更新経過
2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
本コンテンツでは再度、境内の石造物の検分をするとともに
本堂左奥の無縁墓地での石仏探索で新たに2基発見追加しました。
もちろん、全般的に細かい追記、写真の入替等も行っています。(15/04/10)
サイト開設初期のころ、利根町・利根川・水害の連想で、水神宮に興味をもちました。
この不動院も、押付新田の水神宮 を探しにきたときに偶然、ここを通りかかり、
そこでお会いした地元の奥さんにお聞きして初めて、水神宮の場所を教えてもらいました。
その時点ではこの不動院はあまり意識になかったのです。多くの見所があったというのに。
そのとき片手間に写真を撮ったものを、半年後にやっとコンテンツ化しました。
しかし、内容の掘り下げは甘く、いま再構成するに当たって赤面の思いです。
あれから、ほんのわずかの追記はしたというものの約7年、ほとんど進歩のない内容でした。
大震災を経て2012年、再調査すると、いろいろ興味深い事実も判明すると同時に、
まだまだ調査をしていく必要性も感じました。
が、とりあえず、従来コンテンツを約倍増追加させて再構成し、UPすることにしました。(12/07/03)
利根町役場裏からフレッシュタウンを南北に走る道路を北上し、農免道路の交差点手前の十字路を左折してすぐの地点。
この交差点から西の方向に、押付新田不動院の庚申塔群が見えます。クルマも通れる道なのでアクセスは容易です。
押付新田不動院に訪れて驚くのは、
境内をぐるりと囲んだ庚申塔群。
入口には真新しい社寺号標石が2基、
左「押付新田」、右「不動院」
が立っています。
この門柱標石の裏面には、
庚申塔修復工事として
平成10年(1998)9月が刻銘。
本体: 高155cm、幅38cm、厚37cm。台石上: 高14cm、幅52cm、厚52cm。
境内のなかには、本堂や、集会所、右手には墓地があり、本堂前には各種の石碑・石仏などが見えます。
その解説は後にして、まずは、この境内を囲む庚申塔群を調べてみましょう。
門柱は別として、
コンクリートの台座に載っている
石塔を数えてみると、合計37基。
この中には、風化が激しく、
庚申塔かどうか
判別できないものも
数基ありますが、
少なくとも34基は確実に
庚申塔と言えそうです。
以下、コーナー別に
詳細を見てみましょう。
分かりにくいのは左端の塔(左下写真)。
樹木に遮られてよく見えません。
石塔前面に塔の名前はなく、造立日だけ。
これもほんとうに庚申塔なのでしょうか。
あと、不明なものでは、その2つ隣り。
ほかのものより半分の大きさで、
碑文もなにも不明です。
でも、せっかくここに載せられていますので、
以前は庚申塔としてのアイデンテイティが
残っていたかも知れません。
下右写真は、左端から3番目の刻像塔の右側面。
造立日が分かります。これも安政2年とは!
門柱左21基の概要
番号 | 種別 | 文字または像 | 造立 | 補足 |
---|---|---|---|---|
1 | 不明 | 不明 | 天保14年(1843)3月 | 正面に造立の文字だけ |
2 | 庚申塔(刻像塔) | 青面金剛・三猿 | 安政2年(1855)3月 | 右側面に造立日 |
3 | 不明 | 不明 | 不明 | 上部半分欠損 |
4 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 不明 | ![]() |
5 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | □□元□ | ![]() |
6 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | 白っぽい |
7 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | ![]() |
8 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | 風化激しく造立日推定 |
9 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | 早尾 綿屋弥兵衛 |
10 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | ![]() |
11 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | 風化激しく造立日推定 |
12 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | ![]() |
13 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | ![]() |
14 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | ![]() |
15 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | 布川 中村屋伊兵衛 |
16 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | ![]() |
17 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | ![]() |
18 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 万延元年(1860)11月 | 60年に1度の庚申の年 |
19 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | 布川の文字 |
20 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | 布川 渡部源兵□ |
21 | 庚申塔(刻像塔) | 青面金剛 | 安政2年(1855)3月 | 布川 嶌屋□□・嶌屋□吉 |
2015年再調査時、垣根がすっかり取り除かれていました。
ということで、よく検分できたのですが、
庚申塔らしき根拠はどこにも見当りません。
これが表面なのかと疑ってしまいますが、
「天保十四夘年 三月日□」と彫られています。
すなわち、天保14年(1843)3月造立だけ判明。
でも、これだけでは、分かりませんね。
なお、ずっと右、門柱からコーナーを曲がった最右端の石塔も、
これと同様のもののようです。
対になっているとしたら、庚申塔群の両端を示すもので、
もしかすると、木造の標識等がこの塔のどこかに付随していて、
それだけが朽ちてしまったとか、そういうことなのかも知れません。
本体: 高37cm、幅17cm、厚15cm。
刻像はもちろん、青面金剛で、1面6臂。
日月雲の浮彫に、手には、ショケラと棒剣、
法輪、三又戟、弓、矢。
一番下に小さな三猿が彫られています。
後で気が付いたのですが、邪鬼の顔も。
踏みつけているのは邪鬼ですよね?
こういうのは初めて見ました。
左側面は「安政二卯年三月吉日」、
安政2年(1855)3月造立は表の通り。
門柱脇の刻像塔2基は、
この塔とまったく同様に見えます。
本体: 高62cm、幅28cm、厚20cm。
右の門柱の右には7基の庚申塔。
左の1基だけが、青面金剛の刻像塔で、
それ以外はすべて文字塔です。
なおこの左端の刻像塔は「星野甚兵衛」が施主。
星野甚兵衛とは星野一楽のことで、
各種の貴重な石造物を造立しています。
→ 参考 星野一楽関連の石碑
7基目は、コーナーなので
45度傾けて設置されていますが、
この塔は文久2年の造立で、
その年代のものはこれだけです。
門柱右7基の概要
番号 | 種別 | 文字または像 | 造立 | 補足 |
---|---|---|---|---|
22 | 庚申塔(刻像塔) | 青面金剛 | 安政2年(1855)3月 | 布川 星野甚兵衛 |
23 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 万延元年(1860)11月 | 60年に1度の庚申の年 |
24 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | 布川 米屋㐂兵□ |
25 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 万延元年(1860)11月 | 60年に1度の庚申の年 |
26 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | 布川 藤井惣助 |
27 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | 布川 玉村庄兵衛 |
28 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 文久2年(1862)3月19日 | コーナーで斜めに設置 |
左から4基ほどは比較的解読できましたが、
後半は、ちょっと風化が激しく難しいですね。
なんとか推定で、文字塔としましたが、
造立日はまったく手がかり不明です。
また、右端の小さな石塔は、
まったく分かりません。
これも庚申塔であることは、
以前は判明していたのでしょうか。
なお、右から2番目に見える後ろ向きの塔は、
後半で説明する 馬頭観音塔 です。
右横9基の概要
番号 | 種別 | 文字または像 | 造立 | 補足 |
---|---|---|---|---|
29 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | ![]() |
30 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | 布川 岩渕平助 |
31 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | 布川 永田□□ |
32 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 安政2年(1855)3月 | ![]() |
33 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 元□□年3月 | 風化激しく推定 |
34 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 不明 | 風化激しく推定 |
35 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | □□□□3月 | 風化激しく推定 |
36 | 庚申塔(文字塔) | 庚申塔 | 不明 | 風化激しく推定 |
37 | 不明 | 不明 | 不明 | 高さ半分 |
明らかに庚申塔と断定できるものは、37基中、34基。内、文字塔は、31基、刻像塔は3基。
造立は、安政2年(1855)3月 24基、万延元年(1860)11月 3基 が特筆されます。
その他は、文久2年が1基、天保14年が1基、不明が8基。
34基中、1時期である安政2年に一気に24基も同時に造立されたというのは、どういう意味があるのでしょうか。
万延元年(1860)の3基は、その年自体が60年に1度の「庚申の年」ですのであるていど理解できます。
しかし、この押付新田の不動院という小さな村で、一時に23基(不明もあるのでそれ以上の可能性あり)造立の理由は?
安政2年(1855)3月前後の歴史を少し振り返って見ましょう。
安政元年(1854)から2年2月までの主な出来事
安政元年(1854年)
安政2年(1855年)
なんと、地震ばかり。世情もたいへん不安な時代ですね。これでは神頼みもしたくなります。
でも、「なぜ庚申塔」なのでしょうか?三尸の虫が天帝に告げるのは個人の悪行。天変地異は万民共通の厄災です。
この地域は仮に地震の被害から免れたとはいえ、20数基の石仏を同時に造立するには費用もかかります。
大出費をして、何を祈願し、なぜ庚申塔を建てたのか。この解明にはもう少し調査が必要ですね。
上記の数多くの庚申塔の造立に関して、新たな情報を得ることができました。それが「百庚申」というものです。
江戸末期に造立者を百人ほど募り、同じ形式で百基造立する百庚申が流行ったそうです。
したがって、この押付新田不動院の庚申塔もその一環で、本来は百基あったのではないかと推定されます。
ということは、この不動院敷地をぐるっとひとまわり囲んでいたのかも知れませんね。
参考→ 百庚申/千葉県公式観光情報サイト
百庚申は、より多くの塔を建てることにより、より多くの功徳を得たいという人々の気持ちの表れです。 印西市にある百庚申は、浦部・小林・武西地区の3ヶ所にあります。 小林地区の百庚申は、天保元年(1830年)から明治にかけて造立。 西福寺(印西市小林1615)近くの猿田彦神社に文字塔98基確認されています。
さて、不動堂というからには不動尊つまり不動明王を祀ってあるのだと思いますが、そもそも不動明王とは何でしょう?
不動明王は真言宗の教主「大日如来」の使者といわれ、、悪魔を降伏する役割があるせいか恐ろしい姿をしています。
仏道に従わないものを無理矢理にでも導き救済するという役目を持っているのです。
ところで、不動院、不動尊、不動堂と3種類の言い方があります。どう使い分けたらいいのでしょうか。
タヌポンの勝手な解釈では、以下のように考えてみましたがどうでしょうか。
したがって、以下で説明する火事のため新築したのは「不動尊」でも「不動院」でもなく「不動堂」になるわけですね。
ということで、まずは、火事・類焼と、押付新田不動院の由来などについて、堂の右斜めに立つ記念碑を見てみましょう。
以下、碑文に書かれた要旨。
とても残念なことですが、
この火事で、もうひとつ
大事なものを失っています。
押付新田集会所 の項目で説明します。
本 体: 高213cm、幅48cm、厚21cm。
台石上: 高37cm、幅58cm、厚39cm。
台石下: 高38cm、幅82cm、厚64cm。
本堂を見て、あれっ?と思いました。
なんと、注連縄があるじゃあないですか。
注連縄って本来、神道関連のものではないのでしょうか?
不動尊は真言宗、仏教ですよねえ。
ここのところがよく分かりませんね。
これも神仏習合の名残でしょうか。
参考:注連縄(しめなわ)は、神道における神祭具で、糸の字の象形を成す紙垂(しで)をつけた縄をさす。標縄・七五三縄とも表記する。(wikipedia)
再建時に奉納された扁額。昭和61年(1986)3月奉納
本体: 高39cm、幅123cm。
鈴ではなく、鰐口。妥当な設置です。
こんなこというのも、鈴のある寺や、
鰐口のある神社、両方あるものいろいろですから。
ところで、鰐口とは、
下縁に細長く一文字に口が開いていることが名前の由来とか。
鰐だけでなく、爬虫類はみなそうですよね、
口裂け女はともかく、日本に鰐なんていなかったでしょうから、
最初の名付け親はどこの人?
あっ、調べてみると、日本でもサメの古称を鰐といったそうです。
へえ。じゃ日本発祥説あり?
でも、インドか中国が開発元でしょうねえ、多分。
前に来たときと印象が違って見えたのは、
よくよく考えると、新築常夜燈のせいもありますが、
この賽銭箱のせいではないかと思いました。
火事のときの再建関連ではなく、
ここ数年で新しく設置されたものと思います。
文字もいいし、シックで、
デザイン的にもタヌポン好み。
本堂の色とかとのバランスもいいですね。
造った人はいいセンスと思います、うん。
本体: 高34cm、幅73cm、厚35cm。
こういうのは、やはり金箔なんですかねえ。それとも全部金?あまり精しくないのですが・・・。
まさか、これを剥がして盗んでいく不埒なヤツはいないとは思うのですが、昨今、神社・仏閣での盗難も多いようで。
本堂が類焼してお宝もみな焼失したのなら、現在の不動明王像も年代物ではなく価値的にはどうかとも思いますが・・・。
とはいうものの、「防犯カメラ設置」も「設置したことの表示」も、いたしかたないことではあります。
本堂の格子の隙間から中を撮ろうとして、うまく撮れないで汗をかいているタヌポンも防犯カメラに写っているかも。
これが集会所の建物。
昭和61年(1986)の再建時に、
同時に建てられたものでしょう。
さて、火事のときに、ここに保管されていた、
「あるもの」も、同時に焼失してしまいました。それは、
同じ押付新田にあった「常念仏院鶴捕寺」が廃寺となったために、
ここに移管されていた「ある事件にまつわる3種の位牌」です。
これについては以下を。
→ 泪塚「押付新田の鶴殺し事件」 参照。
手水の手前で見つけた天神宮。
境内で唯一(に近い)の神道系です。
さて、この祭神は、「菅原道真公」と
言いたいところですが断定は・・・。
「天満宮」ならそう言えるのですが・・・。
理由は→ 神社の呼び方 参照。
天神社、天神宮については、祭神が
菅原道真以外の場合も想定されます。
この天神宮の石祠については、
由緒や手がかりが不明なので、
いわゆる道真公の「天神様」とは
異なる可能性があります。
まあ、少ないと思いますが・・・。
石祠の左側面には、造立年「明和三戌天」、明和3年(1766)が刻まれていますが、下左は2012年、右は2006年。
3年の間に風化が進み、読みづらくなっています。ところで、よく見かけるこの白や薄緑色のカビのようなものは何でしょう?
白や薄緑色の斑模様。これは、通常のコケやカビではなく、ウメノキゴケという地衣類の一種なのだそうです。
年に3ミリ程度しか成長しない性質があるため、石仏などの表面の年代を測る指標に利用されるといいます。
夜露などで水分を補給し生育し、汚れた大気では育たないそうです。このため環境汚染の指標ともされています。
ということは、この押付新田は「空気が清浄」ということですが、石仏の文字が見づらくなるのは困りますね。
さて、右側面のほうには、
造立月の「九月吉日」9月が記されていますが、
「願主 白禅」も刻まれています。
これは、明らかに僧侶の名前ですが、
神仏習合や別当寺とかいろいろありますが、
天神宮という神道系の石祠を、
お坊さんが建てるというのが妙な気がします。
もうひとつ、この天神宮で不可解なことが・・・。下の現在の様子と3年前(2006)の台座を見比べてください。
なにか、台座が1つ追加されていますね。しかも新造されたものではなく、どこか別のものを再利用したような・・・。
この基礎台座には、真ん中に「世話人」右に異体字で「筑後市」右には「出羽三岳」でしょうか、が記されています。
世話人はともかく、「筑後市」や「出羽三岳」の意味合いが「天神宮」とどうからんでくるのか脈絡がさっぱりです。
大地震後に、石祠をしっかり固定しようと、どこかの破損した常夜燈の中台・竿石などを利用した、ということでしょうか。
本体: 高43cm、幅24cm、厚14cm。
常夜燈も新築されました。周囲と比べると一目瞭然です。
平成24年(2012)5月とは、つい最近のことですね。
左は、2006年時の写真。
やっぱり大地震で倒れたとか、そういう理由でしょうか。
なかなか形のいい風情のある常夜燈でしたが・・・。
本体: 高178cm、幅57cm、厚57cm。
本堂手前左手にある手水舎。
手水鉢の左右を調べ忘れたのですが、
上の天神宮の写真を拡大してみると、
手水鉢の左側面には、
「講 若者中」の文字が見えます。
女人講中とか年寄中とかは見ましたが、若者中とは初めてです。
珍しくここには水道も引かれています。
→ 右には天保14年(1843)9月と後日造立日確認。
ところで、隣の木のウメノキゴケはすごいですね。でも・・・。
タヌポン独白:もし、セシウムを吸ってもコケが変化しないなら、
もはや「空気清浄機能」の定義を変えねばならないなあ・・・。
本体: 高40cm、幅86cm、厚43cm。
とても交通量が多いとは思えない地域ですが、子供たちを守っていただきましょう。少子化なのですけれど。
利根町に越してきたときは、茨城は交通事故が多いとか、運転が乱暴とか聞きましたが、どんなもんでしょう。
これも、本堂などの再建同年の昭和61年(1986)で、11月の造立。ああ、バブル絶頂期の夢のような時代。
本体: 高133cm、幅50cm、厚50cm。
押付新田不動院で驚いたのは、墓地の広さに比較して、数多くの立派な墓碑が建てられていることです。
左は1基だけ境内左手に、右は集会所前、墓地入口右手で道路に面した位置。勲功あった方が多い地域なのでしょうか。
不動院の境内に入って右手、
集会所の前にある大師堂。
ちょっと右に傾いています。
ここは札所番号が2つ付いています。
こういうところがほかにもあります。
→ 羽中の稲荷大明神の大師
→ 立崎集会所の大師
堂が並んで1ヵ所に建っているところも何ヵ所かありました。
→ 押付本田の水神宮の大師
→ 諏訪神社の大師
→ 下柳宿の大師
→ 大房集会所の大師
堂が2つ並んでいるのはともかく、
札所番号が2つあるというのは、
霊場巡りとしては非効率のような・・・。
大師堂内には、なぜか3体の大師像が安置されています。15番・36番それぞれがどの大師とかいうのではなさそうです。
また、堂の上部中央には、文字がすっかり消えてしまっている額が掲げられています(上右写真)。
これはほかの例でみると御詠歌が記されている場合が多いのですが、この場合は何番札所の御詠歌でしょうか。
ちなみに、四国88ヵ所霊場の15番・36番それぞれの御詠歌は以下。
15番札所 薬王山 金色院 国分寺 「薄く濃く わけわけ色を 染めぬれば 流転生死の 秋のもみじ葉」
36番札所 独鈷山 伊舎那院 青龍寺 「わずかなる 泉にすめる 青龍は 仏法守護の 誓いとぞきく」
これらの御詠歌のいずれか、あるいは両方が大師堂の額に記されていたかどうかは推測の域を脱しません。
もしかして、別の札所の御詠歌だったりして・・・そうなると何がなんだか分からなくなります。
大師像左: 高30cm、幅24cm、厚18cm。大師像中: 高30cm、幅24cm、厚19cm。大師像右: 高24cm、幅17cm、厚17cm。
大師堂の下を見ると、基礎に台石が置かれています。
よく見ると、これは、仏像や石仏の「蓮台」のようです。
以下の境内の石仏類で紹介しますが、
本堂裏に数多く廃棄同然に置かれた石仏やその断片を見ると、
このように大師堂の基礎として流用されるのは
いいことなのではないかと思います。
ただ、なにか銘文が刻まれているものについては、
誤解されないような再利用をしてほしいと思います。
それよりも、左右の蓮台の高さが不ぞろいのせいか、
大師堂が右肩下がりなんですよね。
最初の訪問時、境内の周囲を取り囲んだ多くの庚申塔に驚きましたが、
そのなかで右端手前に1基だけ、向こう向き(境内側)の塔があります。
共通のコンクリートの台上には載らずに、どうも敷地内にあるようです。
境内に入って確かめてみると、庚申塔ではなく、馬頭観音でした。
なるほど、境内の門構えはどうも庚申塔で統一されているようですね。
さて、この馬頭観音塔は、天保13年(1842)正月の造立。
馬頭観音については→ 羽中の羽中の観音堂「馬頭観世音」 参照。
本体: 高61cm、幅26cm、厚15cm。
境内入口から左手には、
ずっと奥のほうまで、
石仏が立ち並んでいます。
不明のものも多いのですが、
明らかに戒名が記された墓塔や、
文字等が判読不能のものを除いて、
分かる部分だけを紹介します。
誤読の可能性や推定もあるので、
その節は、ご容赦ください。
「奉讀誦普門品壹萬巻供養塔」と読めます。
台石には、「湯原氏 忠左衛門」とあります。
普門品(ふもんぼん)とは、法華経第25品「観世音菩薩普門品」の略称。
日本の仏教では、この普門品が独立した単独の経典として扱われる場合が多く
「観音経(かんのんぎょう)」の名前で宗派の枠を越えて信仰されています。
これを1万巻読誦した記念に建てられた読誦塔ということでしょうか。
左右側面に戒名らしきものが刻まれているので墓塔を兼ねているようです。
本体: 高97cm、幅40cm、厚38cm。台石: 高31cm、幅65cm、厚65cm。
中央に「月山 湯殿山 羽黒山」さらに、
「西国 秩父 坂東 百番供養塔」。
出羽三山に加え、
坂東33ヵ所・西國33ヵ所、秩父34ヵ所、
100ヵ所の霊場を巡礼した記念の石塔。
巡拝塔で通常、百番供養塔と呼ばれますが、
これに出羽三山が加わると
「三山百番塔」と呼ばれます。
こうしたいくつかの巡拝が重なった塔を
「重層塔」と呼びますが、ここでは
三山百番塔という名で分類することにします。
左側面に「天保十二辛丑年二月吉日」、
天保12年(1841)2月の銘。
左右の「天下泰平 國土安穏」は
決まり文句。
本体: 高75cm、幅30cm、厚29cm。
「奉納大乘妙典六十六部日本廻國供養塔」の文字が読めます。
六十六部とは、六部と省略される場合もありますが、日本66ヵ国を巡礼し、
各霊場に書写した法華経を1部ずつ納める行者のことを指します。
この廻國達成を記念して、この塔が建てられます。
表面左右に「天下泰平 國土安全」
「安永三甲午天 十一月大吉日、
安永3年(1774)11月の造立。
この塔の左右両側面にも多数の戒名が彫られています。
行者もしくは世話人たちの墓碑としての機能も兼ねているのかも知れません。
戒名等はここでは割愛します。
本体: 高80cm、幅29cm、厚16cm。
中央に「西國秩父坂東百番供羪塔」。
2基前の塔と同じ種類の巡拝塔・百番供養塔と思われます。
上部に線彫りで蓮台とその上に文字を含む円形が彫られています。
写真拡大して見ると円形内の文字は、右から縦に「羽黒山月山湯殿山」。
出羽三山の文字でした。2基前とこれでまったく同一の三山百番塔に分類されます。
左右の造立日は「文政十一□□」「十一月吉日」。
文政11年(1828)11月の造立です。
本体: 高64cm、幅27cm、厚16cm。
巡拝塔2の右背後にある塔。
青面金剛が刻像された庚申塔ですが、ちょっと風化が激しいようです。
タワシなどで表面を磨けば銘文など少しは分かるかも知れませんが、
この状態では、分かるのは足下の三猿ぐらいで、
邪鬼を踏んでいるのかどうかも判断できません。
合掌している2臂以外の臂もどうなっているのか・・・。
いつか、他の石仏も含めて不明なところだけ再調査してみようかと・・・。
濡れ雑巾なども要るし、足場もよくないし、結構、面倒ですが・・・。
本体: 高86cm、幅39cm、厚32cm。
庚申塔1から前列に戻って、巡拝塔2の右隣り。こんどは神道系の石祠です。
石祠左右の側面から、「天明七丁未 四月□□」、つまり天明7年(1787)4月の造立情報しか分かりません。
石祠正面内部には、何か文字が彫られていたようなのですが、ほとんど判読不能なので、残念です。
本体: 高56cm、幅37cm、厚29cm。
前記石祠の右後ろにある塔。
「奉納大乘妙典□□・・・」だけしか判別できませんが、
こういう場合は、まず廻国塔と断定してもいいかと思われます。
しかし、造立年代もまったく不明では困りますので、
これも、タワシ擦りの宿題となります。うーむ。
その苦労が実を結べばいいのですが、どうにもならないときもあります。
▼ 余談ですが、軍手などで石仏の表面を擦ったりしていると、
咳が出たり、喉が痛くなる時があります。
2011.3.11大地震時の原発事故後の喉の痛みとなぜかよく似ているようで、
こういうところはまだ線量が高いのかな、などと思ったりします。
単なる土埃を吸ったから、ならいいのですが・・・。
本体: 高53cm、幅27cm、厚13cm。
頭の「金」と次の「毘」の上部しか
判読できませんが、これは、
「金毘羅社」と推定されます。
「金毘羅神社」「金毘羅大権現」
の可能性もあります。
右側面に、文化9年(1812)の銘。
ちなみに、金毘羅社は、
神道系では、主祭神は大物主神、
仏教系では十一面観音菩薩を本地仏とする、
神仏習合の典型的な存在。
本体: 高52cm、幅35cm、厚24cm。
上記右隣に1基ずつ石塔(後)と石祠(前)があるのですが、どちらも崩落や風化が激しく、ここでは割愛します。
その2基の後列右に、以下の庚申塔があります。
あれっ?三猿が彫られているから、これは庚申塔ですよねえ。
なぜ、門柱の並びに加えられなかったのでしょうか?
さて、理由は如何?
三猿があるから庚申塔と言えるだけで、ほかの情報はまったく分かりません。
ここもやはり、表面を洗ってみてみるしかないのですが、あまり期待できそうも・・・。
本体: 高72cm、幅36cm、厚19cm。
不明の塔と無縫塔3基
三猿の庚申塔の前に1基、妙な石塔があります。
これは、首がとれているのでしょうか。
文字等もまったく分かりませんが、
観音像なのか地蔵なのか・・・・、
ちょっと気になるので掲載しました。
その右横の3基は無縫塔と呼ばれる、
お坊さんの墓のようです。
無縫塔前: 高49cm、幅34cm、厚29cm。
無縫塔中: 高47cm、幅24cm、厚20cm。
無縫塔後: 高43cm、幅20cm、厚18cm。
境内左手の奥は本堂の左で、ここには、数多くの石仏が、無造作に置かれています。左は2012年6月撮影。
ここを見たのは、実は、大震災後が初めてだったのですが、雑草も伸び放題だし、倒壊した石塔もそのままです。
ざっと見た感じでは無縁仏が多いように思いましたが、何基か文字等が読めるものも。3基ほど、紹介しました。
その後、3年ほど経過した2015年春、再訪問(右写真)。半分に折れた観音塔などむしろさらに荒れた状態に・・・。
前回見つけた貴重な石仏のその後も心配ですが、なにかほかにも発見できれば・・・と。
時念仏とは、二世安楽を祈念して食事を1日1食にして精進潔斎し、
念仏勤行を行った逆修供養のこと。
上部に阿弥陀三尊の種子が彫られ、
その真下中央に「奉造立時念佛一結之諸衆爲二世安楽也」とあります。
生前中に後世の安楽を願い仏事を行うのが「逆修」供養です。
ほかに、下方に左右1文字ずつ「敬白」
右に「元禄三庚午十月八日」、
元禄3年(1690)10月8日の造立。
左に「押付新田村同行七拾二人」とあります。
板碑型のこうした塔は比較的古いものなので大事にしたいところですが・・・。
本体: 高121cm、幅53cm、厚24cm。
如意輪観音の刻像塔。
右に「十六夜念佛供養□立」とあり、十六夜塔なのですが、
本来十六夜塔の主尊は、大日如来や阿弥陀如来、もしくは聖観音であり、
如意輪観音は十九夜塔の本尊です。
でも、利根町は、本来のルールを超越して如意輪観音を刻像する傾向があります。
左に「延宝三乙夘十月十六日」とあり、
延宝3年(1675)10月16日の造立。
ほかに同行者の数か「三十三人」「敬白」などが見えます。
本体: 高74cm、幅37cm、厚16cm。
中央に「如淪觀音」とあり、右に「万治二年」、左に「十月十九日」。
「如淪観音」とは「如意輪観音」と同義かよく分かりませんが
万治2年(1659)、10月19日の刻銘から、
如意輪観音を刻んだ十九夜塔として、最も古いものに近い塔と判断されます。
前回発見し、2015年再調査で、果たして紛失・破損していないか
とても心配していましたが、そのまま放置されていました。
当初、日付といい、如意輪観音といい、万治2年の造立を考えると、
徳満寺にある現出の日本最古の十九夜塔 に次ぐ、2番目に古い塔です。
もっとも万治2年の十九夜塔は、布川神社でも発見 → 日本最古に次ぐ十九夜塔
また、 中田切の十九夜塔 も同様の塔であり、
利根町にはなんと3基もこうした貴重な十九夜塔があるわけです。
ただし、これらは、いずれも、如意輪観音を刻んだもので、という条件付きです。
本体: 高65cm、幅30cm、厚13cm。
2015年春の再調査で、あまりにも無残な状態を見せつけられ、上記十九夜塔をなんとか持ち上げて立てかけましたが、
その甲斐あってか、十九夜塔の下敷きになっていた廻国塔を発見。それを以下、紹介します。
中央に「奉納大乘妙典日本廻國供養塔」。
左右に「宝暦六丙子天」「正月六日」。
宝暦6年(1756)正月6日の造立です。
左下にある「願主 行然」は、六部の修験者でしょうか。
本体: 高72cm、幅30cm、厚19cm。
地蔵菩薩が彫られた光背型の塔。当初の訪問時では、無縁仏が多い場所なので戒名のある墓塔と思っていました。
調べてみると、光背右に「奉供養寒念佛三永代施主人」とあります。
これが、利根町で初めて発見した「寒念仏塔」でした。
2015年春の再調査ですが、以前は見落としていたようです。でも、この翌日に
大平神社でなんともう1基、既掲載のものが寒念仏塔であることを発見、
それを先に更新UPしましたので、このサイトでは2基目の紹介となります。
左に「宝永七庚寅天十月吉日」とあり、宝永7年(1710)10月の造立。
台石には、
「押付新田村」
「結衆 男女 四十六人」
「敬白」とあります。
本体: 高72cm、幅31cm、厚22cm。
もう少し奥には、真横に通路を遮って倒壊している墓塔などもあり、しっかり見ていくには時間がかかりそうです。
とりあえず上記5基は、真っ二つに割れるとかないように願いますが、どうなることやら・・・。
石仏はかなり重いし、きちんと並べて固定するにはボランティア人力だけでは難しく、費用もかかるでしょう。
しかも、ここだけではなく、ほかにも整備してほしいところが多々あるわけで・・・。ああ、町の財産なのに残念です。
(15/07/29・15/04/10・12/07/20 追記) (12/07/03 追記再構成) (10/12/12 追記) (05/09/07) (撮影 15/05/22・15/03/29・12/06/23・12/06/15・09/03/07・06/09/09・05/07/16・05/03/12)
本コンテンツの石造物データ → 押付新田不動院石造物一覧.xlxs (20KB)