タヌポンの利根ぽんぽ行 龍ヶ崎南高校近辺

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塚と石祠


探索の初期のころ、利根町でいちばん古いといわれる蛟もう神社を訪ねました。
そのとき、神社境内の中で神社周辺の遺跡などを記した地図看板を発見しました。
そこには、神社の西に「利根町の鎌倉街道」が走っていたことを初めて知り驚きましたが、そのさらに北西に弟橘媛(おとたちばなひめ)の櫛塚があることも記されていました。
弟橘媛とは倭建尊(やまとたけるのみこと)の妻だった女性です。
そこはもう利根町ではなく龍ヶ崎市北方になる地域でしたが、塚が果たしてあるのかどうか訪ねてみようと思いました。

現在の地図で調べてみるとちょうどそこは龍ヶ崎南高校が建っている場所に充たります。
ところが、蛟もう神社には高校のことは記されていないのです。
また、訪ねてみると、もうひとつ、蛟もう神社の地図に記されていた「舟形山」という塚がどうしても見つかりません。
これはどういうことなのか?
タヌポンはある推理をしてみました・・・。

タイトル画像は2画像のjavascript処理をしていますが、IE以外では固定1画像のみの表示となりますので、以下、2画像のミニ画像を再掲します。(クリック拡大できます)

弟橘媛の櫛塚(通称だんご塚) はてな塚

利根町北部マップ

ここで紹介する弟橘媛の櫛塚等はこの地図の右方上部。蛟もう神社はこの地図の右下方向で欄外になります。



弟橘媛の櫛塚(通称だんご塚)

龍ヶ崎南高校

タヌポンはミステリーが好きなのですが、とくに本格推理の犯人当てが大好きです。
でも最近、そうした物語のミステリーだけでなく、歴史の中に推理をする題材がたくさんあることが分かりました。
その推理の楽しみから「やはり!」と思ったのが、左の写真の地区を訪れたときです。

写真の右に見えているのが龍ヶ崎南高校の校舎です。
左に樹が生い茂った塚が見えます。

蛟もう神社にあった地図を見ながらここにたどり着いたのですが、この塚がどうも「弟橘媛(おとたちばなひめ)の櫛塚(通称だんご塚)」と呼ばれるものだと思いました。

最初、そのように断定できなかったのは、地図ではこの塚のすぐ隣、この写真でいう龍ヶ崎南高校の校舎辺りに「舟形山」と称されるべき塚があってしかるべきなのに、どうしてもそれらしきものが見えなかったからです。

果たしてここが櫛塚だろうかと塚の周りを一周してみると・・・。
写真のすぐ左手の奥に塚の内部に入れるような空洞が見えてきました。



このFLASH画像を見ていただくとお分かりのように、これはまさしく「だんご塚」つまり弟橘媛の櫛塚と断定していいようです。

それでは、蛟もう神社の地図にあったすぐ東にあるという舟形山とはどれになるのでしょう?



閃きました。

そうです。
龍ヶ崎南高校の校舎が、いやその場所が舟形山があったところでは!?


このタヌポンの推理はまさしく当たっていました。

蛟もう神社地図抜粋

ちょっと見づらいのですが左はその蛟もう神社にあった地図の抜粋です。
左に見えるように、昭和55年3月という日付で利根町教育委員会が建てたものです。
もし、その後で龍ヶ崎南高校が建設されたのだとしたら・・・。

蛟もう神社の地図には龍ヶ崎南高校は記されていません。小学校(文間)はちゃんと記されているのですから省略されたわけではないハズです。当時から龍ヶ崎南高校があったのなら当然、この地図に記されていてしかるべきです。

この地図ではまさに舟形山に充たる場所が現在の龍ヶ崎南高校のある場所になります。(クリックして拡大できます)

龍ヶ崎南高校の正確な創立年月日は分かりませんが昭和55年以降であることが判明しました。
そして、高校設立時にやはり「舟形山」が削り取られてしまっていたことも・・・。



倭建尊(やまとたけるのみこと)の伝説


さて、後先になりましたが、弟橘媛の櫛塚(通称だんご塚)と舟形山が何であるのかの説明をまだしていませんでした。
これには、日本書紀に記されているあの倭建尊(やまとたけるのみこと)の東征伝承があるのです。

倭建尊は、走り水の海で最愛の弟橘媛を失い、上総の国の海岸に上陸しましたが、媛恋しさのあまり海岸をさまよいます。
このことから「君去らず」が変化して現在の木更津市の地名ができたと言われています。
そして、この浜で波に打ち寄せられてきた媛の櫛をひろって形見としてさらに東征を進めていきます。

その後、下総の国に至りわが利根町の蛟もう神社に立ち寄り武運長久を祈願したと伝えられています。
このときに神社の神木に馬の手綱(たづな)を繋いだことからこの神木を「たつなぎ」と呼び、
現在のこの地域の「立木」(たつぎ)の地名になったという故事もあります。

さらに倭建尊は、現在の龍ヶ崎北方の地に来てそこから常陸の国へ向かおうとしました。
彼方には筑波山が見えましたが、いっぽう海辺のほうには舟の形をした島がありました。
これを見て、倭建尊はまた弟橘媛を思い出し、舟の形をした島の並びに塚を築き、
形見の櫛を埋めて媛の奥つ城(おくつき=墓所)としました。
この櫛塚が弟橘媛の櫛塚で、「だんご塚」の俗称で呼ばれているということです。
そして残念ながら舟形山は龍ヶ崎高校建設で消失してしまいました。
(吉浜正次著「蛟もう神社由来記」、利根町史第4巻・6巻より)

なお、だんご塚の上に建てられた石の祠(左下写真)は吾妻神社が祀られているということです。

吾妻神社 團子塚中


ちょっと辛口批評・・・横断していた鎌倉街道を根こそぎアスファルトで覆い尽くし造成したもえぎ野台の宅地開発。
そしてこの舟形山を削り取っての高校建設。
昨今、自然や文化財保護が盛んと言われますが、
結局は、人間の経済的生活がまず最優先されてしまうような気がしています。
学校や病院の建設、商業施設の誘致、電気・ガス・光ファイバー等々のインフラ整備・・・。
それらを少し譲歩して自然を残す、ということは言うは易くで、実際はほとんど絵に描いたもちのようなものなのでしょうか?
売れ残った住宅、少子化によるいずれは到来する学校法人経営の悪化、
それらが果たして自然回帰を促す要因となるのかどうか・・・。
交通の便がまことに悪い利根町ですが、
一向に改善されないそのことが、実はとくにわたしタヌポンの未来にとっては反って幸福なことであり、
むしろ得がたいことなのではないかとも思う昨今です。
(でも、やっぱりいい病院がないとね、とはタヌポンの奥さんの声。「いい病院がない利根」とも聞こえました)


(05/04/26)(撮影05/02/26・05/03/13)


はてな塚

最初にお断りしておきますが、「はてな塚」というネーミングはタヌポンが暫定的に付けたものです。
正式にはおそらく塚の名前が何か付いているのだと思いますが、まだ調べていないのです。
利根町ではなく、龍ヶ崎市にあるので、龍ヶ崎市の図書館まで行かねばならないかも知れません。
というわけで「はてな塚」とはここだけの名前としてくださるようお願いいたします。
正式名称が分かれば修正いたします。


はてな塚発見のいきさつ


さて、はてな塚ですが、舟形山が龍ヶ崎南高校の建設によって削られてしまったことは後で町史で確認しました。
残念に思いましたが、タヌポンの推理が当たったことに満足してしまって、もう少しこの周辺を探索することを怠っていたのです。
4月後半に弟橘媛の櫛塚を紹介してから半年ほどこの近くへは行きませんでした。ところが・・・

なにかの地図を見ていたときのことでした。
どうも弟橘媛の櫛塚らしい路傍祠の位置が、本来の場所よりもっと南のほうに記されているのが気にかかりました。
地図はそのすぐ上部で途切れていたので、最初、その記号が弟橘媛の櫛塚を指しまちがえているのかと思いました。
櫛塚は龍ヶ崎南高校から見て右手(西北)にあるのですが、その地図の祠は明らかに高校の左手(西南)を示しているのです。

もしかして、別の遺跡なのかも知れない。
そう思うと、いてもたってもいられなくなり、出かけてみることにしました。
それが9月17日(2005)でした。(この発見は同日columbus blog「遅咲きの彼岸花」でも触れました)
行ってみると、確かに龍ヶ崎南高校から見て左手(西南)に弟橘媛の櫛塚と同様な樹木の生い茂った塚が見えます。
地図を見ると位置的にはどうもこれにまちがいないようです。
しかし、どこから登っていいものやら・・・。塚の周囲を左の奥から見て回ったのですが入れそうなところはありません。

ないよねえ、とひとりつぶやきながら右手に回りました。
そちらは道路方面なので進めば進むほど人目にさらされることになるため、そんな入口はなさそうな気がしました。
道路付近まで行って見つからずあきらめかけて戻ろうとした一瞬、何か右手の藪の中に空洞のようなものが見えました。
えっ、これがもしかして、まさか!
で、タヌポンはおそるおそる藪の中に入っていったのです。

(余談ですが・・・しかしこのときはまだ残暑の9月。8月など夏の探索ですっかり薮蚊にこりていたというのに、少し秋めいてきたのでその日は防虫スプレーを持参していませんでした。ところがこんな塚の中では薮蚊がぶんぶん。くもの巣もいっぱい。発見は9月17日なのですが、ちゃんとした撮影は11月末まで待たねばなりませんでした。コンテンツ作成が遅くなったのもそのためです。また、11月中ごろでは冬眠前のヘビが恐くて自重して11月末に再挑戦しました)



はてな塚、発見


発見の様子は左のFlashで。

入口を覆っていた草木を除けると、中にポッカリと空洞の敷地。
これはとても自然のものとは思えません。
だれかが入った形跡があることは確かです。
すぐ左斜めに、上に続く坂道も見えました。
何かがこの先にはあります!



左が入口、右は上り坂を見上げたところ。坂の上あたりに×の倒木が見えます。

入口 上り坂

坂を登りきると行止り・・・に見えますが、倒木の下を潜れば、右手に・・・何か見えますね。

行止りか? 右手に何かが

牛頭天王の石祠


石祠です。こんなところにどうしてこんなものが・・・。
背後には注連縄が付けられた神木もあります。利根町近辺はタブノキという背の高い樹が多いのですが、これも似ています。
石祠に近寄って見てみると・・・どうも「牛頭天王」と書いてあるようです(右はクリック拡大できます)。

石祠 牛頭天王

石祠右側面

右の側面には・・・明和7年(1770)9月建立ということが分かりました。



不明の石祠


「牛頭天王」から元きた方向を左に振り返ると・・・ここにも少し奥まったところに石祠が建てられているようです。
近づいてみると、なんとこれは向こう向きに建っているではないですか!
その先にあるのは、幹が途中から消失している大木です。神木だったのでしょうか。
それにしてもいったいだれを祀った石祠なのでしょうか。後向きとはいったいどういうことなのでしょう?

石祠の左方にも 左方の石祠

石祠の正面に回って見ましょう。石祠背後から右手(石祠の左側面)には竹の模様が彫られています。
そして、正面は・・・よく見えません。というのも低い位置でしかもその前のスペースがわずかしかないのです。
横に寝転んで見なければ内部まで見えません。
タヌポンは仕方なく手を伸ばしてデジカメを石祠内部に近づけて撮りました。
さて何と書かれているか、家に帰って見てみると・・・。
右の写真をクリックして拡大して見てください。石祠は比較的新しいようなのに何も字が見えません。
これはいったい????
左方の石祠側面 左方の石祠正面

????とにかく不思議な空間です。
タヌポンが「はてな塚」と名付けたのも分かりますよね?
龍ヶ崎南高校の先生や生徒たちはきっとこれが何か、知っているのでしょうね。
だれか教えてくれないかなあ。

利根今昔物語


先日(2006年8月)、前に利根町にお住まいだった方より、昭和50年代の奥山・横須賀地区が写った航空写真をご紹介いただき、拝借させていただくことになりました。
ここには、龍ヶ崎南高校の前身である「舟形山」やもえぎ野台の宅地開発前の様子がはっきりと写し出されており、史料としてとても貴重なものでではないかと思います。
昭和55年と59年の2葉、お借りしました。
それで作成したのが、左のFLASHです。

この4年間だけでも、見比べてみると新館中学校が新しく建てられていることや、龍ヶ崎南高校の東の空き地のような場所が田畑に変化していることが分かります。
これらの航空写真は、提供していただいた方の知人が近くに龍ヶ崎飛行場があった関係で定期的に航空写真を撮影されていたからということです。59年の写真はおそらく龍ヶ崎南高校の建設前後ではないかと思いますが、ちょうど舟形山の部分が見えないので、建設の前か後かは不明です。(おそらく直後ではないかと思います)



設立はやはり昭和58年!

以前は見つからなかった龍ヶ崎南高校のWebサイトがふと見つかりました。
それによると・・・
昭和58. 3.26 体育館及び校舎竣工。
以下、4. 7 第1回入学式挙行。新入生376名(男208名、女168名)入学。6.28 特別教室棟竣工。8.7 校門、駐輪場竣工。11.18 開校式典挙行。12.22 校歌、応援歌(歌詞)決定。
昭和59. 1.15 グランド竣工。12.16 部室竣工。
昭和60 7. 1 プール竣工
と沿革が記されていました。予想は的中!やれやれ。(06/08/15追記)


舟形山

舟形山

これは昭和55年時の写真の一部。舟形山が弟橘媛の櫛塚と並んでいるのがはっきりと分かります。
これが現在は龍ヶ崎南高校の校舎になっているわけです。

この舟形山の少し南にも樹木の繁みのような箇所が連なっているのが見えます。これは現在では消失していますが、こうした場所に石祠などが残されてはいなかったのでしょうか?また、もえぎ野台の宅地部分も含めてこうした箇所が鎌倉街道の一部であった可能性もあります。
もえぎ野台の新興住宅地は、上のFLASHの現代でピンク色で示した部分ですが、その緑地部分がすべて変化しています。そのなかには鬱蒼と繁った森や林もあったのではないかと推察します。
できるものならその時代にワープして、その茂みの中を探検してみたいものですが・・・。



新館中学校

新館中学校建設前 新館中学校

左は昭和55年、右は59年時。
新館中学校が昭和55年〜59年の間に建設されたのはこれで明白ですが、それでは、現在、校舎の一角にある「斬られ地蔵」や「道祖神」などは、中学校建設前はどこにあったのでしょうか?


(06/08/13追記)(写真提供:HN.まほたい氏)


(06/08/15・06/08/13追記)(05/11/30)(撮影05/09/17・05/11/13・05/11/23)