布川から取手東線を東に向かい利根ニュータウンを抜けて羽中の交差点を右折する道。
それは最初は 利根七福神 の寿老人が置かれた 応順寺 を訪ねるために通りました。
しかし、その同じ道の途中に2ヵ所、少し左(北)に脇道を入ると見所があることを知ったのは
応順寺を訪れてから半年以上も後のことでした。
その見所ポイントとは、稲荷大明神・羽中集会所があるところと観音堂などがある一角です。
当初、それらをまとめてひとつのコンテンツをつくったのですが、5年の月日を経過し、
内容を大幅に見直し、このたび2つのコンテンツに分離させました。
そのひとつが、この「羽中の稲荷大明神」です。
観音堂については、あらたに「羽中の観音堂」として独立させました。
取手東線からの右折道路途中にある脇道。
応順寺に近いほうの脇道にあるのが稲荷大明神。
この脇道自体が稲荷大明神への参道になるような感じです。
向こうに鳥居が小さく見えます。
また、民家の屋根の高さまで伸びた幟立のポールが2本、
鳥居の両脇に立っているのが目印になります。

参道を真っ直ぐ歩いてくると最初に目に付くのがこの鳥居。明神鳥居ですが、よく見ると、左の貫の先端が欠損していますね。
右上の写真は、上が柱の裏に記された鳥居建立時で、明治14年(1881)12月。(クリック拡大参照)
下の写真は、額束の裏で、改修されたのが昭和57年(1982)の2月であることが分かります。(クリック拡大参照)
建立されてからちょうど100年後に改修されているようですが、どの部分が改修されたのか分かりません。
したがって、貫の破損はいつごろ派生したかも不明ですが、昭和57年の改修時より後とするのが妥当かと・・・。
また、建立月で、「苐」12月と妙な文字が付いているのが気になります。苐=第と思いますが、それにしても?
→ 判明!この場合の苐=弟のほうの字で、弟月とは、陰暦12月の異称。おとうづき、おととづき、などと呼びます。うーむ。
特筆するものはありません。が・・・。
この裏の額束に改修の記録があるということは、
この神額自体の改修であった可能性もあります。
実を言うと、写真にあるものが、「注連縄」と呼んでいいものなのか分かりません。
でも、いちおう鳥居に取り付けられているものですから
一種の珍しい形の注連縄なのだろうと思います。
ところで、この稲荷大明神には、初めて訪れたのが2005年の4月、
その後同じ年の9月と、2回ほど訪れ、コンテンツを作成したのですが、
写真を見比べていて後で気付いたことがありました。
それは、この「注連縄」ですが、9月時にはありません。
わずか半年ですから、老朽化してはずされたという風には見えません。
つまり、これは4月時前後が、なんらかの特別な時期だったのではないか、
と想像したのですが・・・。
調べてみると、稲荷大明神の祭礼は例年12月15日(初午)の時期。
ということで、「注連縄」の謎はそのままになっていました。
それから、約5年半経った2011年2月初めに訪れたとき、
左写真のように、まだ取り付けられていない「注連縄」が
鳥居の柱元に置かれているのを発見しました。
まもなく取り付けられようとしている感じです。
ということは、以前に見た4月のものは
すでに1月頃から存在していたものと考えられます。
それなら、正月時に奉納されることが通例となっていて、
夏を経過した9月頃には少し老朽化して取り外される、
ということになるのかも知れません。
鳥居をくぐると、前方奥には、
朱色の拝殿が見えてきますが、
鳥居とその間には、
背の高い幟立のポールを初め、
常夜燈、石段の脇には各種の石碑、
手水など様々な施設があります。
なかには以前にはなかった
水銀灯なども見えます。
拝殿・本殿までのこれらの施設を
この項目で紹介します。
なお、右手建物は羽中の集会所です。
このさらに右手には
各種仏塔類等が立ち並んでいますが、
これらは後半の項目で紹介します。
こんなに立派な幟立は、ほかには・・・。
そうそう、南野原の稲荷大明神 だけですね。いい勝負です。
あれっ、同じ稲荷大明神ですね。あれれっ、お隣りの中谷地区ですね。
さては、ライバルですか?(笑)
下右の写真で、平成12年(1999)12月建立が分かります。
まだ新しくてツルツル・ピカピカしてます。
いちど幟旗が立ったところを撮りたいなあ。
撮れているのは徳満寺地蔵祭りと早尾天神社だけだもんなあ。

下の建立碑を見ると、平成18年(2006)3月とあります。
当初、こちらに来たとき(2005年)に撮った写真には写っていないのも道理です。
故人の遺志ということですが、この一角を愛された方々だったのでしょうね。
ちょっと、お勉強ですが、なぜ街灯など水銀灯が用いられるか、ですが・・・。
放電管としては構造が比較的単純で、起動も容易なうえ、中庸な効率を持つため、特に大型(2kWまで)のものが廉価に製造できる。近年では水銀灯同様の構造を持ち、演色性や効率のより高いメタルハライドランプ、高圧ナトリウムランプに置き換えられつつある。(wikipedia)
奉献燈文久2年(1862)1対と町史にあります。
下左、奉献の文字はなかなかの達筆。
下右、火袋の彫刻もよくできています。
常夜燈としては 蛟蝄神社奥の宮 のと遜色ない立派なものです。

右の常夜燈の背後、水銀燈の手前にある手水。
右サイドには、享和2年(1802)11月建立の文字。
よくある御寶前、の宝とは、何を指しているのでしょう。
本殿そのもの?本殿に納められた宝?それとも祭神?
こういう年代ものは、実際の用途には向かないのでは?
水道の蛇口など設置しないとだめですね。
拝殿へ上がる石段の左右に立ち並んでいる伊勢神宮参拝記念関連の石碑。左に4基、右に3基あります。
蛟蝄神社奥の宮 などにもありましたが、こんなに多くのお伊勢参りの石碑があるのはこの稲荷大明神だけです。
なかには、皇紀2600年伊勢神宮参拝記念の碑もありますが、皇紀2600年とは1940(昭和15)年のこと。
これらはみなその時期のものでしょうか。それとも、別の日のものもあるのでしょうか。
(ちなみに皇紀とは、神武天皇即位年の西暦紀元前660年を皇紀元年とする数え方です。念のため)
いずれにせよ、伊勢神宮を参詣することは昔からたいへんなイベント。まさに「有り難い」ことだったでしょうね。
左の4基は1基が前に、残りが石垣上に3基並んでいます。石段右手の3基はいちばん右の石碑が少し見づらい位置。

さて、以下は石段左の4基。左から順に、皇紀2600年伊勢神宮参拝記念碑、伊勢太太神楽四国金刀比羅参拝記念碑、
伊勢神宮参拝記念碑、伊勢太太記念碑。多少言い方はちがっても、要は、ほとんど同じ内容ですね。
皇紀2600年記念碑は、石碑の裏面に昭和15年2月17日建立とありますから、まさに一致します。
ちなみに太平洋戦争で活躍した通称ゼロ戦(ゼロ式戦闘機)はこの年に採用されたから、その名が付いたとか。
伊勢講や伊勢太太記念等については、蛟蝄神社奥の宮「伊勢太々記念碑」参照。

以下は石段右の石碑。左から、伊勢講中記念碑、伊勢参拝記念碑、伊勢太太神楽参拝記念碑。
まるで同じ名前では芸がないという感じで、少しずつ名前を変えて造ったような・・・意気込みもすごいですね。

これは拝殿というか本殿の建物です。
しかし、本殿前は
瑞垣で囲われている上に
扉には施錠されています。
もしお参りするときは、石段の下か、
施錠された朱塗りの扉の前で
行うしかないようです。
したがって、建物はないのですが、
便宜上、このカットを
拝殿と呼ぶことにします。
説明が遅くなりましたが、
羽中の稲荷大明神の由緒は不詳。
祭神については、全国共通、
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。
お稲荷さんと言えばキツネ。そもそも狐がお稲荷さんの使い(眷属)とされているのはなぜでしょう。
いろいろな説があるようです。タヌポンは単純に1だと思いますが・・・。

正面の朱塗りの門扉にはしっかりと鍵がかかっています。
正月などには開くのではないかと思いますが、では、通常時にお参りするときに賽銭は・・・というと・・・。
右下にまるで傘立てのような箱がありました。文字がかすれていますが、奉納 賽銭箱と書かれているようです。

ところで、朱塗りと言えば、いままで訪れた稲荷神社はほとんどが鳥居など朱塗りのものが多かったような気がします。
これは、稲荷神社特有のことなのか、また、そもそも朱塗りにすることにはどんな意味があるのか。
では、ここで、またまたクイズです。以下の記述は○か×か、答えてください。
答えは、すべて○です。えっ、そうなの?
でも、稲荷神社は朱塗りが多いと思うのですがねえ。ちょっと利根町のものだけでも調べてみましょう。
ちなみに木材の防腐剤としての丹といっても、最近は金属製も多く、それにも朱塗りされていますからねえ。
利根町で見つかった稲荷神社は、境内社など石祠のみのものを含めて全部で16社。(2011年2月3日現在)
このうち、まったく石祠だけで比較検討できないものを除くと以下の13社となります。さあ、どうでしょう。
| 名称 | 朱塗り判定 | 朱塗りの部分 | 備考 | |
| 1 | 上曽根の稲荷大明神 | ○ | 鳥居・本殿ほぼすべて | 本社 |
| 2 | 下井の稲荷大明神 | △ | 神額・手水の文字のみ鮮やか | 本社 |
| 3 | 中田切の稲荷大明神 | × | 本殿建物の本来の色は? | 本社 |
| 4 | 羽中の稲荷大明神 | ○ | 本殿・瑞垣、全体の印象 | 本社・本コンテンツ |
| 5 | 福木の稲荷神社 | × | 眷属奉納の文字程度 | 本社 |
| 6 | 南野原の稲荷大明神 | ○ | 鳥居・本殿ともに朱色 | 金毘羅大権現を合祀 |
| 7 | 加納新田の稲荷大神 | ○ | 鳥居は目立つ朱色、本殿も | 本社 |
| 8 | 加納新田の稲荷大明神 | ○ | 鳥居は鮮やかな朱色 | 本社 |
| 9 | 根本寺の稲荷大明神 | ○ | 本殿は朱色、旧鳥居も赤 | 寺院と併設 |
| 10 | 利根町役場の稲荷神社 | ○ | 鳥居は鮮やかな朱色 | 本社 |
| 11 | 惣新田の稲荷神社 | × | 色あせて不明 | 祠のみ |
| 12 | 諏訪神社の稲荷神社 | ○ | 祠だけだが朱色 | 諏訪神社の境内社 |
| 13 | 花輪台南の稲荷明神 | △ | 祠の屋根が赤 | 稲荷神社と推測 |
どうです?黄色を半分の得点とすると、なんと70%の確率で、稲荷神社は朱色のイメージなんですね。
これは、ほかの神社の場合より、ぜったいに確率的には多いと思いますよ。なぜでしょうね。
→ むりやりに答えを考えてみました。
こんなところでしょうか。
また、反論。
では、2番目に多い八幡神社も朱色の印象が強いかどうか。あまりそんな感じはしないんですけど・・・。
利根町には八幡神社が少ないので判断材料にはなりませんが、調べてみると、すべて×です。
では、鳥居だけを取り上げてみて調べてみると、鳥居が朱色の神社は、利根町では、稲荷神社が6社も該当するのに、
ほかでは 加納新田の厳島神社 か、布川台の道祖神 くらいしかないですね。
やはり、稲荷神社と朱色は関係がある、と考えざるを得ないのですが・・・。

施錠された扉の外ですが、瑞垣の周り、つまり本殿の周りを一周することができるようです。
正面から本殿を撮ることは不可能なので、左右の瑞垣の隙間から撮りました。写真左が左側から、右は右側から。
本殿前には注連縄が張られています。当然、扉は閉じているのでなかはどうなっているのか分かりません。
本殿の土台など、主要な部分以外のところが最近、改築されたようです。木の色が新しいですね。
両サイドの彫刻も見事です。
本殿は、美しい流造り。
これは、石段下まで降りて、
境内右手にまわって見たところ。
石垣もきれいですね。
この石垣落成記念碑も
正面の石垣そのものに
設置されていました。
平成3年(1991)7月の落成です。
鳥居背後の公孫樹が神木かなと思いきや、右手の境内奥に行ってみると・・・。
ここにも大樹の公孫樹がありました。さて、神木はどちらなのでしょう?
この周囲にも、ほかに大樹が何本かあります。
もしかして、公孫樹以外の樹が神木、ということもあるのかも?
稲荷大明神の鳥居から右手を見ると、羽中集会所の建物が見えますが、その前には、様ざまな石塔類や祠が並んでいます。
羽中集会所の敷地にお稲荷様があるというより、稲荷大明神の境内に羽中集会所が間借りしているというイメージですね。
参道の道路からは稲荷大明神の鳥居が目に入ってくるのですが、
鳥居まで来て右手のほうを見ると、まず2基の石塔が見えます。
左が、庚申塔。右が道祖神。
以下、個別に見てみます。
まず、最初は道祖神の石祠。石祠の右側面には、文政6年(1823)2月建立とあります。

これは、庚申塔。風化が激しいようですが、道祖神より新しく、右側面には、明治20年(1887)4月とあります。

さて、上記の2基の次は、こんどは少し集会所のほうに向きを変えて、4基の石塔が並んでいます。
このなかの中央の2基は、風化が激しく、まったく文字が読めないので不明です。
以下、右から順に紹介します。
棕櫚の樹の葉に少し隠れてはいますが、かなり大きな石祠です。
町史に「石龕」という言葉があるので、
おそらくこれを指すものと思われます。
ちなみに石龕(せきがん)とは、
石窟・岩屋のことで、その中に仏像などを安置、
祀るための石の入れ物を言います。
山腹を利用した大きなものもあるようです。
扉が開いていますが、中にはなにもありません。
また右にも本来扉はあるものでしょうか、
あるとすれば、消失しているようです。
建立日や由来などは記されていないようなのですが、ひとつだけ上部の笠に卍模様が彫られています。(以下左)
また、左右の側面には、梅の花らしきものや植物の葉など、扉にも大きな梅の花のレリーフがあります。

左の写真の石祠は、
いずれも風化が進んでいるためか、
文字等がまったく見えません。
この並びで2基立っています。
風化が激しい上記石祠の左隣りにある石塔。「子供」の文字がすぐ目に入るので、誤解しそうですが、子供は関係ありません。
上は「田」に見えますが正しくは「甲」。子供の「供」は供養塔の「供」。つまり、甲子・供養塔、です。
甲子供養塔(かっし・くようとう)とは、日待講(ひまちこう)・子待講(ねまちこう)の一種で、
甲子(かっし)または子の日に、夜を通して精進供養をする行事のことです。甲子待ともいいます。
ちなみに、石塔の右側面に享和4年(1804)年2月とありますが、この年はまさに甲子(きのえね)の年にあたります。
この年は文化元年(1804)でもあり、その60年後の元治元年(1864)にも、
全国の各所で、甲子供養塔が建てられたと想定されます。

余談ですが・・・
甲子(かっし)と言えば、甲子夜話(かっしやわ)という文献を思い出します。
これは、江戸時代後期、肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号は静山)が、
見聞した大名・旗本などの逸話、市中の風俗などを記した随筆集。
書名の由来は、文政4年(1821)11月17日の甲子の夜に起稿したことによります。
なぜこの随筆のことを話すのかというと、単に甲子(かっし)のことだけでなく、
ここに タヌポンのメインサイト のテーマである「狸囃子」体験の話が記述されているからです。
その本が見たいと思っているのですが、実はなんと正続各100巻、後編78巻という代物。
数巻が文庫化されたようなのですが、どこのどの部分に記載されているのか、ということなど考えると・・・
途方に暮れている次第です。以上、ちょっと、脱線しました。
甲子供養塔の左には、民家へつながる石段が見えます。
その隣りには、青い屋根の祠を挟んで
様ざまな石塔類が一塊に置かれています。
こちら(入口)向きになっているものから、
判明できるものを中心に以下、紹介します。
左の3基ですが、いちばん左は、「みざる・いわざる・きかざる」の
いわゆる3猿が彫られていますので、庚申関連の塔と思われます。
文字が彫られているのが見えますが、内容はよく分かりません。
真ん中は、十六夜念仏の文字が見えます。
町史に、十六夜念仏塔・寛文5年(1665)とあります。
これがまさしくそれと思われます。
確かに、左のほうに寛文五の文字が見えます。
月日が経つとこれらの文字も読めなくなるでしょう。
いちばん右は、後ろ向きですね。後ほど説明。
後ろ向きの石塔の右にもいくつかあるのですが、
まともにそれらしい形のはこれ1基だけです。
しかし、それも上部が欠落しています。
庚申塔関連のものと思われます。
ほかは、石塊としか言いようがありませんね。
立ててよく洗ってみれば
なにか分かるかもしれませんが・・・。
では、3猿の塔へ戻り、裏側に回ってみましょう。
これは、釈迦像、なんでしょうね。
釈迦如来像というのが正しいのでしょうか。
さらに難しくいえば 、釈迦牟尼仏。
3猿から左に回りこむ前、
ヤツデの葉に隠れて鎮座されています。
釈迦像を除き、こちら向きの石塔を加えれば、
全部で8基が、さらに見つかります。
お釈迦様の左には、下部が地面に少し埋まった庚申塔。右側面を見れば、万延元年(1860)12月の文字。

左は青面金剛王。庚申関連の塔ですね。
右は、右手に錫杖(しゃくじょう)を持っているので、
お地蔵様のようです。
左手には宝珠のかわりに赤子を抱いています。
子育て地蔵ではないでしようか。
天明8年(1788)正月の建立。
さきほどの後ろ向きに見えた石塔。
馬頭観世音と記されています。
文化12年(1815)正月建立。
馬頭観音については、再編成して独立ページとした、
「羽中の観音堂」で説明しました。
→ 羽中の観音堂「馬頭観世音」
観音菩薩の変化身の1つであり、
六観音の一尊にも数えられています。
観音としては珍しい忿怒の姿が特徴です。
この4基のうち、文字が読めるのは、
右から2番目の石塔だけ。
奉待十九夜と、講中三十■の、
文字だけ分かります。
ほかの3基も供養塔関連、
仏塔関係と思われます。
以下の石祠は、上記の8基とは別で、後で説明する四群大師のお堂の左で見つけたものです。
ただ1基だけ、この場所におかれているのには
何かとくべつな意味があるのでしょうか。
当初のコンテンツでは、「風化して文字等が見えませんね」
などと記述していました。
でも、いま再編成するに当たって写真を拡大して見てみると、
辛うじて「馬頭観世音」の文字が読み取れました。
おもしろいことに、写真は、2005年の4月と9月に
同じものを撮っているのですが、
9月のものではもう文字が読み取れないのです。
カメラのちがいもあるかも知れないのですが、この5ヵ月程度で風化が進んだためと考えれば、4月の写真は貴重です。
では、最近の写真はどうかというと、2011年に訪れたとき、なんとこの1基だけ、見逃して撮りそこなってしまったのです。
また、いつか機会があればもういちど、現物をしっかりと見てみようと思っています。
ところで、馬頭観世音については、さきほどの一連の石塔群にも別の1基がありましたが、同様に詳細は以下を。
→ 羽中の観音堂「馬頭観世音」
ちなみに、利根町史には、十六夜念仏塔ほか石塔、石龕、記念碑等22基、とあります。
以前のコンテンツではぴったり数が合うと記しましたが、不明の石塊等を合わせるとどうでしょうか。
でも、伊勢関連記念碑7+入口右手2基+中ほど4基(石龕1基含)+大師堂手前に3基+8基+大師堂左1基=25基。
あれれっ、やはり少し多くなりますね。これに石塊等3つほど加わりますから・・・。まあ、参考まで。
珍しい2つの番号札がついた大師堂です。
どこかの区画整理かなにかで合祀されたのでしょうか。
ほかにもこのような所があったような気がします。
→ 押付新田不動院の大師
堂が並んで1ヵ所に建っているところも何ヵ所かありました。
→ 押付本田(布川)の水神宮の大師
→ 諏訪神社の大師
→ 下柳宿の大師
→ 大房集会所の大師

中をのぞいてびっくり。
なんと5体の大師像(?)が。
これは壮観ですね。
みんなそれぞれ
個性のある顔をしています。
右から2番目のお坊さんは、
今風に言えばイケ面ですね。
でもやっぱり好みはいちばん左かな。
あれれっ?そんなことよりも・・・。
ちょっと不思議なことが・・・。
なかで、番号が記された札が置かれた大師像がいますね。いちばん右の8番と、左から2番目の69番はいいとして・・・。
いちばん左の大師像の台座にしるされた89番とは?
四国88ヵ所巡りになぞらえたものですから、本来は88番までしかないところですが、この意味は?

(11/02/09 再編成) (06/05/09) (撮影05/04/23・05/09/10・11/02/05)