タヌポンの利根ぽんぽ行 横須賀地区

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横須賀地区 目次



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利根町の中央部からやや北側にかけて横須賀と呼ばれる地域があります。
神奈川県の横須賀と字は同じですが、イメージは相当・・・ちがいます(笑)。

利根町横須賀地区の見所は、地区の北側のもえぎ野台に隣接した地域に集中しています。
南のほう、農免道路以南は、面積は広いのですがほとんど水田です。

ポイントは、北から横須賀集会所とその敷地にある子安観音、大師堂などと、二宮神社
利根(旧新舘)中学校近辺には、廻国塔や道祖神、斬られ地蔵等があります。

当初、このコンテンツは、横須賀地区の北のもえぎ野台と一緒にしていましたが、
その後、内容拡大とともにこれらを2コンテンツに分離させるなどいろいろ変遷しました。
そこには、龍ヶ崎南高校近辺 の情報もあり、それらもまた別コンテンツとしました。

また、目次改訂を機に、横須賀地区の全容が分かるような目次構成に、再々編成、
この「横須賀地区」とは別ページとした二宮神社の項目も目次に加え、リンクしやすくしました。
大別して「横須賀地区」は寺社編、「二宮神社」は神社編となります。
それぞれの一部に、寺社・神社の内容が混入されていますが、
その要素をデザインで識別させ、分かりやすくしました。

上記より若干の追記を加え、2014年初夏に石造物の再調査をし、再度修正・追記しました。


利根町北部マップ

利根町北部マップ

横須賀集会所

斬られ地蔵を探しに

さて、最初、「斬られ地蔵」と称されるいわく因縁ある地蔵が横須賀地区にあるということで、
新舘中学(当時)付近をさがしてみることにしました。

前掲の利根町北部マップで言えば、二宮神社から中学校目指して東のほうへ歩いて行くことになります。
そうするとまず交差点の角に石碑が見えてきます。それがこの後、紹介する大乗妙典の廻国塔なのですが、
斬られ地蔵を見つけるまでには、ほかにも横須賀の道祖神に出会うなどの途中経過がありました。
廻国塔や道祖神発見の経過は、このあと順に紹介していくとして・・・。

また、もっと後に再訪問したとき、同地区北のもえぎ野台に近接したところに横須賀集会所があることが分かりました。
そこにも祠や大師堂などがありましたので、まず、それから先に紹介します。

白亜の横須賀集会所

スーパーのランドロームの裏手の細道を南下して左折し、しばらく行くと横須賀集会所が右手に見えてきます。
横須賀集会所は、いままで利根町で見た集会所のなかではいちばんモダンと思える外観の建物です。
内部を見たことはないのですが、「もえぎ野台」住宅建設に関連して新設された建物なのでは、と思いました。
下左はその正面。右の写真は集会所に向かって左側。手前と奥に祠が見えます。

横須賀集会所正面 横須賀集会所

子安観音塔

子安観音

これは集会所脇手前にある祠です。
祀られている像は、
子供を抱いた観音像のようですが、
果たして何でしょうか。子安観音?

→ これについては匿名のかたより
以下のメールをいただきました。

横須賀集会場の子安様はもとは太平ではなく横須賀の集会場、今のジェーソンの近く、現在は畑になっているところに有りました。土地を貸していた家が返還を求め場所を移動する事になったのですよ〜〜〜。。

とのことです。
「子安様」ということですから、
やはり子安観音、でいいのですね。
匿名さん、ありがとうございました。

子安観音 子安観音左側面

祠の右上にかかっている木札は
内容はほとんど読めませんが、
寄贈の日付(平成3年8月7日)が分かります。
ただその日付は木札に関するもので
子安観音像や祠の造立日ではないようです。

左の写真で石塔の左側面には、
嘉永二酉年4月吉日」。
嘉永2年(1849)4月造立が判明。

ところで、この塔の台石部分に、
何か文字が彫られているようです。
以下で拡大して見てみましょう。


本体: 高88cm、幅41cm、厚29cm。
台石: 高16cm、幅45cm、厚32cm。

子安観音台石

女人講中」と題して、
多くの女性の名前が刻まれています。
判読できるものを以下、右から列記します。

志ん い志 みよ はつ とく よの いえ
あさ いの みつ とめ たつ み□

このように女性の名が記された同様なものを、
早尾天神社の子安観音塔 でも発見しています。

あっと、台石の右側面を確認するのを失念しました。
ほかに名前が彫られていたかもしれません。また宿題。

宿題→ 右側面のみならず、左側面にも文字を発見。左右は鞘堂の柱が近接し見づらいのでつい失念。追及が甘いなあ!
右側面(下左写真)はやはり女性の名前が、10名。 たよ いと 志□ とき そよ □□ とく みの いの い□
左側面は、「世話人 七右エ門 新右エ門」。(14/06/28 追記・撮影)

子安観音台石右側面 子安観音台石左側面

大師60番

大師60番

奥の祠は四郡大師でした。

祠の右上に何か額がありますが、
これには短歌が記されています。
下のほうがかすれて読めません。
額に記された見出しには
「新四国第三番札所」とありますが、
これは祠の右に立っている石柱の
「西国三番札所」と符合しますね。

四郡大師とは別次元の番号ですが、
これはどうなっているのでしょうか。
四郡大師60番札所イコール、
新四国第三番札所、
という見立てなのでしょうか?
新四国(=四郡大師)第60番札所、 というふうに理解していたのですが・・・。
うーーん、わけが分かりません。

以下は、60番の札と、祠のなかの大師像。

大師60番札 大師60番大師像
南無大師遍照金剛

祠の上部にある額には、「南無大師遍照金剛」と記されています。
南無とは南無阿弥陀仏の南無ですが、帰依するという意味。
つまり南無阿弥陀仏は阿弥陀仏を崇めるということです。
では遍照金剛ですが、これは空海大師の尊称を表しています。
したがって、「南無大師遍照金剛」とは
空海大師に帰依するという意味になります。
意訳すれば、「空海様」。これを何度も唱えたりします。

この額そのものは、平成3年(1991)8月の奉納のようです。

以下は、大師像の法量(サイズ)

本体: 高44cm、幅31cm、厚19cm。台石: 高17cm、幅42cm、厚26cm。

大師60番大師像台石銘文

再調査のとき、大師像の台石を見ると、
文字が彫られていることに気が付きました。
しかし、とても見辛いので濡れ雑巾でひと拭きしてみると・・・。
(こういうこともあろうかと最近は、手拭とペットボトル持参です)

横須賀村 願主」として4名の名前が記されています。
坂本五左エ門 弓削新兵エ 蓮沼治右エ門 篠崎又右エ門

ここに記された人と、そもそもの四郡大師発案者、
文政元年(1818)に四郡大師を設置し終えた十里の山本豊栄や
徳満寺の恵灯上人との関連はどうなっているのでしょうか。

台石左右側面に建立年等記されているか確認したいのですが、
どうも許可なしに祠の中を勝手に動かすのは、はばかられます。

▼余談 この写真を撮るのも、祠の格子扉をいったん取り外さねばなりませんが、これくらいは許されるだろうと無許可で…。
昨今、賽銭泥棒等が多いと聞くので、祠の中を動かすはちょっと気が引けます。調査後は当然きちんと元通りにしますが…。

札所塔

さて、大師堂の右隣りに「西國三番札所」の札所塔が建てられています。60番札所なのになぜ突然「3番」なのでしょうか。
この疑問の回答は結局は、いまだに謎ですが、とりあえず石塔に刻まれた文字を見てみましょう。

西国三番札所 西国三番札所石柱右側面 西国三番札所石柱左側面

西国三番札所の石柱の右側面(上中央写真)には、横須賀東光院の文字が見えます。
東光院は文地区横須賀にあった寺で徳満寺の末寺(現在廃寺)ですが、もしかすると、ここがその跡地かも知れません。

西国三番札所

ともかく、横須賀東光院のあった場所が
「西国三番札所」の石柱の元々の場所ということになります。
また、同右側面下部には左写真のように、
施主 村中」「願主 玉左エ門 六右エ門」が見えます。

左側面(上右写真)には、「安永七戊戌十月吉日」。
安永7年(1778)10月と意外に古い建立です。

これは、考えてみると四郡大師の発足(1818)より前の造立です。
この石塔が先にあり、「巡拝」に関連して四郡大師堂を建てたが、
そのときすでに3番札所は別の場所にあてがわれていた、
そこで60番となってしまった、というのが真相でしょうか。

札所と御詠歌

御詠歌

利根町の史跡等を訪ねると、伊勢太太講での伊勢巡礼とか、
西国秩父坂東などの巡礼に関するものが数多く見られます。
「いわゆるお遍路さん」等にはあまり興味はなかったのですが、
石碑等々を調べて行くとどうしてもそれらの知識がないと
理解ができなくなることが多くなってきます。

この横須賀の四郡大師の堂にあるひとつの額を例にしても
そこには、御詠歌と称する歌が記されており、
それがどういういわれがあるものなのかを調べてみると、
なるほどそうだったのか、ということが分かります。

今回調べて分かったのは、第3番とかいう札所には、本家本元四国のそれ専用の御詠歌が付属されていることです。
したがって、文字がかすれて読めなかった額の和歌も、実は、第3番札所に共通の和歌であるということが分かりました。
さらに、本来の第三番札所とは、四国の亀光山金泉寺「きこうざん・こんせんじ」で、その御本尊は釈迦如来ということも。

共通の第3番御詠歌を以下、紹介します。これはまさに、文字がかすれて読みづらかった和歌そのものです。

御詠歌3番: 極楽の 宝の池を思えただ 黄金の泉澄み湛える

60番札所と御詠歌

それならば、60番の御詠歌もあるはずと思いました。調べたら、やはりありました。それが以下。

御詠歌60番: たてよこに 峰や山辺に寺たてて あまねく人を救うものかな

この横須賀の大師堂が60番を名乗っているのなら、これを本来、額に記して掲げるべきではないでしょうか。
新四国と題して、四郡大師のイベントを発足させたのなら、60番になぜ3番の御詠歌を掲げたのでしょうか。

もし考えられるとすれば・・・3番の額を掲げたのは、後世・現代に近い人たちであり、突然おかれた3番石塔の由来を語る、
もしくは、その60と3の不整合を補完する意味で、3番のほうの御詠歌をあえて掲げたのかも知れません。
このあたりは、四郡大師発足当時の配置と変遷の歴史等々をもっと詳しく調べてみないと解明できないでしょう。

四郡大師の札所の番号と、そばに建てられている新四国もしくは西国と称するものの番号が一致している場合もあります。
利根町ではどこか忘れましたがそういう箇所も確かにありました。でも、いつもそうであるというわけではなく、
四郡大師札所番号とそばの石塔類とは、必ずしも同一札所を扱っているというわけではない、と思ったほうがよさそうです。
というか、四郡大師とはまったく別の西国33観音の写し巡礼というものが以前より存在していたということのようです。

大日如来塔

大日如来 大日如来左側面

弘法大師空海と関連の深い大日如来の塔。
左側面は「昭和四十七年一月吉日建之
昭和47年(1972)1月とまだ新しい建立。

大日如来とは、森羅万象全てを創造した
宇宙の根本仏とされています。
絶対的な存在であり、
空海の開いた真言宗では、究極的には
修行者自身と一体化すべきものとして
最も重要な仏陀とされます。

本体: 高49cm、幅27cm、厚16cm。

廻国塔

大乗妙典の供養塔

さて、「斬られ地蔵」を探しに横須賀集会所方面から南に下り、
二宮神社の前の通りに出ました。
そこを左折し、利根(旧新舘)中学を目指して東のほうへ歩いて行ってみます。
最初の交差点に出ると、斜め左向かいの角に石塔が見えてきました。
この塔は一見して、斬られ地蔵という感じではありませんが、見てみましょう。

塔には「奉納大乘妙典」とあります。

奉納の字の上にみえるのは、ハングル文字のようなもの。
でも、まさか韓国のものが・・・。

この塔の発見時は、まだサイト開設間もない頃で、
こうしたサンスクリット語の「種子」についても無知識でした。

当初この塔を「読誦塔」と分類していましたが、
「経典供養塔」に分類され、そのうち納経塔の一種、
「廻国塔」と呼ぶべきものと分かりました。

体: 高98cm、幅34cm、厚26cm。
台石上: 高38cm、幅49cm、厚36cm。
台石下: 高23cm、幅60cm、厚52cm。

阿弥陀三尊の種子

梵語・阿弥陀三尊

ハングル文字のように見えた上部マークは
大平神社2 で紹介した阿弥陀三尊を示す梵語の文字でした。

つまり、阿弥陀三尊を現わすもので、
上部の文字は阿弥陀如来、左下は勢至菩薩、右下は観世音菩薩、
梵語の読み方は順にキリーク、サク、サです。

ちなみに梵語のこの文字は「しゅじ」といい、種子または種字と書きます。

大乗妙典と廻国塔

そして「大乗妙典」ですが・・・。
衆生(しゅじょう)の民(つまりわたしたちのこと)を迷いから解放し、悟りの世界に導いてくれるという経典のことをいいます。
具体的には法華経である妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)をさしています。

「廻国塔」は、この大乗妙典と呼ばれる法華経をわが国「六十六ヵ国の霊場」に保存する日的によって六十六部作り、
それを一部ずつ霊場に納める目的で国々を廻ったり、廻っていることを銘文にした塔のこと。

そして、六十六ヵ国の霊場を廻ることから、この廻国行者を「六十六部」とか「六部」と呼んでいました。
白衣を着て、背に仏像入りの厨子や笈摺(おいずる)を背負い、家々に合力を求めて廻る「六部」の人たち・・・。
昭和初期までつづいたこの廻国行者は、ときには、「物乞い」のように見られました。
白衣・厨子・笈摺・・・この姿を想像すると、松本清張の小説『砂の器』の1シーンを思い浮かべます。

廻国行者に宿を貸すことが功徳と考えられ、路銀がなくとも、いちおうは全国を廻ることはできたようです。
この横須賀の塔に関係した廻国行者は、どのような人たちだったのでしょうか。

「廻国塔」は全国的に分布、塔型も一定化されず、銘文も「廻国」「奉納大乗妙典」「回国六十六部」等の字句が見られます。
廻国途中で死亡した行者を土地の人が弔った「六十六部供養塔」も各地にあるようです。

六十六ヶ国とは

現在は、1都1道2府43県(近い将来2都になる?)ですが、昔は、以下のように66ヵ国。ちょっとおさらいを。

畿内5ヵ国(山城・大和・河内・和泉・摂津)
山陽道8ヵ国(播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門)
山陰道8ヵ国(丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐)
南海道6ヵ国(紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐)
西海道9ヵ国(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩)
東海道15ヵ国(伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸)
北陸道7ヵ国(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)
東山道8ヵ国(近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽)
上記の66ヵ国。実際にはこれに「島部」として壱岐・対馬を入れて68ヵ国。

それではクエスチョンです。この「六十六ヶ国の霊場」とは、具体的にどこをさすのでしょうか?
答えは・・・各国一宮(神社じゃおかしいか?)とか、そんな回答かと思いきや、とくに決まってないような・・・。どこでもいい?
「六部」の修験者が適当にたどり着いて、そこそこの寺社が見つかればそれでいい、ということでしょうか?

元号改元直前の建立

廻国塔背面

左の写真は、廻国塔の背面上部。「明和九壬辰十一月吉日」とあります。
明和9年(1772)11月の建立であることが分かります。

この建立年にはちょっとおもしろい事実があります。
明和9というのは、めいわく、つまり迷惑な年、ということで、
実際、「明和の大火」が発生するなど風水害、疫病が多発。
ということで語呂が悪いという理由で、幕府が改元、
明和から「安永」に改められたのです。その時期がなんと11月15日。
ということは、この塔が、安永元年ではなく明和9年11月とあるのは、
11月1日から11月14日の間という微妙な時期に建てられた可能性が高いですね。
もしくは、15日を過ぎていても、幕府からの安永改元の通達が
まだ届いてなかったからかも知れません。タヌポンは、通達が届いていても、
あえて明和9年、迷惑な年、としたかったのでは、などと・・・。
→ 福木集会所(北)周辺コンテンツの 明和9年は迷惑な年 参照。

廻国塔背面下部

さて、この供養塔がだれの手により建てられたかですが、
左の背面下部を見ると・・・。

良嚴教淨信士
良座玅花信女

という名が見えます。男女の戒名のようですね。
生前中にこの2人が建てたか、あるいは2人が没後に、
その関係者が建てたということでしょうか。

横須賀地区をいつも巡回して清掃などされている婦人の話では、
この塔は、横須賀の人ではなく地方から「修験者」として訪問し、
この地で亡くなられた方のものとか。まさに「六部」の人たちです。

(15/03/19 修正・追記)

横須賀の道祖神

さて、大乗妙典の「廻国塔」からほんの少し、10mほど東に行くと道路に面して白い鳥居が建っているのが見えてきます。
新発見ポイントですが、地蔵に鳥居はおかしいな、とは思ったのです。当然、これも、斬られ地蔵ではないですね。

鳥居

道祖神鳥居

これは道祖神ですね。なんて・・・。
奥に書いてあるんですから
だれでも分かりますよね。
でも、鳥居のある道祖神を
このとき初めて見たのです。

鳥居は明神鳥居が
利根町では多いのですが、
比較的少ないほうの神明鳥居系で
靖国鳥居と呼ばれる種類のようです。
神額が付いていないので、
鳥居だけでは神社名は分かりません。

『町史』にある「木造」には見えません。
コンクリート製のようです。

鳥居右柱裏面 鳥居左柱裏面

鳥居の柱の裏を調べてみると・・・。
左柱裏面は、「平成十六年十月吉日」。
『町史』発行後の平成16年(2004)10月に、
やはり新築されたのですね。

右柱裏には「奉納 横須賀納税組合」。

拝殿

道祖神拝殿

拝殿と本殿がセットになったような祠です。
上部に神額の代りとして「道祖神」と墨書された額が掲げられています。

左写真は2014年以降のもので、2011年以前の道祖神発見当初は
祠の上部に「道祖神」の額は飾られていませんでした。
そのかわり、右の手水舎の手拭に大きく書かれていたので
道祖神であることが分かりました。
前述した、この道祖神など横須賀地区一帯の設備のお世話をされている婦人が、
こうしたものも書かれたり作られているということです。
(後述 斬られ地蔵の立札その後 参照)

当初は祠の表の隙間から中を撮ったりしましたが、
あまり美しくは撮れないのと、再調査時、施錠が壊れていたので、
失礼して中を見させていただきました。それが次項目。

中には本殿としての石祠が安置されています。
『利根町史』には、祭神は久那戸神(くなどのかみ)とありますが、
これは道祖神共通の祭神です。

▼ 2014年再調査時にも婦人にお会いしましたが、この道祖神拝殿扉上に新設したばかりの鈴が盗難にあったそうです。
それで壊れたままの鈴になっているとか。昨今の世相が悪いのかよく分かりませんが、賽銭泥棒と言い、罰当たりな話です。

本殿石祠

中の石祠左右側面調査で、やっと建立年が判明しました。「明和二酉年 九月吉日」。明和2年(1765)9月。

本殿石祠 本殿石祠右側面 本殿石祠左側面

本体: 高54cm、幅34cm、厚20cm。

境内左の庚申塔

庚申塔・青面金剛王

鳥居背後は狭いながらも、道祖神境内と呼ぶべきものでしょうか。
その左手には、庚申塔が2基並んで設置されています。

向かって左が「青面金剛王」の文字塔。
右はその青面金剛が刻像された庚申塔。
『利根町史』には、石塔として、
庚申塔 元文5年(1740)ほか1基とありますが、
どちらの塔を指しているのか、当初は不明でした。
境内が狭いのでしっかりとした撮影・検分もしていなかったのです。

2014年に少し頑張っておおよそのことが判明しました。
笠のおかげか保存状態も良好なためもあったでしょう。

庚申塔1

庚申塔1 庚申塔1左側面

上部に定番の「日月」のレリーフ。
中央に「青面金剛王」。

左側面に建立年を見つけました。
寛政十二載申十一月□□」、
つまり、寛政12年(1800)11月の建立。
この年はまさに「庚申」の年です。

しかし、ここは陰の部分で、しかも、
隣の庚申塔が近接しているため、
下部の2文字がどうも読み取れません。
□□は「建焉」かなと?

本体: 高85cm、幅25cm、厚22cm。

庚申塔2

庚申塔2

これは、上部に「日月」の浮彫り、中央に「邪鬼」を踏みつけた「青面金剛」、
下部には「三猿」が刻まれた典型的な庚申塔です。
青面金剛の左手には、これも典型的な「ショケラ」を提げています。
六臂の他の手には「三又の戈・刀剣・矢」なども持っています。

そして文字ですが、一番上に「元」、そのすぐ右下に「文」、左下に「五」、
それらの下に「庚申」、左右両端に「十一月 吉日」、つまり、
元文五庚申 十一月 吉日」。
まさに『町史』掲載の元文5年(1740)造立の庚申塔はこれでした。
この塔も、前記の塔のちょうど60年前の「庚申」の年のものです。

ほかに左に「村中」の文字が見えますが、
同じ高さの右端は文字が欠損しているように見えます。
おそらく「横須賀・・・」もしくは「同行・・・人」等が刻まれていたものと想定されます。

本体: 高92cm、幅32cm、厚19cm。

手水舎

手水舎

あまり広くはない敷地ですが、右手には手水舎も設置されています。
平成23年1月奉納とは今年(2011)のことですが、
もちろん手水舎の奉納ではなく、この手拭の奉納です。

手水や手水舎の建立がいつなのかは未調査です。
婦人にお聞きすればなにか分かる可能性はありますが・・・。

本体: 高27cm、幅72cm、厚29cm。台石: 高17cm。

手水舎

2014年調査のとき、手水石を調べてみると、あっさりと建立年が判明しました。

手水舎 手水舎

正面は「奉納」。右は左側面。ここの左端に「明治十七申年四月吉日」、明治17年(1884)4月の建立です。
他に上部に「世話人」として、「蓮沼加く 飯嶋はつ 弓削せつ 岩井くに 弓削加祢 岩井奈可 菅井くめ」。
この7人はみな女性のようですが、これですべてと思いきや、なんと反対側の右側面にも・・・。

手水舎 手水舎

右側面は柱があって撮影がし辛く、また文字もかすれています。両方向から斜めに撮ってみましたが、
上右の背後からの写真を見てびっくり!裏面にもずらりと名前が彫られているではないですか!
しかも、これらはみな女性名のようです。これは再訪問して目視で直に書き写すしかないですね。あーー、また宿題。

斬られ地蔵

予期しなかった廻国塔や道祖神などが見つかって驚いたのですが、さて、肝心の斬られ地蔵はどこにあるのでしょう?
えっ、斬られ地蔵って何ですかって?説明してませんでした?それは、失礼しました。では・・・・。

頭に刀傷が3本ある地蔵尊

・・・昔、横須賀に住むあるバクチ好きの若者がいました。
いつも立木でバクチを打った帰り路、ここを通りかかるのですが、夜な夜な人が現れて説教を言う。
頭にきた若者はとうとうその人間に頭から斬りつけて傷を負わせてしまいました。
ところがその後、同じ場所にあった地蔵の頭に刀傷が3本できたというのです。
これを聞いた若者は、改心し、その後は立派な人間になったというお話です。不思議ですね。
なお、円明寺 の沿革等を解説している関口秀明氏の話では、
この若者は弓削新助さんと言い、立派に弓削新兵衛家を継いだと記しています。(『利根町史』より要約)

これについては利根町に縁の深い「小林一茶」も次のような句をのこしています。

御地蔵も 人をばかすぞ 秋の暮

見つからない斬られ地蔵

で、その「斬られ地蔵」はどこに?道端に立っているのか、それとも祠のようなものがあるのでしょうか・・・。
大乗妙典の廻国塔のあるコーナーを過ぎ、発見した「横須賀の道祖神」の鳥居を見て、とうとう中学校までやってきました。
そして、その門を通り過ぎましたが、どうも見当たりません。この少し先は、もう立木地区になってしまいます。

石屋さんも、分からない!

中学校の門から少し東に行ったところに石材屋さんがありました。これは!と思いました。
石材をあつかっている人なら地蔵様のことがきっとわかるにちがいないと確信をもって尋ねてみました。
店には事務の方らしい若い女性がいました。

「そんな話、聞いたことがあるんだけど、実はよく分からないのです。あれじゃないのかしら」
と彼女が指差したのは先ほどの道祖神の鳥居。彼女の発言で少々いやな予感はしていたのです。
「あれじゃないかしら」ではなく、「あれじゃないかしら」と言ったからです。
この2つの言葉は似ているようで実はその自信のほどは大きなちがいがあるんですね。

「(あの鳥居近辺は)さっき見たのですけど、どうもちがうみたいなのですが・・・」
タヌポンのその発言への彼女の答えは、無言の首を傾げる仕草でした。
こうなっては、念のためもういちど、さっきの鳥居の場所まで戻ってなかをよく見てみるしかないかとも思いました。
石屋さんのもっと年配の経営者風の人がいればと思ったのですが、そのときは不在のようでした。

新舘(当時)中学の生徒も、分からない!

すると偶然、ふたり連れの学生が下校するところに出会いました。新舘(現・利根)中学の生徒です。
彼らなら知らないハズはないですよね?!社会科かなにか、郷土史などで習っているのでは、と期待が高まります。

ところが・・・。
タヌポンの質問に、首を振りながら、へんなおぢさん(おじさんはやはりおぢさんのほうが感じが出ますね)、いやタヌキ、
というような顔をして、さしたる説明もなく自転車で去って行ってしまいました。

えーーーっ!ここの中学生も知らないの?じゃあこの近辺ではないのではないの?そう思っても仕方ありませんよねえ。

もういちど、が功を奏す!

でも、やはりもういちど、鳥居まで戻ってみようと思いました。それでこの近辺での斬られ地蔵探索は最後にしようと。
利根ぽんぽ行の探索を始めて、この「もういちど」だけの粘りがなぜかこれまで功を奏していることがたびたびありました。
そして、今回もまさしくそうだったのです。

わずか100mにも満たない距離の後戻りです。ただ今度は中学側の塀の近くに沿って鳥居方面へ向かいました。

そしてしばらく進んでほんとに何気なく前方右手を・・・。

あれっ?

なんかフェンスが切れているなあ。

と、まだここでは
大した疑問ではありません。

しばらく進み、切れたフェンスに
何気なく目をやると・・・。

あああああああああ!

タヌポンは思わず、
先を行く奥さんを呼び戻しました。

(写真の少し先に見える白い鳥居が、
横須賀の道祖神 です)

斬られ地蔵、発見

斬られ地蔵

何なの、こんなんじゃ分からないわよ!
何で立札など出していないのよ!

怒る奥さんを「まあまあ」と慰める
タヌポンでありました。

それより、やっと見つけた吉良上野介。
その背中、いや、頭の刀キズを
まず確認しないと・・・。

(右にある石は何なんでしょうね?)

斬られ地蔵
斬られ地蔵の頭の傷

地蔵の頭にはなるほど何か傷跡が
付いているように見えますね。
確かに3本、あるようです。

ああ、苦節、2時間程度の彷徨、ですか?
やっと見つけました「吉良れ地蔵」。
赤穂浪士のそのときのように、笛を吹きたい気分ですね。

この傷を見つけるより、
この地蔵を見つけるのがはるかに難儀なことでした。
これを読んだ皆さんなら、もうだいじょうぶですね。

でも、探し物が見つかる楽しみもまた格別なのですけどね。

(この「斬られ地蔵尊」は、東にある 円明寺 が管理)

本体: 高74cm、幅34cm、厚12cm。

立札発見!

立札発見 立札

上記発見から1年3ヵ月後、この前を再度、通りかかったときふと見ると、小さな立札が立っているではないですか!
もしかして教育委員会の人が立ててくれたのでしょうか?
あっ、↑この上で、「何で立札が・・・」なんて記したからかも。いやあ、もしそうだったら恐縮ですね。
でも、ちがいますよね。このサイトを見ているとは限らないし、立札もいずれは立てる予定だったのでしょう。

立札その後

立札その後

このページ再々構成直前に、5年ぶりにこの地区に訪れました。
そのとき出会った婦人より、立て札の経緯などが分かりました。
婦人はこの近くに住む方で、傘寿を何歳か過ぎたご高齢なのに
ご自分で乗用車を運転され、このあたり一帯の道祖神などを廻って
掃除されたり花を生けるなどお世話をされているといいます。

まだ50代ではないかと思うほどのお元気な姿でびっくり!
聞くところによると、この立て札を立てたのは中学の校長先生で、
婦人のお願いで立ててもらったのですが、時間が経つと・・・。

この写真ではよく見えませんが、
立て札の材質が金属や石製ではないようなので、
雨風により劣化して文字等も見えづらくなっているようです。

せっかく校長先生のご好意によりつくっていただいたのにねえ、と婦人はとても残念そうでした。
タヌポンも、町の財政が厳しいのでなかなかこういうところまでは予算をまわせないのでしょうなどと・・・。

建立年等は不明

さて、この地蔵菩薩の建立年等ですが、近づいて写真を撮ってみましたが、風化が激しくどうにも解読できません。
むしろサイト開設当時に撮った写真をじっくり見てみると、左下部分に「施主 □心浄光」が見えるかどうかというところ。
その上に「明」や「四」らしき文字が見えますがこれを「天明四年」と仮定するのは余りにも根拠が希薄です。

横須賀と文化人

小川芋銭 河童の水車碑

横須賀地区には、天才画家「小川芋銭」ゆかりの弓削宅があり、この「河童の水車碑」はその門前に建てられています。

河童の水車碑

碑表の文字は、「五月雨や 月夜に 似たる沼明り 芋銭子
碑裏は、平成13年(2001)5月 弓削暢二建立。
絵は、河童が田に水をひく水車を回している姿。

芋銭の描く河童は「芋銭が河童か、河童が芋銭か」と
いわれるほど、彼の人生観・宇宙観を表現しています。

弓削宅は芋銭の長女はなの嫁ぎ先であり、
昭和10年(1935)10月から約2年、芋銭は滞在していました。

本体: 高98cm、幅68cm、厚16cm。台石: 高35cm、幅109cm、厚56cm。

芋銭の詳細は 小川芋銭研究センター 参照

小川芋銭と利根町 をUPしました。(13/07/14)

北澤官知と『下總諸家小傅』

北澤官知と『下總諸家小傅』

天保14年(1843)に女貞園が上梓した『下總諸家小傅』(以下『小傅』)に、
横須賀の北澤官知が掲載されています。

『下總諸家小傅』

『小傅』は、利根川流域の文化人列伝とも言えるもので、
流山から銚子に至るまで、とくに布川・布佐河岸中心に、
俳諧・国学・医師・和歌・挿花ほか多種に亘って、
秀でた人物を50音順に100名取り上げています。
北澤官知は34人目に挙げられています。


横須賀の北澤官知通稱は八右衛門、霍壽園
と號す。またなき俳諧の好人なり。發句に云
「かをりさへ飛と方ならず加美のうめ」。

(霍壽園=かくじゅえん、またなき=またとない、加美=神、の意)

北澤官知は上曽根の勝村家に生れ、横須賀の北沢家に婿にきた人ですが、
野良仕事をあまりせずに、風雅の道に進み、寺小屋を開いていたようで、
利根中学校(元新館中)隣(東)の竜貝共同墓地に、
塾生たちによって建てられた墓碑があります。以下、紹介します。

なお『小傅』の北澤官知の後に「大房の菊池延年」の記述があります。これは、蛟蝄神社奥の宮で紹介した 菊池蛟崖 です。

竜貝共同墓地と北澤官知墓碑

この墓地の前はいままで何度となく通り過ぎていましたが、あまり注意を払ってはいませんでした。
なにかどこかで「竜貝」という言葉を見たような気もするのですが、これは横須賀地区の小字名でした。

竜貝共同墓地入口 竜貝共同墓地入口記念碑
北澤家墓地区画

上左写真は、「竜貝共同墓地」の入口。隣りは利根中学校です。
ブロック塀の切れ目の入口を入ってすぐ左に石碑と地蔵。
石碑は「竜貝共同墓地改葬記念碑」昭和54年12月23日。

左は、墓地中央にある北澤家の墓碑の区画。

ところで、古地図では旧新館中の地域は小字名が「新立」で、
「竜貝」はそのさらに西の一角を指すようです。
とすると、この墓地は「新立共同墓地」と称するべきでは?
と思ったのですが、なんと墓地の隣りに律儀に「新立共同墓地」も。

この2ヵ所の墓地自体は小字名「新立」の地になるようですが、
いちおうそれぞれの区画の家々の墓地は分けられているようです。

ほとんど文字が読めない北澤官知墓碑

北澤官知墓碑正面

上の写真の左から3基目が北澤官知の墓碑ですが、どの面も銘が読みづらいです。
左は正面。「光譽良圍繞身官知清信士」の官知が感知できるかどうか(笑)。
幕末の建立でそれほど古いわけでもないのですが、ウメノキゴケがすごいです。
布等でよく磨けばもう少し碑文が読めるようになるかも知れませんが・・・。

下の写真は台石。右から「筆弟中」と記されています。(これも見づらいです)
寺子屋の門弟たちによる造立ですが、官知の没後なので寿蔵碑とは言えません。

北澤官知墓碑台石

本体:
高79cm、幅36cm、厚36cm。
台石上:
高33cm、幅64cm、厚62cm。
台石下:
高20cm、幅83cm、厚76cm。

下は左から、左側面、裏面、右側面。左側面は「然譽良端妙正信女」で、これは辛うじて読めるかどうかというところ。
裏面も「光 安政七申年三月十三日」「然 天保九戌年十一月七日」と比較的、読めます。
北澤官知の安政7年(1860)没に対し、天保9年(1838)とそうとう前に妻に先立たれているようです。
さて、問題は、最後の右側面ですが・・・。

北澤官知墓碑左側面 北澤官知墓碑裏面 北澤官知墓碑右側面

右側面は、目視では何が記されているかまったく分かりません。拓本をとってもどうかというくらいです。
ここには、北澤官知、晩年に詠んだ辞世の句ともいうべき一句が門弟たちによって記されています。すなわち、
於斜羅婆与花見可天良能旅衣 官知」(おさらばよ花見がてらのたびごろも)

北澤官知と早尾天満宮縁起

早尾天満宮縁起 早尾天満宮縁起

北澤官知は、寺子屋で門弟を指導するかたわら、
念願の早尾天満宮縁起の作成に取り掛かりました。
嘉永3年(1850)9月に完成。

中扉表題として、
嘉永三戌年
永代月護摩本帳
九月吉拝(祥)日

以下の文面が続いています。(『利根町史』第2巻より)

抑当山に安住し奉る、影もかしこき、菅原の御神の御自作なし給ふ尊神なりとかや、其源を尋ね奉るに、天照太神第児(弐カ)の御児なる大穂日命出雲の国に降りて住せ給ふ、其御米出雲の臣野見宿祢、人皇十一代垂仁天皇の御時、大和国纏向珠城の朝庭に止り、植(埴)輪の巧によりて本性を改め土師の性を給ふ、仁徳天皇の御宇土師の臣を連登(ママ)と給ふ、其のち阿波守宇庭の男、遠江介古人光仁天皇天応年中に、土師の性をまた菅原と改め宿祢を給ふ、のち延暦年中に朝臣を給ふ、嫡男従三位清公郷(卿)、御子参儀(議)従三位勘解由長官菅原の足善郷(卿)、其御児萱亟相におハします、今に至りて御家連綿せり、然るに宝(寛)平元年六月十九日、菅公右大臣従二位兼行大近衛大将菅原の朝臣に任せられ給ふ御時に、御自作なし給ふ御尊像なり、誠に霊現あらたなる事世の人の知る処なり、然るに何の因縁か無実のなんにあひ給へ、紫し(筑紫)へ流非(罪)の砌此尊像を連れなし、河内田土師の里に立より給ふ、伯母尼公此尊像は給へぬれとあ(ママ)たひ給わす、白梅の新本にて像を作なし、伯母公へ遺し給ふ、是今に河内国土師の里道明寺の神像となり、近国人歩行をはこふ事市の如しとかや、去れハ菅公ハ伯母尼公にいとまあらせ給へ、難波の津より船に召し給へ築し(筑紫)へ御越し給ふに、船頭深く舟中にいたわり給へけれハ、其心をかんし、此像を給りしとかや、今下総の相馬郡早尾の里に降りて、社をきつき安住し奉り、恐るへし謹むへき事ともなり
一 永代月護摩之儀、日々月々御加人あらせられ、依之此度連中御名前相改め大帳に止め、右構(講)中家内安全子孫長久ため、於神前御祈祷之護摩修行仕、名々御札差上申候、構(講)金にて末代之印ニ田地弐反歩附置、天満宮護摩料なし、たんせい祓て修行いたすもの也
  文政九年
   戊仲春吉拝(祥力)
                 別 当 西 光 寺
            元世話人 海老原甚右衛門
                    坂 本伊右衛門
                    大久保彦左衛門(以下省略)

以下、早尾・横須賀村は無論、立木・奥山・羽根野・上曽根・下曽根・中谷・羽中等々利根町のほぼ全域の村々だけでなく、
河原代・高津・豊田・生板・藤蔵河岸・発作新田・大森・布佐・別所等々まで、総計300人を超える名前が記されています。
そして、最後に、嘉永三戌年改として、北澤八右衛門官知書、の署名捺印がされています。

早尾天神と言えば、北沢家には、ほかに下記のような興味深い逸話が残されています。

北沢家にこんな話しが伝わっている。夜中にガタゴトガタゴト音が聞こえる。ネズミがかけ廻っている音と思いその夜は寝てしまった。つぎの夜もガタゴト音がするので、そっと近づくと佛壇の中で位牌と立像が喧嘩している音であった。立像は約20cm位の小さいもので塾生がおみやげに持ってきたもの。佛壇に安置したところが、狭いので縄張り争いをするのかと思い、近くのお寺へ奉納した。ところが強い風の日、お寺が、火事で焼けてしまった。
不思議なことに立像は無傷。家に持ち帰り佛壇のとなりの床間に置いた。しばらくは、何事もない日々が続き安心していたやさぎ、台所でボヤ。また人騒がせ。不気味な因縁に家の人は困りはて、この立像は神様なのではと思い早尾天神様に奉納するにした。以来何事もなく、早尾では、北沢家が奉納した立像を天神様と信じ天神像(菅原道真)の脇に置き信仰している。(『利根町の文化学芸碑』弓削暢二氏)

この立像が現在、どうなっているのか調査中です。

(13/09/24 追記・13/09/19・13/08/27 撮影)


(注)弟橘媛の櫛塚(だんご塚)は、以下にコンテンツ移動させました。
龍ヶ崎南高校近辺「弟橘媛の櫛塚(だんご塚)」


(15/03/19・14/06/28・14/06/26・13/09/24・13/04/19 追記) (11/03/06 再々構成) (07/04/20・06/07/09 再構成・06/06/04・05/12/06・05/05/23・05/04/26 追記) (05/04/23)
(撮影 14/06/28・14/06/23・14/06/19・13/09/19・11/06/19・05/02/26・05/03/13・05/05/22・05/07/18・06/06/04・06/09/10・11/02/23)


本コンテンツの石造物データ → 横須賀地区石造物一覧.xlsx(15KB)