タヌポンの利根ぽんぽ行 泪塚

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更新経過

2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
本コンテンツは紹介する石造物はわずかですが、
再調査で内容的な誤謬も若干見つかり修正、各所で詳しい追記をしました。
また、写真の差換えなども行いました。(15/07/04)


利根町押付新田の東端に泪塚と呼ばれている場所があります。
その名が示すようにここで昔、3家族10人が惨殺されるという悲惨な事件が起こりました。
そのなかには5歳の幼児のほかに美しい娘もいました。
ご禁制の鶴を捕らえて病気の妻に食べさせたというのがその罪ということですが、
当時はまだ徳川綱吉の生類憐みの令が発せられる少し前の時代。
小林一茶も後にこの地を訪れ、幕府の処置に抗議するかのような反骨の句を残し、
現在、句碑として残されています。
あまりにも重い刑罰の背景にはどんな事実があったのでしょうか。(05/09/10)


利根町西部マップ

泪塚は、下の地図の右下(東南)に位置しています。

利根町西部マップ

鶴殺し事件と千日供養塔

泪塚

利根町役場脇からフレッシュタウンを
南北に突っ切る道を北上し、
2つ目の信号手前に右手、東南に
少し戻るような道があります。

その道を300mほど行くと
左手の民家が少し途切れたところに
写真のような場所が見えてきます。
まっすぐ伸びた棕櫚の樹が目印です。

ここは、以前は念仏院のあった場所で
通称「泪塚」と呼ばれています。

すぐ右手に大きな石塔があったり、
中ほどに石碑や地蔵などの石仏や
お堂などが見えますが、
「泪塚」命名由来のメインの供養塔は、
いちばん奥に建てられています。
(それにしても、なぜ棕櫚の樹が?)

千日供養塔

左が、そのメインの供養塔、
「千日供養仏常念仏塔」なのですが、
敷地のいちばん奥にあり、しかも、
卒塔婆立が前面に設置されていたり、
大師堂の陰になっているなど、
これでは「泪塚の主役」とは思えない
扱われ方のような。さらに・・・。

塔の「正式な正面」がどれなのか、
実のところ疑問に感じています。
「千日供養仏」を正面と考えるのが
一見、妥当と思われるのに、
それでは卒塔婆立が邪魔ですし、
線香もあげづらいですね。

これについては、後半で、
少し検討してみることにして、
とりあえずは泪塚の由来から。

押付新田の鶴殺し事件

延宝5年(1677)の秋、押付新田の鈴木佐左衛門が病妻の“いと”に養生のために鶴を捕らえて食べさせ、
法度を犯したとして親族3家が打ち首となった事件、それを「押付新田の鶴殺し事件」と呼んでいます。

現在、家族の菩提寺だった鶴捕寺(かくほじ=正式には、常念仏院鶴捕寺)跡に、
天和(てんな)2年(1682)9月に建立された千日供養塔があり、これらを泪塚と呼んでいます。
念仏院は 円明寺 末寺でしたが現在廃寺となっています。

泪塚から西に少し離れた 押付新田不動院 にある同集会所には、最近まで、以下の3種の位牌が残されていました。

  1. これら家族の位牌
  2. 鶴捕寺を創立した浄因と妙誓の位牌
  3. 彼らが鶴捕寺建立資金の調達のための勧化(かんげ=仏の教えを広めること)を許可された印としての徳川家の位牌

しかし、これらの位牌は昭和58年(1983)8月22日の集会所失火により焼失してしまいました。

鶴殺しの松

上記念仏院の南に砂山があり、そこに大きな松の木が10数本立っていました。
ここで、鈴木家3家族が処刑されたので、地元の人はそれを 鶴殺しの松 と呼んでいたそうです。(『利根町史』第4巻)

現在は田んぼになっていて、砂山や丘らしきものは見当たりません。
念仏院(泪塚)の南ではなく北のほうに松木村という場所(現・利根町下曽根)があったようですが、
このあたりは松の木が多い地域だったのかも知れませんね。(参考: 旧松木村の道祖神

徳川綱吉の鷹狩りとの関連

さて、悪名高い生類憐みの令は徳川綱吉が将軍職に就いた延宝8年(1680)の数年後で、事件はそれより前の話です。
そうなると、生類憐みの令によるものではないわけで、この厳罰は果たしてどういう理由のものなのでしょうか?

これはどうも「鷹場」との関連が指摘されています。
つまり、押付新田地区は当時から幕府御用達の鷹狩りの場所であったのではないかというものです。
ちなみに鷹狩りとは鷹を狩るのではなく、鷹を使って野鳥や野兎などを捕らえる狩猟をいい、
古くは仁徳天皇の時代から行われていたという記述が日本書記にあるということです。
徳川家康も大の鷹狩り好きで、来見寺 訪問時にはおそらくこの近辺で鷹狩りを楽しんだのではないかと想像されます。
したがって鷹は貴重な動物であり、その巣を荒らしたり雛を盗ったりすれば厳罰に処されたものと思われます。
と同時に、「鷹狩りの獲物として最高の価値をもつ鶴」自体も同様に貴重なものとされていたと考えられます。
このご禁制に近い鶴の捕縛を、鈴木佐左衛門は犯してしまったわけですが、そこにはさらに次のような背景がありました。

美少女お雪と悪役人群平

この鶴殺し事件は冤罪とされています。

押付新田の鈴木佐左衛門一家とその分家2家族のなかのひとりで「お雪」というとても美しい娘がいました。
そのため、鶴番の悪役人山崎群平はお雪に惚れ込んで結婚を申し入れますが断られてしまいます。
これを根にもった群平は仕返しをしようと企みます。

その折、お雪の親戚に牛助という15歳くらいの男子がいてその母親が難病にかかってしまいます。
肺病に似た病いでなんでも鳥を食べさせると良くなるといいます。
そこで鶴を捕って食べさせたのですが、実はこれは鶴ではなく白鷺だったそうです。
(現実に、現在の利根町の田には白鷺が数多く生息しています)
この事がもとで、恋の恨みをもつ群平は3家族を訴え、そして全員10人が打ち首になったということです。
(『北相馬郡志』による)

打ち首となった3家族10名

以下のリストを見ると鈴木佐左衛門の妻いとの名がありません。
刑罰を受けるまでもなく病気が治癒せず亡くなったということでしょうか。まったく悲惨な話です。
なお、供養塔の下部に法名が彫られています(右下写真)。以下のリストの順番とは少しちがいます。
上段右から、直截信士 心元信士 即空信士 製宅信士 即端信士
下段右から、(おそらく 熊助童子牛助童子(牛は午の字に見えます) 迎蓮信女 想祐信女 妙雪信女 となっています。

千日供養塔の下部
法名 名前 行年
直截信士 鈴木太郎左衛門 行年45歳
心元信士 鈴木佐左衛門 行年45歳
即空信士 鈴木忠兵衛 行年42歳
即端信士 太郎左衛門せがれ太郎吉 行年25歳
製宅信士 忠兵衛せがれ与吉 行年17歳
迎蓮信女 太郎左衛門妻さよ 行年42歳
想祐信女 忠兵衛妻すて 行年38歳
妙雪信女 太郎左衛門娘ゆき 行年16歳
牛助童子 佐左衛門せがれ牛助 行年15歳
熊助童子 同人二男熊助 行年 5歳

行年と享年・行年=何歳まで生きたか。「歳」をつける ・享年=何年生きたか。「歳」はつけない
なお、「法名」(ほうみょう)は、浄土真宗では、仏弟子となった名告り(なのり)で、「戒名」と混同して用いられる場合もある。

幼い子供たちの助命嘆願も聞き入れられず、男親3人の前で7人が斬殺され、太郎左衛門は血の泪を流して

1鳥を殺して10命滅ぼすとはいかに虫けら同様の身とて余りの仕打ち、10人の念力ひとつにして皆を取り殺さん

と呪詛したといいます。まったく無念はいかばかりだったかと思います。

後日談として山崎群平と彼が諫言した新堀重郎次郎ともども追放の沙汰となりました。ちょっと遅いですが・・・。
山崎群平は10人が死罪になった頃から体調をくずし、追放されたあと白井宿北の神々廻台(ししばだい)というところで
野垂れ死にしたといいます。その屍骸は半身が狼に喰われていたとのこと。

千日供養仏常念仏塔

さて、この千日供養塔ですが、正式には「千日供養仏常念仏塔」と呼びます。
この塔の正面はいったいどの面なのか、最初にタヌポンが疑問として取り上げましたが、調べてみると2説あるようです。

▼ そのひとつは、当然ながら、「鶴殺し事件」に関連した「千日供養仏と10人の法名」が記された面を正面とする説。
この前提におけるこの塔の4面に記された文字の概略を以下に記します。

正 面 千日供養仏 および下部に10人の法名
右側面 三界萬霊有縁無縁等願主敬白
左側面 南無阿弥陀仏
裏 面 為千日惣廻向袋志之聖霊等并諸檀越逆修菩提也

上記のようになりますが、このコンテンツの趣旨等から見ても、この説が妥当と思うのですが、気になるのは前述のように、
正面前は塔婆立てがあり、参詣には狭く不都合であること。右面前のほうがゆとりがあり、線香などもあげやすいことなど。

千日供養塔の上部 千日供養塔の右面

ところが、2005年の写真(既掲載) では
塔婆立ては確かに正面前にあったのに、
最近撮った写真(左参照)では、
裏面に移動しているのです。
しかし、地面に突き刺さった大きな卒塔婆は
さすがに移動できないのかそのままです。
でも、幾分、正面としての妥当性が
これで増した感があります。
依然として、線香のあげやすさ等は、
左写真の右側面のほうが勝りますが・・・。

では、それなら、もうひとつの説は、
参りやすい右面を正面とするものかというと、
これが実はそうではないのです。

▼ この供養塔を、浄土宗の僧侶による常念仏千日供養塔として見るという立場で考えると、
これは 南無阿弥陀仏 を記した面を正面として見るのが正しいというのです。これが第2の説です。

しかし、この場合は、現実的には、「泪塚」の現在の敷地でいえば、入口から入って供養塔にぶつかり、
その左面、畑を向いた面を正面とするわけで、そこに向かうには、敷地の外に出て回り込んで見る必要があります。
昔の在りし日の念仏院の境内敷地がどのような区画であったかはあったかは分かりませんが、
もしそれが正しい正面であることが当初から分かったいたとしたら、
現在の泪塚の敷地の囲い方はきわめて不自然といわざるをえません。
まあ、重い石塔を動かすにはそれ相応の経費がかかりますので、仕方のない処置であったとも考えられますが・・・。

この千日供養塔や念仏院、南無阿弥陀仏、後述の総州六阿弥陀詣等々、浄土宗が深い関わりがあるため、
第2の説の可能性は否定できませんが、タヌポンとしては、やはり「千日供養仏」の面が正面ではないかと思います。

本体: 高188cm、幅46cm、厚49cm。台石: 高29cm、幅90cm、厚89cm。

(参考文献:『印西町の歴史』第八号/1992年刊行/榎本正三氏「総州六阿弥陀詣」より)

念仏塔銘文資料

[正面]

[正面]

□□□九月十五日廻□□□□ 直截信士 熊助童子
□□□九月十五日廻□□□□ 心元信士 午助童子
千日供養佛         即空信士 迎蓮信女
□□□九月十五日廻□□□□ 掣宅信士 想祐信女
□□□九月十五日廻□□□□ 即端信士 妙雪信女

補注

10名が斬首の刑に処せられたのは、延宝5年(1677)12月16日。
風化欠損部分が、延宝・・・が入ると思いましたが、「九月十五日」と合致しません。
九月十五日廻の廻は回と同じで、回向と続くと思われます。
命日ではなく回向が行なわれた日のようです。

午助は、通称牛助と呼ばれていたようですが、銘文や位牌等では、
「午助」と記されていたり混同されています。

[右側面]

[右側面]

  道師立木邑円明寺第九世   良心誠入
    教蓮社頓誉天栄仰西和尚 按誉宗心
    教蓮社頓誉天栄仰西和尚 西誉浄運
南無阿弥陀佛
    心蓮社光誉上人文達和尚 稱誉念夢
    心蓮社光誉上人文達和尚 給誉助念
  法蓮社良聞本阿上人碧道和尚 心誉直円

補注

この面を正面とする説の場合、次の[左側面]がその裏面に該当します。
建立日や「願主 敬白」などの銘文もあり、裏面としても違和感はありません。
浄土宗の慣例からみて「南無阿弥陀佛」を正面とする、は説得力があります。
また、塔婆立て移動はつい最近のことであり、
かなり以前から現在の[正面]前にあったのであれば、
それが正面というのもおかしな話ではあります。
いまは畑となっている[右側面]前の土地は、
以前は念仏院境内の一部だったのかも知れません。ああ、また迷いが・・・。

[左側面]

[左側面]

  宗覚信士 妙固信女 頓誉道相秋月妙光 田村利兵衛
  妙廣信女 妙照信女 妙寒信女     満誉浄円
三界萬霊有縁無縁等願主 敬白
  旹天和二壬戌年九月拾六日       本誉妙誓
  旹天和二壬戌年九月拾六日       同右勘三良

補注

この塔の建立日「天和2年(1862)9月16日」が刻まれています。
旹は、時の古字。

[裏面]

[左側面]

   経蓮社良現願白良□西向願誉清安
                 逆修香取源右門母
   念西心誉単入村誉妙光妙心
爲千日惣廻向袋志之聖霊等并諸檀越逆修菩提也
   妙専惣妙心妙頓道春
   法誉単西

補注

香取源右門は、香取源右衛門と推定。

香取源右衛門は、処刑された鈴木一族と共に府川城の城主豊島氏の家臣。代々布川の馬場に住し名主を勤める。この事件当時の当主香取源右衛門は清信と号し、当地方の俳諧の座で中心的な位置を占めた人物である。(『利根町の文化学芸碑』)

香取家第3代の源右衛門清勝も風雅の人で、
元禄3年(1690)という早い時点で、
前句付俳諧の普及にも一役かっていました。(→ 岸本調和と元禄句巻

『毛吹草』

『毛吹草』

鶴殺し事件後、約170年経った嘉永元年(1848)、俚説(りせつ=民間の風聞)をもとに
蜀亭と名乗る人が『毛吹草』(けぶきそう)と題した物語を著しています。その序文のなかに・・・

・・・一羽の鶴を殺したために、十人のひとの命が亡んだのである。そのことをあれこれと考えると、毛を吹くようにして他人の疵さがしをすれば、自分のあやまちもまた世間にあらわれるという、その言葉どおりであった。だからこれに『毛吹草』という題をつけて・・・

「毛を吹いて過怠の疵を求る」とは、当時はかなり知られた格言だったようです。出典は『韓非子』。

注)上記は、江戸時代の俳諧論書で1645年刊行、編者松江重頼による『毛吹草』(けふきぐさ)とは関係ありません。
また、余談ですが、『毛吹草』著者の蜀亭は、三国志でおなじみの劉備が建国した蜀の国にあやかりペンネームをつけた、などと序文に記しています。まったく鶴殺し事件とは関係のない話だけに、妙に親しみがわきました(笑)。

小林一茶と泪塚

泪塚を訪れると、道路から少し敷地に入ってすぐ右手に一茶の句碑が建っています。
文化元年(1804)9月7日に、一茶が泪塚(当時は念仏院)を訪れて詠んだ句がここに彫られています。
事件後100年以上も経った文化年代においてもなおこの事件は生々しいものとして語り継がれていたようです。

小林一茶 句碑

    文化元年九月七日 晴
   押つけ村に逝
 そのかみ天和の比となん、鶴を殺して従
類刑せられし其屍を埋し跡とて、念仏院と
いへる寺あり。二百年の後に聞さへ魂消る
ばかり也。況縁ある人においておや。

 見ぬ世から 秋のゆふべの 榎哉

 植足しの 松さへ秋の 夕哉  一茶

この後、続いて15日の夜にも一茶はここを訪れて、

「今夜は鶴殺しの胎(逮)夜(=葬儀の行われる前夜。また、忌日の前夜の意)なりとて、念仏院に其回向(えこう)あればかいわい群集し大かたならず。天和より四万三千日にあたるとなん。比(ころ)しも秋風寂々として小田の雁さへ昔おもはれてかなしく、我も念仏一遍のたむけなす員(かず)に入りぬ」

とあり、「地内にて」と前置きして次の句が書かれています。

 君が世や かかる木陰も ばくち小屋

これは暗に幕政を批判した句と解せる、と『利根町史』にあります。

また、一茶の反骨精神を表すものとして
8年後の文化9年(1812)9月2日、江戸小梅筋を通ったとき、

 かしましや 将軍さまの 雁じゃとて

と詠んだといいます。雁と鷹狩りとを引っ掛けたもので、
もしかすると泪塚のことも脳裏の一部にあったのかも知りません。

さて、句碑の冒頭に「そのかみ天和の比(ころ)となん・・・」という前文が記されていますが、
その後の「200年の後に聞さへ・・・」のくだりと照合すると、ちょっと時間的に計算が合わない気がしました。
これは、小林一茶と利根町(念仏院での回向) に記しましたのでご参照ください。

小林一茶 句碑碑陰

左は碑陰。平成15年(2003)4月の建立と記されています。


平成十五年四月吉日
  所願により建之
   雑 賀 一 郎
   宮 本 和 也
   押付新田区
    墓地組合


本体: 高94cm、幅70cm、厚30cm。台石: 高43cm、幅96cm、厚83cm。

四郡大師と石仏

7年ぶりの再構成(12/06/07)で、新たに写真の取り直しをしてみましたが、以前と若干の変化が見られました。
何回かは訪問してはいたのですが、東日本大震災直後に変わったのか、それ以前からなのかはよく分かりません。

大師35番

35番大師堂

ここにも四郡大師がありました。
札所番号は35(左下参照)。

2012年訪問時、気が付いたのは、
堂の屋根や桟の前面と、
中の大師像を囲む木枠などが、
朱色に塗り直しされていたことです。

遠目でも目立つようになりましたが、
ここのメインであるべき千日供養塔が
ますます目立たなくなりました(笑)。

卒塔婆を立てる位置を
供養塔の背後に移動させるとか、
千日供養塔の案内看板をつくるとか、
そういう工夫があると・・・。


像本体: 高43cm、幅27cm、厚18cm。

大師35番札 大師像

地蔵菩薩塔

地蔵菩薩塔

本体: 高88cm、幅29cm、厚25cm。

左は、2015年春訪問時に再撮した地蔵塔。
一茶句碑と後述の六阿弥陀石塔の間に設置されています。

2005年初訪問時は、首なし地蔵でしたが、2011年大震災後に訪問した時、
以下のように、間に合わせ的ですが、頭部が復活していました。

銘文等何も見つからないので由緒等は不明です。
また、右隣りに置いてある石塊も、何であるかは不明。

頭部復活した地蔵

大師手前の石塔群

大師手前の石塔群

大師堂の手前、右手に石塔が何基か並んで置かれています。
2005年以来、何度か訪問しましたが、
単なる石塊のようなものが、あるときは5個、またあるときは3個と
積み上げられたり、変化しています。

これらは、鶴殺し事件と何か関係のあるものかと考えましたが、
どうもそうではなく、おそらく旧念仏院に附属していたもので、
事件とは別次元で置かれていたものでしょう。

この中で、若干の銘文が読めて説明が可能なのは、
写真左からの2基だけです。以下左から。

廻国塔1

表面中央に「奉納大乗妙典六十六部日本回国」とあり、諸国を巡っての経典奉納記念の廻国塔であることが分かります。
右上には「天下和順」。左上には対句のように五穀豊穣などが記されるようですが、風化していて読めません。
下部左右は「長州阿武郡 行者常右エ門」と読めそうです。これが六部と呼ばれる廻国行者の出身地と名前でしょう。

写真中央は右側面で、「村年寄中」もしくは「寄」は寿の異体字かもしれません。左側面は「諸国同行中」。
造立年が不明。どこかに彫られているかも知れませんが、阿武郡の読みが正しければ、明治以降の造立と思われます。
→ 回国行は明治に入ると禁止の対象となったようで、これはやはり幕末頃の造立のようです。

廻国塔1 廻国塔1右側面 廻国塔1左側面

本体: 高65cm、幅27cm、厚19cm。

廻国塔2

前記の右隣りにある塔ですが、さらに風化していて、銘文が断片的にしか読み込めません。
表面下部に、これも「日本回国」と見えるので廻国塔と判断。上部が見えづらいので断定できませんが、
中央に「□□□弥陀佛」、左右はおそらく「天下和順」「日月清明」と推定。左下は「願主」だけで名前が不明。

下中央は右側面で、これも上部は不明ですが下部に「□葛飾君阝」「金野井□」「行者□□清水」が断片的に見えます。
「下総郡葛飾郡金野井」という地名は確かに存在していたようで(現在の埼玉県)、行者の出身地ではないかと推定。
この右側面カットのおかげで、当初、四角柱の石塔と思っていましたが、山状角柱型であることが分かりました。
最後の左側面に「旹文政十有二年丑十有一月」とあり、文政12年(1829)11月の造立。旹=時の古字は既出。

廻国塔2 廻国塔2右側面 廻国塔2左側面

本体: 高55cm、幅28cm、厚20cm。

六阿弥陀懺悔所

この塔については、「総州六阿弥陀詣」および「懺悔所念仏院」で、詳説しましたので、参照してください。巡拝塔の一種。

六阿弥陀懺悔所塔

泪塚敷地の入口に道路に向かって立っているのがこの石塔。
六阿彌陀懺悔所」。所の字がまた妙な異体字になっていますね。

ちなみに、この石塔の右側面が以下の写真。
ここには、ちょっと趣向をこらした御詠歌が彫られています。

からへば 量の罪も りぬべし
来この世を のむ念

(永らへば 無量の罪も ありぬべし 未来この世を たのむ念仏)

六阿弥陀石塔右側面
六阿弥陀石塔左側面

左は、塔の左側面。


一念彌陀佛即滅無量罪  文政十丁亥四月建
現受無比楽後生清浄土  百万遍講中


上部に、観世音菩薩往生浄土本縁経の四句の偈(げ)が刻まれています。

この意味は、以下。
一たび阿弥陀仏を念ずれば、即座に無量の罪を滅ぼし、
現世において無比の楽を受け、後世においては清い浄土に生まれん。


下部で、文政10年(1827)4月、百万遍講中による造立と分かります。


本体: 高162cm、幅35cm、厚23cm。台石: 高26cm、幅52cm、厚48cm。

attention

一茶の句

大震災後に訪問したら、入口の六阿弥陀石塔の隣りに
写真のような一茶の句の案内が掲出されていました。
attention となるのでいいことだと思うのですが、
果たして耐久性がどうか心配です。
→ 意外と耐水性があるようで安心しました。(15/07/04 追記)

ただ、一茶の句碑は泪塚ではとても目立つ存在なので、
さらに句の案内を付けるのは多少蛇足的な感もあります。

タヌポンとしては、一茶のことや朱塗りの大師堂よりも
この泪塚の主体である「千日供養塔」のほうを
もっとアピールできないものかと思ってしまいました。
悲劇の主人公のお墓はどこ?と思う訪問客もいるのでは・・・。


(15/07/04 追記) (12/06/07 追記再構成) (10/01/29・05/11/18・05/11/05 追記) (05/09/10) (撮影 15/05/22・12/05/31・12/05/08・09/03/07・07/06/17・05/08/20・05/03/13)


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