利根町の中央部からやや北側にかけて横須賀と呼ばれる地域があります。
神奈川県の横須賀と字は同じですが、イメージは相当・・・ちがいます(笑)。
利根町横須賀地区の見所は、地区の北側のもえぎ野台に隣接した地域に集中しています。
南のほう、農免道路以南は、面積は広いのですがほとんど水田です。
ポイントは、北から横須賀集会所とその敷地にある子安観音、大師堂などと、二宮神社、
新舘中学校近辺には、大乗妙典の供養塔や横須賀の道祖神、斬られ地蔵があります。
当初、このコンテンツは、横須賀地区の北のもえぎ野台と一緒にしていましたが、
その後、内容拡大とともにこれらを2コンテンツに分離させるなどいろいろ変遷しました。
そこには、龍ヶ崎南高校近辺 の情報もあり、それらもまた別コンテンツとしました。
このたび、目次改訂を機に、横須賀地区の全容が分かるような目次構成に、再々編成しました。
この「横須賀地区」とは別ページとした二宮神社の項目も目次に加え、リンクしやすくしました。
大別して「横須賀地区」は寺社編、「二宮神社」は神社編となります。
それぞれの一部に、寺社・神社の内容が混入されていますが、
その要素をデザインで識別させ、分かりやすくしました。
さて、最初、「斬られ地蔵」と称されるいわく因縁ある地蔵が横須賀地区にあるということで、
新舘中学付近をさがしてみることにしました。
前掲の利根町北部マップで言えば、二宮神社から新舘中学目指して東のほうへ歩いて行くことになります。
そうするとまず交差点の角に石碑が見えてきます。それがこの後、紹介する大乗妙典の供養塔なのですが、
斬られ地蔵を見つけるまでには、ほかにも横須賀の道祖神に出会うなどの途中経過がありました。
大乗妙典の供養塔や道祖神発見の経過は、このあと順に紹介していくとして・・・。
また、もっと後に再訪問したとき、同地区北のもえぎ野台に近接したところに横須賀集会所があることが分かりました。
そこにも祠や大師堂などがありましたので、まず、それから先に紹介します。
スーパーのランドロームの裏手の細道を南下して左折し、しばらく行くと横須賀集会所が右手に見えてきます。
横須賀集会所は、いままで利根町で見た集会所のなかではいちばんモダンと思える外観の建物です。
内部を見たことはないのですが、「もえぎ野台」住宅建設に関連して新設された建物なのでは、と思いました。
下左はその正面。右の写真は集会所に向かって左側。手前と奥に祠が見えます。

これは集会所脇手前にある祠です。
祀られている像は、
子供を抱いた観音像のようですが、
果たして何でしょうか。子安観音?
→ これについては匿名のかたより
以下のメールをいただきました。
横須賀集会場の子安様はもとは太平ではなく横須賀の集会場、今のジェーソンの近く、現在は畑になっているところに有りました。土地を貸していた家が返還を求め場所を移動する事になったのですよ〜〜〜。。
とのことです。
「子安様」ということですから、
やはり子安観音、でいいのですね。
匿名さん、ありがとうございました。
祠の右上にかかっている木札は
内容はほとんど読めませんが、
寄贈の日付(平成3年8月7日)が分かります。
ただその日付は木札に関するもので
子安観音像や祠の建立日ではないようです。
左の写真で石塔の右側面には、
嘉永2年(1849)4月の文字が読めます。
奥の祠は四郡大師でした。
祠の右上に何か額がありますが、
これには短歌が記されています。
下のほうがかすれて読めません。
額に記された見出しには
「新四国第三番札所」とありますが、
これは祠の右に立っている石柱の
「西国三番札所」と符合しますね。
四郡大師とは別次元の番号ですが、
これはどうなっているのでしょうか。
四郡大師60番札所イコール、
新四国第三番札所、
という見立てなのでしょうか?
新四国(=四郡大師)第60番札所、
というふうに理解していたのですが・・・。
うーーん、わけが分かりません。
以下は、60番の札と、祠のなかの大師像。

祠の上部にある額には、「南無大師遍照金剛」と記されています。
南無とは南無阿弥陀仏の南無ですが、帰依するという意味。
つまり南無阿弥陀仏は阿弥陀仏を崇めるということです。
では遍照金剛ですが、これは空海大師の尊称を表しています。
したがって、「南無大師遍照金剛」とは
空海大師に帰依するという意味になります。
意訳すれば、「空海様」。これを何度も唱えたりします。
平成3年(1991)8月に奉納されています。
西国三番札所の石柱の左の側面(下左写真参照)には、
横須賀東光院の文字が見えます。
東光院は文地区横須賀にあった寺で
徳満寺の末寺。現在は廃寺となっています。
つまり横須賀東光院のあった場所が
「西国三番札所」の石柱のもともとの場所ということになります。
また、右の側面(下右写真参照)には、
嘉永と10月の文字が見えます。
嘉永年間(1848〜1854)の建立ということですね。

利根町の史跡等を訪ねると、伊勢太太講での伊勢巡礼とか、
西国秩父坂東などの巡礼に関するものが数多く見られます。
タヌポンはそういうものにはあまり興味はなかったのですが、
石碑等々を調べて行くとどうしてもそれらの知識がないと
理解ができなくなることが多くなってきます。
この横須賀の四郡大師の堂にあるひとつの額を例にしても
そこには、御詠歌と称する歌が記されており、
それがどういういわれがあるものなのかを調べてみると、
なるほどそうだったのか、ということが分かります。
今回調べて分かったのは、第3番とかいう札所には、本家本元四国のそれ専用の御詠歌が付属されていることです。
したがって、文字がかすれて読めなかった額の和歌も、実は、第3番札所に共通の和歌であるということが分かりました。
さらに、本来の第三番札所とは、四国の亀光山金泉寺「きこうざん・こんせんじ」で、その御本尊は釈迦如来ということも。
共通の第3番御詠歌を以下、紹介します。これはまさに、文字がかすれて読みづらかった和歌そのものです。
御詠歌3番: 極楽の 宝の池を思えただ 黄金の泉澄み湛える
それならば、60番の御詠歌もあるはずと思いました。調べたらやはりありました。それが以下。
御詠歌60番: たてよこに 峰や山辺に寺たてて あまねく人を救うものかな
これを本来、額に記して掲げるべきではないのでしょうか。
新四国と題して、四郡大師のイベントを発足させたのなら、60番をなぜ3番としたのか、どうしても意味が分かりません。
四郡大師60番の祠の右上に新四国3番の額を掲げたのは、事情に厳密ではない後世・現代の人たちであり、
もともとこれらは、年代的にはそんなに差はないというもののまったく別個のものだったのではないか、
そんな思いがしてなりません。
四郡大師の札所の番号と、そばに建てられている新四国もしくは西国と称するものの番号が一致しているものもあります。
利根町ではどこか忘れましたがそういう箇所も確かありました。でも、それはむしろ例外で、
四郡大師札所番号とそれ以外のものとはいちおう別物と考えたほうがよさそうである、と思っています。
大日如来とは、森羅万象全てを創造した宇宙の根本仏とされています。絶対的な存在であり、
空海の開いた真言宗においては、究極的には修行者自身と一体化すべきものとして最も重要な仏陀とされます。
(弘法)大師(空海)と関連の深い大日如来の石碑。昭和47年(1972)1月とまだ新しい建立です。

さて、「斬られ地蔵」を探しに横須賀集会所方面から南に下り、二宮神社の前の通りに出ました。
そこを左折し新舘中学を目指して東のほうへ歩いて行ってみます。
最初の交差点に出ると、斜め左向かいの角に石塔が見えてきました。
一見、斬られ地蔵という感じではありませんが、見てみましょう。
塔には「奉納大乗妙典」とあります。
奉納の字の上にみえるのは、
ハングル文字のようなもの。
でも、まさか韓国のものが・・・。
当初、この文字もそうでしたが、
大乗妙典ということも
さっぱり分かりませんでした。
ハングル文字のように見えた上部マークは
大平神社2 で紹介した阿弥陀三尊を示す梵語の文字でした。
つまり、阿弥陀三尊を現わすもので、
上部の文字は阿弥陀如来、左下は勢至菩薩、右下は観世音菩薩、
梵語の読み方は順にキリーク、サク、サです。
ちなみに梵語のこの文字は「しゅじ」といい、種子または種字と書きます。
そして「大乗妙典」ですが・・・。
衆生(しゅじょう)、つまりわたしたちのことですね、の民を迷いから解放し、
悟りの世界に導いてくれるという経典のことをいいます。
具体的には法華経である妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)をさしています。
この経典を読んだり奉納したときの供養、または記念としてとして建てられるのが
「大乗妙典の供養塔」ということになります。
下の写真は、供養塔の背面。左は背面の上部で、明和9年(1772)11月の建立であることが分かります。
でも、この建立時にはちょっとおもしろい事実があります。
明和9というのは、めいわく、つまり迷惑な年、ということで、実際、「明和の大火」が発生するなど風水害、疫病が多発。
ということで語呂が悪いという理由で、幕府が改元、明和から「安永」に改められたのです。その時期がなんと11月15日。
ということは、この供養塔が、安永元年ではなく明和9年11月とあるのは、
11月1日から11月14日の間という微妙な時期に建てられた可能性が高いですね。
もしくは、15日を過ぎていても、幕府からの安永の改元の通達がまだ届いてなかったからかも知れません。
タヌポンは、通達が届いていても、あえて明和9年、迷惑な年、としたかったのでは、などと・・・
→ 福木集会所(北)周辺コンテンツの 明和9年は迷惑な年 参照。

さて、この供養塔がだれの手により建てられたかですが、上の右の背面下部を見ると・・・。
良巌教浄信士
良座妙花信女
という名が見えます。男女の戒名のようですね。
生前中にこの2人が建てたか、あるいは2人が没後に、その関係者が建てたということでしょうか。
さて、大乗妙典の供養塔からほんの少し、10mほど東に行くと道路に面して白い鳥居が建っているのが見えてきます。
新発見ポイントですが、地蔵に鳥居はおかしいな、とは思ったのです。当然、これも、斬られ地蔵ではないですね。
これは道祖神ですね。なんて・・・。
奥に書いてあるんですから
だれでも分かりますよね。
でも、鳥居のある道祖神を
このとき初めて見たのです。
町史にある「木造」には見えません。
鳥居の裏を調べてみると(以下↓)、
平成16年(2004)10月。
やはり新築されたのですね。
鳥居は明神鳥居が利根町では多いのですが、比較的少ないほうの神明鳥居系で靖国鳥居と呼ばれる種類のようです。
神額が付いていないので、鳥居だけでは神社名は分かりません。コンクリート製のようです。
拝殿と本殿がセットになったような祠です。祠の表の隙間から中を撮ってみました。
本殿としての石祠が安置されています。利根町史には、祭神は久那戸神(くなどのかみ)とあります。

上記の写真は2011年のもので、道祖神発見当初は祠の上部に「道祖神」の額は飾られていませんでした。
そのかわり、右の手水の手拭に大きく書かれていたので道祖神であることが分かりました。
この道祖神など横須賀地区一帯の設備のお世話をされている婦人が、こうしたものも書かれたり作られているということです。
(後述 斬られ地蔵の立札その後 参照)
左が青面金剛王、右は庚申塔。鳥居の背後の左手にありますが、狭いので正面からの全容撮影ができません。
町史には、石塔として、庚申塔 元文5年(1740)ほか1基とあります。
元文5年建立のものがどちらなのか、碑文等が読みにくいので分かりません。青面金剛王も庚申塔の一種ですので・・・。

あまり広くはない敷地ですが、手水舎も設置されています。
平成23年1月奉納とは今年(2011)のことですが、
もちろん手水舎の奉納ではなく、この手拭の奉納です。
手水や手水舎の建立がいつなのかは不明です。
婦人にお聞きすればなにか分かる可能性は大ですね。
予期しなかった供養塔や道祖神などが見つかって驚いたのですが、さて、肝心の斬られ地蔵はどこにあるのでしょう?
えっ、斬られ地蔵って何ですかって?説明してませんでした?それは、失礼しました。では・・・・。
・・・昔、横須賀に住むあるバクチ好きの若者がいました。
いつも立木でバクチを打った帰り路、ここを通りかかるのですが、夜な夜な人が現れて説教を言う。
頭にきた若者はとうとうその人間に頭から斬りつけて傷を負わせてしまいました。
ところがその後、同じ場所にあった地蔵の頭に刀傷が3本できたというのです。
これを聞いた若者は、改心し、その後は立派な人間になったというお話です。不思議ですね。
なお、円明寺 の沿革等を解説している関口秀明氏の話では、
この若者は弓削新助さんと言い、立派に弓削新兵衛家を継いだと記しています。(利根町史より要約)
これについては利根町に縁の深い「小林一茶」も次のような句をのこしています。
御地蔵も 人をばかすぞ 秋の暮
で、その「斬られ地蔵」はどこに?道端に立っているのか、それとも祠のようなものがあるのでしょうか・・・。
大乗妙典の供養塔のあるコーナーを過ぎ、発見した「横須賀の道祖神」の鳥居を見て、とうとう中学校までやってきました。
そして、その門を通り過ぎましたが、どうも見当たりません。この少し先は、もう立木地区になってしまいます。
石屋さんも、分からない!
中学校の門から少し東に行ったところに石材屋さんがありました。これは!と思いました。
石材をあつかっている人なら地蔵様のことがきっとわかるにちがいないと確信をもって尋ねてみました。
店には事務の方らしい若い女性がいました。
「そんな話、聞いたことがあるんだけど、実はよく分からないのです。あれじゃないのかしら」
と彼女が指差したのは先ほどの道祖神の鳥居。彼女の発言で少々いやな予感はしていたのです。
「あれじゃないかしら」ではなく、「あれじゃないのかしら」と言ったからです。
この2つの言葉は似ているようで実はその自信のほどは大きなちがいがあるんですね。
「(あの鳥居近辺は)さっき見たのですけど、どうもちがうみたいなのですが・・・」
タヌポンのその発言への彼女の答えは、無言の首を傾げる仕草でした。
こうなっては、念のためもういちど、さっきの鳥居の場所まで戻ってなかをよく見てみるしかないかとも思いました。
石屋さんのもっと年配の経営者風の人がいればと思ったのですが、そのときは不在のようでした。
新舘中学の生徒も、分からない!
すると偶然、ふたり連れの学生が下校するところに出会いました。新舘中学の生徒です。
彼らなら知らないハズはないですよね?!社会科かなにか、郷土史などで習っているのでは、と期待が高まります。
ところが・・・。
タヌポンの質問に、首を振りながら、へんなおぢさん(おじさんはやはりおぢさんのほうが感じが出ますね)、いやタヌキ、
というような顔をして、さしたる説明もなく自転車で去って行ってしまいました。
えーーーっ!ここの中学生も知らないの?じゃあこの近辺ではないのではないの?そう思っても仕方ありませんよねえ。
もういちど、が功を奏す!
でも、やはりもういちど、鳥居まで戻ってみようと思いました。それでこの近辺での斬られ地蔵探索は最後にしようと。
利根ぽんぽ行の探索を始めて、この「もういちど」だけの粘りがなぜかこれまで功を奏していることがたびたびありました。
そして、今回もまさしくそうだったのです。
わずか100mにも満たない距離の後戻りです。ただ今度は中学側の塀の近くに沿って鳥居方面へ向かいました。
そしてしばらく進んでほんとに何気なく前方右手を・・・。
なんかフェンスが切れているなあ。
と、まだここでは
大した疑問ではありません。
しばらく進み、切れたフェンスに
何気なく目をやると・・・。
あああああああああ!
タヌポンは思わず、
先を行く奥さんを呼び戻しました。
(写真の少し先に見える白い鳥居が、
横須賀の道祖神 です)
何なの、こんなんじゃ分からないわよ!
何で立札など出していないのよ!
怒る奥さんを「まあまあ」と慰める
タヌポンでありました。
それより、やっと見つけた吉良上野介。
その背中、いや、頭の刀キズを
まず確認しないと・・・。
(右にある石は何なんでしょうね?)
地蔵の頭にはなるほど何か傷跡が
付いているように見えますね。
確かに3本、あるようです。
ああ、苦節、2時間程度の彷徨、ですか?
やっと見つけました「吉良れ地蔵」。
赤穂浪士のそのときのように、笛を吹きたい気分ですね。
この傷を見つけるより、
この地蔵を見つけるのがはるかに難儀なことでした。
これを読んだ皆さんなら、もうだいじょうぶですね。
でも、探し物が見つかる楽しみもまた格別なのですけどね。
(この「斬られ地蔵尊」は、東にある 円明寺 が管理)

上記発見から1年3ヵ月後、この前を再度、通りかかったときふと見ると、小さな立札が立っているではないですか!
もしかして教育委員会の人が立ててくれたのでしょうか?
あっ、↑この上で、「何で立札が・・・」なんて記したからかも。いやあ、もしそうだったら恐縮ですね。
でも、ちがいますよね。このサイトを見ているとは限らないし、立札もいずれは立てる予定だったのでしょう。
このページ再々構成直前に、5年ぶりにこの地区に訪れました。
そのとき出会った婦人より、立て札の経緯などが分かりました。
婦人はこの近くに住む方で、傘寿を何歳か過ぎたご高齢なのに
ご自分で乗用車を運転され、このあたり一帯の道祖神などを廻って
掃除されたり花を生けるなどお世話をされているといいます。
まだ50代ではないかと思うほどのお元気な姿でびっくり!
聞くところによると、この立て札を立てたのは中学の校長先生で、
婦人のお願いで立ててもらったのですが、時間が経つと・・・。
この写真ではよく見えませんが、
立て札の材質が金属や石製ではないようなので、
雨風により劣化して文字等も見えづらくなっているようです。
せっかく校長先生のご好意によりつくっていただいたのにねえ、と婦人はとても残念そうでした。
タヌポンも、町の財政が厳しいのでなかなかこういうところまでは予算をまわせないのでしょうなどと・・・。
(注)弟橘媛の櫛塚(だんご塚)は、以下にコンテンツ移動させました。
→ 龍ヶ崎南高校近辺「弟橘媛の櫛塚(だんご塚)」
(11/03/06 再々構成) (07/04/20・06/07/09 再構成・06/06/04・05/12/06・05/05/23・05/04/26追記) (05/04/23)
(撮影 05/02/26・05/03/13・05/05/22・05/07/18・06/06/04・06/09/10・11/02/23)