初めて大平神社(だいへいじんじゃ)の鳥居前にきてびっくりしたのが、ズラリ並んだ石塔群。
壮観です。また、これらはかなりの年代物のようです。
いちばん左奥には妙な形の塔もあります。台座にも興味深い彫り物がされているのもあります。
それぞれの碑文は、もう幽かにしか読めないものばかりですが、
何とか想像力も働かせて読み取ってみました。
しかし、当然、まちがっている可能性も大いにありますし、
まったく判読不能の箇所もたくさんあります。
この点、ご了解いただきますようお願いします。
当初のコンテンツ作成から約6年経過し、このたび再編成したのですが、
あらたに撮りなおした写真を見ると、以前読み取れたはずの文字が、
この歳月の風化で読み取りづらくなっているものが数多くありました。
せっかくあらたに撮ったのにその掲載をあきらめて、以前の写真に画像処理を加える、
というような変更・更新が多くなってしまいました。
年月が経ち風化していくのはそれはそれで味わいがありますが、
やがては朽ちて土に還ってしまうのでしょうか。
大平神社2の更新に関しては、あらたに神社南にある大平集会所のポイントも追加しました。
本コンテンツの後半に、あらたに
大平集会所とその前にあるポイントを紹介しました。
この坂道を下り、さらに南に続く道も、
なかなか魅力的なところなのですが、
まとまって掲載するというところまで、
まだ探索は進めていません。いつかは・・・。
大平神社の真正面に立つと、
鳥居脇にたくさんの石塔が
並んでいるのが見えます。
鳥居に向かって左には
一番左の大きな塔を含めて
11基も建っています。
さらに鳥居の右にも・・・6基(↓)。
ところが、利根町史の記述には、石塔として「念仏供養塔」寛永15年(1638)ほか10基とあります。
すでに、左と右とで合計17基あるわけですから、10基というのもよく分かりません。
「念仏供養塔」ほか10基とあるからには「念仏供養塔」は1基という意味なのでしょうか。
また「宝篋印塔」が、寛永4年(1627)北方村や早尾村、大平村など10村の念仏衆によって建立されたとあります。
「宝篋印塔」という言葉を初めて聞きましたが、それと「念仏供養塔」とは写真のどれを指すのでしょうか?
「念仏供養塔」とは文字通りの意味のものでしょうが
「宝篋印塔」とは何でしょう?
まず、これを知らなければ分かりませんね。
だいたい読み方、分かります?
「宝篋印塔」は「ほうきょういんとう」と呼びます。
この塔の中に、宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)
というお経を納めるのだそうです。
特徴は、上部が段々になった笠と、
その下に4方に飛び出た隅飾りと呼ばれる突起物があることです。
とすれば、「宝篋印塔」は、
上の写真2枚のいちばん左、
大きい塔がそれであることが分かりますね。
← 左に、再掲します。見るからに奇妙な塔ですね。
この塔のなかにお経を納めるって、いったいどの部分?
下部の四角い部分があやしいですが、
現実にいまもお経が入っているのでしょうか?
お経といっても巻物のようになっているものなのか、
疑問が尽きないですが、これ以上は探りようがありません。
宝篋印塔は神社ではなく寺院に本来所属するものでしょうから、
どこかのお寺の住職のかたにお聞きするしかないようですね。
中国の呉越王銭弘俶(せんこうしゅく)が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔の形をまねて簡略化したものだとされている。これは、インドのアショーカ王が釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して、新たに8万4千塔に分納したという故事に習ったものだという。 日本には鎌倉中期以後に造立が盛んになった。
名称は、宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。ただし、他のものを納めていても同形のものは、すべて宝篋印塔と呼ぶ。本来的には、基礎に宝篋印心咒経の文字を刻む。 五輪塔と同じく密教系の塔で、鎌倉期以降宗派を問わず造立されるようになった。(Wikipedia より)
さて、「念仏供養塔」ですが、
一見しただけでは、
どれがそうなのか分かりません。
しかし、もうひとつ
見落としていたものがあります。
「宝篋印塔」の斜め後にあるもの。
ほかの11基とは別格のように
少し高い位置に置かれています。
←これです。
なんだか、怪しいですね。
これじゃあないでしょうか?
上記の疑問等をクリアにするために、
石祠・石塔類をひとつひとつ
調べてみることにしました。
その結果が、以下です。

入口1.から入ってくると6基、鳥居を過ぎて奥にはズラリ11基、盛り上がった坂の中腹に1基、
それと神木である公孫樹脇の1基を加えて都合19基、ずいぶんありますね。
各石祠・石塔の位置と大きさのバランス等は以下の境内図と上のパノラマ写真を参考にしてください。
(入口1.入口2.の意味については大平神社1の 表と裏の2アクセス 参照)
各施設・石祠・石塔の図をクリックすると、当該説明にリンクします。
最初の2基は、鳥居の両脇ではない場所にある別格の石祠です。
この石祠は個人の氏神様であることが判明。持ち主のご意向により情報を削除します。
祠の内部をのぞくと(写真右)
2段重ねのような丸い石が見えました。
その背後の壁面をよく見ると、
「寛永十五年」「念佛之」「九月十九日」
という文字が断片的に見えます。
寛永15年(1638)建立のものが
ほかには見つからないことと、
ほかとは別個の特別な位置に置かれ、
注連縄も張られていることから
町史にある「念仏供養塔」と推定しました。
それにしても、この石は何?
塔の最大幅×高さは、78×123(cm)
また、この扉の左の部分が壊れて
下の土に破片が落ちていました。
ジグゾーパズルのように合わせてみるとピタリ!
こういう扉を見ると、念仏供養塔というより、
羽中の稲荷大明神 で見た
「石龕」というものではないかとも思ったりします。
石龕(せきがん)とは、石窟・岩屋のことで、
その中に仏像などを安置、祀るための石の入れ物を言います。
以下、3.宝篋印塔から13.道祖神までの11基は、鳥居の左にある石塔類です。
「段々になった笠と、その下に4方に飛び出た隅飾りと呼ばれる突起物がある」
宝篋印塔とは で説明しました独特の形から宝篋印塔であることは確実です。
「寛永4年建立」を探してみましたがどこにも記されていないようです。
でも、利根町史に載っているということは何か文献や記録があるのでしょうね。
塔の中央より少し上の円筒形の面に
写真のような梵語(サンスクリット語)の文字が
彫られていました。
これは阿弥陀三尊を現わすものと思われます。
上部の文字は阿弥陀如来、左下は勢至菩薩、
右下は観世音菩薩、
梵語の読み方は順にキリーク、サク、サです。
寛永4年(1627)建立。塔の最大幅×高さは、56×215(cm)。
ここにも天満宮がありました。
上部に亀裂が入っています。
これは、大平神社の境内社ということになるのでしょうか。
右の側面に「文化五戌辰三月吉日」と彫られています。
つまり、文化5年(1822)3月の建立。台座には「講中」とあります。
石祠の最大幅×高さは、38×68(cm)。
利根町探索で、若木神社関連のものはこの1基だけしか見つけていません。
わかき、と読んでしまいそうですが、「おさなぎ」と呼ぶようです。
山形県東根市神町に「若木神社」があり、
疱瘡(天然痘)の神様として知られているそうです。
これは、疱瘡社という種類の神社と関連があるのでしょうか。
石祠の左側面には「領主 角右ヱ門 六兵ヱ」。
右側面には「天保五午年二月吉日」とあります。
天保5年(1834)2月の建立ということですね。
石祠の最大幅×高さは、42×70(cm)。
これも、大平神社の境内社ということになりそうです。
スマートなお地蔵様です。
背面には「智光童女」「幻夢童女」と
彫られています。
幼い女の子を亡くしたのでしょうか。
建立は不明。
像の最大幅×高さは、23×80(cm)。
台座のすぐ上に「當村 女人 講中 十一人」とあります。
子供の健やかな成長はいつの世も母親の願いですね。
表面上部の左には「文政九戌三月吉日」とあります。
すなわち、文政9年(1826)3月の建立。
塔の最大幅×高さは、29×83(cm)。
奉供養十七夜講とあります。十七夜の供養塔ですね。
表面左に「宝暦八」とありその直後に「焔天」と読めるのですが・・・。
十一月十七日と続いているので、秋の暑い日だったのかなあと勝手読みです。
宝暦8年(1758)11月17日建立としておきます。
ほかに、台座には「大平邑 同行・・・」とあります。
塔の最大幅×高さは、27×77(cm)。
見にくいのですが、かすかに道祖神と記されています。
左側面には「講中十五人」、
右側面には「明和五午十月吉日」とあります。
明和5年(1768)10月建立で、石祠の最大幅×高さは、25×65(cm)。
これも、境内社ということになります。
これは風化が激しくてほとんど分かりません。
辛うじて左側面に「施主 松やす?」と読めますが、右側面も「・・・・月吉日」だけです。
建立時不明で、石祠の最大幅×高さは、30×59(cm)。
奉供養十九夜念佛とあります。
「念仏供養塔」がここにもありましたが、建立時が不明です。
表面左には「・・・月 大平村 同行十八人」とありますが、肝心の月日が読めません。
左の文字のすぐ下に「二世安楽道・・」と続くのですが、
下へいくほど判読不能になります。
塔の最大幅×高さは、31×81(cm)。
奉供養十六夜念仏爲霊安楽也とあり、これも「念仏供養塔」です。
表面いちばん右に「宝永五子年大平」、
左方には「供養寒念佛現當二世祈所辺」「十一月吉祥日」と読みましたが、
赤字はあまり自信がありません。
宝永5年(1708)11月建立ということですから、
町史が記す「念仏供養塔」はこれではないですね。
塔の最大幅×高さは、40×67(cm)。
これはいちばん文字が分かりやすい石祠でした。
左側面には「女講中十一人」、
右側面には「天保二卯十一月吉日」が、くっきりと彫られています。
17.の青面金剛王も読みやすかったのですが、
いずれも天保年間の建立でまだ200年も経っていないからでしょう。
天保2年(1831)11月建立。石祠の最大幅×高さは、35×64(cm)。
これも、大平神社の境内社ですね。
以上は鳥居の左側の石祠類、以下は、鳥居の右側の石塔6基です。
巡礼関連の供養塔のひとつですが、この碑の左タイトル文字の真上にも
3.の宝篋印塔にあった梵語が彫られています。阿弥陀三尊です。
タイトル右に「文化四卯」、左には「九月吉日」。
ということで、文化4年(1807)9月の建立。
塔の最大幅×高さは、36×57(cm)。
これも上記14.と同様、阿弥陀三尊梵語マークがついています。
左側面には、「文政九戌 十一月吉日 五十嵐治郎右ヱ門 同・・・・」とあります。
五十嵐さんのご先祖様でしょうね。(改築記念碑 の項目参照)
文政9年(1826)11月建立で、塔の最大幅×高さは、46×78(cm)。
奉供養十九夜講と記されています。
仏像の彫物の下にこのタイトル、
右には「文化十一歳」、左には「戌二月日」とあります。
文化11年(1814)2月の建立。塔の最大幅×高さは、43×90(cm)。
青面金剛(しょうめんこんごう)と言えば、
庚申塔ですね。
左は2005年、右は2011年時のカット。
6年も経つとこんなに風化が進み、
文字が読みづらくなります。
ほかの石祠・石塔も同様です。
タイトル右に「萬延二辛酉年」、
左には「三月吉日」。
左の側面には「当村中」とあり、
その下に横書きで「丗八(38)人」、
さらに下に縦書きで、「治郎右ヱ門・
長左ヱ門・弥治右ヱ門・六兵ヱ」
の4名が列記されています。
現在ではもう読み取りにくい、
万延2年(1861)3月の建立。
石塔の最大幅×高さは、43×86(cm)。
青面金剛王の文字右に「寛政十二申年」、左に「十月吉日」。
建立は、寛政12年(1800)10月ということですね。
右側面ですが、最初の1行目は1文字目の「天」以外よく分かりません。
次の行は「武運長久家内安全」「施主 源蔵」とあります。
石塔の最大幅×高さは、49×102(cm)。
最後は、おそらく庚申塔でしょう。
かなり凝った装飾彫り(見ざる、言わざる、聞かざる、の3猿図など)の下に
「大平村講中」「享保十六亥10月吉日」の文字が読めます。
享保16年(1731)10月の建立で、塔の最大幅×高さは、50×112(cm)。
大平神社への入口1.の路地の南に、
南西の方向に下り坂になっている道があります。
その坂を下りる途中に大平集会所があります。
集会所前には、四郡大師の堂と、
何か道標のような石塔が立っています。

左は、祠のなかの大師像。
下の台に文政2年(1819)とありますが、
これは大師堂が建立された年なのでしょうか。
座布団のせいで、この写真では、
2月なのか3月なのか判別できません。
大師堂の前に立っている石碑。「新四国」の文字が読み取れます。
側面には、文久2年(1862)閏(うるう)8月と記されています。ここにも五十嵐(儀助)さんの名がありますね。
四郡大師は河内、相馬、印旛、埴生(はぶ)の四郡を四国に見立てて巡礼を行うもので、
文政元年(1818)には200ヵ所の霊場を開設し終えたとあります。
とすると、文久2年(1862)建立のこの碑は、霊場開設とは直接関係がないように思われます。
この地区での新四国巡礼と四郡大師が同一イベントを意味しているのか、どうもよく分かりません。

(11/02/28 追記再構成) (10/12/30 追記) (05/05/05)
(撮影 11/02/23・05/09/10・05/05/05・05/05/03・05/05/02・05/03/13・05/03/12)