タヌポンの利根ぽんぽ行 龍ケ崎王子神社

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龍ケ崎王子神社 目 次



関連リンク


ここは、実は、サイト開設間もない2005年初めに2度も訪問しているのです。
もちろん写真も、ピンボケばかりでしたが、たくさん撮っています。
でも、コンテンツ作成は、とうとう8年以上も経った2013年の春。

遅れた理由

  1. 利根町以外の地域だった
  2. 由緒が分かる史料が手元になかった
  3. (内緒)

いまごろになって作成した理由

  1. 神社関係者からコンタクトいただいた
  2. 史料が若干ながら見つかった
  3. 布川城主豊島氏研究過程でこの神社がでてきた

利根町のすぐ北で、昔なら同格の地域ですが、調べてみると、
なぜかこの神社は、利根町のそれとは違い、以下の特徴があることを発見しました。

  1. 祭神が通常の王子神社とは異なる神である
  2. 境内に庚申塔がまったく見当たらない
  3. 仏教関連の石仏がわずか1基・石碑もゼロ
  4. 30基近くもある石祠のなかで水神宮がゼロ

龍ケ崎王子神社の鎮座地は以下。
301−0021 茨城県龍ケ崎市北方町633
県道4号(千葉龍ケ崎線)龍ケ崎南高校付近から西に入る路で、
途中の宮司さん宅付近まではクルマで行けます。そこからは300m程度徒歩になります。
早尾・北方車庫付近の農道からは、クルマでは行けません。
いずれにせよ、神社の前は幅1.5m程度の未舗装の農道です。


利根町北部マップ

早尾北方からの探索

当初、早尾天神社 から大利根交通の北方車庫方面へ北上し、車庫を少し過ぎたところから右折できる路を発見。
この細い農道を当てもなく、探索に出かけました。tanupon 好みの田園風景がとてもいい雰囲気をかもし出しています。

あっと、ここはクルマではムリですよ。tanupon は、バイクです。つまり目的地の神社前はクルマでは行けません。

農道 農道

さて、下右のところに着きましたが、どうします?舗装農道は左に曲がっていますが、正解は直進です。
ちなみに、左折の道もなかなか面白いのですが、下の道路・・・北文間郵便局前を通る道路に出られます。

農道 農道

神社手前の空間

神社手前

上右写真の「ケモノミチ」のような、
その穴の道を直進するとまもなく、
左のように左右少し開けたところに。

神社入口はすぐ目の前です。
白い柱のように見えるところの左です。
やはりクルマではムリでしょう?
前方左手の杜の中が境内。

左に見える小道が境内への近道。
(→ 境内西からの出入り口
雨上がりだとすべるかも。
最初は、正面の正規の石段からが
おすすめです。

龍ケ崎王子神社

由緒・沿革

ここで、ひととおり、龍ケ崎王子神社の由緒等を見てみましょう。

創建 は、元亀3年(1572)4月14日。布川城主の 豊島三郎兵衛、さらに 豊島紀伊守による、とあります。

出典は『龍ケ崎市史近世調査報告書1』で、豊島三郎兵衛と豊島紀伊守のまるで2人いるような曖昧な書き方ですが、
これは来見寺を創建した豊島頼継のことと思われます。ただし三郎兵衛・紀伊守は子孫も名乗っている場合もあります。
親子が共同で創建したということも考えられますし、王子神社は当初は長沖村に建てられて、後にこの北方村に移築した、
ということから、最初の長沖村のが豊島頼継、後の北方村は、頼継の子孫という見方もできないわけではありません。
しかし、移転の理由は度重なる水害のためということですが、移転の時期は不明です。なんとも言えません。
いずれにせよ、元亀3年(1572)長沖村に創建したのは、豊島頼継であることだけは言えるのでしょう。

祭神は、「健御名方命」(たけみなかたのみこと)。

これが、利根町押戸、鎌倉街道沿いにある 王子大明神 と同様で、tanupon の腑に落ちないところです。
というのは、王子神社というのは、若一王子(にゃくいちおうじ)熊野大社から勧請されるのが通例であること。
実際に、この龍ケ崎の王子神社の本社は、武蔵国豊島郡の王子権現(現東京都北区の王子神社)であり、
それは、豊島氏が鎌倉時代の元亨年間(1321〜24)に熊野権現を勧請したといわれているものです。
なぜ、若一王子熊野権現を祭神とせずに、あえて健御名方命を祭神として祀ったのか。
利根町押戸の王子大明神は、創建が元禄元年(1688)で、その直前に断絶の憂き目に遭った豊島氏とは無関係でしょうが、
江戸幕府の成立で世の中が少しおさまってきたとはいえ、まだ戦国時代の名残が漂うころです。tanupon の推定するところ、
若一王子より「武神としての健御名方命」を祀りたかったのではないでしょうか。元亀3年のころならなおのことです。

こういうことが許されるのなら、厳島神社を建てても宗像三女神を祭神とせずに、もっと美人の木之花開耶姫にする、
また諏訪神社をつくって、健御名方命を討ち負かした武甕槌神(たけみかずちのかみ)のほうを祭神とするなんてのもOK?
できるだけ強い武神を自由に設定できるなら、tanupon だったら、素盞鳴尊(すさのおのみこと)とか日本武尊にするかなあ。
もっとも健御名方命も地元では尊崇されていて、なにしろ武田信玄の守り神ですから、神話より現実を重視したのかも。
戦国時代、豊島氏の周囲には様ざまな大名たちがしのぎを削っていたわけで、武田のライバル上杉家の勢力も近隣で、
いっぽう武甕槌神の始祖は中臣氏ということもあり、いろいろな条件を考えて健御名方命に決めたということでしょうか。
→ 参考 狸の巻物 神社・神話の巻「神代の物語7. 国譲り」 に健御名方命と武甕槌神の話を掲載。

例大祭としては、春祭りが3月16日、秋祭りが9月16日。いずれも旧暦で近い日の日曜・祝祭日となっています。
ほかに、蛟蝄神社でも毎年の例大祭時に行われている 湯立の神事 (お祓いに用いた笹を戴くと風邪にかかりにくい)や、
正月16日には、利根町の押付新田・上曽根地区などで見られる 御歩射(おびしゃ) が行われています。
(龍ケ崎市民俗調査報告書3 北文間・川原代地区[昭和63年3月31日発行・龍ケ崎教育委員会」より)

境内の主な施設

王子神社境内図

★ 各施設・石塔類等の画像部分(マウスオーバーで色が変化)をクリックすると、当該説明にリンクします。

王子神社境内図 拝殿 本殿 11.稲荷社 1.氏神の石祠 2.不明(道祖神?) 3.道祖神 4.道祖神 5.道祖神 6.氏神の石祠 7.大神宮 8.疱瘡宮 9.八幡宮 10.不明の石祠 12.不明の石祠 13.不明の石祠 14.□□大明神 15.子安大明神 16.氏神の石祠 17.天神宮 18.三王大明神 19.稲荷明神 20.稲荷□□ 21.子安大明神 22.白山大権現 23.地蔵菩薩塔 24.道祖大神 25.不明の石祠 26.道祖神 27.不明の石祠 手水舎 鳥居

下は、『龍ケ崎市民俗調査報告書3』からの転載。
左は tanupon 調査。ほんの一部違いがありますが、
tanupon 制作図のほうがあっているかと・・・。
樹木イラスト以外は当該項目へリンクしてます。
11.稲荷社は現在、鳥居は倒壊撤去されています。

境内図

入口石段

入口付近に来て左手を見上げると下の写真。10段程度の石段と真新しい鳥居、その奥に古い社殿が見えます。

入口石段

振り返って背後は、下まで参道のように階段が付いています。
右手は畑、左手の垣根のなかは、後で想像したことですが、
ずっと東から続く岩井宮司の広い邸宅と敷地のようです。

また、直進してきた道の奥は、下2枚目写真のように、
右手に敷地との境界の柵がずっと先まで続いています。

神社前の石段 神社前から東を見る

鳥居

2005年に初めてここを訪れたときは、鳥居は、右下写真のように古い両部鳥居で、いまにも朽ち果てるかの様子でした。

鳥居

新築の鳥居は、明神鳥居で、
造立は、平成23年(2011)2月。
これは大震災直前ですね。
できたてだから倒壊を免れたようです。

鳥居裏面 旧鳥居

神額

神額

両部鳥居のときは神額はなかったと思います。
「王子神社」と朱で記されています。

拝殿

拝殿

木造。
かなりの年代物という感じがします。

当初は長沖村にあったものを、
水害が頻発したためここ北方に移転、
ということですが、時期は不明です。
この様子だと創建から移転までは、
時間差はあまりないような気がします。

下は木鼻。現代もし拝殿再建の場合、
このような木鼻を彫ることは可能?

木鼻

左が現在(2013年)、右が8年前(2005年)。ほとんど差はない様子です。

拝殿内部 拝殿内部

拝殿内部の絵馬等、撮影したいですが、今後の課題です。

本殿

これは創建当時のものをそのまま移築したもの?萱葺き屋根や細緻な彫刻が魅力的です。

本殿 本殿

手水舎

鳥居を潜って正面に南向きに拝殿が立ち、その手前に、手水舎が西向きに建てられています。
水道の設備はないので、雨水がたまるだけで、手水としての機能は平常時は果たされていないようです。

手水舎 手水鉢
手水鉢左下拡大

手水舎の造立年は不明ですが、手水鉢には造立年等の銘文が彫られています。

手水鉢の右には、
正徳五乙未暦
奉修御寶前
九月吉□日

とあり、正徳5年(1715)9月の造立が分かります。

中央には、大きく、 のレリーフ。
由緒・沿革では不明ですが、正徳5年頃には豊島氏から徳川家の管轄となり、
別当寺が併設されるなどして、神仏習合が進んでいたのかも知れません。

手水鉢左下は読みづらいので拡大写真を(←左)。
北方村願主衆中
道仙田村願主五人

道仙田も、現在の龍ケ崎市の地名にあります。北方の北東。
三日月型の川の堰きとめ湖のある地域で、以前よくヘラぶなを狙いにいきましたが、
釣れるどころか一度もアタリも、モヤリもなく、諦めました。ほんとにヘラはいるの?

境内周囲の石祠など

本殿・拝殿の周囲を取り囲むかのように、数多くの石祠類が並べられています。神道系の石祠がほとんどのようです。
境内の内側から鳥居に向かって、鳥居の右に見える石祠から時計回りに以下、順に見てみることにします。

鳥居右の6基

鳥居右の6基

まず最初は、左写真が、その6基。
左右の両端にある2基は
氏神の石祠のようです。
これは、氏子宅で不要になったものを
神社であずかり御霊抜きなどを施し、
廃棄処分する性格のもののようです。

このコーナーは、
「道祖神」を集めたという感があります。
北向き、ということは、
豊島氏の外敵が北にいる、
という意味合いでしょうか。

1.氏神の石祠

氏神の石祠

ほかから勧請された境内社という様子には見えません。
銘文もいっさいなし、です。

2.不明(道祖神?)

道祖神だと思うのですが、石祠正面内部が欠損などあって読めません。左右側面は明快に読めるのですが・・・。

2.不明(道祖神?) 2.不明(道祖神?)左側面 2.不明(道祖神?)右側面

左側面は、天保十二年 丑九月吉日、すなわち、天保12年(1841)9月の造立。
右側面は、大津。これは地名なのか村名なのか、願主・施主の名前なのか、龍ケ崎に精しくないので見当も付きません。

3.道祖神

これは、石祠表面奥に、なんとか道祖神と記されているのが読めます。

3.道祖神 3.道祖神左側面 3.道祖神右側面

左側面には、宝暦七丁丑四月吉□(地中)。すなわち宝暦7年(1757)4月の造立。
右側面は、長沖村施主 飯塚源□□(地中)。長沖村とは、もとの王子神社の場所。すぐ北に位置しています。

4.道祖神

これは、道祖神とはっきり読めるのですが、石祠左右の文字が難物です。

4.道祖神 4.道祖神左側面 4.道祖神右側面

左側面は、宝暦九巳十一月□□、宝暦9年(1759)11月造立としましたが、赤字 は自信がありません。
右側面は、□□□。なにか3文字ほど彫られているようですが判読できません。いちばん上は「東」の字?

5.道祖神

これも、比較的近世の造立のせいか道祖神とはっきり読めるのですが、右側面の文字がさっぱりです。

5.道祖神 5.道祖神左側面 5.道祖神右側面

左側面は、□□□□□。4.5文字彫られている様子ですが、1文字も判読できません。強いていえばやはり上が「東」?
右側面には、文化十二亥九月□□(□は欠損ですが吉日でしょう)。文化12年(1815)9月の造立。

6.氏神の石祠

6.氏神の石祠

最初の1.氏神の石祠とこの石祠で、道祖神を挟み込むような設置にしているようです。
これにも、文字等は彫られていないようです。

拝殿西の石祠

拝殿東の石祠

さて、次に時計回りに右に廻って、
拝殿および本殿の西側、南北に並んだ一連の石祠を
南から北へと見ていきます。

その前に、1カット、以下紹介。

境内西からの出入り口

境内西からの出入り口

上で紹介した道祖神群と次に紹介する石祠との間に
大樹が2本立っています。
この間を通り抜けて、境内の外に出ることができます。

tanupon の体型をご存知の方は、
「通れる?」なんていうかも知れませんが、
これなら十分通れますよ!
でも、石段は設置されていないのでご注意。

稲荷社手前の4基

稲荷社手前の4基


7.大神宮

大神宮とは、神宮。すなわち伊勢神宮の内宮・外宮の総称になるわけですが、こういう石祠もあるのですね。

7.大神宮 7.大神宮左側面 7.大神宮右側面

左側面は、安永四未六月吉日 で、安永4年(1775)6月の造立。
右側面は、惣村中。惣村とは、惣という名の村というより共同組織としての一般名詞のようです。

8.疱瘡宮

8.疱瘡宮 8.疱瘡宮左側面

疱瘡神を祀った石祠。
天然痘の厄災を逃れるための造立です。
種痘が発明・普及されていない時代では、
神仏に頼るしかない恐怖の病気でした。

左側面は、施主 長沖村
左側面は、なにも字が彫られていません。
欠年で、いつごろのものか不明です。

9.八幡宮

9.八幡宮 9.八幡宮左側面

八幡宮は、一般に、
誉田別大神(応神天皇)を祭神としています。

側面の状況は前記疱瘡宮とまったく同様。
左側面、施主 長沖村
右側面、なにもなし。
したがってこれも造立年不明です。

疱瘡宮・八幡宮は、笠の部分以外は、
石祠の形状・色合いも酷似しているので、
これらは同時期の造立と思われます。

10.不明の石祠

石祠表面にはなにか文字が見えるのですが、いまいち読み込めません。

10.不明の石祠 10.不明の石祠左側面 10.不明の石祠右側面

左側面は、寛延元辰十一月吉日。寛延元年(1748)11月の造立。右下になにか文字が見えますが読めません。
右側面は、願主 東 同行十六人 飯田三右ヱ門。東は1本横棒が多いですが異体字かと・・・。

11.稲荷社

11.稲荷社

ここは石祠だけでなく、
常夜燈と眷属のキツネが
それぞれ1対設置されて、
境内社の設備を整えています。

しかも、以前(2005年時)には、
下写真のように神明鳥居もありました。
ただ相当の年代物で、もしかすると、
2011年3月11日の震災で
倒壊したのかも知れません。
いまは柱の基礎だけ残っています。

旧稲荷社鳥居

稲荷社本殿石祠

稲荷本殿石祠

立派な観音開き扉付きの本殿石祠です。

左右の扉下部になにか丸いマークが彫られています。
これが以前はよく分からなかったのですが、
稲荷神社に特有のシンボル「宝珠」のようです。
まったく同じようなものを、
利根町の 、上曽根の稲荷大明神の手水 で見つけました。
眷属のキツネが咥えているのもこれで、
霊力を象徴しているといわれています。

ところで、稲荷社の祭神は、全国共通の
「倉稲魂命」(うかのみたまのみこと)。

シンボル「宝珠」 スライム

常夜燈

常夜燈

本殿石祠に向かって左の常夜燈。
こちらの面だけですが、擦りガラスのようなものが
はめ込まれています。こういうのは初めて見ました。

それよりも、驚いたのは笠石に彫られた紋。
一見「葵」に見えたのですがどうも「鬼蔦」のような・・・。

鬼蔦

この稲荷社にある設備は、本殿石祠ほかすべて年欠、銘文が見当たらず、造立年代が不明ですが、
豊島氏が王子神社を勧請したときではなく、もっと後の江戸時代に入ってからではないかと思います。

丸に酢漿草

江戸時代では、この一帯は布川地区と同様、松平信一の所領の可能性があります。
松平信一の家紋は未調査ですが、徳川氏一族の松平諸氏は将軍家の葵紋をはばかって
「鬼蔦」の紋を用いている場合があるとのこと。したがって、この「鬼蔦」紋が刻まれた常夜燈は、
tanupon の推定が正しければ、松平信一の寄進かも知れません。
→ なんちゃって、松平信一の藤井松平家の家紋は、「丸に酢漿草」でした。ハズレです。
では、常夜燈の「鬼蔦」紋は、だれの紋でしょうか?王子神社の神紋?

眷属キツネ2基

本殿石祠に向かって左右1対の眷属キツネ像。いずれも、なにか足元に小道具を持っています。

眷属キツネ左 眷属キツネ右

左は、まさしく霊力のシンボル「宝珠」。咥えている場合も多いようですが、咥えるにはこの宝珠は大き過ぎます。
右は「巻物」かと思いましたが、どうも大きな錠前のような「鍵」のようです。「宝珠」の霊力を引き出す鍵、というわけです。
利根町では「宝珠と巻物」のセットを見かけましたが、「宝珠と鍵」の組み合わせが一般には多いということです。

稲荷社右奥の3基

稲荷社奥の3基

稲荷社すぐ右に1基、
大きな切り株を挟んで2基目。
そして、ずっと奥、
王子神社本殿建物の西に
もう1基、石祠が見えます。
これら3基はほとんど「不明」です。

12.不明の石祠

12.不明の石祠 12.不明の石祠左側面

表面の2文字目は「石」と読めそうですが、
そのヒントだけでは推測もできません。
「石神社」というのもあるようですが・・・。
その「石」も見方によっては「雷」にも。
そうなると「別雷神社」の可能性も。

左側面は、明治十八酉年九月建之
明治18年(1885)9月造立ですが、
左側面はなにも見えません。

台座には、村中 とありますが、
明治の造立ならすでに長沖から北方に
移った後ですから、この場合の「村」とは
長沖ではなく北方とみるべきでしょう。
でも、意外と長沖の村中だったりして。

13.不明の石祠

これは、どうにもこうにも、石祠表面からはまったくヒントすら見つかりません。

13.不明の石祠 13.不明の石祠左側面 13.不明の石祠右側面

左側面は、文政十亥九月吉日 で、文政10年(1827)9月造立は明快。
右側面は、老後□。□の欠損は「中」と思いますが、老後中という言い方もあるんですかねえ。

14.□□大明神

肝心の上2文字が判読できません。せっかく下が読めているのに。稲荷大明神と断定するほど自信はありません。

14.□□大明神 14.□□大明神左側面 14.□□大明神右側面

左側面は、宝暦十辰四月吉日、宝暦10年(1760)4月の造立。
右側面の 仁村市良兵衛 は施主でしょうか。

さて、これで、拝殿・本殿の西側はすべて見てきました。次は、北側、本殿の裏ですが、ここにはとくになにもありません。
本殿裏をぐるりと廻って東側に行き、以下、南下するように見ていきます。

拝殿東の石祠1

15.子安大明神

15.子安大明神

本殿の建物の東に大木が立っています。
大木の根元に埋め込まれるかのように設置されているのが、子安大明神の石祠。

右に 寛政七卯年、左に 十一月吉日。すなわち寛政7年(1795)11月の造立。
台石には、中坪願主 米□□ とあります。
もう少し手前の樹木の葉等を切っていれば□部分が読み込めたかも知れません。
このころ、もう、しゃがんだり立ったりで、いい加減くたびれていたので(笑)。

16.氏神の石祠

16.氏神の石祠

子安大明神の石祠から2.3m南にある石祠。
これも、廃棄処分となる氏神の石祠のようです。

拝殿東の石祠2

さて、拝殿の東には、あと6基、境内の内側向きに点在しています。これも以下、北から紹介していきます。

拝殿東の石祠2−3基 拝殿東の石祠2b−3基

17.天神宮

17.天神宮 17.天神宮左側面

天神宮とはっきり読めます。
祭神は、菅原道真公と
断定したいところですが、
天満宮ではないので、まれですが、
ほかの天神を祭神としている可能性も。

左側面は、施主北方村中
「北」の字は難読ですが、間違いないでしょう。
古文書でよく出てくる「くずし字」です。

造立年が不明なのが残念です。

18.三王大明神

18.三王大明神 18.三王大明神左側面

龍ケ崎市民俗調査報告書3では、
この石祠を「三宝大明神」と記しています。
これは、石祠の「王」の字の横に点のキズが
付いているため見間違えたものと思われます。
ウ冠も付いていませんので宝とは読めません。
三宝大明神という神は架空のものではなく
存在していますが、この場合は誤りでしょう。

三王は山王と同様です。

左側面に、明和七寅五月吉日
明和7年(1770)5月の造立銘。

19.稲荷明神

19.稲荷明神

これは形状から見ても石祠というより石仏と呼んだほうが妥当で、
しかも中央の文字の最上部には、阿弥陀如来を示すキリークの種子が付いています。
神仏習合のなせるわざというべきでしょうか。

中央に、(種子)奉造立稲荷明神
右に、横須加村□□□ 平六
横須加村の後の3文字がどうにも読めません。
また、横須加とは、現在の利根町の横須賀のことでしょうか。
左は、寛文十一天亥 八月吉日、寛文11(1671)8月の造立。
異体字等難読文字の多い石仏です。

20.稲荷□□

20.稲荷□□ 20.稲荷□□左側面

石祠内部は「稲荷」しか読み込めません。

左側面は、施主北方村中
この「北」も 17.天神宮 と同様。
これも造立年は不明。

21.子安大明神

21.子安大明神

大きな笠石の立派な石祠ですが、銘文がタイトル以外見つかりません。

子安神社の祭神は、とくに定まった神はないようですが、
「木花咲耶姫命」としている神社が多く見られます。

22.白山大権現

白山神社は、総本社が石川県鶴来町の「白山比盗_社」(しらやまひめじんじゃ)。(しらやま・はくさん両方あります)
全国には2700社余りの白山神社・白山社があるということです。祭神は全国共通の菊々里媛命(くくりひめのみこと)。
ちなみに、「権現」は神仏習合で、本地垂迹説による仏教系の名称。「明神」なら、神道系というのが単純な覚え方。

22.白山大権現 22.白山大権現左側面 22.白山大権現右側面

左側面は、中坪 十五夜講中、中坪というのは、長沖村の中坪なのか北方のそれなのか?
右側面は、文政五午十月吉日、文政5年(1822)10月造立。

さて、ようやくもう少しで境内の周囲を1周、というところ。あとは、拝殿から鳥居に向かって左の石祠群です。

鳥居左の5基

鳥居左の5基

神木のような大樹を挟んで、
左に2基、右に3基。その右は鳥居。
やっとこれで足のつらい屈伸運動から
もう少しで解放されます(笑)。

いちばん左の塔が、この境内で
唯一といっていい、仏塔です。

利根町とかなりちがう印象は、
仏塔関連が少ないことのほかに、
庚申塔が1基も見当たらないことです。
これは、ちょっと驚きです。

また、広い境内敷地がある神社で、
歌碑などの石碑が1基もないことも。
利根町は、布川や大房地区など、
昔は数多くの文人たちが
いたからかも知れません。

23.地蔵菩薩塔

23.地蔵菩薩塔 23.地蔵菩薩塔左側面

赤子を抱いているので、最初は
子安観音かと思いましたが、
坊主頭と錫杖で地蔵菩薩と判断しました。
神社境内に仏教関連の塔があるのは
利根町では珍しいことではないのですが、
ここ王子神社ではこれが唯一です。

左側面は、文政十丁亥十一月吉日
文政10年(1827)11月の造立。
台石には、女講中 とあり、さもありなんです。

24.道祖大神

道祖神で、道祖「大」神と神の尊称が付加されているのを見るのは、初体験です。

24.道祖大神 24.道祖大神左側面 24.道祖大神右側面

左側面は、文化六巳年。文化6年(1809)だけで造立月は記されていません。
右側面は、施主 宮久保□衛門

25.不明の石祠

25.不明の石祠 25.不明の石祠左側面

この並びからみても道祖神だと思うのですが、
石祠左側面の銘文が不可解です。

左側面の 寛保元酉十月十九日 寛保元年
(1741)10月19日の造立はいいとして、
その隣に記された □□大権現
□□隆□□ はどういう意味でしょう。

26.道祖神

26.道祖神 26.道祖神左側面 26.道祖神右側面

左側面は、奉供養十六夜講
右側面、宝暦十三未九月吉日 同行十七人。宝暦13年(1763)9月の造立です。

27.不明の石祠

27.不明の石祠 27.不明の石祠左側面 27.不明の石祠右側面

これも、道祖神の可能性大です。
左側面に、天明四辰十一月吉日、天明4年(1784)11月の造立。
右側面は、宮久保氏 とあり、これは 24.道祖大神 の宮久保□衛門の子孫の可能性も。

全27基の内訳

ふぅーーっ、やっと石祠類27項目の撮影調査完了。神道石祠は仏教関係より銘文が少なめなので、比較的らくなのですが、
なにせ身重な tanupon なので、足腰が疲れてしまうのです。結局、後半だれてピンボケで再撮、となってしまうことも多々。

全27基の内訳は・・・
道祖神5、稲荷3、子安大明神2、大神宮、疱瘡宮、八幡宮、天神宮、三王大明神、白山大権現、地蔵塔が各1、
そして、不明7、廃棄石祠3
でした。不明7にも道祖神が何基かありそうで、かなりの数の道祖神で外敵を防いでいる印象。
また、利根町に多い水神宮が見当たらないのは、水害を避けて移転した安全な立地のせいでしょうか。
仏教系の石仏がわずか1基、庚申塔(道教系?)が皆無というのは、利根町の神社とちがって「純神道系」のイメージです。

王子神社前を過ぎて

神社前を過ぎて東に向かうと、下左のように右手に塀のある1本道?です。行く先を知らない当初は、これも魅惑の体験。

王子神社前から東向き 王子神社前から東向き角

結果としてさほど長い距離でないにしても右折コーナーへ。下右はそのたどり着いた先から元の路を振り向いたカット。
この左手に、王子神社代々の宮司を務めておられる岩井さんの邸宅があります。

王子神社前から東、東南から南下 王子神社前の道を振り返る
王子神社前から東、県道4号(千葉龍ケ崎線)方面へ

ここから先は、県道4号(千葉龍ケ崎線)方面に向かいます。

ここからなら、クルマもだいじょうぶ。
でも、県道にでるまでは、街灯ひとつ見当たりません。

ここで、クエスチョン。
岩井宮司宅のお子さまは、学校への行き帰り、
とくに夕方以降は、どうされていたのでしょうか。
西に行くも東に出るも、これでは、tanupon のような臆病者では、
夜間はとても出かけられないし、戻っても来られません。
そこのところ、実際はどうされていたのか、
今度、ぜひお聞きしたいものです。


(13/05/13) (撮影 13/05/04・05/05/02・05/03/14)