タヌポンの利根ぽんぽ行 諏訪神社1

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更新経過

2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
諏訪神社の石造物は、諏訪神社2が中心なのですが、この諏訪神社1でも若干、あります。
今回の更新で、本コンテンツでは若干の追記と、章の順序の入替等を行ないました。
(15/04/03)


緊急修正:実は、タヌポンが「裏口」と思っていたのが、正式な「正門」でした!
地元の方との会合でやっとその事実が判明しました。正門と思っていた側は、大昔は高台のあまり人家のなかったところなのだそうです。(12/03/12)
ということで、以下、可能な限り、正門←→裏門 の変更・修正をしますが、ところどころ 前記述の残骸が残っています のでご注意ください。(12/03/26)


「さびしい神社。いつきてもタヌポンひとり。だけど・・・」などと当初、記しました。
が、これは利根町探索を始めた初期の感想で、
いまから思えば諏訪神社に限らず利根町のほとんどのポイントはタヌポンの訪問時、
人っ子ひとりいなかったわけです。もう、慣れましたね(笑)。

さて、神社の紹介を裏門からというのはちょっとヘンですが、それがタヌポン流。
体験した順番、時系列に紹介したほうが臨場感があるのでは、などと勝手な理屈。

(↑と、当初記述しましたが、結果的には正門からの紹介となったわけです)
でも、後で補足するときなど、コンテンツを全面的に構成し直さなければならないときも。
この諏訪神社もそうです。1と2に別けて再編成することにしました。
あーーっ、どれを2に移動させるか、なんて考えるのも編集のつらさ、楽しさ・・・。

ということで、ここ諏訪神社1では、概要と鳥居、拝殿と本殿、ある記念碑の話を中心に。
諏訪神社2 では、境内のその他の施設と大樹の話などを紹介します。

この神社のなかには、とくに神社の由緒とは関係のない石塔が建っています。
その碑に記されている文字について1ヵ所不明なものがありましたが、
ようやくそれを解明することができましたので、
それを機会に、再度この諏訪神社1の中身を再構成し直しました。
画像も何ヵ所か変更しています。(11/01/05)


タヌポンのいつもの散歩道の途中にある諏訪神社。
この神社には、正門と裏口があるのですが、タヌポンの家から近いほうが裏口のため、
いつも裏口から進入、いや訪問することが多いのです。
また、鳥居が2つあり、その1つは境内内部にあるのですが、
もうひとつがそれイコール裏口という感じです。
そして、正門自体がなかなか見つけにくい路地の奥にあるのに対し、
裏口の真紅の鳥居は遠くからでもよく目立ちます。
この赤い鳥居の中を覗くと薄暗い細い裏参道(?)が続いています。
ちょっと気味が悪いんですけど入っていきます。(04/12/25)


利根町北西部マップ


諏訪神社境内案内図

諏訪神社2で、案内図を作成しましたので、ここにも掲載します。
マウスオーバーで色が変化するポイントは、クリックすると当該説明個所にリンクします。

諏訪神社境内案内図 両部鳥居 正門鳥居 拝殿と本殿 入口左のスダジイ スダジイの巨木 白山桜 手水舎 庭園灯 四郡大師祠 四郡大師祠 稲荷祠 不動明王塔 新利根川修補碑 十五夜塔 不明の石祠 道祖神と手水 十六夜塔 愛染明王塔 庚申塔6 庚申塔5 庚申塔4 庚申塔3 庚申塔2 庚申塔1 記念碑 社寺号標石 狛犬(右) 水神宮 廻国塔 金毘羅社 清瀧大神 富士講碑 木曽御嶽講霊神碑 眺望の詩碑 社守儀晴記禄八十八歳像碑 三峯山2 三峯山1 三十三社御神 不動明王塔 重層塔 狛犬(左) 不明の石塔 大日塔

正門入口

鳥居と由緒書看板

由緒書き看板と鳥居 由緒書き看板一部

鳥居の左隣りに白い大きな看板が建っています。何か書いてありますが、文字がかすれていてほとんど読めません。
後で分かったことですが、上の神社の本殿横にも前に書かれたらしい古い看板がいくつか重ねられていました。
形あるものはいつかは・・・とはいうもののちょっと安普請のような・・・失礼しました。

辛うじて読める文字は・・・。(画像クリック拡大)
本祭が1月15日、秋祭が9月19日。
これらは記載日が昭和なので旧暦ではないと思いますが、いつか当該日に訪ねてみましょうか。

もう少し解読できますね。
この看板が立てられたのは、昭和甲寅(きのえとら)・・・つまり昭和49年(1974)ということですね。
児童遊戯施設の整備ほかを記念して立てられたようです。児童遊戯施設とは・・・?(これは 諏訪神社2[公園の名残り] で)

この看板のさらにその左には、大樹が・・・→ これも 諏訪神社2(巨木) でどうぞ

では、鳥居からいよいよ中に入ってみます。

参道と急階段

裏門鳥居を抜けると 向こうに階段が・・・

左が竹やぶ、右が廃屋の細道を20mほど行くと階段が見えてきます。
自転車の後尾灯が光っていますがカメラのフラッシュのせい。廃棄されたものみたいです。
この路が参道ということになるのでしょうが、暗くて恐いですね。
昼間でも竹薮などから何かが出てきそうで、あまり振り向かずに必死になって奥の階段を登ります。
この怖さが急階段を登る原動力になっているくらいです。ましてや夜になど、とてもとても。
考えただけでぞーーっとします。タヌポンは肝試しはご遠慮いたします。

急な階段 階段上から下を見る

40段くらい(44段)だけどすごい角度。重いタヌポンはふうふう。上に登って下をみると、ヒャーッ!
タヌポンは少年時はまったくそうではなかったのに、歳をとるごとに高所恐怖症が重症になっています。
それなのになぜかここで振り返りたくなります。なにか魔物が背後から迫ってきていないかを確認したいから?
でも、ここまで登るととりあえずひと安心。汗がどっと溢れてきます。

まだある階段

登って左手にまた階段(8段程度)、その上、右方にまた階段。
もう、疲れます。
でも、諏訪神社のこの階段には、
手すりが付いているので助かります。
身重で日ごろ足腰を鍛えていないタヌポンですので。

びっくりタヌポン
小階段から見下ろす

でもこれは10段しかなくて、これで階段は終わり。ホッ。
あたりは竹やぶ。目の前に大きな・・・何の樹だろう。
→ この大樹も 諏訪神社2(巨木2) で紹介。

見上げると竹やぶのなかから太陽が

見上げると冬の夕日が・・・。

諏訪公園の標柱

ようやく見えてきました。冬でも汗だくだくです。諏訪公園と書いてあります。境内は小さな公園になっているようです。
先ほどの由緒看板に書かれていたことと符合しますね。ということは、これが建てられたのは昭和49年(1974)でしょうか。

本体: 高143cm、幅30cm、厚30cm。

見えてきた 諏訪公園

先ほどの入口とは形のちがう鳥居がこちら向きに立っています。その向こうに拝殿が見えます。
拝殿の左手奥が本来の入口になり利根町羽根野の街並みに出ます。

正門から入っても鳥居が正面にあるわけではなく、裏門を向いた鳥居が都合2つあることになります。
さらに諏訪公園という表札もあります。この裏門のほうが、むしろ正門のように感じますね。
中の拝殿もこちら向きに建っていますし・・・。(→ 諏訪公園の表札は裏門にもありました)
(↑この部分は、当初、正門裏門を取り違えていたときの記述。むしろ妥当な感想だったわけですね)

さて、境内の鳥居に近づいてみましょう。

この左手にはあるものが・・・

魔物の妖気を振り切って(なんのこっちゃ?)階段を上がってやっと見えてきた鳥居。
どうしても早くそこへと気がせいてしまいますよね。
しかし、ここで、左手のほうを見てみる余裕があれば、そこに何かを発見することができます。
タヌポンも何度もここに訪れていましたが、それに気がついたのはかなり後でした。
何があるのか?それは 諏訪神社2(???を発見!) でどうぞ。

ということで、ここでは直進、鳥居の話もあとにして、本殿・拝殿に向かうことにします。

拝殿・本殿と祭神

諏訪神社の由緒沿革は不詳ということですが、
祭神については、全国の諏訪神社は建御名方命(たけみなかたのみこと)という風にだいたい決まっているようです。
信州の諏訪大社が本家でそこから勧請されたものといいます。
『利根町史』によると、加えて八坂刀売命(やさかとめのみこと)も祭神となっています。
ちなみにこの2人は夫婦神なのですね。(狸の巻物 神々の系譜参照

拝殿

もう賽銭箱もなくなっている拝殿。
ほんとにだれも来ないのかしら?
・・・・・・・・・・・・・・・。
ないしょなんですが、だれもいないとだいたい人はワルイことをしますよね?
タヌキは人じゃないから、次なる行為を許してください。

(断片的な文字が並んでいますがドラッグすると・・・)

の拝殿の格子の隙間からデジカの先を入れて真っ暗なの中をフラッシュで撮ってみました!
皆さんにもここでその写真を公開します。ちょっとだけですよ。

・・・・・・・・・・・えっ、どこにその写真があるんですって?それはないしょです。(ヒント:この写真をクリック)

神紋

神紋

拝殿の屋根には、神紋が施されています。
神紋とは、読んで字の如し。神社の家紋です。
丸に根笹。
丸に根笹

鈴

賽銭箱もないような様子ですから、
正月でも、参詣客は・・・。
この鈴を鳴らす人はいるのでしょうか。

♪ 街はいま〜眠りの中〜 あの鈴を鳴らすのは〜
とくに和田アキ子さんのファンではないですが・・・。

本殿

拝殿と本殿

なお、本殿はこの拝殿の背後にあるのがそうです。
が、中を見ることはできません。
拝殿・本殿は流れ造りという建築様式です。

賽銭泥棒か?

ところで、05/01/03に訪れたとき拝殿の写真を撮ったのですが、なんと・・・。

拝殿右が壊されて・・・

拝殿の向かって右の部分の板がはがされているではないですか!
ひどいことをするなあ。だれのしわざ?

→ 何年か経ったらさらにひどいことに。
ほとんど半間ほど壊れているではないですか!

拝殿右がさらに壊されて・・・
中に賽銭箱が

もう、と憤慨して中を覗いてみました。
なんと中に賽銭箱があるみたいです。左に見える箱がそうです。
これはどういうストーリー?
中に入れてある賽銭箱からお金を盗もうと
だれかが板を破ったのでしょうか?
でも、こんなに人が来ない諏訪神社の賽銭箱を
狙う人なんているのかしら?
タヌポンは中の写真を撮らせてもらったお礼に
(勝手に撮った罰として)500円玉を奉納しました。
ところで、どうして賽銭箱を建物の中に入れているんでしょうか?

拝殿内部

別の機会にもういちど。
中の上のほうに掛かっている2枚の絵?が何なのか気になります。
いつかそれも調べてみます。(次項「絵馬 祈願図」参照)
格子の扉が見えますがあの奥が本殿で祭壇などがあるのでしょう。

ところで、賽銭箱はどこに消えた?
→ この角度では見えないだけでした。

絵馬 祈願図

拝殿内部の絵が何であるか判明しました。
ともに「祈願図」と称される絵馬であることが、2005年1月に開催された「利根町の絵馬展」で分かりました。
左は明治19年に筑波郡より奉納されたもの。右は当地の27名の奉納者が記されています。
この絵馬はいずれも女性が神社に祈りを捧げている図で、女人講であると推定されています。
利根町には月待供養の十五夜、十九夜、二十三夜供養塔が数多く存在しています。
これらは如意輪観音を本尊とした女人の念仏講、安産祈願です。
なおこれらの絵馬の作者は不明です。(05/08/07追記)

祈願図 祈願図

利根町にはほかにも各種の絵馬が奉納されています。
その数多くが町指定文化財となっているのですが、この諏訪神社の2つの絵馬はいずれも文化財に指定されてはいません。
ちょっと残念ですが、専門家から見ると、価値が少し下がるのでしょうか?

さて、それでは、「正門」から入ってすぐ正面に見える鳥居に戻って見てみましょう。

鳥居と神額

諏訪公園のなか、つまり諏訪神社の境内に入ると、まずは正面の鳥居が目に付きます。
ここはいつも周囲の樹木の陰になっていて少し薄暗いのですが、ここに見えてきた鳥居も真紅です。
左右にいろいろなにかあるようですが、それは後で見てみましょう。

両部鳥居

最初に見た裏口の鳥居は神明鳥居系の宗忠鳥居という種類のようですが、
境内中央のは 蛟蝄神社門の宮 の入口にある鳥居と同じ両部鳥居という明神系の鳥居です。
狸の巻物 鳥居について 参照)

両部鳥居

両部鳥居の特徴は何と言っても
稚児柱という支えの柱があることです。
(下写真参照)
ひとつの神社に2種類の鳥居がある、
こういうところも神社のおおらかさと
いうところでしょうか。

稚児柱

諏訪大明神か、詮方大明神か

解決→ 諏方大明神(=諏訪大明神)でした!(07/07/24)

諏方大明神

この両部鳥居に掲げられている神額の文字。
これは何と読むのでしょう?
単純に「諏訪大明神」でいいとも思うのですが・・・。
最初の文字が達筆なので自信がありません。

偏はゴンベンなのかしら?諏訪の諏という字でいいのでしょうか?
そうだとしても、下の字はゴンベンなしの方だけで
訪の字の代わりとなるのでしょうか?
もしそうなら、諏訪大明神でOKなのですけれど、
なんかちがうような・・・。

だれかに聞いて確かめようも、いままでここに何回かきたけど他の人に会ったことが一度もないのです。
図書館かなんかで調べるしかないですね。

ところで、このことに関連して・・・。この鳥居の手前、さきほどの諏訪公園入口を入ったすぐ右手に石碑が立っていて、
その表面に文字が彫られていたのですが、何か難しそうな書体だったので、
タヌポンはよく見もせずに次に進んでしまいました。
しかし、これは利根町の重要な歴史のひとつを物語るものだったのです。
そして、その物語が、タヌポンに、この「□□大明神」の□□の部分の文字の候補を推理するヒントを与えてくれました。
以下、江戸時代の新利根川の堤防補修工事にまつわる話です。
(ただし、その推理は、結果としては少々ピントがずれていました・・・)

新利根川大堤修補碑

利根町というのはその名のとおり利根川の流域にある町で、当然、昔から水害に悩まされていたわけです。
そのなかでも利根町の昔ばなしに残っているのが寛保2年(1742)の話。
当時、江戸幕府は全国の大名たちに指令を出して各地の暴れ川の土手の工事をさせたのだといいます。
この利根川(新利根川)を担当したのが鯖江藩(現在の福井県)五万石の殿様でした。
名前を 間部詮方(まなべあきみち) といい初代藩主間部詮言(あきこと)の兄 詮貞の長男で鯖江藩第2代藩主でした。

つかみどり

間部詮方は新利根川の工事を担当したものの当時、工事をするには人夫がとても不足していました。
なにか人を集めるよい知恵はないかと思案しましたが・・・。
この間部藩の家老に植田左仲という頭のよい人がいました。
この人物が、あるイベントを発案、屈強の男たちを呼び寄せ見事、工事を完成させてしまったのです。
そのアイデアイベントというのが・・・
こぶしが入るほどの穴をあけた四角い箱の中に銭をいっぱいいれて取らせた「つかみどり」だったのです。
こうすると「手の大きさ」を自慢する力持ちがぞくぞく当地に集まり、
彼らの力により新利根川の工事はどんどん進みました。
植田左仲は殿様からごほうびをもらい、殿様の間部詮方も幕府から大いにほめられました。

そして、この名誉を末ながく残そうと羽根野の稲荷様に石碑が立てられました。
それが現在、諏訪神社に残っているこの記念碑なのです。

新利根川大堤修補碑とは

記念碑が建てられたのは、工事着工の翌年の寛保3年(1743)のことでした。
羽根野の稲荷山というところにあったということですが、いつ移されたのかは分かりません。
赤松宗旦の『利根川図志』には、「羽根野村稲荷山に建てし碑」とあります。
裏門の柱に対してこの碑とは反対側に境内社として 稲荷神社の祠 が建てられています。
この稲荷神社もこの碑と同時に稲荷山から現在の諏訪神社に移されたものではないかと推察されています。

後で分かったことですが、赤松宗旦の『布川案内記』草稿には、
「この碑は、羽根野村の下の方なる稲荷山北稲荷の社頭にあり」と記されています。
稲荷山とは現在のどのあたりでしょうか。近辺にはちがいないと思いますが・・・。
(参照 → 稲荷山発見!
もしかしてここ?・・・それなら諏訪神社より稲荷神社のほうがここでは主役となるハズですが・・・。
赤松宗旦には後でまた登場してもらいますが、彼は当時の稲荷山を実際に訪れてこの碑を検分したと思います。

本体: 高107cm、幅30cm、厚18cm。台石: 高28cm、幅54cm、厚54cm。

新利根川大堤修補碑 文字が刻まれた石碑左側

これが、タヌポンが最初、それに刻まれた難しい文字を一瞥、敬遠して素通りしてしまったあの石碑です。
写真左がその正面。ちょっと難しそうなのですが、こうしてよく見てみると・・・「新利根川大隄修補碑」と書いてあるようです。
新利根川、大隄、修補の碑、ということですね。

隄の字は堤防の堤の難字ですね。土手のことです。補修ではなく修補となるんですね。
タヌポンは大隄の単純な「大」を表す書体文字が最初、読めませんでした。

でも、この石碑に向かって左、つまり石碑の右側面に、右の写真でわかるように細かく説明が記されていました。
写真はちょっと読みにくいですが・・・クリック拡大して見てください。
そこには鯖江藩主、間部詮方の名前も記されています。

以下、この文字を書き写してみました。

 寛保壬戌秋洪水坂東四大川決漂没人物傷害稼穡

官命列矦某某修補之越前州鯖江矦兼若狭守間部詮方與焉

 乃築下総州新利根川大隄及分流支派之堰延二十五里

赤字は判読が難しかった字。

碑文の解説と難字の解読

寛保壬戌とは「かんぽう時代のみずのえいぬの年」すなわち1742年ですね。坂東太郎は利根川の別名ですが、
坂東四大川とは関東の4つの川の意味でしょうか。それとも利根川の支流も含めた4つの川という意味なのか・・・。
稼穡(かしょく)とは農作物。「漂没人物傷害稼穡」は、人やモノが流れ水中に没し、農作物が被害を受けたということ。
官命により当時の大名列侯何人かが「修補之」=これを修補する、工事に取り掛かった。
「越前州鯖江矦兼若狭守間部詮方」鯖江藩主兼若狭守(わかさのかみ)である間部詮方が、
「與焉」は与る(あずかる)関与した、担当したということですね。焉は感嘆詞。
乃は「すなわち」と読みます。乃以下で、間部詮方の関与した工事の詳細を語っているわけです。
すなわち・・・「築下総州新利根川大隄及分流支派之堰」、下総州の新利根川の大堤防とその支流等の堰を築造。
最後の「延二十五里」ですが、その工事の長さが25里に及んだということですね。

ところで、「袤」の文字が当初より判読できず、コンテンツ作成後何年か経ってやっと判明しました。

解読の経緯

この解読に関しては、そのいきさつをブログにも記しましたが、ここでも紹介します。
(→ Columbus Blog 2011年1月3日付「碑文解読成功」

「延長」ではなさそう・・・

当初は、写真から判読しようと思いましたが、少しピンボケ。諏訪神社境内は薄暗くて撮りづらいのです。
しかも、画数が比較的多い文字なのに、延の文字より少し小さく彫られていますのでどうにも読めません。
文字の下のほうのハネの部分が少し似ているので、意味合いと絡めて、延「長」かなと思いましたが、
よく見れば見るほど「長」ではないように思えてきます。

赤松宗旦の『利根川図志』(岩波文庫)では・・・

何かの折に、赤松宗旦の『利根川図志』のなかにこの碑文の一部が紹介されているのを発見しました。
ただし、『利根川図志』といっても、タヌポンが見るのは文庫本です。原本など・・・どこで見られるのだろう?
さて文庫本の当該箇所にはどのように記されていたかですが・・・。
『利根川図志』(岩波文庫)141ページの巻三の新利根川の項目内にそれはありました。

二十五里

写真や実物からの判読で確かに言えるのは、漢字の部首で言えば「衣」。
上のなべぶたと下の足の形はこれに間違いありません。問題はその上下の確定形の間にどんな文字が入るか、です。
この岩波文庫では、確かに部首「衣」の文字のひとつである「袞」を採用してきましたが、
やはり真ん中部分の形がちがう感じがすることもありますが、それ以前に、意味が不明です。
延袞は「えんこん」としか読めませんが、そんな熟語はありえないと思います。
袞という字は単独では中国の人名などに使われていますが日本では一般的ではないようです。
どうして、このようないい加減な文字を当て込んだのでしょうか?

さらに、この後で紹介する布川案内記草稿を見て分かったことですが、
岩波文庫が拠り所としているハズの赤松宗旦が当該文字にふりがなを付けています。
そのふりがな自体がまたしても変体かなが混在して判読が難しいという問題があるのですが、
少なくとも「えん□う」の「う」で終わる4文字であることが分かりました。
しかし、袞は「こん」としか読めず、「・・・う」という読みはありません。
したがって、岩波文庫に当該箇所が記されているにもかかわらず、これはまったく役立たずというしかありません。

『布川案内記』草稿

さて、その後あるとき偶然に、『利根川図志』の原本ともいうべき『布川案内記』草稿(来見寺 所蔵)が
『利根町史』(第6巻)に資料として掲載されているのを見つけました。

『布川案内記』草稿

左が当該語句が記された『利根町史』(第6巻)の522ページです。
真ん中あたりに、見えますね。もっと拡大して見てみましょう。

余談ですが・・・。
赤松宗旦はすぐれた文人ですが、やはり間違いはあるものですね。
本文をよく見てみると、間部詮方(まなべあきみち)のふりがなが
「まべのりかた」となっています。まべ・まなべはともかく、
「あきみち」とは字面だけでは読めません。
本名を知らないとやはり「のりかた」と読んでしまいますね。
現代ほど情報化されていない時代ではムリなんでしょう。
また、新利根川の根の字が抜けています。
赤松宗旦ほどの人でも、脱字などのイージーミスは犯す、
ということは知っておいたほうがいいかもしれません。

『布川案内記』草稿拡大

さて、左が上の拡大部分ですが、これで解決と思いきや・・・。
またしても2つの難題、タヌポンにとってですが、が発生しました。

  1. 赤松宗旦が記した漢字(延の次の漢字)が辞書では見つからない
  2. ふりがなの3文字目が読めない

まず、漢字のほうですが、衣が部首の漢字でほかに候補としてあげると・・・
衰・衷・裏・裹・褒・襄・褻・襃・・・
一瞬、襄に似ているかな、と思いましたが、やはりちがいますし、
延襄というとまた意味が不明です。
衷の字に矛という字を組み合わせれば赤松宗旦の書いた字になりそうですが、
そんな字は存在しない、と思います。
ということで、岩波文庫と同様、漢字が記されているのに疑問は解けないまま・・・。

それでは、ふりがなで検討してみると・・・。
前述した「えん□う」は確実としても、□に該当する文字がどうにも読めません。
濁点が付いていることはなんとなく分かるのですが、濁点文字をここにいろいろ当てはめても
熟語で見知ったものを思い浮かべることができません。
「えんぼう」という言葉をもともと知らないのですから分かるはずもないことでした。
変体仮名であることはなんとなく想像はしていたので、
変体仮名の濁音文字をしらみつぶしに当てはめて考えてみるべきだったとも思います。
しかし、仮にえんぼうと想定したとしても、その熟語を知らないために、ぼうの漢字はまったく思いつかなかったでしょう。

漢字も分からない。ふりがなも分からない。ここで、タヌポンは長い間、解読が挫折していたというわけです。

「袤」の発見で一挙に解決

最初の疑問から何年か経ちましたが、ついにその日がきました。
2011年が明けて、神社めぐりをしたとき、諏訪神社も訪れて、再度写真を撮りました。
解読はそれほど期待をしていませんでしたが、それでもなるべく手ぶれのないようにと心がけました。
こんどは、撮れた写真のその部分を拡大表示して、MSIMEの手書きツールで文字認識をしてみようと思ったのです。

※それにしても、マウスでは、どうしてこんなにめんどくさく、うまく描けないのでしょうか。タッチペン機能とかほしいなあ。

MSIMEの手書きツール

これが、成功しました。

左を見てください。
見たこともない文字だったのですが、
2つ候補を見つけることができました。
それが、以下。

袠 袤

候補1はチツ、候補2はボウと読むのですが、いずれもいままで見たこともない漢字です。
漢文なんかで仮に見ていたとしても、まったく覚えていないのでは知らないのと同じです。
それぞれの単独の意味を調べる前に、この頭にそれぞれ延を付けた「延袠」「延袤」を調べてみました。
すると、「延袠」はまったく意味を成しえませんでしたが、「延袤」がまさしくヒットしました。

延袤

延袤(えんぼう)とは、聞いたことがない熟語ですが、
以下の説明。

えんぼう 【延袤】
「延」は横のことで東西、「袤」は縦のことで南北の意
土地の広さ。また、長さ。[ 『大辞林』 提供: 三省堂 ]

これは驚きです。まさに意味合い的にもぴったりです。
それに、さきほどの布川案内記草稿の
赤松宗旦によるふりがな「えん□う」に
ズバリ当てはまるではないですか!

←左の写真で見比べてみると、
もう、これで断定してもいい、と思いますね。

それでは、こんどは、例の変体仮名のふりがなです。
こんどは逆にあの3番目の変体仮名が「ぼ」をあらわしているかどうかを検証すればいいわけです。
「ぼ」は「ほ」の濁点。では、「ほ」をあらわす変体仮名は?

変体仮名「ほ」

「ほ」をあらわす変体仮名は「本」の崩し書きで左。
赤松宗旦のふりがなと比べてみましょう。
ちょっとちがうようにも見えますが、
ほかのページでも「ほ」に当たる文字があり、これによく似ています。
濁点を付けて、これを「ぼ」と読んでよさそうに思います。
赤松宗旦は、本の下のほうから最後に右の点を打つときに
続けて円弧を書くようにする癖があるようです。

なお、最初よく分からなくて不思議だったのですが、文字の左側にカタカナで「ナガサ」と注釈がふってあります。
「ナガサ=長さ」に気がついたとき、なるほどと思いました。
この延袤という熟語は、赤松宗旦にとっても難解な語句だったのではないでしょうか。
だから、注釈を付けた・・・そして、漢字も書きまちがえた・・・。
もしかすると、宗旦も碑文のこの文字が解読できなくて困っていて、
もっと博識の人にやっと「えんぼう」の熟語を聞いて、ここに記したのかも知れません。
そんなことを想像してみるのもおもしろいですね。
とにかく、延袤といい、稼穡といい、この時代の人は漢字では博識ですね。
まあ学問的には、中国系が中心となっていたからかも知れませんが・・・。

ともあれ、これで、解決です。以上が碑文解読までの経緯でした。ご精読、お疲れ様でした。(11/01/05)

碑の裏と左にも碑文発見!

ああ、タヌポンはいままでなにを見ていたのでしょうか。
上記の碑文解読後、大震災を経て約1年後、2012年の3月再訪問時に、「あきれてしまう事実」に遭遇しました。
この碑文には続きがあったのです。
上の3行の碑文は碑の右側面に刻まれていたものですが、裏と左にも、なんと碑文の続きが記されているではないですか!

新利根川大堤修補碑(裏) 新利根川大堤修補碑(右)

左写真の左が石碑の裏側。
背後の右が例の稲荷神社、
朱色の祠が見えますね。
面積が左右より広いので
5行分彫られています。

そして、碑の左側面ですが、
これはすぐそばに柵があり、
その外側は崖となっていて
足場が悪く接写できません。
ということで碑文は実は
読み込んでいないのですが、
『布川案内記』を引用して
以下紹介します。

いままで数え切れないほど訪問しているのに、いったいどうしてこれに気が付かなかったのでしょう。
赤松宗旦の『利根川図志』には以下は割愛されていますが、その下書きとなった前述の『布川案内記』には全文が記されていて、
実際の目視や撮った写真では読みづらい字も紹介することができます。
前掲の 『布川案内記』草稿の画像 には、延袤二十五里の直後にちゃんと記されていますのでご確認ください。

裏面(右碑文からの続き)

首目下総州相馬郡河原代村押付新田腹接常陸州河内郡

尾距下総州香取郡結佐村矦遣陪臣植田左仲命純総督其

事里見權七郎義孝副之臼井儀大夫善胤金子八左衛門公

忠幸島善兵衛且平諏訪又左衛門勝為佐之十一月鑿寒氷

始作至明年三月告功桃花水無反壌之害用郡中民力大凡

左側面(碑文裏からの続き)

貮拾貮萬七千五百工銭糓若干萬於是六監等竊議勒事于

石以建下総州相馬郡羽根野村叢社之中云

寛保三年癸亥夏四月吉 植田左仲命純謹識

『布川案内記』の「延袤二十五里」の直後にも文章が続いているのをなんとなく知っていながら、
上記の碑文を発見したときは、それが同一のものとは思っていませんでした。
そのため、最初は、なんとか撮影できた裏面の5行の文章だけを読み込んで解読しようと思ったのです。
しかし、写真の画像の拡大ではやはり読みづらい文字がいくつかあったことと、
最後の大凡(およそ)という文字で完結するのはおかしいと思いました。
これはきっとこの続きが、接写できなかった碑の右側の碑文になるのだろうと想像したとき、あれっ?と。
これは、もしかして、『布川案内記』に記されているものと同じなのではないか?

そこで、『利根町史』第6巻の巻末資料を見てみると、まさにそうでした。
おかげで、碑文写真からは読み取れない1行目の「接」や4行目の「鑿」等々が判明しました。
写真には撮れていない石碑右側の碑文も、こんど近づいて目で確認したいと思っていますが、
まず上記にまちがいないと思われます。写真を撮る必要がなかったですね。でも・・・

余談になりますが・・・
タヌポンは、赤松宗旦の『利根川図志』やその草稿にこの碑文が紹介されていることを知らなかったゆえに、
碑文を自分で読み込んでみようと思ったわけです。
おかげで「延袤」などの難字も知識として得ることになりましたが、そのことよりも、
考えてみれば、今回のタヌポンの碑文解読行為は、もしかすると赤松宗旦に続いて2人目ではないか。
そんなことを思いました。
もちろん、赤松宗旦の『利根川図志』やその草稿の存在を知っている人はそんなムダなことはしないのですが、
なんとなく先人が手で触りながら調べたその碑を、同様に自分が取り扱っていたことを思うと、
赤松宗旦に親しみがわいてくるような気がしました。
もっとも赤松宗旦が調べたときは、この碑は諏訪神社ではなく、「稲荷山」に建てられていたときですが・・・。
いまから約200年近く前の頃、宗旦が調べたときの「新利根川大堤修補碑」は、
風化していないもっと美しく読みやすい碑文だったでしょうか。

碑文の解説

裏面と右側の碑文は、左側よりも比較的に意味が分かりやすいかと思います。以下。

▼ 冒頭の「首」から「腹」そして「尾」は、工事箇所を記しています。
下総州相馬郡河原代村押付新田から、常陸州河内郡を経て香取郡結佐村まで。
現在も残っている地名もあり分かりやすいですね。

▼ 次に「矦」から「佐之」は、工事にたずさわった人の紹介。
陪臣の植田左仲命純(よしずみ)を総督として、里見權七郎義孝を副官とし、
臼井儀大夫善胤、金子八左衛門公忠、幸島善兵衛且平、諏訪又左衛門勝為らが補佐するというもの。

▼ その後は、期日。11月というのは、最初の碑文冒頭の寛保壬戌(1742年)の11月のこと。
これは寛保2年。翌年が最後の碑文にも記されている寛保3年で、
その3月桃の花が咲く頃までの約半年間、寒氷を掘りながら工事を行ったということです。

▼ その次には工事にあたった民力で、22万7500等々の工事費用がかかったとのこと。
そして、羽根野村叢社というのは諏訪神社ではなく稲荷山の稲荷神社で、ここに碑を建立。
寛保癸亥(みずのとい=1743年)の4月に、植田左仲が謹しんで識るす、となります。

▼ 途中、「告功桃花」では、碑文では功の字が旁が力ではなく刀となっていて、
『布川案内記』では宗旦が注釈で功のまちがいだろうと指摘しながらも、
本文では「告初桃花」となって初の字の脇に線引きがしてあります。
どの字が正しいにしろ、注釈も含めて宗旦の記述の意味合いがいまひとつ不明です。
ここは「告初桃花」ではなく、やはり「告功桃花」で、桃の開花の頃という意味と思われますが・・・。

▼ ちょっと迷ったのは、「六監等竊議勒事于石」。
六監(りくかん)竊(ひそ)かに議(はか)りて、事を石に勒し、ですが、六監とは?6人の監督の意味では、
植田左仲と副官の里見權七郎、補佐の臼井儀大夫、金子八左衛門、幸島善兵衛平、諏訪又左衛門で、
ちょうど6人となりますので、どうもこの6人が自画自賛(笑)して碑を建てたと、タヌポンは解釈しましたが、
竊(ひそ)かに議(はか)りて、とは?幕府の許可なしで、私財で建てたということなのでしょうか。

稲荷山発見!

実は、上の追加碑文の発見と同日に稲荷山の所在が判明しました。それも別の目的の探索途中でした。

小貝川に架かる戸田井橋のたもとにこんもりとした丘陵地があります。
そこには、以前、琴平神社の祠等があったということを地元の会合で聞きました。
これについては、地元小学校の先生が「羽根野琴平神社の移転に関する一考察」というレポートを作成されており、
後日了承をいただいたら紹介したいと思っています。
この事実は、かねてより疑問に思っていたすぐ近くの 不思議な「琴平橋」 の命名の意味が氷解するもので、
まずその痕跡がないかを調べようと出かけたのです。

その探索の途中で、地元のある方に会い、「いなり様」の存在を知りました。
その方によれば、「稲荷山」は分からないけど羽根野の「いなり様」は、
もともとあったところから、諏訪神社に移されたといいます。
諏訪神社に移されたという稲荷とは、まさしく最初に「新利根川大堤修補碑」が建てられたという稲荷です。
「して、その“もともとあったところ”とは、どこなんですか?」
その答えは、その前を何度も通ったことのあるタヌポンにとって驚くべきものでした。

稲荷山

これは、諏訪神社前の細道を
東に200mほど行ったところ。

タヌポンの散歩道で
左手がこんもりとした山になっていて
少し先右手におそばやさんがあります。

いつも「この小山はなにがあるんだろうなあ」と思っていたところです。
また、景色的にも、とても気に入っていて、
勝手に選んだ利根町100景にも、
54番「そば処吉ろべ衛裏山」として紹介。

これが、「稲荷山」だったのです。
ちなみに地名的にも、
この辺りを稲荷下と呼ぶようです。
(冒頭 利根町北西部マップ に追加)

前の畑で農作業をしていた婦人に聞くと、やはり「稲荷山」というより、「いなり様」があったといいます。
ここでタヌポンはある推測をしました。
たしかに丘陵地で「山」ではあります。でも「稲荷山」という呼称はもともとなく、「いなり様」だったのでは?
「いなりやま」と「いなりさま」。どうです、よく似てませんか?
それを赤松宗旦が聞き間違えて「稲荷山」と記したのではないでしょうか。
もし稲荷山という名であったら、稲荷下という地名も稲荷山下となるのではないか、などとも思います。

その真偽はともかく、中に入れるか聞きますと、「ほれ、そのブロックの脇から」と指差した先は、以下。

稲荷山入口

ああ、やっぱりここ?
墓石のようなものが侵入者を阻むように建っています。しかも崖です。
以前、それでも、そこを登って見てみたいという誘惑にかられました。
でも一歩のところで踏みとどまりました。
なぜなら、後ろが広々として丸見えです。
登り始めた瞬間にだれかにとがめられそうな気がしました。

でも、いまならその婦人と
最初に教えてくれた方2人のお墨付きがあります。
なにも痕跡はないと思いますが念のため登ってみます。
・・・うむ。でぶのタヌポンには狭くてちょっときついぞ・・・。

墓石のようなものは、最初に出会った方はその方のご先祖が建てたもので道標といわれていました。
調べてみると確かに石塔の右には「西とりで」左には「東成田」とありますが、本来は供養塔のようです。
しかし、どうしても、この石塔を手がかりにしないと登りにくく、
でも体重を掛けすぎて石塔が手前に倒れたりしたらたいへんなので、ちょっとはらはらしました。
あとで婦人に聞いても昔からそこしか入口はないとか。
でも左のブロックがない時代ならもう少し登りやすかったのではないかと想像します。

三山百番塔・道標

上部に、出羽三山の「月山 湯殿山 羽黒山」の文字。中央に、右から「西国 秩父 坂東」そして下に「諸願成就」。
中央は石塔の右側面。「西とりで道 羽根野村 高野五左エ□」。右写真は左側面で、「東 成田」の右には「天保九□」。

高野氏が天保9年(1838)、出羽三山と百観音順礼を成就した記念の塔で、取手・成田方面を示す道標も兼ねています。
表面上部には日月も彫られています。(崖の途中で撮影は困難。雑巾等もたずに手でしか表面の砂等ふき取れず残念)

巡拝塔 兼 道標 巡拝塔 兼 道標右面 巡拝塔 兼 道標左面

本体: 高60cm、幅30cm、厚22cm。

稲荷山内部

稲荷山内部

これが供養塔を抜けて登った先の右手。
なにもないですね。
奥も行き止まりのようです。
左手の上も大樹が茂っていて登れそうもありません。

降りてからまた婦人に尋ねると
わたしが指差したところより さらに右手のほうと言われましたが、
そこには行けそうもありませんでした。
祠等の痕跡も残念ながら見つかりませんでした。

(12/03/25 追記) (撮影12/03/14・12/03/15)


さて、話は戻りまして、あの鳥居の「□□大明神」の□□の部分です。これは、もしかして間部詮方の「詮方」では?
「詮方大明神」。ピッチャーの「佐々木大魔神」というのと同じです。方はそのままですし、上の字のゴンベンも符号します。
諏訪大明神だと方のほうのゴンベンがないのが気になります。
これは地元の方に聞いてみればすぐわかることなのでしょうが、タヌポンはまだ確認していません。
「詮方大明神」であったほうが面白いな、と思っています。草書体など書道にくわしい人ならすぐわかることなんでしょうが・・・。
(でも、上記はちょっとムリかな。神社の祭神のことをもう少し調べてみると、やはり単純に諏訪大明神かな、というところです)

解決→諏方大明神=諏訪大明神でした!

いま(2007)放映されているNHK大河ドラマ「風林火山」で、武田信玄の陣旗を見て、あっと驚きました。

南無諏南宮法性上下大明神

(なむ・すわ・なんぐう・ほっしょう・かみしも・だいみょうじん)

諏訪は、昔は、少なくとも武田信玄のいた頃は、信玄に関係のある「すわ」地方・神社名などは、諏方と書いていたのです。
少し調べてみると、江戸時代に諏訪という字に変更になったとか、一部の表記、神社名などは諏方と書くことを許された、
などとあります。
詳しくはわかりませんが、利根町の諏訪神社の鳥居の神額も昔の例に倣って「諏方大明神」とされたようです。
このことを最初から知っていれば、悩むことはありませんでしたね。
お騒がせいたしました。

(07/07/24追記)

裏門

見つけにくいミニ参道

来るときはここから

もし諏訪神社の裏門をめざすときは、ここから。
羽根野の表通りです。
取手方面からは、取手駅から北方行きのバスに乗って12〜13分、
諏訪神社下車ですが、バス停から少し離れています。
諏訪神社のバス停から、バス通りの進行方向に20mほど坂を登り、
すぐ左折したときが左の写真。少し登り坂になっています。

が諏訪神社裏門への入口です。
民家の駐車場があるくらいで何も目印がないので、
ぼーっと歩いていると見逃してしまいます。ご注意。

諏訪神社参道

の地点まで来て右手を見たときの写真が左。
前方右に諏訪神社と記された石柱が見えます。
ここから諏訪神社の裏門に行けます。
短いですが、これでもいちおう裏参道でしょうか。
あっと参道は狭い道ですから駐車はできませんよ。
タヌポンはいつもバイクだから平気ですが。

社寺号標石

諏訪神社の社寺号標石 諏訪神社の社寺号標石裏面

諏訪神社」と記された石柱。
背面には「奉納 昭和甲寅正月吉日」。
昭和甲寅(きのえとら)年というのは
昭和49年(1974)のことを指します。

あれれ、これは前にも書きましたね。
えーと、冒頭の正門の由緒看板に
記載されていたのと同じです。
ということは、公園・児童遊戯施設など
整備されたのと同時期に、
この「社寺号標石」も建てられた
ということですね。

裏門入口

諏訪神社 表門

前の諏訪神社の石柱より3〜4m前方に、
ブロック柱の門柱があり、「諏訪公園」となっています。
正門と同じ形の石柱ですが、ここが裏門です。
拝殿・本殿がすぐ先にありますが、向こう向きです。

タヌポンの正門からの散歩コースは階段があるから
ちょっときついけどそのほうがおすすめです。
遠くからでも入口の赤い鳥居が目立つので
見逃すことはないでしょう。


(15/04/03・13/09/07・12/03/26・12/03/25・11/01/05・07/07/24・06/07/08・06/07/07・06/07/04・05/08/07・05/08/06・05/01/09・05/01/03 追記) (04/12/25)
(撮影 12/03/15・12/03/14・11/01/02・07/05/05・06/08/06・06/07/29・06/07/07・05/08/06・05/04/08・05/01/03・04/12/05)

諏訪神社2(境内の設備・神木などの紹介)へ続く


本コンテンツの石造物データ → 諏訪神社1石造物一覧.xlxs (11KB)