タヌポンの利根ぽんぽ行 龍ケ崎天照大神宮

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目  次


県道立崎羽根野線を取手方面へ、南が丘ゴルフガーデンを通り過ぎてまもない地点。
左側、羽根野地区の北にあたるところにひときわ目立つ黄色の鳥居が見えてきます。
背後はなだらかな丘陵地で、崖と樹木に囲まれた小空間をつくっています。

『利根町史』には何も記されていません。地図でみるとなんとそこは龍ケ崎市。
県道より南側は利根町と思っていましたが、とある1角だけ削り取られたように龍ケ崎市に。
そんなところに龍ケ崎天照大神宮が建てられているのです。

鳥居の色やこの地域分割のこともどうして?という疑問がありましたが、
ここにはいろいろ不思議というかなぜそうなっているのかということがいくつかありました。

また、天照大神宮より西北に少し行ったところに豊田町根柄集会所があります。
これは県道より北にあり始めから龍ケ崎市に属することは分かっていたのですが、
四郡大師は昔でいう四郡であり、利根町だけではなく近隣に拡がっているので
そこに大師があるのではないかと探してみたのですが、やはり大師堂が存在していました。
それよりさらにずっと北東の大杉神社境内にも札所番号付きの大師堂を見つけました。

利根町に限ってのサイトづくりとしていますが、こうした隣接した特異な地点のポイントや、
四郡大師や六阿弥陀詣などの近隣にまたがるシリーズポイントは、
できれば少しずつでも取り上げていきたいと思っています。


利根町北西部マップ

豊田町の「四郡大師11番」のポイントは以下の地図のさらに北の地点で、表記されていませんのでご注意ください。

天照大神宮

素木鳥居

天照大神宮

柱の裏には建立日が記されています。
平成3年(1991)11月。
約15年ほど経過しているのですが、
実はもともと朱色だったのでは?
そんなことを想像しました。

黄色も意外に鮮やかでいいのでは、
と思いましたが、実際に、
初めから黄色に塗られた鳥居は
全国にはあるのでしょうか?

鳥居裏

タヌポンはいろいろ分からないことを探すのが得意です。

下は、道路を挟んで北の風景。豊田堰が見えます。

豊田堰
  1. なぜこの1角だけ龍ケ崎市に所属しているのか?
    → 珍しくもなく全国各地よくある話のようです。
  2. 鳥居に果たして黄色のものがあるのか?
    → これは黄色というより、生木の色が変化したもの?
  3. 天照大神宮と天照皇大神宮とはどうちがうのか?
    → 神を大神というような尊称のようです。
  4. なぜ境内に神社よりも仏閣関連の石塔が多いのか?
    → 神仏習合、これもよくある現象です。
  5. 2つの本殿があるのは?
    → ひとつは稲荷大明神と判明 (06/07/29)
  6. 天照大神宮は「あまてらすだいじんぐう」でいいのか?
    → 「あまてらすおおみかみのみや」が正解か?

いずれにせよ、ここは龍ケ崎市管轄になるので、龍ケ崎の文献を調べてみないと詳細は分かりません。
まだ図書館に行ってないのですね。いろいろ調べて分かったことから追記していきます。

神額

天照大神宮神額

鳥居は、額束のない神明鳥居系で、
笠木(上部の横木)も貫(上から2番目の横木)も丸太状、
樹皮付きではないようですので、
素木(しらき)鳥居という種類のように思われます。
狸の巻物「鳥居の簡単な見分け方」 参照)
素木鳥居は、利根町では見当たりませんね。

額束のない鳥居に神額を付けるときは、
このような付けかたになるわけですか。
力強い字ですね。

新規発見!なんと、鳥居はコンクリート製。

素木鳥居の形をしてはいますが、生木で作られたものではないことが分かりました。
これは樹皮があるとかないとかの問題ではなくて、やはり当初の色はどうだったのか、気になります。
「最初から黄色に塗られたものか」もしくは「朱色が風化して黄色に変化したか」。さて、どうなんでしょう?

参道

鳥居をくぐると少し坂になった参道が前に続いています。でも、少し先の右手には何か建物のようなものが見えます。
さほど長くはない参道ですが、鳥居のすぐ脇からその建物まで行く途中の右手には各種の石塔が建てられています。
それらは、本殿付近等のものと合わせて、後半でまとめて紹介します。

参道

左が、参道。
ここを最初に訪れたのが7月3日。
さて、どうしますか。先に進みますか?
えっ、何を言ってるのかって?
季節と雑草の繁茂状態にご注意。
そうです、蚊です。すごいですよ。

実は一旦、出直してきたのです。
虫除けスプレーなどを用意して。

でも、テキもさるもの。
スプレーできない顔を目がけて
蚊の大群が押し寄せてきます。
ホントです。
まぶただって、狙い撃ちです。
Tシャツの上からも平気で刺します。
耳なし芳一のように、
全身にスプレーは当り前です。

それでも刺されて、かゆくて掻きたいのを我慢してぶれないようにカメラを構えます。が、限界もあります。
シャッターを押す瞬間に、こらえきれず動いてしまって、せっかくの努力が水の泡に、というのもしばしば。
こんども何枚かはそうなるのでしょうね。でも、行きます。だめなら、冬があるさ。

※ 再構成後の現コンテンツでは、蚊の少ない季節の写真も混在しています。

2つの社殿

2つの本殿

参道の突き当たりに少し斜めに2つの社殿が
並んで建っているのが見えてきました。

右の建物には「天照大神宮」の神額が掲げられています。
向背と鈴もあることから、こちらは天照大神宮の
拝殿で中が本殿というところでしょうか。

左の建物の前には朱色の鳥居が建っています。
当初ここを訪れたとき、この建物が何なのか
よく分かりませんでした。
ところが、約1年後に再訪問したとき、建物の上部に、
「正一位羽黒稲荷大明神」の神額が掲げられていました。
これでやっと、境内社であることが分かりました。
こちらは後ほど紹介します。

天照大神宮本殿

見た感じは 蛟蝄神社奥の宮 とよく似た寄棟造のようですが、もっとサイドに周って確かめてみるべきでした。

天照大神宮本殿

天照大神宮というからには、祭神は
天照大神(あまてらすおおみかみ)と
思いますが、ほかに祀っている神々が
何かは分かりません。
天照大神だけかも知れません。

ここにも神額が掲載されていますが、
入口の鳥居の文字と同じ書体です。

扉はしっかり施錠されており、
また、覗き窓のようなものもないので、
中の様子はまったく分かりません。

天照大神宮額

幟収納?

社殿手前に、長い塀のような建物があります。祭礼時に立てる幟立て、ポールなどを収納するための設備でしょうか。

幟収納塀? 幟収納?

正一位羽黒稲荷大明神

正一位羽黒稲荷大明神

2度目に訪れて神額が見えたので
「正一位羽黒稲荷大明神」と判明。
(以下 稲荷大明神の神額 参照)
下は、1年前の当初訪問時の写真。
見比べてみると、前ははやり
額が掲げられてはいないようです。
鈴が提げられている位置も
ちがいますよね。

旧建物

さて、「羽黒」の文字ですが、これは地名です。しかし、ここは龍ケ崎市豊田町で羽黒町はすぐ東隣り。
豊田町というのは羽黒町の一部を分割などして後につけられた地名なのでしょうか。
それとも、この「羽黒稲荷大明神」が、もともとは羽黒町にあり、ここへ移動したのでしょうか。
これらは、町名の変遷や「天照大神宮」「羽黒稲荷大明神」の沿革なども調べてみないと分かりません。
なお、正一位については、正一位、位階、神階とは 参照。

稲荷大明神の本殿と祭神

稲荷本殿内部

この本殿は格子にガラス張りなのですが、
汚れていて中は暗くよく見えません。
特筆するようなものはないようです。

祭神は、稲荷神社なら、「倉稲魂命」(うかのみたまのみこと)。
これは他と共通のハズです。配祀の神は未調査です。

これは勝手な想像ですが、
昔「羽黒」という名の名士・豪族がいて、
その人物を祭神として加えているケースも・・・。
この辺りの歴史を知らないので、
こんな「妄想」をして楽しんでいます(笑)。

稲荷大明神の神額

稲荷大明神の神額

これが新規に付けられた神額。
最初からこれがあれば、悩むことはありませんでした。
鳥居が赤いからといって、稲荷神社と断定はできません。
(参考→ 稲荷神社は朱塗りが多い?

でも、この神額の材質は、
金属製のように見えますが・・・。
もしかして、銅製?

境内の石塔類

天照大神宮の境内には、入口から参道脇、本殿前、そして稲荷神社脇など、数多くの石塔・石祠類が祀られています。
その内、境内社と呼べるような神道系は少なく、印象的には仏塔関連、そして庚申塔系が多いような気がします。
以下、入口鳥居付近から順に紹介します。風化が激しいものや、得体の知れない(笑)ものも多々あります。

1.入口鳥居脇の石塔類

参道途中の石塔1

鳥居脇に2基、その後方にもう2基見えます。

二十三夜月讀尊

鳥居のすぐ右背後にある2基。左のほうは仏塔系のようですが、文字も見えず不明です。墓ということも考えられます。

二十三夜月讀尊

これも不思議と言えば不思議なのです。
二十三夜月讀ではなく、単に「二十三夜月待」なら分かるのです。
それなら仏教系です。ところが月讀尊とは、
三貴神である、天照大神(あまてらすおおみかみ)、
月読神(つくよみのかみ)、素盞鳴尊(すさのおのみこと)
のうちの1神であるわけです。
狸の巻物「神代の物語2. 禊祓」参照)。
これは神道系です。二十三夜講はいわゆる「月待」なので、
神仏習合して月讀尊を本尊としたのでしょうか。
嘉永2年(己酉)(1849)10月の建立。

庚申塔

これも左は上部は一部欠損して不明ですが、「五輪塔」と思われる梵字のようなものが見えます。仏教系ですね。

右は庚申塔

右は、典型的な庚申塔のパターンですね。
邪鬼を踏みつける青面金剛が彫られています。
造立の文字等は見つかりません。

2.幟収納塀手前の石塔類

参道途中の石塔2

参道を登って、幟収納の塀の直前に
手水ほか7基ほど石塔類が置かれています。
いちばん手前から順に見てみましょう。

仏塔の台座?

これは、いったいなんでしょう?彫られている文字は、阿弥陀如来を示す梵字なので、仏塔関係のものですね。
上になにか仏像を載せる台座のようなものなのか、これ単独で成立するものか、よく分かりません。
別の側面にも梵字が彫られているようです。上のハサミは忘れ物、さびていないので撮影日直前に参詣客が・・・。

仏塔の台座? 仏塔の台座?

二十三夜塔

二十三夜供養塔

奉待二十三夜の文字が見えます。
月待講のひとつですね。
文化5年(1808)12月の造立。

地蔵?

首無し地蔵

これは首無し地蔵でしょうか。
先日もこうしたものを見かけたのですが、
いたずらにしてはひどい仕打ちです。

そんなことを町の博学の人に話したら、
「いや、盗んで売るんですよ」。
「エーーッ!」
なんと罰当りな話でしょうか。信じられません。
売るヤツももちろんですが、盗品と知って買う輩も許せません。

地蔵菩薩塔

地蔵菩薩

これも、蓮台らしきものがあるので仏教系でしょうか。
地蔵菩薩ではないかと思いますが・・・
文字もなにも見つからないので、よく分かりません。

なにか手に持っているような・・・
薬壷なら薬師如来ということも考えられます。
でも、風化のせいか顔が柔和ではなく、怖い感じ。

廻国塔

日本廻国供養塔

左右に、「天下安全 日月清明」
中央に、「奉納日本廻国供養塔」
左下に、「心覚善入法師」 と記されています。
右下の造立日は、宝暦13年(1763)2月14日。

日本廻国とは、日本の66ヵ国(注※)すべてを巡拝し、
国ごとに写経した法華経を納める廻国修行のこと。
供養塔は修行の満願成就を記念して建てられます。

ここでは「天下安全」となっていますが、
ふつうは「天下泰平」「日月清明」の2句だけのものが多く、
ほかに「五穀成就」「萬民快楽」「國家安全」「風雨順時」
等の文字が続けて彫られこともあります。

(注※) 旧国名では68ヵ国ありますが、備前・備中・備後をまとめて吉備とすれば66ヵ国となります。

手水

手水

これは手水ですが、文字もなにもまったく見えません。
よほど古いものなのか、もともと文字がないのか・・・。

柄杓や横に手ぬぐいなどが見えますが、
使用に耐えるような水は近くで確保できるのでしょうか。

巡拝塔

西国秩父坂東供養塔

手水の背後は、西国秩父坂東の巡拝塔。
安政3年(1856)の造立日が記されています。

左に記された「相感應證清信」は、お経の一部なんでしょうか。
それとも、行脚もしくはこれを造立した行者の名前?
信心深くないタヌポンには、これはさっぱり分かりませんね。
えっ?信心ではなく、教養?まあ、そのとおりであります。

十九夜塔

十九夜念仏供養塔

辛うじて、十九夜念仏の文字だけが読み取れます。
造立日等は不明。

こういう月待ち講の供養塔に彫られた像は、
右手を頬に当てて考えるポーズ、いわゆる半跏思惟像が多く、
ほとんど如意輪観音と言えそうです。

以上、幟収納の塀手前の石塔類はすべて仏教系です。
手水は神道でもありますが・・・。
天照大神宮の境内なら神道系の境内社としての石祠が
もっとあってもいいと思うのですが・・・。

3.本殿前敷地の石塔類

奉納大乗妙典

天照大神宮の本殿と稲荷神社鳥居前に、
樹木が散在したちょっとした空間があります。
そこに、雑然と、というか、
ある程度間合いをとって、
6基の石塔が置かれています。
ちょっと意図的な感じもします。

あとで思いましたが、
ここに散在している石塔の多くが、
墓石だとしたら、ここは墓地なのかも知れません。

廻国塔2

奉納大乗妙典

奉納大乗妙典とありますが、
これも前述の 廻国塔 と同様のもの。
「廻国塔」は、この大乗妙典と呼ばれる法華経を
わが国「六十六ヵ国の霊場」に保存するため六十六部作り、
それを一部ずつ霊場に納める目的で国々を廻ったり、
廻っていることを銘文にした塔のこと。

ここでは、「天下泰平」「国土安全」となっていますね。
天明2年(1782)壬寅(みずのえとら)11月の建立。

阿弥陀如来を示す梵字がここにも付いています。

任心大法子

任心大法子

これも梵字があり仏塔であることは分かりますが、
「任心大法子」がなんのことやらさっぱり???
墓碑というのも、戒名でもなさそうだし・・・。

→ これはやはり、僧侶の墓のようです。
無縫塔ではなく、それを彫りこんだ塔にしています。
法子とは仏弟子のことで、戒名に近いものでしょう。

文政3年(1820)庚辰(かのえたつ)8月25日の造立。

阿弥陀如来を示す梵字がここにも付いています。

真阿法師

真阿法師

上の「任心大法子」の背後にある石塔。

これも、最初の文字が異体字のようで、「真」でいいのかどうか。
読み方もなにもかもよく分かりません。

上部の梵字は、これは「観世音菩薩」のようです。

法師の下に、「不生(ふしょう)」とあるのは仏語。
迷いの世界に生を受けない意で、これは逝去したことの意味です。
これも上記と同様、僧侶の墓のようです。

安永6年(1777)丁酉(ひのととり)12月13日は命日か。

権少僧都存了

権少僧都存了

権少僧都(ごんのしょうそうず)というのは、お坊さんの位。
つまり僧位で、宗派によって多少異なります。
真言宗高野山派の例では、大僧正・権大僧正・中僧正・権中僧正・少僧正・権少僧正・大僧都・権大僧都・中僧都・権中僧都・少僧都・権少僧都・大律師・律師・権律師・・・・
となりますので、それほど高い位ではないようです。

で、この仏塔も「存了」権少僧都の墓碑といえます。

享保17年(1732)壬子(みずのえね)5月29日が命日。
この年は、いわゆる「享保の大飢饉」の年ですね。
5月の前に「初」とあるのはどういう意味でしょう?

隆清法師

隆清法師

これも同様の法名を記した仏塔。

梵字は、これも「観世音菩薩」のようです。

宝暦3年(1753)11月の建立。

こういった紡錘形の塔は「無縫塔」と呼び、
お坊さんの墓に用いられるそうですが、
これらはみな墓石と考えるべきでしょうか。

とすると、この辺りに散在しているのは、
墓ということで、ここはやはり墓地?

不明の石

不明の石

梵字のような文字が見えますが、これはいったい?
五輪塔という墓石の一部である、円形=水輪(すいりん)
というものかも知れません。

この「石」に限らず、この空間での石塔類は、
分かることは仏教系ということだけで、
ほとんど不明なものばかり。

ちょっと勉強・修行が足りませんね。

4.稲荷鳥居脇の石塔類

鳥居脇にも

稲荷神社の赤い鳥居の脇にも、
8基ほど石塔が並んでいます。
いちばん奥には初めて
神道系の石祠らしきものも見えます。

以下、初回訪問時の記述。
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近寄って見てみたいところですが・・・。
しかし、もう限界です。
かゆくてたまりません。まぶたもやられました。

かゆーーい!

写真はただ闇雲に撮り、このあとすぐに退散。
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不明の石祠

やっと神道系らしき石祠、境内社のひとつを見つけたと思ったら、文字が何も読めません。
ここは薄暗く、最初訪問時も1年後の2回目も、同じ7月で、薮蚊ぶんぶん汗だくだく。
石祠の中を覗くこともできず諦めたのですが、蚊のいない時に撮ったのが右の写真。でも、徒労に終わりました、ハイ。

不明の石祠 不明の石祠

石裂山(尾鑿山)大権現

不明の石祠

尾鑿山も石裂山もともに「おざくさん」と読み、同じ山を指します。
栃木県鹿沼市の東にあり、標高879メートル。
同市の賀蘇山神社の背後にあり、
古くより、おざくさんと呼ばれ神格化されてきました。

神仏混合の修験の山として栄え、
山頂は女人禁制の厳しい修行場となっていたそうです。
ちなみに、賀蘇山神社の祭神は、
「天之御中主神」・「武甕槌命」・「月読命」。
賀蘇山神社も「おざくさん」と呼ばれています。

三峯神社等と同様、山岳宗教のひとつでしょうね。

庚申塔2

庚申供養塔

6本の手を持つ青面金剛王と踏みつけた邪鬼、
台座の3猿など、これも典型的な庚申塔です。
「庚申 供養」のほかに「諸願成就」の文字も見えます。

享保元年(1716)11月の造立。同行17人とあります。

祐憲法師

祐憲法師

また、お墓らしい仏塔ですね。
「観世音菩薩」の梵字もあります。

ただ、建立年で、享保と卯らしい文字が読めますが、
享保年間(1716−1735)で卯年は、
享保8年(1723)と20年(1735)。
でも、享保の次に来る文字は、8や20には見えません。 7や18と読むことはできそうなのですが・・・。
月日についても、よく読み取れません。
また、卯の文字の下の「天」の意味が不明です。

庚申塔3

青面金剛王

これは一目瞭然の青面金剛王。
庚申塔の一種ですね。

でも、造立日などそれ以外はなにも分かりません。

庚申塔4

青面金剛王

これも庚申塔の青面金剛王。
「剛」または「剛王」が隠れて見えないだけです。

こちらは、天保9年(1838)11月に建立。

大日如来塔

念仏供養塔

智拳印を結ぶ大日如来が刻像されています。
寛文7年(1667)11月18日の造立。
これも 庚申塔2 と同様に同行17人、とあります。
時代が違いますので偶然の一致ですね。

でも、1716−1667=49 
大差ないか、もしかして同メンバー?
まさかねえ。現代日本のような高齢化社会じゃないし・・・。
でも、17はこの村の戸数で子供世代なのかも。

成田山不動尊

最後は、成田山不動尊。
下左の表には、ほかに、「黒班犬」と「亀犬寅吉」の文字が見えます。寅吉は名前としても、「黒班犬」とは?
裏面には、造立日 明治14年(1881)11月と、「豊田村 一心行者」が彫られています。
「一心」とは、人物事典によれば、江戸後期の木曾御岳の行者で、御岳行者普寛の法統を継いで布教に努めたが、
幕府の弾圧で遠島の刑に処せられ牢死。のちに弟子・信者によって一心堂や霊神碑が造立云々・・・ということです。
現代も信者が残っているのかも知れませんね。

成田山不動尊 成田山不動尊背面

心霊スポット?

帰路

さて、天照大神宮には、
由緒沿革はじめ、鳥居の色のことや、
多くの仏塔関連等々で、
不明な点がいっぱいです。

もう少し調べなければと思っていたら、
そんな話が好きなタヌポンの娘から、
「なんか、あそこは、
そのスジのスポットらしいよ」

エーーッ、マジで!?
でも、3回訪問しましたが、とくに何も。
だいたいほかの神社にしても、みんな
「それらしい」不気味さは漂ってます。
ほとんどいつ行っても
だれもいませんからねぇ・・・。

豊田町根柄集会所と大師

四郡大師堂

天照大神宮から西北西の方角、
斜めに入った小路の先に豊田集会所があり、
その敷地の一角に大師堂が建っていました。

これが利根町徳満寺関連の四郡大師であることは、
右上写真にある大師堂右横に貼られている
共通の案内貼紙で分かるのです。

残念ながら番号札はついていません。
また、ほかには石祠等は見つかりませんでした。

堂の中には1体の大師像が安置されています。下写真右は豊田町の集会所。この辺りは豊田町根柄と呼ぶのですね。

大師像 豊田根柄集会所

四郡大師11番

ここは、上記と同様、龍ケ崎市豊田町なのですが、冒頭の 利根町北西部マップ のさらに北東にある地点。
大杉神社と呼ばれる施設などがある境内の一角に、四郡大師の堂を見つけました。

大師堂11番 大師像11番

例の貼紙だけでなく、札所番号も掲げられています(下写真左)。
加えて、「護国協会 四郡大師 第11番札所」という分かりやすい立派な札も付けられています(下写真右)。
こんなきちんとした番号札は利根町の大師堂にはひとつも見当たりません。
大したことではないのかも知れませんが、利根町内のほとんどの大師堂を見てきた(つもりの)利根町住民としては、
なぜかちょっと情けなく、悲しい思いがしました。

大師堂11番番号 大師像11番護国協会札所番号

(12/05/03 追記・再構成) (06/07/29 追記) (06/07/27) (撮影 12/05/01・06/07/29・05/09/17・05/07/03)