化(2) 天正10年(1582)12月7日遷化
  • (1)獨峯存雄と称される場合もあります。
  • (2)迁化=遷化(せんげ)。高僧などが逝去すること。
ニ世 隆山奥
和尚
慶長年間 迁化ノ年月不詳 征日三日(3) 過厺帳ニ記ス 慶長年間(1596〜1615)。遷化の年月不詳。征日三日、過去帳に記す。
  • (3)征日三日?この意味がよく分かりません。
三世 日山舜
和尚
三刕之産慶長二十年夘正月二十九日迁化米田村久光寺(4)開山ナリ御朱印頂戴ノ㕝ハ前ニ記ス相刕小田原報恩院輪番(5)住勤之 三州の産。慶長20年(1615)正月29日遷化。米田村久光寺開山なり。御朱印頂戴の事は前に記す。相州小田原報恩院輪番、これを住勤す。
  • (4)米田村とは、現・兵庫県高砂市域の印南郡米田村のことでしょうか。(余談ですが、この米田村出身に、宮本武蔵の養子となった田原伊織がいます。伊織は、前述の柴田錬三郎の小説 孤剣は折れず に登場するのでちょっと不思議なシンクロニシティです。慶長17年米田村の田原甚兵衛久光の二男として生まれ・・・とありますが、久光寺が現存しているかどうかは不明ですが、なにか関係があるのかも → 参考 高砂市観光協会のHP
  • (5)小田原報恩院と輪番について
    来見寺の宗派は曹洞宗ですが、最乗寺(南足柄市)系といわれています。文正元年(1466)最乗寺10世住持となった安叟宗楞(あんそうそうりょう)は、総世寺の住持だった時期に最乗寺の輪住制の提言を行いました。門派が繁栄するためには、最乗寺の法泉を汲む法孫たちが、輪次に最乗寺に住持として入院することが必要とし、大綱12派(大綱明宗の法嗣)と無極4派(無極慧通の法嗣)の16派により1世1年の輪住制が実施されました。また、山内の塔頭大慈院(大綱明宗の塔所)は大綱12派が、報恩院(春屋宗能の塔所)は大綱12派のうち春屋宗能の法嗣(春屋七哲といわれる、安叟もその1人)の輪住制が実施されました。なお、曹洞宗は北条氏が庇護し、一族の妻たちが曹洞宗に帰依しています。→ 参考 こんどー君のホームページ[小田原の歴史-11.北条氏時代の産業と文化(最乗寺)]
四世 用山養
和尚
元和九癸亥年正月十六日迁化 元和9年(1623)正月16日遷化
五世 格翁和尚 三門(6)并五百羅漢(7)建立正保三丙戌年迁化 三門ならびに五百羅漢建立。正保3年(1646)遷化。
  • (6)三門=赤門はこれが最初の建立?1623年(4世遷化後)〜1646年(5世遷化)間とは徳川家光の時代。赤く塗る許可は家光が下したもの?
  • (7)五百羅漢は現在見当たりません。
六世 松岩和尚 慶安元戊子年正月廿四日迁化 慶安元年(1648)正月24日遷化
七世 一室和尚 若刕(8)小濱ノ産寛文年中駿刕久能山造営ノ残木ヲ乞請客殿再建立 又相刕小田原報恩院輪番(9)住相勤メ延宝元癸丑年三月二十七日迁化
永平廿六世萬国禅師英俊(10)和尚之嗣也俊ハ円通傑傳(11)ノ開山ナリ
若州小浜の産。寛文年中(1661〜1673)駿州久能山造営の残木を乞請け客殿再建立。又相州小田原報恩院輪番住相勤め、延宝元年(1673)3月27日遷化。
永平(寺)27世萬国禅師英俊和尚の嗣なり。俊は円通傑伝の開山なり。
  • (8)若州とは、現福井県の若狭国
  • (9)前述(4)参照
  • (10)永平寺の第26世は、天海良義(萬斛大鐘禅師)。第27世が嶺巖英峻(萬照高國禅師)なので、27世の誤りか。
  • (11)埼玉県川口市の曹洞宗永平寺直末の寺、傑伝寺と思われます。
八世 (12)州和尚 延宝年中衆寮并方丈再建立延宝六戊午年九月二十九日迁化
釐山代 齋堂并銅鐘大小二口建立(13)
延宝年中(1673〜1681)衆寮ならびに方丈再建立。延宝6年(1678)9月29日遷化。
厘山代 齋堂ならびに銅鐘大小二口建立。
  • (12)この文字は何の異体字か不明。「大」の下に「集」のような字。奪に似てますが・・・。読み方も不明。
  • (13)この一行は、8世と9世の間に独立して記されています。厘山とは本来9世となるべき人だった?
九世 靍山和尚 元禄十六辛(14)未年三月三門再建立(15)鶴山者貞享四丁夘年三月武江(16)之石雲寺ヨリ當寺ヘ進山(17)古三門之頽敗ヲ見テ復古ノ念ヲ發シ研精覃恩(18)シテ山中ノ耆宿(19)長老并諸旦越(20)ニ謀テ乞材乞萱募助成自拽石搬土遂ニ山門成就シテ山歸然トシテ存尓今三門上ニ五百羅漢ヲ安置スルモノハ格翁(21)代彫刻ノ古五百阿羅漢(22)ナリ此ノ時ノ普請奉行但刕(23)ノ産無染長老(24)也正徳三巳年三月二十七日迁化多宝(25)十五世ナリ 元禄16年(1703)3月三門再建立。鶴山は貞享4年(1687)3月武江の石雲寺より当寺ヘ進山、古三門の頽敗を見て復古の念を発し、研精覃恩して山中の耆宿長老ならびに諸旦越に謀って、材を乞い、萱を乞い、助成を募り、自ら石を曳き、土を搬び、遂に山門成就して、山帰然として存するに、今三門上に五百羅漢を安置するものは格翁代彫刻の古五百阿羅漢なり。此の時の普請奉行、但州の産、無染長老なり。正徳3年(1713)3月27(鶴山)遷化。多宝(院)15世なり。
  • (14)元禄16年は癸未年、辛は誤り。
  • (15)あっ、もう三門再建立されています。最初は5世格翁和尚のときだから・・・50年は経っていますね。
  • (16)武江とは、武蔵国江戸の省略形。
  • (17)進山とは、僧侶が一寺の住職となること。
  • (18)研精覃恩(けんせいたんおん)。研精は、詳しく研究調査すること。覃思は熟慮すること。
  • (19)耆宿(きしゅく)とは、学徳が高く、人望のある年寄り。
  • (20)旦越(だんおち)は、施主。檀那(旦那)と同意語として混用。寺の開基となるなど仏教を後援する人。
  • (21)前述5世格翁和尚
  • (22)五百阿羅漢は、五百羅漢と同。
  • (23)但州は、但馬(たじま)国。
  • (24)無染長老は次の10世和尚
  • (25)現茨城県下妻市下妻乙1035(Tel: 0296−44−3365)の多宝院と思われます。
十世 無染和尚 宝永五戊子年三月二十三日三ヶ寺(26)ニ奏シテ當寺随意會ノ奥行ノ免轒ヲ申降ス(27)無染ハ但刕隆国寺(28)ヨリ當寺ヘ進山即鶴山(29)ノ法徒也多宝院ニ移轉シテ享保十四己酉年十月廿三日迁化ス 宝永5年(1708)3月23日三ヶ寺に奏して当寺随意会の奥行の免轒を申降す。無染は但州隆国寺より当寺ヘ進山、即ち、鶴山の法徒なり。多宝院に移転して享保14年(1729)10月23日遷化す。
  • (26)この場合の三ヶ寺とは?ちなみに曹洞宗の関三刹は、大中寺(下野国)、総寧寺(下総国)、龍穏寺(武蔵国)。この配下に、江戸三箇寺(えどさんかじ)の總泉寺、青松寺、泉岳寺があります。合わせて、「関府六箇寺」と呼びます。
  • (27)奥行の免轒を申降す・・・とはよく分かりませんが、何かの免除を申請して許可されたということ?
  • (28)但州隆国寺は、現在の通称 「但馬ぼたん寺」隆国寺 でしょうか。
  • (29)鶴山は、前述9世和尚。
十一世 宗嶽和尚 播刕ノ産也享保ニ丁酉年九月二日當寺ハ利根川筋水腐(30)場ニ附随會ノ義豊年ヲ見合心ノ侭ニ奥行仕度由被願即願書ノ裏書ニ総寧寺(31)ヨリ御聞済ノ印證被下候本紙別ニ有之當寺ヨリ多宝院江移轉ス隠居シテ當寺ニ於テ寛延四辛未年六月廿二日迁化 播州の産なり。享保2年(1717)9月2日、当寺は利根川筋水腐場に付き、随会の義、豊年を見合わせ、心の侭に奥行仕度の由、願われる。即ち願書の裏書に総寧寺より御聞済の印証を下され候。本紙別にこれ有り。当寺より多宝院へ移転す。隠居して当寺に於て寛延4年(1751)6月22日遷化。
  • (30)水腐とは、水害で稲が成熟しないことで、この寺領域はたびたびの水害に悩まされていたということ。
  • (31)総寧寺は、千葉県市川市国府台にある曹洞宗の寺院。関三刹として曹洞宗の宗政を司りました。
  •  ※ 享保10年(1725)3月に、宗嶽和尚は、結界石 を建てています。
十ニ世 骨山和尚 享保十八癸丑年五月六日迁化ス 享保18年(1733)5月6日遷化す。
十三世 鷲峯和尚 元文四己未年五月二十八日迁化ス 元文4年(1739)5月28日遷化す。
十四世 大安和尚 寛保三(32)壬戌年五月二十八日迁化ス 寛保2年(1742)5月28日遷化す。
  • (32)寛保の壬戌年は3年ではなく2年。誤記と思われます。
十五世 日峯和尚 當国一部村正泉寺(33)ヨリ進山宝暦十一辛巳年(34)十一月二十六日多宝院移轉ニテ迁化ス 当国一部村正泉寺より進山。宝暦11年(1761)11月26日、多宝院移転にて遷化す。
  • (33)正泉寺は、現在、千葉県我孫子市湖北台9丁目12−36(Tel: 04−7188−0030)。
  • (34)現在の赤門は宝暦5年(1755)の建立。ここには特記されてはいませんが、この日峯和尚の代の作?この前が前述の元禄16年(1703)鶴山和尚代で、やはり50年ほどの時間差がありますが・・・。
十六世 白岩和尚 表門再建立(35)古門ハ古渡奥禅寺日洲和尚進送(36)相刕報恩院輪番住勤之宝暦八戊寅年九月道了宮再建(37)古社ハ板宮(38)也寛延三庚午年道了宮愛宕山秋葉山三社(39)ヲ作御遷宮 明和元庚申(40)年塔司脩善院再建
川原崎西福寺(41)ヨリ當寺江進山當国佐沼ノ産ナリ明和五戊子年三月十五日迁化
表門再建立。古門は古渡し、奥禅寺日洲和尚に進送。相州報恩院輪番、これを住勤す。宝暦8年(1758)9月道了宮再建。古社は板宮なり。寛延3年(1750)道了宮、愛宕山、秋葉山、三社を作り、御遷宮。明和元年(1764)塔司脩善院再建。
川原崎西福寺より当寺へ進山。当国佐沼の産なり。明和5年(1768)3月15日遷化。
  • (35)表門再建立。これが現在の赤門でしょう。白岩和尚の代でした。この方はいろいろやられています。
  • (36)奥禅寺日洲和尚とは、不明ですが、ここに古い門を送ったようですが、朱塗りでもいいのでしょうか?
  • (37)道了宮再建。後述の 道了堂 項目で、白岩和尚銘の手水などを紹介していますが、なんと道了堂自体も再建しているわけですね。しかし、道了堂ではなく道了宮とは神道の建物のような・・・。
  • (38)古い道了堂は板葺きだったようですが、新しい堂は?
  • (39)道了宮愛宕山秋葉山三社の「愛宕山」「秋葉山」が不明です。
  • (40)庚申とありますが、甲申の誤記。
  • (41)川原崎西福寺(さいふくじ)は、現在 〒300−2661 茨城県つくば市上河原崎428(Tel: 029−847−6906)
十七世 月産和尚 安永五丙申年八月廿一日相越ニ募テ十二時ノ大鐘(42)ヲ鑄ル銘文鐘ニ記ス安永八亥年四月寺領水腐ニ付當亥年ヨリ八ヶ年ノ間随會延年ノ願三ヶ寺江申立多宝院添書別記ニ有之月産ハ下栗法光寺(43)ヨリ遺書ニテ當寺ニ進山布川ノ産也宗岳ノ徒白岩ノ法弟(44)ナリ安永八己亥年六月十五日迁化 安永5年(1776)8月21日相越に募りて、12時の大鐘を鑄る。銘文、鐘に記す。安永8年(1779)4月、寺領水腐に付き、当年より8ヶ年ノ間、随会延年の願、三ヶ寺へ申立る。多宝院添書別記にこれ有り。月産は下栗法光寺より、遺書にて当寺に進山。布川の産なり。宗岳の徒、白岩の法弟なり。安永8年(1779)6月15日遷化。
  • (42)12時の大鐘とは?子〜亥の12種の時刻を知らすための、という意味でしょうか。
  • (43)下栗法光寺は、〒304−0811 茨城県下妻市下栗407 (Tel: 0296−44−1417)→ 法光寺
  • (44)宗岳は、11世宗嶽和尚。白岩は16世。
十八世 義恩和尚 當国六軒(45)ノ産也十六世白岩ノ徒遺書ニテ我孫子真陽寺(46)ヨリ進山天明八戊申年七月七日於當寺迁化 当国六軒の産なり。16世白岩の徒。遺書にて我孫子真陽寺より進山。天明8年(1788)7月7日当寺に於いて遷化。
  • (45)六軒、茨城県では、神栖市と石岡市に同名の地があります。
  • (46)我孫子真陽寺は、現在不明。
十九世 白峯和尚 武刕ノ産當所押付大谷氏俗縁有之由 明和七庚寅年七月奥刕二本松正法寺(47)住同八夘年十一月十日同所常圓寺(48)ニ進山安永七戌年十月三春(49)龍光寺(50)ニ轉ス法地トス安永九庚子年十一月二十六日武刕秩父龍峯山清泉寺(51)ニ移轉ス天明八戊申年十二月二十四日清泉寺ヨリ遺書ニテ當寺江移轉ス十六世白岩和尚ノ剃徒十才ノ時常刕奥禅寺日洲(52)ノ徒ト成ル本師ハ江戸芝青松寺(53)惠恩和尚 武州の産。当所押付大谷氏俗縁有の由。明和7年(1770)7月、奥州二本松正法寺住。同8年(1771)11月10日同所常円寺に進山。安永7年(1778)10月3日龍光寺に転す。法地とす。安永9年(1780)11月26日、武州秩父龍峯山清泉寺に移転す。天明8年(1788)12月24日清泉寺より遺書にて当寺へ移転す。16世白岩和尚の剃徒。10才の時、常州奥禅寺日洲の徒と成る。本師は江戸芝青松寺惠恩和尚。
  • (47)二本松正法寺(しょうぼうじ)、福島県二本松市正法寺町があります。
  • (48)常円寺は、現在、二本松市ではなく、福島市と郡山市に同名の寺があります。
  • (49)十月三春、意味不明。10月3日の誤記か。
  • (50)龍光寺は、福島県郡山市にあります。
  • (51)清泉寺は、〒369−1503 埼玉県秩父市下吉田7570(Tel: 0494−77−0107)
  • (52)常州奥禅寺日洲。常州は、常陸国の略称。奥禅寺日洲は16世白岩和尚の項目にも出てきました。
  • (53)江戸芝青松寺は、江戸三箇寺の1つ。芝ではなく、東京都港区愛宕2−4−7→ 青松寺
二十世 諦山和尚 武刕ノ産同国安立郡赤井圓通寺(54)ヨリ寛政ニ戌年當寺江移轉寛政十一己未年十月二十四日迁化 武州の産。同国安立郡赤井円通寺より、寛政2年(1790)当寺へ移転。寛政11年(1799)10月24日遷化。
  • (54)武州安立郡赤井円通寺は、北安立郡から埼玉県川口市管轄となり現存しています。〒334−0073 埼玉県川口市赤井3丁目9−39 (Tel: 048−281−1705)
廿一世 承天和尚 越後五泉(55)ノ産也本師ハ龍穏寺(56)四十三世惠恩和尚(57)ナリ寛政十一未年相刕鎌倉郡玉縄天嶽院(58)ヨリ遺書ニテ當寺ニ移轉ス文政三庚辰年五月五日迁化住職中石垣建立未半シテ迁化 越後五泉の産なり。本師は龍穏寺43世惠恩和尚なり。寛政11年(1799)相州鎌倉郡玉縄天嶽院より遺書にて当寺に移転す。文政3年(1820)5月5日遷化。住職中、石垣建立、未だ半ばにして遷化。
  • (55)越後五泉、現在の新潟県五泉市(ごせんし)は、下越地方にある市。
  • (56)龍穏寺。10世無染和尚の項目でも触れた、下野国の大中寺、下総の總寧寺と並ぶ関三刹の1つ(武蔵国)。この三ヶ寺より永平寺の住職が選任されます。〒350−0425 埼玉県入間郡越生町龍ケ谷452 (Tel: 049−292−3855)
  • (57)惠恩は、19世白峯の本師で青松寺の和尚とありましたが、その後、龍穏寺43世となったようです。
  • (58)玉縄天嶽院。玉縄城跡の西側に天嶽院があります。玉縄城主北条綱成、小田原の北条早雲ゆかりの寺。神奈川県藤沢市渡内1−1−1
廿ニ世 末山和尚 武刕高井戸ノ産也本師二十世惠観和尚(59)天保三辰年武刕足立郡赤井圓通寺(60)ヨリ遺書ニテ當寺へ移轉ス天保四巳年七月ヨリ同五午年七月迠相刕報恩院輪番住勤之天保六未年四月廿日於當寺迁化住職中石垣再建成ル
(61)相刕小田原報恩院輪番天正年中三世代初メテ勤之。寛文年中七世代勤之。寛延年中十六世代勤之。天保年中ニ十ニ世代(62)勤之。以上四度年。暦八十五年目(63)に當ル布佐臺ニ山林アリ小田原勤番ノ賄金ニ伐木シテ價調達ス
武州高井戸の産なり。本師20世惠観和尚。天保3年(1832)武州足立郡赤井円通寺より遺書にて当寺へ移転す。天保4年(1833)7月より同5年(1834)7月まで、相州報恩院輪番、これを住勤す。天保6年(1835)4月20日当寺に於いて遷化。住職中、石垣再建成る。
○相州小田原報恩院輪番、天正年中(1573〜1593)3世代初めてこれを勤む。寛文年中(1661〜1673)7世代これを勤む。寛延年中(1748〜1751)16世代これを勤む。天保年中(1830〜1844)22世代これを勤む。以上4度年。暦85年目に当る。布佐台に山林あり、小田原勤番の賄金に伐木して価を調達す。
  • (59)20世惠観とは、どの寺の20世でしょうか。
  • (60)武州足立郡赤井円通寺は、20世諦山和尚の項目参照。
  • (61)冒頭に○印が付き、以下輪番の記録5項目の後に句点が付いています。
  • (62)天正年中(1573〜1593)3世代や寛延年中(1748〜1751)16世代等の意味は、当該期間中に数世代が勤めたということではなく、その期間年代までに延べ何世代が担当したかの数のようです。
  • (63)4度年の分類基準が不明。暦85年目とはトータル22世代が勤めた延べ年数でしょうか。
廿三世 祖仙和尚 東都ノ産也武刕足立郡蓮沼村昌福寺(64)祖薗和尚ノ剃徒東都市ヶ谷洞雲寺(65)ニテ副法文化九壬申年十一月武刕入間郡大塚村全徳寺(66)初住文化十二亥年十一月上総国夷隅郡山田村天徳寺(67)江移轉文化十三子年二月相刕鎌倉郡玉縄郷天嶽院江遺書ニテ移轉天保六未年八月遺書ニテ當寺ヘ移轉ス天保九戌年 御朱印御改奉請弘化元辰年宝藏再建同ニ巳年井戸堀替嗚呼時ナル哉弘化三丙午年十二月三日伽藍不残焼失ス住職中十六羅漢(68)再建随會番六度法㕝會三度嘉永七寅年九月御朱印御改奉請 同年十一月(69)仮本堂再建 東都の産なり。武州足立郡蓮沼村昌福寺祖薗和尚の剃徒。東都市ヶ谷洞雲寺にて副法。文化9年(1812)11月武州入間郡大塚村全徳寺初住。文化12年(1815)11月上総国夷隅郡山田村天徳寺へ移転。文化13年(1816)2月相州鎌倉郡玉縄郷天嶽院へ遺書にて移転。天保6年(1835)8月遺書にて当寺へ移転す。天保9年(1838) 御朱印御改奉請。弘化元年(1844)宝藏再建。同2年(1845)井戸堀替、嗚呼時なる哉。弘化3年(1846)12月3日伽藍残らず焼失す。住職中、十六羅漢再建。随会番6度、法事会3度。嘉永7年(1854)9月御朱印御改奉請 同年11月仮本堂再建。
  • (64)武州足立郡蓮沼村昌福寺は、現在地埼玉県川口市本蓮1−12−39。
  • (65)東都市ヶ谷洞雲寺は、〒162−0844 東京都新宿区市ヶ谷八幡町16。
  • (66)武州入間郡大塚村全徳寺は、〒359−1152 所沢市北野2508 (Tel: 04−2948−1439)。
  • (67)上総国夷隅郡山田村天徳寺は、〒298−0025 千葉県いすみ市山田1886。
  • (68)十六羅漢も、現在不明。
  • (69)仮本堂再建は嘉永7年11月ですが、同月27日に改元で安政元年となりますので直前の再建です。

上記歴代住職の略歴紹介の直後に、2ページで、23世祖仙のコメントが付いています。以下、口語訳で紹介します。

さて当山は、開祖獨峯和尚よりこのかた、相続いて23代連綿たる事、由緒に記するが如し。然るに、弘化3(丙午)の歳(1846)12月、火災の為に山門及び殿堂悉く灰塵と成る。嗚呼時なるかな。然りと雖も、表裏の2門、大鐘堂ならびに什宝器財事無く存在せり。忽ち再建の事、議ると雖も、不幸にて凶作年を累ね、造営空しく引き延す。茲に、嘉永7(甲寅)の歳(1854)陽春に思いを起し、工みに仰せて、仮本堂を建つ。季冬に至て全く成る。これに因て、御朱印 御証文 什物の器品 諸書物ならびに過去帳由緒等、改め納めしむ。以来、代々の旧例に任せ、歳々春秋の両度、村長檀頭集会し、永々破損無からんか改め置かるべき事とす。

無縁塔雛壇の石塔

▼ さて、後述の「道了堂」を除いて、来見寺のほぼ全体を見てきたわけですが、ちょっと気になることがあります。
たとえば徳満寺の末寺で廃寺となった場所に集会場などがあり、それらには数多くの石仏を見かけました。
ところが、来見寺にはこれまで、ほかではよく見かけた十九夜塔や庚申塔等がまだ1基も見つかっていないのです。
これらは「民間信仰」の象徴のようなもので、「家康公縁の寺」には無縁のものなのでしょうか。

▼ あっと、「無縁」といえば、この無縁塔。1300基もあるというその中にもしかして・・・。
しかし、比較的検分しやすい最上段の通路の部分には前述の読誦塔や宝篋印塔くらいでした。
入口の石段附近には地蔵菩薩の万霊塔があり、これも紹介しましたが、やはり月待塔などは見かけません。
当初訪問した時も、だいたい遠目からおおよそのものはざっと見ていたのですが、戒名のある墓塔ばかり目につきました。

▼ 中段は、足場がなく近づいて見ることはできません。その中にもしあるとしたら、あきらめもつきますが・・・。
でも、もういちど、せめて最下段や2段目くらいは、ひとつひとつ丁寧に見てみる価値はありそうな、と。
とりあえず、下からでも、目視でできる範囲で「だめもとで」見てみることにしました。結果は・・・以下。

▼ 結論から言いますと、石段より左方最下段に3基、右方に2基、見つけました。写真の赤の↓が目印。
2段目・3段目くらいまでは目視で調べましたが、墓塔ばかり。中段は近寄れず、ムリでしたがこれも墓塔ばかりの様子。
でも、十九夜塔・庚申塔を1基ずつ見つけました。また石段左方の3基はいずれも廻国塔でした。以下、個別に紹介します。

無縁塔石段より左 無縁塔石段より右

十九夜塔1

石段右方を中央部分から右へと見ていきましたが、なんと4基目に幸先よく見つけました。しかし、十九夜塔はこれ1基のみ。
この塔の上に2基、2基右に1基、半跏思惟の如意輪観音刻像塔が見えるのですが、それらはいずれも墓塔でした。

よく見かける光背型ではなく珍しい四角柱型で、そのため比較的小さめの如意輪観音像が上部に彫られています。
その下中央に「奉待十九夜塔」、左右に「寛政十二庚申年 春三月如意珠日」、寛政12年(1800)3月の造立です。
「如意珠日」とはここで初めて見る表現ですが、吉日と同義です。観音の像容といい、どことなく、格調のある十九夜塔です。
四角柱なので左右側面に銘文があるかも知れませんが、左右が詰まっている上、しっかり固定されているため見られません。

十九夜塔1 石段より右の7基

本体: 高75cm、幅26cm、厚17cm。

庚申塔

庚申塔 庚申塔左側面

最終確認調査のときに見つけました。
ちょっと変わった像容でしたので、
墓塔とは違うものではないかと。

下から2段目、中央石段から数えて、22基目。
当初、合掌の像容を見て馬頭観音と推定、
でも、邪鬼を踏みつけていますので、
青面金剛を刻像した庚申塔と判明。

幸運にも左側面が見えます。
天明八申年正月吉日
天明8年(1788)正月の造立。
この時代は1月は必ず正月と記しますね。

1面6臂の青面金剛は、三又の戈と宝珠、
中央で合掌、残りは弓と矢と思います。
三猿やショケラは見えませんが、上部に、
定番の日月雲の浮彫りがされています。

本体: 高57cm、幅30cm、厚16cm。

中央石段から右は、上記の2基だけ、(いま[=2016/07/17 現在]のところ)見つけました。次は石段の左方を見てみます。
ちなみに、前から1段目は、右方が37基、左方が41基見えますが、それぞれ大きさが異なるので2段目は基数が違います。
このことは3段目以降も同様で、そればかりではなく、ひとつの段に2基重ねられている場合や、破損したものもあります。
約10段ほどありますので単純計算では(37+41)×10=780基ですが、最上階の基数を考えるともっと多いと思います。
最上階だけで何基あるか数えていませんが、とにかくトータル1300基とあるので、全基確認制覇したいところですが・・・。

廻国塔1

無縁塔石段より左廻国塔1と2

石段右方4基目に幸先よく
十九夜塔を見つけましたが、
そのあと、右方は2.3段目も含めて
当初1基も見つからず、全滅です。
庚申塔は後日の最終確認で発見。

石段中央に戻り、こんどは左方を
右から見ていきましたが、
見えるのはやはり戒名ばかり。
中盤を過ぎて、19基目あたりに突然、
風化の少ない美しい笠付の廻国塔が。
この様子だと、明治など近代のものか
と思いましたが・・・。

左写真、廻国塔1が右の赤の↓
それから左に7基目が廻国塔2。

廻国塔1

表面に「奉納大乘妙典日本回國」とあります。
当然、左右側面が見たくなるわけですが、これは1.2段目だけに可能な検分。
というのは、1段目だけ前部に30〜50cmほどのスペースがあり
石段脇からなんとか渡っていけるのです。中段より上は狭いものしかありません。

そこで、いったん石段まで戻り、通路を渡って近づき撮影したのが、
下の右側面と左側面および裏面。しかし、いずれも最下部は確認できません。

右側面「正コ元辛夘十一月□□」、正徳元年(1711)11月と外見より古い造立。
11月は上から隙間を覗いて確認。隙間は下に行くほど狭くなり1cm程度です。
右側面最下部に願主や廻国行者の名が刻まれているかも知れませんが、確認不能。

左側面は「周遍法界平等利益」。利益は「りやく」と読みます。念のため。

裏面は「瑞龍山中立之」。
江戸後期から明治以前の廻国塔はかなりしっかりした信仰体系だったようですが、
「瑞龍山中」という来見寺自体の組織もあったようですね。

本体: 高119cm、幅54cm、厚43cm。

廻国塔1右側面 廻国塔1左側面 廻国塔1裏面

廻国塔2

これは、上記の検分後、再度石段に戻り、地上から見て、見つけたもの。したがって正面撮影後、また石段に向かい、
「30cmの渡り廊下」を伝って・・・。高所恐怖症なので、この程度の高さでもぶるぶる、です。

廻国塔2 廻国塔2左側面

しかし、その努力も効果なし。
というのは、右側面はまったく見えないし、
左側面は写真のとおり文字は読めません。
まあ、サイズだけ測れたのが幸いでした。
表面に造立年も刻まれていましたし。

正面「奉納大乘妙典日本回國塔」、邪魔な
前の石塊は、これも固定されて動かせません。

正面右に「寶暦九龍集己卯九月吉日
宝暦9年(1759)9月の造立。
龍集は紀年(年号)末尾に用いる言葉。
左は「乃至㳒界平等利益」。
前記「周遍法界平等利益」と同様の回向文。

左側面は、上部に戒名、下部に享保の没年が
記されているように見受けました。
廻国行者のものかも知れません。

本体: 高82cm、幅34cm、厚21cm。

廻国塔3

無縁塔石段より左廻国塔3

前記の「渡り廊下」での検分を終えて、
地上に戻った時からいやな予感。
それは、的中しました。

全41基のもう左端に近いところに
もう1基、「地上から」発見。

正面からの撮影を終えて、躊躇。
「またマツノロウカをつたって行くの?」
徒労になるかも知れないのに・・・。

でも、サイズだけは確実に測れるから、
と気を取り直して、石段に向かいます。
(いったい何往復するの、効率悪いな)

脚立があればいいのですが、
バイクに積むには大きすぎるし・・・。
ここをよじ登る体力はないし、
昇れてもとび降りるのは怖いし・・・。

正面中央に「奉納大乘妙典日本廻國」。その左右に定番の「天下泰平 國土安全」。笠付きの立派な廻国塔です。
造立年を知りたくて上に。その甲斐あり左右側面で「元文五庚申歳 十月吉祥日」、元文5年(1740)10月造立が判明。
問題は、やはり左右側面それぞれの最下部。目視で「布川村東」。「願主 了西」了西も目視ですが誤読の可能性ありです。
今度はクルマに脚立を積んで、再確認しに行きましょうか。しかし、あまりにも隙間がないので徒労に終わりそうです。

廻国塔3 廻国塔3右側面 廻国塔3左側面

本体: 高91cm、幅43cm、厚36cm。

▼ ということで、無縁塔の雛壇の簡単な調査をいったんは終えましたが、ちょっと未消化です。
当初、庚申塔がまったくないのは、上の 浅間神社 に集められたからかなと思いました(再訪問時に1基発見)。
ただ、十六夜塔や十五夜塔、子安観音塔、馬頭観音塔などがまったくないのは、ちょっと違和感があります。
いつかまた、性懲りもなく、ここを訪ねて、雛壇中段を未練がましく見上げているタヌポンを予知したりしています。

無縁塔からの眺望

石段上に上って振り向くと絶景。下左は本堂方面、右は前方にコミュニティセンターの公孫樹が見えます。

無縁塔石段上から本堂を見る 無縁塔石段上からコミュニティセンターを見る

道了堂

道了堂への石段

道了堂への石段

さて、無縁塔からまた少し本堂方面に戻ろうとしたとき、
無縁塔と本堂の間の通路奥に石段を見つけました。
左写真の左手が無縁塔、右手の建物の2階が本堂です。
実は、石段を上った後で分かったことですが、
本堂の建物右手にも石段があり同じ場所に上がれます。
もうひとつの石段

踊場

道了堂への石段踊場手前

石段を上ると、踊場があり、右手に常夜燈が見えます(左写真)。
踊場からは、さらに右方に石段が続いています(下写真)。
石段は、最初が43段+右折して18段、計61段あります。

いちばん上まで上がってみると、右手にお堂、左手に神社があるのですが、
踊場からの数段を上がると、ついそのまま直進してしまいがちになります。
つまり、最初に上り始めた境内敷地の位置から見ると、最上階の右手方面、
敷石の参道に誘われるように自然と足が向かうことになります。

その進行方向真正面に見えるのが、道了堂です。

踊場からの石段

常夜燈

さて、踊場の角に建てられた常夜燈ですが、こんな寂しいところに夜に訪問しなければならない催しなどあったのでしょうか。
昔なら、漆黒の闇のなかを手探りで進むようなものです。正面は、写真の右手、石段に向かって竿石に「常夜燈」とあります。
竿石の裏面には「明治八年第七月」、明治8年(1875)7月の造立ですが、第七月とは、大の月7月の意味でしょうか。

常夜燈 常夜燈竿石 常夜燈竿石裏面

以下は竿石下の台石、左が正面、右が裏面。「當村」つまり布川村の願主と世話人が列記されています。
[正面]「當村願主 豊島音五郎 市川庄蔵
世話人 和田野清十郎 三谷彦一郎 塚本由徹 五十嵐仁一郎 古宮山伊作 戸村七郎治 石川孫平
[裏面]「當村 石塚武七 同学三郎 原定吉 深山祭吉 根峯虎吉 酒巻庄一郎

常夜燈台石 常夜燈台石裏面
常夜燈台石右側面

左は台石右側面。石段からいちばん見やすい面。

東京蠣殻町 市川屋庄左衛門
田川村    岩橋  要蔵
羽中村    清水 與兵衛
同      齊藤 作兵エ
立木村    古川由右エ門
同      古川  観母

東京蠣殻町は、現在の日本橋蛎殻町。
市川屋庄左衛門は船積問屋のようです。
利根川の水運で商いをしたひとりでしょう。
田川村は、現茨城県稲敷郡河内町。

立木村の古川由右エ門は、円明寺コンテンツ手水「盥嗽」 と、倒れた常夜燈 の2ヵ所で紹介しました。
前者は嘉永5年(1852)、後者は天保13年(1842)の造立ですから、明治8年(1875)に存命している可能性は十分、
同一人物と思われます。宗派を越えて円明寺にも来見寺にも寄進をする、名主のような名士だったのでしょう。

本体: 高140cm、幅62cm、厚63cm。台石上: 高27cm、幅62cm、厚62cm。台石下: 高117cm、幅93cm、厚91cm。

参道入口の石塔、道了尊塔

2016年、久々にここに上がってびっくり。この石塔を初めて見つけました。どうしていままで気が付かなかったのか?
いや、いくらなんでもこれに気が付かないなんてことは・・・。最近、どこかから運んできたとしか思えないのですが・・・。

参道入口の石塔 参道入口の石塔

石塔表面に「導了尊」、右側面に「田川村 根本岩十郎」。田川村は常夜燈でも説明した現茨城県稲敷郡河内町。
左側面「明治三十三年五月廿七日」明治33年(1900)5月27日の造立。近代なら「導」は道と正しい字にすべきでは?

道了尊塔 道了尊塔右側面 道了尊塔左側面

本体: 高48cm、幅22cm、厚11cm。

道了堂の堂宇

道了堂への参道

当初、『利根町史』に記されていた「道了堂」を探そうとして、
境内をぐるぐる廻ったりしてやっと見つけることができたのですが、
参道の敷石の先に見えた建物は、果たしてこれがそうなのか、
ちょっと疑問でした。というのは、建物が、あまりにも綺麗で、
『利根町史』に記載された建立年とは明らかに食い違うからです。

でも、考えてみるとちょうど建て替えの時期だったのでしょう。
発見当時(2005年)頃が再建直後だったと思われます。

道了堂

『利根町史』によれば本尊は道了薩埵という室町時代の曹洞宗の僧。
元亀3年(1572)に独峯和尚が
小田原の最乗寺より移す。
(その後)堂宇壊敗し、
明治4年(1871)再建、とあります。
タヌポンが見た真新しい堂宇は、
それ以来の再建だった
ということでしょうか。
(左写真は2012年時のもの)

独峯和尚は来見寺を開山した住職。

これは石段上の高台にあるので、
所在地は布川台になります。

さて、道了薩埵とはどういう人で、
この建物にはどういう機能が・・・?

本尊の道了薩埵が小田原最乗寺を開山したと記されたものがありますが、最乗寺のHP等を見ると、開山は、
了庵慧明禅師(りょうあんえみょうぜんじ)となっています。本尊は釈迦尼仏ですが、それよりも重大視されているのが道了尊。
道了薩埵は、天狗さまと言われますが、出自は聖護院問跡につかえ、金峰山、大峰山、熊野三山に修行し
幾多の霊験を現したと伝えられる修験道の行者で、相模坊道了尊者という実在の人物です。
三井寺の最高の学位である勧学の座にありましたが、同郷の了庵慧明禅師の最乗寺開創を聞き及ぶと、
「…人容忽然として天狗に変じ、西山窓を開き、飛び立ち、金堂前の大杉の頂に移り、東面に向かい飛び去る」
という具合で馳せ参じたなど数々の伝説をもち、人気のあった人だったようです。

鰐口

鰐口

堂の直前に来てみると、賽銭箱はありませんが、
上部に鰐口がありました。
でも、これを鳴らすためのヒモが下がっていませんね。
まあ、ここにお参りする人も
少ないのではないかとは思いますが・・・。

堂内

堂内

堂の扉は施錠されていますので、
例によって格子ガラスから覗いてみます。
まあ、特筆することもない仏壇らしいものがあるだけです。
ただし、左下に絵馬があり、見た記憶があります。

余談ですが、最初に堂内の写真を撮ったのは、2005年4月の2回目の訪問時で、そのときはこの絵馬は堂内にありませんでした。たまたま、まだ絵馬展の会場から返却されていない時期だったのでしょう。同様の体験を別の寺か神社で体験したことがあります。左の写真は、それから7年以上も経過した2012年にもう一度堂内を覗いて初めてその存在を知り、再撮したわけです。何回か覗き見をしてみることも大切?!(笑)

絵馬 紺屋図(こうやず)

絵馬 紺屋図

平成17年(2005)2月に開催された「利根町の絵馬展」に
出展された紺屋図という絵馬です。

紺屋とは、「紺屋の白袴」ということわざで知られる染物屋のことで、当時は藍染を主とする染物だったようです。
明治9年(1876)3月4日に描かれたものですが作者は不詳です。
なお、紺屋(こうや)が一般ですが、こんや、とも読みます。

縦99.5cm×横144.6cm

▼ さて、道了堂に来る敷石参道の途中で見つけた2ヵ所のポイントを以下紹介します。
ひとつは道了堂に向かって左手にある大きな石碑、もう1ヵ所は石碑から少し堂に近づいた右手の手水と石祠。

敷石寄進碑

ケヤキ?の大木の根元に食い込むように置かれた石碑。
上部に、縦書きで「敷石」、横書きで「寄進」の文字が見えます。
その下に「藤藏川岸組月参講連名」とあり、
160名以上の寄進者の名前が細かく彫られています。
最後に「明治十三年三月建之」、明治13年(1880)3月の造立。
また、碑陰には、「布佐 石工 堀田大吉」が彫られています。

踊場の常夜燈前後の石段を含んだものかは不明ですが、
主に参道の敷石を寄進した記念碑のようです。

敷石寄進碑 敷石寄進碑上部拡大 敷石寄進碑陰

       河村  庄吉 生イ多丁歩  小マキツボ
       大塚  攵内 田中 五三郎 野澤 傳兵衛
       町田  武平 同  市郎平 山田新右衛門
       根本  勇藏 同  市郎治 同 七左衛門
       村野  新六 同   武平 同 利右衛門
大野 庄十郎 山中  菊治 同   忠平 虫q田 半七
奥田 善一郎 花澤  政治 岡野  元吉 中山 攵治郎
吉原久右衛門 田沼 忠次郎 西之宮三四郎 同   平助
大野 喜平治 河村  傳治 田口 儀十郎 虫q田茂右衛門
大野 宇兵衛 加納新田   的井 忠治郎 萩原治良兵衛
大野 辛太郎 秋本勘右エ門 土屋 傳治郎 野澤 傳兵衛
青木  常六 䂖橋 仁兵衛 大トク丁歩  寺嵜 勘兵衛
大槻  与八 同  武兵衛 大関  清吉 仲野 茂兵衛
谷川  兵吉 大竹紋右衛門 䂖井茂右衛門 沼嵜  虎吉
大野 伊三郎 沼嵜 權兵衛 同  千代松 野澤  梁助
秋山  周藏 堀越彦右衛門 同 武左衛門 布カマ
田沼 杢兵衛 同  安兵衛 大塚  彦助 小川  晴治
竹澤  要藏 関口  正輔 同   彦市 川  ヨシ女
山口  茂吉 篠本  政治 同  戈兵衛 後藤 ミト女
林田 太兵衛 山中  爲吉 同   弥市
宮本 辰三郎 神谷 七三郎 同  彦兵衛 小攵間
齋藤  善助 野村善左衛門 荒井 儀兵衛 中村 五十吉
町田  弥七 落合  嘉市 同  宇兵衛
大野 作兵衛 佐藤惣右衛門 同  弥兵衛 テツ
梶田 吉五郎 嶌村源左衛門 長嶌儀右衛門 鈴木五良右エ門
秋廉 市兵衛 落合 新兵衛 同 儀左衛門
鈴木 善兵衛 䂖川  玄順 巻嶌 甚兵衛
中村 清次郎 小林丁歩   小嶌定右衛門
大野  伊八 河村 傳一郎 大木久右衛門
坂本 小八郎 同  半十郎 本橋治左衛門
山田  冨藏 廣澤  新吉 齋藤 武兵衛
佐々木 清助 吉田  團治 同 武右衛門
奥田 治平次 細井  重郎 同 善右衛門
金子 清十郎 桑原  万吉 福知八左衛門
竹澤 清四郎 安原 長十郎 渡辺佐右衛門 發願主
小手  平輔 䂖橋 平重郎 秋山八良右衛門  齋藤攵四郎
東山  佐吉 長嶌  秀治 青木 傳兵衛
千代倉千代萌 蓮見  治平 同 傳右衛門 卋 飯塚傳兵衛
同   清房 角ア丁歩   我蛭彦右衛門   古川 芳藏
吉原 元八郎 大武  茂平 同 弥右衛門 話 嶌  源治
同  富治郎 蓮見 新三郎 荻野 喜兵衛   山口 久弥
茨城 弥十郎 木野本 勝平 中山善右衛門 人
同  善治郎 同  七五郎        加納新田セハ人
堀田  政治 大武  傳吉 平澤七左衛門   関口茂兵衛
関口  平造 大久保七三郎 䂖山  惣平 生板セハ人
河村 傳太郎 仲条  長治 同  惣十郎   齋藤 蝠
大塚  久策 同  半三郎 酒井 奥治郎
村野 十三郎 荒井  作治 □□□   大トク丁歩セハ人
       渡辺  瀧治 関野市左衛門   中山 彦七
       小泉  攵吉 野澤  弥助 小林丁歩
       町田長右衛門 大トクセキ    河村 政治
       蓮見 清五郎 大野嘉左衛門 角サキ丁歩
                       大武 甚平

上記の名にはWebでは表現できないものや、不明の文字等
数多くの異体字が使用されています。
本体: 高120cm、幅148cm、厚7cm。


藤蔵川岸とは、利根町の最東端の 東奥山新田とその東 で紹介した 河内町藤蔵地区 です。
正式には、河内町の生板鍋子新田藤蔵河岸(まないた・なべこしんでん・とうぞう・がし)という地名で、
ほかに寄進者は、東では小林や大徳、角崎、西では小文間など現利根町の中心から遠い周辺地区ばかりです。
道了堂に関しては、石段下の来見寺本体とは別個の支援団体としてこういう地区があったのかも知れません。

手水

手水

道了堂の少し手前、参道脇で参道向きに
手水と石祠が1基ずつ並んで建てられています。
手水には珍しく水道が引かれていますが水は出ません。
普段は元栓を締められているようです。

手水の表面は、来見寺の山号の「瑞龍山
右側面は、
來見禪寺十六主 白岩蒼龍代 于時寶暦七丁丑年五月八日
左側面は、
施主 江戸神田旅篭町 伊勢屋仁兵衛
神田旅篭町とは、現在の千代田区外神田一丁目付近。

造立が宝暦7年(1757)というのは、
赤門読誦塔1 とほぼ同時期ですね。

手水右側面 手水左側面

いつも思うことですが、せっかくの水道ですが、もう少し別の位置に建てるとか工夫ができなかったのでしょうか。
手水鉢の左側面中央の文字「白岩蒼龍代」がこれでは読めません。水道工事店の人の配慮というより・・・。石祠もそう。

本体: 高47cm、幅106cm、厚48cm。

不明の石祠

表面内部が削られたようになっているのでなにを祀った石祠か不明。右側面「豊島光太郎建」、左側面は「大正六年一月」。
大正6年(1917)1月、願主か施主の豊島光太郎による造立が分かるだけ。形からは、仏教ではなく神道系に見えますが、
道了堂の手水の近くに配されているなら仏教関係のものなのでしょうか。単に不明だからここに置かれたものなのか。

石祠表面上部の笠に彫られた円形のマークが気になります。富士の形?それなら隣りの浅間神社に置かれるべきでしょう。

本体: 高47cm、幅27cm、厚18cm。

不明の石祠 不明の石祠右側面 不明の石祠左側面

もうひとつの石段

道了堂の堂宇右手に、本堂の建物の右手に降りられるもうひとつの石段を見つけました。
道了堂付近を見てからこの石段を発見して降りてしまうために、後で紹介する浅間神社の発見が遅れたわけです。

もうひとつの石段降口 もうひとつの石段入口

道了堂の自然

上の石段の降り口近辺に、平成24年(2012)3月下左の立て札が立ちました。この一帯は巨木も多く自然がいっぱいです。

平地林・里山林の保全標識 道了堂の林
道了堂の巨木 道了堂の巨木 道了堂の巨木

遍照院跡地の石仏

赤松宗旦の古地図

下の地図は「下総國相馬郡布川村 川除堤用水堀入樋道橋 分見繪圖(抄)」。
「安政三丙辰年春正月」の「赤松宗旦義知謹圖」。「白井庄左エ門」と「新井又兵衛」が「足量」しています。
安政3年(1856)は、赤松宗旦が『利根川図志』を編纂完成させる直前のころ、この図も役立てたものと思われます。
町の資料として別に資料館等に保存してあると思いますが、これも豊島昌三氏に見せていただきました。

古地図 古地図拡大

古地図に記された遍照院

古地図

左は、古地図一部を拡大したもの。
この中で道祖神は、位置から考えて、
布川台の道祖神 と推定できます。
道了堂は記されていますが、
このころには存在していたはずの
浅間神社は記されていません。

また現存していない寺などの名前が
いくつか記されています。
その中で、来見寺の東の「遍照院」が
現存しているかもと、豊島氏。
しかし、それらしきものは、
実際はどこにも見当たりません。
『利根町史』にもないようです。

「遍照」ということは「遍照金剛」、
大日如来もしくは空海大師関係の寺と
思われますが・・・。

豊島氏によれば「近所の方がお宮があると言っている」そうですが、タヌポンは、布川神社下の大師堂がその名残りでは?
と思いましたが、四郡大師は、文政元年(1818)には、すべての札所を開設し終えていますので、ちょっと矛盾します。
この近隣の人たちの言う「お宮」とはどこにあり、「遍照院」とは、果たしてどのような関係があるのでしょうか。
先日、豊島さんから地図上の「遍照院」の位置あたりに「お宮」が見つかった、と聞き、さっそく探してみました。

お宮の正体は石仏

豊島夫妻のお話では、来見寺東隣の坂を登り、布川台地区に入り右にぐるりと周っていく細道の先にあると言います。
お堂のようなものではなく、石仏があるようです。ただ位置的には、地図の「遍照院」の位置に該当します。

布川台地区 布川台地区

上左の「右折行止まり」の立札のある道に来て、そこから左奥に続く細い道を進みます。するとまもなく右手に。

十九夜塔2

十九夜塔2

竹藪の一角を切り開いた約1m四方強の小さなスペースに鎮座していたのは、
1面4臂とおもいきや、6臂のようですが、半跏思惟の如意輪観音像。
上部にキリークの梵字が見えます。

右に「十九夜念佛一結衆五十七人
右左に1文字ずつ「敬白
左に「貞享元年甲子十月十九日」が読み取れます。

貞享元年(1684)10月19日造立の十九夜念仏供養塔です。
ただし、願主・施主等は明記されていません。

位置的なことから推定すれば、この供養塔は、
やはり「遍照院」に付属していたものと思われます。
ただし、そうかといって、「遍照院」が貞享元年(1684)から
ここに存在していたとは必ずしも言えませんね。
また遍照院に付帯していた石仏がこの1基のみというのも、
ちょっとさびしいですね。ほかにもあったのでは?

本体: 高97cm、幅53cm、厚28cm。

見かえり橋と関所

来見寺の南に、ここではまだ紹介していないポイントがあるので2つほど。ただし、いずれも過去のもので痕跡がなく、
ビジュアル的に紹介できるものがありません。ひとつは民家の庭にあるのですが、写真を撮らせてもらえるのかどうか。

見かえり橋の石

古横町見かえり橋跡付近

来見寺と保健センター(コミュニティセンター)との間から
南に下る細道があり、これを古横町と呼んでいるようです。
また、この古横町の細道が、中田切の一里塚を通る
「佐竹街道」につながっていたという説もあるようです。
徳川家康も、鹿島神社詣の折、来見寺を訪問した後、
この道を通って帰途につきました。
そこには殿堀という小川があり、石橋が架かっていました。
この橋を見かえり橋と呼ぶのは、家康公が別れを惜しんで
来見寺の方を振り返って見たからとか。
当時は周辺が水田で、橋付近で道がカギ型に曲がっていて、
自然と来見寺を振り返ってみるような位置関係だったようです。

その橋に使われていた石が土中に埋まっていると、この古横町で造園業をされている横山家に語り伝えられていました。
住宅地造成が決まったとき、ためしに堀ってみたところ、伝えどおりに石が出てきたといいます。
その石は今も横山家の庭に置かれていて、石の側面には「元禄六発酉六月吉日施主本庄九兵衛」と彫られているとか。
1693年のものですか。いちどお願いして写真を撮らせてもらえればうれしいのですが、個人宅なので・・・。

右上写真は、古横町の見かえり橋があったと思しきところから来見寺方面を見たシーン。給水塔右の樹木下あたりが来見寺。
なお、この写真は画像処理してちょっと美化しています。実際と異なるものは、さて何でしょう?(13/08/09 追記・撮影)

関所と牢屋

赤松宗旦の『布川案内記草稿』に「昔ハ来見寺下に関ありて、黒川某、大岡某これを守り」と記されてれています。
その関所は、上記の古横町の細道に附随していたものです。どのあたりに関所が置かれていたのでしょうか。

先祖がかつてこの関所で働いていたという高橋牛松氏(元町議)の『布川の史跡 --- 関所、御用地、その他』によれば、
氏の祖父勘蔵氏が、現在の駐車場からゲートボール場あたりを示して、ここが関所跡だと話してくれたそうです。
また、関所には牢屋が付属していて、これは、かつて映画などを上映していた「記念館」の南あたりにあったとか。さらに、
来見寺西側の台地下一帯も、関所で捕えられた人達の働く作業所などの施設があり、箸、籠、履物等を作っていたそうです。

なお、関所と牢屋に関して、「来見寺前には江戸時代初期まで関所が置かれ、元禄時代までは、牢家もあった」ことが
『香取家文書』に記録されているようです。関所と牢屋が元禄以降も継続して存在していたのかどうかはちょっと?です。
なぜ、継続存続の話をするかというと、この施設で働いていた植村七兵衛という武士が慶応元年(1865)に許されて、
自由の身になり、そのことに感謝して、徳満寺裏の八幡神社に石祠を奉納しているという記述があるからです。
→ 八幡宮 植村氏の石祠 参照。

ところで、利根町には昔、映画館があったという噂を聞きましたが、映画などを上映していた「記念館」のことでしょうか?
(『広報とね』「利根町の歴史散歩」 31, 60, 61より)

布川貝塚

布川貝塚

この辺りに貝塚があるというのですが、真剣に探すわけでもなく、漫然と近辺を通り過ぎていたのです。
ところが、あるとき突然に、その案内看板を発見しました(Columbus Blog 05/03/19 参照)。
ブロック塀の後ろは来見寺の境内。発見当時は3月中旬。白梅が美しく咲いていました。
この左には利根町商工会館があり手前に忠魂碑が建っています。その隣りが来見寺入口・赤門です。

布川貝塚 布川貝塚案内看板

上右が案内看板ですが、少々見づらいので、以下、説明文を転載します。

利根町指定史跡
布川貝塚

 この周辺は、「布川貝塚」といわれる縄文時代後晩期の遺跡です。
 縄文時代の「縄文」とは、日本で最初に発掘調査をしたエドワード・S・モースが報告書の中で、土器についていた紋様が縄のようであることから「コード・マーク」とよんだことに始まります。
 縄文時代には、集落の周りの斜面や窪地などにゴミが捨てられていました。とくに海に囲まれていたこの辺りでは貝殻が多く捨てられ、来見寺の境内から布川神社入口にかけて「貝塚」として今も残っています。
 利根町では、日本最古の土偶が出土した 花輪台貝塚 をはじめ、多数の土偶が出土したことで有名な 立木貝塚 などが存在しますが、この布川貝塚については、その詳細な事実は判っていません。
 しかし、小発掘調査により、主に縄文後晩期の土器・土偶・耳飾や、海人であったと思わせる骨針や製塩土器などが出土しているほか、珍しいものとして、縄文人の人骨がほぼ完全な型で出土しています。
 高台から、豊かな自然と海に囲まれていた当時を思い浮かべると、時のながれを感じます。

(以上、転載)


(16/07/20・13/11/16・13/10/27・13/10/25・13/10/24 浅間神社分離・13/08/09・13/08/05・13/06/24・13/06/19・13/05/29・13/05/27・13/05/14・13/05/07・13/05/06・13/04/25・13/04/20 修正追記・13/04/19 再構成) (06/07/10・05/06/21・05/05/25・05/11/11・05/04/07 追記) (05/03/21)
(撮影 16/07/17・16/07/14・16/07/10・15/05/15・13/10/23・13/08/09・13/07/08・13/07/07・13/04/16・12/11/14・12/05/18・11/05/08・11/01/05・10/02/20・07/12/14・07/07/28・06/09/17・06/01/29・06/01/25・05/11/16・05/09/19・05/09/17・05/05/29・05/05/28・05/05/25・05/04/17・05/04/03・05/03/21・05/03/19・05/01/18・04/12/23)


本コンテンツの石造物データ → 来見寺石造物一覧.xlxs (24KB)