利根町と言えば、利根川。そして利根川と言えば、水害・洪水・・・。
小貝川との合流地点を中心に、利根町は昔から大きな水害に悩まされてきた土地でもあります。
現代のような大規模な護岸工事やダム、スーパー堤防等々の術を知らない人びとは、
ただただ神に祈ることしかできませんでした。
利根町の水神宮は合計12社。
人びとが一心に祈ったその対象として、「水神宮」が利根町の各地で見つかりました。
現在(2011年1月)までに見つけた利根町の水神宮は合計12社。
境内などの施設をもたない石祠だけのものも多いのですが、
比較的設備が整ったものが4社あり、いずれも、利根川・新利根川のそばに建てられています。
従来コンテンツを3ページに分離・拡大
当初、そのなかで最初に発見した3社をまとめて「水神社・水神宮」のコンテンツを創りましたが、
このたび大幅に改訂し、その3社をそれぞれ別ページに分離し、再構成しました。
第1に、利根町の水神宮で最大規模の「押付本田(布川)の水神宮」。
第2は、「押付新田の水神宮」。そして第3は、「上曽根の水神宮」。
これらは共通目次として、左に掲載しましたが、ほかの9社の水神宮についても、
左の目次で関連コンテンツとしてリンクを貼りました。
本コンテンツで以下、紹介するのは、第1の「押付本田(現布川)の水神宮」です。
水の神社ではなく、水神の宮
ちなみに、水神社・水神宮は、水の神社・神宮ということではなく、
水神の社(やしろ)・宮という意味になります。
したがって、みずじんじゃ・みずじんぐうではなく、すいじんしゃ・すいじんぐうが正しい読み方。
タヌポンは当初、まちがって、みずじんじゃと呼んでいたため、
訪問先を人に尋ねるときにも怪訝な思いをされてしまいました。
すいじんじゃ、と濁って読むのも、その意味ではおかしい感じですが、
コンテンツフォルダ名を suijinjya と誤記して、便宜上いまもそのままにしています。
なお、12社すべてにおいて、実際の鳥居や神額、石祠では、水神宮と表記されています。
町史では水神社と表記されているものもありますが、どちらが正しいのか不明です。
押付本田(現布川)の水神宮近辺は、現在(2011年正月)、最初に訪れた2005年の初春の頃とは、様子が一変しました。
ここは、利根川本流と小貝川との合流地点のすぐ東にあり、水神宮が建てられるのが納得できる場所です。
当初ここに訪れたときは、利根川の遊歩道を北上し、押付本田のバス停留所から階段を降りて右手の集落を目指しました。
この地域は以前はバス停と同じ押付本田と呼ばれていましたが、現在、布川の一部として住居表示が変更になっています。
左の写真のようなとても魅惑的な
小道を手前に歩いてくると
水神宮の前にたどり着くのですが、
これらの街並みがもうすぐ
なくなろうとしています。
2005年の頃から、このあたり一帯は
道路工事が盛んに行われると同時に、
土手沿いの遊歩道にも
町民有志から基金を募った
約200本の桜の植樹がされるなど、
大きな変貌を遂げつつありました。
しかし、ここまで変化しようとは・・・。
最初、道路整備だけかと思いきや、
実は遠大なスーパー堤防建設事業が
なされようとしているのです。
そして、それは、2011年1月現在で、民家の立ち退き・移転を含めて、もう水神宮のすぐ隣まで実施されてきているのです。
下の左写真は2005年当時の水神宮前。右に見える竹垣の民家は立ち退きし、右の写真のように空き地と化しています。
さて、布川(旧押付本田)の水神宮は、いったいどうなるのでしょうか。今後、目を離せませんね。

堂々とした明神鳥居です。
でも、残念なことに神額がありません。
タヌポンはここが水神宮であることを
知った上で訪問しましたが、
何も予備知識がないひとは、
いつそれを知ることになるでしょうか。
文政11年(1828)2月建立と、
柱の裏に彫られています。御影石製。
以下は2005年時の写真。
左右の幅は狭いのですが、なかなか重量感のある注連縄です。
まるで神額がないのをカバーしているかのようです。
真ん中に見えるのはみかんで、鏡餅の飾りのようなイメージ。
とうぜん、時間がたつと干からびて・・・落ちてしまうようです。
左は、水神宮の拝殿および本殿。
以前は手前にブロック塀と民家があり、
このカットを撮ることは不可能でした。
今後の水神宮の移転状況如何では、
再び、撮れなくなるかもしれません。
さて、押付本田水神宮の由緒ですが、
創立不詳となっています。
ただ、寛政7年(1795)本殿再建の
棟札が残っているということです。
祭神は、水神宮すべての共通の神、
水波能女命(みずはのめのみこと)。
ほかに、蛟蝄神社の祭神でもあります。
祭礼としては、1月20日に、
御歩射(おびしゃ)の神事 があります。
水色の屋根が印象的です。
屋根の上を見て、初めて、
「水神宮」と分かる人もいるでしょう。
ところで、拝殿の左部から
「ニョキッ」と出ている棒は
いったいなんでしょう?
→ 祭礼のときなどに立てる
幟旗のポール、というところでしょうか。
ちょっと見えにくいのですが、
拝殿の屋根、破風の部分の上に、左二つ巴 の紋が見えます。
水神社の神紋のようです。
そもそもこの拝殿のなかに入るのはどこからなのか、訪ねたときはいつも無人なのでよく分かりません。
格子の隙間のほか、中央部にひとつだけそれより若干大きめののぞき穴があったので、そこから見てみますと・・・。

中央の奥に見えるのは本殿のようです。拝殿内の上部には水神宮の額のほか、絵馬が2点ほど掲げられています。
左の絵馬には見覚えがあります。2005年春先に開催された第22回「利根町の絵馬展」に出展されたものでした。
右の絵馬はよく分かりません。絵馬展では水神宮所蔵の別のものがもう1点、展示されていました。以下で紹介します。
とくに利根町の文化財には指定されてはいません。(絵馬展:利根町歴史民俗資料館企画展・利根町教育委員会主催)
左は「祈願図」、右は「水神出し図」。「祈願図」が明治23年(1890)の作ということ以外は不詳です。
比率的には、ここでは実際より大きめに掲載しますが、
「水神出し図」は小さく、「祈願図」の4分の1程度の大きさです。

| 名称 | 作者 | 年代 | 寸法cm(縦×横) | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 祈願図 | 明治23年(1890) | 66.0×91.0 | ||
| 水神出し図 | 32.0×45.0 |
木鼻(きばな)とは、柱の上部の頭貫(かしらぬき)の先端が柱より出ている部分のことで、言わば木の端という意味。
獅子鼻や龍鼻、雲形、花や葉などの植物の彫刻が施されたものです。水神宮のは獅子鼻ですね。
紅梁(こうりょう)は向拝で用いられる梁。ここでは、木鼻と木鼻の間の部分ですね。ここにも彫刻がされています。

ほかに拝殿上部には、額が掲げられていましたが、
年代物なのか文字等がかすれてまったく読めません。
本殿は、流れ造り。
拝殿と本殿をつなぐ幣殿の屋根。
そして瑞垣の屋根。
それぞれの青がひときわ目立ちます。
本殿の屋根、これも破風の上には、
「水」の文字が描かれています。
もちろん、水神宮もしくは、
水神を表しています。
この押付本田の水神宮については、赤松宗旦の利根川図志に、「水神とお大平様の話」が紹介されています。
この中には右角を折られた牛の話が出てきますが、現在も右角のない河牛に乗った水神像が本殿に安置されているとか。
本殿の水神像を見てみたいですが、さて、どうしたら見られるのでしょうか。
水神とお大平様の話については、当サイト「大平神社1」の お大平様伝説 参照。
境内に入ってすぐ左手には、石祠や小さな石灯籠などが何基か並べられています。
そのなかで、わずかですが名称が判明しているものを以下、紹介しますが、
2005年当時と現在(2011年)とで、若干の変化が見られます。
以下の左が最新の2011年、右は2005年の写真。いちばん左の石祠がよく見るとちがいます。
これはどうも以前は、石祠の本体が後部に倒れたままになっていたようです。直されたいま、名称が分かりました。

疱瘡神と言えばつい先日、利根町で2基目となる石祠を見つけたばかり(琴平神社の疱瘡神)で、これで3基目です。
同時に、発見した神社総数など更新したばかりなのに、また、目的別索引 神社編 等を更新しなければなりません(笑)。
それはともかく、この水神宮の疱瘡神ですが、石祠の右サイドで、嘉永5年(1852)建立と分かりました。
しかし、右下の写真から判読できる文字は「■永五子■二月吉日」です。なぜ嘉永5年と断定できるかというと・・・。
下に永が付く江戸時代の年号は、意外と多く、寛永、宝永、安永、嘉永と4つもあります。しかもすべて5年が存在します。
そこで、次は、子(ね)年で見てみると、宝永と嘉永がいずれも5年で子年に該当します。
そのいずれかと判断した上でもういちど石祠サイドを見ると、宝や寶の字ではなく嘉と読むことができました。
子の次の文字が読みにくいので断定しませんが、「十」であれば、12月、そうでなければ2月の建立です。
えっ?江戸時代以前の天永、寿永、建永、貞永、文永、康永、応永、大永という可能性はないのか、ですって?
そ、そんな鎌倉時代や室町時代の石祠が残っているとは・・・。

疱瘡神の隣りの石祠は文字が読み取れません。
疱瘡神から1基おいた隣が左の石塔。
上部が欠損していますが、庚申塔の青面金剛王ですね。
寛政12年(1800)の建立であることが分かります。
ところで、寛政12年建立の庚申塔に道標を兼ねた刻字がある、
とは、この石塔のことでしょうか。
ほかに寛政12年と分かる石塔類は見当たらないのですが・・・。
道標を兼ねた刻字とはどれのことでしょうか。
それはともかく、この2005年の写真では、
右の石燈籠の苔がいい仕事してますねえ。
さて、これ以外は、おそらく仏塔関連で、石燈籠の2つ右が十九夜供養塔らしいことぐらいしか分かりません。
神木なのかどうかは不明ですが、
押付本田の水神宮境内では、
ほかには大きな樹木はありません。
あっと、もちろん、見たとおりの公孫樹です。
雌雄は調べていません。
下はブロック塀がまだあるときの写真ですが、境内中央にある手水。後で紹介する大師の祠の前に現存しています。
奉献の献ですが、ほんとうにあるのと思うくらい妙な字ですね。天保7年(1836)2月の建立。

手水の手前に常夜燈が1基立っています。
中央部の「火袋」という部分のこれは馬なのでしょうか、逆さまに彫られています。
面白いなと思って見ていたのですが、どういう意味があるものなのでしょうか。
もしかして、上部が倒壊したのを直したとき逆さまに付けてしまったとか・・・。
そんな風に考えて常夜燈を見てみると、笠の部分だけが少し古そうに見えたり・・・。
境内右手には、なぜか
仏教関連の施設が並んでいます。
入口に近いところから見てみましょう。
背景は荒涼とした工事現場風景。
神社の施設とはなんと不釣合いな、
そんな思いを強くします。
信心深くないタヌポンでは
言う資格はありませんが、
神々の宿る場所は、
コンクリートやパワーショベルではなく、
自然に囲まれていてほしいですね。
境内右手のいちばん前に屹立しているのが、六阿弥陀供養塔。
押付本田には、以前に瑞光寺(現在廃寺)という寺がありましたが、
その僧正だった祐天上人の名号石(みょうごうせき)が残され、
のちにこの水神宮に移されたのがこの供養塔です。
ちなみに名号(みょうごう)とは、「南無阿弥陀仏」の念仏のことです。
南無阿弥陀仏の文字の下に小さく「祐天」の名と花押が彫られています。
また、石塔の右側面には、以下の祐天上人の句が彫られています。
枯れ草に 情の露や かりの宿
みのりの縁を 結ぶめでたさ
また、この石塔の左側面には、書家の 杉野東山 が建立の由緒を記しています。
文政10年(1827)10月19日 建立
六阿弥陀供養塔の詳細については、「総州六阿弥陀詣」 参照。
六阿弥陀供養塔のすぐ左隣にあるのが写真の2基の供養塔。
これもブロック塀時の写真ですが、現存しています。
左のほうの塔は風化が激しく、詳細は不明ですが、
右のは、「光明真言百万遍供養塔」とあり、
文政5年(1822)8月の建立。
「百万遍供養塔」だけでは一般には念仏塔といいます。
全員の念仏「南無阿弥陀仏」が百万回に達すると、
それを記念して建てられたのが「百万遍供養塔」です。
光明真言(こうみょうしんごん)とは、密教の真言で、正式は、不空大灌頂光真言(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)。
四国霊場八十八ヵ所巡りの際には必ず唱えるといいますが、短くとも「南無阿弥陀仏」の6文字だけではありません。
ちなみに、真言(しんごん)とは、仏様の真理を説き徳をたたえる短いお経で、梵語(サンスクリット)を音写したもの。
短いものを真言といい、長いものを陀羅尼(だらに)と呼びます。光明真言は、梵語で23文字の短いお経です。
おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん・・・まったく理解不能です、うん(笑)。
余談ですが・・・
光明真言の詳細はともかく、みんなであわせての回数といっても、「百万遍」というのが気が遠くなりそうです。
何回も、という意味で誇張した表現ではないかと思いますが、タヌポンはヘンなことを思いました。
それは、人間の一生の心拍数です。これが、実は、約20億回というんですね。
これに比べたら、無意識の心境で唱えたら100万回など大した数値ではないのかも知れません。
参考→ 東京工業大学理学部生物学教室教授、本川達雄氏の著書 「ゾウの時間 ネズミの時間」
これもブロック塀の時の写真ですが、
手水舎の後に2つの祠が見えます。
当初、四郡大師を知らないときで、
2つともそうだとは思いませんでした。
左の小さい祠が56番。
右の祠は、19番の札が付いています。
巡礼・札所巡りという観点では、
同一の箇所に2つあるのは
無意味なように思えます。
本来は、どちらかいっぽうが、
別の場所にあったのではないか
と思いますが、どうなのでしょう。
ちなみに、利根町には、こうした2つの大師が並列して建てられている場所が、いくつか存在しています。
押付本田の水神宮以外では、以下、5ヵ所ありますね。

祠の中に大師像が3体、安置されています。空海大師のほかはだれなのでしょう?

ここでは2体の大師像。それよりも、祠の下に、妙な石が・・・・。
四郡大師とは直接関係なく、
ここに暫定的に置かれたものと想像します。
石塔の下部が消失しているようです。
一説によると、18世紀末に、
十九夜塔の如意輪観音像が変化して、
子安観音像ができた、とあります。
十九夜供養塔や十九夜講などは、
おもに女性の安産等を祈願して、如意輪観音に祈ったものです。
これが子安観音へと変化していくのは、ありえる話でしょう。
大師の祠の左には、3基、石塔類が並んでいます(下左)。左から、馬頭観世音、水神宮夜燈とあります。
水神宮夜燈は右サイドに享和4年(1804)正月とあります。その隣りは、四国霊場十番と記されているのでしょうか。
右の写真は、さらにずっと右奥の本殿脇にあるもの。これが何かは不明です。

冒頭のあの小路を通って・・・。
かつて、タヌポンが初めてここを訪れたとき。
どこかで、桃か梅の花が咲いていました。
なんとなくのどかな気分・・・。
先ほどの絵馬「祈願図」の背景にも
桃園の一部が描かれているということですが、
利根川図志には、この押付本田の里について
「桃園多し、春花甚美なり」
と記しています。
そして、いま。麗しい押付本田の小路と、水神宮のゆくえは・・・。

(11/02/03 再構成) (07/05/27・05/11/05・05/08/27・05/07/23 追記) (05/07/20)
(撮影 11/01/28・06/05/28・05/08/27・05/07/29・05/03/27)