タヌポンの利根ぽんぽ行 上曽根の稲荷大明神

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利根町の北東部、押付新田の北部は上曽根地区と呼ばれています。
ここでは、上曽根の水神宮 のほかに、お堂や神社など2ヵ所主要なポイントが見つかりました。

当初、それらをひとつのコンテンツ「上曽根地区」としてまとめましたが、
目次変更や追記の機会に、2つに別けて再構成しました。
そのひとつが、本コンテンツ「上曽根の稲荷大明神」です。

この稲荷神社は、上曽根の水神宮 から 押付本田の水神宮 へ向かう途中で、
ふと目にした右手の細い農道が気になり、「なにかありそう」と近づいて発見しました。

現在は、周囲の樹木が伐採され、遠目からも見えやすくなりましたが、
以前は鳥居前からの短い参道に竹などが生い茂っていて、とても見づらい場所でした。
朱色の鳥居だから辛うじて見つけられたともいえます。

この神社は、思わぬ発見ということもありますが、質素なたたずまいが気に入っているほか、
実はタヌポンにとって感慨深いできごとがあるのです。その話は、後半の episode で。

ほかに稲荷神社ということで「上曽根の稲」と、「不明の石碑」も、このコンテンツに加えました。
なお「薬師堂と上曽根の集会所」・「四郡大師57番」は、以下にコンテンツ移動させました。
→ 「沼薬師如来と上曽根集会所

上記「不明の石碑」は、「飯島君之墓銘」と判明しましたが、大震災でたいへんなことに・・・。


利根町西部マップ

利根町西部マップ

上曽根の稲荷大明神

2005年鳥居発見時

細い農道のそのまた脇道に入って、しかもですよ・・・。以下を見てください。
こんなに竹など雑木が繁っていて鳥居が赤いから分かっただけで・・・。

あれっ?なんかあるぞ! 鳥居のようだけど どうするんだ?この竹
鳥居 鳥居 鳥居
稲荷大明神

で、タヌポンは、竹を折り雑草を取り、
なんとか鳥居の形を撮影しようと、
その結果が、左の写真です。

このときはもう7月半ばで暑いし
汗は出るし、薮蚊はすごいし、
たいへんでした。
探訪の道具に「虫除けスプレー」と
「剪定ハサミ」を加えるべきだなあと
痛感しました。
「庭の草取りもしてくれないくせに」と
あとで奥さんにイヤミを言われる
原因ともなった経験でした。
05/08/02付Columbus Blog

稲荷大明神

鳥居は、明神鳥居で朱塗り、コンクリート製のようです。
左の柱の裏面には、
奉納 昭和五十一年十一月吉日 氏子一同」。
昭和51年(1976)の建立です。

さて、奥の本殿に・・・ああ、あちこちがかゆいなあ。

2011年正月時(現在)

稲荷大明神

少なくとも2009年までは、
上記のような環境でした。

2011年の正月に訪問したとき、
一変していました。

まるでロングヘアーが、
スキンヘッドになったようなイメージ。

真冬なので分かりませんでしたが、
この様子だと夏の薮蚊も
少しは減りそうです。

周囲が伐採されただけで、
鳥居や本殿その他の設備が、
改築・新設された風には見えません。

神額

神額

正一位稲荷大明神の神額。
結構、古そうですね。
鳥居の奉納時の昭和51年(1976)より
もっと前のものではないでしょうか。

正一位については以下を。
正一位、位階、神階とは

本殿

本殿

由緒沿革は不明ですが、
祭神の「倉稲魂命」
(うかのみたまのみこと)は
他と共通ですね。

以下は、訪問初期の本殿。
これはこれで、雰囲気はありますね。
あまり見通しのいいのも、
いいのか悪いのか?

旧本殿

賽銭箱の両脇には、小さな白いキツネが飾られています。稲荷神社は朱色が多いので可憐なアマガエルが目立ちます。

本殿 本殿とアマガエル

御歩射

祭礼として1月15日 旧初午に御歩射(おびしゃ)の神事があるということです。

本殿裏の御歩射(おびしゃ)の的

本殿裏に回ってみると、
本殿下の物置のような場所に
御歩射の的が置かれていました。
もちろん、これだけで御歩射ができるわけではなく、
ほかに弓と矢が必要ですし、
実際に神事を行うときには、
的には、紙も貼りなおししなければなりません。

御歩射とは

茨城県南部、千葉県などで春先に行われる歩射(ぶしゃ)の神事とあります。これではまだ分かりませんね。

御歩射と書いて、鳥と鬼の的に矢を射て1年の災難を除ける行事という説と、
御備社と書いて、神社の1年の設備を整えるのを目的とするものという2説があるということです。
上曽根の水神社などでも行われているようです。(『利根町史』第4巻)
タヌポンは、実際には、早尾天神社で見ることができました。早尾天神社 御歩射と例大祭 御歩射(おびしゃ) 参照。

御歩射というくらいですから、徒歩の状態で矢を射る、
つまり馬に乗って射る流鏑馬(やぶさめ)と対比してみると分かりやすいかも知れませんね。

手水

手水

奉献という文字はともかく、
真ん中に描かれたマークはなんでしょう?

神紋かも、と思い、家紋を調べましたが、
該当するものが見つかりません。
桃か鈴のようなマークの両脇にも、
なにか細い線で図柄が描かれているようですが、
これもよく分かりません。

もし、桃だとすると、桃は邪気を祓うという中国の信仰があり、
鬼退治の桃太郎などもそこからきているようですが、
果たして稲荷神社と関係があるのでしょうか。

→ 「宝珠」と判明。やはり稲荷神社、とくに眷属のキツネとの関連が深いようです。
龍ヶ崎王子神社「稲荷社本殿石祠」 参照)(13/05/13 追記)


手水右側面

手水の右側面には、
世ハ人」(世話人)として
豊嶋勘右エ門」「同 伊左エ門」「同 傳左エ門」の
豊嶋姓の名前が3名、記されています。
布川城主、豊嶋一族と関係があるのでしょうか。

上曽根に近い押付(新田)地区の「豊嶋」さんも、
琴平神社の力石の奉納 で名前を見かけました。

手水左側面

左側面では、文久3年(1863)2月の建立が分かります。
文久三亥年 二月吉日
氏子中

本体: 高30cm、幅63cm、厚46cm。台石: 高16cm。

(14/06/15 追記)

石祠2基

手水

本殿背後にに石祠が2基。
これは昔の本殿にあたるものなのでしょうか、
それとも別の境内社でしょうか。

石祠内部になにも記されていない様子で、
単に行き場のない近隣民家の氏神様かも知れません。

神木?

神木?

周囲の樹木がほとんど伐採されたので、
神木があるとしたら、この樹しか候補がありません。
本殿の左背後に立っています。
それほど大きな樹ではありませんが、樹形が親しみやすいですね。

でも、どうも植物の名は、花も樹も勉強不足で分かりません。
公孫樹ではなさそうだし、榊でもないような?

episode

骨折ギブスと点滴が痛々しいチョコ

私事なのですが、この神社にはタヌポンにとって大切な縁があります。
2006年の暮れからタヌポン宅のチョコ(当時わずか1歳)が、
ほとんど危篤寸前となってしまいました。
悲しさのあまり、バイクで冬の道を泣きながら無目的に走っていたときに、
この稲荷大明神の前に偶然、差し掛かりました。
神頼みなどということをあまりしないタヌポンですが、
このときばかりは、それこそわらをもつかむ気持ちで祈りました。

写真は、両前足が、骨折ギブスと点滴で痛々しいチョコ。その日のブログにも当時の悲しみを書いています。
06/12/27 Columbus Blog 洩れいずる哀しみ

すっかり元気になったチョコ

ところが、奇跡が起こりました。大晦日あたりからチョコが回復に向かったのです。
年が明けて2007年1月3日に、再び神社に参り、心からの礼をささげました。
それ以来、毎年の初詣は、まずはこの神社にお参りすることにしています。
(なお、この話は、いままで妻にも娘にも話したことはなく、ここで初めて記すことです)
チョコはその後も体調の変化はありましたが、現在わが家ではいちばん元気に。
1歳時のこんな事件があり、躾が不行き届きで、ムダ鳴きが多く困り者ではあります。

上曽根の日枝神社

古地図 日枝神社への入口

左は昔の町広報誌の地図。
中央右に「日枝神社」が・・・。

そんなのあったかなあ?
と、右写真の地点まで。
周囲をぐるぐる回りましたが、
怪しいところはこの路だけ。
少し北に進んでみます。

日枝神社発見!

日枝神社発見!

上右写真から少し進んだ先、右手、樹木が立ち並んだ奥。

なにか石祠のようなものが見えます。
場所から考えて、日枝神社はこれしか考えられません。

いや、ここも、盲点でした。
この砂利道の中に入っていこうとは思いませんからねえ。
さて、もっと近くに寄ってみます。
ああ、やはり蚊がいますね、かゆいなあ。

上曽根の日枝神社

日枝神社の祭神は、
大山咋神(おおやまくいのかみ)。
ただ、ここには、日枝神社と判断できる
ものがなにもありません。
広報誌に明記されているのがすべて。
町史を見てみると、上曽根中坪に、
日枝神社とありますね。
でも、由緒沿革などすべて不詳。

石祠右側面

本殿石祠向かって右側面に、
明治十三年辰初冬樹之」とあります。
明治13年(1880)の建立ですが、
「樹」の部分がどうにも見たこともない文字です。
樹の異体字をさらに異体化させたような字。
意味的には、之を樹(た)てる、ということですが・・・。

石祠右側面

台石はやはり「氏子中」と思いますが、真ん中の「子」は、どういう種類の書体でしょうか。篆書体?象形文字?

氏子中? 説文籀文の子

左のような、「(説文)籀文」という
篆刻文字を見つけました。
これによく似ています。
文字というか、絵のようです。
これで、「子」の字ということです。
左右が両親で中央が子供。まるで象形文字です。


籀文(ちゅうぶん)とは
漢字の字体の一つ。《史籀篇》(佚書)の冒頭の一節〈太史籀書〉を〈太史籀の書〉と訓(よ)み、籀を周宣王に仕えた太史(史官)の名と考えたことによる命名であるが、籀とは〈諷誦(そらよみ)する〉という動詞にすぎないという説も有力である。許慎の《説文解字》に別体としてあげられており、段玉裁は大篆(だいてん)のことを指すという。いっぽう王国維は、秦の石鼓文(せつこぶん)と字体が似ることから、戦国期に秦国で用いられた字体であり、東方六国の古文に対するものであると推定している。(世界大百科事典)

2011年3月11日の大震災で、本殿石祠が倒れたのでしょう。破損した笠石の一部が左に置かれています。

台座背後

左は、背後の台座。
昭和44年(1969)改装、と記されています。
これは現代様式で、左から刻銘。

それにしても、この時期、「樹」の字の確認時で、
襲われた蚊の大群は、形容しがたいものがありました(笑)。

(13/07/26・13/07/25 追記・撮影)

注連縄と参道

注連縄と参道

翌年、石祠のサイズを測りに再訪問したとき、
入口の樹木の間に簡易注連縄が張られていました。

なるほど、ここから参道になるわけですね。

昨年、こうなっていればもう少し発見しやすかったかも知れません。
ここは予備知識なくして、見つけ出すのは難しい場所です。

それにしても、豊作を願う稲荷神社などではなく、
日枝神社(大山咋神)を祀っているのは、
山王信仰の何か特別な理由があったのでしょうか。

本体: 高71cm、幅36cm、厚36cm。
台石: 高20cm、幅48cm、厚54cm。

(14/06/17 追記・14/06/16 撮影)

上曽根の稲

稲荷神社前の細道を北に少し行き、十字路を右折すると上曽根集会所に向かいます。
集会所の少し手前の路傍に、かつては切り株が置いてありました(写真下左)。しかし・・・。

大震災後、見てみると切り株はなくなり、柵などできていました(写真下右)。写真前方に上曽根集会所が見えます。
散歩での休憩にちょうどいいベンチになっていたのですが、散歩も最近はすっかりご無沙汰で、体重も右肩上がり(苦笑)。

切り株 切り株

下のFlashは、切り株健在の2006年のころ、切り株のすぐ前から南向きに撮った田んぼの変化です。

5月末と8月初め。
そして9月初め収穫間際の様子。
さらに、稲刈り後のカット。
稲の実りの変化をご覧ください。

実りの秋

どこで撮ったか忘れましたが、
上曽根の実りの秋です。

今年も豊作と、
放射能非検出を祈ります。
ああ、なんという時代に・・・。

飯島君之墓銘

謎の石碑

上曽根集会所を過ぎてさらに
東方向へ250mほど進んだ右手に
大きな石碑が見つかりました。

柵がめぐらせてあり、
道路側に扉があるのですが、
錠がかかっています。

上部の石碑タイトルが気になりますが、
この距離では碑文が読めないので
何の碑かさっぱり分かりません。
これは宿題です。

→ 「飯島君之墓銘」と判明!
この項目後半で説明。

裏手に回れるようなので裏から撮影した石碑。下部の拡大が以下の右写真。建立者の名前などが記されているようです。

石碑裏 石碑裏下部拡大

大震災後、再訪問してみると・・・

大震災直後の石碑

石碑の最上部のタイトルだけでもなんとか確認したいと、
これも何年ぶりかで間近で見てみたら、この通り。

施錠された門を突き破って石碑が倒壊していました。
おそらく、2011年3月11日の大震災のなせる業でしょう。

タイトル等を確認しようと思いましたが、
なにもそれらしいものが見えません。それもそのはず、
石碑は「前方に」倒壊したわけで、いわば「裏返し」。
門の外に飛び出してくれましたが、見えるのは石碑の背面だけ。

手で起して表面を見てみたら、ですって?とんでもない!
金も力もなかりけり、のタヌポンではびくともしませんよ!
100kgレベルの重さではないです。どうするのでしょうね、これ。

飯島君とは?

利根町の文化学芸碑にて、この石碑の詳細が分かりました。
上曽根の出身の、飯島利庸(としつね)[文化6年(1809)〜明治10年(1877)]の墓碑で、明治18年(1885)9月の建立。
飯島利庸は、数(算)学者で、門弟は220人に及んだといいます。明治4年(1871)には下利根川の測量も行っています。
西の上曽根集会所裏の共同墓地にも、飯島利庸墓碑が建てられています。(13/04/19 追記)

飯島利庸墓碑 は共同墓地ではなく、この石碑のさらに東に発見!
また、飯島君之墓銘その後 を追記しました。(13/10/21 追記)

上曽根の廻国塔

稲荷大明神のすぐ北の細道の途中、民家の庭先に石塔が立っている、と「根本さん情報」。
そのお宅の氏神様の場合が多いのですが、メール添付写真を見ると、廻国塔。そこで、現地を案内してもらい、調査。

廻国塔

上部に、日月のレリーフ。
塔中央に、「日本廻國供養」とあり、文句なしの廻国塔。

左右に「天下和順 日月清明」の常套句。
その下に「延享元甲子天□月吉日」、
月の部分が欠損していますが、延享元年(1744)の造立です。

左下に「上曽根邑 願主賢秀」とあります。
上曽根出身の賢秀という行者が建てたものと思われますが、
一般民家の庭先にあるのは、そのお宅がご子孫ということでしょうか。
それとも、近くの 薬師堂 に所属していた行者でしょうか。

なお、本調査にて、利根町における廻国塔は29基となりました。
利根町の廻国塔全29基.xlsx (19KB)

本体: 高73cm、幅25cm、厚15cm。

(16/07/31 追記・撮影)


(16/07/31・14/06/17・14/06/15・13/07/26・13/07/25・13/05/13・13/04/19 追記) (12/05/22 コンテンツ分離再構成) (06/09/18・06/09/03・06/09/02・06/08/14 追記) (05/09/06) (撮影 16/07/31・14/06/16・13/07/26・13/07/25・12/05/17・12/05/05・11/05/20・11/01/28・11/01/02・09/02/03・08/08/03・07/09/08・07/08/19・07/07/16・07/06/16・07/01/03・06/12/27・06/09/18・06/09/10・06/09/02・06/08/05・06/05/23・05/07/29・05/07/17)


本コンテンツの石造物データ → 上曽根の稲荷大明神石造物一覧.xlsx (12KB)