タヌポンの利根ぽんぽ行 惣新田2

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惣新田2 目次



関連リンク


更新経過

2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
当コンテンツも2度目のタイトル名含めた再編成をおこない、
「惣新田の神社・石仏等」から「惣新田2」に変更。(15/07/26)


当初のコンテンツ作成から約7年。
惣新田地区の全面再構成の1番手はこのコンテンツから。
タイトル名・ファイル名も変更したのでリンク切れが心配ですが、この機に一気に改造。

なお、勢至堂と惣新田の自然 コンテンツ再編成にともない、
本来それに掲載されていた「龍ケ崎北河原の鹿島神社」については、
本コンテンツに移管させました。(12/07/11)


惣新田は、なんといっても集会所にある「三夜様」こと 勢至堂
町の人たちの心の拠り所になっているようです。

でも、ところどころの民家の庭先に氏神様とか石祠、
または勧請された神社の祠などが見えます。
また、ほかの地区にはない一風変わった石碑なども見つかりました。(05/08/20)


利根町最東部マップ

利根町最東部マップ

稲荷神社と神明社

稲荷神社と神明社

惣新田集会所から西に250mほど。
左手に石碑等が並んだ民家の庭が
見えてきます。
その並んだ石碑や石塔などの奥に、
かなり古い祠が2つ並んでいます。

各種ある石塔も気になりますが、
まずは、奥の祠を調べてみましょう。

タヌポンの探索方針

突然ですが、ここで表題の件に関して、そのひとつを・・・。

真相等について地域の皆さんや利根町教育委員会の方にお聞きすればすぐ氷解する?ことかも知れませんが、
このサイトはタヌポンが少しずつ解明していくこと、自然の流れに逆らわないことを基本テーマとしています。
これを読んだ方で、ご親切にも真相をお知らせてくださった場合は、
それはそれでとてもありがたく、そのこと自体もタヌポンにとっての自然の流れと解釈します。
要は、ご指摘やご好意は素直にいただくが、こちらからは安易に、聞いたりしない。なるべく人様の手を煩わせない。
とくに、当該地域の方々については、文字通りの門戸を叩いて(チャイムを鳴らして)のアポなし突然訪問は極力避け、
まずは自分で調べる、仮説をたてて、あるときは関連文書を探すなどして実証を試みる、ということであります。
楽しみは後で、というより、真実を知るその過程・推理を楽しむ。そんなふうにしていきたいと思うのです。
それと・・・実は運よく近隣の方に出会ってお尋ねしても、むしろ、あまり分からないことの方が多いのです。
最近は、逆にあまりにも意外な回答があって、「そ、それは何かのまちがいでは?」ということも・・・。
ということで、あまり細かな質問をわざわざチャイムを押して尋ねるということはまずしないことにしています。
探索方針、以上です。

左・稲荷神社、右・神明社

稲荷神社と神明社

▼ さあ、これは何でしょう?
雨ざらしではなくちゃんと
こうして鞘堂を作って
納められているわけですから
お参りもされているのでしょう。

▼ 神輿ではないようですね。
担いだりすると壊れそうです。
木造でかなり古いもののようです。

▼ 左のほうの神棚脇には
小さなキツネの置物がありますので、
おそらくお稲荷様だと思いましたが、
右のは見当もつきません。

▼ この小屋の裏手で何人かの人が
談笑している声が聞こえるので、
だれか出てきたら訊ねてみようと、
待ってみることにしました。

▼ ほかの場所を見て2度目に戻ってきたとき、そのチャンスが訪れました。この裏の家に住んでいる人のようですが・・・。
「いやあ、左のは 御岳山 と言ってるんですけど、分かります?木曽のおんたけさん、というあれです。右のは分からないなあ」
そんなことを言ってまわりの人の顔を見回しますが、だれも詳しいことは分からないようです。
「もっと年輩の人に聞けば分かるかも・・・」皆さん、それからクルマでお出かけの様子だったのでそれで失礼しました。

▼ 後で『利根町史』を見て分かりました。左は御岳山ではなく、タヌポンが想像したとおり「稲荷神社」、右は「神明社」。
尋ねた人もそれほど若くはない方でしたが、やはり、近所の人でも意外と分からないものなのですね。
しかし、『利根町史』でも、この2社の由緒・沿革等、あまり詳しくは記されていません。

▼ では、お話しした方のいう「御岳山」とは、まったく根拠のない話なのでしょうか。
実は、そうではないことが、後で分かりました。手前にある石碑類が関係していたのです。この話は 霊神碑と御嶽教 で。

稲荷神社

稲荷神社本殿

祭神は 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、稲荷神は
もともと秦氏一族が、その氏神の農耕神として祀っていましたが、
これに神仏習合で空海大師の真言密教と結びついて
全国に広まっていったとも言われています。
全国の稲荷社が神道系と仏教系に分けられるというのも
こういうところからきているのかも知れません。

ちなみに、神道系では総本社は、京都の伏見稲荷
仏教系は、インドの鬼神・陀枳尼天(ダキニテン)を主神とし、
総本山が 豊川稲荷 となっています。
稲荷神社には2種類あることを覚えておくといいかも知れません。

惣新田の稲荷神社も昔、この集落の氏神として勧請されたものといいます。
なお稲とキツネの関係は、大切な稲を食べるねずみを退治してくれるのがキツネということです。念のため。
ということは、稲作のない縄文時代には稲荷神などなかった・・・。
当たり前ですね、縄文時代って日本の神々の神話が生まれるずっと前の時代ですよね。

神明社

惣新田の神明社

『利根町史』の当該項目に、神明社 について以下の説明。

中世以来、伊勢神宮の 御師(おし・おんし)達による神威拡張が盛んに行われ、惣新田の神明社もその一環として勧請された。

とあります。分かったような分からないような説明ですが、
御師 とは・・・全国各地を歩き回り、伊勢参宮を宣伝し
伊勢信仰を普及させた人たちのことをいいます。
御師は、神宮でいただいたお札を全国各地の檀家へ配布、
また「伊勢暦」等も全国に広めました。
また全国から集まってくる神宮参拝者の案内もするという、
現代でいえば旅行会社のような役割も果たしていました。
中世とは室町時代以降を指すようです。

余談: 神明社はなぜ神明神社と呼ばないのでしょうか?こんなところもタヌポンはこだわるというか、気になるのです。
神明神社では「神」が重複するからなのでしょうか。(← またしても見当違い!全国には神明神社も多数あることを発見)

伊勢神宮からの勧請ということで、神明社の祭神とは、これも基本的には天照大御神ということになるのでしょう。
ちなみに天照大御神を祀る、伊勢神宮と関わりのある神社には、大神宮、豊受神社、皇大神社、皇大神宮、伊勢神社、
御厨神社などがありますが、やはり神明社が一般で、全国で約18,000社あるそうです(神明社・神明神社等を含む)。
また、蛟蝄神社門の宮周辺 でも取り上げましたが、皇大神社、皇大神宮の「たい」という文字は「大」の字を使います。
ところが、蛟蝄神社近くの皇大神宮は皇 神宮となっているのです。「太太神楽」などもそうで、なんとも不思議です。

▼ さて、この神明社の本殿のすぐ前に、自然石で造られた石碑が置かれていて、表面に「神明社」と刻まれています。
堂内の神明社と関連があるのか、たまたま名称が一致しているのでここに置かれたものか、は不明です。以下。

神明社の石碑

神明社の石碑 神明社の石碑背面

「神明社」の本殿が安置されたすぐ前に
まるで標識のように建てられている石碑です。

裏面で、「明治二十八歳粛秋」とあり、
明治28年(1895)の造立であることが判明。

ところが、裏面にはほかにも文字がいっぱい。
タイトルの「盡職頌」から意味不明です。
タイトル下には、難解な漢文がびっしり。
難読の文字も、また難解な文字も数多く、
この解読はそうとうな難物です。

また、一見したところ、この漢文が、神明社と
どう関連するのかもまったく分かりません。
仮に解読できたとしても、その疑問は残りそう。

「尽職頌」は、職を全うした人を称える、
そのような意味ではないかと推測しますが、
漢文解読にチャレンジするのは・・・。

本体: 高79cm、幅63cm、厚19cm。

▼ しょうがないから、いや、ものはついでということで、チャレンジしてみました。こんな字あるの?とか、どういう意味?ばかり。
拓本とる技術がないので、写真を拡大して見るわけですが、石碑最下部の文字が小さい上に、地中に埋まっています。
また、雑草と藪蚊に悩まされ、写真自体も鮮明に撮れません。その上、見たこともない文字と熟語の数々・・・。

    杳漠宇宙上玄下幽S象現生□忽□□
    顕著大績獨留其粤若観顧俊石井□
    義侠忠烈光徳咸都氏北総東文間人
    名庄兵衛州郡愛惜撰嘱重任明治己
    始受愼蓋齊市詢商秩平允恭格衆
    近郷祭禋為盛為殷爾來勤務旬有五載
    祭逮老傳於堂堂兮體國奉制夷難抜塞
    一勵市昜名翼爾揚聲塡塡轟吁誰不仰
    茲頌偉功永傳後世
     明治二十八歳粛秋
         應需  玄夢居士撰
               堀田大吉鐫

難字

左記 字は誤読の可能性大。
字は、左のような辞書にもない難解な文字。
次の「粤」も難字で「越」と同義のようですが、
字+粤」の意味などまったく不明。

最後の4行、「ここに偉功を頌(たた)え永く後世に伝える、
明治二十八年秋、
需(もと)めに応えて、玄夢居士が撰し、堀田大吉が鐫る」
という部分だけは分かります。

「北総は東文間の人で、名は庄兵衛」
という人の功績のようです。

玄夢居士とは誰かは無論(無知に居直り?)、不明ですが、
石工の「堀田大吉」は、この当時、当地区ではおなじみの名。
根本寺「宮本氏祖先神霊碑」

上記の神明社の石碑の碑陰の文字は、また機会をつくってもっと念入りに撮影し直して再チャレンジ・・・できるかな?
というのは、2015年再調査で来たとき、神社の堂はおろか石碑類がまったく見えないほど、笹竹や雑草が繁茂しています。
石碑等を撮るために、まずは雑草取りをする必要があります。黙々と1時間以上、藪蚊の猛攻もあり、すっかりくたびれました。
しかし、他人様の庭先に突然やって来て無断で雑草刈ってたりしていいのかな、なんていつも思いながらやってます。
失礼の段この場を借りてお詫び申し上げます。御幣などがありお参りされているようなので雑草はないほうがいいのかなと。

左は、4月末時、これでも1時間奮闘後の状態。右はそれから2ヵ月後7月初旬時の様子。また、笹竹等が伸びています。
これでは真夏などきりがないですね。持ち主の方も、もしご高齢なら、きれいにする手間暇はたいへんなものだと思います。
ここはやはり、冬場に来て、じっくり調べないと効率が悪いですね。とにかくかゆいし。冬は寒くて出かけたくないのですが。

1時間雑草取り後の境内の様子 2ヵ月後の様子

御嶽教と霊神碑

特殊な石碑4基と疱瘡神

前記神明社の石碑の左手に5基の石碑類が並んでいます。このうち4基は惣新田で初めて遭遇した特殊な石碑でした。
後に、諏訪神社「木曽御嶽講霊神碑」や円明寺周辺御岳塚「御嶽教の石碑」を発見し、「霊神碑」であることを説明しました。
以下の写真の右端の石祠は疱瘡神で、これは霊神碑ではありません。またその左隣りは石塊でこれは説明を省略します。

特殊な石碑4基と疱瘡神

写真左からの4基には、いずれも「・・・霊神」というタイトルが付けられています。
一般に神道では、仏教のように戒名などはなく、年齢と性別で区別しているのですが、
唯一「御嶽教(おんたけきょう)」と呼ばれる教派は、すぐれた業績を残した行者に「霊神号」を付けているということです。
ということは、これら4基の石碑は、少なくとも4人の御嶽教教派の指導者の方々の墓碑に近いものと想定できます。

そうすると・・・最初にタヌポンがここにいる方々に尋ねたとき「左は、おんたけさん」と言われていたのは、
もしかすると、先ほどの稲荷神社と神明社のことではなく、それらの「左にある石碑」は、という意味だったのかも知れません。
木曽御嶽講霊神碑」でも説明しましたが、御嶽教および霊神信仰・霊神碑について、Wikipediaから抜粋引用します。

御嶽教とは

御嶽教(おんたけきょう)は奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く教派神道で、神道十三派のひとつ。創始者は 下山応助 とされている。信者は約50万人。長野県木曽郡木曽町に御嶽登拝の安全を祈願するための神殿である木曽大教殿がある。御嶽山を信仰根本道場としている。
江戸時代に 覚明 行者が黒沢口登山道、 普寛 行者が王滝口登山道を開闢する。御嶽大神を崇拝する信仰者が集団結合して明治15年(1882)に立教独立。経典は「御嶽教経典」と、準経典として「御嶽教神拝詞集」と「御嶽教信仰規範」がある。祭神は国常立尊、大己貴命、少彦名命の3柱の大神を奉斎主神として「御嶽大神」と奉称し、木曽御嶽山の開闢大道彦たる覚明、普寛の2霊神を崇敬神として「開山霊神」と奉称する。また天神地祇八百万神を配祀神としている。修験道を起源としているが仏教色は薄く祭祀も神道に準じている。

なお、東京都下JR(東日本)青梅線に御嶽駅(東京都青梅市御岳本町)があります。これは、「みたけ」と呼びます。
というより、御嶽もしくは御岳は一般には「みたけ」であり、「おんたけ」と呼称するのは、木曽の御嶽に限られるようです。
これは「おうのみたけ」が「おんたけ」へと転じたもの。それほど木曽御嶽山は霊山として尊崇を受けていたということでしょう。

霊神信仰と霊神碑

霊神(れいじん)とは、過去の行者を神格化した存在。時代や地域、講社によって異なるが、その内容や特徴としては次の点が挙げられる。
・死者の魂は御嶽山に行き、死後も御嶽山で修行している。
・単なる祖霊、死霊ではなく、畏怖すべき神々の一員である。
・御座で降りてきて託宣を下し、信者と対話できる。
・講社や信者を守る存在である。
・霊神碑を建てて、定期的に参詣する。
・葬送儀礼や祖先祭祀(仏壇や墓参)からは独立している。
全ての行者に対して、霊神号が贈られるわけではない。基準は講社によって大きく異なるが、礼拝の対象となるのは行者のなかでも信者の信頼を受け、優れた能力を持ち、権威ある者に限られるという。

霊神碑 は、霊の依代として建立される石碑。楕円形の扁平な石に「・・霊神」と刻むのが一般的。霊神には「・・霊神」という神号が贈られる。霊神号を扁平石に刻んだ初例は関東を中心とした 巴講 である。巴講はもともと御嶽講ではなく、復古神道を学んだ中里允修が、天心術という独自の教えを広めるための組織であった。中里允修は死後、石碑を建てられ、亀翁霊神として祀られた。これが霊神碑の初例。「霊神」号を刻む石碑が一般化するのは明治7、8年ころから。これは御嶽講が教派神道各派に所属し始めた時期であり、霊神碑建立自体の増加も同じ時期から。それまでは行者とか菩薩とか仏教風の称号が用いられていた。これが神仏分離を経て、神道風の用語を用いるようになった。

それでは、写真左から石碑の詳細を説明します。上記に「扁平石」とありますが、確かにいずれも厚さ7〜14cm程度です。

霊神碑1 惣垣霊神

霊神碑1 惣垣霊神 霊神碑1 惣垣霊神碑陰

表面に「惣垣靈神」。
裏面には、「明治廿年十月日
そして「小嶋三左エ門」。

明治20年(1887)10月とあるのは
命日なのか、それとも造立日なのでしょうか。
次の2神列記のものも、日付はひとつなので、
造立日と解釈したほうが妥当のようです。

霊神号の上に「東」の文字マークがあります。
講紋」といわれるもので、丸に東の講は、
現茨城県結城市の巴講を元とした御嶽講で、
我孫子に「巴丸東講」の組織があった様子。

小嶋三左エ門は、惣垣霊神その人ではなく、
この石碑の造立者ではないかと推定します。

本体: 高71cm、幅44cm、厚7cm。

霊神碑2 石盤霊神・心翁霊神

霊神碑2 石盤霊神・心翁霊神 霊神碑2 石盤霊神・心翁霊神碑陰

表面上部にやはり「」の講紋レリーフ。
その下に「石盤靈神」と「心翁靈神」。
2名の霊神号が並列に刻まれています。

碑陰には「明治十九年九月立
明治19年(1886)9月の造立です。

本体: 高89cm、幅53cm、厚10cm。

霊神碑3 御嶽山・東弘霊神

霊神碑3 御嶽山・東弘霊神 霊神碑3 御嶽山・東弘霊神碑陰

これは、講紋マークではなく、
御嶽山」の題額が真横に刻まれ、
下に「東弘靈神」の神号。

碑陰にはいろいろな文字が彫られています。
故神道修成派 講義」として、
下總國北相馬郡惣新田」は、
下村市右エ門
同國印旛郡上高野村」は
中里喜□□
次回」として
友七」ほか1名(難読)が刻まれています。
「故」や「講義」ほか人名との関係等、
これらの意味合いがいまひとつ不明です。

最後に「明治十八年十月建立」とあり、
明治18年(1885)10月の建立。

本体: 高79cm、幅49cm、厚13cm。

参考: 神道修成派(しんとうしゅうせいは)

教派神道13派のひとつ。明治9年(1876)新田邦光(1829〜1902)が創始。修成派という名は『古事記』の「此の漂へる国を修理固成」に基づく。人は 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ) の寵愛を受け、純粋至善の心魂をもって生れたものであるから、それを愛養保存し、修理固成し、さらに天照大神の光華明彩の徳にのっとって、公明正大、かつ天壌無窮の発展の意義を悟って国体の尊厳を讃し、もって安心にいたると説く。(『ブリタニカ国際大百科事典』)

霊神碑4 東海霊神・東弘主徳霊神

霊神碑4 東海霊神・東弘主徳霊神 霊神碑4 東海霊神・東弘主徳霊神碑陰

これは、やはり講紋「東」の下に、
2神の霊神号が列記されています。
東海靈神」と「東弘主徳靈神」。

碑陰には、「明治三年九月九日立
すなわち、明治3年(1870)9月9日の造立。

この石碑だけ、台石に「社中」とあります。

本体: 高95cm、幅62cm、厚14cm。
台石: 高17cm、幅45cm、厚38cm。

疱瘡神(ほうそうがみ)

霊神碑4基の右には、御嶽教とはとくに関連がないのですが、これも比較的珍しい石祠が立っていました。
表面に「疱瘡神」、右側面に「四月再建」、左側面は「明治八亥年」。明治8年(1875)4月に再建されたものです。
疱瘡神は、惣新田訪問時に初めて遭遇しましたが、その後の探索で、2015春現在、利根町では 5基見つかっています

本体: 高50cm、幅25cm、厚18cm。

疱瘡神 疱瘡神右側面 疱瘡神左側面

疱瘡神 は、疱瘡、いわゆる天然痘をはじめとして、病気一般から守ってくれる神様として祀られるようになりました。
疱瘡は明治時代までは、1万人もの死者を出す恐ろしい伝染病でした。
疱瘡をもたらす神という逆の意味合いもあり、村の入口に石塔を建て「ほうそうおくり」という行事が行われる地域もあったとか。

▼ ちなみにエドワード・ジェンナー(Edward jenner=1749−1823)が種痘法を発表したのは1798年。
種痘法は、ヨーロッパ中にひろまりましたが、医学界はその効果をなかなか認めませんでした。
その後、ジェンナーのワクチンは改良され各国で使われようになりましたが、世界から天然痘が根絶されたのは1980年。
ツベルクリン・BCGなど懐かしく思います。根絶はタヌポンの生まれる前かと思っていましたが、つい、最近のことなんですね。

石碑・石仏など7基

さて、この敷地には道路から奥の稲荷神社・神明社のところに至るまでに合計13基の石碑・石祠などが建てられています。
前記までで、そのうち神明社の石碑ほか特殊な霊神碑など6基紹介しましたので、残りは7基。
こんどは、道路に近いほうから、順に見てみましょう。すぐ眼に止まる「清瀧大神」の左手前に1基あるのでお見逃しなく。

庚申塔1

庚申塔1

敷地入口左の電柱から少し奥、隣家の庭と接して枯れ木のようなものがあります。
この木のすぐ右に、隣家の垣根にもたれかかるように1基、石仏が見つかりました。

邪鬼を踏む6臂の青面金剛が刻像され庚申塔で、三猿も見られます。
6臂は、下部は弓矢を持っている様子ですが、かなり風化していて、
あれっ?4臂かな、前で合掌しているものと思い込んでいましたが・・・。
いずれにせよ、文字に至っては、微かに見える程度です。

右上に「延宝二甲□□」と「施主」がなんとか読み込めます。
延宝2年(1674)の造立ですが、干支は甲寅のハズなのですが寅には見えません。
異体字かも知れませんが、ここがはっきりしないと延宝2年まで疑わしくなります。

左には「・・・供養・・・」の文字が読めそうな・・・。
とすれば、・・・庚申供養云々と記されていると推定。
もう少し、像を丁寧に水洗いでもできれば読めるようになるかも知れませんが、
雑草取り等で、ほかの石仏のこともあるので、写真撮るまでが精いっぱいでした。
いつかまた、改めて念入りに調査したいところです。

本体: 高70cm、幅34cm、厚14cm。

清瀧太神

清瀧太神 清瀧太神碑陰

庚申塔の右にあるのが「清瀧太神」。
「きよたきおおみかみ」と呼ぶのでしょうか。

この名前の石碑はここで初めて発見しました。
後にもう1基、諏訪神社 で見つけました。

調べて見ると、大阪府や千葉県浦安など
各地に清瀧明神・清瀧神社があるようです。
海神の大綿津見神(おおわたづみのかみ)や
大國主命などが祭神として祀られています。
ちなみに浦安では、「せいりゅうじんじゃ」。

碑陰に「明治五歳次壬申秋八月吉日
明治5年(1872)秋8月の造立です。
歳は独特の異体字、歳次も特有の慣用語句。

ほかに「押附新田 願主 鬼澤半兵衛」とあり
押付新田と惣新田とはかなり離れていますが、
どんないきさつがあったのでしょうか。

本体: 高80cm、幅32cm、厚12cm。

御嶽教と清瀧神社

この敷地入口に置かれていて霊神碑とよく似た形態の石碑であることから、御嶽教と関連があるのでは?と思っていました。
普寛行者が開いた王滝口登山道。その「王滝」は禊ぎの名瀑としての「清滝」であり信者の礼拝場所になっているようです。
ちなみに、長野県木曽郡王滝村御嶽山を源流とする川に多くの滝があることで「王滝村」の名がついたと言われています。
そこには、滝の横に「清滝不動尊」や「清滝弁財天」もまつられていて御嶽教の信者が滝行に訪れます。また、昔から
清滝不動尊の霊水は眼病に効くといわれているとか。ともかく、これで、清瀧大神の石碑がここにあるのが理解できそうです。

▼ 参考: 2014年(平成26年)9月27日11時52分、御嶽山が突然噴火、甚大な被害をもたらしました。
2015年6月現在、「御嶽山の入山規制について」等について、王滝村公式ホームページ など参照。

石仏5基

次に並んでいるのは比較的目にする石仏類。ただし、この写真は2005年時で、2012年時、3基目が後ろに倒れています。
おそらく大震災でそうなったと思われますが、なんとか表面の雑草と汚れをふき取り以下、再撮したものを紹介します。

石仏5基

十五夜塔1

二十三夜塔

当初、光背の右は「奉造二十三夜」と読んだのですが、どうも間違っている様子。
よく見てみると「奉造立十五夜念佛」のようです。
刻像されているのは、十五夜の月待主尊である「聖観音」と思われます。

光背の左も、実に読みづらいのですが、
延宝三□□□十月十五日」が読み取れそうです。
延宝3年(1675)造立としましたが、
延宝は正しいと思いますが、干支の部分が難読なので3年は自信がありません。

本体: 高58cm、幅33cm、厚15cm。

聖観音像は立像のようですので、足の部分がもう少し長い気がします。
ここの石仏は全般的に、下部が地中に少し沈みこんでいる様子なので、
本体の実際の高さは、計測数値より大きいのではないかと思います。

墓塔?

墓塔?

これは、縦3行の文字が並び、1行目はまったく読めず、
真ん中は、戒名のような・・・で、墓碑ではないかと勝手な推測。

左下に、辛うじて「十月廿三日 惣新田」と読めるか、という程度。
これも、石塔丸洗いでもしないと・・・上部の線画のようなものも気になりますが・・・。

本体: 高86cm、幅52cm、厚25cm。

十五夜塔2

十五夜塔2

2012年時、地震のせいか後ろに倒れていた1基。あのときは、雑草取りのほかに、
石仏起こしにも苦労しました。結果として、力なく持ち上がらず真上から撮影。
2015年は、きちんと立てられていましたので、左のように撮れました。

光背右上に「奉供養十五夜」とあり、これも十五夜塔なのですが、
刻像されているのはおなじみの半跏思惟型の如意輪観音。
如意輪観音は主に十九夜、ほかに十七夜・二十一夜・二十二夜の本尊です。
十五夜は聖観音や阿弥陀如来などを主尊とするのが妥当で、
利根町は「なんでも如意輪観音を刻像する傾向がある」その顕著な例です。
面白いことに、光背上部の種子(梵字)は、聖観音のサクが彫られています。

他には「結衆行十八人」。
「結衆」とは、仏教用語で、同じ目的をもって集まった人びとのこと。

光背左に「貞享四丁卯天」「十月十五日
貞享4年(1687)10月15日の造立。天=年の意です、念のため。

ほかに、光背の左右、いちばん下に1文字ずつ「敬白」が刻まれています。

本体: 高64cm、幅35cm、厚17cm。

十五夜塔3

十五夜塔3

これも実に読みづらいものがありますが、なんとか推定も含めて以下。

光背上部に、阿弥陀如来「種子キリーク」が彫られています。
右には「奉供養十五夜念佛爲二世安(楽)」で、
聖観音」を刻像した十五夜塔です。
阿弥陀如来も聖観音も十五夜の本尊です。
二世安の後は「楽」もしくは「楽也」が続くものと思われます。
それにしても、ここの月待の石仏は十五夜塔ばかりですね。

光背左部ですが、これも干支が難読。
宝永五戊子年十月十五日」で、宝永5年(1708)10月15日の造立。
宝永三にも見えますが、下の干支が丙戌にはどうしても見えません。

本体: 高70cm、幅43cm、厚23cm。

百堂念仏塔

百堂念仏塔

奉造立百堂念佛供養」が読み取れます。
百堂念仏塔というものではないかと推測します。
以下、ブログ「石仏神心」(103 北総石仏 我孫子の石仏 柴崎) からの引用です。

(中略)「百堂念仏は村人達が講を組み近隣のお堂百箇所を巡拝し自身の幸福と先祖の成仏を願って念仏を唱え歩いた修行・・三年間の・・達成のあとに百堂念仏塔を造立・・茨城埼玉千葉三県を中心に180余基・・江戸中期まで盛行した利根川水系独特の念仏塔である」(石田年子氏の解説)

徳満寺でも百堂念仏塔を2基発見しています。→ 山門下の石仏
徳満寺でもそうですが、この地区から見て「近隣のお堂百箇所」というのは、
どんなリストアップになるのでしょうか。

光背左部分も難読です。「延宝四□□年四月十六日同□□」。
延宝4年(1676)4月16日の造立としましたが、暫定です。
日付の後の「同」は、「同行・・・人」と続くものと推定。

刻像されているのは、地蔵菩薩。
下部が地中に埋もれているため、以下の本体高は実際はもっと高いと思います。

本体: 高51cm、幅33cm、厚18cm。

三峰神社

稲荷神社・神明社から西へ200mほど行くと、これも民家の前庭に、石柱と大きめの石祠、奥には鞘堂などが見えます。

三峰神社と社寺号標石

白い標石には「三峰神社」と刻まれています。背後がその本殿石祠で、なかに三峰神社の神札などが見えます。
この社寺号標石は左右と裏面にも同様のくぼみがあり、文字が刻まれているのですが、どうやってもほとんど読めません。
そんなに古いものではなさそうですが、撮った写真を拡大しても読めません。左側面「大正十一年十月」も推定の域。

標石本体: 高103cm、幅17cm、厚17cm。

三峰神社 社寺号標石

本殿石祠

本殿石祠

この神社の由緒等は、不明です。
前述の社寺号標石の左右側面と裏面の文字が読めれば、
少しは由緒・沿革等が分かるかも知れませんが、ちょっとムリです。

三峰神社の祭神は、
創世の2神、伊邪那岐命と伊邪那美命そして三貴神の一神、天照大神
が一般的のようです。果たしてこの惣新田の三峰神社の場合、どうでしょうか。

利根町には、ほかにも福木地区など三峯神社が、
現在(2015)までにこの惣新田のも含めて 10社、見つかっています
ただ、同じ意味ですが、他の地区はみな三峰ではなく三峯の文字です。
この時代、三峰も三峯もほとんど混合・混同されて使用されています。
布川ですら、布河などと彫られていたり。音が合っていればいい、という感じです。

本体: 高106cm、幅83cm、厚86cm。

八坂神社(天王社)の移転

▼ さて、『ゼンリン住宅地図』上ではこの民家の庭の奥、新利根川に近い位置にもう1社、天王神社の名が記されています。
そうっとのぞいて、神社らしきものがないかどうか確かめたいのですが、何しろここは民家の庭のようです。
奥に3.4段の石段が見えましたが、さすがにそこまでは、無断で入り込んで行くわけにはいきません。
かといって、ヒンポーン、という感じで突然、いわゆるアポなしで訪問するのもあまりしたくないのです。迷惑な話ですから。
偶然、家の方が庭先におられたときなどがいいのですが、何度目かの訪問時に、家の中から奥様らしい方が・・・。
これはチャンスと、お伺いしてみると・・・。

▼ 天王神社は、「同惣新田内の別の方の氏神さまで、数年前にひきとっていただいた」そうです。
その「行き先として、結果的に惣新田集会所の勢至堂にプレハブの建物をつくった」とのこと。

▼ これで『利根町史』に記されていた八坂神社(天王社)等の記述と符号しました。(八坂神社 参照)
『利根町史』第五巻発行の平成5年(1995)12月時点では、八坂神社(天王社)の移転はまだ行われてはいませんでした。
移転後にタヌポンが訪問したわけですが、八坂神社(天王社)に付帯していた石仏等はそのままここに残ったようです。
以下に紹介する、石仏5基や四郡大師堂がそれに該当します。

石塔5基

石仏5基

いちばん左に1基見えます。
でも、これは単なる石塊か、
判読不能な石仏の一部と思われます。

以下、左から順に紹介しますが、
いちばん右は『利根町史』に記された
十五夜供養塔(宝暦13年)と判明。

これにより、集会所に移転したのは
天王社だけということが分かりました。
ただ町史には「供養塔外6基」とあり、
計7基となるのですが、ここに
残されたのは5基になります。
不明の石塊と三峰神社を加えれば、
7基とはなりますが・・・。
ちなみに、三峰神社のことは、
町史では何も言及されていません。

注)上記写真は2015年時撮影のもの。後で眺めて異変に気が付きました。右から2番目の塔に笠が載せられています。
これは明らかにおかしいのですが、以前の写真と比べると、その左の水神宮の石祠の笠も変化しています。
実は、どちらの笠も右から3番目の水神宮の石祠に載るべき笠で、もともと2つに割れ、亀裂の入ったものでした。
これが2011年3月の大震災で、おそらく倒れてしまい、元に戻す時に2基の石塔に別々に載せてしまったと思われます。
→ なんて、また勝手な憶測をしてしまいましたが、震災後の2012年時点で正しい笠の姿に戻っていました。とすると・・・。
それから2015年の間になんらかの理由で、こんなことに。いずれにせよ、以下、水神宮等は2012年時写真を掲載します。

庚申塔2

庚申塔2

青面金剛が刻像された庚申塔です。
上部に日月雲のレリーフ、6臂ではなく4臂のようです。

4臂の持ち物は、上は三又戟ともうひとつは法輪か金剛杵でしょうか。
下の2臂は左右いずれも羂索のように見えます。
一般には弓と矢が多く見かけるのですが・・・。

いちばん下に三猿が彫られていますが、
青面金剛が通例では足下に踏みつけている邪鬼は見えないようです。

しかし、造立日等、文字は刻まれていない様子。
延宝時代(1673−1680)くらいではないでしょうか。

この塔の特徴としては、頭に鬼神か邪鬼のような顔が付いていること。
蛇や髑髏とはまたちがう、珍しい像容ではないかと思います。

本体: 高70cm、幅33cm、厚16cm。

道祖神

惣新田では初めての道祖神。でも、次に惣新田集会所28基では、2基見つかり、一気に3基リストアップされました。

道祖神 道祖神左側面

石祠表面に「道祖神」、
寛政九丁巳年」「九月吉日」で、
寛政9年(1797)9月の造立。

台石の下部が数cm地中に埋まっていて、
文字が、左から十五、上、講しか見えません。
その上で、左側面には「奉待十五夜」。

この時代、左から読むハズはないので、
台石の「講上十五」では意味不明です。
下に文字が隠れているに違いないと、
掘り起こすと、「講中 上組 十五人」と判明。

十五がたまたま一致していただけでした。
しかし、月待信仰で道祖神造立とは?
仏教と道教と神道、いろいろ習合した形?
単に十五夜講中が立てた塔、ということかも。

本体: 高53cm、幅34cm、厚23cm。
台石: 高10cm、幅26cm、厚16cm。

水神宮

さて、これが2012年時写真。笠の姿が正しいときの水神宮石祠です。2つに割れてしまった亀裂の原因は不明ですが・・・。

惣新田の水神宮 惣新田の水神宮右側面 惣新田の水神宮左側面

坂東太郎利根川と言えば水神宮、惣新田にも水神宮がありました。この発見後、集会所28基の中にも1基、見つけました。
サイト開設初期、よく調べずに惣新田にはないなあ、と思っていましたが一気に2社、リストが増え、2015現在では17社

左側面に「文化十一戌四月」で、文化11年(1814)4月の造立。右側面には、「上組 女人講中」とあります。
上組とは、「惣新田上坪」地域の皆さんということでしょうか。ちなみに、集会所の水神宮は、「下組 女人講中」でした。

ところで、この水神宮や前記道祖神は、天王社の「境内社」だったのでしょうか。もしその場合、本社だけが移転すると?

本体: 高48cm、幅32cm、厚17cm。

子安観音塔

水神宮石祠の片割れの笠が現在(2015年)載せられているので、以下正面写真は2012年時のものです。

子安観音塔 子安観音塔左側面

赤子を抱いた子安観音の刻像塔。

光背型というより舟型で、
両サイドが厚みがあり平らになっています。
そこに銘文が刻まれていました。

左側面に「天保十二丑年十一月吉日
天保12年(1841)11月の造立。

子安観音は、江戸中期後半から後期に、
如意輪観音から変化したものと言われます。
日本独自に生まれた観音像との説も。
江戸初期に赤子を抱く像があっても、
子安観音とは言えないようです。

いっぽう「子安観音=マリア観音」説もあり
驚きますが、真偽のほどはどうなのでしょう。
興味のある方は→ 切支丹と子安観音

本体: 高54cm、幅27cm、厚19cm。

十五夜塔4

十五夜塔4

またしても十五夜塔。ここは十五夜塔ばかりですね。
稲荷・神明社の場所と合わせると、もう4基目です。
光背右に「奉供羪十五夜念佛爲二世安楽」とあります。

中央に、半跏思惟型の如意輪観音の刻像。これも、利根町特有の観音像。
光背上部には主尊である、聖観音の種子「サ」が彫られています。
なぜ種子はちゃんと聖観音になっているのに、如意輪観音を彫るのでしょう。
願主・施主の意向なのか、それとも石工の思い込みか。真相は?

左には、「宝暦十三未十月吉日」。宝暦13年(1763)10月の造立です。

塔の左最下部に、「同行十七人」と、縦に彫られています。

本体: 高81cm、幅34cm、厚18cm。

四郡大師84番

大師84番

民家前庭の奥には大師堂があります。
コンクリート製ですね。

堂の裏には、
昭和49年(1974)11月14日完成、
とあります。

大師堂完成
大師84番

堂の右上には、84番の札がかかっています。
左は、中の大師像。2体安置されています。

大師像左本体: 高50cm、幅28cm、厚17cm。
大師像右本体: 高65cm、幅27cm、厚17cm。

地蔵尊堂

旧地蔵尊堂

旧地蔵尊堂

左のような心が和む景色。
これが、以前は惣新田メイン通りの東端、
河内町との境界近くの道路脇にありました。

大震災の後、本コンテンツ更新再撮のために再訪問すると、
堂も、大樹も、どうにも見つかりません。

はっきりとした位置の記憶が曖昧なので、何往復かしましたが、
ある場所に南に新しい道が造られているのに気付きました。
まだ舗装される前ですが、以前はなかった道、
確か地蔵尊堂と樹はこの辺りだったような・・・。

新道

新道

後で聞いて分かったことですが、この道は、
いずれ高架線が造られるとか。
若草大橋 の開通(2006年4月)と連動して、
成田(空港)へのアクセス拡大に寄与するための新道だとか。

この道の前方50mほど先の左側を見てみると、
何か祠のようなものが建っています。

近所の方に聞くと、それが移動した新地蔵尊堂でした。
(ああ、あの大樹は切り倒されたわけです!)

新・地蔵尊堂

地蔵尊堂

堂は、新築・改築されたわけではなく、
そのまま移動されたようです。
中の「賽銭箱」も昔のままと思います。
左の白い建物は、納屋のようです。

鞘堂と床の白とはアンバランスで、
地面部分だけがやけにまぶしく、
以前の落ち着いた雰囲気は、
すっかり消失してしまいましたね。
(下は移転前の2006年9月時)

旧地蔵尊堂

地蔵菩薩塔

地蔵菩薩塔 地蔵菩薩塔台石右側面
台石正面

台石正面(写真上)部分に、
萬延元申年八月」すなわち
万延元年(1860)8月の造立銘。
さらに「村中」とあり、
← 右側面には「世話人」4人の名前が。
常右ヱ門 四郎兵ヱ □□□ 利兵ヱ

本体: 高65cm、幅20cm、厚16cm。
台石: 高20cm、幅40cm、厚28cm。


以下は、以前の地蔵尊堂内で見つけたものです。いまとなっては不要なものや記録なのかも知れませんが、
現在の地蔵尊堂は改築されずにそのままの移動の様子なので、改築日や建立日等はまだ共通しているとも言えます。

地蔵尊堂 改築費明細書板

地蔵尊堂 改築費明細書

賽銭箱の中に無造作に
改築費明細書の板が投げ込まれていました。
昭和34年(1959)6月9日の改築。

地蔵尊堂改築明細書として、
14,060円が計上されています。
当時の15,000円とは・・・
現代のいくらぐらいの価値でしょうか?
昭和34年というと今上天皇のご成婚の年ですね。
当てずっぽうタヌポンは、15万円程度かなと・・・。

地藏尊堂改築費明細書
六月七日木材一式内訳受領書□通八、五八〇円
□□□□亜鉛□板ボルト五本□□□□□七三九円
□□□□□地藏尊移転費□□□□□□□□六九〇円
□□□□□職人茶菓代(大工)□□□□□一〇〇円
□□□□□職人労力□□□□□□□□二、〇〇〇円
□□□□□コンクリート用川砂代□□□□一〇〇円
□□□□□地藏尊人佛式料□□□□□□□三〇〇円
□□□□□□□□粉代□□□□□□□□□□九九円
□□□□□供物料□□□□□□□□□□□一〇〇円
□□□□□清酒代二升□□□□□□□□□九八〇円
□□□□□茶菓代□□□□□□□□□□□四五八円
□□□□□半紙代□□□□□□□□□□□□一四円
合計金壱万四阡六拾円也
□□□□□□□□□□□□□□□□□□以上
昭和三十四年六月九日竣功
□□世話係□□□□□□
□□□□□□□
□□□□□□□


賽銭箱と建立日

賽銭箱と建立日

賽銭箱の裏には昭和63年(1988)に
これ(賽銭箱)が作られた旨、記されています。

龍ケ崎北河原の鹿島神社

厳島神社

惣新田中央の 勢至堂 脇の路地を北に向かうと
すぐに東西に流れている新利根川にぶつかります。
そこに架かっている橋が 三夜橋 で、
橋を渡れば、そこは、もう龍ケ崎市大徳町となります。

さらに、三夜橋を渡ってから左折し、しばらく行くと、
新利根川と論所排水路が交わる地点に、
水門のような設備のある大房橋 が見えてきます。

その大房橋を渡らずに手前を右折し排水路に沿って少し行くと
右手に見えてくるのが、鹿島神社です(左写真)。

この辺りは、川の北ということで、「北河原」と呼ばれています。

鹿島鳥居

鳥居

反り増しのない神明系で、額束がなく、
笠木が丸太状で、貫が長い、典型的な鹿島鳥居です。
鹿島神社ですから当然といえば当然ですが、
樹木に挟まれてちょっと傾き加減。
支え棒で補強されていますが、
あの大震災ではもちこたえられたでしょうか。
再訪問して確かめたいところです。

奥に本殿らしき瓦葺きの建物が鎮座しています。

本殿

鹿島神社の祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)と言われていますが、この神社もそうなのでしょうか。

本殿 本殿と注連縄

本殿の扉は固く閉められ、太目の注連縄が張られています。

金毘羅大権現

金毘羅大権現

鳥居左脇にあるのは「金毘羅大權現」。
石塔というより、石灯籠のような形状です。
というか、灯籠としての意味合いが強いのかも知れません。
その場合、火袋という火を灯す設備が必要ですが、見当りません。
金毘羅常夜燈という、航海安全の機能をもったものもあります。

萬人講」と台石に記されています。

二十六夜塔

二十六夜愛染明王・飯縄大聖不動明王

金毘羅大権現の後方右手には
二十六夜愛染明王飯縄大聖不動明王」と記された石祠。

これは珍しい、利根町では二十六夜塔はまだ見つけていません。
愛染明王は二十六夜月待信仰の本尊とされています。

また、飯縄は「いづな」と呼び、飯縄権現は、
遠江國周智郡の秋葉山三尺坊の祭神で、火伏せの神、
その本地仏は不動明王となっています。

愛染明王も不動明王も、空海によって伝えられた密教の尊格。
日蓮の曼荼羅における不動明王は生死即涅槃を表し、
これに対し愛染明王は煩悩即菩提を表しているとされます。

女人講の石祠

松ノ木の前にもう1基、日月マークの扉のある石祠。明治44年(1911)10月建立、「女人講・北河原」とあります。
日月マークの扉を開いてみないと、これが何かは分かりませんね。

女人講の石祠 女人講の石祠

二十三夜塔

二十三夜

奉供羪廿三夜講」と記されています。
二十三夜の月待本尊は、惣新田勢至堂と同様、
一般には「勢至菩薩」なのですが、これは文字塔です。
線画も彫られてはいないようです。

左右に、「天明二寅天十一月吉祥日」、
これは天明2年(1782)11月の造立。

三峯神社

左側面に「明治四十二年九月十九日 北河原」、明治42年(1909)の造立。
この石祠は、なんとなく扉が開きそうです。中を覗いてみると「三峯神社御眷属守護」とあります。
もちろん、そっと元に戻し、屋根(笠)のねじれも直しておきましたです。

北河原の三峯神社 北河原の三峯神社

馬頭観音塔と手水

以下は散在している馬頭観音塔(左)。鳥居右脇の手水(右)です。

馬頭観音 手水

大師50番塚と周辺石仏

塚のような場所

道路沿いに棕櫚が何本か植わった塚のような場所が見えます。
石塔のようなものもいくつか見えます。
奥に建物があり、地図では北河原分館となっています。
集会所のようなものでしょうか。

利根町以外にも大師はあるのでしたね。
四国四郡、そのミニ版といっても利根町だけではなく、
現在の龍ケ崎市、稲敷郡河内町、
また利根川南の千葉県の一部にも及んでいるのでした。

面白い趣向ですが、その根底となっているのが真言密教。
とすれば、大師というのは、当然、「弘法大師、空海」を指します。
これが 読者への挑戦 クイズの答えです。簡単すぎましたね。

さて、塚の正面に向かいます。ここ北河原の大師は50番となっています。

大師50番 大師50番札

墓塔2基

墓塔 墓塔

大師を囲んでいくつかの石祠が無造作に置いてあります。左は「師」とか「翁」の文字が見えます。墓碑でしょうか。
大師堂の右手に1基(右写真)、これもお坊さんの墓塔のように思われます。

地蔵・十五夜塔・巡拝塔

地蔵・月待供養塔・巡拝塔

左は地蔵菩薩塔に見えます。

真ん中は、半跏思惟型、如意輪観音の十五夜塔。
撮影当時は、よく検分していなかったので、
造立日等々精しくは不明です。
写真の精度もよくないですし再訪問しないとだめですね。

いちばん右の四角いのは西国霊場五十番とあります、
この大師の札所番号と同じ四国の霊場を巡拝した記念?
それとも、西国霊場自体の写しとしての札所塔かも。

住職の墓塔など

和尚さんの墓石

大師堂右手道路沿いにある3基。
真ん中の大きいのがお寺の和尚さんの墓。
その左は天保年間(1830−1843)建立のもの。

右の1基のさらに右にもう1基、
地中に半分ほど埋まっている石塔があるようです。

和尚さんの墓石には「当寺」とあります。
この場所なのかどうか分かりませんが、
この墓碑は元々はお寺にあったようです。
現在お寺はどうなっているのでしょうか。
鹿島神社もいわゆる別当寺があったのかも知れません。


(15/07/26 追記再編成) (12/07/15・12/07/11 追記再編成) (05/08/20) (撮影 15/07/07・15/05/04・15/04/26・12/07/09・12/06/17・12/06/08・12/04/29・07/07/28・06/09/10・05/08/27・05/08/14・05/08/13・05/05/07・05/05/04)


本コンテンツの石造物データ(龍ケ崎北河原の鹿島神社を除く) → 惣新田2石造物一覧.xlxs (16KB)