タヌポンの利根ぽんぽ行 諏訪神社1

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諏訪神社


タヌポンのいつもの散歩道の途中にある諏訪神社。
これは裏門の鳥居なんですが、この中を覗くと薄暗い細い道が続いています。
ちょっと気味が悪いんですけど入っていきます。(04/12/25)
また、「さびしい神社。いつきてもタヌポンひとり。だけど・・・」などと当初、記しました。
が、これは利根町探索を始めた初期の感想で、いまから思えば諏訪神社に限らず利根町のほとんどのポイントはタヌポンの訪問時、人っ子ひとりいなかったわけです。もう、慣れましたね。

さて、神社の紹介を裏門からというのはちょっとヘンですが、それがタヌポン流。体験した順番、時系列に紹介したほうが臨場感があるのでは、などと自己満足。
でも、後で補足するときにコンテンツ再編成しなければならないときも。
この諏訪神社もそうです。1と2に別けて再編成することにしました。あーーっ、どれを2に移動させるか、なんて考えるのも編集のつらさ、楽しさ・・・。

タイトル画像は2画像のjavascript処理をしていますが、IE以外では固定1画像のみの表示となりますので、以下、2画像のミニ画像を再掲します。(クリック拡大できます)

諏訪神社(宗忠鳥居) 諏訪神社(両部鳥居)

利根町北西部マップ



裏門入口

鳥居と由緒書看板

由緒書き看板と鳥居

鳥居の左隣りに白い大きな看板が建っています。
何か書いてありますが、文字がかすれていてほとんど読めません。
後で分かったことですが、上の神社の本殿横にも前に書かれたらしい古い看板がいくつか重ねられていました。
形あるものはいつかは・・・とはいうもののちょっと安普請のような・・・失礼しました。

辛うじて読める文字は・・・。(画像クリック拡大)
本祭が1月15日
秋祭が9月19日
これらは旧暦かどうかは分かりません。
いつか当該日に訪ねてみましょうか。


さらにその左には、大樹が・・・→これは諏訪神社2でどうぞ

では、鳥居からいよいよ中に入ってみます。

(05/08/07追記・05/08/06撮影)


裏参道と急階段

裏門鳥居を抜けると 向こうに階段が・・・

左が竹やぶ、右が廃屋の細道を20mほど行くと階段が見えてきます。
自転車の後尾灯が光っていますがカメラのフラッシュのせい。廃棄されたものみたいです。
この路が裏参道ということになるのでしょうが、暗くて恐いですね。昼間でも竹薮などから何かが出てきそうで、あまり振り向かずに必死になって奥の階段を登ります。この怖さが急階段を登る原動力になっているくらいです。ましてや夜になど、とてもとても。考えただけでぞーーっとします。タヌポンは肝試しはご遠慮いたします。


急な階段 階段上から下を見る

40段くらい(44段)だけどすごい角度。重いタヌポンはふうふう。上に登って下をみると、ヒャーッ!タヌポンは少々高所恐怖症なのです。でも、どうしてもここでなぜか振り返りたくなります。魔物が背後から迫ってきていないのを確認したいからでしょうか。ここまで登るととりあえずひと安心。汗がどっと溢れてきます。


まだある階段

登って左手にまた階段(8段程度)、その上、右方にまた階段。もう疲れます。




小階段から見下ろす 見上げると竹やぶのなかから太陽が

でもこれは10段しかなくて、これで階段は終わり。ホッ。
あたりは竹やぶ。目の前に大きな・・・何の樹だろう。見上げると冬の夕日が・・・。


諏訪公園

見えてきた 諏訪公園

ようやく見えてきました。冬でも汗だくだくです。諏訪公園と書いてあります(右クリック拡大)。境内は小さな公園になっているようです。
もうひとつ先ほどのとは形のちがう鳥居も見えますね。さらに向こうに拝殿が見えます。その左手奥が本来の入口になり利根町羽根野の街並みに出ます。
正門から入っても鳥居があるわけでもないので、向きがこちらの鳥居が都合2つありさらに諏訪公園という表札もあるこの裏門のほうが、むしろ正門のように感じますね(後で分かりましたが、正門にも諏訪公園の表札が掲げられていました)。中の拝殿もこちら向きに建っていますし・・・。
さて、鳥居に近づいてみましょう。

魔物の妖気を振り切って(なんのこっちゃ?)階段を上がってやっと見えてきた鳥居。どうしても早くそこへと気がせいてしまいますよね。しかし、ここで、左手のほうを見てみる余裕があれば、そこに何かを発見することができます。タヌポンも何度もここに訪れていましたが、それに気がついたのはかなり後でした。何があるのか?それは諏訪神社2でどうぞ。

ということで、ここでは直進しますが、きょうはここまで、続きはまた後日・・・。

鳥居と神額

両部鳥居

稚児柱

最初に見た裏口の鳥居(下右)は神明鳥居系の宗忠鳥居という種類のようですが、境内中央のは蛟もう神社と同じ両部鳥居という明神系の鳥居です。(狸の巻物 鳥居について参照)
両部鳥居の特徴は何と言っても「稚児柱」という支えの柱があることです(クリック拡大参照)。
ひとつの神社に2種類の鳥居がある、こういうところも神社のおおらかさというところでしょうか。
(05/08/07追記・05/08/06・07/05/05撮影)

宗忠鳥居

諏訪大明神か、詮方大明神か

解決→諏方大明神(=諏訪大明神)でした!(07/07/24)

??大明神

この両部鳥居に掲げられている神額の文字。これは何と読むんでしょう?
単純に考えれば「諏訪大明神」でいいと思うのですが・・・。 最初の文字が達筆なので自信がありません。

偏はゴンベンなのかしら?諏訪の諏という字でいいのでしょうか?
そうだとしても、下の字はゴンベンなしの方だけで訪の字の代わりとなるのでしょうか?
もしそうなら、諏訪大明神でOKなのですけれど、なんかちがうような・・・。
だれかに聞いて確かめようも、いままでここに何回かきたけど他の人に会ったことが一度もないのです。
図書館かなんかで調べるしかないですね。

ところで、このことに関連して・・・。
この鳥居の手前、さきほどの諏訪公園入口を入ったすぐ右手に石碑が立っていて、その表面に文字が彫られていたのですが、何か難しそうな書体だったので、タヌポンはよく見もせずに次に進んでしまいました。
しかし、これは利根町の重要な歴史のひとつを物語るものだったのです。
そして、その物語が、タヌポンに、この「□□大明神」の□□の部分の文字の候補を推理するヒントを与えてくれました。
以下、江戸時代の新利根川の堤防補修工事にまつわる話です。
(ただし、その推理は少々ピントがずれていたかも知れませんが・・・)



新利根川大堤修補碑


利根町というのはその名のとおり利根川の流域にある町で、当然、昔から水害に悩まされていたわけです。
そのなかでも利根町の昔ばなしに残っているのが寛保2年(1742)の話。
当時、江戸幕府は全国の大名たちに指令を出して各地の暴れ川の土手の工事をさせたのだといいます。
この利根川(新利根川)を担当したのが鯖江藩(現在の福井県)五万石の殿様でした。
名前を間部詮方(まなべあきみち)といい初代藩主間部詮言(あきこと)の兄 詮貞の長男で鯖江藩第2代藩主でした。


つかみどり


間部詮方は新利根川の工事を担当したものの当時、工事をするには人夫がとても不足していました。
なにか人を集めるよい知恵はないかと思案しましたが・・・。
この間部藩の家老に植田佐仲という頭のよい人がいました。
この人物が、あるイベントを発案、屈強の男たちを呼び寄せ見事、工事を完成させてしまったのです。
そのアイデアイベントというのが・・・
こぶしが入るほどの穴をあけた四角い箱の中に銭をいっぱいいれて取らせた「つかみどり」だったのです。
こうすると「手の大きさ」を自慢する力持ちがぞくぞく当地に集まり、彼らの力により新利根川の工事はどんどん進みました。
植田佐仲は殿様からごほうびをもらい、殿様の間部詮方も幕府から大いにほめられました。
そして、この名誉を末ながく残そうと羽根野の稲荷様に石碑が立てられました。
それが現在、諏訪神社に残っているこの記念碑なのです。建てられたのは工事着工の翌年の寛保3年(1743)のことでした。羽根野の稲荷山というところにあったということですが、いつ移されたのかは分かりません。また、裏門の柱に対してこの碑とは反対側に境内社として稲荷神社の祠が建てられています。これが同時に移されたものではないかと推察しています。

新利根川大堤修補碑 文字が刻まれた石碑左側

これが、タヌポンが最初、それに刻まれた難しい文字を一瞥、敬遠して素通りしてしまったあの石碑です。写真左がその正面。
ちょっと難しそうなのですが、こうしてよく見てみると・・・「新利根川大隄修補碑」と書いてあるようです。
新利根川、大隄、修補の碑、ということですね。
隄は次の文字。

堤の難字

この字は堤防の堤の難字ですね。土手のことです。こざとヘンの難しい字になっていますし、補修ではなく修補となるんですね。
タヌポンは単純な「大」を表すこの書体文字が最初、読めませんでした。
でも、この石碑の左側に、右の写真でわかるように細かく説明が記されていました。
(写真はちょっと読みにくいですが冒頭の寛保などは見えますか?)
そこには鯖江藩主、間部詮方の名前も記されています。

以下、この文字を写してみました。

 寛保壬戌秋洪水坂東太郎四大川決漂没人物傷害稼穡

官命列矦其其修補之越前州鯖江矦兼若狭守間部詮方與焉

 乃築下総州新利根川大隄及分流支脈之堰延二十五里


難しい旧字は現代文字に直してあります(グレー)。 判読が難しい字。推定です(青)

寛保壬戌とは「かんぽう時代のみずのえいぬの年」すなわち1742年ですね。坂東太郎は利根川の別名。稼穡(かしょく)とは農作物のこと。「没人物傷害稼穡」は、人やモノが水中に没し、農作物が被害を受けたということですね。
官命により当時の大名列侯がそれぞれ「修補之」=これを修補する、工事に取り掛かった。「越前州鯖江矦兼若狭守間部詮方」鯖江藩主兼若狭守(わかさのかみ)である間部詮方が、「與焉」は与る(あずかる)関与した、担当したということですね。焉は感嘆詞。
乃は「すなわち」と読みます。乃以下で、間部詮方の関与した工事の詳細を語っているわけです。すなわち・・・「築下総州新利根川大隄及分流支脈之堰」、下総州の新利根川の大堤防とその支流等の堰を築造したというわけです。
最後の「延二十五里」ですが、その工事延長が25里に及んだということですね。
「長」に当たる文字が判読しにくいのですが、延と二十五里でなんとなく意味は分かりますね。でも正解は何だろう?

以上、解説(解読?)しました。さあ、そこで、あの鳥居の「□□大明神」の□□の部分です。

これは、もしかして間部詮方の「詮方」ではないのでしょうか?
ピッチャーの「佐々木大魔神」というのと同じです。
方はそのままですし、上の字のゴンベンも符号します。
諏訪大明神だと方のほうのゴンベンがないのが気になります。
これは地元の方に聞いてみればすぐわかることなのでしょうが、タヌポンはまだ確認していません。
「詮方大明神」であったほうが面白いな、と思っています。草書体など書道にくわしい人ならすぐわかることなんでしょうが・・・。
(でも、あの文字は詮ではちょっとちがうかなという気もします。一般の神社の祭神のことをもう少し調べてみると、やはり単純に諏訪大明神でいいのかな、というところです)

(06/07/08・05/01/09追記)(05/01/08撮影)


解決→諏方大明神(=諏訪大明神)でした!


いま放映されているNHK大河ドラマ「風林火山」で、武田信玄の陣旗を見て、あっと驚きました。

南無諏南宮法性上下大明神

(なむすわなんぐうほっしょうかみしもだいみょうじん)

諏訪は、昔は、少なくとも武田信玄のいた頃は、信玄に関係のある「すわ」地方・神社名などは、諏方と書いていたのです。
少し調べてみると、江戸時代に諏訪という字に変更になったとか、一部の表記、神社名などは諏方と書くことを許された、などとあります。
詳しくはわかりませんが、利根町の諏訪神社の鳥居の神額も昔の例に倣って「諏方大明神」とされたようです。
このことを最初から知っていれば、悩むことはありませんでしたね。
お騒がせいたしました。


(07/07/24追記)

拝殿(本殿)と祭神

諏訪神社の由緒沿革は不詳ということですが、祭神については、全国の諏訪神社は建御名方命(たけみなかたのみこと)という風にだいたい決まっているようです。
信州の諏訪大社が本家でそこから勧請されたものといいます。
利根町史によると、加えて八坂刀売命(やさかとめのみこと)も祭神となっています。
この2人は夫婦なのですね。(狸の巻物 神々の系譜参照
(06/07/04・05/08/07追記)


拝殿

もう賽銭箱もなくなっている拝殿。
ほんとにだれも来ないのかしら?
・・・・・・・・・・・・・・・。
ないしょなんですが、だれもいないとだいたい人はワルイことをしますよね?
タヌキは人じゃないから、次なる行為を許してください。

の拝殿の格子の隙間からデジカの先を入れて真っ暗なの中をフラッシュで撮ってみました!
皆さんにもここでその写真を公開します。ちょっとだけですよ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
えっ、どこにその写真があるんですって?
それはないしょです。
(ヒント:この写真


本殿

拝殿と本殿

なお、本殿はこの拝殿の背後にあるのがそうです。
が、中を見ることはできません。拝殿・本殿は流れ造りという建築様式です。

本殿横に見える白いものは冒頭で説明しました古い由来書看板です。



賽銭泥棒か?


ところで、05/01/03に訪れたとき拝殿の写真を撮ったのですが、なんと・・・。

拝殿右が壊されて・・・

拝殿の向かって右の部分の板がはがされているではないですか!

ひどいことをする人間がいるなあ。


中に賽銭箱が

もう、と憤慨して中を覗いてみました。
なんと中に賽銭箱があるみたいです。左に見える箱がそうです。
これはどういうストーリー?
中に入れてある賽銭箱からお金を盗もうとだれかが板を破ったのでしょうか?
でも、こんなに人が来ない諏訪神社の賽銭箱を狙う人はいるのかしら?
タヌポンは中の写真を撮らせてもらったお礼に(勝手に撮った罰として)500円玉を奉納しました。



別の機会にもういちど。中の上のほうに掛かっている2枚の絵?が何なのか気になります。いつかそれも調べてみます。(次項「絵馬 祈願図」参照)
格子の扉が見えますがあの奥が本殿で祭壇などがあるのでしょう。ところで、賽銭箱はどこに消えた?

拝殿内部 拝殿内部

(05/01/09追記)(05/01/03)(05/04/08・05/01/03・04/12/05撮影)


絵馬 祈願図


拝殿内部の絵が何であるか判明しました。
ともに「祈願図」と称される絵馬であることが、2005年1月に開催された「利根町の絵馬展」で分かりました。
左は明治19年に筑波郡より奉納されたもの。右は当地の27名の奉納者が記されています。
この絵馬はいずれも女性が神社に祈りを捧げている図で、女人講であると推定されています。
利根町には月待供養の十五夜、十九夜、二十三夜供養塔が数多く存在しています。
これらは如意輪観音を本尊とした女人の念仏講、安産祈願です。
なおこれらの絵馬の作者は不明です。

祈願図 祈願図

(05/08/07追記)

正門

出口、実際は入口 諏訪神社 表門

拝殿左はもう出口、いや本来の正門入り口になります。このブロック柱の表には「諏訪公園」の表札がつけられていました。羽根野の表通り(バス通り)のほうから見たのが右の写真。左の2つのブロック柱より3〜4m前方に立っています。奥に見えるのが拝殿(本殿)です。
なお、この石柱の後には「奉納 昭和甲寅正月」が記されています。昭和甲寅(きのえとら)年というのは昭和49年(1974)のことを指します。


来るときはここから 来るときはここから

もし諏訪神社に来るときは、ここから。表通りです。ちょっと左(東)上がりの坂道になっています(左写真)。
取手方面からは、取手から北方行きのバスに乗って12.3分、諏訪神社下車ですが、バス停から少し離れています。
バス通り進行方向に20mほど坂を登りすぐ左折したときが右上の写真。
が諏訪神社への入口です。民家の駐車場があるくらいで何も目印がないので、ぼーっと歩いていると見逃してしまいます。ご注意。

タヌポンの裏口散歩コースは階段があるからちょっときついけどそのほうがおすすめです。こちらは遠くからでも入口(裏口)の赤い鳥居が目立つので見逃すことはないでしょう。
(06/07/08追記)(06/07/07再構成・05/01/03追記)(04/12/25)
(撮影06/08/06・06/07/29・06/07/07・05/08/06・05/04/08・05/01/03・04/12/05)


諏訪神社2(境内の設備・神木などの紹介)へ続く