タヌポンの利根ぽんぽ行 日枝神社と布川東弁財天

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目  次



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更新経過

2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
本コンテンツでは、庚申塚の各石仏を主に再調査しましたが、
各庚申塔の背後があまりにもスペースがなく、やはり撮影が困難。
雑草と蚊のいない季節だったので、なんとか目視で銘文の一部を把握。
完全とはいきませんでしたが、なんとか法量も計測し、追記しました。(15/04/08)


布川地区の北東部は、布川山王と呼ばれる地域。
山王というからには日枝神社(ひえじんじゃ)があるはずだと思っていましたが、
やはりありました。(山王と日枝神社の関係は後で説明します)

地図上では、県道千葉龍ヶ崎線沿いに見えますが、県道からは見えません。
県道からほんの10mほど細い路地を登った左に石段があり、
その上に日枝神社の小さな境内があるのです。
高台になっているせいもあり、県道からは見えないのですね。

その県道を、少し東にいくと小さな陸橋になっていて、
その下を南北に通っている細い路地脇に塚があります。
塚の上り口すぐ左に大師堂があり塚を登ると庚申塔が並んで建っています。
これが庚申塚。

さらに、陸橋をくぐって路地をまっすぐ南下すると右手に柳田國男の記念公苑があります。
記念公苑から見て右斜め向かいが布川東集会所になっており、
そこには弁財天の鳥居が建っています。
ちなみに布川地区には、来見寺・コミュニティセンター近くにも 弁才天 があります。
弁才天・弁財天と2通りの書き方があり、利根町史にならってここでは区別していますが、
一般には、ほとんど混同されて使用されています。

目次改訂と追記再編成にともない、
タイトルを「日枝神社と布川東近辺」から表題に変更しました。(2012/04/24 追記)


布川地区マップ

日枝神社は、布川地区の北東部。下記マップの右上ですが、
布川城(徳満寺付近)の北東=艮、まさに「鬼門」の方角に、城の守護神として建てられました。

布川地区マップ

日枝神社

日枝は神、山王は仏

下は日枝神社の境内へと続く石段です。20段程度で1人がやっと登れる程度の幅の石段ですが、なかなか風情があります。

石段

八幡神社ほどではないにしても全国各地にある日枝神社。
その3,800余社の本祠となっているのが、
滋賀県大津市にある日枝大社(=日吉大社)です。
ちなみに、東京赤坂にも日枝神社がありますね。
その東京の日枝神社付近も、
山王という言葉が付いた地名になっています。
これはどういうわけでしょう?

日枝神社の祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)
もしくは大己貴神(おおなむちのかみ)で、
近江国と山城国の間にある「比叡山」を中心とした地主神です。
(ちなみに大己貴神は大国主神の別名です)
「日枝」は「比叡」なのですね。

石段下から

さて、延暦7年(788)最澄がこの地に天台宗比叡山延暦寺を建てて以来、平安時代から神仏習合が強まり、
もとからある神社の日吉社は釈迦の垂迹であるという本地垂迹説によって信仰がさらに深まり、
延暦寺側から「山王権現」「山王社」「日吉社」などと呼ばれるようになりました。

この山王の名ですが、これは最澄も遊学した唐の天台山国清寺で、
地主神として道教の「山王元弼真君」が祀られたことからきているということです。
そして「山王」の2字が、いずれも3本の線と、それを貫く1本の線からなっており、
これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて三諦即一・一心三観の理を説いたものとされています。
これにより「日枝神社=山王権現」という図式が成立していきます。まさに神仏の融合、山王神道の誕生というところです。

境内と巨木

さてわが利根町の日枝神社は・・・。
石段を上がると、小さな境内で左手に鳥居・本殿があります。鳥居をくぐると1段低くなっています。
本殿の後は県道が走っています。境内の周りはすべて崖になっており別の場所には行けません。
神木らしい巨木がありますが榊でしょうか?利根町の巨木の特集をしたいと思っていますが、もう少し調べないと・・・。

境内 巨木

新旧鳥居

左の写真は2006年10月、右下はその1年前の2005年7月の撮影。この期間に新築されたようです。

鳥居

最初、神額の朱色ばかりに
気をとられていましたが、
鳥居の柱にも奉納という
朱色の文字が新規に見えます。
正確な改築の日付は、柱の裏あたりに
記されているかも知れません。
いつかもういちど見てみましょう。

旧鳥居
鳥居柱右裏 鳥居柱左裏

上記から2年半も経ってやっと再撮。
平成18年(2006)5月の建立と判明しました。

左は右柱の裏面で、
桜川市阿部田一九〇―一
施工(有)石の深海
右は左柱の裏面、
平成十八年五月吉日建立」。

新旧神額

神額 旧神額

もちろん、左が新しい神額です。

本殿と祭神

本殿

本殿は木造。
布川山王日枝神社の祭神はやはり
大山咋神(おおやまくいのかみ)。
祭礼は10月25日。

由緒沿革としては、
布川城主豊島頼継が
城内より艮(うしとら)位の守護神として
創建したと茨城県神社誌にあります。

艮は、方角を十二支にあてたときの
丑と寅との中間で北東。
鬼門(きもん)にあたります。
棟札の記録では
永禄元年(1558)創立、
宝永2年(1705)再営、
宝暦元年(1751)再建。

祭神

人の目につきにくいせいか訪れる人はほとんどいないようです。
実際、最初に訪れてから3ヵ月ほど経った後に再訪問したとき、
試しに本殿の内部を開けてみたのですが、
前回のときと寸分違わないままの姿でした。
ひんぱんには掃除をする人もいないのですね。

ちなみに中には山王大権現の棟札らしきものが2つありましたが、
それには天保4年(1833)正月と
昭和22年(1947)8月15日再建とありました。
8月15日は終戦記念日ですね。2年後ということですか。

東講中というのは布川東の講の仲間たちの手で
再建したということですね。

手水

本殿・拝殿に向かって右手に手水があります。前面にはよくある「奉納」。3.11で崩れたのか台石が以前とは異なっています。

手水 手水
手水左側面

手水の左側面には、弘化2年(1845)の文字が見えます。

弘化二載
乙巳冬
臘月嘉痕

載とは年と同意。乙巳は、きのとみ、いっし。

臘月(ろうげつ)とは陰暦12月のこと。

「嘉痕」が初めて見る言葉ですが、嘉の痕跡、という
石工専用の言葉でしょうか?

手水右側面

右側面には世話人5名と願主の名前が記されています。

□□宿□□仁三郎
□□□上柳宿□□康兵衛
□□□□□□
□□□□□海老原
□□□□鍛冶谷
□□□□□□□□

本体: 高29cm、幅71cm、厚30cm。

布川山王の庚申塚

庚申塚

確かに小高く塚になっています。
塚の上には石塔がいくつか見えます。

前はクルマが1台しか通れないような
細い路ですが、抜け道として
小さな陸橋トンネルとともに
地元では意外と利用されています。

でも、塚の正面に喫茶店があるので
そちらのほうが目印となり、
この塚を見落としている人も
多いのではないでしょうか。

せいぜい大師の祠か何かあるな、
という程度でしょうか。

8基の庚申塔

庚申塔

庚申塚というだけあって庚申塔ばかり。
『利根町史』には「庚申塔明和4年(1767)ほか5基」
と写真付きで掲載・紹介されていますが、
実際は、どう見ても8基はありますね。

明和4年のものはどれなのか、
左から順に見ていきます。

庚申塔1(文字塔)

庚申塔1

これは表面が「庚申塔」の文字のみ、
両サイドには何も記されない代わりに裏面に文字が刻銘されています。

しかし、この更新塚では、石塔のすべてが背後のスペースがあまりなく、
裏面を撮影するのはほとんど不可能で、なんとか覗き込むのが精一杯。

これは、辛うじて、「昭和二十八年十月建之」、
昭和28年(1953)10月の造立年だけ目視できました。

本体: 高100cm、幅43cm、厚9cm。

庚申塔2(文字塔)

庚申塔2 庚申塔2右側面

これも「庚申塔」の文字塔。

台石正面に、「講中」とあります。

右側面を見て、
明治三十九年五月建之」、
明治39年(1906)5月造立が判明。

背後は無論、前に樹木があるので、
真正面からの撮影もできません。

本体: 高77cm、幅31cm、厚30cm。

庚申塔3(文字塔)

庚申塔3 庚申塔3左側面 庚申塔3右側面

上記と同じく「庚申塔」の文字塔。左側面で、「大正九年十二月二十八日」大正9年(1920)12月28日造立が分かります。

右側面は以下10名の関係者の列記。
野田清次郎□□森杉三藏
□□安藏
杉野𣳾□□益治
川村惣三郎□□豊島友吉
菊池由之助□□清藏


※ 𣳾は泰の異体字。

本体: 高61cm、幅26cm、厚19cm。

庚申塔4(刻像塔)

庚申塔4(刻像塔)

これ1基が、この更新塚では刻像塔。
像はむろん青面金剛。1面6臂で、邪鬼を踏み、下部に3猿も描かれています。
上部には日月雲の浮彫、手には三又戟、弓、矢などを持っています。

表面右に、「明和四亥年十月吉日」とあり、
これが『利根町史』にある明和4年(1767)造立の庚申塔でしょう。
左に、「東講中」の銘もあります。

本体: 高113cm、幅48cm、厚29cm。

なお、前に置かれた3猿の石は、まったく関係のない別の庚申塔の断片でしょう。
ここにあるほかの7基の下に付く、という感じには見えません。

庚申塔5(文字塔)

庚申塔5 庚申塔5右側面 庚申塔5左側面

これも「庚申塔」の文字塔ですが、上部にうっすらと「日月雲」の線画が描かれています。
台石に「山王講中」とあり、塔右側面(写真中央)には以下、6名の名が刻銘されています。
豊島音吉 豊島市太郎 武藤松五郎 須郷清 森村滝藏 櫻井東七

左側面には「昭和三年十二月建之」で、昭和3年(1928)12月造立が分かります

本体: 高71cm、幅29cm、厚29cm。

庚申塔6(文字塔)

6.庚申塔(文字塔)

自然石型の「庚申塔」文字塔。

下に講中とあります。

表面は庚申塔しか彫られていないうえ、薄い8cmの厚さで、
当然左右には刻銘するスペースがありません。
しかし、裏面は、垣根が邪魔をしてよく見ることが出来ません。

ようやく、「昭和三年十二月三十日」、昭和3年(1928)の造立年を目視できました。
これは前述の庚申塔と同じ年月ですね。
ほかに、関係者の名前が10数名ほど彫られていますが、撮影はできませんでした。
前述とは重複しない別の人名が列記されているのかも知れません。

本体: 高89cm、幅43cm、厚8cm。

庚申塔7(文字塔)

庚申塔7

これも、表面は「庚申塔」の文字だけの石碑の形式の塔。
裏面を覗き込んで、なんとか「改修記念」という刻銘と
昭和五十四年七月」の建立銘を見付けました。昭和54年は1979年。
ほかにも、やはり関係者の名前が刻まれています。

本体: 高93cm、幅49cm、厚10cm。

庚申塔8(文字塔)

庚申塔8

表面に「平成元年記念」「庚申塔」として17名の講中の名が記されています。
平成元年記念ですから、平成元年(1989)に建立されたと思われます。
しかし、これも裏面の確認ができませんでした。

庚申塔8下部拡大

白井弘一□□野田□□
豊嶋文行□□森杉好秀
海老原謙一□□森杉武雄
野田壽一□□武藤輝男
森杉義一□□豊嶋久男
森杉芳郎□□杉野壽一
河村惣一郎□□星野芳雄
河村富士雄□□豊嶋注連雄
篠塚富男


本体: 高153cm、幅49cm、厚11cm。

庚申塚前の大師

これも、四郡大師、なんでしょうね。番号札は見当たらないようです。

大師 大師像

大師像本体: 高34cm、幅26cm、厚15cm。

額

久々に訪問してみたら、こんな額が・・・。

「辿りきて 今だ 山麓 弘法」

ちょっとこれは、と思いました。
まず、「今だ」は「未だ」でしょう(笑)。

でも、そのことよりも、この言葉は、弘法大師ですか?
将棋の升田幸三が史上初(当時)の3冠(名人・王将・九段)を
成し遂げたときに言った名言ですよね。
大師とは関係ないのでは・・・。

でも、もしかして、升田幸三が空海の言からパクったとか・・・。
まあ、長いお遍路途中にはぴったりの言葉ではあります。

力石

力石

左右2個石が見えますが、右のは結構大きそうです。
これも、「力石」もしくは「さし石」と呼ばれるものでは?
残念ながら銘文などは刻まれていないようです。

本体: 高22cm、幅53cm、厚55cm。

桜の見所、喫茶店も

桜

庚申塚の上にも桜がありますが、
これはその真向かいの民家の桜とユキヤナギの花。
白とピンクの競演で、なかなかきれいです。

名所というほどの規模ではありませんが、その分、静かに花見が楽しめます。
近くにパームツリーという軽食喫茶もありますし。

喫茶

布川東の弁財天

位置関係

弁財天は、布川東の集会所に隣接しています。
集会所の敷地なのか弁財天が主なのか不明ですが、
ここには東と西のどちらの道路からも入れます。

集会所は、南北の道とは直角に建てられているので、
どちらが正門入口なのか不明ですが、
弁財天の場合は、正門は東と言えそうです。

東側の道路から入ると、すぐ目の前に神木?が立っています。
そして、その右手に、
神木に一部、視界を遮られながも弁財天が見えてきます。

神木? 全景

弁才天とは、ヒンズー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名です。
ちなみに、ヒンズー教の神々、シバ神やブラフマン、ラクシュミ、インドラなど、多くが仏教の守護神となっています。

経典に基づいた漢字表記は、本来「弁才天」なのですが、日本では財宝神としての性格が付与され、
「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多くなっています。布川東でも「弁財天」です。
俗に、弁天(べんてん)様とも言われていますね。

鳥居の全景は背後から

鳥居前 鳥居後

ここの鳥居は神木?の陰になって真正面からは全景を撮れません。背後から撮ったカットを右に。
右柱の背面に「奉納 平成四年十月吉日 東第二組合一同建立」。平成4年(1992)10月の建立です。

辨財天の神額

大師

「辨財天」と記されていますが、
これがもし「辨才天」となっていたら少々問題があります。
というのは・・・。

「サラスヴァティー」の漢訳は「辯才天」であり、
「辯」と「辨」とは音は同じですが、意味が異なる漢字です。
したがって、「言語・才能」の場合は「辯才」、
「財産」をおさめる場合は「辨財」と使い分けています。
ですから、「辯財」「辨才」という書き方は誤りです。
戦後当用漢字の制定により「辯」と「辨」は「弁」に統合されたので、
「弁才天」または「弁財天」と書くのが一般的となっています。[Wikipediaより]

ということですので、なまじ「辨」という難しい字を知っていて「辨才天」などとやってしまうと恥をかくということになります。
こういうケースはよくありますので「生半可な教養」は要注意です。なかなか奥が深いですね。
余談ですが、こうした誤用が一般化されてしまうと「それでもOK」なんてことになることが、わが国では多々あります。
直截(ちょくせつ)が本来正しいのに、みんながきどって直截(ちょくさい)と呼ぶので、それも正しいことにしようなんて、ね。

本殿

本殿 本殿石祠 本殿石祠左側面

左が常夜燈のような形の本殿全景。祭神は大弁才功徳天。正月6日に布川東の組合にて祭礼が執り行われるとのことです。
中央が上部の本殿石祠。左側面に「慶應二寅年三月吉日」とあり慶応2年(1866)3月の造立。上の台石には「東講中」。

本体: 高57cm、幅44cm、厚26cm。台石上: 高18cm、幅43cm、厚35cm。台石下: 高101cm、幅75cm、厚99cm。

本殿台石・鳥居新築記念碑

鳥居と本殿台石の間に、東の道路を背にして建っています。
本殿台石・鳥居新築記念碑」とありますが、「本殿+本殿台石+鳥居」ではなく、「本殿台石+鳥居」の新築記念碑です。

本殿台石・鳥居新築記念碑

平成四年十月吉日建之」とあり、 平成4年(1992)10月の建立。
上記は、記念碑そのものの建立日でもあるわけです。

海老原愛蔵□□大沢武利□□土井秀雄
海老原幸一□□豊島□□□□入谷信男
海老原康男□□室橋次郎□□石川□□
香取富夫□□小川一郎□□入谷□□
白井□□□□小川雄次郎□□篠塚□□
伊藤一郎□□戸辺秀一□□海老原武夫
菊池和雄□□小川和男□□永井久雄
菊池□□□□菊池陽子□□海老原眞一
海老原武重□□大沢□□□□永井芳秀
豊島文行□□加納一男□□風間信義
杉浦新助□□豊島貞夫□□(東第二組合員氏名)
山本榮一□□渡邉梅太郎

本体: 高86cm、幅62cm、厚10cm。

十九夜塔

十九夜塔

石塔の右に並んで1基立っているのが十九夜念仏供養塔。
利根町に多数見かける「如意輪観音」の刻像塔です。

上部に大きく「造立」、右に「十九夜念佛供養爲二丗安楽
左に「正徳二壬辰十月十九日」「結衆四十五人敬白」。
正徳2年(1712)10月の造立。

庚申塔などの「・・・吉日」ではなく、
十九夜塔の特徴として、やはり「十九日」と日付が明記されています。

本体: 高85cm、幅45cm、厚26cm。

布川東集会所

東集会所

集会所の脇にあるのは大師堂です。

布川東集会所の大師

大師 大師像

大師像本体: 高31cm、幅29cm、厚18cm。

大師像

これも番号がついていませんが、上部に額が掲出されています。

四国第13番とありますが、布川でもここは13番なのでしょうか。

ちなみに四国の第13番札所は、
大栗山 花蔵院 大日寺(だいにちじ)。
現所在地は、徳島県徳島市一宮町西丁263 で、
この額の表記「阿波國名東郡上分村」は古いものですね。

御詠歌は、
阿波の国 一宮とは ゆうだすき
かけて頼めや 此の世後の世

「一宮とは」「一宮とや」の1字違いはご愛嬌というところでしょうか。


(15/04/08・12/08/29・12/04/24 追記再構成) (09/03/31追記) (06/04/16) (撮影 15/04/15・15/04/05・15/03/28・15/03/26・12/08/28・09/04/07・09/03/21・07/07/28・06/10/15・05/10/02・05/08/20・05/07/18・05/04/08・05/03/20)


本コンテンツの石造物データ → 日枝神社と布川東弁財天石造物一覧.xlxs(14KB)