タヌポンの利根ぽんぽ行 小林一茶と利根町

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小林一茶と利根町 目次



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小林一茶といえば、江戸時代の代表的な俳人。生まれは北信濃の柏原ということですが、tanupon が利根町探索をしていたとき、各所で一茶の句碑を発見しました。
あとで調べてみると、2万句にもおよぶ俳句を残したという一茶ですから、その句碑は利根町だけでなく全国各地にたくさんあることが分かったのですが、それにしてもこの小さな町に5ヵ所もあったのです。故郷の柏原は無論別格としても、一茶と利根町との関係はそれ以外の土地よりも深かったのではないだろうか。そう思いましたが、このすぐ後で紹介する、一茶記念館 などが提供している一茶の生い立ちや経歴には利根町(布川)という名前はまったく出てきません。

しかし、調べてみるとやはり全国に周知されているより深いと思われる、一茶と利根町のかかわりについてアピールすべきなのでは・・・などと地元住民のひとりとして思い立ち、ここに「利根町と小林一茶」のテーマでコンテンツをまとめた次第です。

  • 本コンテンツについては、全面的に利根町史「第6巻」の記述(柳田國男研究家・宮本和也氏ほか執筆)を引用させていただきました。
  • 利根町の一茶の句碑は合計5ヵ所確認し、所属する寺社等のコンテンツにてそれぞれ紹介してきましたが、本コンテンツにおいて集約し、一部重複して掲載しました。

ところで、小林一茶といえば、tanupon がよく知っているのは次の4句。昔の受験勉強ではこの4つ覚えておけばOK、という感じでしたね(笑)。どれも、語呂もよく覚えやすいです。

目出度さも ちう位なり おらが春

雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る

我と来て 遊べや親の ない雀

名月を 取ってくれろと なく子哉

この4句はいずれも『おらが春』という一茶の俳諧俳文集にあるもので、その題名も冒頭の句からとったもの。「目出度さもちう位〜」は大人になるとそれが秀逸の句であることが実感できますね。一茶の代表句の筆頭といえます。この俳文集は彼が故郷で過ごした57歳時の一年間の出来事に寄せて読んだものということですが、まさに円熟から老成時の句ですね。これらが、利根町に来たときに詠まれたものならうれしいのですが、そうはうまくいきません。


基礎知識 小林一茶について

以下は 一茶記念館 が提供している 小林一茶について の100%転載です。

▼小林一茶は、1763(宝暦13)年、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれ、本名を弥太郎といいました。3歳のとき母がなくなり、8歳で新しい母をむかえました。働き者の義母になじめなった一茶は、15歳の春、江戸に奉公に出されました。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになりました。

▼一茶は、葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事して俳句を学びました。初め、い橋・菊明・亜堂ともなのりましたが、一茶の俳号を用いるようになりました。

▼29歳で、14年ぶりにふるさとに帰った一茶は、後に「寛政三年紀行」を書きました。30歳から36歳まで、関西・四国・九州の俳句修行の旅に明け暮れ、ここで知り合った俳人と交流した作品は、句集「たびしうゐ」「さらば笠」として出版しました。

▼一茶は、39歳のときふるさとに帰って父の看病をしました。父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して、1か月ほどで亡くなってしまいました。このときの様子が、「父の終焉日記」にまとめられています。この後、一茶がふるさとに永住するまで、10年以上にわたって、継母・弟との財産争いが続きました。

▼一茶は、江戸蔵前の札差夏目成美の句会に入って指導をうける一方、房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてました。貧乏と隣り合わせのくらしでしたが、俳人としての一茶の評価は高まっていきました。

▼50歳の冬、一茶はふるさとに帰りました。借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌年ようやく和解しました。52歳で、28歳のきくを妻に迎え、長男千太郎、長女さと、次男石太郎、三男金三郎と、次々に子どもが生まれましたが、いずれも幼くして亡くなり、妻きくも37歳の若さで亡くなってしまいました。一茶はひとりぽっちになりましたが、再々婚し、一茶の没後、妻やをとの間に次女やたが生まれました。
家庭的にはめぐまれませんでしたが、北信濃の門人を訪ねて、俳句指導や出版活動を行い、句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、句文集「おらが春」などをあらわし、2万句にもおよぶ俳句を残しています。

▼1827(文政10)年閏6月1日、柏原宿の大半を焼く大火に遭遇し、母屋を失った一茶は、焼け残りの土蔵に移り住みました。この年の11月19日、65歳の生涯をとじました。

上記には、一茶が、わが利根町に来たことやそこで数々の体験をしていることなどが一切、記されていません。唯一、あるとすれば、上記で赤字の 房総の知人・門人を訪ねて という箇所ですが、単なる房総の・・・ということだけでは、一茶の活躍は語れませんし、わが利根町としても困ります(笑)。利根町は、当時は確かに大きく下総国の一部ということだったようですが、平成現代の「房総」地区ではありませんので、tanupon としてはちょっと不満が残るところです。
以下で、もう少し詳しく見てみましょう。

利根町との接点

さて、一茶と利根町の最初の接点はどこにあったのでしょうか。

前記の記念館の紹介にもあるように、小林一茶は3歳のときに母を失って8歳には継母がやってくる、さらに10歳には後に骨肉の争いをする異母弟の仙六が生まれたりします。こんななかで、弥太郎少年が6歳時に詠んだ句が

我と来て 遊べや親の ない雀

やっぱり天才はちがう!というところですが、利根町史では「この句は6歳にしては完成度が高いので、一茶円熟期の作と考えられている」と記しています。なるほど「追憶吟」ということですか。

15歳になった年、父の計らいで江戸へ奉公に出された。以後はどこに勤めたかは不詳。苦労の多い年月だったようだ。そんななかで、「・・・ふと諧々たる夷(ひな)ぶりの俳諧を囀りおぼゆ」と句帖に残している。

菊明の名で、森田安袋編の『俳諧五十三次』に新人として登場したときはすでに一人前の俳人となっていた。師について本格的な修練をしていた様子がうかがわれる。その師のひとりが小林竹阿であり、利根町にも足跡を残した溝口素丸であり、布川出身の森田安袋であったとされている。

ようやく、一茶と利根町を結ぶ人としての溝口素丸と森田安袋の名が出てきましたね。
一茶記念館でも彼らの名は一茶の師として紹介されていますが、その素性までは説明されてはいません。

溝口素丸

溝口素丸は、布川に俳諧の葛飾派の流れを注いだ人ということですが、門人のひとりに武術家の久保田一夢斎という人がいました。素丸は、江戸本町長崎町の人で、幕府御書院番を勤める旗本であったといいます。
この久保田一夢斎に関して、利根町の 来見寺 の無縁塔の最上段に、素丸の句をいただき自らの句も刻んだ寿蔵碑があるということです。それが以下の句。

茅花(つばな)打 止(やめ)てたのしや 筆つ花 一夢斎

夢さめて 広野にあそぶ 胡蝶かな 素丸

「茅花打ち」とは春にツバナ(チガヤ)を抜いてそれに針を刺し、畳に散らしたものを交互に打ち刺し、取った数を競う遊び。
昭和初期までこの地区の子供たちの遊びとして盛んでした。なお、久保田一夢斎は布川、下柳宿の人。

寿蔵碑、発見

無縁塚

さっそく来見寺に行って探してみました。(10/02/20)
無縁仏を祀った塔は、山門を入って左手奥にあります。

最初、「無縁塔」の階段を上るとすぐ左に、
ひときわ大きい一夢斎の碑が見つかりましたが、
墓石と勘違いして「寿蔵碑」だとは思わず、
他をいろいろ見回しましたりしました。

一夢斎が布川下柳宿の人なら、なぜ
この無縁仏の塚に碑があるのでしょうか。
→ 現在、その直系子孫の方は、
千葉県匝瑳郡にお住まいのようです。

寿蔵碑

左が寿蔵碑。先ほどの2句も戒名の左右に読めます(クリック拡大参照)。
下は素丸の部分の拡大。天地の後が雀ではなく「菴」でした。

利根町史の記述のおかげで、ここが無縁塔と呼ばれる場所であることを知りました。とても日当たりも見晴らしもよく、「墓」にまったくこだわらない tanupon も、こういうのならいいな、などと・・・。

溝口素丸

溝口素丸と久保田一夢斎。とくに素丸は布川出身ではないにもかかわらず、来見寺にこうした句碑がある、というところに注目したいと思います。久保田一夢斎との交流で素丸はたびたび布川に訪れていたと思われますし、町史には言及されてはいませんが、同じ溝口素丸の門弟同士、久保田一夢斎と一茶は当然、面識があったのではないかと推察します。ちょっと事情が変われば、寿蔵碑のいっぽうの句は一茶の句になっていたかも知れません。(13/04/20 修正追記・10/02/21 追記)

森田安袋

さて、小林一茶を布川に結びつける最初のきっかけをつくった人と考えられるのが、一茶のもうひとりの師である森田安袋。
森田安袋(後、元夢)は布川出身の武士で、45歳の頃に江戸へ移住し、橘町(現、東日本橋3丁目)に今日庵を開いて俳句に専念。門人も江戸川・利根川べりに多かったといいます。
現実に、一茶が菊明の名でニューフェイスとして登場した『俳諧五十三次』は森田安袋の編でしたし、同じ布川出身の書家として当時高名だった 杉野東山 の父、菜日庵野叟(やそう)も『俳諧五十三次』に作品を寄せています。お互いに知り合う間柄になったはず、と町史が言及するのはもっともなことと思います。

一茶の布川行脚は、宿泊合計289回

実は、一茶と利根町(布川)の深い関係を具体的に示すデータが町史に紹介されています。

日本全国各地を行脚していた一茶ですが、その「地名別宿泊数一覧表」というものが井上脩之助著『一茶漂白』に記されているというのです。
それによると、一茶の布川地区での宿泊は、その他の地域よりぬきんでて多い289回が数えられているとのこと。この数は驚きです。一茶の宿泊の拠点となったのは、布川出身の俳人で、一茶の親友でもある古田月船亭。合計49回も訪問しているということです。

当事の一茶布川行脚のパターンとしては、江戸を立ち、下総も利根川沿いを下り、主として葛飾派の俳友たちを次々と訪問し、江戸に帰る、というもので、葛飾派の俳友には、馬橋の大川立砂・流山の秋元双樹・守谷の僧、鶴老・布川の古田月船および馬泉・田川の岩橋一白などがおり、ほかに派はちがいますが龍ヶ崎の杉野翠兄なども訪問先となっていました。

こういうデータがあるのなら、もう少し一茶と利根町の関係を声を大にして言いたいですね。

古田月船と一茶

古田月船と一茶に関しては、単に俳友というだけではない深い関係があったと思われます。
柳田國男が昭和13年(1938)に校訂した『利根川図志』(赤松宗旦著)によれば、「江戸にも名の知られた古田月船は、一茶が布川に於ける東道の主人であった」とあります。主人とは後援者、スポンサーだったということですね。一茶の才能にほれ込んでいたのでしょうか。その資金源はどこから?
これについて、柳田國男は「古田月船は問屋の隠居だと思っていたが、その想像はあたっていた」と記していますが、子孫が絶えていているので実際のところ不明です。まあお金持ちであったことは確かなようですから、廻船問屋というところでしょうか。
月船の句も『一茶全集』にいくつか載っているということですが、ここでは割愛します。江戸にも名の知られたというのは、どちらかというと俳人としてではなく、やはり豪商ということなのでしょうか。
▼ 月船およびその墓などは応順寺のコンテンツ後半の 古田月船 で紹介しています。

一茶の布川入りは、寛政3年(1791)

さて、延べ289日もの一茶の布川滞在。その記録上の初見は、寛政3年(1791)の3月29日。一茶がまだ若い29歳のころです。布川馬泉亭に泊まって題を探り、以下の句を『寛政3年紀行』に記しています。

浦々の 浪よけ椿 咲きにけり

ちなみに馬泉も布川生まれ。溝口素丸門の葛飾派に属していた俳人で、寛政10年(1798)一茶の編集した『さらば笠』に以下のような一句を寄せています。

蜘(くも)の巣に 一升ばかり さくらかな 馬泉

一茶と馬泉

この『さらば笠』に関しては、一茶と馬泉との間でひとつのトラブルがありました。
一茶はこの『さらば笠』と馬泉宛ての書簡を別の俳人に託して届ける予定だったのですが、多忙なため結局、届けずじまいとなってしまいました。町史執筆者の宮本氏は、上梓を心待ちにしていただろう馬泉の無念の気持ちはいかばかりかと同情される、と記しています。一茶さん、ちゃんとしてよ〜といいたくなりますね。一茶の編集した『さらば笠』に馬泉の句を、ということですから、一茶はこのとき36歳でいわば一線級。それなら馬泉はもう少し若い年齢だったのでしょうか。

しかし、さきほど一茶が菊明の名で新人としてデビューしたという布川の森田安袋編『俳諧五十三次』に、馬泉の句も5句掲載されているというのです。もしかすると、同じような年齢で、同じように世に出たのに、一茶のほうがかなり名声でリードしていたのかも知れませんね。
→ 馬泉はむしろ一茶の「先輩格」であった、というような記述を徳満寺境内の案内板で見つけました。うーーむ。

それなら一茶メインのコンテンツですが、ここで、わが布川出身の馬泉にエールをおくり、彼の5句を以下、紹介しましょう。

風折々 哀れを誘ふ 虫の声

七夕の 渡り初めけり 女夫橋

地蔵でも どうやら凄し 朧月

猿の手に 握る手つきや 柏餅

笹鳴や 舌も廻らぬ 三味稽古

上記の句の3番目「地蔵でも どうやら凄し 朧月」というのがありますが、これが、後で紹介する徳満寺の地蔵堂での一茶の句と似たような設定のように感じます。先に詠んだ馬泉のこの句が一茶の頭の中にあったかも、なんて思うと、ちょっと楽しくなります。

さて文化期(1804〜)に入ると、一茶の布川入りは月船亭を拠り所にして、ますますひんぱんになっていきます。
以下、文化期直前の享和3年(1803)時の記録から、現在5ヵ所に設置されている一茶の句碑の写真等も含めて、時系列的に紹介します。

金比羅角力

金比羅角力

享和3年(1803)8月7日、天気晴れ。
一茶は布川の地を訪れました。
9日と10日に奉納角力があり一茶は10日にそれを見物。
そのとき詠んだ句が以下。

けふきりの 入日さしたる 勝角力

正面は 親の顔なり まけ角力

金比羅角力は、寛政7年(1795)に香取源右衛門という人によって始められました。江戸から本職の関取を招いての大会、当初3ヵ年は木戸銭なしで興業され、布川の地で本場の相撲が見られるとあってそれはたいそうの賑わいであったということです。(香取家文書による)

金比羅角力

当時から子供の相撲もあったようなのですが、現在は完全に少年(少女)相撲のみとなり、その関係からか9月10日前後の日曜・祭日に開催されています。

一茶の訪問は、初開催後8年目で、「親の顔なり」の句で分かるように、このときにはすでに本職の相撲から子供などの素人相撲に変化していたものと思われます。一茶の下総行脚も割りと早い年代の布川入り。宿は不明です。

一茶の句碑 1:琴平神社

一茶の句碑:琴平神社

べったりと

人のなる木や

宮角力

利根町に初めて一茶の句碑が建てられたのが、意外と新しく、昭和63年(1988)9月のこと。琴平神社のこの句碑がそうです。
臨時に結成された「一茶の句碑を建立する会」によるもので、これ以降、次々と建てられるようになりました。

この句は、一茶自筆の句帖『七番日記』の文化14年(1817)8月に記されている句で、句碑の文字は一茶の真蹟を拡大して彫られたものです。

→ 余談ですが、この句碑がある場所はちょっと薄暗く、句碑は東向きに建っているので、午後は逆光になり、うまく撮影できません。朝、撮ればいい?そうなんでしょうが、いつも宵っ張りでねえ。


さらに文政6年(1823)8月には、姉妹句ともいうべき以下の角力見物の句を吟じて『文政句帖』に書き留めています。

見ずしらぬ 角力にさへも ひいき哉

宮角力 蛙も木から 声上げる

松の木に 蛙も見るや 宮角力

秋風や 角力の果の 道心坊

道心坊とは乞食坊主のことで、自分を見立てたものといいます。
また、一茶がこの句を詠んだのは、布川に来ていたのではなく、実は信濃にいたときで、故郷柏原に近い長沼(現、長野市内)の門人素鏡・卜英・上丁などの家々を巡回中のこと。金毘羅角力興業の日付にあっているので、遠く布川に思いをはせたものと思われます。このときは、一茶もすでに還暦を過ぎた頃、もう布川へは行けないようなそんな状況になっていたかも知れません。この6年前の句碑の句も同様に信濃でのものなのかどうかは不明です。
4句の中に、宮角力という言葉と蛙が2回ずつでてきますが、2番目と3番目は、まあ発想が同じですね。

▼ 琴平神社:一茶の句碑
▼ 琴平角力

洪水を見ながら布川へ。火災を見て長い俳文

文化元年(1804)9月3日、布川入りした一茶。実は、この直前に大雨、洪水を経験しています。

江戸を立ち流山まできたのが8月27日。急に激しい雨が降り出し、29日も雨、さらに30日には大南風が吹荒れ、利根川が出水。9月1日には根本村(現、松戸市)の圦樋(いりひ)から切れこみ洪水。小貝川でも長沖が決壊して洪水。

これは、秋の台風そのものですね。そんな思いをして、引き返すことなく、9月3日に布川に着いたということです。

水害を目の当たりにしてから布川に着き、こんどは悲惨な火災を遠望することになります。これについて、一茶は長めの俳文を記しています。

筥新田半左衛門とかやいへる家に、年古く老さらばへたる男ありけり。昼餉のれう(料)の助せんと火を忽(ママ)てん比(ころ)しも、南風はげしく、忽火烟(ひけぶり)竹木を埋む。翁は声をかぎりによべど、家の子は耕作に遠くにおもぶき(赴)、里人は稀の秋日和なればなべて人少なく、わが家はめらめらとぞもへける。あはれ妻のもどりて手の前(舞)足の踏み所うしなふべし。きのうは洪水のかなしびをよ(余)所に見なして、けふは火災のなげき我身にかゝる。実(げに)うき世の哀楽は瞬の間も待たず。
十とせ労してふやしたる器財も、只一時の灰となる。我も人もおそれつゝしむべし。

晩年、郷里で終のすみかを類焼で失い、焼け残った土蔵のなかで一生を終える、そんな宿命への予感があったのだろうか、と町史で宮本氏は記しています。

念仏院での回向

200年後に聞いてもたまげる事件

前述筥新田の火災の4日後、文化元年(1804)9月7日、一茶は念仏院に赴きました。

そのかみ天和の比(ころ)となん、鶴を殺して従類刑せられし其屍を埋し跡とて、念仏院といえる寺あり。
二百年の後に聞くさへ魂消るばかり也。況縁ある人においておや。

鶴殺しの容疑で、鈴木家一家が処刑されたのは延宝5年(1677)のこと。このときの一茶、文化元年(1804)から逆算すると127年ほど前で200年とはちょっとオーバーですが、それだけ驚愕的な事件だったということでしょうか。
あれっ、ちょっと待ってください。事件は天和の比(ころ)ではなく延宝の時代。一茶はどこかまちがえていますね。
念仏院は、殺鶴山常念仏院鶴捕寺といい、立木村円明寺の修行僧、浄円と妙誓の開山。天和2年(1682)には千日供養塔が建立され、回向が行われ、以来3年に1度の供養が続いていました。
千日供養塔が建てられた天和2年を事件の年とまちがえたようですね。でも、それならなおのこと、122年前ですから200年というのは・・・まあ、概算ということで。

▼ 事件の概要等々は、当サイトの 泪塚押付新田の鶴殺し事件 などでどうぞ。

一茶の句碑 2:泪塚

一茶の句碑:泪塚

念仏院跡地にある泪塚を訪れると道路からすぐ右手のほうに一茶の句碑が建っています。
文化元年(1804)9月7日に泪塚を訪れて詠んだ句がここに彫られています(クリックして拡大参照)
事件後100年以上も経った文化年代においてもなおこの事件は生々しいものとして語り継がれていたようです。
ここの句は以下。

見ぬ世から 秋のゆふべの 榎哉

植足しの 松さへ秋の 夕哉

再度の訪問で詠んだ奇妙な一句

この後、続いて8日後の15日の夜にも、逮夜(=葬儀の行われる前夜。また、忌日の前夜の意)だということで、一茶はここを訪れています。

今夜は鶴殺しの胎(逮)夜なりとて、念仏院に其回向(えこう)あればかいわい群集し大かたならず。天和より四万三千日にあたるとなん。比(ころ)しも秋風寂々として小田の雁さへ昔おもはれてかなしく、我も念仏一遍のたむけなす員(かず)に入りぬ

天和(正しくは延宝時代と思われます)のあの事件から数えて4万3千日にとあり、「地内にて」と前置きして句日記に書きとめたのが次の一句。

君が世や かかる木陰も ばくち小屋

この意味が、tanupon には最初ちょっとよく分かりませんでした。


が、その話は少し後にして、また、ちょっと待ってください。

4万3千日というのを仮に365日で割って年数で計算すると・・・約118年になります。
ただし、旧暦は閏月などあってややこしいのであくまでも概算です。
これは、どちらかというと、事件のあった延宝5年(1677)からではなく、
千日供養塔が建てられた天和2年(1682)から数えた数値に近いではないですか!

1677+118=1795
1682+118=1800

文化元年(1804)からは4年もの誤差はあるものの、9年の誤差よりはよほどマシです。
とすると、まちがえていたのは一茶ではなく、この法要を営んでいた人たち全体だったかも知れませんね。


さて、話をもどして、句日記に書きとめた一句について・・・。

当時の布川地区は、江戸と関東東北部を結ぶ交通の要所として栄えていました。江戸から花形力士を呼ぶなどの財力もあり、いわば盛り場的な面もあったせいか、博徒も大勢いたとされています。この句の情景的な面だけを見ると、
「こんな法要の場にまでばくち小屋ができるとは驚きだ」ということになるのでしょうか。
2回も訪れ、念仏一遍をたむける、という割には、その追悼の句が「ばくち」という言葉とうまくリンクしない感じがしたのですが・・・。

これは暗に幕政を批判した句と解せる、と利根町史に記されています。ああ、なるほどそういうことか、と思いました。

町史ではこういう例もあげて説明しています。

一茶の反骨精神を表すものとして8年後の文化9年(1812)9月2日、江戸小梅筋を通ったとき、

かしましや 将軍さまの 雁じゃとて

と詠んだといいます。
雁と鷹狩りとを引っ掛けたもので、もしかすると泪塚のことも脳裏の一部にあったのかも知りません。

小林一茶と泪塚 にも同様の内容を掲載


→ また余談です。ばくち、ギャンブルと聞くと、ちょっと気になりますね。ギャンブル狂になったことはありませんが、どちらかというと真面目な歴史よりそういう話のほうが好きです(笑)。利根町にはきっとその世界のおもしろい話もたくさんあるのでは・・・。うーーん、これは、正攻法で調べるわけにはいかないでしょうね。「裏タヌポンの利根ぽんぽ行」を会員制で・・とか、まあジョークです。

恋の道行き

文化元年(1804)は布川付近になにかと話題の多かった年といいます。そのひとつが恋の道行き、つまり駆け落ち話です。9月12日の句日記に、俳句はありませんが、昨夜布川河岸から恋仲の男女が舟でどこかへ落ち延びたという噂が町中に広まったことが俳文として記されています。

よべ(昨夜)子ひとつ(午前1時頃)の此及(ころおい)となん、木おろしの画師なるもの布川(の)里なる何がしの娘、男女はかりて三月の粕(かて)など貧(とぼ)しからざる程、舟につみツヽ、川霧おひ重なる夜の紛れに、鬼一口のうれいもなく、いづちかへ漕うせしとや。

「鬼一口のうれい」とは伊勢物語で、男女が駆け落ちし女のほうが鬼に食われてしまう故事。川霧は、やはりこの時期も当然、たびたびあったことでしょうね。tanupon もこちらに越してきたとき利根川の霧に驚いたことをブログにも書きました。
Columbus Blog 04/11/02「霧害?」

さて、一茶の時代は、恋愛を罪悪視していた時代。一茶自身も、

恋の道におほやけあらば是等は重罪人たるべし

と俳文をくくっていますが、表向きはこうでも、内心はそうでもなかったようです。
この道行きより少し前の寛政年中(1789−1800)で、龍ヶ崎の俳人杉野翠兄と組んで巻いた歌仙『時鳥』では、「恋公事は、善悪つけがたし」と言っています。杉野翠兄の句のほうが意味がよく分かりませんが・・?

恋公事の 左右に善悪 つけがたし 一茶

嫁入り極(きま)ればはづかしくなる 翠兄

後日談の俳文

ところで、この布川の駆け落ち騒動には後日談がありました。
数日後の16日に以下のような続文が記されています。

下ふさ布川の人となん、男女私(ひそか)にちぎりあひ、古郷はうしろになして、おなじ国成田といへる里にしるよしありて、しばし忍び居たりけり。さても棄べき事ならねばとて、よく物をかぎ、よく物をみる男らをやとひつつ、ほどなく二人を得て帰りぬ。今はおのれを知れる月船の宿をやど(と)して夜も昼もくらしける。おのが父母も遠からざるに、わらいののしり、更にはづらう色もなく、人のせざるわざなしたるが如く、みづから手柄顔に触れ歩くことこそいみじけれ。異国に桑中に待ちき(淇)のほとりにおくるといへるもかかる風俗なるべし。

「異国に桑中に待ちき(淇)のほとりにおくる」とは、中国詩経の桑中編の引用。淫奔を歌った詩、「我を桑中に期(ま)ち、我を上宮に要(もと)め、我を淇の上(ほとり)に送る」よりとったもの。
駆け落ちした男女が、その後、隠れるようにしているかと思えばそうではなく、むしろ誇らしげにしていることを「いみじけれ」、つまり今風に言えば「すごいことだ」と言っているわけです。これは、「とんでもないことだ」とも「感心するくらいだ」ともとれます。
町史の筆者と同様、tanupon も、こういうどちらともとれる表現をした一茶は、少なくとも「駆け落ち反対派」ではなかったと思いますね。もう19世紀に入った時代ですし、恋愛禁止なんてある程度風化していたかも知れません。それにしても、現代はなんでもアリ!ですねえ。

徳満寺の地蔵堂

一茶の句碑 3:徳満寺

徳満寺:小林一茶の句碑

文化3年(1806)1月23日には、徳満寺の地蔵堂に参詣し、一句。

段々に 朧よ月よ 籠り堂

これは、写真のように徳満寺の境内に句碑が建てられています。
句碑は、平成10年(1998)10月建立で、文字は徳満寺住職の生芝正渓氏によるものです。まだ新しいですね。

徳満寺:小林一茶の句碑裏

徳満寺:一茶の句碑


この句が前に紹介した布川出身の馬泉の句(以下、再掲)になんとなく似ているような気がしました。

地蔵でも どうやら凄し 朧月

布川生まれの馬泉にとって「地蔵」といえば、徳満寺の地蔵堂がイメージとしてあるのではないでしょうか。それと「朧月」との組み合わせは馬泉のオリジナル発想です。もしかして、段々に〜は馬泉の句からのパクリでは?などと勘ぐるのが tanupon は得意です(笑)。籠り堂も、当初は地蔵堂としていて、これでは「地蔵」と「朧月」と2つも馬泉の句と同じ言葉があるので変えたのではないかとか。徳満寺の地蔵堂の上に朧月がのぼる様は、確かに絵になりますし、風情があります。馬泉が先に捉えたこの設定に一茶がしびれた・・・。しかも、一茶が吟じたその日は、旧暦といっても1月23日。1年のうちいちばん寒そうな日に「朧月」というのはなんかヘンな気もします。春の朧月夜にはちと早いのではないでしょうか。
と、そんなことを思ったわけですが、まあいつものように tanupon の勝手読みというところでしょうね。
また、利根町には 斬られ地蔵 という逸話が残っているので、馬泉のほうは、朧月はともかくそのことを詠んだ句かも知れません。ちなみに、一茶のほうも「斬られ地蔵」について一句、詠んでいます。文政4年(1821)の作のようですが・・・。

御地蔵も 人をばかすぞ 秋の暮


さて、一茶はこの句(段々に〜)を吟じた後、翌々日の25日には、月船らと下総滝村などへ、26日に平賀村に泊まり、28日には成田山に参詣、滑川から田川村(現、利根町東隣りの河内町)に入り、1泊して布川に戻っています。ホントに布川が好きなんですね。
その同じ年、文化3年(1806)の秋には、こんどは来見寺関連で、次項で紹介するような句碑がうまれる体験をしています。

乞食のお七夜

来見寺のかたわらの田んぼの中に小さな塚があります。その塚に菰4、5枚を敷いて酒を搾る翁や味噌をする童がいます。不審で木隠れに見ると、初孫をもうけたと笑い声がします。

・・・いとゆうに志もやさしげなる青女の麻といふもの髢にまき添へ花なでしこの雨をおびたるさまに少し打ちしほれて、なやめる容の白地(あからさま)に見ゆ。
かかるいぶせき藪原にあるべき体(てい)とはおぼへず、まさしく百鬼のふしぎをなすか、狐狸の人の目をくらますかと、ある里人に問へば、是は此の辺りの門に立て、一文半銭の憐れみをうけて世をすごす古乞食となん。

文化3年(1806)9月27日の夜のことでした。一茶は、この貧しい一家のささやかな饗宴に心を動かされ、

財 たくはへ(蓄え)ねば、ぬす人のうれひなく、家作らねば火災のおそれもなし。

と羨んだといいます。そのとき残した句が以下の弁財天の句碑となっています。
位置的にも、この布川の弁財天のある場所が乞食たちがいたところと考えられています。来見寺から西南わずかのところです。ちょっと分かりにくいですが。この句碑がいつ建てられたか。まただれの筆跡か、ということについては、未調査です。碑の裏にはなにも記されていません。(これは問い合わせればすぐ分かると思います)

一茶の句碑 4:布川弁財天

布川弁財天:小林一茶の句碑

赤子から

うけならはすや

夜の露

このとき一茶は継母や異母弟との間の財産相続争いの真っ只中です。この点については一茶はあまり評判がよくないようです。上記の「財たくはへねば〜」というような心境であれば、遺産など放棄すればいいものを、と思いますが、まあそうはいかないのが人間ですね。
また、余談ですが、達人必ずしも名人ならず、と tanupon は思うわけで、たとえばオリンピックの選手がすべて人格的にもすぐれているかというとそうではないわけです。一芸に秀でているからと言っても人間的にはどうか、というケースは多々あることで、とかく著名人とくに芸能人やスポーツ選手に対してその両方を求めたりしますが、それはムリというものじゃないかと(笑)。一茶も、俳人としては天才だったかも知れませんが、人格的には俗物、いや人間らしかったのかも知れません。

弁財天:一茶の句碑

一茶は、この1ヵ月後、文化3年(1806)10月25日には、再び、布川来見寺に泊まって、

切株の 茸かたまる 時雨哉

を詠んでいます。1ヵ月ずっと布川にい続けたということも考えられますし、布川を拠点に近隣を漂白していたのかも知れません。一茶44歳になった頃。財産がいる、いらないというより、単に家族の暖かさがほしかっただけではないでしょうか。

布川大明神祭りとつく舞

文化7年(1810)6月16日、一茶は、戸頭から大鹿・新町・取手へと足を進め、小文間の渡し場を渡り布川へ入りました。

けふ布川大明神祭りとてつく舞といふ事有

と前書きし、一句、書きとめています。

昼顔の 花の手つきや 狙(さる)の役

とくに句碑があるわけでもないこれだけの情報ですが、この頃には、布川神社の例大祭が6月14日、15日、16日にちゃんと行われていて、最終日の16日、神輿が本殿に帰るときには、境内で尋橦(つくまい)の舞が行われていたことが分かります。狙(さる)というのは、舞人が、鶴・亀・鹿・猿・龍などの面をかぶって地舞を踊ることを意味しています。現在の 布川神社大祭 では、尋橦は行われていません。もし行われたとしたら、200年前に同じ場所で一茶がこれを見ていたのか、という感慨にもひたれますが・・・。

来見寺の赤門

文化9年(1812)正月、一茶は、月船亭で新年を迎えました。この折には、徳満寺・来見寺に出向いて年礼をしています。ちょうどその年で50歳になったということで、以下の3句を詠んでいます。東烏とは無論、一茶自身のことを指しています。口下手だったようですね。謙遜かも知れませんが。

春立つや 先人間の 五十年

おのれやれ いまや五十の 花の春

口べたの 東烏(あずまがらす)も けさの春

一茶の句碑 5:来見寺

一茶の句碑:来見寺

赤門や

おめずおくせず

時鳥

この碑の句は、『七番日記』の文化11年(1814)に記載されています。

来見寺:赤門と一茶の句碑

来見寺:一茶の句碑と赤門

同じく『七番日記』の文化14年(1817)3月26日には、

月船と野廻り徳満寺饂飩(うどん)

と、もてなしを受けたことなどが記されています。
この頃には、徳満寺、来見寺とはもうすっかり昵懇の様子がうかがわれます。一茶55歳。

なお、上記は、利根町史に記されていたものですが、井上脩之助『一茶漂泊』では、1文字多い、

月船と野廻り徳満寺夕饂飩

となっています。これだと破調なのですが、これはもともと俳句ではなく「日記」なのかも知れません。季語も不明です。
また、利根町史では、『七番日記』を『文化句帖』とされていますが、『文化句帖』は文化5年くらいまでの句日記のようです。

(13/11/29 追記)

編集後記

利根町史には、以上のほかにも興味深い一茶の活動について記されていますが、布川との関連で俳句が記されているものを主に取り上げました。

青年から壮年、また晩年にいたるまで、一茶と利根町との関係は想像以上に深いものがあるように感じました。
利根町に少年期に数年住んでいたことから「第2のふるさと」と町が勝手に呼んでいる柳田國男よりも、むしろ一茶のほうが利根町とかかわりが深いのではないか、そんな感じもしました。生地よりも、人生のいちばん密度の濃い時間を過ごした場所がその人間にとって大切な場所なのではないかということも。

そして、こういうことも思いました。
一茶がこんなにもしげしげと布川、そして流山あたりにきたのはなぜか。
また、遺産相続の紛争があったせいか遅い結婚となりましたが、布川あたりを漂白していた青年時には、いわゆる女性関係というのはどうなっていたのかとか。
これらのヒントが古田月船亭に足しげく通ったことと関係があるのか。
町史を隅々見ているわけではないので、こうしたことに言及されているかどうか分かりませんが、一茶研究の書物を見てみれば、もしかするとヒントがあるかも知れません。
俳句にも一茶にもそれほど興味があるわけではないのですが、乗りかかった“狸のどろ舟”に少し乗ってみようかと(笑)。
まずは、藤沢周平の『一茶』と井上脩之助『一茶漂白』を読んでからですね。まだ届きませんが。(10/02/21追記)


(13/11/29・13/04/20・13/04/03・11/03/02・10/02/21 追記更新) (10/02/20)
(撮影 10/02/20・10/02/19・07/12/14・07/06/17・06/09/17・05/09/19・05/07/18)