正門@と裏口A
| 左は入口@のコース、右は入口Aのコース。 どちらも、もちろんクルマは入れませんよ。 でも大した距離はありません。ほんのすぐです。 しかし、何があるか分からないときは なんだかドキドキしますね。 |
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| 入口@のコース |
入口Aのコース |
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(参考)
裏門からの入口Aをもう少し分かりやすい写真で紹介します。
写真の右の柵があるところが旧ナイルス部品という会社です。現在、操業していないみたいです。
その隣りの青い柵の横から入るのです。
クルマで来る時はむしろこちらからのほうがいいかも知れません。この道路に駐車しておけば青柵から歩いてすぐですから。
しかし、ここはあくまでも正規の入口ではありませんので「不法侵入」になるかも知れません。ご注意ください。
でも、お断りしようにも神社関係者はどなたもいつもいらっしゃらないのですね。

夏はこう↓なってしまいますので、ますます分からなくなります。(06/07/30追記)

ここは最近(と言ってももう15年も前になるようですけど)、改築されたのですね。
鳥居の神額や拝殿なども真新しい感じです。
さて、大平神社は、祭神が大国主命(おおくにぬしのみこと)、
配祀は天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)とありますが、
地元の言い伝えでは、大平村を開拓した「お大平様(おだいへいさま)」を祀っているといいます。
「お大平様」についてはいろいろな伝説があるので後で紹介します。
神社の創立については不詳で、万治年中(1658〜)諸人の崇敬社となり、
明治41年(1908)無格社大龍神社を合祀と町史には記されています。
大龍神社とはどこにあったのでしょうか。
本殿は流れ造りとありますが、こういうのをいうのでしょうか。右は本殿の真正面。

神木は銀杏とあります。これですね。
まだ3月時の撮影なので葉っぱが何もないかわいそうな状態です。
さて、大平神社の真正面に立つと、鳥居脇にたくさんの石塔が並んでいるのが見えます。

上の写真のように、鳥居に向かって左には一番左の大きな塔を含めて11基も建っています。
さらに鳥居の右にも・・・6基(↓)。
ところが、記述には、石塔として「念仏供養塔」寛永15年(1638)ほか10基。
さらに、「宝篋印塔」なるものが、寛永4年(1627)北方村や早尾村、大平村など10村の念仏衆によって建立されたとあります。
「念仏供養塔」ほか10基とあるからには「念仏供養塔」は1基という意味なのでしょうか。
それでは、「宝篋印塔」と「念仏供養塔」とは写真のどれを指すのでしょうか?
宝篋印塔とは
「念仏供養塔」とは文字通りの意味のものでしょうが「宝篋印塔」とは何でしょう?
まず、これを知らなければ分かりませんね。だいたい読み方、分かります?
「宝篋印塔」は「ほうきょういんとう」と呼びます。
この塔の中に、宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)というお経を納めるのだそうです。
特徴は、上部が段々になった笠と、その下に4方に飛び出た隅飾りと呼ばれる突起物があることです。
とすれば、「宝篋印塔」は、2つ上の写真のいちばん左の大きい塔がそれであることが分かりますね。
←左に、再掲します。見るからに奇妙な塔ですね。
念仏供養塔?
さて、それでは「念仏供養塔」ですが、これはどれか分かりません。
しかし、もうひとつ見落としていたものがあります。
上の「宝篋印塔」が写っている写真で、「宝篋印塔」の斜め後にあるもの。
←これです。
なんだか、怪しいですね。これじゃあないでしょうか?
また宿題ですね。
それと残り10+6基の石塔はそれぞれ何なのか、これが全部分かる日は・・・。
利根町史第5巻には、お大平様に関する言い伝えが4編ほど掲載されています。
いずれも大平の五十嵐五郎さんという方からのものです。
以下、その要旨をご紹介します。
大平さまと水神さま
ある日、大平村の権現様(お大平様のことですね)が
東の押付本田の沼(どの沼かなあ)で釣りをしていました。
それを見た押付本田の水神様は「わしの沼の魚を勝手に・・・」と怒り、
潜牛に乗ってやってきて権現様の釣竿を奪おうとしました。
権現様は驚いて近くの藤づるを潜牛めがけて投げつけました。
狙い通りそれは牛の右角に引っかかり、お互いに引っ張り合いとなりました。
結局、牛の角が折れて両者とも後にひっくり返ったということです。
大平の権現様はいいものが手に入ったと牛の角を手に走り帰っていきました。
その後、大平様の死後も村の宝として大切に保管していたのですが、
大平神社の祭礼の時だけお供えしていたそうです。
しかし、そこでは盗まれそうだというので村人の持ち回りで預かることになりましたが、
五十嵐角右衛門家が当番の時に、押付本田に返却したということです。
お大平様の遺言
お大平様が亡くなられるとき
「我死なば、我が身を立てたまま埋葬せよ。
しからば、この村に今後我同様の大男を3人ずつ絶やさずに出現させ、外敵より守らせるであろう」
と遺言されました。
しかし、村人たちは相談の結果、
大平様のような大男が3人も絶やさずに現れたのでは死後の埋葬の折はたいへんだ、
として結局、横にして埋葬してしまったということです。
大平権現のご神体
祀られている人は、守永親王ではないかと言われています。
親王は常陸の小田城にいたが、北朝との戦いに敗れ下野の栃木まで逃れたが安住できず、
小貝川を下ってこの地に逃げ、大平村を開いたといいます。
さて、次の最後の話はタヌポンにとってとても興味深く思われました。
玄慧法師
大平様の一行に玄慧法師という名僧がおり(ほんとですか?奥州後三年記を著したといわれている人ですよね)、
大平様を助けて村を開いたと言われています。
また彼はここで太平記を書き上げたと伝えられています(!!!太平記は小島法師著という説がありますが・・・)。
大平様の死後に法師は亡くなったが
大平様の死後も守っていただこうと大平様の眠る権現塚に埋葬したということです。
これは驚きですね。
利根町史には続いて注釈で、玄慧法師は小島法師とも言ったそうである、としています。
太平記とお大平様、字が少しちがいますが、もしかして何か関係あるのかしらん?
これはもっと調べてみる価値がありますね。
五十嵐さんという方の家にはもっと貴重な文献など残されていないのでしょうか。
なんてタヌポンが言っても、もう利根町の教育委員会では調べているのでしょうね。
タヌポンはゆっくりいきます。守永親王というのも調べてみたいですね。いったい大平様とはだれなのでしょう。
小島法師のことなどが真実なら、歴史上、かなり有名な人である可能性が高いのではないでしょうか。
ちなみに大平様が祀られた権現塚というのは、もえぎ野台のどこかにあったようなのですが、
工事で崩されてしまったのかいまは見当たらないようです。何かもったいない話です。
(05/05/01) (撮影06/07/29・05/03/12・05/03/13)
大平神社2(境内石碑等紹介)へ続く