タヌポンの利根ぽんぽ行 姥女神宮と弁財天

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姥女神宮と弁財天 目 次



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弁財天と姥女神宮。
いずれも布川地区の中心部にありながら、
狭い路地からさらに細い路を通った先にあるという、隠された存在です。

どちらも路地からほんの少しだけ入ったところですが、
とくに弁財天のほうは路地入口からはまったく見えない位置にあります。

姥女神宮はある秀麗な美人、弁財天には小林一茶と
いずれも実在の人物の物語が伝えられています。

当初、『利根町史』にならって「弁才天」と記していましたが、
神額等「弁財天」となっているので、2015年の更新時に修正しました。
このため、どこかリンク切れになっている可能性があるかも・・・。


布川地区マップ

布川地区マップ

姥女神宮

袋小路の奥

袋小路

タヌポンも最初、入口のところでうろうろしていました。
ふと振り返って見た通路の奥に何か祠のようなものが、
という感じだったのです。
当初、左の祠のほうが姥姫神宮と勘違いしました。→

← 路地からさらに細い路地に入り、突き当りのような場所に姥女神宮と大師を見つけました。
これがあることを知らないと、ほかにとくに用事のない人は入りにくい、そんな袋小路です。

袋小路

大師の右が姥女神宮

姥女神宮

これが姥女神宮。
石祠だけですが、立派な神社なのです。
姥女と書いて「うばひめ」と呼びます。
これは実在した人物を祭神として祀っています。

『利根川図志』(巻3)によれば・・・。

その祭神である姥女とは、荒井照信(あらいてるのぶ)の女(むすめ)で、「性(格)は端厳にして美麗人を絶す、容貌眉目は画の如し」(荒井家古文書)と記されるたいそうの美人だったそうです。
荒井照信は荒井家17代当主で常陸小野崎城主。江戸時代、布川一帯を治めた豊島家とは親戚にあたる一族です。
照信の女は天正2年(1574)、利根川で水死したのですが、その後、子孫繁栄を祈願する荒井家の氏神となり現在に至っているということです。

なぜ姥(うば)なのかというのは、氏神として祀った子孫からみればおばあさんになるからでしょうか?

本  体: 高73cm、幅55cm、厚60cm。
台石上: 高20cm、幅48cm、厚50cm。
台石下: 高35cm、幅81cm、厚82cm。

大師2番

大師2番

さて大師なのですが、2番の札が掲げられています。

しかし、徳満寺の四郡大師の案内額の2番は
この弁財天のある布川地区ではない
河内の十里方面になっています。

額が造られた時期とは変化があったのでしょうか。
このあたりは未調査なので分かり次第追記します。

祠内部、右下の大師像は、赤い装束で、
まるでこちらのほうが姥姫かと思ってしまいます。
大師のことなど事情をよく知らない人は
隣りの石祠の姥姫とまちがえそうです。

大師2番 大師像
第2番の台座

後日、再調査に行き、大師像を再撮したとき、
ふと、座布団に少し埋もれた台石に目がいきました。

よく見ると「第二番」とあります。

これは、四郡大師開眼当初に造られたものなのか、
近世再造立のものなのか不明ですが、
もし当初のものだとしたら、「河内の十里方面」の二番札所は、
どういう位置づけになるのでしょうか。

このあたり、札所番号の「変遷?」について、
いちど徳満寺のご住職ほかにお尋ねしたいところです。

本体: 高40cm、幅24cm、厚16cm。

浜宿集会所

浜宿集会所

大師・姥女神宮の右隣にあるのが浜宿集会所。
すぐ隣にあるせいか大師の祠の中など花が飾られ
きれいに掃除もされています。

写真を撮っていたとき、集会所を掃除されていた
町会の役員らしき人と少しお話ししました。
近くに白ヘビを祀った氏神様があり
その祭りが翌週にあるからどうぞと誘われました。
でもその日は平日。残念ながら行くことができませんでした。

弁財天

鳥居

弁財天鳥居

神額には弁財天とあるのですが
『利根町史』には弁才天とあります。
このあたりはちょっと問題が・・・。

財と才によって、多少意味合いと、
前に来る弁の難字も異なるからです。
すなわち財は「辨財天」ですが、
才は「辯才天」が正しい書き方。
もうすっかり混同されていますが・・・。

所在地は布川3072番地(布川馬場)。
祭神は、大弁才功徳天(だいべんざいくどくてん)。
由緒沿革は不詳なのですが、
小林一茶の逸話が残されています。
(以下、小林一茶の句碑 の項で紹介)

鳥居の柱 鳥居の柱

鳥居は石造りでまだ新しいですね。
典型的な明神鳥居です。
裏に建立日が記されています(写真左)。
平成3年(1991)の11月13日、
氏子一同による建立です。

左の柱(写真右)には旧暦9月7日が
弁財天の祭礼日と記されています。

本殿

弁財天本宮 本殿の石祠

本殿の中を覗いてみると石祠が飾られていました。この本殿の石祠は嘉永6年(1853)9月に建立。

神額新旧

弁財天の新旧の神額を並べてみました。
新しいものは当然、鳥居の額束に設えられているわけですが、右の古い額が無造作に近くに置かれていました。
鳥居が新築されたときに一緒に神額も造られたようですので、この古い額は、平成3年までのものということでしょうか。

新神額 旧神額

手水

写真中央は、手水の左側面、右端は右側面。

手水 手水左側面 手水右側面

正面は、よくある「奉納」、左右側面はいずれも読みにくいですが、以下。
女人講中」「昭和十三年旧九月」。 昭和13年(1938)の旧9月に設置されたものです。

本体: 高27cm、幅61cm、厚25cm。

小林一茶の句碑

一茶の句碑

赤子から
うけならはすや
松の露

こんなところにも一茶の句碑が
建てられていました。

一茶は文化3年(1806)9月27日、
この地に仮住まいする貧しい一家が
初孫をもうけたことを喜び、
笑い声をあげているのを聞き、

財 たくはへ(蓄え)ねば、
ぬす人のうれひなく、
家作らねば火災のおそれもなし

と羨んだといいます。

そのとき残した句が句碑となっています。が、羨んだということは、一茶には財があった、ということでしょうか。

なお、この句碑は、来見寺前の石材店主、雑賀一郎氏が平成10年(1998)春に建立。
書は、戸澤成元氏(茨城県江戸崎市出身、布川小・利根中で教鞭をとった)。句の左下に「成元かく」と彫られています。

本体 高96cm、幅65cm、厚20cm。台石 高25cm、幅96cm、厚37cm。

参考→ 小林一茶と利根町

弁財天への行き方

南北の路地の2方向から行けますが、標識もなにもなく、また曲がり角からのぞいて見ても見通しが悪く、
それらしきものが何も見えないという、極めて分かりにくい場所にあります。

北は利根町コミュニティセンターが目印

北側コミュニティセンター(下左の写真の建物)前まで来たら、道路を挟んでその真向かいの路地を探しましょう。
下の右側の写真にある幅1mくらいの路地というより単に家と家の間という感じです。奥は木々が植わって見通しが悪いし、
何か民家の敷地のようで入っていくのがはばかれるような感じです。ですが、ほんの少し行った右手に弁財天があるのです。

コミュニティセンター センター正面の入口

南は給水塔が見える曲がり角が目印

給水塔がちょうど前方に見えるような入口の路地を探してください。先が行止りに見えるのがクセモノで、
下の右の写真がその行止りなのですが、この右手から植木の後を伝っていけばすぐ左手に弁財天が見えてきます。

給水塔が見える曲がり角 曲がり角突き当たり近辺

(15/03/25・13/04/20・11/11/22 追記再構成) (06/04/15) (撮影 15/03/24・11/02/23・07/12/14・05/07/18・05/04/08・05/04/03)


本コンテンツの石造物データ → 姥女神宮と弁財天石造物一覧.xlxs(11KB)