タヌポンの利根ぽんぽ行 琴平神社

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タヌポン宅にいちばん近い神社と言えば、琴平神社。
だからよく訪れて写真も少しは撮っていたのに、掲載が遅れていました。

その理由は、神社の名前のせいでした。
琴平神社。
さて、皆さんはなんと読みましたか。
ことひら?それとも、こんぴら?

この素朴な疑問の解答が、なかなか判明しないのです。
名前がはっきり分からない神社を紹介するなんて、と思っていたのですが、
それでも、なんとかコンテンツをつくり・・・。

掲載して、幾年月(おおげさですがそれでも5.6年)経った2011年になってやっと、
なんと琴平神社ではなく、蛟蝄神社奥の宮で、
宮司さんにお会いして、その解答を得ることができました。
結論は、コンテンツ後半にて。

琴平神社の由緒沿革について、創立は不詳ですが、
天明6年(1786)再建、万延元年(1860)増補と町史にあります。


布川地区マップ

琴平神社は利根川に架かる栄橋のたもと付近、利根町役場と徳満寺の中間地点にあります。
このコンテンツでは、神社のほかに後半で近くの石碑と利根町役場内の稲荷神社の写真も紹介します。

布川地区マップ

ことひらか、こんぴらか(1)

琴平神社は「ことひら神社」なのか「こんぴら神社」なのか。
仮にそのどちらであったとしてもこうした似通った名のいわれはなにか。
このことをクリアにしてからコンテンツを創ろうと思っていたのです。
ところが大して調べてもいないのですが、いまだにこれが不透明なのです。

地元では、こんぴら

タヌポンの近くにある「琴平神社」に限って言えば、タヌポンの予想に反して、
地元の人たちは「こんぴら神社」と呼んでいることが最近、分かりました。
しかし、これは、先日、無量寺 の沼などについて聞いたおそばやさんの「ますだや」の若主人からだけの情報です。
20年もここに棲んでいますが、いままでほかにだれにも尋ねたことがありません。
若主人を信じないわけではないのですけれど、別の人は「ことひら神社だよ」というかも知れません。
それほど確固としたちがいがないようにみえます。

一般的には、どっちもアリ?

近所の神社ではなく一般論としての呼び方を少し調べてみた結果は・・・。
どちらの言い方も全国にあり、どっちでもいい、という実にいい加減な感じなのです。
こんなのはタヌポンは少々、気持ちが悪いのでなんとか白黒をはっきりさせたいと思うのです。

琴平は「ことひら」では?

最初は漢字の使い分けで、「琴平は、ことひら。金毘羅や金刀比羅は、こんぴら」というのではないかと推論しました。
「金毘羅宮(こんぴらぐう)が琴平町(ことひらまち)にある」という記述が見つかったので、やはり、などと一瞬、思いました。
したがってこちらの琴平神社は、ことひら神社と思ったわけです。
しかし、ますだやの若主人は「ああ、こんぴらさんね」とこともなげに言うではないですか。
「ことひらではないのですか」の問いに、「うーん、こんぴらって言ってるね」

両方ある金毘羅宮

そうこうしていると、ある記述には金毘羅宮(こんぴらぐう)、別の記述には金毘羅宮(ことひらぐう)と、
わざわざ両方ともふりがなまでうったものが見つかりました。
同様に、金毘羅だけではなく金刀比羅の字にも、ことひらとこんぴら両方のふりがながそれぞれ付いた記述があるのです。
金刀比羅の刀を「ん」と読むのもヘンだと思うのですが、まあよくある話しではあります。

さらに本家本元、香川県には「こんぴら温泉郷」があり「ことひら温泉郷」もあります。
ところが、これすらも、調べてみるとまったく同一のもの、という始末なのです。
現地の観光協会に電話して聞いてみたからホントです。
歴史・由緒など詳しいことは遠慮して聞きませんでした。
ぜひこちらへ来て資料館などで調べてくださいなんて言われると困りますからね。
行ってみたいとも思いますが、いまはちょっと忙しいので・・・。

かくして、タヌポンの漢字による使い分け案は無残にも砕け散ってしまいました。
「正式にはいったいどっちなの、はっきりしてよ」と言いたくなります。

結局はよく分からない

で、いまのところ結局はどうにも分からないのですが、ひとつだけ言えるのではないか(と思う)のは、
香川県にある琴平町という町の名だけは「こんぴら」ちょうなどとはいわない、「ことひら」に限定のような気がします。
ことひら「まち」なのか、ことひら「ちょう」なのか、は分かりませんが・・・。
あとは要するに、なんでもあり、です。

で結局、名前の由来がよく分からないままここに利根町の琴平神社を紹介することにしました。

ことひらか、こんぴらか(2) に続く

琴平神社への3つの入口

さて、利根町の琴平神社にも 徳満寺 と同様、中に入るには3つの入口、というか方法があります。

1.正規の入口

まず、ひとつ目は正規の入口。利根町役場の右から利根川に平行して少し下った路地に向かえばすぐの場所にあります。

正規の入口

鳥居が2つ続いています。
入口から順に、
一の鳥居、二の鳥居と呼びますが、
こうした並びの鳥居が
2つ以上あるのは、
利根町では、この琴平神社だけです。

白い標柱は
利根町指定有形文化財の案内。
そのひとつに
杉野嵩雲(すぎのすううん)絵馬
「水難救助図」があります。
応順寺のコンテンツ参照
杉野嵩雲はあとで紹介する
書家杉野東山の弟です。

この写真は、正月(2008)のもの。
門松が立てられています。

2.掘割からの入口

2つ目の入口が以下。これは正規の入口前の道路を役場方面に戻り、右にカーブするように曲がったその先右手にあります。

掘割の入口

階段からその少し先の窪んだところ一帯は
布川城の掘割だったといいます。

赤松宗旦が著した「利根川図志」(柳田國男校訂)に、
金毘羅社と題した以下の一節が記されています。
(やはり金毘羅=こんぴらと呼ばれていたのですね)

・・・・地蔵堂(徳満寺)の西にあり。その間路の左右に乾隍(からほり)の迹(あと)あり。さればこの地、城の大手なるべし・・・

ここを上がると・・・

さらに奥にある数段の階段を登って左に行くと徳満寺へ、右に曲がると琴平神社の境内・本殿につながります。
下の右の写真が、掘割から見上げた琴平神社の本殿です。右手に見えます。

徳満寺と琴平神社をつなぐ道へ 右上が琴平神社本殿

3.徳満寺からの入口

ということは、琴平神社への3つ目の行き方は、分かりますね。

琴平神社境内から徳満寺を見る

そうです。上の左の写真、階段を上った先の左方、
徳満寺からの入口です。

左写真は、その階段の上にある、
「徳満寺←→琴平神社」を結ぶ通路でのもの。
琴平神社から徳満寺方向を見たところです。
前方に見えるのが、徳満寺の地蔵堂です。
ちょっと見えにくいですが、
手前の左に例の下り階段があります。

琴平神社へは、徳満寺の地蔵堂の左手から
この通路をたどれば訪れることができるわけです。

徳満寺で紹介した「琴平神社からの徳満寺への入り口」とはすなわち「琴平神社への徳満寺からの入口」でもあります。
ここがそうなんです。
タヌポンの棲みかにいちばん近いこの掘割が、徳満寺と琴平神社へのいちばんの近道であったことが分かりました。
しかも正規のルートよりも階段を上がる数がどちらもグンと少なくて済むのです。これは、発見です。

掘割の庚申塔群

庚申塔群

また、掘割では、階段を登る手前左手には
庚申塔らしい石塔類が並んでいました。
なかには仏塔関連のものもあるかも知れません。

そして登って徳満寺へと続く道の脇にも
石塔類がズラリと並んでいますが、
碑に刻まれた文字はさまざまで
特に何かに統一されたものではないように思われます。

本地垂迹説

琴平神社と徳満寺が裏で繋がっていた、というとなんかヘンな意味にとられそうですが・・・。
徳満寺紹介の時にも話したように、隣接しているというだけでなく、お寺と神社はなんだか仲がいいようですね。
これは徳満寺・琴平神社だけでなく全国の神社仏閣にも同様のことが言えるようです。
両者の歴史をひもといてみればその理由が少し分かります。

本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)というのがあります。
歴史の時間に習いましたね、昔。
難しい言葉だからこういうのがあったということは覚えていても正確にどんな意味だったかは・・・。
ちょっとおさらいしてみましょう。

仏様が神様の姿になってこの世に現れた

ひとことで言えば、日本の古代からの神々と仏教の仏様とが一緒であるという考え方、を言います。
538年(552説もあります)、日本に仏教が伝来して以降、こういう考え方をしないとうまくいかなくなったのです。
もっと正確にいえば・・・

本地(ほんじ、と濁って読みます)とは仏さまの本来の姿、を指します。
垂迹(すいじゃく)とは、その形を変えたもの、という意味になります。
衰弱してミイラ化してるとかそんな意味ではありません。
つまり本地垂迹とは仏様が神様の姿になってこの世に現れた、というものです。

仏様が少し優位?

本地垂迹説の意味では、どちらかというと仏様のほうが格が上のように思われます。

新しく日本に入ってきた仏教の力がもう見逃せないほど強くなって、
もともと存在はあるものの、とくになにも教義をもたない日本の神様がちょっと分が悪くなりました。
仏教のほうも時の権力者であり神様の象徴でもある天皇家には逆らわないのが得策です。
そこで両者の歩み寄りということになりましたが、どちらかといえば神様のほうがより歩み寄ったということでしょうか。
神仏混交ということになりましたが、よく見てみれば、この時点では、仏様が少し優位だったわけです。

廃仏毀釈などもあったが・・・

これが明治になって、古代の日本の神、天皇家への尊崇ということで「神仏判然の令」により「廃仏毀釈」などが行われました。
再び神と仏は分かれたのですが、まあすでに相当仲がよい時代が長かったせいか、
明治維新初期はたいへんでしたでしょうが、かたち上は実際はそれほど分離は進まないまま今日まで至っているようです。
第二次世界大戦の敗戦でさらにまた逆転とはいかなくとも神格化も弱まりましたしね。

神仏習合時代の名残

神社の象徴とも言える鳥居が立っている寺があるかと思うと、どこを探しても鳥居が見当たらない神社もあるし、
寺院の象徴である鐘つき堂がない寺もあるのに、それがなぜか神社にあったりするのは、
ずっと過去、神仏習合の時代からの名残と言えるでしょう。

本地垂迹説という言葉はあまり現代では使いませんが、現実は、神様仏様はほぼ同格で存在しているようです。
タヌポンの実家にも仏壇と神棚がありましたし、初詣は神社なのか寺がいいのかさっぱり分かりませんね。

まあ、そういうことで、めでたしめでたし。

入口石段から境内まで

西国秩父坂東の石塔

西国秩父坂東

琴平神社の入口石段脇に立てられています。
巡礼行に、坂東三十三箇所・西国三十三箇所があり、
これらは、観世音を安置した33ヵ所の霊場を指します。
秩父三十四箇所とあわせて日本百観音の巡礼となるわけですが、
琴平神社自体はその霊場には該当していないようです。
奉納札所、諸願成就所とも記されていますが、
ここに立てられている意味は・・・・。

石塔のサイドに「西・・・里」等の文字が見えるので、
道しるべのようなものかも知れません。

石段を7段上ると、平らな中2階のような場所になります。一の鳥居は少し進んでさらに10段上ったところにあります。
中2階の右手になにかが見えます。

石段途中の庚申塔群

右手に青面金剛王などの庚申塔が立ち並んでいます。10基以上ありそうですが、石祠の笠だけというのもあります。
右写真は、そこから階段下を振り向いたところ。道路の先は利根川がすぐ。白地の旗は元旦だけ立てられるもののようです。

庚申塔群 元旦上から

一の鳥居

一の鳥居

庚申塔のあるフロアから
さらに石段を10段上ると、
鳥居が前後に立つフロアになります。
神額のある一の鳥居は明神鳥居。
昭和49年(1974)の建立。

神額

新しい神額

あるとき(07/07/28)、訪れたら、
金ぴか(黄色?)の額に変わっていました。
下左の写真の神額での最終撮影日は06/10/08。
この期間のどこかで、付け替えられたというわけですね。

右下は、境内の拝殿・雨水枡の前に置かれた
さらに古い神額。
神社ではなく、金毘羅大権現と記されています。
これがすなわち先に説明した本地垂迹の例で、
日本の神々が仏教に取り入れられた際の称号として
大権現が使われたと思われます。
琴平神社と変更された(あるいは元の名に戻された)のは、
おそらく明治になってからなのでしょう。

古い神額 古い神額

二の鳥居

二の鳥居

神明系で靖国鳥居のようです。
額束がなく、当然神額はありません。

鳥居の柱の裏には、
大正10年(1921)8月建立とあり、
町史の宇佐美もと奉納に合致します。
一の鳥居よりこちらが古いのですね。

前方の石段の中腹右に
何か祠のようなものが見えます。
また、左手には古い手水があります。
まずは、左手のほうを・・・。

空き地の石祠群

二の鳥居の左手を見ると、ちょっと空き地のようになっていて、そこに古い手水やいくつかの石祠等が立ち並んでいました。

空き地の石祠群 空き地

いろいろありますが、判読できるものを抜粋して以下、紹介します。

稲荷大明神

以下はいずれも稲荷大明神の石祠。右の石祠の斜め左後ろに左の石祠があります。右は寛政10年(1798)9月建立。

空き地の石祠群 空き地

水神宮

水神宮

立派な水神宮。
扉が開かれていて中に石が安置されています。
洪水のとき流された大石を象徴しているのでしょうか。
右の扉に「水」、左の扉に「神」とあるので、
水神を祀ったものであることが分かります。
延宝2年(1674)12月の建立。

水神宮左扉 水神宮右扉

43段の石段

石段は43段

二の鳥居の先には、最後の石段が続いています。
こんどはちょっと段数も多く、43段。
でも、1段1段の高さは低いのでなんとか。
足の長いあなたにはかえって上りにくいでしょうか?

30段近く上ると、右手に・・・。

八坂神社

八坂神社

階段途中で右横を見ると
また鳥居があります。
これも明神鳥居ですが、
その額束を見るとなんと
八坂神社の神額がかかっています。

また奥の拝殿らしき建物には
厳重にカギがかかっています。
なにか大切なものが入っている?

八坂神社神額

ちなみに八坂神社の祭神は、建速須佐之男神(たけはやすさのおのかみ)。もとの祭神は祗園天神・牛頭天王。
琴平神社のなかに八坂神社の出張所みたいのがある、こういうところが神社って不思議だと思いますね。

境内社とは

調べてみると、この八坂神社のような存在が少し分かりました。
こうしたものを境内社といい、摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)があるそうです。
祭神の親戚筋を祀るものを摂社、別の神社から勧請された神を祭るものを末社と呼びます。
勧請(かんじょう)とは祭神を招くことを言います。摂社と末社がいくつも並ぶ大きな神社もあります。
はたして、ここの琴平さんと八坂さんは親戚や否や。

歴史民俗博物館の人に聞くと、琴平神社には実はもっとたくさんの境内社があるのだそうです。
探してみてくださいって、えーと、さきほどの空き地の石祠なんかもそうなのですね。

鳥居寄付連名碑

鳥居寄付連名碑

八坂神社鳥居の右脇に立っているのが、
奉納と題した鳥居寄付連名碑。
てっきり八坂神社の鳥居と思いきや、
碑の背面を見ると、大正10年(1921)8月とあります。
これはどこかで・・・。
二の鳥居の建立月と同一ではないですか!
八坂神社の鳥居も同時期という可能性も
ないことはないでしょうが・・・。
鳥居や記念碑が多数ある場合、
紛らわしくなりますね。

疱瘡神

疱瘡神

八坂神社の拝殿の左に見つけました。
利根町では他には 惣新田で1基だけ 見つかっています。

疱瘡とはつまり天然痘のことで、
これを擬神化したものです。
石祠左に「内宿講中」とあります。
昔、天然痘が流行って苦しんだんでしょうね。
現代はワクチンのおかげで撲滅していますが、
明治時代まではとても恐ろしい病気でした。

石段を上り終えて境内へ

石段から境内へ 石段上境内から二の鳥居、八坂神社を見る

八坂神社を後にするともう石段は残りわずか。頂上はもうすぐ。上り切った上が、琴平神社の境内になります。
上の右写真は、石段最上部の境内から二の鳥居、八坂神社を見下ろしたもの。
入口からここまで石段を上ってくるより、先の掘割のほうから来たほうがラクだとは思いませんか?

拝殿と本殿

境内・参道

境内と参道

正規の石段を登りきった上で左を向くと、
つきあたり奥に拝殿が見えます。
ここが琴平神社の境内になります。

小さな境内ですが、短いながらも、
いちおう拝殿までは参道と言っていいようです。

タヌポンはこの参道両サイドにある石碑等には
最初、あまり注意を払いませんでした・・・。
しかし、そこには小林一茶の句碑が立っていたのです。
これはこの後、金毘羅相撲の項目で紹介します。
左に見える建物は社務所のようです。

拝殿

拝殿

中央に賽銭箱、左右に、
1対の雨水枡が設置されています。
左枡の前に置かれているのは
金毘羅大権現と記された
旧神額のようです。右は・・・。

拝殿の中は・・・以下。
利根町指定有形文化財の
絵馬・篆額は見当たりませんね。

拝殿内部

水神宮の神額

水神宮の神額

右側の雨水枡の前に置かれた神額はなんと「水神宮」でした。
これはどういうことでしょう。
琴平神社が以前は水神宮であったとは思われません。

神額は鳥居があってはじめて機能するものです。
とすると、「この神額の付いた鳥居が設置された水神宮」が
この近くにあった、ということなのではないでしょうか。

先ほど、石段の中腹で 水神宮 の石祠を発見しました。
昔は、あの石祠の前にこの神額を配した立派な鳥居が
建てられていたのではないでしょうか。

祭礼時

左は、元旦の初詣時。右は、9月の金毘羅相撲開催日。さすがに拝殿が開かれています。
ちなみに、琴平神社の祭礼は、2月10日。例大祭は、9月10日ですが、少年相撲の関係で9月末の休日となっています。

初詣時の拝殿 本殿初詣

竹に綯った注連縄

注連縄

神社に注連縄はつきものですが、
よく見るといろいろな種類があります。
しかし、琴平神社の拝殿にある注連縄(しめなわ)は
竹の棒に縄を綯(な)っていくという
とても珍しいものなのだそうです。
(でも 布川神社の注連縄 も同じような気がしますが・・・)

神社には、参道では左側通行とか、
右・左ということに関していろいろ決まりがあり、
この注連縄も時計回り、つまり左綯え(ひだりなえ)に
稲藁を綯っていくということです。

注連縄とは

注連縄とは、それを張ったところから奥が聖域であるということの目印を示すものです。
もし注連縄がある鳥居があれば、それから奥に参道がある場合、店など置いてはいけない決まりになっています。
また注連縄などについている紙のことは紙垂(しで)と呼びます。そして紙垂は4垂と決まっています。
注連縄の注連(ちゅうれん)とは、中国で死霊が入り込まないように水を注いで清め連ね張った縄を意味している、
ということです。(語源由来辞典 より)

木鼻と紅梁

左は木鼻(きはな)、右は紅梁(こうりょう)。
紅梁とは、柱と柱に通した梁のことで、この紅梁の突き出した両端に彫刻を施したものを木鼻といいます。

木鼻左 紅梁

篆額

篆額

琴平神社には有形文化財指定の
書家杉野東山による篆額が奉納されているといいます。
左の写真のように神社拝殿上部に掲げられたものも
篆額らしきものなのですが、どうもこれではないようです。
杉野東山のものは天保15年(1844)作ということですが、
これには安政6年(1859)とあります。
大きな文字は、奉献、と読めばいいのでしょうか。

ちなみに篆額とは、碑などに篆文で書いた題字をいいますが、
建物名などを木板に彫刻して神社や寺の軒下に掲げたもので、
いわば額縁の始まりというようなものでしょうか。

さて文化財の篆額はどこにあるのでしょう?
以下のリンクで見ることができました。やはり、上の写真の篆額とは似て非なるもの、という感じですね。
→ 利根町公式website 杉野東山篆額(すぎのとうざんてんがく)

由緒書き額

琴平神社の由緒等が記された比較的新しい額も掲げられていました。内容は町史と同様で、香取家文書によるものです。
ほかに、写真右のような俳句(?)のような額も掲げられていますが、達筆で読めません。

由緒書き額 句

本殿

拝殿の後ろは本殿。流造り、瓦葺です。祭神は、大物主命(おおものぬしのみこと)。
この中に文化財の篆額や絵馬が保管されているのでしょうか。

本殿 本殿

幣殿

改築された幣殿

拝殿と本殿をつなぐ幣殿。
最近(2011年1月現在)、改築・補修されたようです。
といっても、しばらくここまで確認していませんでしたけど。

琴平神社の絵馬

琴平神社に奉納されている絵馬は3点あり、いずれも利根町指定有形文化財となっています。

名称 作者 年代 寸法cm(縦×横) 備考
布川河岸図 太助 天保14年(1843) 91.0×181.0 利根町指定有形文化財
水難救助図 杉野崇雲 嘉永4年(1851) 110.0×147.0 利根町指定有形文化財
搾油図 文政13年(1830) 74.0×153.0 利根町指定有形文化財

布川河岸図(ふかわかわぎしず)

布川河岸図

江戸時代、利根川水運の要所として
賑わいをみせた布川。
「布川河岸図」では、
当時の布川の活況の様子が、
多くの高瀬舟でうかがえます。
山の上には琴平神社も見えます。

水難救助図(すいなんきゅうじょず)

水難救助図

杉野嵩雲が描いた「水難救助図」の絵馬。
琴平神がおぼれている子供を救う様子が描かれています。
嘉永4年(1851)琴平神社に奉納されたものです。
子供がおほれているのは、やはり利根川でしょうね。
大きな舟が行き交う水深の深いこの川では、
水難事故も多かったと思われます。

搾油図(さくゆず)

搾油図

琴平神社に奉納されている「搾油図」の絵馬。
当時の搾油作業が生き生きと描かれています。
しかし、この「搾油図」が杉野嵩雲作とは
「利根町の絵馬展」のパンフレット
(利根町教育委員会編集発行= 05/02月開催時配布)
には明記されていません。
でも実家が搾油業であるなら
彼の絵である可能性は高いのではないでしょうか。

境内その他の施設

手水舎

手水舎

拝殿の右手前には手水舎があります。
写真の奥のほうは、徳満寺への抜け道。
少し行った左に掘割に下りる階段があります。

境内左手の石祠など

境内左手の石祠など

石段から境内に入ってすぐ左手には、
最初訪れたときに見逃していた
石祠や灯籠、石碑などがあります。
写真中央は小林一茶の句碑ですが、
これは後半の金毘羅相撲で紹介します。

稲荷神社?

不明の石祠

常夜燈の左に置かれている石祠。
石段途中の空き地などで無造作に置かれていたものに比べて、
このようにしっかりと設置されていますので、
なんらかの由緒が分かっているのかも知れません。

でも、石祠本体からはなにも読み取れません。
辛うじて石祠背面に、文政7年(1824)の文字。
また両サイドにキツネのレリーフがあるので、
もしかすると稲荷神社かも知れません。
台座の「谷津氏」も不明。

常夜燈

常夜燈

これは境内右手、手水舎手前の常夜燈で、
上部が欠落したものとあわせて2基並んでいます。
上部欠損のものは、安永7年(1778)2月建立。

さきほどの境内左手の中央にも常夜燈がありますが、
それは文久3年(1863)の建立。

空居心経碑

心経の碑

書家杉野東山が記した心経(しんぎょう)の碑。
碑の裏を見ると、文政10年(1827)とあります。
現代人にも馴染みのある般若心経ですが、
これを杉野東山が記して碑文としたわけです。
最後に「空居」と記していることから、
空居心経碑と呼ばれています。

力石

力石 力石
力石

心経碑の隣に大きな石がたくさん置かれていました。
これが、奉納された力石(ちからいし)のようです。
この石を持ち上げたりして力自慢をしたようです。
金毘羅相撲で大関などがこの地に来たということですから、
力士同士で競ったのかも知れません。

金毘羅の金や明神石などの文字が彫られています。
同様なものが、入口の西国坂東の道しるべの裏にもありました。

金毘羅相撲(角力)

土俵

琴平神社と利根町役場の中間地点に
金毘羅相撲の土俵があります。
ふだんは以下↓のようにシートがかけられています。
背景に見えるのは利根町役場です。

土俵
階段から土俵方向を

左は掘割の階段から土俵方面を見た写真。

昔、金毘羅角力と呼ばれるイベントが毎年8月10日(旧暦)に盛大に行われました。
それが布川琴平神社の奉納相撲で、現代も引き継がれ、
子供中心の相撲大会になっています。

相撲大会の模様を取材しました → 琴平角力

高瀬舟

高瀬船

奉納相撲は、寛政7年(1795)から始められましたが、
当時の布川は、近くの利根川に高瀬舟が
毎年1000艘も行き交うという水上交通の要衝の地でした。
利根川は西廻り航路、江戸大阪航路と並ぶ
近世3大航路のひとつで、高瀬舟はなくてはならない存在。
急流で川底が浅い日本の河川の特徴にあわせて、
船底を扁平にしきっ水を浅くした平底縦長に設計されたものです。
「米5、6百俵を積むもの常なり・・・」と利根川図志が記しています。

写真は利根町歴史民俗資料館に展示されている高瀬舟の模型。

鉄道、クルマ社会が発達した現在とちがい、布川は当時は有名ないわば「港町」のようなものだったのでしょう。
さもなければ当時の最高位の大関や花形力士などがここにくるわけありません。町民の鼻息も、さぞや荒かったことでしょう。
さらに赤松宗旦の記録では、金毘羅相撲にも触れ、「詣人村々より来りて雲の如く」とあります。
いかに盛大であったか分かりますね。

小林一茶の句碑

また、見物人が群れを成している様を小林一茶が句にしています。
一茶は当時、何回も布川を訪れていて来見寺などでも句を残しています。

べったりと人のなる木や宮角力・・・文化14年(1817)作

この句碑が、琴平神社の正規の入口から石段を登って拝殿に向かう参道の左手に立っています(以下の写真)。
また「正面は親の顔なりまけ相撲」の句もあり、先ほど紹介した子供相撲も同時開催されていたことが分かります。

句碑 句碑解説

さて、現在の金毘羅相撲は旧暦の8月10日に合わせたのか9月後半の祝日に開催されています。
・2005年の金毘羅相撲のもようはこちら 「琴平角力」
・句碑の右隣にも石碑があり、心経(しんぎょう)の碑と呼ばれています。(「総州六阿弥陀詣」一番徳満寺の項目参照

ことひらか、こんぴらか(2)

さて、最初のこんぴら、ことひらの話に戻ります。

こんぴらの語源

こんぴらという言葉は調べてみると、サンスクリット語(梵語)の kumbhra (クンピーラー)からきているようです。
クンピーラーとは、インド ガンジス川の鰐(わに)が神格化されて仏教の守護神となったもので、
薬師十二神将の宮毘羅(くびら)にあたります。

十二神将

ここで、参考まで、薬師如来を信仰する者を守護するという十二神将を紹介します。
十二というからには干支が関係してくるのが想像できます。
十二神将は十二夜叉大将ともいい、それぞれ7千、総計8万4千の眷属夜叉を率いて
薬師如来を信仰するものを守る武神ということです。

  1.     子    宮毘羅大将 (くびら)
  2.     丑    伐折羅大将 (ばさら)
  3.     寅    迷企羅大将 (めきら)
  4.     卯    安底羅大将 (あんてら)
  5.     辰    頞你羅大将 (あにら)
  6.     巳    珊底羅大将 (さんてら)
  7.     午    因達羅大将 (いんだら)
  8.     未    波夷羅大将 (はいら)
  9.     申    摩虎羅大将 (まこら)
  10.     酉    真達羅大将 (しんだら)
  11.     戌    招杜羅大将 (しょうとら)
  12.     亥    毘羯羅大将 (びから)

※干支との組み合わせは諸説あります。これは一例。

ワニの「クンピーラー」そして宮毘羅大将の「くびら」の読み方がこんぴらの起源なら、
ことひらというのは後から付けられた当て字のような気がします。

金毘羅の前に琴平?

それなのに、香川県の本家、金刀比羅宮では・・・。
当初、琴平神社と称していたが、本地垂迹説により、金毘羅大権現となり、永万元年(1165)崇徳天皇を合祀した・・・

えっ、やっぱり琴平が先なの?もう、何だかわけが分からないです。
その「当初、琴平神社」にしても、ことひらと呼ぶのか、琴平と書いてもこんぴらと呼ぶのか?まったくややこしいですね。
漢字と読み方それぞれどっちが先でどっちが正しいのか、はっきりしてもらいたいと思うのですが・・・。

象頭山は琴平山

あーーーあ、考えてても分からないから、歌でも・・・

♪こんぴら 船々 追手に帆かけて シュラシュシュシュ
廻れば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現
一度まわれば〜♪

ところで、この象頭山(ぞうずさん)も象の頭に形が似ているからそう呼ばれているそうですが、
正式には「琴平山」というそうです。

!!!

で、その「琴平山」は、ことひらやま?それとも、こんぴらさん?

ことひらか、こんぴらか(3) に続く

利根町役場近辺

金毘羅角力の土俵のすぐ近くにあるポイントを2つ、ここで紹介しておきます。

小久保喜七君頌徳之碑

石碑

金毘羅角力土俵から道路を挟んだ前方のコーナーに建てられています。

小久保喜七氏は、明治・大正にかけての政治家、
古河市の第11・12代副議長を務め、明治41年(1908)衆議院議員。
中田、栗橋間の利根川架橋の建設を推進した人物らしいです。

平成4年(1992)の12月、当時、来見寺 境内にありましたが、
傾いて危険な状態だったので河川整備事業の一環でここに移したとあります。
タヌポンは当時、すでにこの近くに住んでいましたが、
サイト立ち上げ前でしたし、まったく気が付きませんでした。

役場内の稲荷神社

稲荷神社

神額などないのですが、
キツネの置物があるので、
稲荷神社ではないかと思います。

役場移転・新築のときに
一緒に建てられたものと思われます。
役場正面から左手の通路の先に
建てられています。

ことひらか、こんぴらか(3)

いよいよそのときがやってきました。えっ、なにがですって?
もう、みんなどうでもいい、なんて顔をして。もういいかげん、はっきりさせたいとは思いませんか?
ことひらか、こんぴらか、を。ついに、「いちおうの」決着がつけるときがやってきました。

では、結論から申し上げます。

登記上は、ことひら

利根町の琴平神社の正式な名称は、「金刀比羅神社」(ことひらじんじゃ)でした!

偶然お会いした蛟蝄神社の宮司さんにお聞きしましたので、まちがいありません。

でも、ホントのところは、やはり「どっちでもいい、どちらでも問題ない」という、なんともいい加減な答えなのです。
登記上では、金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)としている、ということです。
そう言えば、利根町史も由緒額もそうなっていましたね。ふりがなはないけど、漢字は金刀比羅神社でした。
そして、宮司さんはこんぴら神社ではなく、ことひら神社のみの呼称をしていました。

金毘羅大権現の場合は?

でも、大権現が付いた金毘羅、つまり金毘羅大権現は、「ことひらだいごんげん」とは言わないですよね。
そうすると、神仏習合時代の琴平神社は、一時的に「金刀比羅神社」(ことひらじんじゃ)の正式名称を、
まったく忘れてしまっていた、ということなんでしょうか。
一般の人が「こんぴら相撲」「こんぴら大権現」というのは、仕方ないとしても、
当時の神道・神職に就いている人が、金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)を忘れて、
こんぴら神社などと言っていたとしたら、ちょっと問題なんじゃあないかと・・・。

まあ、でもいまは現代。これでいいんじゃあないでしょうか。正式と通称がある、ということで。

ことひらか、こんぴらか。これでおしまいです。


(11/01/25再構成) (10/01/16・05/11/09・05/04/23・05/03/19) (05/03/12)
(撮影04/12/23・04/12/25・05/01/01・05/03/19・05/08/20・05/09/19・05/09/23・06/10/08・07/07/28・08/01/02・09/03/17・10/02/19・11/01/02・11/01/24)