タヌポンの利根ぽんぽ行 泪塚

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泪塚


利根町押付新田の東端に泪塚と呼ばれている場所があります。
その名が示すようにここで昔、
3家族10人が惨殺されるという悲惨な事件が起こりました。
そのなかには5歳の幼児のほかに美しい娘もいました。
ご禁制の鶴を捕らえて病気の妻に食べさせたというのがその罪ということですが、
当時はまだ徳川綱吉の生類憐みの令が発せられる少し前の時代。
小林一茶も後にこの地を訪れ、幕府の処置に抗議するかのような反骨の句を残し、
現在、句碑として残されています。
あまりにも重い刑罰の背景にはどんな事実があったのでしょうか。

タイトル画像は2画像のjavascript処理をしていますが、ie以外では固定1画像のみの表示となりますので、以下、2画像のミニ画像を再掲します。(クリック拡大できます)

泪塚 一茶の句碑

利根町西部マップ



押付新田の鶴殺し事件と千日供養塔(念仏院)

千日供養塔

延宝5年(1677)の秋、押付新田の鈴木佐左衛門が病妻の”いと”に養生のために鶴を捕らえて食べさせ、法度を犯したとして親族3家が打ち首となった事件、それを「押付新田の鶴殺し事件」と呼んでいます。

現在、家族の菩提寺だった鶴捕寺(かくほじ=正式には、常念仏院鶴捕寺)跡に、天和(てんな)2年(1682)9月に建立された千日供養塔があり(左写真)、これらを泪塚と呼んでいます。
念仏院は円明寺末寺でしたが現在廃寺となっています。

少し離れた西の押付新田不動院にある同集会所には、最近までこれら家族の位牌と、鶴捕寺を創立した浄因と妙誓の位牌、さらに彼らが鶴捕寺建立資金の調達のための勧化(かんげ=仏の教えを広めること)を許可された印としての徳川家の位牌が残されていました。
しかし、それらは昭和58年(1983)8月22日の集会所失火により焼失してしまいました。

事件後、約170年経った嘉永元年(1848)、俚説(りせつ=民間の風聞)をもとに蜀亭と名乗る人が「毛吹草(けぶきそう)」と題した物語を著しています(利根町史第4・6巻)。

さて、悪名高い生類憐みの令は徳川綱吉が将軍職に就いた延宝8年(1680)よりも数年後であり、
この事件はそれより前の話です。
そうなると、この厳罰は果たしてどういう理由のものなのでしょうか?

これはどうも「鷹場」との関連が指摘されています。
つまり、押付新田地区は当時から幕府御用達の鷹狩りの場所であったのではないかというものです。
ちなみに鷹狩りとは鷹を狩るのではなく、鷹を使って野鳥や野兎などを捕らえる狩猟をいい、
古くは仁徳天皇の時代から行われていたという記述が日本書記にあるということです。
徳川家康も大の鷹狩り好きで、来見寺訪問時にはおそらくこの近辺で鷹狩りを楽しんだのではないかと想像されます。
したがって鷹は貴重な動物であり、その巣を荒らしたり雛を盗ったりすれば厳罰に処されたものと思われます。
と同時に、鷹狩りの獲物として最高の価値をもつ鶴自体も同様に貴重なものとされていたと考えられます。
これを、鈴木佐左衛門は犯してしまったわけですが、そこにはさらに次のような背景がありました。


美少女お雪と悪役人群平


この鶴殺し事件は冤罪とされています。
押付新田の鈴木佐左衛門一家とその分家2家族のなかのひとりで「お雪」というとても美しい娘がいました。
そのため、鶴番の悪役人山崎群平はお雪に惚れ込んで結婚を申し入れますが断られてしまいます。
これを根にもった群平は仕返しをしようと企みます。
その折、お雪の親戚に牛助という15歳くらいの男子がいてその母親が難病にかかってしまいます。
肺病に似た病いでなんでも鳥を食べさせると良くなるといいます。
そこで鶴を捕って食べさせたのですが、実はこれは鶴ではなく白鷺だったそうです。
(現実に、現在の利根町の田には白鷺が数多く生息しています)
この事がもとで、恋の恨みをもつ群平は3家族を訴え、そして全員10人が打ち首になったということです。
(北相馬郡志による)


法名
直截信士 鈴木太郎左衛門 行年45歳
心元信士 鈴木佐左衛門 行年45歳
即空信士 鈴木忠兵衛 行年42歳
即端信士 太郎左衛門せがれ太郎吉 行年25歳
製宅信士 忠兵衛せがれ与吉 行年17歳
迎蓮信女 太郎左衛門妻さよ 行年42歳
想祐信女 忠兵衛妻すて 行年38歳
妙雪信女 太郎左衛門娘ゆき 行年16歳
牛助童子 佐左衛門せがれ牛助 行年15歳
熊助童子 同人二男熊助 行年 5歳

このリストを見ると鈴木佐左衛門の妻いとの名がないですね。刑罰を受けるまでもなく病気が治癒せず亡くなったということでしょうか。
まったく悲惨な話ですね。幼い子供たちの助命嘆願も聞き入れられず、男親3人の前で7人が斬殺され、太郎左衛門は血の泪を流して「1鳥を殺して10命滅ぼすとはいかに虫けら同様の身とて余りの仕打ち、10人の念力ひとつにして皆を取り殺さん」と呪詛したといいます。
まったく無念はいかばかりだったかと思います。

後日談として山崎群平と彼が諫言した新堀重郎次郎ともども追放の沙汰となりました。ちょっと遅いですが・・・。
山崎群平は10人が死罪になった頃から体調をくずし、追放されたあと白井宿北の神々廻台(ししばだい)というところで野垂れ死にしたといいます。その屍骸は半身が狼に喰われていたとのこと。


小林一茶と泪塚

小林一茶 句碑

泪塚を訪れると道路からすぐ右手のほうに一茶の句碑が建っています。
文化元年(1804)9月7日に泪塚を訪れて詠んだ句がここに彫られています(クリックして拡大すると読めます)

事件後100年以上も経った文化年代においてもなおこの事件は生々しいものとして語り継がれていたようです。

ここの句は以下。

見ぬ世から 秋のゆふべの 榎哉
植足しの 松さへ秋の 夕哉


この後、続いて15日の夜にも一茶はここを訪れて、

「今夜は鶴殺しの胎(逮)夜(=葬儀の行われる前夜。また、忌日の前夜の意)なりとて、念仏院に其回向(えこう)あればかいわい群集し大かたならず。天和より四万三千日にあたるとなん。比(ころ)しも秋風寂々として小田の雁さへ昔おもはれてかなしく、我も念仏一遍のたむけなす員(かず)に入りぬ」

とあり、「地内にて」と前置きして次の句が書かれています。

君が世や かかる木陰も ばくち小屋

これは暗に幕政を批判した句と解せる、と利根町史に記されています。
また、一茶の反骨精神を表すものとして8年後の文化9年(1812)9月2日、江戸小梅筋を通ったとき、

かしましや 将軍さまの 雁じゃとて

と詠んだといいます。
雁と鷹狩りとを引っ掛けたもので、もしかすると泪塚のことも脳裏の一部にあったのかも知りません。

大師35番

ここにも四郡大師がありました。(左画像クリックすると番号確認)

大師35番 大師

六阿弥陀懺悔所

六阿弥陀懺悔所

泪塚敷地の入口に道路に向かって立っているのがこの石塔。
「六阿弥陀懺悔所」
所の字がまた妙な字になっていますね。

同じような石塔を他でも見かけました。
旧押付本田の水神宮、まだ紹介していない布川地区の不動堂にも、いやすでに紹介している場所にもいくつかあったような気がします。
これにはそれぞれ何か意味があるのでしょうね。

近々まとめてみたいと思います。

「総州六阿弥陀詣」としてUPしました(05/11/05)。



その他の地蔵や石祠など


左下は首なし地蔵。鶴殺し事件をシンボライズしたものでしょうか。それとも廃仏毀釈のときに首を切り取られたのでしょうか。
その左隣にはこれも不明の石祠が4基、真ん中にもう1基あったようですが消失していますね。どういう原因があるのでしょうか。

首なし地蔵 石祠類

(05/09/10)(撮影05/03/12・05/08/20)