更新経過
2013年以降、石造物データ構築のため、各所を再調査し、
それぞれのコンテンツを順次見直ししていくことにしました。
この羽中の稲荷大明神はなぜか最後のほうになり、やっといま。
石仏の掘り起こし作業をしなければならないことが潜在的に念頭にあって、
ずるずると引き伸ばしていたのかも知れません(笑)。
でも、苦労した甲斐もあり、新しい発見が多々ありました。(16/07/28)
当初のコンテンツ作成から5年の月日を経過し、
内容を大幅に見直し、このたび2つのコンテンツに分離させました。
そのひとつが、この「羽中の稲荷大明神」です。
観音堂については、あらたに「羽中の観音堂」として独立させました。(11/02/09)
布川から取手東線を東に向かい利根ニュータウンを抜けて羽中の交差点を右折する道。
それは最初は 利根七福神 の寿老人が置かれた 応順寺 を訪ねるために通りました。
しかし、その同じ道の途中に2ヵ所、少し左(北)に脇道を入ると見所があることを知ったのは
応順寺を訪れてから半年以上も後のことでした。
その見所ポイントとは、稲荷大明神・羽中集会所があるところと観音堂などがある一角です。(06/05/09)
取手東線からの右折道路途中にある脇道。
応順寺に近いほうの脇道にあるのが稲荷大明神。
この脇道自体が稲荷大明神への参道になるような感じです。
向こうに鳥居が小さく見えます。
また、民家の屋根の高さまで伸びた幟立のポールが2本、
鳥居の両脇に立っているのが目印になります。
東日本大震災後に新しくなった鳥居。
左右の柱表面に「奉納」、
左柱裏面に「村内安全」、右柱裏面は
「平成二十四年十二月吉日」。
平成24年(2012)12月の造立です。
震災で倒壊したのかは不明ですが、
新築されたのは震災後まもない時期。
ちょっと不可解というか、面白いのは、
現代なのに「村内」安全という文言。
こういうものは、古式ゆかしく?
本体: 高394cm、幅400cm、厚66cm。(柱直径30cm)
△ 鳥居の新築は、後述の平成25年12月「羽中稲荷神社改修工事、石鳥居、水盤舎新築工事」の一環として行われました。
参考旧鳥居
▼ 以下は震災直前の鳥居 (11/02/05 撮影)。よく見ると約1.5m背後に新鳥居の位置を示す四角の印が見えます。
ということは、地震とは無関係で、鳥居の改築が計画されていたのかも知れません。左の貫の先端が欠損していますし。
旧鳥居は、明神鳥居系の台輪鳥居でしたが、現在は台輪のない明神鳥居です。
▼ 柱の裏には「明治十四年苐十二月」、明治14年(1881)12月の造立ですが、苐=第にしても、どういう意味でしょう。
第は弟の異体字で、弟月(おとうづき)という表現は陰暦12月を意味するのですが、すでに12月は記され重複します。
ということは、第=大、すなわち大の月という単純な意味なのでしょうか。こういう表記はべつの個所でも見ました。
▼ また、旧鳥居の額塚裏面には、昭和57年(1982)2月改修とあります。額塚や神額だけの改修なのか、鳥居全体なのか。
それはともかく、今回の震災後の時期の新築は、明治14年もしくは昭和57年以来のものということです。
神額も新しくなりました。右は旧神額。こちらのほうが格調がある書体に見えます。
が、新しい鳥居には、やはり新しい神額がぴったりでしょうか。
実を言うと、写真にあるものが、「注連縄」と呼んでいいものなのか分かりません。
でも、いちおう鳥居に取り付けられているものですから
一種の珍しい形の注連縄なのだろうと思います。
ところで、この稲荷大明神には、初めて訪れたのが2005年の4月、
その後同じ年の9月と、2回ほど訪れ、コンテンツを作成したのですが、
写真を見比べていて後で気付いたことがありました。
それは、この「注連縄」ですが、9月時にはありません。
わずか半年ですから、老朽化してはずされたという風には見えません。
つまり、これは4月時前後が、なんらかの特別な時期だったのではないか、
と想像したのですが・・・。
調べてみると、稲荷大明神の祭礼は例年12月15日(初午)の時期。
ということで、「注連縄」の謎はそのままになっていました。
それから、約5年半経った2011年2月初めに訪れたとき、
左写真のように、まだ取り付けられていない「注連縄」が
鳥居の柱元に置かれているのを発見しました。
まもなく取り付けられようとしている感じです。
ということは、以前に見た4月のものは
すでに1月頃から存在していたものと考えられます。
それなら、正月時に奉納されることが通例となっていて、
夏を経過した9月頃には劣化して取り外される、
ということになるのかも知れません。
上記「注連縄」について、野田市の歴史・石仏研究家の石田年子氏より、
以下の指摘がありましたので紹介します。
「祝樽」と呼ばれる注連縄(?)のようです。これはたぶん、岩井市や境町にはないですから茨城県南部特有のものだとおもいます。かすみがうら市でもつくばみらい市でも見ましたが、利根川を挟んだ千葉県には全くありません。
「いわいだる」と呼べばいいのでしょうか。
注連縄に?があるのは、祝樽という名称が不確かなのではなく、
祝樽が注連縄の範疇に入るかどうかが不明ということのようです。
それにしても、茨城にあり、千葉には見つからないというのも不思議です。
なお、石田氏より、かすみがうら市の神社の祝樽写真添付で追伸。
茨城県南部特有の注連飾りで、つくばみらい市やかすみがうら市の神社で多く見かけました。茨城西部(坂東市)などにはありません。
とはいうものの、わが利根町は茨城南部ではありますが、
祝樽の注連飾りは、ここ羽中の稲荷だけでしか見たことはありません。
→ 上記、記憶違い。横須賀の二宮神社でも見つけました(二宮神社 注連縄と祝樽)
▼ さて、鳥居から少し奥の石垣上の拝殿・本殿までの間に様々な施設が見えますが、それは後にして、拝殿・本殿直前へ。
稲荷大明神の由緒等の概要をまずは紹介しましょう。
これは拝殿というか本殿の建物です。
しかし、本殿前は
瑞垣で囲われている上に
扉には施錠されています。
もしお参りするときは、石段の下か、
施錠された朱塗りの扉の前で
行うしかないようです。
したがって、建物はないのですが、
石垣・石段・瑞垣の門などを含めて、
便宜上、このカットを
拝殿と呼ぶことにします。
説明が遅くなりましたが、
羽中の稲荷大明神の由緒は不詳。
祭神については、全国共通、
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。
▼ 石段をあがると、稲荷神社にはつきものの眷属、キツネの阿吽像がならんでいます。右が通常、阿像。
お稲荷さんと言えばキツネ。そもそも狐がお稲荷さんの使い(眷属)とされているのはなぜでしょう。
いろいろな説があるようです。タヌポンは単純に1だと思いますが・・・。
台石正面に右阿像と左吽像で「奉納」。内側側面に「願主世話人 氏子中 清水与兵エ 若泉宇兵エ 片岡長左エ門」
裏面に「明治七年二月」で、明治7年(1874)2月の造立。願主世話人・造立年等は阿像・吽像共通の内容。
なお、この地区の石造物に彫られた「片岡」氏の「片」は、左のような異体字が各所で使用されています。
阿像本体: 高44cm、幅33cm、厚17cm。台石: 高29cm、幅34cm、厚27cm。
吽像本体: 高44cm、幅32cm、厚15cm。台石: 高27cm、幅34cm、厚26cm。
拝殿扉は施錠されており、外ですが、瑞垣の周り、つまり本殿の周りを一周することができるようです。
正面から本殿を撮ることは不可能なので、左右の瑞垣の隙間から撮りました。写真左が左側から、右は右側から。
本殿前には注連縄が張られています。当然、扉は閉じているのでなかはどうなっているのか分かりません。
本殿の土台など、主要な部分以外のところが最近(11/02/05 撮影)、改築されたようです。木の色が新しいですね。
両サイドの彫刻も見事です。
本殿は、美しい流造り。
これは、石段下まで降りて、
境内右手にまわって見たところ。
石垣もきれいですね。
鋳稲荷神社石垣落成記念
奉納 鋳氏子一同
石奉納者 利根工業 小倉 清
区 長 若泉 忠三
役 員 片岡 和男
〃 若泉 進
〃 中山 栄蔵
〃 小貫 政一
〃 斉藤 一郎
納税組合長 中山 明
役 員 古田 吉夫
〃 小貫 松男
〃 小倉 理作
〃 佐藤 一男
〃 浅野 利良
石 工 渡辺 吉男
平成三年七月吉日
正面の朱塗りの門扉にはしっかりと鍵がかかっています。(2016年7月現在、朱は色あせてしまっています)
正月などには開くのではないかと思いますが、では、通常時にお参りするときに賽銭は・・・というと・・・。
右下にまるで傘立てのような箱がありました。文字がかすれていますが、奉納 賽銭箱と書かれているようです。
ところで、朱塗りと言えば、いままで訪れた稲荷神社はほとんどが鳥居など朱塗りのものが多かったような気がします。
これは、稲荷神社特有のことなのか、また、そもそも朱塗りにすることにはどんな意味があるのか。
では、ここで、またまたクイズです。以下の記述は○か×か、答えてください。
答えは、すべて○です。えっ、そうなの?
でも、稲荷神社は朱塗りが多いと思うのですがねえ。ちょっと利根町のものだけでも調べてみましょう。
ちなみに木材の防腐剤としての丹といっても、最近は金属製も多く、それにも朱塗りされていますからねえ。
利根町で見つかった稲荷神社は、境内社など石祠のみのものを含めて全部で20社。(2016年7月26日現在)
このうち、まったく石祠だけで比較検討できないものを除くと以下の13社となります。さあ、どうでしょう。
名称 | 朱塗り判定 | 朱塗りの部分 | 備考 | |
1 | 上曽根の稲荷大明神 | ○ | 鳥居・本殿ほぼすべて | 本社 |
2 | 下井の稲荷大明神 | △ | 神額・手水の文字のみ鮮やか | 本社 |
3 | 中田切の稲荷大明神 | × | 本殿建物の本来の色は? | 本社 |
4 | 羽中の稲荷大明神 | ○ | 本殿・瑞垣、全体の印象 | 本社・本コンテンツ |
5 | 福木の稲荷神社 | × | 眷属奉納の文字程度 | 本社 |
6 | 南野原の稲荷大明神 | ○ | 鳥居・本殿ともに朱色 | 金毘羅大権現を合祀 |
7 | 加納新田の稲荷大神 | ○ | 鳥居は目立つ朱色、本殿も | 本社 |
8 | 加納新田の稲荷大明神 | ○ | 鳥居は鮮やかな朱色 | 本社 |
9 | 根本寺の稲荷大明神 | ○ | 本殿は朱色、旧鳥居も赤 | 寺院と併設 |
10 | 利根町役場の稲荷神社 | ○ | 鳥居は鮮やかな朱色 | 本社 |
11 | 惣新田の稲荷神社 | × | 色あせて不明 | 祠のみ |
12 | 諏訪神社の稲荷神社 | ○ | 祠だけだが朱色 | 諏訪神社の境内社 |
13 | 花輪台南の稲荷明神 | △ | 祠の屋根が赤 | 稲荷神社と推測 |
どうです?黄色を半分の得点とすると、なんと70%の確率で、稲荷神社は朱色のイメージなんですね。
これは、ほかの神社の場合より、ぜったいに確率的には多いと思いますよ。なぜでしょうね。
→ むりやりに答えを考えてみました。
こんなところでしょうか。
また、反論。
では、2番目に多い八幡神社も朱色の印象が強いかどうか。あまりそんな感じはしないんですけど・・・。
利根町には八幡神社が少ないので判断材料にはなりませんが、調べてみると、すべて×です。
では、鳥居だけを取り上げてみて調べてみると、鳥居が朱色の神社は、利根町では、稲荷神社が6社も該当するのに、
ほかでは 加納新田の厳島神社 か、布川台の道祖神 くらいしかないですね。
やはり、稲荷神社と朱色は関係がある、と考えざるを得ないのですが・・・。
→ 肝心な理由を忘れていました。稲荷神社の総本家、京都の伏見稲荷大社。参道に並ぶ約1万基の朱の鳥居が鮮やか。
HPのFAQの中で、なぜ稲荷は朱塗り?の質問に、「当社に限って云えば 稲荷大神様のお力の豊穣を表す色」とあります。
鳥居背後には拝殿までに、背の高い幟立のポールを初め、常夜燈、水銀灯、多くの石碑、手水など様々な施設があります。
拝殿・本殿までのこれらの施設をこの項目で紹介します。
鳥居が新築される前は、
下の写真のように、鳥居背後に、
空間がありましたが、
鳥居の位置がかなり下がったため、
幟立のポールも重なって見えます。
なお、右手建物は羽中の集会所です。
このさらに右手には、大師堂や、
各種仏塔類等が立ち並んでいますが、
これらは後半の項目で紹介します。
こんなに立派な幟立は、ほかには・・・。
そうそう、南野原の稲荷大明神 だけですね。いい勝負です。
あれっ、同じ稲荷大明神ですね。あれれっ、お隣りの中谷地区ですね。
さては、ライバルですか?(笑)
下右の写真で、平成12年(1999)12月建立が分かります。
まだ新しくてツルツル・ピカピカしてます。
いちど幟旗が立ったところを撮りたいなあ。
撮れているのは徳満寺地蔵祭りと早尾天神社だけだもんなあ。
幟立ての背後には一対の常夜燈。
下中央、「奉献」の文字は達筆。
火袋の彫刻もよくできています。
蛟蝄神社奥の宮の常夜燈 と遜色ない立派なものです。
本体: 高229cm、幅64cm、厚62cm。
左の燈、竿石の表面と裏面ですが、右の燈も同様。裏面は「文久二壬戌年二月吉日」、文久2年(1862)2月の造立。
左は台石の表面。「願主」として以下3名が刻銘。
左右の常夜燈で書き順は違いますが、同様の内容。
「古田作左エ門三男 布佐川岸 羽中屋作治郎」
「𠰥泉文左エ門三男 木下川岸 三門屋勇治郎」
「當村 岡田屋傳右エ門」
𠰥は若の異体字。
左写真は、左の常夜燈台石の右側面。
「世話人」として以下2名。
「佐藤源兵エ 𠰥泉権兵エ」
右の常夜燈台石の左側面もこれと同様です。
鳥居が新築されてまもなく手水舎が新しくなり、最後に水道完備の手水石も完成しました。現代式に左から右に「奉納」銘。
水盤に水を張るのは左のカランからホースなどでつなぐのでしょうか。でも、水盤中央になにか出っ張りが見えます。
メカオンチなのでその仕組みがよく分かりません。それに左の蛇口もいつもは開栓されていないので水はでません。
まあ、勝手に使われては困るのでしょうが、石仏調査の時に、水が出るとタヌポンは助かるのですが・・・。
本体: 高60cm、幅105cm、厚64cm。
手水舎の正面に石碑が建っています。「羽中稲荷神社改修工事、石鳥居、水盤舎新築工事 寄附御芳名」。とあります。
寄附金額を概算で足しあげると・・・500万円以上ですか。碑陰に「平成弐拾五年拾弐月吉日 氏子一同建之」。
平成25年(2013)12月の建立は、鳥居新築の1年後。この石碑完成で改修工事が完了というところです。
本体: 高107cm、幅152cm、厚16cm。
これは以前、上記の寄附芳名碑の位置にあったハズの古い手水。鳥居等の新築工事後に探しましたが見当りません。
表面は「奉納御寶前」、左側面には「享和二壬戌年 十一月吉日 當村上組 女人講中」とあります。
享和2年(1802)11月の造立。「こういう年代ものは、実際の用途には向かないのでは?」とここに記したため廃棄された?
いや、もしそうだとするとちょっと残念。まあ、ここに記録は残しておきたいと思います。
下の建立碑を見ると、平成18年(2006)3月とあります。
当初、こちらに来たとき(2005年)に撮った写真には写っていないのも道理です。
故人の遺志ということですが、この一角を愛された方々だったのでしょうね。
当初、朱色だったのが鳥居等改修時にシルバーに塗り替えられたようです。
ちょっと、お勉強ですが、なぜ街灯など水銀灯が用いられるか、ですが・・・。
放電管としては構造が比較的単純で、起動も容易なうえ、中庸な効率を持つため、特に大型(2kWまで)のものが廉価に製造できる。近年では水銀灯同様の構造を持ち、演色性や効率のより高いメタルハライドランプ、高圧ナトリウムランプに置き換えられつつある。(Wikipedia)
石碑本体: 高68cm、幅45cm、厚5cm。
拝殿へ上がる石段の左右に立ち並んでいる伊勢神宮参拝記念関連の石碑。左に4基、右に3基あります。
蛟蝄神社奥の宮 などにもありましたが、こんなに多くのお伊勢参りの石碑があるのは羽中の稲荷大明神だけです。
▼ 伊勢講碑とは、伊勢講の講員が全員代参を完了したときなどを記念して造立した碑。
室町時代では伊勢神宮は、全国に御師(おし)と呼ばれる祈祷師を派遣して伊勢信仰を広めました。
江戸時代になると伊勢信仰は全国に広まり、庶民のお伊勢参りも増えてきましたが、
単独で伊勢参宮に行くのは費用負担が大きいため伊勢講で講金として積み立て、
交替で伊勢参宮を行なう代参講的な形に変化していきます。
代参者は伊勢神宮の内宮・外宮に詣で、講員の数だけ神札を受けて帰村し全員に配布しました。(『日本石仏事典』より)
左の4基は1基が前に、残りが石垣上に3基並んでいます。石段右手はいちばん右の石碑が樹木が覆い少し見づらい位置。
左は、以前は公孫樹の巨木がありましたが、ここ数年で枯死したのか、切株だけが残っています。
では、手前の石碑から奥左から右へと、以下、順に見ていきます。
表面「皇紀二千六百年伊勢神宮參拜記念」。碑陰上「昭和十五年二月十七日建之」で昭和15年(1940)2月17日造立。
皇紀とは、神武天皇即位年の西暦紀元前660年を皇紀元年とする数え方で、 皇紀2600年は、2600−660=1940年で合致。
碑陰下部に講員10名。
古田政雄 若泉なか 若泉市藏 若泉ちか
中山わか 清水コ藏 片岡こう 佐藤仁助
佐藤なか 宮本つぎ
本体: 高139cm、幅51cm、厚9cm。
▲ ちなみに太平洋戦争で活躍した通称ゼロ戦(ゼロ式戦闘機)はこの年(2600)に採用されたから、その名が付いたとか。
表面中央に「伊勢太々神樂四國金刀比羅参拜記念」、その右に「昭和四十一年二月廿日」。
碑陰の末尾に「昭和四十一年四月建之」とありますので、参拝が昭和41年(1966)2月、石碑造立が4月と思われます。
四国金毘羅詣でも兼ねた参拝で、
利根町役場厚生課を巻き込んで、
福木・惣新田・加納の地域も含めた規模に。
厚生課 加納 羽入 孝照
鈴木美喜雄 森田 千代 若泉 清
利根町連合会長 山本 とき 若泉 忠三
海老原文雄 中村 あさ 小倉 重郎
世話人 羽中 櫻井 こう 若泉 好夫
中山 明 坂本 一郎 清水 武
中山 敬 福木 下田 茂
福木 牧野 国夫 片岡三千男
斉藤 政雄 大古貞之助 佐藤 儀作
惣新田 藤代 きん 佐藤 敏雄
大越 富惟 羽中 斉藤 勲
本体: 高118cm、幅46cm、厚10cm。
表面は「伊勢神宮參拝記念」。この講の特色は、「講元 中川茂三郎」と男性ですが、
講の構成員は、8名で、すべて女性名が彫られていることです。(↓参照)
碑陰にはほかに「昭和三十二年二月六日」、昭和32年(1957)2月6日造立。
「布佐 石工 大塚兼吉」とあります。
本体: 高92cm、幅46cm、厚9cm。
大山しん
古田はる
仝 たけ
中川りえ
若泉きく
仝 てる
中山ちよ
清水なを
表面は「伊勢太々紀年碑」。明治の頃までは記念ではなく紀念と記すようです。
碑陰下部に以下。大正9年(1920)11月造立
講 羽中 石塚 琴治
元 片岡長三郎 斉藤元之助
古田 清助 勝田 米吉
仝 作次郎 下井
仝 いね 宮本卯三郎
若泉 宇一 星野武之助
仝 伴次郎 羽子野
仝 豊吉 久保田太之助
片岡 長作 仝 せい
福木
野口 寅吉 大正九年十一月建之
講元は、当地区の羽中ですが、隣村の福木、下井や羽子野(羽根野)からも参画。
表面は「伊勢講中紀年碑」。碑陰上部に「明治三十一年二月建之」とあり、明治31年(1898)2月の造立。
「太々連名」として14人が刻まれています。
古田 猪之松
古田 炙 郎
古田 作次郎
中川 平 吉
𠰥泉 宇之助
𠰥泉 要 助
𠰥泉 清 作
小貫 寅之助
𠰥泉市左エ門
清水 吉 藏
片岡 長之助
片岡 こ よ
布佐町 古田作次郎
発起人 古田作右エ門
2名の古田作次郎は同姓同名でしょうか。
本体: 高108cm、幅96cm、厚26cm。
表面は「伊勢參拝記念碑」。参拝は大正15年(1926)2月24日ですが、石碑造立はその1年後で改元もあって昭和2年。
大正十五年二月二十四日參拝
講 片岡 利男 古田 光治
古田 政雄 中川 新平
若泉 文雄 中山 清一
佐藤 仁助 斉藤善一郎
宮本 茂八 野口 喜市
貟 石田健之助 片岡 周作
福田 セキ
講 古田作次郎 片岡 長作
元 昭和二年二月建之
表面中央に「伊勢太々神樂参拜記念」。右に「羽中納税組合」、左に「利根町長 山田正雄書」とあります。
昭和38年(1963)2月21日に参拝し、同年4月に造立した石碑。32人中、女性の組合員が17人と半数以上もいます。
昭和三十八年十二月二十一日参拜
第一組合 若泉ふみね 第二組合
羽入その 若泉 榮吉 羽入 みつ
片岡みつ 下田 茂一 佐藤 千代
羽入延次 片岡 梅子 佐藤 祐
羽入こう 金子千代子
佐藤なつ 齊藤 たけ 税務課長
古田 忠 片岡 清 上ソネ 豊島鶴治
中川やす 坂上 了善 納税組合長
若泉はる 浅野 りん 清水 秀
若泉菊江 金子 まさ 役員
若泉 茂 橋 たか 羽入資太郎
中村てい 佐藤竹次郎 若泉 米吉
中山喜重 若泉 文雄
昭和三十八年四月建之
本体: 高115cm、幅54cm、厚9cm。
さて、ほかに稲荷大明神の境内に存在するものとして、以下、力石と公孫樹の巨木について紹介します。
鳥居の左の柱のそばに以前から1基だけ、置かれています。
とくに銘文はありませんが、力石と呼べそうです。
本体: 高27cm、幅71cm、厚43cm。
下の写真は、本殿横の空き地にあるもの。
石垣そばに1基、さらに右手の切株を取り囲むように数基。
ただし、これらは力石・さし石と呼ぶにはちょっと小さい感じです。
左は、拝殿前左、右は空き地奥の公孫樹。
1本立ちの公孫樹として利根町で6位に
ランクするのは、どちらなのでしょう。
利根タブノキ会の調査では、
幹周306cmと記されています。
しかし、実は、左の拝殿前の公孫樹は
2016年現在、もう存在していないのです。
左は2005年時の写真。
現在は、以下↓のようになっています。
平成24〜25年の改修工事等で、実は、この公孫樹が伐られ、
本殿や手水舎等の木材として利用されたと聞きました。
近年、蛟蝄神社の記念事業も行われていますが、
その建材も背後の樹木を利用しています。
神社の建物は境内の樹木で、というのが、
理にかなった方法で長持ちするのだそうです。
巨木はちょっともったいない気もしますが、
そういうことなら役割りを果たしたということでしょう。
稲荷大明神の鳥居から右手を見ると、羽中集会所の建物が見えますが、その前には、様ざまな石塔類や祠が並んでいます。
利根町には各区域に集会場があり、それらは元は徳満寺の末寺で廃寺となったものというケースを多く見かけます。
そのためか、寺にあった石仏がそのまま集会場の敷地に残っている、ということもしばしばなのですが、
羽中集会場に関しては、とくに前身はないようです。では、数多くの石塔類は元々はどこにあったものなのでしょうか。
左が、集会場から見た石塔群の様子。
右手が神社境内への入口になります。
左手に見える堂は、四郡大師堂、
その左にも1基、石塔が見えます。
入口付近に2基、少し入って4基、
中央付近に数多くの石塔が、
前後で集まっています。
これらの中には古くは寛文時代の
貴重な石仏もあります。
これらは、南の 応順寺 にあったもの
とも言われますが、すべてがそうかは
不明です。
以下、入口から順に見ていきます。
稲荷大明神の鳥居に向かって参道を進み、右手のほうを見ると、まず2基の石塔が参道に面して立っています。
そこから右手、直角に曲がると4基の石塔が並んで立っています。一見すると神道系の石祠のようにも見えます。
このあたりは、集会場の敷地というべきか、稲荷神社の境内なのか、微妙ですが、境内社的な石祠もあるのかどうか。
入口に近いところから順に、奥へと紹介します。
まず1基目は「道祖神」の石祠。右側面には、「女人講中」、左側面には「文政六癸未年 二月吉日」。
文政6年(1823)2月の造立です。本体: 高47cm、幅37cm、厚29cm。
「庚申塔」の文字塔。
左側面には、「明治二十年四月廿五日」、
明治20年(1887)4月25日の造立です。
本体: 高62cm、幅27cm、厚18cm。
上記の2基の次は、集会所のほうに直角に向きを変えて、4基の石塔が並んでいます。
かなり石塔としては大きいサイズのものばかりなので、詳細が分かれば、と期待したのですが、判明したのは最後の1基のみ。
銘文がほとんどなく、不明のものばかりで、残念です。以下、右から。
『利根町史』に「石龕」とあり、これを示すものと思われます。ちなみに石龕(せきがん)とは、石窟・岩屋のことで、
その中に仏像などを安置、祀るための石の入れ物を言います。山腹を利用した大きなものもあるようです。
神道系石祠のように見えたのですが、
笠の上部に卍模様が彫られています。
扉が開いていますが中には何もありません。
また右にも本来扉はあったようですが、
実は、盗難にあったとか。なぜそんなことを?
左扉内側に「鋳村講中」とあり、
これが唯一の目に見える銘文です。
造立年や由来などは不明ですが、
左右の側面には、梅の花らしきものや
植物の葉などのほか、扉にも
大きな梅の花のレリーフがあります。
大きく、手の込んだ造りで、
銘文が見えないのが残念です。
以前は、この塔のすぐ右に、
棕梠の樹がありましたが、
伐採されてすっきりしました。
本体: 高109cm、幅64cm、厚71cm。
台石: 高20cm、幅64cm、厚75cm。
石龕のすぐ左の石祠。
これは、おそらく神道系と思いますが、石祠内部には銘文が見えません。
道祖神の可能性が高いですが、なんとも断定できません。
台石には、右側面に、「世話人」として、以下4人の名が刻まれています。
喜左エ門
能右エ門
孫右エ門
作兵衛
左側面には「文久二戌年 十一月吉日」で、
文久2年(1862)11月の造立だけ分かります。
本体: 高94cm、幅56cm、厚54cm。
台石: 高20cm、幅52cm、厚49cm。
これも神道系に見えますが、
どうしても銘文が見えません。
唯一、左側面に、
「文化十三丙子年三月吉日」、すなわち、
文化13年(1816)3月造立は分かりますが、
そもそも何の石祠であるか不明では・・・。
本体: 高87cm、幅37cm、厚37cm。
4基目の石塔。一見して「子供」の文字がすぐ目に入るので、誤解しそうですが、子供はまったく関係ありません。
また、こうした石塔・石仏の銘文で、「子供」という熟語がその意味で刻まれることはないでしょう。
これは、「甲子供養塔」で、上は「田」に見えますが正しくは「甲」。次は「子」で干支。つまり、甲子・供養塔、です。
甲子供養塔(かっし・くようとう)とは、日待講(ひまちこう)・子待講(ねまちこう)の一種で、
甲子(かっし・こうし)または子の日に、夜を通して精進供養をする行事のことです。甲子待ともいいます。
左側面に「享和四甲子年二月吉日」とあり、
享和4年(1804)年2月造立ですが、
この年はまさに甲子(きのえね)の年。
ただし、2月11日に改元され、
この年は文化元年(1804)となります。
その60年後の元治元年(1864)にも、
各所で甲子供養塔が建てられたでしょう。
台石最下部に「講中十二人」とあります。
本 体: 高82cm、幅32cm、厚21cm。
台石上: 高13cm、幅45cm、厚36cm。
台石下: 高26cm、幅60cm、厚46cm。
余談ですが・・・甲子(かっし)と言えば、『甲子夜話』(かっしやわ)という文献を思い出します。
これは、江戸時代後期、肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号は静山)が、
見聞した大名・旗本などの逸話、市中の風俗などを記した随筆集。
書名の由来は、文政4年(1821)11月17日の甲子の夜に起稿したことによります。
なぜこの随筆のことを話すのかというと、単に甲子(かっし)のことだけでなく、
ここに タヌポンのメインサイト のテーマである「狸囃子」体験の話が記述されているからです。
その本が見たいと思っているのですが、実はなんと正続各100巻、後編78巻という代物。
数巻が文庫化されたようなのですが、どこのどの部分に「狸囃子」が記載されているのか、ということなど考えると・・・
途方に暮れている次第です。以上、ちょっと、脱線しました。
前列の石塔群[入口(西)向き]
甲子供養塔の左には、民家へつながる石段が見えます。
その隣りに、大師堂を挟んで数多くの石塔類が置かれています。
なお、これらは、土中に埋もれているものが多く、
地上に出ている部分だけでは内容が分かりにくいものは、
何基か掘り起こして調査しました。
したがって、掲載写真は、掘り起し前と後のものが、
混在していますのでご注意ください。
便宜上、こちら(入口・西)向きになっているものを前列、
その裏側、東向きの石塔を後列と呼ぶことにします。
前列右から、判明できるものを中心に以下、紹介します。
左は掘り起し前の写真です。
紹介するのは前列と記した5基。
1基目と2基目が掘り起こしたもの。
1基目は、向こう向きでしたが、
掘り起こすと高さが1.5倍となり、
こちら向きにして立て直しました。
2基目は、実は中央で
切断されたものと判明。
1基として紹介します。
5基目は北向きですが、便宜上、
前列として紹介します。
写真左は掘り起し前、東向きの時のもの。
左右写真を比べるとかなり地中に
沈んでいたことがわかると思います。
光背右に「奉供養十九夜念佛」
下に「二世安楽也」。
光背左に「寛文十一亥□ 十月十九日」、
寛文11年(1671)10月19日の造立。
その下に「羽中村同行」が見えます。
半跏思惟の如意輪観音が刻像された、
典型的な十九夜塔です。
本体: 高80cm、幅35cm、厚15cm。
左が一見、2基の石仏に見える当初の様子。
左の方は「十九」が見えるので、
十九夜塔の文字塔と思いましたが、
右は銘文が見えないので、
如意輪観音塔ではあるけれど、
詳細は不明でした。
そのまま2基として、掲載しようとしましたが、
左の塔の下部が気になります。
発端は、左の塔を10cmほど掘り下げて、
出っ張りにぶつかったのが判明の起因。
下のほうに何か像容がありそうです。
左を下部まで掘り起こし、
傾いて一部土に埋もれた右と見比べると・・・。
これらは観音像の頭部のところで切断され、
上下に分断された元々は1基の塔でした。
このことは以下の左側面で、
さらに如実に分かります。
表面はシンプルに「十九夜」。
刻像されているのは、定番の、
半跏思惟型の如意輪観音像です。
左右を1基としてサイズを計測したのが以下。
本体: 高89cm、幅30cm、厚24cm。
以下は、左から、塔の右側面上部、同下部、そして左側面。分断された上下の塔を並べて撮影しました。
右側面は、細かく世話人もしくは講中の名前が刻まれているようですが、欠損もあり多くが不明、詳細は割愛します。
明快なのは左側面。「天保六未年霜月吉日」が「霜」の字の冠と旁でジクゾーパズルのように合致します。
すなわち、天保6年(1835)霜月は11月の造立。汗かきながら掘り起こした甲斐がありました。
▲ 埋もれた塔の掘り起しは、タヌポンには有益な作業でしたが、問題は掘り返して「不安定になった」石仏の固定です。
この近所の子供たちが固定化されていない石仏に乗ったりして遊び怪我をする可能性があります。
いったん掘り起こした石仏ですが、詳細を確認・撮影したあとは、やはり倒壊等のないようにしなければなりません。
若干の対応はしましたが、もういちど穴を掘って埋め込む、というようなことも必要になるかもしれません。頭の痛いところです。
町の文化財保護の観点から、石仏の固定・整備費等が捻出できればいいのですが・・・。
光背右に「奉供養十六夜念佛爲二世安樂也」とあり、
地蔵菩薩が主尊として刻像された十六夜塔です。
利根町では如意輪観音が多いので珍しく見えます。
左には「于時寛文五乙巳年 十月廿四日」、
寛文5年(1665)10月24日とかなり古い造立。
右の最下部の「鋳村」は、
左の最下部「同行三十一人」に続く文言と思われます。
なお、この塔のすぐ右にも大きな石塔が見えますが、
これは向こう向きの馬頭観音塔で、「後列」にて紹介します。
本体: 高105cm、幅45cm、厚22cm。
上部に三猿が刻像されていますので、庚申塔であることは間違いないところ。
問題は、下の写真のように、塔の最上部と中央下の銘文。
最上部には、庚申塔の本尊である青面金剛をあらわす種子ウンが、
刻まれているようなのですが、もう1.2文字下に見えます。
「庚申」とあるようにも見えますが・・・。
塔の中央下には、5行で文字が数多く刻まれています。
この1行目が断片的にしか文字が読めず、意味も分かりません。
2行目からは、以下。
此三界皆是我有其中衆生悉之吾子
寛文八天申十一月廿五日 同行廿一人鋳村
2〜3行は、法華経の妙法蓮華経譬喩品(ひゆほん)第三の一部で、読み下しは、
「此の三界は皆、これ、我が有なり。その中の衆生は悉く、これ、吾が子なり」。
庚申信仰は仏教ではなく道教が基本で、法華経の偈とは違和感がありますが、
神仏習合と同様のものでしょう。
寛文8年(1668)11月25日とこれも古い造立です。本体: 高78cm、幅33cm、厚13cm。
▼ 入口(西)向きの塔は上記までですが、後列に移る前に、コーナーで集会場向きに立っている像も紹介しておきます。
座禅のときのような禅定印という印相の如来坐像。
王冠を付けていますので大日如来塔です。
こうした丸彫りの塔は、銘文がどこにも記されていないので、
造立年等が不明です。
この塔だけ、簡易的な支柱に青く塗った屋根が付けられています。
隣りの後列の石塔調査のとき、邪魔になりましたけどね。(笑)
トタン板の釘も一部、取れていて、台風時などいまにも吹き飛びそうではありました。
寛永期(1624―1644)から筑波山周辺では湯殿山信仰が大いに流布され、この手の大日如来が大量に造立されています。ちなみに十九夜待も時念仏も元は湯殿山行人が広めたもののようです。(石田年子氏指摘)
本体: 高53cm、幅37cm、厚20cm。
後列の石塔群[大師堂(東)向き]
さて、前列から後ろに廻り、後列の石仏を以下、紹介します。紹介するのは下写真で、朱文字で後列1から6までの6基。
これは、石仏掘り返し前の状態。
左端の如意輪観音塔を掘り起こして、
前列1に加えたのは前述しました。
掘り起こしたのは、後列では、
1と3で、とくに3が主眼でした。
その理由は当該石仏で後述します。
ほかに4と6も10cmほど
沈んでいそうですが、地上分で、
内容が分かるのでそのままにしました。
なお、墓塔と記したのは、これも、
地中に埋まっていますが、文字は
僧侶の戒名・没年等と思われるので、
説明からは割愛しました。
(掘り起こすのはたいへんなので)
大日如来塔の左には、下部が地面に少し埋まった庚申塔。以下は掘り起こし前の正面、右側面、そして左側面。
表面だけを見ると、「塔」の文字の存在は予期されるので、掘らなくてもよさそうですが、右側面の下部が気になります。
以下が掘り起し後。表面上部は日月雲の定番の浮彫。その下に「庚申塔」の文字。約10cmほど埋まっていました。
右側面は、「當村講中」、「願主 岡田屋傳右エ門」、「世ハ人 片岡長左エ門 片岡傳兵エ」まで確認できました。
左側面、「萬延元庚申年十二月朔日建」。万延元年(1860)12月1日の造立、60年に1度の庚申の年です。
本体: 高64cm、幅25cm、厚19cm。
右手に錫杖(しゃくじょう)、左手には通常、宝珠なのですが、
かわりに赤子を抱いています。子育て地蔵というところでしょうか。
光背右に「天明八戊申正月吉日」、
つまり、天明8年(1788)正月の造立。
これも、若干、地中に沈んでいますが、銘文は隠れていないようです。
本体: 高49cm(一部地中)、幅26cm、厚18cm。
この塔はどうしても下部を見てみたい、
そう思って、掘り起こしました。というのは、
「青面金剛」だけなのか「青面金剛王」なのか、
確かめたかったからです。
これまで、利根町の同様の塔は、なぜか、
すべてが「青面金剛王」でした。これは
果たして数少ない例外となるのかどうか。
当初は、前に置かれた石塊との間を、
ショベルで少し掘ってみましたが、どうも
「剛」の下に文字があるのかはっきりしません。
思い切って掘り起こし作業を始めましたが、
これが意外と手こずりました。
前の石塊を動かすのも結構骨が入り、
また左右の塔がこの塔を圧迫しています。
相当な時間を要して、ようやく初期の目的を
以下、果たすことができました。
定番の日月雲のレリーフの下は「青面金剛王」でした。右側面は「鋳村 講中」。左側面「寛政十二庚申十月吉日」で、
寛政12年(1800)10月、これも60年に1度の庚申の年の造立でした。本体: 高68cm、幅23cm、厚17cm。
半跏思惟の如意輪観音ですが、
光背右上に「十六夜念佛講衆」とあり、十六夜塔でした。
さらに右に「鋳村同行十五人」。
光背左には、「宝永六己丑天」と「十月廿□日」。
宝永6年(1709)10月の造立です。
これも若干、地中に沈んでいますが、内容的には掘り起こすまでもないようです。
この辺りは、横の樹木の根が縦横にからまり、掘り起こすのは結構たいへんです。
本体: 高56cm(下部地中)、幅43cm、厚22cm。
造作は大きいですが、内容的にはシンプルな塔。
中央上部に馬頭観音の種子カンが彫られているようです。
その下中央に、「馬頭観世音」。
右に「文化十二亥年」、左に「正月吉祥日」。
文化12年(1815)正月の造立。
馬頭観音については、「羽中の観音堂」で説明しました。
→ 羽中の観音堂「馬頭観世音」
観音菩薩の変化身の1つであり、六観音の一尊にも数えられています。
観音としては珍しい忿怒の姿が特徴です。
本体: 高97cm、幅35cm、厚24cm。
「奉待十九夜」とあり、半跏思惟の如意輪観音像。
典型的な十九夜塔です。
光背右は「安永八己亥十月□□」で、安永8年(1779)10月の造立。
これも下部が一部地中で、少し掘れば□□が判明するかも知れません。
光背左には「講中三十六人」。
本体: 高56cm(下部地中)、幅34cm、厚19cm。
ということで、左は掘り起こし後の後列。
できれば、如意輪観音刻像の2基も、
全容が見えるようになるまで
掘り起こしたいところですが、
たいへんな労力が要ることと、
掘り起こした後の固定・安全対策が
必要かつ難題です。
このあたりで妥協しておくのが
まあ、無難でしょうか。
珍しい2つの番号札がついた大師堂です。
どこかの区画整理かなにかで合祀されたのでしょうか。
ほかにもこのような所があったような気がします。
→ 押付新田不動院の大師
→ 立崎集会所の大師
堂が並んで1ヵ所に建っているところも何ヵ所かありました。
→ 諏訪神社の大師
→ 押付本田水神宮の大師
→ 下柳宿の大師
→ 大房集会所の大師
中をのぞいてびっくり。
なんと5体の大師像(?)が。
これは壮観ですね。
みんなそれぞれ
個性のある顔をしています。
右から2番目のお坊さんは、
今風に言えばイケ面ですね。
でもやっぱり好みはいちばん左かな。
あれれっ?そんなことよりも・・・。
ちょっと不思議なことが・・・。
なかで、番号が記された札が置かれた大師像がいますね。いちばん右の8番と、左から2番目の69番はいいとして・・・。
いちばん左の大師像の台石にしるされた89番とは?
四国88ヵ所巡りになぞらえたものですから、本来は88番までしかないところですが、この意味は?
大師像左から。@本体: 高30cm、幅24cm、厚19cm。A本体: 高30cm、幅24cm、厚17cm。B本体: 高33cm、幅25cm、厚18cm。
C本体: 高33cm、幅24cm、厚17cm。D本体: 高33cm、幅30cm、厚18cm。
▼ さて、最後になりましたが、大師堂の左隣りに1基、石塔を見つけました。なぜここに?が率直な感想。
ただ1基だけ、この場所におかれているのには
何かとくべつな意味があるのでしょうか。
塔の上部に馬の頭部が浮彫になっています。
その下に「馬頭観世音」。
左側面には「大正十年四月建之」、
大正10年(1921)4月の造立と、
それほど遠い昔ではないのに、
このひどい風化状態はどうしてでしょうか。
本体: 高63cm、幅25cm、厚22cm。
台石: 高17cm、幅41cm、厚31cm。
(16/07/28 再編成・14/05/18・14/04/17・13/11/20 追記) (11/02/09 再編成) (06/05/09) (撮影 16/07/24・16/07/22・16/07/10・15/04/24・14/04/17・13/11/17・11/02/05・05/09/10・05/04/23)
本コンテンツの石造物データ → 羽中の稲荷大明神石造物一覧.xlxs (21KB)