タヌポンの利根ぽんぽ行 横須賀地区

狸囃子のきこえる家TOP・探訪目次>横須賀地区

横須賀地区のポイント


このページはいろいろ変遷がありました。
当初の龍ヶ崎南高校近辺については別ページに移転
さらに、もえぎ野台地区とセットにしていましたがそれを分離し、「もえぎ野台」を独立。
それぞれの中味が若干、増えたためです。
横須賀地区にはほかに二宮神社がありますが、これは最初から別ページとなっています。

この写真は横須賀の斬られ地蔵と横須賀集会所の子安観音(推定)。
(06/07/09追記・再構成)

タイトル画像は2画像のjavascript処理をしていますが、IE以外では固定1画像のみの表示となりますので、以下、2画像のミニ画像を再掲します。(クリック拡大できます)

横須賀の斬られ地蔵

利根町北部マップ



ここに「早尾・北方の史跡など」で記した利根町北部マップを再掲しますが、先日(05/04初旬)利根町図書館でもらった遺跡地図と見比べてみると、以下に記述する「かぶと塚」「よろい塚」の場所など他の資料で見たときとは微妙に違っています。その直後に現地に再度、訪問して確かめてみた箇所もいくつかありますが、未調査のところもあります。この点、所在地についてはおおよそという形で暫定的に見ていただきますようお願いいたします。
今後の各方面の資料の確認と実際の現地調査を踏まえて、最終的に正しいものに近づけていきたいと思っています。お気づきの点があれはご指摘いただきますようお願いいたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・05/04/22現在 tanupon 敬白



弟橘媛の櫛塚(通称だんご塚)・倭建尊(やまとたけるのみこと)の伝説については
   タヌポンの利根ぽんぽ行「龍ヶ崎南高校近辺」に移転しました。


よろい塚とかぶと塚庄兵衛台住居跡についてはタヌポンの利根ぽんぽ行「もえぎ野台」に移転しました。

横須賀集会所

横須賀なんてカッコいい名前なのですが・・・ハイ、いいところです。
最初、新舘中学付近になにかありそうなので訪ねてみました。そこへはとにかく「斬られ地蔵」を探しに出かけたのです。
前掲の利根町北部マップで言えば、二宮神社から新舘中学目指して東のほうへ歩いて行くことになります。
そうすると交差点の角に石碑が見えてきます。それがこの後、紹介する大乗妙典の供養塔なのですが、
そのずっと後で、同地区のもえぎ野台に近接したところに横須賀集会所があることが分かりました。
そこにも石祠などがありましたので、まずそれから紹介します。


横須賀集会所の祠


スーパーのランドロームの裏手の細道を南下して左折し、しばらく行くと横須賀集会所が右手に見えてきます。
左はその正面。右の写真は集会所の向かって左脇。手前と奥に祠が見えます。

横須賀集会所正面 横須賀集会所

子安観音?

手前の祠

これは集会所脇すぐにある祠です。
祀られている像は、子供を抱いた観音像のように見えますが、果たして何でしょうか。子安観音?(クリックして拡大できます)

右上の木札は寄贈の日付(平成3年8月7日)だけが分かります。
それほど古いものではありません。

→これについては匿名のかたより以下のメールをいただきました(07/04/17)。

横須賀集会場の子安様はもとは太平ではなく横須賀の集会場、今のジェーソンの近く、現在は畑になっているところに有りました。
土地を貸していた家が返還を求め場所を移動する事になったのですよ〜〜〜。。

とのことです。
「子安様」ということですから、やはり子安観音、でいいのですね?匿名さん、ありがとうございました。(07/04/20追記)



大師60番

手前の祠

奥の祠は四郡大師でした。60番はクリックして拡大してみてください。

祠の右上に何か額がありますが、これには短歌が記されています。
下のほうがかすれて読めません。
見出しには「新四国第三番札所」とありますが、
これは右の石柱の「西国三番札所」と符合しますね。
四郡大師とは別次元の番号ですが、これはどうなっているのでしょうか。
利根町のほかの場所でもいくつか見かけたような気がします。


南無大師遍照金剛

祠の上部にある額には、「南無大師遍照金剛」と記されています。
南無とはもちろん南無阿弥陀仏の南無ですが、帰依するという意味。
つまり南無阿弥陀仏は阿弥陀仏を崇めるということです。
では遍照金剛ですが、これは空海大師の尊称を表しています。
したがって、「南無大師遍照金剛」とは空海様に帰依するという意味になります。これを唱えたりします。


大日如来

大日如来

弘法大師と関連の深い大日如来の石祠。昭和47年(1972)1月とまだ新しい建立です。


(05/12/06)(05/07/18撮影)


新舘中学校近辺

さて、「斬られ地蔵」を探しに横須賀集会所から南に下り、二宮神社の前の通りに出てから左折し新舘中学を目指して東のほうへ歩いて行って見ましょう。
最初の交差点に出ると、斜め左向かいの角に石塔が見えてきます。これが大乗妙典の供養塔です。


大乗妙典の供養塔

奉納大乗妙典

碑には「奉納大乗妙典」と書いてあります。

えっ?意味ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
分かりません。
斬られ地蔵ではないことは確かですね。

奉納の字の上に何かしらハングル文字のようなものが見えます。
日韓友好の何か?

でも梵語のような気も・・・。
ハングルも梵語の文字も勉強しないといけませんね。

この石碑の意味が少し判明

上の写真をクリックして拡大してみてください。
ハングル文字のように見えた上部マークは大平神社2で紹介した阿弥陀三尊を示す梵語の文字でした。


梵語・阿弥陀三尊

そして「大乗妙典」ですが、衆生(しゅじょう)、つまりわたしたちのことですね、の民を迷いから解放し、悟りの世界に導いてくれるという経典のことをいいます。具体的には法華経である妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)をさしています。

この経典を読んだり奉納したときの供養、または記念としてとして建てられるのが「大乗妙典の供養塔」ということになります。
この供養塔がだれの手によりいつ建てられたかは不明ですが、石碑をもういちどくわしく見てみれば分かるかも知れません。町ではもう調べててあるのだろうと思いますが・・・。

ちなみに梵語のこの文字は種子または種字(しゅじ)といいます。

(05/05/23追記)


さて、もう少し東に行くと鳥居が見えてきます。
地蔵に鳥居はおかしいな、とは思ったのです。これも、斬られ地蔵ではないのでしょうか?

横須賀の道祖神


これは道祖神ですね。なんて・・・書いてあるんですからだれでも分かりますよね。
でも鳥居のある道祖神って初めて見ました。
利根町史第5巻には祭神は久那戸神(くなどのかみ)であり、鳥居は木造とありますが、木造には見えませんね。
ちがうのかしら。それとも最近、鳥居だけ新築したのかも・・・。

道祖神
青面金剛など

石塔として、庚申塔 元文5年(1740)ほか一基とあります。
ほか一基というのは写真の左、青面金剛(しょうめんこんごう)王のほうでしょうか?



祠の表の隙間から中を撮ってみました。

石祠があります。
これが祭神、久那戸神(くなどのかみ)様であらせられるのでしょうか。

斬られ地蔵


予期していない石碑や鳥居が見つかってびっくりしたのですが、さて、肝心の斬られ地蔵はどこにあるのでしょう?
えっ?斬られ地蔵って何ですかって?
説明してませんでした?
では・・・・。

・・・昔、横須賀に住むあるバクチ好きの若者がいました。
いつも立木でばくちを打った帰り路、ここを通りかかるのですが、夜な夜な人が現れて説教を言う。
頭にきた若者はとうとうその人間に頭から斬りつけて傷を負わせてしまいました。
ところがその後、同じ場所にあった地蔵の頭に刀傷が3本できたというのです。
これを聞いた若者は、改心し、その後は立派な人間になったというお話です。不思議ですね。

(なお、円明寺の沿革等を解説している関口秀明氏の話では、この若者は弓削新助さんと言い、立派に弓削新兵衛家を継いだと記しています。以上、利根町史より)

これについては利根町に縁の深い小林一茶も次のような句をのこしています。

御地蔵も 人をばかすぞ 秋の暮

で、どこにそれがあるの?
中学の門を通り過ぎても分かりません。

少し行ったところに石材屋さんがありました。
石材をあつかっている人なら地蔵様のことがきっとわかるにちがいないと確信をもって尋ねてみました。
店には事務の方らしい女性が居ました。

「そんな話、聞いたことがあるんだけど、実はよく分からないのです。あれじゃないのかしら」
と彼女が指差したのは先ほどの鳥居。
彼女の発言で少々いやな予感はしていたのです。
「あれじゃないかしら」ではなく、
「あれじゃないのかしら」と言ったからです。

この2つの言葉は似ているようで実はその自信のほどは大きな違いがあります。

「さっき見たのですけど、どうも違うみたいなのです」
タヌポンのその発言への彼女の答えは無言の首を傾げる仕草でした。

もう一度、さっきの鳥居を見てみるしかないかと思いました。

すると偶然、ふたり連れの学生が下校するところに出会いました。新舘中学の生徒なら知らないハズはないですよね?!
ところが・・・。
タヌポンの質問に、首を振りながら、へんなおぢさん(おじさんはやはりおぢさんのほうが感じが出ますね)、いやタヌキ、
というような顔をして、自転車で去って行ってしまいました。
えーーーっ!中学生も知らないの?じゃあこの近辺ではないのではないの?
そう思っても仕方ありませんよねえ。

でも、もう一度、鳥居まで戻ってみようと思いました。これで新舘中学近辺での斬られ地蔵探索は最後です。
利根ぽんぽ行の探索を始めて、このもう一度だけの粘りがなぜかこれまで功を奏していることがたびたびありました。
そして、今回もまさしくそうだったのです。

わずか100mにも満たない距離の後戻りです。
ただ今度は中学側の塀の近くに沿って鳥居方面へ向かいました。

そしてしばらく進んでほんとに何気なく前方右手を・・・。


あれっ?

なんかフェンスが切れているなあ。

と、まだここでは大した疑問はありません。



しばらく進み、切れたフェンスに何気なく目をやると・・・。

あああああああああ!

タヌポンは思わず、先を行く奥さんを呼び戻しました。

斬られ地蔵


「何なの、こんなんじゃ分からないわよ!何で立札など出していないのよ!」
「まあまあ」と慰めるタヌポンでありました。

地蔵の頭にはなるほど何か傷跡がついているように見えますね。
右の石は何なんでしょうか?

この傷を見つけるより、この地蔵を見つけるのがはるかに難儀なことでした。
でも、これを読んだ皆さんはもうだいじょうぶですね。

でも、探し物が見つかる楽しみもまた格別なのですけどね。

(この「斬られ地蔵尊」は、さらに東にある円明寺が管理しています)


(05/04/26)(撮影05/02/26・05/03/13)



06/06/04立札発見!


なんと、後日、この前を再度、通りかかったときふと見ると、小さな立札が立っているではないですか!
もしかして教育委員会の人が立ててくれたのでしょうか?
あっ、↑この上で、「何で立札が・・・」なんて記したからかも。
いやあ、もしそうだったら恐縮ですね。でもちがいますよね。これを見ているとは限らないし、立札もいずれは立てる予定だったのでしょう。
クリックすると立札の拡大写真になります。

補足し忘れましたが、上記の斬られ地蔵の逸話および関口秀明氏の話は「利根町史」に収録されているものを要約しました。

(06/06/04追記)(撮影06/06/04)