タヌポンの利根ぽんぽ行 加納新田2

TOP・探訪目次>加納新田2


目  次


更新経過

加納新田1に引きつづいて、石造物データ巻末掲載のために再調査。
綿密に見直すと、いろいろ不備・誤謬も見つかります。全面的に更新。(16/06/14)


コンテンツ再構成の機会に、加納新田1と加納新田2を相互に閲覧できる目次を作成。(12/07/21)


正真正銘の利根町の最東部、加納新田のいちばん東。
そのポイントをご紹介するのが本ページ「加納新田2」です。

加納新田の北部を東西に走る取手東線(県道11号線)が、
南北に走る美浦栄線(県道68号線)とぶつかる萱沼というバス停付近。
その辺りが経度的には利根町の最東部になります。

読み方は同じですがバス停の萱沼とはちがう字の茅沼という沼があります。
それはいずれも同じ沼のことを指しています。(沼は稲敷郡河内町所属)

その近くに見所が・・・。(05/08/31)


利根町最東部マップ

龍祥山瑞雲寺

瑞雲寺というお寺があるというので、この地に来る前に加納新田の何人かの人に尋ねてみました。
が、どうも要領を得ません。聞いたことある、場所は知らない、ないのでは、よく知らない、などなど。
萱沼というバス停付近をうろうろ捜しましたが、お寺自体が見つかりません。無住だけど廃寺とは記されていないのに・・・。

龍祥山瑞雲寺

そしてようやく、いま現在は「ないのです」という答えとともに
民家に間借りしているというようなニュアンスで
左の写真の場所を見つけました。

禅宗 臨済宗のお寺で、由緒としては、元禄14年(1701)初代加納久右衛門の発願で梁伝和尚が開基。文政4年(1821)火災、明治29年(1896)暴風で倒壊、昭和40年(1965)再興。そして、現在、無住で仏事一切は谷和原町の禅福寺に託す、となっています。また、京都からの招来と思われる平安末期の「木造十一面観音立像」等が伝存するとも記されています。(『利根町史』)

社寺号標石1

龍祥山瑞雲寺社寺号標石1

2012年になって本コンテンツ更新のために再訪問したところ、
萱沼バス停付近が区画整理でかなり以前より変化したこともあり、
すっかり場所を忘れてしまい、またまた何人かの人にお世話に。

ようやく見つけた上記の民家には、看板のかわりに、
臨済宗 妙心寺派 龍祥山 瑞雲寺
の立派な標石が立っていました(左写真は2016年時)。

真新しいもののようですが、本堂等が再興されるかのような・・・。
まさかと思いますが、どうなのでしょう?
いまのところ、お寺らしきものがないことには変わりなく、
現在はやはり「民家に間借り」の状態のようですが・・・。

本体: 高147cm、幅31cm、厚18cm。

おやっ、この塔の右手、郵便ポストの背後に、何か石柱が見えますね。何でしょう?

札所塔1

札所塔1

正面に「十一面觀世音坂東四番札所」とあります。
これは坂東三十三所写し巡礼の札所塔で、
瑞雲寺を坂東四番札所と見立てたことを意味します。
以前はなかったもので、どこかから移管されたのでしょうか。

十一面観世音が突然頭に付くのも妙なので、調べてみると・・・。
坂東四番札所とは、神奈川県鎌倉市にある長谷寺(はせでら)を指し、
その本尊が、十一面観音であることが分かりました。なるほど。
前述 京都からの招来と思われる平安末期の「木造十一面観音立像」等が伝存
という『利根町史』の記述にも関係しているわけですね。

造立年が分かればいいのですが、この狭い場所では、
石塔のサイド等を確認するのはちょっと難しそうです。
民家の門前・郵便受けのすぐ下でガタゴトやるのもはばかれます。

札所塔1右側面 札所塔1左側面

はばかれる、などといいながら、
チャレンジしてみました。

右側面は、「總州相馬郡 上加納村」。
州の字がちょっと自信ありませんが、
上加納村、というのはちょっと不思議です。
下加納村なら分かるのですが・・・。

問題は、右側面。撮影はかなり、ムリメです。
め■ら(放送禁止用語)撮りするしか
方法はありませんでした。

でも、「施主 當村・・・」などが読めました。
「享」や「子」の字があるようなのですが、
貞享・享保・享和といろいろあるし・・・。
しかし、もっと上部のほうに、造立年が
記されていると思います。

本体: 高74cm、幅16cm、厚15cm。

さて、この民家間借りの「仮」瑞雲寺のすぐ左隣りに、探索当初見逃していた大師堂を7年後に発見したのですが、
さらに4年後の2016年には、えっ、と、驚くことが・・・。

下坪集会場

民家と思っていたのが、なんと集会場だったのですね。右下左が2005年時。2012年のときも同様でした。

下坪集会場

2016年(下右)までの4年間の間に書き直されたようです。
これなら大師堂を当初、見逃すこともなかったでしょう。

文字が消えた下坪集会場看板2005年時 下坪集会場看板2016年時

大師66番

大師66番

これに気付いたのはかれこれ
3度目の訪問時だったでしょうか。

最初の頃は、四郡大師のことが
分からなかったせいもありますが、
こうして見るとほかの大師堂と比べて
小さくはなくむしろ大きいくらいです。

これを見落としていたというのは、
看板文字がうすくて読めなかったことと
瑞雲寺の探索ばかりに目がいっていた
というしかありません。

あっ、いま、写真見て発見!
大師堂右脇の石塔を撮り忘れている!
どうして、こんなの忘れちゃうの?!
写真撮るために、垂れ幕を
上に上げるのに夢中だったからかな。
また、宿題です(↓宿題実行!)。

以下は、66番の札所番号と、堂内の3体の大師像。あれっ?いちばん左にもう1基、観音像のような石仏がありますね。

大師左本体: 高37cm、幅27cm、厚20cm。大師中: 高38cm、幅28cm、厚19cm。大師右: 高33cm、幅29cm、厚17cm。

大師66番札 3体の大師像と子安観音像

子安観音塔

左から正面、右側面、左側面。左側面は、「明治三十一年旧三月吉日」つまり、明治31年(1898)旧3月の造立。
赤子を抱いている観音像、すなわち、子安観音塔です。右側面には「加納下坪女人中」。

観音塔と大師堂がセットになっている場所、どこか他にもありましたね。下曽根かな。→ 下曽根「大師・観音」堂 参照。

子安観音塔 子安観音塔右側面 子安観音塔左側面

本体: 高66cm、幅31cm、厚20cm。

札所塔2

宿題の塔を調べて、撮ってきました。下左から、正面、左側面、右側面。正面「讃州雲邊寺写 新四國六十六番」とあります。
讃州は香川県、雲辺寺(うんぺんじ)が四国六十六番札所で、これの写し、新四国・四郡大師の66番を示す札所塔です。

難関は、右側面のわずかしかない隙間の撮影。でも、なんとか「天保六未年四月吉日當村女人講中」が読み取れました。
すなわち、天保6年(1835)4月当村女人講中による造立です。左側面には、「瑞雲寺」と彫られています。
四郡大師発足の文政元年(1818)の17年後に立てた塔ですが、大師堂以外で「現役」として成立する札所塔と言えます。

札所塔2 札所塔2右側面 札所塔2左側面

本体: 高59cm、幅18cm、厚15cm。

石材店

下坪集会場の隣に石材店があるのですが、
そこから裏手のほうに見つけたのが瑞雲寺霊園。
本堂・住職はなくても霊園が最近、整備されたようです。

そこを訪ねる過程で、思わぬ発見。
それが、以下。

稲荷大明神

県道から1本南に並行する道の途中から南下すると、こんもりとした樹木が繁った塚のような場所が見えます。
塚の奥(南)には、霊園が見えます。当初は霊園を目指したのですが、塚の南側に入ってみると、真紅の鳥居が見えました。

稲荷大明神の塚 稲荷大明神

台輪鳥居

加納新田1で紹介した 稲荷大神(いなりおおかみ)の鳥居と同じ台輪鳥居です。

稲荷大明神

神額だけが異なり稲荷大神ではなく
稲荷大明神となっています。
神額の下部は腐食してますが、
鳥居の朱色は定期的に
塗替えられているようです。
『利根町史』の「鳥居=木造」は過去、
鳥居はあきらかに鉄製です。

稲荷大明神神額

この祭神も当然ながら、全国稲荷神社共通の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。祭礼は、旧初午とのこと。
由緒として昭和6年(1931)建立とありますが、以下の本殿石祠の右サイドに、同様の建立刻銘を見つけました。

本殿の祠

本殿

この奥の本殿にいくには少し坂を。
雨上がりだと滑りやすいようです。
手すりも付いていますね。

夏場など生い茂った雑草の坂道を
少し登るとそこが本殿の祠。
中に本殿石祠が見えます。

本殿

正一位稲荷大明神

木造の少しいびつに傾いたお堂のなかに石祠が1基。「正一位稲荷大明神」と刻まれています。
正一位とは、最上・最高の位階を示すわけなのですが、通常、正一位とあるか、もしくは何もないか、のどちらかで、
タヌポンはなぜか、正二位とか偽一位とかいうのを見たことがありません。(偽というのは冗談です、念のため)
昔の官職には従(じゅ)二位・三位(さんみ)とかあったようなのですが・・・。正一位しか記すに値しない、ということでしょうか。
正一位、位階、神階とは 参照。
側面に刻銘。「昭和六年三月」昭和6年(1931)3月、「加納下坪」での造立です。本体: 高52cm、幅42cm、厚36cm。

正一位稲荷大明神 正一位稲荷大明神右側面 正一位稲荷大明神左側面

神木?

神木?

稲荷大明神の塚の周囲は、巨木というほどでもないですが、
それなりに大きな樹木が囲んでいます。

左はそのなかでも大きなもの。
ケヤキなのかスダジイなのかタブノキなのか、よく分かりませんが、
神木があるとすれば、この樹あたりが妥当かと思います。
別に注連縄などはられてはいませんが・・・。

稲荷大明神本殿から入口を見る

庚申塔が別に1基あるということなのですが、見当たりません。
宝永6年(1709)の造立と『利根町史』にありますが・・・。
→ この 庚申塔2 は、後述の厳島神社で発見。
遷されたか、『利根町史』の調査・記述ミスか。
もっとも、同年造立の別物の可能性も。

では、稲荷大明神を出て、厳島神社(弁財天)に向かいましょう。
入口を出て、左から時計回りに、霊園を回り込むように進みます。

瑞雲寺霊園前に石仏が並んでいるので、
まずは、それから見てみましょう。

当初は本来、瑞雲寺を探していて霊園を目指すことになったわけで、思わぬ稲荷大明神の発見に気をよくして、
霊園のそのすぐ隣りに、厳島神社の赤い鳥居が立っていたのにまったく気が付きませんでした。

瑞雲寺霊園(加納新田共同墓地)

霊園入口

社寺号標石2

お寺の本堂はなく霊園だけで、右に「臨済宗妙心寺派 龍祥山」、左に「瑞雲寺」2基対の標石が建てられています。
前述の下坪集会場隣接の 社寺号標石1 と内容はまったく同じものになりますが、どっちがお寺?とちょっと混乱しますね。
左標石裏面に「墓地区画整備完成記念 平成九年十二月吉日」、平成9年(1997)12月の造立と分かりました。
立派な標石なのですが、肝心のお寺がないせいか、ここは「加納新田共同墓地」とも呼ばれているようです。

龍祥山瑞雲寺霊園入口 龍祥山瑞雲寺霊園門裏側

右標石裏面は「寄贈總代 笠井重雄 山本七郎 河崎芳夫 森河好一 増田栄 鈴木忠男 根本良一 山中安司 桜井壮夫 石塚祐 関口章一 佐藤明 野村寛 須藤武男 石橋仁一 有限会社石の深海」。 1基本体: 高203cm、幅70cm、厚67cm。

六地蔵塔

門を入ると右手には六地蔵の立像が並んでいますが、左手(右写真)には、多数の石仏がびっしりと建てられています。
六地蔵塔も、平成9年(1997)ですが3月の造立。六地蔵塔一基本体: 高112cm、幅36cm、厚36cm。

六地蔵塔 龍祥山瑞雲寺霊園内左手

その中で1基だけ以下に紹介しますが、奥は個人の墓地で、墓石またはその関連石塔になりますので、詳細は割愛します。

三界萬霊塔(さんがいばんれいとう)

無縁仏が並ぶ中で、少し大きめの石塔が見えます。ただし、相当風化が激しく文字の多くは読み取れません。

三界萬霊塔

表面は彫りが深く、「三界萬霊塔」は読み取れます。三界とは、仏教語で
欲界(欲の世界)・色界(物質の世界)・無色界(精神だけの世界)をいいます。
萬霊とは、この三界の有情無情の精霊などのすべてを指し、
それらを供養するのが三界萬霊塔です。

三界萬霊塔右側面

右側面は、本体・台石ともに
何か記されていますが、読めません。
『文化学芸碑』では以下。

天保三年壬辰
八月二十四鳥
龍祥山現住宗扶誌焉

天保3年(1832)8月24日の造立。
当時の瑞雲寺住職宗扶の撰文です。

[台石右]
寄附
惣檀中
願主   市左エ門

檀徒全員、市左エ門が代表で、寄附。

三界萬霊塔左側面 三界萬霊塔左側面拓本

[左側面]は、半分程度読み取れますが、
やはり『文化学芸碑』のお世話になるしかありません。


茲有英檀善男女等一春願而再營建萬霊塔也
伏尊而喜捨浄財之功六趣念識共成阿耨菩提心
銘曰法界幽霊□□盡在這裡
□□□功徳無量□□吾亦不識


[読み下し文]

茲に英檀有り。善男女等、一春願って再び萬霊塔を營建するなり。伏し尊び、喜捨浄財の功は、六趣念識共に、阿耨菩提心と成る。
銘に曰く、法界の幽霊、盡く這裡に在り。功徳は無量にして、吾亦識らず。

[語意]
六趣(ろくしゅ): 六道(ろくどう)に同じ。仏語。衆生がその業によっておもむく六種の世界。生死を繰り返す迷いの世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道。六界(ろっかい)。(goo 辞書)
阿耨菩提心(あのく・ぼだいしん): 阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)の略。発心(ほっしん)、発菩提心とも。無上の悟りを求めて、仏道修行に志す基本となる心をいう。菩薩では四弘誓(ぐぜい)願がこれにあたる。(Kotobank)
這裡(しゃり): ここ。この場所。(漢辞海)
法界(ほっかい): 仏語。ほうかい、ともいう。1 意識の対象となるすべてのもの。2 因果の理に支配される万有の総体。全宇宙。3 一切の現象の本質的な姿。真如(しんにょ)。実相。(goo 辞書)
功徳(くどく): 仏語。サンスクリットのグナguṇaの訳。善い行為には、すぐれた結果を招く力が徳としてそなわっていることをいう。善を積み、あるいは修行の結果,むくいとして得られる果報、恵みという意味で福徳、利徳、利益、神仏の恵みを指し、またすぐれた結果をもたらす能力をもいう。(世界大百科事典)

本体: 高75cm、幅29cm、厚26cm。台石: 高19cm、幅50cm、厚50cm。

さて、霊園・共同墓地の門を出て、右手に出ると、ブロック塀の前に何基かの石仏が並んでいます。

石造物7基

石仏7基

ここに並べられた7基は、
霊園内の個人所有のものとは
一線を画されたものと思います。
左から順に見てみましょう。

庚申塔1

庚申塔1

青面金剛王の文字塔。庚申塔です。
上部「青」の文字部分がかなり欠損しています。

寛政十二庚申天
青面金剛王
八月吉日

寛政12年(1800)8月の造立。
この造立年は、まさに60年に1度の「庚申」の年です。

ちなみに庚申の年は、60年周期なので西暦の下1桁はつねに0です。
最近では、1860、1920、1980、2040・・・。
もう30年以上も前ですが、あなたの1980年はいい年でしたか?
タヌポンは、おそらく生きてもう庚申の年を迎えることはないでしょうね。

ところで、この青面金剛の文字塔もやはり「王」が付き「青面金剛王」です。
利根町では100%ではないでしょうか。後で統計をとってみます。

本体: 高72cm、幅27cm、厚17cm。台石: 高16cm、幅34cm、厚30cm。

水瓢軒筆子塚

7基の中でいちばん大きい石塔、とくに台石が立派ですが、台石にはとくに銘文は彫られていないようです。

水瓢軒筆子塚 水瓢軒筆子塚

「碑表」
水      木鶏唏子夜
瓢  號卵室良啄
軒      石卵到関山

水瓢軒卵室良啄という人で、
木鶏唏子夜石卵到関山、つまり、
「木鶏、子夜に唏き、石卵、関山に到る」
という漢詩から卵室良啄の號を
名付けたようです。

Wikipedia によれば、木鶏とは以下。

荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす。

道教の境地を解した人のようで、
石塔左右側面にその一片がうかがわれます。

左右側面は風化が激しく、目視ではほとんど文字が読めません。これも『文化学芸碑』の拓本より。

水瓢軒筆子塚右側面 水瓢軒筆子塚右側面拓本

[右側面]
心よく     能く眠り
  夢をも見づに
何も知らねは
      生も死もなし

うーーん、まあ、そうなんですけどねえ、
これは目が覚めてからそう思うわけですし、
覚めてしまえば、煩悩ばかりの浮世です。

水瓢軒筆子塚左側面 水瓢軒筆子塚左側面拓本

[左側面]
名根を     無一物
   実に尽せは
いろも形も
     音も香もなし

名根は命根と同。
無一物と聞くと禅問答のような・・・。
タヌポンはもう、欲はさほどではないですが、
かといって「無」の境地には程遠いですね。

さて、この塔の造立年も不明ですし、
水瓢軒についてはこの塔しか史料がないとのこと。

本体: 高98cm、幅36cm、厚39cm。
台石: 高45cm、幅80cm、厚78cm。

頤心軒通峰筆子塚

七曜紋

頤心軒通峰玄達居士 と戒名が彫られていますが、台石に 筆子中 とあり、これも弟子たちによる筆子塚です。
戒名の上に家紋七曜紋(左図)が彫られているようですが、風化でかすかにしか見えません。

玄達居士筆子塚

碑表は読めますが、左右側面は風化して、少し読みづらいので、『文化学芸碑』より。

玄達居士筆子塚左側面 玄達居士筆子塚左側面拓本

左は、左側面とその拓本。
文政三年庚辰九月十八日卒
三宅李仲

頤心軒(いしんけん)の
俗名が三宅李仲です。
下に書籍か半紙のような
イラストも彫られています。

文政3年(1820)9月18日没。
台石の左には、門弟の名。
湯原元裕
近江屋多門
升屋多吉
木村忠吉
てくり屋半ベエ

玄達居士筆子塚右側面 玄達居士筆子塚右側面拓本

右側面には七言絶句が彫られています。
以下の1、2、4句末の「甘」「堪」「南」が押韻。

恬淡清貪我独甘頤心換骨豈何堪
舟移野壑刀河下一任人呼北喚南

恬淡清貪我れ独り甘んず、頤心換骨豈何ぞ堪えんや、
舟は野壑を移り刀河を下る、一たび人に任せて北を呼び南を喚ぶ。

頤心軒の「頤」はあご・おとがいのほかに養うという意味があります。
頤心とは、心を養う、つまり心を磨くという意味でしょうか。
壑(がく)は谷のこと。
この漢詩には、世俗から超然として自然に任せる、
作者の飄々とした生き様が感じられます。

瑞雲寺過去帳に、俗名と祠堂金三両也を納めていることが
記されているほかは、先祖や妻、子孫等いっさい不明ということです。

この右側面にも筆と硯の絵が彫られています。
在野の文人として、門弟から敬愛されていたのでしょう。

本体: 高76cm、幅33cm、厚20cm。台石: 高18cm、幅48cm、厚46cm。

十九夜塔

十九夜塔

半跏思惟型の如意輪観音の刻像塔。
右に「(奉供)養十九夜」の文字が見えますので、典型的な十九夜塔と思われます。

左に「十月十九日」の造立日も見えます。
十九夜塔はまちがいないところですが、
造立年部分が欠損、もしくは風化していて、読み取れません。

本体: 高62cm、幅33cm、厚22cm。台石: 高13cm、幅38cm、厚29cm。

読誦塔

釋迦如来念仏一千萬遍供養塔 釋迦如来念仏一千萬遍供養塔左側面

左は表面、右は左側面。

表面は
□□當寺過去帳一切供養
釋迦如来念仏一千萬遍
□□唱志主仙山長壽居士

志主とは、一般に施主以外で
塔婆を立てた人の事をいうようです。

念仏を一千万遍唱えるというのは、
気の遠くなるような回数ですが、
ともあれそれを成就した記念の読誦塔です。

左側面は、
文化九壬申年二月吉日
文化9年(1812)2月の造立。

釋迦如来念仏一千萬遍供養塔右側面

これは、右側面。
坂本河岸   俗名□屋□□(風化・難読)

坂本河岸とは、加納新田に近い河岸でしょうか。

本体: 高77cm、幅31cm、厚19cm。台石: 高21cm、幅50cm、厚38cm。

巡拝塔

巡拝塔

□□□□□□秩父三十四ヶ所
種子(サ)奉納西國三十三ヶ所為二世安樂也
□□□□□□坂東三十三ヶ所施主秋谷勘右エ門

種子(サ)は、一般に聖観音を示します。

観音信仰による西國・秩父・坂東の100札所を巡拝した記念に建てられた塔。
二世安樂(にせあんらく)とは現世と来世の安心を願うもの。

本体: 高73cm、幅28cm、厚17cm。

墓地擴張記念碑

墓地擴張記念碑 墓地擴張記念碑背面

裏面に、昭和26年(1951)8月の造立銘、
発起人が記されています。

昭和二十六年八月建之
□□□杉野正一
□□石塚□□□□鈴木太市
□□山﨑正作□□須藤東太郎
□□笠井清之介□□佐藤□□
□□野口□□□□大竹長三郎
□□櫻井恒雄□□関口精策
□□□□芳松□□石橋義郎
□□細村□□

本体: 高90cm、幅47cm、厚8cm。
台石: 高33cm、幅72cm、厚33cm。

厳島神社(弁財天)

厳島神社(弁財天)

当初、この地区では、瑞雲寺跡の霊園と稲荷大明神を
見つけた時点で探索をほぼ終えたものと思っていました。

その後、この近隣に厳島神社があると知り、
再度、訪問し、探してみたわけです。

しかし、そこはちょっと盲点のような場所にあり、
でもそれだけに見つけたときは驚きました。

なんとそこは、霊園を挟んで、
稲荷大明神と点対称の位置にあったのです。

最初、稲荷大明神を見付けたときに、ほんの一足延ばして、
霊園の奥まで見ていたら発見できていたのに・・・。

鳥居

鳥居

祭神は、市杵島姫命
(いちきしまひめのみこと)。

素盞鳴尊(すさのおのみこと)の
身の潔白の証明のために
天照大神との間でおこなわれた儀式
誓約(うけひ) で、
素盞鳴尊の剣から生まれたのが
宗像(むなかた)の三女神。

この弁財天の祭神は
宗像三女神ではなく、その中の1神、
市杵島姫命だけとなっていますが、
そういう場合もあるのですね。

さて鳥居は、今回は、
台輪のない明神鳥居となっています。
以前来たときよりも、神額が黒く、
鳥居も赤く塗りなおされたようです。

神額

左は現在(2012)、右は旧神額(2005)。見比べてみると、神額は新造されたものではなく塗替えと分かります。
全体を黒く塗りつぶして、文字部分を以前のものになぞって上書きしたと思われます。鳥居の朱塗りもそうですね。

神額 旧神額

参道

参道

鳥居をくぐると、奥の社殿まで、
わずかですが、雰囲気のある参道が続いています。

ちなみに、先ほどの宗像(むなかた)の三女神とは、
市杵島姫命・田心姫命(たごりひめのみこと)
そして湍津姫命(たきつひめのみこと)で、
いずれも美人の誉れ高く、日本の代表的な海の神。

福岡県の宗像大社や
広島県の厳島神社の祭神として知られています。

本殿

本殿

本殿も少し変わったなという印象。
下が2005年時の写真。

よく見ると、これも鳥居・神額と同様、
改築ではなく、黒く塗ったようです。

旧本殿
本殿内

本殿内部の様子を扉の格子の隙間から撮影。

額に飾られているのは、
琵琶を奏でる弁財天、いや市杵島姫命でしょうか。

鈴

社殿前に提げられている、以前からある鈴。
少しさび付いている様子ですが、
いつごろの奉納でしょうか。

社殿建立記念碑

社殿建立記念碑 社殿建立記念碑

上に「敬神」、
弁財天社殿建立之碑」とあります。

説明文(クリック拡大参照)の末尾に、
平成七年四月吉日」とあり、
平成7年(1995)4月の建立。
碑陰には建設委員等が列記されています。

本体: 高120cm、幅76cm、厚15cm。

手水と案内碑

上記石碑に隣接して真新しい手水が設置されています。とくに銘文がないのですが、手水の前の植え込みの前に・・・。
下右の様な碑が立っています。「奉納 瑞雲寺総代一同」とあり、これが、おそらく手水に関するものではないかと思います。
15名の名前の最後に「平成十二年十二月吉日」。社殿新築から5年後の平成12年(2000)の奉納です。

新・手水 奉納

手水石本体: 高46cm、幅91cm、厚52cm。案内碑本体: 高53cm、幅44cm、厚6cm。

常夜燈

常夜燈

本殿前に一対の常夜燈が建てられています。
1文字ずつ「奉納」とあり、
それぞれの裏面に以下のように刻銘されています。

瑞雲寺役員一同 平成十二年十一月吉日
真壁郡大和村阿部田一九〇―一 石の深海

平成12年(2000)11月と上記の手水より1ヵ月早い奉納です。

本体: 高220cm、幅60cm、厚58cm。

常夜燈右の裏面 常夜燈左の裏面

石祠・庚申塔・旧手水など

石祠・手水など

記念碑の反対側には、
各種の石造物が並んでいます。

石祠の背後に石が何個か
無造作に置かれています(下)が、
力石や、何か石仏の断片とか、
とくに由緒あるものではなさそうです。

力石?

山王大権現

石祠正面には「山王大權現」。これは、比叡山の山岳信仰および神道、天台宗が融合した神仏習合の神です。
左側面には「文政十三寅正月吉日」とあり、文政13年(1830)正月の造立です。
右側面に、「中坪下坪講中」が見えますが、その下に「願主□□□□ 世話人 五左衛門」外2名が刻まれています。

山王大権現 山王大権現右側面 山王大権現左側面

本体: 高51cm、幅40cm、厚24cm。

庚申塔2

庚申塔2 庚申塔2左側面

青面金剛が描かれた庚申塔の刻像塔。
青面金剛は1面6臂と思われますが、
法輪や刀剣、ショケラのほかは、
ちょっと見づらいです。
下部には定番、三猿が彫られています。

銘文を探すと、左側面にかすかに、
宝永六己丑十月吉日」。
宝永6年(1709)10月造立が分かりました。

本体: 高73cm、幅37cm、厚26cm。

手水

手水 献の異体字

庚申塔の隣りの古い手水。
表面は「奉献」ですが、献は左のような凝った異体字。

下右が右側面で「明治十三年辰九月吉日」、
古いといっても、明治13年(1880)9月造立です。
左側面(下左)には3人の奉納者の名が記されています。
納主 佐藤治助 木村喜代治 木村作治

本体: 高18cm、幅64cm、厚26cm。

手水左側面 手水右側面

竜の足跡

どこかは判然としませんが、厳島神社(弁財天)の近くの田に「竜の足跡」という場所があるといいます。

竜の足跡
天の竜神は、この弁天様がたいへん美しく、音楽も堪能だったので、すっかり惚れ込んで、何とかして自分のお嫁さんにしたいと思ったそうです。そこで家来の竜に命じて無理やり彼女を連れ去ってしまったのです。その時、地上に降りた竜の場所を「竜の足跡」と呼ぶようになったということです。
というわけで、弁財天には現在、弁天様のお姿は見られないわけですが、霊験だけはいまもあらたかで、ここにお参りすると美人になり、音楽の才能も向上するほか、あらゆることに効き目があるということです。
(『利根町史』: 利根町横須賀・北沢 利さん談)

竜の足跡

実りの秋の
景色もいいかも。

鳥居の朱が
褪せぬまに。

忘れかけた
何かの足跡を
探しに。

再び訪れたくなる
美しま 神社、
でした。

茅沼と安兵衛沼

茅沼と安兵衛沼にはこんな逸話があります(『利根町史』: 利根町福木・宮本和也氏談)。

安兵衛沼はえび沼とも呼ばれ、弘化3年(1846)の満水でできた沼で、茅沼も同じ年にできた(杉野正一さん談)。
はじめに利根川が決壊してえび沼ができて、加納新田にたまった水が伏見屋堤というところを破って茅沼をつくった。
このとき、土手が切れないよう近くの墓場から墓石を運んで積み上げたがむなしく堤は切れてしまった。
伏見屋堤が切れて困るのはこの土地の人だけでなくさらに下、東の生板(河内町生板)の人たちでもあるから、
生板地区の墓を調べたら、この年以前の墓は紛失しているかも知れない。
上記に付記されて、「その後、加納の墓を調べてみたがなくなっている様子はなかった」とあります。

茅沼

茅沼

茅沼自体は実は利根町ではなく、
稲敷郡河内町 に所属します。

でも瑞雲寺霊園からさらに南下して
安兵衛沼や東奥山新田へ行く道の
左側に見えてきます。

いい釣り場のように見えましたし、
現実に釣り人も来ているようですが、
さて何が釣れるのか?ヘラはいる?

茅沼

河内町の馬頭観音塔

さて、再編成のための再訪問時、萱沼のバス停前で思わぬ発見もありました。民家のブロック塀前に石仏が・・・。
バス停付近で例の民家を探していたとき、お尋ねした方に「ところで、こんなのあるよ」と教えていただきました。

馬頭観音塔 馬頭観音塔右側面

おそらく馬頭観音の刻像塔と思われます。
右側面に「天保十己亥四月吉日」、
天保10年(1839)4月の造立。
建っている家の方のものではなく、
河内町の人が時々やってきて
この石仏の管理をしているのだそうです。
どうして、他人の家の前にこれを、なんて
思いましたが、よく分からないのだそうです。

→ 後で調べてみるとこの地点は河内町区域。
道路より西は利根町とばかり思っていました。

本体: 高67cm、幅29cm、厚16cm。
台石: 高13cm、幅47cm、厚35cm。

安兵衛沼

最初、こんな木の橋や田んぼのあぜ道を通って探したのです。
なにもなければ同じところを空しく戻って来なければなりません。
時刻も早春の夕方、ぬかるみなどに足をとられてころんでしまったりすればとても困ります。
でも、もうちょっと、もうちょっとだけと、足を延ばしました。そして・・・。

安兵衛沼へ 安兵衛沼へ

そして、この景色をゲトーしました。

安兵衛沼

この日は日没間近で、
探索をあせっていました。

実はまわり道をすれば、
もう少し足場のいい道もあったのです。
そのときは気が付きませんでしたが。

以下、再訪問時。岸辺には土筆がたくさん。土筆はいちど食べたことあるけど、うーん。料理法でおいしくなるのかも。
それよりも、沼を見ると、つい「魚はいるのかな」と思ってしまいますね。ああヘラ釣りはいつか復活させたいなあ。

安兵衛沼 安兵衛沼

驚いたことに、経度的に利根町の最東部といえば確かに加納新田の瑞雲寺付近なのですが、
この安兵衛沼の南に「東奥山新田」と呼ばれる地域があることを、それからまもなく知りました。
そこにも水神宮があるということで後日、訪ねてコンテンツを作成しました。
東奥山新田同水神宮

茅沼南路傍の道祖神

茅沼南路傍の道祖神

瑞雲寺石塔等の追加調査のついでに
東奥山新田まで、と足を伸ばしたとき、
偶然に民家の庭先で見つけました。

氏神様の場合もあるので期待せずに
近づいて見てみると、なんと
石祠内部に、「道祖神」。

ほかに「寛政六寅年十一月吉日」、
寛政6年(1794)11月の造立。
右側面には、「願主仁兵衛」。
左は「奉納十五夜女講中二十四人
さらに「加納下組」とあります。

いわゆる十五夜塔では、勢至菩薩や
大日如来等が多いようなのですが、
これは道祖神造立が主目的で、
十五夜は講中名です。

本体: 高50cm、幅36cm、厚27cm。

茅沼南路傍の道祖神 茅沼南路傍の道祖神右側面 茅沼南路傍の道祖神左側面

(16/06/14・13/11/19・12/07/24 追記) (12/07/21 追記再編成) (05/09/03 追記) (05/08/31) (16/05/29・13/11/17・12/07/23・12/05/05・12/04/29・09/04/02・05/08/26・05/05/07・05/03/21 撮影)


本コンテンツの石造物データ(河内町地区を除く) → 加納新田2石造物一覧.xlxs (17KB)