タヌポンの利根ぽんぽ行 諏訪神社2

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関連リンク


更新経過

2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
諏訪神社の石造物は、諏訪神社2が中心。
全石造物を再調査し、法量を改めて測り直しするとともに、誤謬等を訂正。
不足カットも追加で掲載しました。(15/04/03)


諏訪神社は本サイトを開設する以前から散歩のコースでしばしば訪れていました。
したがって開設とほぼ同時にコンテンツを作成したのですが、
その後、別のコンテンツを作成する過程で神社に関する基本的な知識を得たり、
石塔や石祠の種類、また利根町の歴史などを垣間見ることによって、
最初に分からなかったことも少しずつ理解し、また判明することもでてきました。
しかし、加筆・修正すべき点が多くなると構成が煩雑になってきます。

そこで、大きく諏訪神社を2ページに別け、
諏訪神社1で鳥居や拝殿などの基本情報を取り扱い、
この2では1で紹介できなかった石塔・石祠類や
諏訪公園としての付帯設備などを中心に紹介・構成しました。

その後、さらに1で碑文の文字解明等により再々編成したことにともない、
2も同様に新たに境内案内図を掲載するほか追記・再編成をしました。(11/01/07)


利根町北西部マップ

利根町北西部マップ

神木と巨木

スダジイの巨木

裏階段のスダジイの巨木

神社正門鳥居脇の由緒看板
その左に、大樹を見つけました。
何という名の木か分かりませんが
とても立派な幹です。
神社と関係があるのか、
お隣の民家の所有なのかも不明です。

→ スダジイということが判明しました。
(05/11/03利根町産業文化祭にて)

樹高13.0m、幹周8m26cm。
地上1mで大きく3分岐しています。

※ 以下巨木のデータは利根タブノキ会『利根町の巨木とタブノキ』によります。

神木は桜?

枝分かれした大樹

境内中央、拝殿脇には
根元から枝分かれした
大きな樹が立っています。
これが神木なのでしょうか?
何の樹なのか分かりません。
(→ 後で判明!)

この写真では見えませんが、
大樹の手前には壊れたベンチが・・・。
夏の木陰を楽しむ人たちも
いないのでしょうか
散歩のときなんかこのベンチで
ひと休みできるといいのに。
→ 2011年1月現在、
ベンチは老朽化のためか
撤去されています。

4本立てのシロヤマザクラ

4本立てのシロヤマザクラ

『町史』によれば諏訪神社の神木は
桜と記されています。
境内にあるこの写真の樹木が
神木であろうと想定されるのですが、
今年(2005)4月に訪問したときには、
ソメイヨシノで代表されるような
通常の桜の花弁の開花の様子は
見られませんでした。

しかし、この樹をよく見ると
(左下写真クリック拡大参照)
小さな花弁が見えます。
これはもしかすると
日立中央研究所で見た10月桜
または御衣黄桜などと同様の
珍しい種類の桜の一種かも?
追跡調査もその後していないので
依然として真相は不明です。

シロヤマザクラ

シロヤマザクラということが判明しました。
(05/11/03利根町産業文化祭にて)
ほぼ想像していたことが当たりました。

ちなみに、昔は、桜といえば山桜がほとんどで、
ソメイソシノに代表される、現在のような
大きな花弁のものはなかったと言います。
ソメイヨシノも吉野(奈良県)産ではなく東京が原産とか。

シロヤマザクラはソメイヨシノより半月ほど遅れて4月中旬頃に開花するということですが、
この写真はソメイヨシノが満開の同時期、4月9日のものです。ちょっと早かったのでしょうか。

諏訪神社のシロヤマザクラの巨木は4本立て。樹高21.0m、幹周6m60cm、樹齢推定約400年ということです。

2012年4月16日は、残念ながら葉桜っぽく・・・

シロヤマザクラ

ソメイヨシノの開花が例年より若干遅れたので、
16日くらいならちょうど見頃かと思いましたが、
ちょっと葉桜っぽい感じ。
少し遅れて咲くっていうんじゃなかったの?

うーん、本来は4月の何日くらいがいいんだろう?

シロヤマザクラ シロヤマザクラ

スダジイの巨木2

裏階段のスダジイの巨木

正門入口から入り
最後の階段の手前にも
(境内より10段下)巨木があります。
これもスダジイであることが判明。

幹周11m40cm。
6本に枝分かれしています。

巨木3

鳥居横の巨木

鳥居脇にもけっこう大きな樹が立っています。
これもスダジイでしょうか?

鳥居に向かう左手前に祠を発見!

このすぐ左に

諏訪神社1(この左手には・・・) で触れました思わせぶりな話。
「左手のほうを見てみる余裕があれば、そこに何かを発見すること」
それをここで紹介しましょう。

これはほんとうに何回もここを訪れていたのに
なかなか気が付かなかったのです。
初めて訪ねたときからもしかして
10回目以上になるかも知れません。

この左の写真のところからふとなにげなく左を見たのです。
どうしてもここでは、先の鳥居に進みたくなってしまうのですね。
それが盲点でした。

四郡大師

ふたつの祠

すこし登り坂のようになったその先に
2つの祠が並んでいるのが見えます。

奥深いことには、
この写真のすぐ右手にも
石仏が建っていたのです。
祠を調べて戻る時に
ふと見つけました。

ぼんやりしていると
これも見逃したかも知れません。
石仏はこのあとで紹介します。

2つの大師堂 貼り紙

2つの祠はまったく同じつくりですね。祠に向かって右には四郡大師の貼紙が貼ってあります(上右)。
これがあるから四郡大師であることが分かるというわけです。番号札はいずれにも付いていませんが・・・。

顔かたちなど少々ちがいますが、中はいずれも大師様でしょう・・・。
などと、以前書きましたが、写真を整理していたら重大なことに気づきました。

左大師 右大師

大師像は、空海だけではなかった!

台座

左は、上記の左の祠内の大師像が安置されている台座です。
これをよく見ると(写真では見えづらいですが)・・・。

円光大師とは、法然(1133−1212)のことです。
四郡大師は、そもそもは弘法大師である空海(774−835)が
四国で修行したことをなぞらえて行っている
札所巡りであるハズですが・・・。

いままで各所の祠のなかに2体以上の大師像が祀られているのを見ていて、不思議だなあと思っていました。
空海大師以外の大師でもOKだったんですね。
大師とは通常は空海を指すのですが、仏や高位の僧侶に対する尊称という一般名詞でもあります。
それなら、最澄や親鸞、日蓮等々の大師像が四郡大師の祠に祀られている可能性もあるのでしょうか?
それとも、円光大師だけが別格なんでしょうか。
また、関東の三大師と呼ばれるものでは、空海ではなく厄除け大師とも呼ばれる元三大師を指す、などということもあるとか。
真相はどうなんでしょうね。ほかの祠の像もこのように台座とかに名前が記されているといいのですが・・・。
あっと、この諏訪神社のもうひとつ、右の祠の台座はどうなっているんでしょう。
写真がないので、これは近々、見てくる必要がありますね。

あと、17番、というのは、正式な四郡大師としての札所の番号なのでしょうか。
これも、右の祠の台座を見てから検討してみます。

→ 右の大師の台座にはなにも記述はありませんでした。(12/05/05 撮影・追記)

左大師 右大師

左大師本体: 高33cm、幅23cm、厚17cm。右大師本体: 高33cm、幅25cm、厚17cm。

不動明王塔

これが先ほど話した見逃しそうな石仏です。「成田山不動明王」と刻まれています。

不動明王塔 不動明王塔裏面

成田山新勝寺の本尊は不動明王で、
瑳峨天皇の勅願により、弘法大師が
敬刻開眼したものといわれています。
その意味では、この石仏は
大師堂の近くが妥当ですね。

不動明王は、梵語で「アチャラナータ」といい、
シヴァ神の異名ですが、大師と同じ仏教系。
もともと同じ諏訪神社の境内にあったのが
廃仏毀釈で外に出されてしまった?
というより、やはり大師堂に近づけた配置?

裏面に「明治二十年六月 平野」とあります。
明治20年(1887)造立。施主は、平野氏。
平野氏の名は境内石仏で数多く出てきます。

本体: 高73cm、幅38cm、厚14cm。

境内の各種施設・・・東側

さて、諏訪神社1 と上記で紹介した以外に、
諏訪神社境内(諏訪公園)には、石祠や石塔、記念碑など様々な石造物があります。
それらの概要を以下、紹介しますが、ちょっと位置関係が分かりづらいので、案内図をつくってみました。
これにそって説明します。図の上は東方向、北は図の左となります。
まずは、図の上部、境内の東側を、正門を入ったところから裏門方向(南から北)へと順番に説明します。

諏訪神社境内案内図

諏訪神社境内案内図

新利根川大堤修補碑と不明の石祠

新利根川大堤修補碑 不明の石祠

正門を入ってすぐ右手に立っている新利根川大堤修補碑。これについては 諏訪神社1の同名項目 で詳説しました。
碑の背後に1基、石祠がある(右写真)のですが、これは風化で文字等由緒がまったく判明しません。道祖神あたりか?

道祖神とその手水

道祖神 道祖神の手水

不明の石祠とその前方にある樹木の間に、道祖神とそれに付随した小さな手水が並んで立っています。
手水の前面には「道祖神」「安永四未天 八月吉日」「平野新八 内」とあります。安永4年(1775)8月の造立。
道祖神専用の手水で同時に造立されたものと思われます。タヌポンはこういうミニチュアがわりと好きです。

道祖神本体: 高75cm、幅30cm、厚16cm。手水石本体: 高24cm、幅33cm、厚24cm。

庚申塔・愛染明王塔・十六夜塔

庚申塔・愛染明王塔・十六夜塔

道祖神脇の樹木の背後には諏訪神社のなかでいちばん古いものと思われる十六夜塔があり、
それとは向きを直角にして7基の石仏群が一列に並んで建てられています。
まるで供養塔1基が7基を監視しているような感じです。

『利根町史』には、十六夜供養塔ほか16基とありますが、この7基のほかにあと9基という計算になります。
しかし、以降で紹介するものすべてを足すとその数を若干超えてしまいます。
まあ、こうしたほか何基という『町史』の記述は、実際にはほとんど合致したためしがありません。
だいたいが多く見つかります。団地の造成等があり、編纂の時期とのズレで増えたということでしょうか。
増えた場合はともかく、『町史』の記述より少ない場合は足りないものはどこに消えたのか気になります。

なお、庚申塔7基について、野田市の石仏研究家の石田年子氏よりご指摘をいただきました。
7基は、正確に言えば庚申塔6基+愛染明王塔1基でした。
以下、4.庚申塔6.庚申塔7.愛染明王塔の3項目を修正・追記。

十六夜塔

十六夜塔

中央、「禅定印」を結んだ「大日如来」が刻像されています。
右に「十六夜念佛 同行十七人」、左に「延宝五年巳 十二月十六日」と読めます。

延宝5年(1677)12月16日建立の十六夜念仏供養塔です。
『利根町史』に代表で紹介、諏訪神社ではいちばん古い石仏でしょうか。
諏訪神社は延宝よりも古い沿革をもっているのではないかと推定されてます。

大日如来は、十六夜塔の主尊でもあるので、まさに妥当な刻像塔です。
ちなみに十六夜は「いざよい」。しかし、「いざよい・くようとう」と呼ぶのかは不明。
→ この場合は「じゅうろくやとう」と呼ぶのが通例のようです。

月待塔もしくは各種の月待念仏塔で、本尊が異なるという話も聞いています。
しかし、公式通りに十六夜塔が如意輪観音かというと、そうではないケースも多々。
それよりも、刻像された観音像・もしくは如来像がなんであるか、
一目で分かるかどうかも知識のいるところです。

ところで、この塔は、比較的、小柄です。
山岳信仰の石段のような2段石が設えてあるのかが不可解ですが、
小さくとも貴重な石仏なので目立たせようとしているのかも知れません。

本体: 高56cm、幅32cm、厚19cm。

庚申塔6基+愛染明王塔

1.庚申塔

1.庚申塔 1.庚申塔裏面

いちばんシンプルな文字塔です。7基のうち
裏面に文字が彫られているのはこれだけ。

すなわち裏面は、「明治十五午年
明治15年(1882)の建立。
ほかに「當村」として、
その下に20名ほどの人名が記されています。

またしても蚊の攻勢と背後の樹木が邪魔をし、
じっくりと撮影できませんでしたが、以下。

右から、細田三左ヱ門・高野吉良兵ヱ・細田五右ヱ門・平野新八・古田久兵ヱ・高嶋兵左エ門・海老原平兵ヱ・□田新右ヱ門・久保田七兵エ・鈴木平兵エ・海老原大右エ門・吉田庄兵ヱ・久保田市右エ門・海老原半右ヱ門・以下6名省略。(冬でも再撮して・・・)

本体: 高90cm、幅49cm、厚16cm。

2.庚申塔

2.庚申塔

上部に、「青面金剛」をあらわす梵字「ウーン」が彫られています。
梵字庚申塔は、比較的珍しいタイプで、利根町ではほかにあったかどうか・・・。

中央に「庚申供養
左右に「元文五庚申天」「十月吉日 村中
すなわち元文五年(1740)10月の建立。まさに庚申の年です。
ちなみに60年周期ですので庚申の年は、西暦では必ず下1桁は0となります。

下部には、庚申塔の定番の3猿の刻像。
風化・欠損のある石仏でも、3猿さえ彫られている痕跡があれば、
他はどんなに朽ちていようと庚申塔と断定できます。

本体: 高66cm、幅26cm、厚16cm。

3.庚申塔

3.庚申塔

庚申の文字はどこにも刻まれていませんが、
庚申の本尊である青面金剛が刻像された庚申塔です。
一面二臂で錫杖と法輪を持つだけの比較的シンプルで、地蔵と同様な風体ですが、
青面金剛であることは、「邪鬼を踏みつけている」ことで分かります。

文字は「天明三卯年」「二月吉祥日」。天明3年(1783)の建立。
高57cmと、7基のうち最も小さい塔。

石田年子氏は、以下の様に指摘されています。

役行者を彷彿とさせる修験者を刻んだ庚申塔は珍しい。
諏訪神社はかつて修験(法印)が別当として管理していたのではないでしょうか。

本体: 高57cm、幅29cm、厚20cm。

4.庚申塔

4.庚申塔

これも青面金剛が刻像された庚申塔。しかし、前のものより像の装飾が多彩です。
一面ですが頂に大蛇を纏い六臂は弓と矢、三叉戟、法輪などの武器を持ち、
下部には二鶏もいます。邪鬼を踏み、3猿も彫られた典型的な青面金剛像です。

左右に雌雄一対の鶏が描かれているものは利根町では珍しいのですが、
この意味は、申の次が酉ということで、その日になるまで籠るからとか、
夜明けの鳴き声を聞くまで夜明かしをするから、という説もあります。
3猿というのは、やはり庚申の「申」からきているのでしょう。
神道に転化した「猿田彦大神」の猿もそういう意味合いが強いようです。

文字は、右に「天明七丁巳年」、左に「四月吉祥日」。天明7年(1787)建立。
高さは1m強で、7基ではいちばん大きく見える刻像塔です。

本体: 高105cm、幅37cm、厚22cm。

5.庚申塔

5.庚申塔

やはり3猿が描かれていますが、青面金剛王の文字が彫られた庚申文字塔です。

建立は、「寛政十二庚申 十一月吉日」。
2.庚申供養塔の元文5年(1740)からちょうど一回りして、
60年後の庚申の年、寛政12年(1800)の建立です。

余談ですが、わたしたちが次に遭遇する庚申の年は・・・1800+60x。
計算すると、2040年です。不摂生な tanupon はちょっとムリ、だろうなあ。
その前の1980年はバブル絶頂前、いまでこそ言える儚くもいい時期でした。
庚申の年といっても、所詮、何をか言わん、というところですね。
でも、青面金剛を拝んでいる人など皆無で、1億総中流のみんなが浮かれていて、
夜通し遊び三昧だったから、天帝が怒ってバブルが弾けたのかも(笑)

下部左右に「注ェ野 村中」。根の字は見たこともない怪しい異体字。

本体: 高90cm、幅32cm、厚19cm。

6.庚申塔

6.庚申塔

一面六臂の青面金剛が石面積いっぱいに描かれています。
弓矢に戟、法輪、棒などのほか、下部に3猿もあり、
比較的小面積なので、文字の入るスペースがあまりありません。
そこに、各種の文字が押し込むように彫られています。

右では、上に斜めに「庚申」、中央に「供養」、下に「二丗安楽所」。
左は、上に何か文字がありますが、欠損か風化で読めません。
中央「十二月 吉」、下に「同行丗二人」。
解読できない部分が、建立年号と推定されますが・・・。

ふくれっ面で、剣の変わりに石棒をもつ青面金剛も珍しいです。これは子孫繁栄を願ったもののようです。三猿がキチンと前を向いていますので元禄ころ(1688〜1704)の造立のような気がします。(石田年子氏)

石棒は、よく見ると男根です。子孫繁栄の意味が分かりますね。三猿の向きによって造立年代がわかる、というのも、700基もの庚申塔がある野田市ほか何千基もの石仏を20年も実際に見て研究されたからこその指摘です。とてもかないません。

本体: 高61cm、幅34cm、厚20cm。

7.愛染明王塔

7.庚申刻像塔

これは、上部が円形で、一見して不動明王の光背のように見えますが、
中央に描かれた像を見ると、青面金剛のような・・・。
→ 愛染明王の誤りでした(石田年子氏指摘・この項下部参照)。

一面六臂で、頭頂部には髑髏に似た顔が描かれ、弓矢や羂索を持っています。
ひとつ「未敷(みふ)の蓮華」のようなものを右手に持っていますが、
これは青面金剛というより観音菩薩の持ち物のように見えます。
このあたりが、庚申塔かどうか少し迷うところでした。

円柱形の台座には、中央に「寛政元酉四月」すなわち寛政元年(1789)建立、
左右に「願主 吉田庄兵衛」とあります。
この名前は、1.庚申塔の裏面下にもありました。
ただ時代が明治なので、代々伝わる先祖・子孫の名前と思われます。

本体: 高63cm、幅30cm、厚17cm。

愛染明王は、二十六夜待の主尊ですが、瓶上に座すこと(藍瓶のイメージ)と愛染の「染」に引っ掛けて、紺屋達の信仰を集めてもいます。造立者の吉田氏は染物屋を営んでいた人物かもしれません。(石田年子氏)

手水舎

手水舎

境内中央にある手水舎。
下左は手水の左側面「北文間村豊田 願主 来栖せん
右は背面で、「明治三十三年正月十五日
北相馬郡相馬町 石川竹次郎 仝菅谷文治

明治33年(1900)正月15日に「奉納」されたものですが、
願主は分かりますが、背面の2名は施主でしょうか?
いずれも、現在の利根町区域外の人物。
相馬町は現在の取手市藤代町。

右にある石碑は手水関連のものかと思いましたが、
どうもちがうようです。次項目で紹介します。

手水石左側面 手水石裏面

本体: 高36cm、幅94cm、厚40cm。

記念碑

参道奉納記念碑

石造りの坂やコンクリートの参道が奉納されたときの記念碑でした。
江戸期なら「敷石供養塔」に分類されるものでしょうか。

石碑上部から、「奉納」、「石坂並ニ参道コンクリート」、
中央に「東京 山アきく」。左に「昭和丗三年十二月吉日」。
昭和33年(1958)の建立です。この諏訪神社にもいい時期があったのですね。

さて、さらに下部には、以下拡大写真で、氏子総代 山根広太郎 以下、
平野忠愛、平野保治、蜂谷義一。組長 細田覺一 外廿七名。
石工 布佐駅通り、清水石材店謹制
、が彫られています。

参道奉納記念碑

本体: 高85cm、幅43cm、厚7cm。
台石: 高26cm、幅64cm、厚24cm。

ここまでで、東側のすべての石祠・施設類を紹介しました。次は西側です。

境内の各種施設・・・西側

こんどは、案内図の下、西側部分。これも正門のすぐ脇から順に紹介します。
ここは大別して、稲荷神社の祠があるコーナーと、コの字型に石祠類がならんだスクエアの2つがあります。

稲荷神社コーナー

稲荷神社コーナー

参道からコーナーを見た画面。
正門入口すぐ脇に、十五夜供養塔。
右手は、大日神の石塔。
奥の左手は2基並んだ三峯山の石祠。
その隣りの真紅の祠が稲荷神社。

十五夜塔

十五夜供養塔

右に「奉待十五夜講中三十一人」、
左に「寛政十二庚申 正月吉日」と記されています。

正門入口、参道を挟んで
新利根川大堤修補碑 と向かい合わせに建っています。
寛政12年(1800)正月の建立。
台座上に右から「羽根野村」とあります。

刻像されているのは、十九夜塔では定番の如意輪観音像。
十五夜塔では、とくに本尊が如意輪観音とは定められていませんが、
利根町は十九夜塔で、半跏思惟座像の如意輪観音像塔が多いので、
当初は、十九夜塔かと思いました。

・・・夜塔は名前では月待講塔が多く思われがちですが、
月待というより初期は、念仏講として法事的色彩が強かったようです。
でも、十五夜塔に関しては、満月ですので念仏講より、文字通りの月待ち、
村民の娯楽的な色彩が強いように思われますが、どうなのでしょうか。
まあ、真冬正月の月見と聞いても、ぞっとしませんが・・・。

本体: 高105cm、幅35cm、厚23cm。台石: 高20cm、幅43cm、厚43cm。

三峯山の石祠2基

三峯山の石祠2基

十五夜供養塔の背後にある三峯山の石祠2基。
左石祠は読みにくいのですがこれも三峯山と記されています。

ちなみに三峰とは、埼玉・山梨県境にある白岩、妙法、雲採の三山で、
景行天皇が上総国巡幸に際し、この三山を賞して
三峯の称号を贈ったと伝えられています。

三峯神社は三峯山というように山岳信仰のせいか
塚の上など少し高いところに祀られる傾向があるようです。
ここでも2.3段ですが、石段を設けているのはそのせいでしょうか。

また、三峰信仰ではキツネなどが「御眷属様」として、おおきな役割を果たします。
同じキツネと縁の深い稲荷神社と隣り合わせになっているのも、偶然でしょうか。

江戸期に神仏習合が進み、関東・東北・信越地方に三峰講が組織され、
各地各講の代参者が参拝。火防・盗財除神札を講員に配付しました。
明治になって、廃仏毀釈により、仏教色が色褪せ、また三峰神社への変化も。

仏式の三峰供養塔は東北、とくに岩手南部に多く、関東は少ないようです。
関東ではそのかわり、こうした三峯山の石祠が数多く造立されています。

三峯山1

三峯山の石祠1 三峯山の石祠1左側面

向かって左の「三峯山

左側面には、「昭和廿八年旧正月十九日
羽根野根柄」「講中廿一人」とあります。

昭和28年(1953)の造立ですが、
戦後になっても三峰講が
まだ存在していたわけですね。

本体: 高46cm、幅31cm、厚19cm。

三峯山2

三峯山の石祠2 三峯山の石祠2右側面 三峯山の石祠2左側面

右の少し大きい「三峯山」の石祠。右側面に「世話人」として5名の名が記されています。
ただし、石祠下部が欠損、名前の部分が不明です。平野新□・細田弥□□□・久保田□□・中村□□・平野勘□□□
左側面には、「慶應二寅八月」「村講中」。慶応2年(1866)、幕末のあわただしい時の造立です。

本体: 高56cm、幅37cm、厚34cm。

稲荷神社祠

稲荷神社祠 稲荷神社祠

三峯山の石祠の右にあるのが稲荷神社祠。中にはミニ鳥居やキツネなどが雑然と置かれています。
稲荷神社と記された札がありますので稲荷神社であることはまちがいないでしょう。
新利根川大堤修補碑 の移転とからんでここに移されたものと考えられます。
また、赤松宗旦は「羽根野村の下の方なる稲荷山北稲荷」と『布川案内記』草稿に記しています。
北稲荷と呼ばれていたのでしょうか。それとも、単に稲荷山の北にあっただけ?稲荷山とはどこを指すのでしょうか。
参照→ 稲荷山発見!

大日塔

大日神

稲荷神社祠の斜め前にある「大日神」。

大日神を「おほひるめのかみ」と呼べば、
天照大神(あまてらすおおみかみ)の別名となるわけですが、
大日如来ではなくて、石祠型で「神」と記されると
神道系と判断してしまいますね。

造立年等いっさいの情報が不明です。

本体: 高82cm、幅44cm、厚28cm。

石祠スクエア

石祠スクエア

大日神の右隣には1辺が3.4mくらいの4角形のコーナーがありその3辺に石祠類がコの字型に並んでいます。
これらはもともとそれぞれの建立時からこの順序で並んでいたとは思えません。
羽根野地区一帯にあったものを宅地開発かなにかで諏訪神社にまとめたときにこのように並べたのではないでしょうか。
両側の筆頭にはそれらしく狛犬がありますが、これも後で配置するときに意図的にそこに置いたという感じです。

また、ここには合計何基あるかというと、かんたんには数えられません。
どうしてかというと、建立されたものなのか単なる石なのかが不明なものもあるからです。
少し判読できるものを、参道から見て左[スクエア左辺]、正面[スクエア上辺]、右[スクエア右辺]の順に、以下、紹介します。

[スクエア左辺]

石塔と狛犬(左)

石塔 狛犬(左)

いちばん左に先端が擬宝珠(ぎぼし)のような形の石塔が見えますが、なにかよく分かりません。
狛犬は愛嬌のある顔をしています。その隣りに石が2つほどありますがこれもとくに何かの形を成してはいません。

狛犬本体: 高50cm、幅46cm、厚20cm。

重層塔

巡拝塔

中央に「奉納 月山・湯殿山・羽黒山」の出羽三山。
その下に「西國・秩父・坂東」の百観音霊場に加えて、
さらに「四國供養塔」と続きます。
四国は、金毘羅大権現かと思われますが、数多くの霊場を巡拝したようです。
これだけ数多くの巡拝を重ねたものは「重層塔」と呼ばれます。

時期は、左右頭に「乙・亥」がありますので、つまり、
文化十二乙亥年十一月吉日」、文化12年(1815)11月の造立。

下部左右に「施主 吉田庄兵エ」。
この名はどこかで見ましたね。そうです、7.愛染明王塔 の願主の人。
染物屋さんかどうかは分かりませんが、そうとうなお金持ちのようです。

台石にも、「講中」ほか小さく名前が彫られているようですが、
ちょっと読み取れません。いつか再チャレンジしてみますが・・・。

本体: 高67cm、幅27cm、厚21cm。

不動明王塔

不動明王塔?

上記巡拝塔右の石塔は上部が欠落しています。
一瞬、青面金剛像を刻んだ庚申塔かと思いましたが、
三猿はないし、邪鬼も踏んでいない坐像です。

あくまでも推定ですが、下部に童子が2体彫られている様子なので、
これを、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)と見ると、
不動明王ではないかと推定しました。しかし、まあ当てずっぽうではあります。

本体: 高45cm(上部欠損)、幅30cm、厚20cm。

三十三社御神

自然石中央に「三十三社御神」とあります。これがよく分かりません。坂東三十三箇所の観音を指しているのでしょうか。

三十三社御神

ちなみに、巡礼行に、坂東三十三箇所・西国三十三箇所があり、
これらは、観世音を安置した33ヵ所の霊場を指します。
秩父三十四箇所とあわせて日本百観音の巡礼となり、
結願したら、長野の善光寺に参るのが慣例とか。

これら33ヵ所の観音を1ヵ所に集めて刻像したものを、
「三十三所観音」というそうですが、その文字塔版かも知れません。
そうだとすると、まことに安直な・・・(笑)。

塔の左下「道仙田 関屋□ 同 松浦□ 石工 □野熊治

本体: 高58cm、幅60cm、厚18cm。

[スクエア上辺]

座王社・金毘羅社の石碑

座王社・金毘羅社

上辺左から。
石碑の上部に2つの山が描かれ、
左から金毘羅社、座王社と記されています。
座王とは蔵王のことでしょうか。
中央にはカマを持った人物が描かれています。
ちょっと不気味な感じもしますが・・・。

本体: 高77cm、幅82cm、厚9cm。

社守儀晴記禄八十八歳像碑

社守儀晴記禄八十八歳像碑

上記の石碑の詳細が判明しました。(以下『利根町の文化学芸碑』より引用転載)

大正7年(1918)3月、河川改修のため、当時羽根野にあった金毘羅神社が、
諏訪神社に合祀されることになりました。(布川の琴平神社は別に存在)
当時の金毘羅神社の社守をしていた人が、牧野儀晴という人でした。

社守儀晴記禄八十八歳像碑裏面

この碑は、牧野儀晴氏への感謝を込めて
世話人たちによって建てられたもの。
左の碑裏には、明治8年(1875)
9月15日の建立日も記されています。

[碑裏]
明治八亥年九月十五日 世話人
平野新八・窪田七左衛門・平野平右衛門・海老原半兵衛・伊丹藤右衛門
石工 取手熊治郎

眺望の詩碑

社守儀晴碑の右は、「眺望」と題した七言絶句の漢詩が彫られています。

眺望の詩碑

 羽邨山上発雲根
 文巻刀寧併亦呑
 何擇富峯波岳大
 瞭然廻取在乾坤

と書いてあるようなのですが、作者・建立年等が不明です。
羽邨とは、羽の村、つまり羽根野村のこと。
文巻とは小貝川、刀寧は利根川。
また富峯波岳はそれぞれ富士山、筑波山を示すものです。
羽根野辺りの素晴らしい絶景を表している詩なのだと思います。

本体: 高77cm、幅74cm、厚10cm。

参考:漢詩おさらい。20字(4行)=五言絶句 40字(8行)=五言律詩 28字(4行)=七言絶句 56字(8行)=七言律詩

木曽御嶽講霊神碑

木曽御嶽講霊神碑

左は篆書体で書かれた石碑。普寛(ふかん)の名だけは、木曽御嶽山の開祖、
普寛上人を指していると想像しましたが、当初は、ほかは解読できませんでした。

後日調べてみると、上記はまさにその関連の石碑で、
木曽御嶽山の信仰団体である御嶽講碑の一環で
講者の講祖や先達の霊を祀る霊神碑(れいじんひ)と呼ばれるものでした。

中央は「覚明神」、右は「普寛神」、左は「壹心神」です。

古くから修験者の修行の場となり、山岳信仰の対象とされてきた木曽御嶽山ですが、
登山は一部の道者のみしか許されませんでした。
江戸中期、尾張出身の修験者、覚明行者が、一般に開放することを、
御嶽山管理者の神主武居若狭に願い出ますが、この願いはたびたび却下されます。
ついに天明5年(1785)、覚明は、無許可のまま多数の信徒を率いて登頂。

その後、武州秩父出身の普寛行者が、黒沢口のほかに王滝口登山道を新規開拓、
寛政4年(1792)には弟子を中座として御嶽山座王大権現を顕現させました。
これ以降、覚明は黒沢口、普寛は王滝口を根拠として、
2派は対立しながらも確実に信者を増やしていきました。
天保年間(1830−1844)には、2派の融和も図られました。

→ なお、惣新田の神社・石仏等 コンテンツの 特殊な石碑4基と疱瘡神 および 御嶽教とは 参照。

御嶽講碑は一般に「御嶽山座王大権現」などが刻まれたものですが、江戸末期には多数の霊神碑が造立されました。
なかでも、覚明行者は開山の聖者、普寛行者は開闢の聖者と称えられ、その名を刻む碑が数多く建てられています。
この諏訪神社の碑もそのひとつですが、覚明(かくめい・かくみょう)、普寛 はともかく、壹心 とはどういう人物なのでしょうか。

壹=一

壹心=一心(いっしん)は信濃国の出身で、普寛の最後の弟子、一心講開祖といわれています。
御嶽山を信仰し、御嶽山に赴いたところ、王滝里宮裏の岩窟(のち一心行場)で普寛と出会い、
不動明王の秘法を伝授されたといいます。左は、『三省堂漢辞海』による壹の文字のなりたち。
形声文字で、上の吉が音のイツ、下が壺で水を漏らすことのない専一という意を表しています。
ただ碑の文字を眺めていてもさっぱり分かりませんね、調べないと。

木曽御嶽講霊神碑裏面

左は、この碑の裏面。背後1mに柵があり、狭くて、暗くて、そのうえ、
いつもものすごい藪蚊に攻められて、撮りにくいといったらありません。
ここだけでなく諏訪神社は全般的に薄暗く、蚊の猛攻を余儀なくされるので、
実は、石碑の裏面など狭く、撮りにくい所はいままで断念してきました。
今回、近くに来る用事があってチャレンジしてみましたがやはり・・・。

とりあえず、ピンボケですが紹介します。
講中世話人」として、羽根野より別の地域の人々の名が最初に記されています。
河原代 松浦治左エ門」とか「押戸 杉山長兵エ」など。
その下に、「當村世話人」で、ほかにも見かけた羽根野村の人々。
さらにその下に数多くの名前が彫られています。特殊な信仰のものであるせいか、
ほかの石仏とはメンバーが異なっている感じです。

本体: 高124cm、幅64cm、厚16cm。

碑陰

以下、講中等の人名を掲出しましたが、肝心の造立年等は、見当りませんでした。

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□加納村□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□市田刑馬藤原信静□□□□高島久左エ門
□□當村□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□押戸□□□□□□□□□鰕原□□彦兵エ
□□□平埜□□□□藤右エ門□□□□稲垣□□□□□高島□□庄兵エ
□□河原代□□□□□當邨□□□□□□□□□□□□□寺田□□新兵エ石山安右エ門
□□松浦治左エ門□□□□久保田七左エ門□□□□浅野□□佐兵エ□□□牧野五左エ門
□□押戸□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□蜂谷□□權兵エ□□□□
□□□杉山長兵エ□□□□□□□□□□□□□□□□椙山與右エ門□□□鰕原太良右エ門
□□□□□□□□□□□□五左エ門□□蜂谷太左エ門□□□鈴木□□正兵エ
□□杉山長次郎□□□□□□□□□□□□□□飯田忠右エ門□□□平野□□八兵エ
□□新田□□□□□□□□□□□勘兵衛□□□□杉山治良左エ門□□□細田三左エ門
□□□鬼澤半兵エ□□□□□□□□□□□□□□□□大越□□清兵エ□□□吉田□□久兵エ
□□河原代□□□□□□□□弥右エ門□□□□成島□□利兵エ細田五左エ門
□□富田四良兵エ□□□□□□□□□□□□□奥山□□□□□□□□□蜂谷平右エ門
□□□□□□□□□□□□□半兵エ□□□□荒井辨左エ門□□□中村喜右エ門
□□□酒井□□□□□□□□□□□□□□□□永澤勘左エ門□□□諸岡□□
□□□□□□□□□□□□五右エ門□□□加納□□□□□□□□□渡邉市良左エ門
□□梅原善兵エ□□□□□□□□□□□□□□□□高橋佐左エ門□□高津
□□上曽根□□□□□□□半左エ門□□上曽根□□□□□□□□宮本□□喜兵エ
□□□鈴木嘉左エ門□□□□□□□□□□□□□□□□豊島庄左エ門□□相馬
□□□□□□□□□□□□河原代講中□□□□□栗原喜左エ門□□□酒井惣右エ門
□□豊島五左エ門□□□□木村弥二右エ門□□□□□武藤□□□嘉七市田儀左エ門
□□當村□□□□□□□□□松鹿八右エ門□□□□押付□□□□□□□□□渡邉平左エ門
□□□高野吉良兵エ□□□□岡野□□安兵エ□□□□□石塚□□利兵エ□□上曽根
□□□□□□□□□□□□□岡埜□□長兵エ□□□□□小池平左エ門□□□鈴木五左エ門
□□□□□□□上曽根□□□□□□□□□□□□□□□豊島弥五左エ門□□□豊島勘右エ門
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□蝦原□□甚兵エ□□□鈴木宇右エ門
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□谷中
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□榎本□□八兵エ□□□大埜□□清兵エ

富士講碑

霊神碑の右は、「富士浅間大神」。浅間大神については、来見寺の 浅間神社 でどうぞ。

富士浅間大神 富士浅間大神裏面

前面にある手水には、「万人講」、
裏面上部に「明治十四巳年苐九月吉日
明治14年(1881)の建立です。

前記の木曽御嶽講霊神碑と合わせて、
典型的な山岳信仰の碑と言えます。
この上辺コーナーは、
眺望の詩碑の存在を合わせて考えると、
高所に立地した見晴らしのいい場所から、
山岳信仰関連の石碑が
並立されたのではないかと推測します。

ただし、これらの石碑は
現在の諏訪神社の位置ではなく、
戸田井橋東付近の丘陵地、すなわち
元の金毘羅神社にあったものと思われます。

いずれにせよ、戸田井橋東の丘陵地からは
いい景色が眺められたのでしょう。

碑裏の下部には、「登山連盟」の文字が彫られ、
その下に木曽御嶽講霊神碑ほどではありませんが、
何名かが列記されています。

富士浅間大神裏面下部

本体: 高144cm、幅78cm、厚13cm。

下総□□相馬郡
□□□
豊田村□□七兵エ
□□□□
羽根野村久保田七左エ門
押戸村□□
片山村□□重治郎
布瀬村□□宮三右エ門
平塚村□□井金左エ門
□□□□傳次郎
□□□□勝五郎
□□□□谷源左エ門
□□□□
□□□□
高須村□□太一郎

清瀧大神

清瀧大神

前に 惣新田 で同じものを初めて見かけました。
これで2基目です。
造立年等、ほかに銘文はなく、よく分かりません。

清瀧大神については、由緒等、詳しいことは調査中です。

本体: 高51cm、幅40cm、厚19cm。

[スクエア右辺]

金毘羅社(推定)

墓碑

左は、東京永久町の女性2名を記した碑。

東京永久町壹番地 某身こう女
東京永久町輿屋橋 某身はな女

浅草に永久町という地名が見つかりました。
輿屋橋というのは見当りません。
東京の人がなぜここに、と思ってしまいます。
「某身」というのもどう読むのか・・・。
戒名ではなさそうなので、これは墓碑ではなく、
2名は、施主もしくは願主でしょうか。

本体: 高50cm、幅52cm、厚7cm。

牧野関連碑裏面

いままで、スクエア内側からばかりしか見ていなかったので、
これを見て驚きました。左は、上記の裏面。

この石碑は、もしかすると、これが正しい表面ではないでしょうか。

上部が欠損していることがこの面からではよく分かります。
上に見える一部欠損している文字は「」でしょう。
そして右下には、「儀晴記録」「生年八十八翁」。
羽根野村」「□話人中」も見えます。

この碑は、「社守儀晴記禄八十八歳像碑」と関連深いものです。
とすると、実はもっと縦長で、上部は、
金毘羅社」だったのかも知れません。

そして、女性2名は、この碑の建立者で、牧野儀晴翁と縁の深い人たち(親戚・妻・娘・・・)だったのではないでしょうか。
『文化学芸碑』によると、江戸末期、笠間藩(藩主=牧野氏八万石)の士族の牧野家が竜ヶ崎豊田町に移ります。その後、
その当主は東京に移り、残った人が羽根野に移り住んで金毘羅神社の社守となった、それが牧野儀晴翁につながります。
河川改修のため金毘羅神社が諏訪神社に合祀されたときに、牧野家は北方に移り、現在子孫が北方に住んでいるとのこと。
しかし、当主は早くに東京に移っているわけですから、牧野儀晴翁の(遠い?)親戚が東京にもいると考えられます。

廻國塔

正面に「大乗妙典日本廻國供養塔」「天下泰平 日月晴明」と記されています。典型的な廻国塔です。

廻國塔 廻國塔右側面 廻國塔左側面

平安時代頃より法華経66部を写経し、1部ずつを日本66ヵ所の寺社に収めながら減罪を願う諸国巡業が行われました。
とくに江戸時代には盛んになりましたが、諏訪神社も納経所だったのでしょうか。

右側面には「嘉永五年三月二十九日」「良攸淨求信士 靈位」。嘉永5年(1852)3月29日は造立日か命日か?
左側面には「當所 八左エ門」。廻国していた途中でなくなった修験者「六部」を弔った墓塔ともいえるでしょうか。

なお、この塔には、当初笠が上にありましたが、3.11大地震で落ちたのか、左に置いてありました。

本体: 高64cm、幅27cm、厚19cm。(笠なしでの寸法)

水神宮

水神宮 水神宮

諏訪神社にも「水神宮」の石祠がありました。「寛政九丁巳正月吉日再建」寛政9年(1797)正月再建とあります。
最初9年の文字九が元年の元に見えました。しかし、寛政元年は己酉(つちのと・とり)、寛政9年は丁巳(ひのと・み)。
この石祠には丁巳と記されているので寛政9年が正解です。(でも、丁巳の巳は己に見えるんだけどなあ)

本体: 高64cm、幅40cm、厚38cm。

狛犬(右)

狛犬(右)

右の狛犬です。
となりは両部鳥居。

本体: 高53cm、幅49cm、厚20cm。

以上で石祠などの施設紹介を終わります。これより少し奥に拝殿・本殿(諏訪神社1参照)があります。

公園の名残

壊れたベンチ 苔の生えたシーソー
古いすべり台

諏訪公園としての名残は幽かに。
でも苔むしたシーソーなどこの有様では、
そうとう前から子供たちはここでは遊んでいない?
奥にはすべり台やブランコもありましたが
それも同じような状態です。
すぐ近くに団地があるのに、
小さな子供たちはもういないということなのでしょうか?

子供たちの存在はともかく、これらの「児童遊戯施設」はほぼすべてが撤去されたようです。(2011年1月現在)
PL法とか厳しくなりましたからね。壊れた、もしくは壊れかけた施設はそのままにしておけなくなりました。
諏訪公園が整備されたのは1974年。もう、35年以上経っているのですね。

外灯

外灯

よく見ると、拝殿隣り神木の前に
外灯(水銀灯?)が立っています。
夜にこちらに来たことは、もちろんありませんが、
防犯用?それとも祭礼日のためのもの?

いずれにせよこの灯り1本だけでは、
とても夜は怖くて訪れる気にはなりませんね。


(15/04/03・14/05/18・13/10/16・13/10/15・13/10/09・13/10/07・13/09/07・13/04/19・12/05/05・12/03/26・11/01/07 再構成・06/08/06・06/07/08・06/07/07・05/11/03・05/08/07・05/05/24 追記) (04/12/05)
(撮影 15/03/30・13/10/13・12/05/05・12/04/16・11/01/02・09/04/22・07/05/26・07/05/05・06/08/06・06/07/29・06/07/07・05/08/06・05/04/09・05/04/08・05/01/05・05/01/03・04/12/05)

諏訪神社1(神社正門と裏門・)へ続く


本コンテンツの石造物データ → 諏訪神社2石造物一覧.xlxs(16KB)