徳満寺は我孫子市から栄橋を渡って最初に発見する、布川地区を代表するお寺で、
旧名「府川」の発祥となった城跡も境内入口に残っています。
身丈約2.2mの木造地蔵菩薩立像(もくぞうじぞうぼさつりつぞう)。
第7世住職が元禄時代(1688〜1703)に京都の六派羅密寺より勧請したものです。
運慶の一子湛慶の作といわれています。
この本尊は年に1度だけご開帳されそれにあわせて門前に市がたつようになりました。
これが「地蔵市」の始まりで、
現在も毎年、11月末から12月初めの土日を挟んだ1週間、開催されています。
それ以外はふつう見ることはできないのです。
「子育て地蔵」の名は・・・
布川に与兵衛と さだ という夫婦がいて13年目にやっと子宝が授かりました。
しかし権太と名づけられた子供が3歳になったとき江戸の名医もさじを投げるほどの重い病気にかかってしまいました。
夫婦は熱心に地蔵様にお祈りしました。
その7日目のこと、与兵衛のお祈りの最中にどこからともなく地蔵様の声が聞こえ子供を助けてくれると言います。
喜んで家に帰るともう子供は元気になっていました。
これが噂をよび次第に「子育て地蔵」として広まっていったということです。
次の項目でも若干、ふれますが、府川城跡の碑の近くに案内の立札が立っています。
左の画像がその一部です。ちょっと読みづらいので以下、その要旨を記します。
本サイト来見寺のページに府川→ 布川、頼継寺→ 来見寺のことなど紹介しました。
(05/11/12) (05/01/18撮影)

徳満寺の寺宝に、金銅板両界曼荼羅があります。
これは、国指定重要文化財であり、利根町のたったひとつの国宝です。
建久5年(1194)年6月、筑後国の清楽寺の僧慶弁が、藤原延次に作らせたもので、徳川家康公の寄進と言い伝えられています。
曼荼羅は、一面が横約50cm、縦が約100cmの二面、金剛界と胎蔵界があり、それぞれ9板の金銅板から成り立っています。
各板共に尊像筆の重要部分を打ち出しで現わし、蝶番で結合し、さらに内陣の周囲を唐草文様でつづってあります。
赤松宗旦も「布川案内記」の中で高く評価している作品です。
写真は、その実物ではなく複写されたもので、利根町歴史民俗資料館に飾られていたものです。
右9枚が金剛界部分、左9枚が胎蔵界部分です。
実際はもっと鮮やか・重厚なものではないでしょうか。
これはもう徳満寺というより利根町には存在せず、上野の東京国立博物館に所蔵され公開されているということです。
タヌポンはちょっとこれが不満です。
利根町の宝なら徳満寺とか、この地の資料館で保存公開すべきではないのでしょうか?
まあ、何か理由があるのでしょうね。
→ 利根町史を編纂されている宮本和也さんのお話では、国では徳満寺のセキュリティが十分なものになったら博物館から返還するということです。ああ、そういうことならまあ、仕方ないですね。国宝ですから。(07/05/27追記)
(05/11/14追記) (05/03/19撮影)
1.正門
徳満寺に入るにはいろいろ行き方があります。
まず栄橋を渡ってまっすぐの表通りから左にある正門入口。

ここには写真のように布川城の城跡の碑が建っています。また入って右手には庫裏がありその前に大きな菩提樹が立っています。
徳満寺は真言宗豊山派の寺で当初、元亀年間(1570〜1573)に祐誠上人によっていまの門前に建てられましたが、
1600年の慶長の乱でこの一帯を治めていた豊島氏が滅ぶと城跡(現在の場所)に寺を移しました。
新築・釈迦像
7月(2005)に訪問したとき、菩提樹のところに新しい釈迦像が建てられていました。菩提樹の説明もされています。
また、別の釈迦像・沙羅に関する案内看板も見つけました(右)。クリック拡大すれば北枕の言われなど説明が読めます。
沙羅といえば、平家物語の冒頭、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」で有名ですね。

(05/11/15) (05/07/03撮影)
2.山門
もうひとつの入口は山門。これは下の左の写真のように階段を登った上にあります。
栄橋の陸橋部分の下の道から登るのです。13+58段の石段、疲れているときに登るとさらに疲れます。
写真左は石段下から、右は山門から下を見下ろしたもの。
六阿弥陀第壱番の石塔
下の左の写真、石段の中腹に石柱が立っています(クリックして拡大できます)。
この「六」とはいったいどんな意味なのでしょう。また、第壱番とはどういういわれがあるのでしょうか。
これらは最初、まったく分からなかったのですが、ようやく半年ほどでその全容が判明しました。
それは、「総州六阿弥陀詣」をご覧ください。(05/11/05追記)

下がその山門。右は地蔵市開催時。山門の中に見えている建物は客殿。
注)利根町史では、写真のキャプションでこの客殿のことを「本堂」と称していますが、境内案内図では「地蔵堂(本堂)」となっていますので以下、それに統一します。

小地蔵堂と観音堂
山門に入る直前、左右から相対して2つのお堂が建っています。
山門に向って左が小地蔵堂(写真左)、右が馬頭観音堂(写真左)。
写真は地蔵市開催時で、扉が開けてあり中の地蔵等が見えます。普段は開かれていないようです。
かつて利根川が溢れて小地蔵が漂着し、村人たちが堂を構えて安置したのが小地蔵堂です(クリック拡大で地蔵UP)。
観音堂は、寛政11年(1799)、馬疫が流行し、斃死が相次ぎ、賢栄和尚に託して祈祷したことが発祥です。

(05/11/15) (04/11/28撮影)
3.裏道からの入口
最後(の入口)は裏道。
ここには西隣りの琴平神社のわき道から来れるのです。
徳満寺と琴平神社はなんか親戚のような感じですね。神社仏閣とよく言うけれど仲がいいようです。
左の写真が琴平神社の拝殿に向かってすぐ右にあるわき道。
琴平神社側から見たところで、向こうに見えるのが徳満寺の本堂(地蔵堂)なのです。
このあたりのことは琴平神社の項目で紹介します。
このわき道、徳満寺側から琴平神社へ行く手前に古札納所(ふるふだおさめどころ)があります。
ブロックでつくってあるので年代の重みは感じられません。
右手の石段を上った先は、歴代住職の墓所となっています。
地蔵堂(本堂)
正門から入って正面突き当たり、山門からは入って左手が地蔵堂。
本尊の延命地蔵尊(地蔵菩薩・子育て地蔵とも呼ばれています)が安置されているところです。
これは元旦(05/01/01)朝の初詣の写真です。いつもはない南無地蔵菩薩の赤い旗がたくさん立っています。

客殿
地蔵堂の右隣、山門から入って正面にあるのが客殿。

中は、煌びやかな内装になっていますがこれは地蔵市開催日に撮ったもの。
ふだんは中に入れないのではないでしょうか。
なおこの客殿廊下には「間引き絵馬」があり、柳田國男が思春期にこれを見て衝撃を受けたという話が残っています。
日本の民俗学の父である柳田國男は、13歳(明治20年)から2年余りの間、その多感な少年期を長兄のいた利根町布川で過ごしました。
写真左は客殿前にある解説の立看板。右は客殿の外からガラス越しに廊下の絵馬を撮りました。

水かけ地蔵尊と弘法大師1150年御遠忌記念碑

上の左の写真の右に写っているのが、水かけ地蔵尊。昭和60年(1985)建立。山門から入るとすぐ左手にあります。
徳満寺は真言宗ですからいちばん左には「弘法大師1150年御遠忌記念碑」なども建てられています。
また、山門を挟んで左の写真の手前のほうには同様に「弘法大師1100年御遠忌供養塔」も建てられています。(上右写真)
弘法大師・空海は平安時代(774〜835)の人です。835+1150=1985
記念碑のほうは、いまからちょうど20年ほど前に建てられたということでしょうか。
それにしてもタヌポンは暗記物が苦手だから
| 高野山金剛峯寺 | 弘法大師 | 空海 | 真言宗 |
| 比叡山延暦寺 | 伝教大師 | 最澄 | 天台宗 |
この組み合わせがいつまでも覚えられません。皆さんはどうですか?
※「空海」という人にはなにか得体の知れないものを感じます。いつか研究してみたい人物ではあります。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)
大平神社1で説明しました宝篋印塔。
それがここ徳満寺にもあったのですね。
さきほどの水かけ地蔵尊の背後に建てられています。
徳満寺には大平神社よりずっと前に、
早くから何度も訪れていたのに少しも目にとまっていませんでした。
見上げてみると、大平神社のものより2周り以上も大きい立派な塔です。
日本最古の十九夜塔と時念仏塔
「弘法大師1100年御遠忌供養塔」の左隣に立てられているのが写真の2基の塔。
右が十九夜塔、左が時念仏塔です。
クリックすると解説文が拡大されますが、以下、その要旨を転記します。
十九夜塔
日暦19日の夜、寺や当番の家に集まって、如意輪観音の前で般若心経や和讃※を唱える行事がありました。
これを十九夜講と呼び、とくに茨城や栃木などで盛んに行われていました。
徳満寺のこの十九夜塔は、万治元年(1658)のもので、
現在、発見されている中では日本最古の石塔。
注)※和讃(わさん)とは、仏経の経典、教義などを日本語で記し讃えた讃歌のことを言います。
時念仏塔
時念仏は斎(とき)念仏とも書き、斎とは仏事における食事を意味します。つまり、時念仏とは食事を伴った念仏講になります。
念仏講は、身口意の三業(さんごう)を慎み、精進潔斎して施しをする日です。
この時念仏講が始まったのは、寛永元年(1624)10月23日で、
この石塔は元禄14年(1701)に建てられました。
(05/11/14追記) (05/01/18・05/06/12撮影)
鐘楼堂
タヌポンが聞く除夜の鐘は、この鐘楼堂の鐘の音です。
山門から入って右手のほうです。
太刀堂
本堂のすぐ右隣にある小さな部屋が、太刀堂。
藁で作った竜を配した木製の大太刀が安置されています。
狭いので真横からは撮れませんでした。
毎年7月の第1日曜に「太刀祭」(たちまつり)が行われ、
悪疫退散を願ってこれをかついで町を練り歩くのです。
が、タヌポンはまだ一回も見たことがありません。今年は見てみようと思います。
→ 05/07/03開催同日コンテンツUPしました。
実はこの四郡大師については、探索当初、まったくその意味も存在もタヌポンは理解していませんでした。
だいたいこれが徳満寺を中心としたものであることを知りませんでしたし、徳満寺境内の中にあるそれも見落としていました。
利根町の各地域にある大師の祠、大師堂を先に発見したのですが、そのときも「何だろうなあ」と思っていました。
ようやくそれが、四国の88か所の霊場を巡回するミニ版のものであることが分かったのは、
もう何十箇所の大師を発見した後でした。
この四郡大師については、いまの時点(05/11/03)で約70%ほど訪問し終えているのですが、
特集にするにはまだ少し足りません。
もう少し探索した後にくわしく説明・ご紹介したいと思っています。
ここでは、とりあえず徳満寺の大師堂を紹介するにとどめます。
客殿の入口に昭和37年(1962)に奉納された四郡大師の一覧図が掲げられています。
しかし、現在の配置とは幾分、変化しているようです。
このあたりも調べて新しいマップも作りたいと思っています。
(05/11/03追記)
タヌポンがいちばん気に入ったのがこの場所。
「茨城百景 大利根の展望」と彫られた石碑が建っています。
ここも実は琴平神社からの「探検」で見つけたのです。
ですから徳満寺からは本堂左手から奥に進んだところにあります。
ここは見晴台だったのでしょう。
後日、再訪問したとき、案内ボードが新規に設置されていました。それによると、この石碑は当初、山門前にあったが、山門修理のためにこちらに移動して、そのままになっている様子です。
展望の場所が若干、異なりますが、景色はほぼ同じではないでしょうか。角度が少しちがうかな?(10/02/19追記)
小林一茶の句碑
左には小林一茶の句碑があります。
段々に
朧よ月よ
籠り堂
階段を駆け上がったのですが・・・。
三峯社

ここは三峯社という名前がついています。
利根川の方角なのですが樹木に遮られて見えません。
でも木の葉の間からかすかに川の流れが見えています。
民家や電線などない昔はさぞ絶景だったのでしょう。
いまでも少し樹を切り落としたほうがいいのではと思うのですけれど・・・。
でも見えなくてもここはなんとなく気に入りました。
徳満寺の境内に天神様があるというのはこのコンテンツでどうぞ。
番外
奥之院

正門入口右手のほうに奥之院がありますが・・・。
とくいの格子の穴からの撮影もむなしく・・・
何なんでしょうね。この奥之院っていうのは?
→ どうも四郡大師の催しと関係あるようです。毎年の結願をここで執り行うとも聞きました。(05/11/14追記)
なんとなく、センチメンタリスティック
奥之院の裏手に回ってみると・・・。
なんとそこには、幼稚園が・・・。
徳満寺が経営しているのです。
ここは娘が通った幼稚園です。
ちょうど3時ですが園児はもう帰宅したのでしょう。
だれも見えません。
象さんの滑り台が寂しそうです。
ここからこんな風に見えていたのですね。
あれから20数年経ちました。
なにか取り戻せない時間の重さを感じて
しばしたたずむタヌポンでありました。
(05/11/12・14追記) (05/06/12撮影)
(05/01/18 追記・撮影)
(05/01/16) (撮影04/09/24・04/11/28・04/12/25・05/01/01)