タヌポンの利根ぽんぽ行 早尾天神社

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天神様といえば、梅。そして合格祈願の絵馬。
梅をこよなく愛し、また学問の神様といわれる菅原道真公が祭神なればこそのモチーフです。

利根町の天神様は合計3社ありますが、この早尾天神社がいちばん大きく有名です。
ちなみにほかのは 押戸の天満宮徳満寺脇にある天神宮 です。
でも鳥居のない石祠だけのものなら各地域で見かけました。
全部でいくつになるか、いつかまとめてみようと思っています。


上記は探索当初の記述です。
その後、いろいろ調べてみると、利根町の天神と呼ばれる施設は
石祠だけのものを含めて全部で10社見つかりました。
(目的別索引 神社編 の系統別索引天神社の項目参照)
そして2010年12月現在、当コンテンツは追記が重なり、構成が複雑になったため再構成し、
あわせて誤表記を修正、画像の更新等を行い、新しくUPしました。
神木の現況、一部の石祠等、不明のところがまだ若干あり、引き続いて調査をすすめます。

早尾天神社所在地は、利根町早尾74。利根町指定文化財。境内敷地940坪。

天神社、天満宮、天神宮の呼び名のちがいについては、神社の呼び方 参照。


2011年拝殿改築
参道と改築された拝殿 凍った手水地震後でしばらく訪問していない間に、
改築されたことを聞きました。
手水も凍る寒い冬でしたが、
なんとか撮影。
(12/01/28 追記)


利根町北部マップ

利根町北部マップ

境内入口近辺

バス通りからの入口

左は、早尾天神社への通常の入口。
これは、表通り(バス通り)に面しています。

しかし、早尾天神社の正規の入口は
鳥居の立っているところ・・・なのだと思いますが、
これは早尾のメインのバス通りではなく
その東端を右折したすぐのところにあります。
ですが、ここには数段ですが石段がありますし、
バス通りからの入口のほうがすんなりと入れますので、
だれもがそこから入っていると思います。

またバス通りにはそれより少し西にも抜け道で入れる箇所があり、
その隣には小さな梅園があり、石祠などがおかれています。
また、小梅園のさらに西には、早尾の梅園 や桜並木などがあります。

以下では、正規の入口(?)である鳥居のあるほうから入ったとして説明をします。

鳥居

鳥居正面

道路から4、5段の石段を
昇ってすぐが鳥居ですが、
ここは午後は逆光。
また、神額がもともと明瞭ではない上、
石段前の道路は
道幅が狭いこともあって、
どうにも鳥居正面からの撮影は
うまくいきません。

それなら、朝撮ればいい、ですって?
11時過ぎでもダメだったんです。
もっと早く?
朝はなにかと忙しくてね。
いや、朝は苦手なんです。

神額は以下の写真でご確認を。早尾天神社ではなく天満宮となっています。これも、なかなか撮りづらい撮影でした。
鳥居のすぐ下から石段となっているので足場が悪く、真正面からの接写ができません。
右下は境内側からの写真。これなら撮りやすいのですが裏側です。
また、隣に石碑が建っていますが、これも表は道路側を向いています。しかも、すぐ前には金網。
この撮影はさらに難しくなりますが、なんとか斜めから撮りました。あとで紹介します。

鳥居神額 鳥居(裏側)と石碑
表通りからの入口?

これはバス通りからの抜け道の入口。

写真の坂道を登れば境内中央への近道になります。
たいした坂ではありません。ラクラク登れます。
右奥に見えるのが拝殿。左の祠が境内社の大宮大明神。

早尾天神社の由緒・沿革

鳥居から境内の中を見る

鳥居から境内の中を見たところ。
青い建物が拝殿。その手前が手水。
さらに手前が石碑。
いちばん手前に石燈。
右には祠が見えます。

この天満宮がいつ創立されたのかは
実は分かっていません。
応永年中(1394〜)別当西光院奉務す、という記述が茨城県神社誌にありますがそれ以前ということでしょうか。

写真は2005年の正月3日のもの。
早尾天神社の梅は、咲くのが
ほかよりも早いのが不思議です。

御神楽百人講記念碑

御神楽百人講記念碑

これが、冒頭で説明した鳥居のすぐ右脇の石碑。
道路側を向いているため、石碑を正面から見るには、
境内からは前のほうへ回りこむしかありません。
ところが道路との境に柵があり、今度は柵と石碑との間が狭いため
真正面からは撮影できず、斜め撮りしかできません。

御神楽百人講記念碑と書いてあるのをやっと確認しました。
その隣には「従四位四等多田好問書」とあります。
四等とは勲四等のことでしょうか。

多田好問[ただこうもん](1845−1918)は、明治時代の官吏。弘化2年生まれ。京都の人。維新後、岩倉具視にしたがって東京に行き、新政府につかえる。有職故実にくわしく、内閣書記官、宮内省御用掛・記録課長として皇室行事の典例調査に従事した。著書に「岩倉公実記」がある。大正7年11月17日死去。74歳。号は東蕪。(日本人名大辞典等より)

境内中央

御神燈

御神燈

鳥居から境内に入って最初に目につくのが、この御神燈。
町史には、松平上野介附人 鈴木専右衛門建立とありますが、
御神燈では、三州西尾城主松平和泉守内鈴木専右衛門となっています。
町史の松平上野介というのはどうもちがうような気がするのですが・・・。
慶応4(1868)年正月の建立ということは、もう半年強で明治元年ですね。
松平和泉守とは、松平乗全(のりやす)で幕末の老中でした。
こんな維新間近の押し迫った頃にこんなところにこんなもの建てて・・・
と、建てたのは老中ではなく附人の鈴木専右衛門でした。

御神燈由緒書

楳華碑はどこに?

早尾天神社は、鳥居から境内に入って中央から右手のほうにいくつかの石塔類が並んでいますが、
他の地区とちがって、先ほどの御神楽百人講記念碑のように大き目の石碑が多く目につきます。
ここには、祭神の菅原道真公にちなんだ芭蕉の句碑(楳華碑)があると聞いていたのですが、
さてどこにあるのでしょう?ほかの石碑や石塔を順に見てみましょう。
楳華碑、発見!

早尾天神祠碑

早尾天神祠碑 早尾天神祠碑

境内の中央、御神燈の背後に立っているのが、早尾天神祠碑。

最初これが芭蕉の句碑である楳華碑なのかなと思いました。
紅梅の花がちょうど碑のそばで咲いていたので、いかにもそれらしく見えたのです。

「廿五(にじゅうご)日は天神の祭りかな」

と楳華碑には記されているというのですが、この碑にはどこにもそんな句は記されていません。
それにしても「廿五日は天神の祭りかな」とはへんな句ですね。語呂が悪いし。(→ 以下、Topics 句の読み方発見 参照)
でもこれにより毎年1月25日(に近い日曜日)に早尾天神社では例大祭を行っているとのことです。

さて、祠碑とは「しひ」と呼びますが、祠をほこらの意味ととると早尾天神社の場合、ちょっと違和感があります。
でも、祠には社(やしろ)の意味もあるそうです。
そこで、早尾天神祠碑は、早尾天神社碑と置き換えてみるとこの碑の目的が明確になりますね。
すなわちここには、早尾天神社縁起つまり天神社の由緒・施設等々などの情報が記されています。
このうち祭神、配祀、神像、神紋、社名額等々は以下拝殿、本殿の項目、神木その他当該項目にて説明します。
(上右写真をクリック拡大すれば碑文の詳細を読むことができます)

Topics 句の読み方発見

つついつつひはあまかみのまつりかな

ついに、この芭蕉(推定)の句の五・七・五の謎が解明しました!
当サイトの掲示板 ぽんぽこBBS に、HN‘さつ’さんという方から投稿があり、判明しました。以下、転記します。

〜早尾天神の「廿五日は天神の祭かな」という句なのですが、どうやら「つついつつ ひはあまかみの まつりかな」と読むようです。私が以前学校で調べ物をしていて行き当たった「宗祇諸国物語」という1600年代後半の宗祇を主人公にした書物に出てきます。また、「天文雑説」「塵塚物語」という書物にも同様の物語が見られるようです。また、その中には「日光山をてらする桜かな」という句を「ひのひかり やまをてらする さくらかな」という読み方をする逸話もあり、一見五・七・五に読めない句を見事に五・七・五にするという話になっています〜(2012/1/25投稿)

いやあ、永年の謎(?)がひとつ氷解しましたね。‘さつ’さん、ありがとうございます。
「にじゅうごにちは・・・」では、字余りで語呂も悪く、ちがう読み方をするのでは、とは思っていましたが、
「つついつつ」とは想像もつきませんでした。
しかし、伊勢物語に出てくるあの有名な
筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに
の「つついつつ」とは異なるようで、「つつい」は「連い」と書くようですが、語源がいまひとつ不明です。
が、古典では、25をたしかに「つついつつ」と読むことはまちがいないようです。
では、35ならどう読むのか、とか語源とか意味合いがわからないと応用が利きません。今後の課題です。

(12/01/26 追記)

つついつつは、10+5+10!

上記の追記直後に、町の「豊島ホームページ」管理者のTさんとお会いし、「つついつつ」の話をしました。
その翌々日、Tさんがいろいろ調べてくださって、「つつ」が19を意味することや
それに「つついつつ」の「い」(=5)を足して「つつい」だけで24の意味となる等々のメールをいただきました。
また、「つつ」には別の解釈で、1少ない数を示す意味合いもあること。
たとえば、「つくも」とは99の意味がありますが、本来つくもは「つつも」であり、「も」は100を示しています。
したがって、1少ない「つつ」が接頭語として付いている「も」は99となるわけで、
そうしたことから、「つついつつ」も24か25の意味があるのでは、という解釈がされていることを教えていただきました。

しかし、ひとつの言葉の「つついつつ」の中で、前の「つつ」と後ろの「つつ」の意味合いがちがうことも、不自然ですし、
後半のひとつ数値を減らす意味合いのある「つつ」なのに、この場合は1つ足さないと25になりません。
これでは「つついつつ」を25と解釈する明快な回答とはなりえないような気がしました。
数値の前に「つつ」が付く場合は、−1、数値の後ろに「つつ」が付く場合は+1とする、
こうした法則がもしあるとすれば、「つつい」(=19+5)プラス「つつ」(+1)で25となるわけですが、
これはちょっと複雑すぎる解釈のようにも思います。事実とはもっとシンプルなものにちがいないのです。

また、もともと「つつ」がなぜ19という意味になるのかも釈然としませんでしたが、
これは、「つつ」は「連」という字を書き、連歌が19文字だからという説明を見て、一見なるほどと思いました。
それでも、19とは中途半端な数値で、しかも19の場合だけしか応用がききません。
天神の記念日の25という数値を示すのに、なぜこのような19という概念を持ち出さねばならないのか、
そんなところも、なにか納得できないものを感じました。

ところが、「つつ」が19という数値を示している、というのは実は、連歌ではなく別の理由からであることが分かりました。
それが、以下のページです。
つづの意味

なんということでしょうか。古語の「つつ」とはもともと19ではなく「10」なのです。
というか、古語の10は「つつ」(つづ)と読むのです。
「つつ」を10ではなく、転用となった19と解釈、そこから25をひねり出そうとしたことが、そもそものまちがいでした。
すなおに「つつ」(=10)+「い」(=5)+「つつ」(=10)=25 でなんのことはない25です。

「つついつつ」は「10+5+10」。
この結論は、とくにどこかに記されていたことではありませんが、わたしはまずまちがいないと思います。
シンプルで分かりやすい。単純明快。正解とはいつもそういうものだからです。
ですから、別の真実がある場合、それをだれかに説明されるまでは、この解釈をわたしは是とすることにします。
(12/01/29追記)

村社早尾天神社記念碑

村社早尾天神社記念碑

早尾天神祠碑の背後にもうひとつ石碑が見つかりました。
村社早尾天神社記念碑と大きく記されているのですが、
なにを記念しているのか要領を得ません。
村社に正式になった記念なのでしょうか。

これにも「廿五日は天神の祭りかな」の句はどこにも彫られていないので、
探している楳華碑ではなさそうです。
いったい楳華碑とはどれなのでしょう。
もうすでに石碑は3つ見ました。
ほかには石碑というより石塔のようなものばかりなのですが・・・。

楳華碑が気になりますが、ここで石塔類は後にして、拝殿を先に見てみましょう。
楳華碑、発見!

拝殿

拝殿

上記記念碑の左手奥にあるのが、
拝殿。瓦葺です。

早尾天神社の祭神は、
いわずと知れた菅原道真。
先ほどの祠碑には、
正二位太政大臣とあります。

注連縄がないようですね。
なくてもいいのかな?

拝殿は、1月25日の例大祭時には、
扉が開かれるとともに、
幕などで美しく飾られます。
それは、後半で紹介します。

2011年拝殿改築

改築された拝殿

2011年の暮れに
拝殿が改築されたことを聞きました。
3月の大地震直前に訪問しましたが、
それ以降、ご無沙汰していました。

写真を撮りに、と思っていましたが、
この冬は昨年よりずっと寒く、
ようやく厚手のジャケットを調達して
バイクで出かけました。

瓦葺ではなくなったのか、
前よりも瀟洒な印象ですが、
注連縄が新調されたようです。
華美なものではなく
落ち着いたいい感じです。
(12/01/28 追記 12/01/27撮影)

雑感:拝殿改築によせて

上記は、芭蕉作「廿五日は天神の祭りかな」に関しての Topics 句の読み方発見 追記の直後に撮影・追記したものです。
瀟洒な改築とはいうものの、時節柄、氏子の皆さんがいろいろ努力されておられることと思います。
しかし、拝殿改築等は「利根町レベル」のことであり、芭蕉の句碑をどうあつかうかは「全国レベル」のことのように思います。
注連縄の新調等も無論、大切ですが、全国的に著名な芭蕉の句碑が、参詣客がまったく気がつかないような場所にひっそりとただただ風化を待っている、というのはとてももったいない気がします。しかも、台座に対して上部の句碑本体が正しい向きに設営されていません。せめて、七福神のとなりに、句碑の読み方や杉野東山書などの説明看板等を含めておいてあげたい気がします。全国からの早尾天神社への訪問など望んでいるわけではないでしょうが、町の「数少ない財産」とも言える句碑をもう少しなんとかできないかな、と思うしだいです。
(12/01/28 追記)

篆額と鈴

拝殿上部には、鈴と篆額が設置されています。篆額は、東京女子薬学校長岡田重信氏の書ということです。
下右写真は、当初の撮影時より数年後で撮ったもの。篆額の両脇には松の写真が新たに飾られています。
これは、おそらく昔の神木だった頃の松を撮ったものと推察されます。

篆額と鈴 篆額その後

常盤御前図・牛若丸修行図

早尾天神社にも、絵馬が2点奉納されています。なぜかおもしろいことに2点とも「源義経」に関連する絵馬です。

左は「常盤御前図」。サイズは、縦33.5×横48.0cm とそれほど大きくはありません。
雪の中を牛若を抱きながら、裸足の今若・乙若を連れて常盤御前が逃げ延びる姿が描かれています。
作者は「布川たこや」こと「堀内八十松」。柳田国男の末弟で、後の日本画家松岡映丘の画才を見抜いたという人物です。

常盤御前図 牛若丸修行図

上右は、「牛若丸修行図」。サイズは、縦60.0×横90.0cm。作者は、齋藤良郷。
左上の烏天狗と格闘している牛若丸、右上には大天狗、左下は、吉次信高と推定されています。
利根町の中田切地区には、義経が宿をとり東北方面に逃れたという伝説が残っています。
早尾天神社の常盤御前図・牛若丸修行図に関しては、いずれも制作年代は不詳となっています。

本殿

本殿と拝殿

この写真は、拝殿の後方から、
本殿・拝殿を撮ったもの。
本殿は拝殿正面からは見えませんが、
拝殿よりも大きいですね。
木造で流れ造りです。

主祭神の菅原道真公に対して、配祀は、祠碑には、大山毘賣命(おおやまひめのみこと)ほか八神とあります。
ところが、町史には、

の九神の名が記されています。

見比べると祠碑の大山毘賣命(おおやまひめのみこと)は、町史の九神のいずれにも該当しません。
おそらく大山毘賣命(おおやまひめのみこと)と大宮比売命(おおみやひめのみこと)のいずれかに
まちがいがあるものと思われます。
大山毘賣命(おおやまひめのみこと)という名は、調べてみると古代の神には見当たらないので、
この場合は、祠碑のほうが、大咋命(おおやまくいのみこと)と大比売命(おおみやひめのみこと)を
混同したのではないかと推定しましたが、さて真偽は?

※配祀とは・・・主祭神にそえて、その神と縁故のある他の神をまつること。

本殿 本殿

瑞垣も設置され、朱色に青となかなか鮮やかな本殿。道真公もご満足してますでしょうか。
この中に、祭神像が安置されているものと思われますが、ふだんは固く閉ざされていて見ることはできません。
33年に1度、ご開帳となるということです。いまからだと何時がその時になるのでしょうか。
また、早尾天神社の神紋(神社の紋章)は梅鉢ということですが、まあそれが妥当なんでしょうね。

ところで、早尾天神社の境内社ですが・・・。

大宮大明神

大宮大明神

これは、境内社の大宮大明神。
配祀としては大宮比売命(おおみやひめのみこと)。

この社殿は、元大宮台に鎮座していたものを、昭和56年(1981)に天神社に遷宮した、と町史にあります。

なぜ遷宮したのかも知りたいところですが、大宮台とは、どこなのでしょう?
利根町では聞いたことがありません。まさか、さいたま市大宮区?
ほかに千葉市若葉区に大宮台という地名があり大宮神社もあるようですが、それでしょうか?
→ なんのことはありません。早尾天神社のすぐ真北の地名(旧地名?)と判明(下に追記)

これもなかなか立派です。木鼻の獅子などにも色がついています。
ところで、この色なのですが、黄色に見えますが、もともとはどんな色だったのでしょうか。
当初は朱色で、年代を経てこうなったと思っているのですが・・・?

大宮大明神 大宮大明神木鼻

大宮台は天神社の目の前

大宮台

左は、利根町小字地図(利根町史第一巻付録より)。

ここに、「大宮台」の地名が出ています。このあたり一帯をタヌポンは早尾もしくは早尾台と総称していましたが、団地ができたときに大宮台の地名は削除されたということでしょうか(それとも、正式な地名としてはまだ残っているのかな?)。
まあ、まさか埼玉県の大宮とは思いませんでしたが・・・。いずれにせよ、当初は大宮神社があり、その上で大宮台という地名が付いたと思われますが、区画整理等々で早尾天神に遷宮されたと同時に、地名もなくなり、忘れられていくということになるのでしょうか。

余談ですが、昨年(2011)の大地震による液状化で、自分の住んでいるところがもともとどんな土地であったかを改めて調べる傾向が出てきたという話がありますが、旧地名なども知っておくといいかも知れませんね。

実は、以上のことは、今年になって知己を得ました「利根町歩き ある記」著者のNさんから通信があり、教えていただきました。Nさんもわたしと同様の疑問をもち、町史編纂に関わった方より利根町小字地図のヒントをもらって調べられたということです。おかげさまで、これも永年の(怠惰によりなにも調べないでほおっておいた)疑問がこれで解決しました。この場をかりてお礼申し上げます。Nさん、どうもありがとうございました。
(12/02/15追記)

さて、再度、拝殿前にもどって・・・

手水舎(両脇に常夜燈)

手水舎 手水

拝殿前の左手、境内中央にある手水舎。この脇に1基ずつ常夜燈が建てられているのは、ちょっと奇異な感じがします。
拝殿や本殿近くにあるのがふつうかなと思いましたが、でも、もっと気になるのは・・・。
手水本体ですが、よく見ると卍のレリーフ(浮き彫り)があります(上右の写真)。これが神社とは異質な感じがしませんか?
ほかに判読できる文字を探してみますと・・・早尾村 西光寺 というのが見えます。
調べてみると徳満寺の末寺でいまは廃寺となっている西光院という寺の存在が分かりました。
この手水はその西光院に奉納されたものなのですね。もともと早尾天神社のものではないのです。


以上は05/09/18に追記したものですが、ここで早尾天神社の創立・由緒にたちもどってみましょう。

祠碑・町史には、創立不詳なるも、応永年中丹波の人某 別当となり奉務 別当寺西光院 とあります。
ここに記されている別当・別当寺とはなにかを知るとこの手水の卍の意味も分かるかもしれません。

別当・別当寺(べっとうじ)とは・・・神仏習合が許されていた江戸時代以前に神社に付属して置かれた寺のことで、神社の祭祀を仏式で行う者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言った。神仏習合の時代には、神社で最も権力があったのは別当であり、宮司はその下に置かれた。(Wikipediaより抜粋)

応永年中とは1394〜1427で江戸時代より前の室町時代ですから、
上記の説明に従えば、早尾天神社は、
仏式である別当寺西光院そのものかもしくはその下部組織であったというべきです。
したがって、手水に仏式の卍をつけて奉納されてもなんら不思議はないですね。
でも、この手水は、享保9(1724)年12月の建立、と記されています。
江戸時代に入っても別当寺と呼ばれていたかは別として、
早尾天神社というより西光院が主体としてこの神社が存続していたと考えてよさそうです。
おそらく明治維新以降、廃仏毀釈などでこんどは寺と神社の地位が一時的に逆転したときに、
西光院は衰退・廃寺となり、こんどは早尾天神社の名が前に出てきたということでしょうか。

利根七福神

利根七福神の福禄寿

手水舎のすぐ左隣りには 利根七福神の福禄寿 があります。
七福神詳細は、リンクを参照。

利根七福神の福禄寿

絵馬掛け

絵馬

拝殿から見て左手、手水舎の正面に
向かい合わせに立っているのが絵馬掛け。
千羽鶴なども取り付けられていますね。
入試はうまくいったのでしょうか?

タヌポンの奥さんも娘の高校入試のときに
ここでお願いしたんだとか。
お願いばかりするけど
お礼はあまりしませんね。
いまがチャンスです。
では⇒

ん・・・やはり
二拝二拍手一拝?

二拝二拍手一拝

もうひとつ、大宮大明神の右隣に小さな祠があります。これが何なのか分かりません。
祠の中には3体の像が安置されています。いちばん右のお坊さんはずいぶん小さいですね。この差は何なのでしょう?

初期の探索ではこれが何であるか分かりませんでした。四郡大師と知ったのは何ヵ月か後になります。
四郡大師については「タヌポンの利根ぽんぽ行 惣新田集会所近辺」の「四郡大師とは?」をご覧ください。

四郡大師31番

四郡大師の存在を知らないときは、祠に番号札がついていることなどまったく留意していませんでした。
これらの写真は時期を別にして撮ったものです。

四郡大師 大師31番
大師像

中の3体のお坊さんは、
それぞれだれになるのかはいまだ不明です。
少なくともひとりは
大師(空海)なのでしょうが。

御神木は、松からオガタマノキに

御神木?

一般に天神の御神木は梅の木と聞きましたが、
早尾天神社ではそうでないことが分かりました。
先ほどの早尾天神社祠碑には、樹齢500年余の松の大木が、
昭和54〜55(1979〜1980)年にわたり虫害により枯死したため、
やむなく「小賀玉の木」に替えたこと、
また、それを記念して建てたのがその祠碑であると記されています。

拝殿の上部に飾られている写真の松が以前の神木である可能性もありますが、
樹齢500年というには、ちょっと細すぎるような印象もあります。

さて、それでは、現在の御神木であるオガタマノキとはどの木なのでしょうか。

左の写真は、境内でいちばん大きな樹。
これがオガタマノキなら問題解決ですが、昭和55年はわずか25年前。
写真の樹はその当時からも結構な巨木だったとしたら、
それを他から運んでくるというのはちょっと難しいような気もします。
果たして、この樹はオガタマノキか否か。否ならば、神木は境内のどこにあるのか。いま、調査中です。

→ 上記記述直後、利根タブノキ会のTさんに教えていただきました。これはスダジイでした。幹周3m47cmの立派な巨木ですとのこと。さあ、神木オガタマノキはどこに?(同日追記)

公孫樹

上の樹のほかにもう1本、目だって大きいのが、これ。
イチョウの樹です。
公孫樹であることは最近、分かりました。
黄葉の頃に写真を撮りに来ようと思っています。

さて、神木オガタマノキですが、モクレン科の常緑高木。
とくに神社に植えられることが多いそうです。
神前に供えるときに使われたようで、
小賀玉(おがたま)は、招霊とも書きます。
神霊を招きよせる意味があるのですね。

石塔・石祠類

さて、忘れかけていた楳華碑ですが、境内でまだ紹介していないのは、小規模の石塔や石祠類だけです。
そこに楳華碑があるとは思えませんが、少しずつ見てみましょう。
鳥居のある入口を入るとすぐ右手付近、大樹の前後に、石塔・石祠類が並べて建てられています。
まずは、大樹の手前にあるものから。

以下ですが、右写真の1基は、ほかの5基のいちばん左の石祠の背後に隠れるようにして建てられています。
これらはいずれも供養塔のようで、楳華碑をイメージするような痕跡はどこにも見当たりません。

石塔群 石塔群

次は、大樹の奥。大樹と四郡大師の祠との間に並んでいるもの。

石塔群

ここも5基あります。
が、はっきりとわかるものでは、
前列の地蔵、西国巡礼札所の石塔くらい。
あとは碑文等彫られているものも
しっかり見たわけでもないのですが、
特筆するほどのものではないようです。

町史には、
疱瘡社 嘉永5年(1852)銘石祠ほか石塔5基、とありますが、
疱瘡社という石祠がどれかも分からないし、
ほか石塔5基というのも、
さきほどの5基を足すとまったく数が合いません。

どうも、楳華碑は見つかりませんね。でも、まだ見ていないところがあります。
境内の奥、本殿裏にもなにかありそうです。見てみましょう。
(→ 楳華碑は、実はここにあったのです!のちほど説明)

境内奥

ちょっと見てみましたが、ここから先は、当初来たとき、分からないことばかりでした。
でも、現在、早尾天神社コンテンツ更新版をつくっているときに少し判明・推理したものもあります。

もしかして、これが神木のオガタマノキ?

何のまじない?

本殿裏で見つけた妙なもの。
木の根元から3本の棒が扇を広げるような角度で
地面に刺さっています。
先には紙垂のようなものが巻きつけてあります。
魔よけか何かのおまじないでしょうか。

当初はそう思いましたが、
いまひとつひらめいたのは・・・
もしかしてこれが枯死した松の替わりに
神木となった樹ではないかと!?
タヌポンのカンはさて当たるかどうか。

でも、25年経ってこの木の太さでは、貧弱過ぎますかねえ。やっぱりちがうかあ?

富士浅間大菩薩

富士浅間大菩薩

上記のおまじないの樹の隣に設置されていた石祠。
当初はまったく分かりませんでした。でも、いまなら・・・。
石祠のなかをよく見てみると・・・
まず、下に大菩薩と彫られているのが分かります。
次にその上に・・・浅・・間。
その上にももう1字。・・・士・・・ですか?
士浅間大菩薩・・・なんですかこれ?
???・・・・・!!!!
ととのいました。いや、判明しました。
見えませんがもう1字、富がつくハズです。
そうです。富士浅間大菩薩。これにまちがいないでしょう。

それにしても、浅間神社+仏教菩薩とは、神仏習合はいつも奇異な感じがしますね。

あれっ?もう境内はほとんど見尽くしてしまったような。楳華碑は?
と、大宮大明神横の抜け道を下って、ふらふらとバス通りに出たタヌポンでありました。
隣にきれいな梅が咲いていたからです。もしかして、そこに・・・。

小梅園

境内奥、というより隣りの敷地。早尾天神社からいったん外、バス通りに出てすぐ左手に入ると・・・。
とてもきれいな梅の木が何本か立っているミニ梅園があるのですが・・・。

梅 梅

おやっ、何か見えますね。白梅の木の下のほうに・・・。「楳華碑発見」の期待がたかまるシチュエーション!

梅 何か見える・・・

小梅園の石祠

石祠? 石祠?
石祠?の裏

うーーん。また石の祠ですね。碑ではないですね。
早尾天神社あるいは菅原道真公と何か縁があるのでしょうか?
石祠に刻まれているものが分からないので
何ともいいようがありません。
石祠の裏には万延元年(1860)10月建立の銘があります。
(写真で石祠の前に見える白いものは大根のお供えです)

あーー、「楳華碑」はどこに!

早尾天神にはもうひとつ奥の宮があるということですが、
「奥の宮」の文字が朱書きにされていることとか、その設置場所が「早尾坊谷津上」というところとか、
ということで上の石祠はどうもそれには該当しないようです。
「奥の宮」はいったいどこに?
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楳華碑、発見!

楳華碑、ついに発見しました!
前に紹介した、大宮大明神と大樹の間に設置されていた5基の石塔類。そのなかに実は楳華碑があったのです。
以下、写真を再掲します。

石塔群

後列のいちばん左の石碑、
これが芭蕉の句が記されているという楳華碑だったのです。
ちなみに楳華碑の「楳」の文字は「梅」と同じ意味で、
つまり、梅華碑もしくは梅花碑という意味になります。
タヌポンの好きな異色の漫画家で、
「まことちゃん」などで有名な
「楳図(うめず)かずお」氏の「楳」と言えばよく分かりますね。

媒華碑 媒華碑

石碑の台座の部分を洗ってみました。
すると文字がくっきりと現れてきました。
右から「楳華碑」と書かれています。
土で汚れていて見えなかったのです。

道具を何も持っていかなかったのですが、
社務所のそばにたまたまあった雨水のたまり水に、
たまたま持っていたタオルをぬらして拭いたのです。
ホースなどできれいに洗いたかったのですが、
まあ、これでも分かりますよね。

25日は天神の祭りかな

媒華碑の拡大

さて、楳華碑であることは確定しました。
では、杉野東山書という芭蕉の句はどこに彫られているのでしょう。

この上の碑に彫られた文字はどうしてもよく読み取れません。
かすかに読める文字を拾っても、
これは「廿五(にじゅうご)日は天神の祭りかな」とはちがうようです。

正面ではないところに彫られているかも知れません。
しかし、向かって右サイドはまったく読めません。
真後ろはどうかというと・・・。
これもいろいろ書いてありますが、句のようではありません。
(ここでは写真は省略します)

さて、残りは、向かって左側。
なんと・・・。濡れタオルでよく表面を磨いてみると!!!・・・何かそれらしい文字が・・・。

媒華碑

○五日は

  天神の

    ○○可那

○印のところがいまひとつ見えにくいのですが、
これが明らかに例の句であることは確かなようです。
可那は「かな」ですね。
しかし最初の文字が廿または二十のようには
タヌポンにはどうしても見えません。
もしこれがちがう文字だったとしたら
毎年1月25日の祭りは意味を成さなくなります。
でも、エライ学者さんたちがちゃんと解読しているか、
別の文献に書かれているのでしょうね。

さらに左のほうに何文字か書いてあるのも、さっぱり分かりません。

下のほうは辛うじて

菜日庵二世

東山 拝

と読めます。杉野東山書ということは確実のようです。

因みに、書家杉野東山は布川の俳人である杉野野叟の長子で、
野叟が菜日庵(さいじつあん)を号したことからその二世を名乗ったとあります(利根町史第6巻)。
杉野東山については詳しくは 応順寺の項目 で少し説明しました。

しかし、これが果たして芭蕉の句なのかどうかははっきりとはしていないようです。(えっ、それなら意味がないのでは?)

なお、この句碑は、当初、鳥居付近にあったところを現在の場所に移したといいます。
そのときに碑の向きを間違えて置いてしまったため、句の彫られた面が正面に来ていないということでした。
(利根町歴史民俗資料館の方よりお聞きしました)

25日と菅原道真の関係

タヌポンは知らなかったのですが、菅原道真公と25日という日付は実は縁が深かったのです。それは・・・。

生まれた日も亡くなった日も25日だったからです。

生年は承和12年(845)の6月25日であり、大宰府に流されて浄妙院で亡くなる薨年(こうねん)も
なんと延喜3年(903)年の2月25日なのです。(ただし、月日はいずれも旧暦です)
しかし、しかし、です。そうだとしても、いやそうであるからこそ、
この媒華碑に記された芭蕉?の句頭を25日と決めてしまった、というようなことはないのでしょうか?

「○五日は」

の○印の文字は実は正確に判別されたものではなく、
菅原道真の生死の日付から推測したものではないのか?という疑問がタヌポンに生まれてきました。
可能性としては、これがもし判別されていない文字であったとしても、
やはり25日と推定するのが妥当ではないかとは思うのですが・・・。。
でも、もしも、ぜんぜん別の言葉だとしたら・・・。
たとえばどんな文字が該当するのか分かりませんが、もしそうだとしたら

「○○可那」

の○印の文字も、祭りではなく別の言葉になるのかも知れません。
こんなことを想像するのもなんとなく楽しいとタヌポンは思っています。
でも、全国の天満宮などでは毎月の25日を縁日としているところが多いようです。
給料日としているところも多いですから、菅原道真公もなんとなくいい日に縁のある人ではありますね。


石祠一部補足

以下、楳華碑の隣に並んでいる石塔の拡大画像。西国四番札所、千部経王塔とか敷石供養塔の文字が見えます。
敷石供養とは初めて聞く言葉ですが、神社や寺によくある敷石を設置したときに記念して供養することのようです。
現代でもそんなことがおこなわれているのでしょうか?
それはともかく、早尾天神社とはいうものの、これらはすべて仏教関係の塔ですね。別当寺ですからねえ。

楳華碑の隣に並んでいる石塔

御歩射と例大祭

例大祭の1週間前

例大祭に初めて訪れたのは2007年の1月でした。
1月25日が菅原道真の縁の日ですから、その前後の日曜日ということで見当をつけて訪ねてみたわけです。
2007年の1月25日は木曜日なので、まずその前の日曜日である21日に行ってみると翌週であることが分かり、
2週続けて28日も行くことになりました。
でも、21日にもちょっとした行事があり思いがけないシーンを撮ることができました。

左は21日、右は28日、例大祭の日。飾りつけがちがいますね。屋根の庇のところもちょっとちがいます。
でも、ふだんは、28日の飾りつけはおろか21日のように扉さえ開けられてはいないのです。

21日の拝殿 28日の拝殿

左の21日の拝殿内では氏子の皆さんと宮司さんで。右は例祭当日。お賽銭だけでお祓いしてくれるのかも?
奉納幕の「第48回全国高校野球選手権大会出場記念」というのが、実に現代らしくていいですね。
ちなみに第48回大会は昭和41年(1966)で、茨城県立竜ヶ崎第一高等学校 が44年ぶり6回目の出場。
奉納が昭和42年とあるのも大会の翌年ですからつじつまがあいますね。

21日の拝殿内 28日のお祓い

お札を買わないとお祓いをしてくれないのかどうか聞き忘れました。えっ、当り前?すいません。
右の例祭当日の「古札納処」にふりがながあったので、初めてこれが「ふるふだおさめどころ」と読むことが分かりました。
別のお寺などにもこれが記されているところがあり、「こさつのうしょ」と読むのかな、なんて思っていました。

菅原道真のお札 古札納処
焚き火をする氏子の人たち

21日に訪れたとき、10数人ほどの壮年男性が焚き火をしたり、
宮司さんもいて祝詞をあげたりしているので、
例大祭なのかなと思いましたが、
案内で翌週ということを知りました。
では、きょうはなに?

大宮大明神で祝詞をあげる神主

左は大宮大明神に参拝する宮司さんと氏子の人たち。
聞いてみると、「菅原道真公の天神社とは別なのですが境内社の大宮大明神もわけへだてなくお参りしているのです」とのこと。

早尾天神社にはどうして大宮大明神があるのか、
その特別な関係と遷宮の経緯を聞きたかったのですが、
タヌポンの疑問の趣旨はうまく伝わらなかったようです。

ちょっと質問が高度すぎたかな・・・
いや質問の仕方が言葉足らずのせいでしょう。

御歩射(おびしゃ)

写真を撮ったりしていると、拝殿脇に置いてあった弓矢と的を取り、境内に的を設えようとしています。

「なんか流鏑馬(やぶさめ)でも始まるのかなあ」とタヌポンがつぶやいていると、
氏子の1人のかたが「ああ似ていますが、御歩射(おびしゃ)ですよ」。
「なるほど、御歩射でしたか!」
上曽根の稲荷大明神のコンテンツで前に紹介したことのある儀式 でした。実際に見たのはこれが初めてです。
以下、御歩射の道具と境内に立てた的、実際の様子です。

御歩射の道具 御歩射の的
氏子たちによる御歩射 氏子たちによる御歩射

御受渡の儀式

御受渡の儀式

一眼レフでバシャバシャ撮っているタヌポンを
なにか報道関係の人間と思ったのか、氏子代表のような方から、
「これから‘おうけわたし’の儀式をやるのでよかったら・・・」
ということで、社務所にお邪魔して写真を撮らせてもらいました。

くわしくお尋ねする時間がなかったので、
内容はさっぱりなのですが、
何か神社関連の引継ぎの儀式のようで、
毎年、神様の役割を氏子の人たちで持ち回りにする
というそんな印象を受けました。

御受渡の儀式

儀式のなかで、お酒を立て続けに
何杯も飲まなければならない様子で、
このハイペースは飲める人でも結構、つらそうです。

儀式のお供えには昔なら大きなフナを
生簀に入れて飾ったりしたものだということです。

写真をお送りする予定なので
もしまたお話しできる機会があれば、
この儀式のことなどもう少しくわしいことを
聞いてみたいと思っています。
タイトルの「御受渡」の文字も暫定ですのでご注意。

例大祭

出店も少しながら

さて、28日例大祭の日に再度、訪れました。
昔は、日曜日ということにこだわらず、
厳格に25日に決めていたようです。
また、それにもかかわらず、昔は、こうした出店も、境内を出て、
鳥居の前の通りから坂の下までずらりと並び、
たくさんの人が参詣したというのです。
いまは出店もわずか3店。
なぜか流れている演歌には、
なんともいえない哀愁がありました。

紅梅

昨年は少し寒くて1月中は梅は咲いていませんでしたが、
ことしは咲いています。一昨年は元旦から咲いていました。
早尾天神社の紅梅は
どの地区よりも少し開花が早いように思います。
さすがは梅が縁の天神様ではあります。

幟旗

タヌポンがとても興味を抱いたのは、この幟旗。
さて、何と書いてあるのでしょう?
いちばん上の3文字は菅公之ではないでしょうか。
「菅公」すなわち菅原道真公の、ということですね。
その下がまた達筆で分からないのですが、梅とか桜とか松とか・・・。
要は菅原道真公の梅は松や桜よりも価値がある、
なんていう趣旨なんではないでしょうか。
氏子の方のひとりに聞いてみましたがご存知ないようでした。
(クリック拡大参照)

手水

例大祭のときだけなのでしょうか。
手水の前が、榊の樹で飾られていました。
ふだんはなかったハズです。
これからもこのままになるのかしら。
後日、また訪れて、どうなっているか確かめてみることにしましょう。

手水

← (確認)
「榊」は祭礼など
特別な日だけの
装飾のようです。

episode

なにの皮?

皮をむかないで!

2011年正月に来てみたら、こんな貼紙があちこちに。

「皮をむかないで!」

皮って、なんの皮?
樹木の皮?面の皮?それとも、化けの皮?

女性3人の初詣客もこれを見て、ヤダ、コレ、ナニ、キモ・・・
笑いながらも、首をかしげていました。

正解は、みかんの皮と思うでしょ?でも、それだったら、
「皮を捨てないで!」じゃあないですか?
ちがうんですよ、きっと。なんだろう????

→ 意外な方より解答をいただきました。蛟蝄神社奥の宮の宮司さんより。
「最近、神社などの樹木の皮をお守りみたいにして剥いでもっていく人が増えている」とか。
なるほど。そういうことでしたか。でも、困ったものですね。樹が可哀想です。(11/01/19 追記)


(12/05/16・12/02/15・12/01/29・12/01/28・12/01/26・11/02/25・11/01/19・11/01/07・10/12/26・07/05/19・07/02/06・05/09/11・05/05/01・05/04/29・05/04/16 追記) (05/04/03)
(撮影 05/01/03・05/01/04・05/04/02・05/04/08・05/04/09・05/09/17・06/09/16・07/01/04・07/01/21・07/01/28・07/05/05・08/02/29・10/12/23・11/01/02・11/02/23・11/02/25・12/01/27)