瑞雲寺というお寺があるというので、この地に来る前に加納新田の何人かの人に尋ねてみました。
が、どうも要領を得ません。聞いたことある、場所は知らない、ないのでは、よく知らない、などなど。

利根町史には・・・。
禅宗 臨済宗のお寺で、由緒としては、元禄14年(1701)初代加納久右衛門の発願で梁伝和尚が開基。文政4年(1821)火災、明治29年(1896)暴風で倒壊、昭和40年(1965)再興。そして、現在、無住で仏事一切は谷和原町の禅福寺に託す、となっています。また、京都からの招来と思われる平安末期の「木造十一面観音立像」等が伝存するとも記されています。
しかしながら、お寺自体が見つかりません。無住だけど廃寺とは記されていないのに・・・。
ようやく、いま現在は「ないのです」という答えとともに民家に間借りしているというようなニュアンスで上の写真の場所を見つけました。
左上の写真では真正面ではなく右にある建物で、右上の写真がそのようです。
真正面の建物には左の写真にある看板が掲げられていました。
しかし、文字はまったく消えていて何が書かれていたのか読めません。
おそらく、「龍祥山瑞雲寺」が記された昔の看板ではなかったかと想像しましたが・・・。
ところが・・・。
瑞雲寺を探すことばかりに気をとられていたため、最初、タヌポンはこの建物の左側にある「祠」をまったく見逃していました。
それは、なんと大師堂だったのです。
これに気づいたのは3度目の訪問時だったでしょうか。
最初の頃は四郡大師のことがよく分からなかったせいもあったでしょうが、こうして見るとほかの大師堂と比べて小さいわけではなくむしろ大きいくらいです。
瑞雲寺の探索ばかりに目がいっていたというしかありません。
(クリックすると番号が分かります)
瑞雲寺霊園
間借りの民家の隣に石材店があるのですが、
そこから裏手のほうにかけて見つけたのが瑞雲寺霊園。
お寺はなくても霊園が最近、整備されたようです。
その霊園の看板の前に並んでいるのが以下の7基の石像。
いちばん左は庚申塔の青面金剛ですが、いちばん右は「墓地拡張記念」碑。
なにか古そうな気配もあるのですが、ここに記された「墓地拡張」というのはいったい何時のころを指すのでしょうか。

お寺の本堂はなくても霊園だけで、「龍祥山瑞雲寺」の名称が掘り込まれています。
その門を入ると左手に8基ほど古いお地蔵様等が並んでいます。

この墓地の近くで最初に見つけたのが、樹木が植わった塚の中にある稲荷大明神でした。
霊園の北側にこんもりとした樹木が繁った塚のような場所が見えます。
内側に入ってみると、真紅の鳥居が見えました。
これは同じ加納新田1で紹介した稲荷大神の鳥居とまったく同じ台輪鳥居ですね。
神額だけがちがいます。
ここは稲荷大神ではなく稲荷大明神、となっています(クリック拡大)。
この祭神も当然ながら、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)ですね。
由緒として昭和6年(1931)建立とありますが、町史にある「鳥居=木造」というのは古い記述でしょうね。鳥居はあきらかに鉄製です。最近(といってもここ10年くらいの間に)、建てられたということでしょうか。神額の下部は腐食してましたが・・・。
この奥の本殿にいくには少し坂を。雨上がりだと滑りやすいようです。手すりもついていますね。
生い茂った雑草の坂道を少し登るとそこが本殿の社。
木造の少しいびつに傾いたお堂のなかに石祠が1基。
(クリックして拡大できます)
正一位稲荷大明神と記されています。
正一位とは、最上・最高の位階を示すわけなのですが、タヌポンはなぜか、正一位とあるか、もしくは何もないか、のどちらかで、正二位とか偽一位とかいうのを見たことがありません。(偽というのは冗談です、念のため)昔の官職には従二位とかあったようなのですが・・・。正一位しか記すに値しない、ということでしょうか。
庚申塔が別に1基あるということなのですが、見当たりません。
宝永6年(1709)の建立ということなのですが・・・。
当初、この地区には瑞雲寺跡の霊園と稲荷大明神を見つけた時点で探索を終えたものと思っていました。
その後、この近隣に厳島神社があると知り、再度、訪問し、探してみたわけです。
しかし、そこはちょっと盲点のような場所にあり、でもそれだけに見つけたときは驚きました。
なんとそこは、霊園を挟んで、稲荷大明神と点対称の位置にあったのです。
最初、稲荷大明神を見たときに、そこから霊園をぐるりと廻っていたら発見できていたのに・・・。
鳥居

祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。
素盞鳴尊(すさのおのみこと)の身の潔白の証明のために天照大神との間でおこなわれた儀式である誓約(うけひ) で、素盞鳴尊の剣から生まれたのが宗像(むなかた)の三女神。
市杵島姫命・田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津姫命(たきつひめのみこと)で、いずれも美人の誉れ高く、日本の代表的な海の神。福岡県の宗像大社や広島県の厳島神社の祭神として知られています。
この弁財天の祭神は宗像三女神ではなく市杵島姫命だけとなっていますが、そういう場合もあるのですね。
今回は、台輪のない明神鳥居となっています。
本殿

記念碑
敬神と銘打った社殿の建立は平成7年(1995)4月。
上の写真の2基の新燈籠については瑞雲寺総代一同により平成12年(2000)12月に奉納されています。

文政・宝永年間の石祠
左の石祠は「●王大権現」と記されています。文政13年(1816)正月。山王としか推測できませんが、ほかに候補はありますか?魔王、なんてありませんよ、焼酎ならおいしいのがあるけど。
右の庚申塔らしき石像は宝永年間(1704〜1711)建立の文字が右横に見えます。
参道


やっぱ、鳥居とは、コンクリートの上に立てるもんじゃないなあ。
再び訪れたくなる「美しま」神社でした。
竜の足跡
どこかは判然としませんが、この弁財天の近くの田に「竜の足跡」という場所があるといいます。
天の竜神は、この弁天様がたいへん美しく、音楽も堪能だったので、
すっかり惚れ込んで、何とかして自分のお嫁さんにしたいと思ったそうです。
そこで家来の竜に命じて無理やり彼女を連れ去ってしまったのです。
その時、地上に降りた竜の場所を「竜の足跡」と呼ぶようになったということです。
というわけで、弁財天には現在、弁天様のお姿は見られないわけですが、
霊験だけはいまもあらたかで、ここにお参りすると美人になり、音楽の才能も向上するほか、
あらゆることに効き目があるということです。
(利根町史: 利根町横須賀・北沢 利さん談)
(05/09/03追記)
茅沼と安兵衛沼にはこんな逸話があります(利根町史: 利根町福木・宮本和也氏談)。
安兵衛沼はえび沼とも呼ばれ、弘化3年(1846)の満水でできた沼で、茅沼も同じ年にできた(杉野正一さん談)。
はじめに利根川が決壊してえび沼ができて、加納新田にたまった水が伏見屋堤というところを破って茅沼をつくった。
このとき、土手が切れないよう近くの墓場から墓石を運んで積み上げたがむなしく堤は切れてしまった。
伏見屋堤が切れて困るのはこの土地の人だけでなくさらに下、東の生板(河内町生板)の人たちでもあるから、
生板地区の墓を調べたら、この年以前の墓は紛失しているかも知れない。上記に付記されて、「その後、加納の墓を調べてみたがなくなっている様子はなかった」とあります。
茅沼
茅沼自体は実は利根町ではなく、
稲敷郡河内町に所属します。
でも瑞雲寺霊園近隣から
さらに南下して安兵衛沼や
東奥山新田へ行く道の
左側に見えてきます。
なかなかいい釣り場のように
見えましたし、
現実に釣り人も来ているようですが、
さて何が釣れるのか?
安兵衛沼
最初、こんな木の橋や田んぼのあぜ道を通って探したのです。
なにもなければ同じところを空しく戻って来なければなりません。
時刻も早春の夕方、ぬかるみなどに足をとられてころんでしまったりすればとても困ります。
でももうちょっとと、足を延ばしました。
そして・・・。

そして、この景色をゲトーしました。

驚いたことに利根町の最東部といえば確かに加納新田の瑞雲寺なのですが、
この安兵衛沼の南に「東奥山新田」と呼ばれる地域があることを後で知りました。
そこにも水神宮があるということで後日、訪ねてみようと決心しました。このコンテンツは近日中に。
→ 05/09/03 東奥山新田(同水神宮)UP
(05/08/31) (05/03/21・05/05/07・05/08/26・09/04/02撮影)