タヌポンの利根ぽんぽ行 福木集会所(南)周辺

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福木集会所周辺 目次



稲荷神社関連リンク


更新経過

無縁塚 の宝篋印塔が気になっていましたが、
銘文を記した文献が見つかり、再々調査。十六夜塔を確認。(16/07/20)


石造物データ掲載のため各コンテンツを再調査。福木南地区は遅くなってしまいました。
今回は、当初、調査対象からはずしていたポイントに、新たな発見があり、
かなりのボリュームで追記しました。
また、叙述の順序を大幅に変更し、再構成しました。(16/07/09)


当初、北と南をいっしょにして「福木集会所周辺」というコンテンツにしていましたが、
画像修正と目次変更を機に、北と南で分離させて、2コンテンツとしました。
このコンテンツは南の集会所周辺ですが、目次では北集会所と相互にリンクしています。

南の集会所のメインは、利根町でいちばん数の多い稲荷神社です。
稲荷神社は、調べてみると朱色の鳥居や本殿などが多いように思います。
でも、福木の稲荷神社は、朱色のイメージはまったくなく、素朴な感じです。
それは、この近辺全体を包むのどかでやさしい雰囲気とマッチしています。(11/02/22)


福木地区は、地理的には利根町のちょうど中央に位置します。
どちらかというと、中央ではなく周辺から探索を始めることが多かったため、
福木地区の南北にそれぞれ集会所があることはかなり遅くなってから知りました。

でも、見所は、その南北2つの集会所周辺に集まっているので、
比較的短時間で、効率的に、見てまわることができます。(06/05/27)


利根町中南部マップ

利根町中南部マップ

福木の稲荷神社

入口

稲荷神社に向かう交差点から

これは、稲荷神社の東南の一角から眺めたところ。
右手の道を北に行けばもうひとつの福木集会所方面に。
ただし、取手東線に直接はぶつかりません。
逆に、この左手の道を少し行くと右折する道があり、
それを北上すると、福木のバス停に行けます。

以前は、このどちらかの道が
舗装されていなかったと記憶しています。
まわりは水田・畑なので広々として見通しのよいところ。
好きな砂利道だった時も思いましたが、
のんびりとした雰囲気はいまも漂っています。

稲荷神社正面入口

ここが、稲荷神社の正面入口。
右隣は、旧真福寺の墓地。
真福寺は現在は廃寺となっています。

鳥居の奥に石段があり、
その上に稲荷神社の本殿があります。
その右隣の建物は福木集会所(南)。
右手手前は、四郡大師の堂です。

鳥居

境内入口は東向きなので、午後はいつも逆光です。でもまあ、最近はフォトショなどで若干修正できますからね。
形は明神鳥居。神額は付いていませんので、これだけでは稲荷神社とは分かりません。
左柱には「内子中」、これは氏子中と同義なのでしょうか。右柱には「村内安全」。
右柱裏面には「嘉永五子年正月吉日」とあり、嘉永5年(1852)正月の造立と分かります。
ここでちょっと気になることが・・・。『利根町史』に鳥居が「コンクリート造」とあるのですが・・・。

稲荷神社鳥居 稲荷神社鳥居裏

本体: 高302cm、幅393cm、厚30cm。

コンクリートの起源とは

明治になってからという感じなのですが、鳥居は「コンクリート造 嘉永五年」と『利根町史』に記されています。
嘉永5年(1852)はまだ江戸時代ですよね。もしかして、後述の手水も鳥居も、当時の最先端建築だったのかも・・・。

→ ちょっと調べてみました。
なんと、コンクリートそのものの起源は、とんでもなく古く、現在、最も古いセメント使用は約9000年前の新石器時代とか。
なあんだ、と思いましたが、そのセメントが日本にやってきたのは、幕末だというのです。それではやはり・・・?
ちなみに「コンクリート」とは、「セメント」に砂と砂利、水を混ぜ硬化させたものです。

ところが、当初セメントはレンガ造の目地用モルタルとして使用されたとか。しかも、輸入もののセメントです。
日本でセメントが製造されたの1875年が最初で、日本初のコンクリート造は1877年の伊王島灯台退息所・・・。
では、それよりも前の嘉永時代には、日本製のコンクリートは日本になかった、ということになります。
まさか、嘉永時代の利根町の小さな神社に、輸入もののセメント・コンクリートが・・・とはとても思えません。

ちょっと、よく分からなくなりましたね。大きな建造物としての記録と小さなものではちがうのかも知れません。
また、この稲荷神社の鳥居や手水の「コンクリート」というのは、セメントとは別の概念なのかも・・・。
それにしても、このあたり、ちょっと疑問が残りますね。コンクリートではなく「石」の間違いなのでは?

手水

手水

左は手水正面。よくある「奉納」が刻まれています。

鳥居の右手にありますが、鳥居とセットのようです。
というのは、下左の右側面の造立年が、鳥居とまったく同様です。
嘉永五歳壬子正月吉日」すなわち嘉永5年(1852)正月。

寄の異体字

左側面は「寄附」、以下6人の名が列記。
「寄」は左のような異体字を使用。
この時代、崎の字も「ア」ばかりですね。
文字が風化かかすれか、読めない個所もあります。
□□□□エ門 野口權兵衛 䂖田勘右エ門
飯塚能右エ門 片岡傳左エ門 中□茂左エ門

なおこの地区の石工は「石」を異体字「䂖」を使用。

手水右側面 手水左側面

本体: 高39cm、幅91cm、厚38cm。

拝殿・本殿前

稲荷神社拝殿前

さて、福木の稲荷神社の由緒は不詳。
伝承で、文禄年間(1592〜)に、
野口権兵衛が三州豊川稲荷を
勧請したと言われています。

石段を5.6段上がったところに、
稲荷神社の拝殿(本殿)があります。

拝殿前にはキツネや常夜燈のほかに、
何基かの石塔類が置かれていますが、
これらの右手には同一平面上に
集会所の建物があります。

拝殿

稲荷本殿(拝殿)

左は、本殿というより、
拝殿というべきでしょうか。
瑞垣で閉ざされたなかが本殿です。
鍵がかけられているので
見ることができません。

鳥居の神額がないため、
キツネでようやく稲荷と分かりますが、
もし、この拝殿が朱塗りだと、
もう少し稲荷神社らしく
見えるかもしれません。

本殿

左は、右手に廻って、左は格子の隙間から撮ったもの。注連縄があり、なんと、ここにも錠がかけられています。

稲荷神社の祭神は、全国共通の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。
本殿は、流れ造り。この稲荷神社の祭礼は12月15日、旧初午に行われるということです。

稲荷神社本殿 稲荷神社本殿

巻物・珠をくわえるキツネ

神額はなくとも眷属のキツネがあることで、稲荷神社であることが分かります。
奉納」「平成十六年十一月吉日 小倉千吉建之」は共通。平成16年(2004)11月と、最近の造立。

さて、このキツネをよく見ると、口になにかをくわえていますね。これは果たしてなんでしょう?
左のキツネは玉のようなもの。右のキツネは、巻物のようなもの。油揚げや稲荷寿司なんていうのはナシです(笑)。
珠のほうは、願い事をかなえてくれるという「如意宝珠」や火焔の燃え上がる「火炎宝珠」とも言われています。
巻物のほうは、仏教の経典、荼吉尼教典などではないかと説もあります。
ほかに、鍵や稲などをもつキツネの像もあるようです。意味的には不詳のようですが・・・。

眷属キツネ左 眷属キツネ右

左本体: 高50cm、幅17cm、厚41cm。左台石: 高72cm、幅40cm、厚50cm。
右本体: 高46cm、幅20cm、厚43cm。右台石: 高74cm、幅40cm、厚50cm。

常夜燈

キツネの奥には常夜燈も1対並んでいます。これについては、2016年の調査で不可解に思ったことが2点あります。

常夜燈2基

@ 左右2基の造立年が違っている
30年もの開きがあるのです。これは
1基ずつ奉納されたわけでしょうか。
それとも1基破損して再建されたのか。

A 御神燈と刻された面が
左右で逆向きになっている

ふつうは、参詣者向きなので
右側のほうが正しいと思いますが、
造立年が違うので、
最初のほうが間違えて建てたのか。
それとも、2011年の大地震で倒れて
修復時、誤って逆向きとなったのか。
真相はどうなのでしょう。

上記 A については、過去の写真を見比べることによって判明しました。地震後に逆向きになってしまったようです。
下左は大地震直前の2011年2月23日撮影、右は、2015年8月23日撮影。同じ面ですが、背景が180度違います。

常夜燈左 常夜燈左

では、以下、「御神燈」を正面として、2基それぞれの正面、右側面、左側面、裏面の順に見ていきます。

常夜燈(左)

以下、左から、正面、右側面、左側面。正面は「御神燈」、右は「伊勢太□講中」□は太もしくはゝなど繰りかえし記号と推定。
左は「天保十乙𠅆年」で、天保10年(1839)の造立。𠅆は亥の異体字。

常夜燈(左)正面 常夜燈(左)右側面 常夜燈(左)左側面
常夜燈(左)裏面 常夜燈(左)裏面拡大

これが、正面を向いていますが、実は裏面。
文字が読みにくいので拡大写真が右。
講中安全」でしょうか。
やはり、本来、参詣者に面しての言葉では
なさそうですね。

これを動かして、逆向きにする・・・。
他の地区で何基か直しましたが、
この大きさではちょっと・・・。
タヌポンだけではとうていムリですね。
もうセメントで固定されているようですし。

本体: 高117cm、幅59cm、厚54cm。

常夜燈(右)

常夜燈(右)正面

常夜燈(右)は正しい向き。正面に「御神燈」とあります。

右側面の「村内修復」がちょっと気になります。
修復とは何をそうするのでしょうか。
家内安全とか五穀豊穣とかいうのなら分かりますが、
修復とは、いま現在が「よくない状況」なんでしょうね。

左側面「明治二己巳年」、明治2年(1869)の造立。
明治維新の頃ですので、いろいろあったのでしょう。

裏面「天下𣳾平」を願う気持ちがよく伝わってきます。(𣳾は泰の異体字)

下左から、右側面、左側面、裏面。本体: 高116cm、幅55cm、厚54cm。

常夜燈(右)右側面 常夜燈(右)左側面 常夜燈(右)裏面

福木の天満宮

天満宮 天満宮左側面

本殿と集会所の建物の間に、
後述の石塔類とは別格のように
建てられていたのがこの天満宮。

正面に「天満宮」。
右側面に「嘉永七寅年九月再建」。

これも鳥居や手水と同じ嘉永年間ですが、
2年後の嘉永7年(1854)9月造立で、
しかも再建とされています。

これは、稲荷神社の境内社と
いうべきものでしょうか。

本体: 高59cm、幅33cm、厚27cm。

本殿前の石塔類

稲荷神社に近接しているのに、ここで紹介する石塔は、ほとんどが仏塔です。なぜ、この位置におかれているのでしょうか。

本殿前の石塔類

本殿に向かって左側に
何基か並んで建てられています。
中に石塊のようなものもあり、
ここでは5基説明します。
いちばん奥の石塊は
古いキツネのようですが、
かなり損傷しているので省略しました。

2番目に紹介する不動明王塔は、
写真の色で分かるように、
台石が半分以上、土中に
埋もれていました。
すべてを掘り起こすには
至りませんでしたが、
銘文の概略は説明できそうです。

以下、左から順に見てみましょう。

十六夜塔1

十六夜塔1 十六夜塔1左側面

半跏思惟の如意輪観音が刻像された塔。
光背右上に「十六夜講」とあり、
如意輪観音が本尊の十九夜塔ではなく、
別の本尊が存在する十六夜塔と判明。
利根町にとても多い例です。
光背左上に「女人講中」は妥当な銘文。

左側面「□永五申十月吉日」と
□部分が読みづらいのですが、
5年で申年は安永。したがって、
安永5年(1776)10月の造立です。
嘉永・宝永・寛永、いずれも
5年は申年ではありません。

なお、塔下部は若干、土中に
埋まっているようです。

本体: 高50cm、幅28cm、厚16cm。

不動明王塔

右手に刀剣、左手に羂索、脇に二童子とくれば、不動明王。二童子を加えて不動三尊像といいます。背後の火炎も特徴。
二童子は向かって左が制吒迦童子(せいたかどうじ)、右が矜羯羅童子(こんがらどうじ)というのが一般ということです。
下写真中央は右側面で「月參講中」、左側面は「安政五戊午六月吉日」とあり、安政5年(1858)6月の造立。
なお、講は「成田山月参講」であり、この塔は成田山新勝寺への月参りを記念して建てた「成田山月参塔」とされています。
(榎本正三『女人哀歓―利根川べりの女人信仰』より)本体: 高75cm、幅29cm、厚28cm。台石: 高21cm、幅45cm、厚45cm。

不動明王塔 不動明王塔右側面 不動明王塔左側面

不動明王塔の台石

台石の上部になまじ文字が見えるために、掘り起こし作業が容赦なく付加されます。すぐ基底が見えればいいのですが、
意外と深い場合があり、もういい加減にしろ、と。ひとり神社や墓地の片隅で、梅雨空のもと、汗かき、蚊に刺されながら、
非効率な百均小シャベルでせこせこ掘っている自分を客観視すると、あやしうこそものぐるおしい気分になります。(独白)

[台石正面]

不動明王塔台石正面

福木村」、「世話人」として3人の名。

䂖田勘右エ門
野口權兵衛
片岡傳左エ門

これは、どこかで見たメンバー・・・そうです!
手水 の寄附人名6人のうちの3人。
手水は嘉永5年(1852)造立で6年前ですから同時代ですね。

さて、台石右側面に9人、左側面に8人の名が刻まれています。
これはもう少し下部を掘らないとすべてが判明しません。

▲ 上記は、後日、再調査(今度はスコップ大もって掘り返して・・・)に
チャレンジしてみようかな、と。(スコップとシャベル・東日本と西日本では逆

→ 上記、大スコップなしで、なんとか、読み込むことができました。以下。

[右側面]

不動明王塔台石右側面

䂖塚能右エ門
日渡三郎兵エ
䂖塚宇右エ門
䂖塚政右エ門
䂖塚五郎兵エ
片岡傳五右エ門
中川茂右エ門
八嶋治郎兵エ
市川治兵エ

[左側面]

不動明王塔台石左側面

平澤吉左エ門
山口源右エ門
平䂖六左エ門
山口儀兵エ
野口惣左エ門
野口茂兵エ
福田佐五右エ門
齊藤利兵エ

馬頭観音塔1

馬頭観音塔1 馬頭観音塔1左側面

これから3基、馬頭観音塔が並んでいます。
この塔がいちばん文字が読みやすいですね。

正面中央に「馬頭觀丗音」。
左側面には「昭和二年九月山口建之」、
昭和2年(1927)9月、山口氏による造立。
昭和ともなると、干支や吉日などは
省略されていく傾向にあります。

馬頭観音については以下参照。
羽中の観音堂「馬頭観世音」

本体: 高57cm、幅18cm、厚15cm。

馬頭観音塔2

馬頭観音塔2 馬頭観音塔2右側面 馬頭観音の種子カン

2基目の馬頭観音塔。
上部に馬頭観音を表す、
種子カンが彫られています。


正面中央に「馬頭觀世音」。その左右に
天保十一子年」と「十一月廿五日
天保11年(1840)11月の造立。

右側面に「市川氏」とあります。

本体: 高68cm、幅29cm、厚20cm。

馬頭観音塔3

これは風化が激しくて、辛うじて「馬」「世音」から推定し馬頭観音塔としたものです。すなわち正面は「馬□□世音」。
この文字の左右に造立年が記されていそうですが、読めません。下中央は右側面で、「願主 能ヱ門」でしょうか。
左側面は「沖坪中」と見えます。この地域は、福木の沖坪と呼ばれています。ちなみに北集会場のほうは宿坪です。

馬頭観音塔3 馬頭観音塔3右側面 馬頭観音塔3左側面

本体: 高48cm、幅25cm、厚12cm。

その他

その他不明

馬頭観音塔3の右隣は、石塊。
古いキツネ像の残骸といったところですが、
真ん中に見える動物の頭は、
キツネには見えないような・・・。
稲荷神社でキツネ以外に眷属のようなものを置くとしたら、狛犬?
もしかして、以前はあったのかも。

では、右隣りの集会場から墓地へ行く前に、稲荷神社境内入口まで戻って、左右のポイントを先に見ておきましょう。

入口左右のポイント

庚申塔2基と道祖神

庚申塔2基と道祖神

入口すぐ左手、大樹の手前には、
庚申関連の3基が、訪問者を
出迎えてくれます。

左から、3猿が彫られた庚申塔、
真ん中は、道祖神の石祠、
右は、青面金剛王が彫られた庚申塔。

以下、1基ずつ見ていきます。

庚申塔1

庚申塔1

下部に「三猿」が彫られているので、
これだけで庚申塔と断定していいのですが、
このような形の塔は割と古いものが多く、銘文が読み取りにくい傾向にあります。
この塔も、読み込むのに苦労しました。

中央には「奉造立庚申 二丗安樂也」とあるようです。
右上から「寛文十庚戌年」。寛文10年(1670)とやはり古い造立。

左下には「同行十三人」が見られます。

本体: 高62cm、幅33cm、厚17cm。

道祖神

正面に「道祖神」とありますが、石祠が固定されていて動かせず、植え込みなどもあり両側面が見づらいです。
左側面は「文化七午十一月吉日 福木村 女人講中」。文化7年(1810)11月の造立となんとか判明。
右側面は、何度かチャレンジしてようやくピンの合った写真が撮れました。「セハ人 九兵エ 治右エ門」。

道祖神 道祖神右側面 道祖神左側面

本体: 高55cm、幅36cm、厚24cm。

庚申塔2

これはまた凝った書体の青面金剛王。「面𨤾㓻王」と異体字ばかり。それでも利根町は「王」が付きますね。
正面が凝っている割には左右は凹凸のある面に直彫りという雑な仕様。右側面は、「福木邑講中」、
左側面「天保四巳年二月吉日」、天保4年(1833)2月造立の庚申文字塔です。本体: 高67cm、幅30cm、厚20cm。

庚申塔2 庚申塔2右側面 庚申塔2左側面

四郡大師

庚申3基と向かい合わせの境内入口右手にある大師堂。札所番号は付いていません。右は安置されている2体の大師像。
ちなみに、この堂の背後は、旧真福寺の共同墓地の一角で、ケヤキの大樹の陰に後述する「無縁塚」があります。

大師 大師像

左大師像本体: 高29cm、幅27cm、厚18cm。右大師像本体: 高35cm、幅25cm、厚16cm。

福木集会所(南)と石塔5基

福木沖坪集会所

達筆で書かれた看板がかかっています。福木集会所とありますが、『利根町史』では、福木沖坪集会所とされています。
とすると、北の集会場は、福木集会所(北)というより、福木宿坪集会所と呼ぶのが妥当なのかも知れません。

右写真の白く見えるのは雪。2011年の大地震の直前の2月に撮影。ここも、稲荷神社本殿と同様、石段を上ります。
集会場内に「観世音菩薩立像」が安置されているようなのですが、集会場内にはまだ入ったことはありません。

あっ、木の下になにか仏塔らしきものが・・・。これはまた別のときに見てみましょう。冬のバイクでは寒すぎます。

集会所(南)/福木沖坪集会所 集会所(南)/福木沖坪集会所

寒くて・・・と言いながら、すぐに再訪問して、概要を記したのですが、以下は、さらに数年後の再調査時の内容です。

石塔5基

集会所石段下の石塔5基

5基ほど見えます。
しかし、前が墓地の柵となっていて、
正面から撮りにくいものがあります。
また、狭い箇所なので、
石塔の側面等も見づらいですね。

5基の塔の正面は墓地なので、
無縁仏墓塔とは異なるものが、
別個に置かれていると思われます。
以下、左手前から順に見ていきます。

巡拝塔

正面上部に阿弥陀三尊の種子、キリーク、サク、サが彫られ、その下に「奉納西國秩父坂東順禮諸願成就」とある巡拝塔。
下右の左側面は「寛政九丁巳年」以下「當村 勝田弥左エ門 飯塚清兵エ 白戸忠兵エ 野口宗兵エ」とありますが、
中央右側面の「七月吉日 山口義兵エ 野口茂兵エ 中谷 田上文兵エ」に続きます。寛政9年(1797)7月の造立。

本体: 高62cm、幅25cm、厚16cm。

巡拝塔 巡拝塔右側面 巡拝塔左側面

▲ ちなみに上記の塔は、左右に樹木と地蔵塔が近接しているため、地蔵塔を動かしたのち、塔を回転させて右側面を検分。

地蔵菩薩塔

地蔵菩薩塔

丸彫りではなく光背のある地蔵塔。
銘文もあり、造立年も辛うじて判明したのですが、
いまひとつ内容が分かりません。
光背右の銘文が、上部剥落もあり、読めないのです。

□□尼菩提也」だけ読めそうなのですが、これだと墓塔のような気もします。

光背左に「寛文九年八月吉日」、
すなわち、寛文9年(1669)8月と古い造立だけに、
右の正確な銘文が知りたいところです。

本体: 高84cm、幅39cm、厚18cm。

延命地蔵塔

延命地蔵塔

像容は地蔵菩薩ですが、光背右に「奉供羪延命地藏菩薩女□十人」とあります。
左には、「弘法大師相傅十三佛時日

上記それぞれの銘文内側に「宝暦十一巳天」と「十一月吉日」、
つまり、宝暦11年(1761)の造立です。
下部の基底にかけて、「願主 勝田韋英」も見えます。

地蔵菩薩塔は数多く見ましたが、
「延命地蔵菩薩」と銘された塔は利根町では初めてです。
弘法大師相伝十三仏とは、鎌倉時代から始まった真言宗の十三仏信仰があり、
初七日から三十三回忌までの13回の法要に、
本尊として配当する13の仏菩薩を指すものと思われます。
また、四国八十八ヶ所霊場巡拝用の納経軸には、
弘法大師を中心に真言十三仏が描かれています。

本体: 高63cm、幅31cm、厚21cm。

二十三夜塔

二十三夜塔 二十三夜塔右側面

ちょっと不可解な銘文が彫られた塔。

正面中央はよくある「二十三夜塔」。しかし、
その右の「□番之内一番」が意味不明。
ヒントが左側面にあるのかも知れませんが、
剥落欠損してまったく読めません。

右側面は「萬延二辛酉年正月廿三日」、
万延2年(1861)正月の造立が分かります。
万延2年はわずか1ヵ月半で文久元年に。

當所 川内屋治兵衛 五男勘七建之」。

本体: 高67cm、幅26cm、厚17cm。

三山百番塔

三山百番塔 三山百番塔左側面

上部に種子キリーク・サク・サが彫られ、
奉納西國秩父坂東湯殿山月山羽黒山
さらに「爲二世安樂」という長い銘文。
出羽三山に百観音も加えた三山百番塔です。

右側面には「天保十一子年霜月吉日」で、
天保11年(1840)11月の造立。

表面左下の戒名「班譽法宣教善信士」は、
台石の「䂖田氏」縁のものでしょうか。

本 体: 高75cm、幅30cm、厚28cm。
台石上: 高20cm、幅47cm、厚47cm。
台石下: 高20cm、幅53cm、厚53cm。

福木共同墓地(旧真福寺墓地)

北相馬郡志と真福寺

北相馬郡志と真福寺

野口如月が著作した『北相馬郡志』に真福寺のことが記されています。

△眞福寺 大字福木にあり。新義眞言宗にして布川町徳滿寺祈願也今無住。

△觀音堂 大字福木眞福寺境内にあり、本尊は正觀世省にして佛師潬慶の作なりと傅ふ、天保七年の大饑餓に際し打ち壊し(今の米暴動)あり土地の親分と稱する者先鋒となり富豪及び商家に大擧し以て威脅し金錢米穀を奪取する側ら寺院の鐘を盗み去らる眞福寺の鐘も其選に洩れず一夜暴徒の襲ふ所となりしも不審や鐘より光を發し叉不思議の者出でゝ邪魔され暴徒等は遂に恐氣付き逃走なしたりと傳えらる。

真福寺は、『利根町史第5巻』では、新義真言宗徳満寺末寺で、
昭和8年(1933)失火で全焼とありますが、現在廃寺となっています。
そのためか『北相馬郡志』にある記されている観音堂・鐘楼も不詳。

ちなみに、野口如月は、福木の五軒家が出身です。

真福寺の墓地であったこの地も、現在は共同墓地とされているようです。ここに2基ほど特筆する墓碑を見つけました。

八嶋翁墓表

一般墓石とは形がちがうので、墓地中央で、すぐに見つかりました。上部に「八嶌翁墓表」と額文字が彫られています。
その下に、300文字程度の銘文、さらに裏面にも「祝松翁碑陰記」と題して230字程度が彫られています。
八嶋は、八嶌、八島と3通り記されており、どれが正式なのかは不明。また「やしま」か「やじま」かも分かりません。

八嶌翁墓表 八嶌翁墓表碑表上部

本体: 高134cm、幅102cm、厚18cm。

[碑表下部白文]

八嶌翁墓表碑表下部

祝松翁諱平治字一櫻祝柗其號常陸龍崎町歩町
田武右二子也出爲下総福木村八嶋君豊藏嗣以
其女爲室翁爲人温籍篤行事父母克孝治家克儉
先是天明年間北総大饑道殣相望八島氏亦不幸
罹厄僅存兄弟二人顚沛流離殆不能生活豊藏者
弟某之子也翁承其後開拓荒蕪黽勉稼穡不避艱
酸專用心于田畝五十餘年如一日至晩年家産頗
致富饒云翁無他嗜好農務之餘唯以挿花爲娯今
茲丙戌三月十三日溘焉易簀距生文化九年壬申
得壽七十有三葬先塋之次謚曰道教順授居士無
子以渡邉某二子治郎兵爲嗣孫曰繁治曾孫曰文
藏頃者繁治携其狀來索文于予予以不嫺文字辭
之不得乃按狀作之表
明治十九年三月
□□□□□□□□隣邑中谷近藤台吉撰井書
□□□□□□□□□□□□□□□石塚兼光鐫

[読み下し文]
祝松翁諱は平治、字は一櫻、祝柗は其の號なり。常陸竜ヶ崎町歩、町田武右(衛門)二子なり。出て下総福木村八嶋君豊藏の嗣と為り、其の女を以て室と為す。翁、人となり温籍徳行、父母に事え克く孝に、家を治め克く儉にす。先に是れ天明年間、北総に大饑あり、道に殣を相望む。八島氏また不幸にも厄に罹り、僅かに兄弟二人を存す。顚沛流離殆ど生活能わず。豊藏は弟某之子也。翁其の後を承け荒蕪を開拓し、黽勉稼穡し艱酸を避けず。專ら田畝に心を用い、五十餘年一日の如し。晩年に至り家産頗る富饒に致せしと云う。翁は他に嗜好無く、農務の餘りは唯挿花を以て娯しみと爲す。今茲に丙戌三月十三日溘焉。易簀生を距(へだ)つ。文化九年壬申に生まれ、壽七十有三を得、先塋の次に葬る。謚(おくりな)は道教順授居士。子無きを以て渡邉某の二子治郎兵(衛)を嗣と爲す。孫は繁治と曰う。曾孫は文藏と曰う。頃者繁治、其の狀を携え來たり、文を予に索(もと)む。予は文字不嫺なるを以てこれを辭するを得ず。乃(よっ)て狀を按じ、之を作りて表す。
 明治十九年三月
      隣邑中谷 近藤台吉撰并書
      石塚兼光鐫

[語意]
: 「松」の異体字。
温籍(うんしゃ): 蘊藉。温和で包容力のある心を持つ。(三省堂大辞林)
天明年間: 1781〜1788年。
大饑(だいき): 穀物が大不作。大飢饉。
(きん): 餓死する。餓死した人。(漢辞海)
顚沛(てんぱい): つまずきたおれること。(Kotobank)
流離(りゅうり): 故郷を離れてあちこちをさまよい歩くこと。 流浪。(Kotobank)
荒蕪(こうぶ): 土地が荒れて、雑草の茂るがままになっていること。(goo 辞書)
黽勉(びんべん): つとめはげむこと。精を出すこと。(Kotobank)
稼穡(かしょく): 穀物の植えつけと、取り入れ。種まきと収穫。農業。(Kotobank)
艱酸(かんさん): つらく、苦しいこと。
挿花(そうか): 花を生けること。生け花。(Kotobank)
丙戌: この場合、明治19年(1886)を指す。
溘焉(こうえん): にわかなさま。多く、人の死去のさまにいう。(Kotobank)
易簀(えきさく): 学徳の高い人の死、または、死に際をいう語。《「礼記」檀弓上の、曽子が死に臨んで、季孫から賜った大夫用の簀(すのこ)を、身分不相応のものとして粗末なものに易(か)えたという故事から》(Kotobank)
文化九年壬申: 1812年。
先塋(せんえい): 塋は墓。先祖の墓。
頃者(けいしゃ): このごろ。近ごろ。頃日。(Kotobank)
不嫺(ふかん): 嫺は文章に習熟していること。不嫺はその逆。(漢辞海)
(あん): しらべる。細かにみる。(漢辞海)
近藤台吉(こんどう・だいきち): 隣村中谷村、幕末の名主近藤直蔵の息子。(近藤君寿蔵碑 参照)不嫺は謙遜で、なかなかの撰文と揮毫である。


[碑陰白文]

八嶌翁墓表碑陰

祝松翁碑陰記
八島氏家卋農居于北總福木村然不能審其遠祖
所出至近卋遭天明凶歉家道頽廢眷属皆歿時有
兄弟二人纔得生存者兄曰某爲大徳小泉小左衛
門義子弟曰文藏文藏娶木颪駅青木政右二女生
男曰豊藏豊藏娶布佐鈴木儀兵二女生女二男一
長女曰能豫即為翁之配男曰某爲大房髙野源右
義子翁以無子養妻之妹津多配前新田渡邉三郎
右二子治郎兵以爲嗣治郎兵又以男某爲髙野嗣
者之二子爲義子即繁治也繁治聘布鎌髙塚佐兵
二女爲室曰停伊有子曰文藏翁臨終遺言於子與
孫録顛末于碑陰以傳後卋使無諼髙祖父文藏君
之艱也
□□□□□□□□□□□□□□□孫繁治書

[読み下し文]
祝松翁碑陰記
八島氏の家卋は農にして、北総福木村に居(すま)う。然れども其の遠祖の出ずる所を、審(つまび)らかにすること能わず。近卋に至り、天明の凶歉に遭う。家道頽廢し、眷属皆歿す。時に兄弟有り。二人纔(わず)かに生存し得る。兄を某と曰い、大徳(村)小泉小左衛門の義子と爲る。弟を文藏と曰う。文藏は木颪駅の青木政右(衛門)の二女を娶る。男生まれ豊藏と曰う。豊藏は布佐鈴木儀兵(衛)の二女を娶る。女二男一を生む。長女を能豫(のよ)と曰う。即ち翁の配と爲す。男を某と曰い、大房村髙野源右(衛門)の義子と爲る。翁は子無きを以て、養妻の妹津多(つた)の配、前新田の渡邉三郎右(衛門)二子治郎兵(衛)を以て嗣と爲す。治郎兵(衛)又以て男某、髙野の嗣たる者の二子を義子と爲す。即ち繁治也。繁治布鎌髙塚左兵(衛)二女を聘して室と爲す。停伊(てい)と曰う。子有り文藏と曰う。翁臨終に遺言を子に與え、孫顛末を録し碑陰を以て後卋に伝え諼無からしむ。髙祖父文藏君之艱なり。             孫繁治書

[語意]
家卋(かせい): 卋は世の異体字。代々続いてきた家柄。また、その家の代々の人。(Kotobank)
凶歉(きょうけん): 「歉」は穀物の実らない意。農作物が著しく不作であること。凶荒。(Kotobank)
眷属(けんぞく): 血筋のつながっている者。一族の者。身内の者。 親族。(Kotobank)
木颪(きおろし): 現在の千葉県印西市木下(きおろし)
(けん): わすれる。(漢字辞典)
髙祖父(こうそふ): 祖父母の祖父。(Kotobank)
(かん): なやみ。(漢辞海)


[八島家の系譜]

八島家━━┳ 某(兄:小泉家養子へ)
     ┃
     ┃          髙野家女
     ┃           ┃
     ┗ 文藏(弟)      ┣━━━━━━━━━━ 繁治(八島家へ)
       ┃         ┃            │
       ┃     ┏ 男(髙野家養子へ)       │
       ┃     ┃                │
       ┣━━━━━╋ 能餘(長女)          │
       ┃     ┃   ┃            ↓
     青木家二女   ┃   ┣━━ 治郎兵衛 ━━━ 繁治
             ┃   ┃ (渡邉家より) (髙野家より)
             ┃  八島翁    ↑      ┃
             ┃ (町田家)   │      ┣━ 文藏
             ┃         │      ┃
             ┗ 津多(妹)    │     停伊(髙塚家二女)
                 ┃     │
                 ┣━━ 治郎兵衛(八島家へ)
                 ┃
              渡邉三郎右衛門

碑表・碑陰2つの碑文では、
養子の話が入り乱れていて
わけが分からなくなります。
左図にまとめてみました。

繁治は八島家と縁戚の
髙野源右衛門家から再び
八島家に養子にきました。
大正8年(1919)12月から、
昭和4年(1929)の5月まで
東文間村村長を務めた人。
祖父の遺言を聞いた父より
家系の顛末を記録する役を
受け継いだのでしょう。
その子の文藏から見ての
髙祖父が同名の文藏です。

針弟中碑

針弟中碑

これは探すのはたいへんと思いきや、ふと目をやったところに。
細い通路を挟んで八嶋翁墓表の向こう側にありました。

台石に「針弟中」とあります。
裁縫の弟子たちが師匠のために建てた石碑、これは初めてです。

しかし、残念ながら、この台石正面の文字以外は、
風化・欠損がひどく、ほとんど読めません。碑表には「」だけ読めるようですが・・・。

針弟中碑台石
針弟中碑左側面

左は左側面。『文化学芸碑』によれば、以下。

俊 明治二十八未年五月十八日
俗名 石塚□き 行年口口

師匠の名は石塚ときという。長い針の針尻を、掌で受けて縫うのを特技としたと伝えられている。明治二十八年五月六十三歳で没した。

下は台石左側面と右側面。右のほうが若干、読めそうですが、真正面から撮れません。

針弟中碑台石左側面 針弟中碑台石右側面

[台石左側面]

中谷 仝  田上 運平   岩戸 徳松
      岩戸 幸之助  飯田 伊左エ門
      田上 新吉   岩戸 市太郎
      山中 久作   山中 かく
      大谷 八兵衛  岩戸 宇兵エ
      海老原 峰吉  岩戸 要蔵
      山中 和平   石川 時治郎
      進藤 作左工門 川崎 弥兵エ
      濱屋 徳七   細谷 佐兵エ

[台石右側面]

福ノ木 世 石塚 琴治   斉藤 嘉吉  野口幸吉
      中川 茂吉   野口 茂市  福田浅治
    ハ 䂖田 勘右衛門 片岡 松五郎
      石塚 進四郎  山口 平兵エ
    人 山口 安太郎  白戸 忠吉
      平沢 濱吉   石塚 直七
      日渡 栄治郎
松崎    鵜沢 七郎兵エ
生板    秋山 龍太郎
古ヶ林   杉口 栗次
下井    古野 嘉市郎
布川    居原 孫左衛門


本体: 高105cm、幅36cm、厚35cm。台石: 高28cm、幅61cm、厚60cm。

共同墓地の無縁塚

共同墓地は廃寺となった真福寺跡地ですが、『利根町史』の真福寺の項には、「境内 無縁塚あり 石塔10余基」とあります。
これが気になって探すと、どうも、大師堂背後にある一角がそれらしい雰囲気で、全35基の石塔が集められています。
ここは当初、無縁仏の墓塔ばかりと勝手に解釈して、よく調べてはいませんでしたが、再訪問時に何気なくある1基に・・・。
「十九夜念佛」の銘文が目に入ってきました。えっ、こんなのも?と驚いていると、いままで見たこともない銘文の地蔵塔も。
あー、35基もタワシで擦ったりして調べなきゃならないの、と困惑しましたが、日を改めていちおうざっと見てみることに。

無縁塚入口 無縁塚

明らかに戒名などが中心に彫られているもの、風化・剥落等が激しく銘文が1文字も見えないものを省くと、
当初6基ほど、ここで紹介できるものとして発見(後日1基追加)。1基を除いて残りすべてが十九夜塔という驚きの結果。
以下、無縁塚入口から、半時計まわりに見て、最後に中央を見るというような順番で、紹介します。(追加1基は十六夜塔)

無縁塚入口右5基

左は無縁塚入口すぐの右手。大師堂の裏にあたります。
4基と中央奥に倒れた1基がありますが、
いずれも特筆するものではありません。

左から2基目がいかにも如意輪観音の月待塔に見えますが、
光背右上の銘文がどうも読み取れません。

背後に力石候補の石が何基か見えます。

無縁塚道路側7基

上から左折して、道路に沿った向こう正面の7基。
右から4番目の塔が最初に発見した十九夜塔。
再調査で、左端の塔も十九夜塔と判明しました。

この2基を以下、説明します。
なお、この項で紹介する十九夜塔は、すべて
半跏思惟型、1面2臂の如意輪観音を刻像したものです。
こんなに同様の十九夜塔が揃っているのはこの地区だけです。

十九夜塔1

十九夜塔1

光背右に「十九夜念佛爲二世安楽」とあります。

左には「寛文九年酉八月吉日」で、寛文9年(1669)8月造立と古いもの。
ほかに「施主十四人」と下に続きます。

本体: 高83cm、幅36cm、厚18cm。

十九夜塔2

十九夜塔2

光背上部から右に「奉供養十九夜」。

左はちょっと読みづらいですが「宝永七庚寅天 十月十九日」とあるようです。
宝永7年(1710)10月19日の造立。

本体: 高60cm、幅33cm、厚24cm。

無縁塚左手奥9基と手前5基

上記のコーナーを左に曲がると、
数多くの石塔が前後2列に並んでいます。

前列5基、後列9基。

このうち、特筆すべきなのは、右端の地蔵塔。
そして、後列右から3基目にまた十九夜塔。

この2基以外は、墓塔か、銘文が読めないものばかりです。
では、以下、2基の紹介。

日記念仏塔

日記念仏塔1

刻像されているのは、明らかな「地蔵菩薩」。
しかし、光背右上に「奉供養日記念佛」と、初めて見る意味不明の言葉。
「日記念仏」とはいったい?

この回答はあとにして、先に光背左の銘文から、
正徳五乙巳天十月十六日」とその下に「同行三十一人
徳の文字は妙な異体字ですが、正徳5年(1715)10月16日の造立です。

本体: 高96cm、幅45cm、厚30cm。

さて、日記念仏ですが、さすがにこれはネット検索では分かりません。
「その道」の研究家中上敬一氏も当初、以下のように述懐しています。

聞いたことがない「日記念仏」とはどういった内容の念仏か寺院に聞いてもわからず、さらに日記念仏に関する文献も見つからなかったため、日記念仏の内容は皆目見当も付かなかった(『宗教民族研究』日記念仏信仰 1993)

その後の研究や古文書発見等々を踏まえて、以下のようなことが解明されています。
また、野田市の石仏研究家、石田年子氏の解説も引用させていただきました。

日記念仏とは

慶長8年の桃山時代後期から明治17年までの281年間続いた民間念仏信仰。日記念仏塔は明治17年の塔が最新のもの(茨城県つくば市栗原)で、日記念仏そのものは千葉県利根川下流の沿岸地域の少数の念仏講によって現在も続いている。その目的は自己または父母の現世安穏息災と来世の極楽往生を願った逆修供養の一つ。日記念仏は、功徳日に、村の信者が念仏堂に集まり、礼拝本尊としてお日記掛け軸を掲げ、その前で日記念仏和讃を唱和して念仏勤行をしたもの。日記念仏塔は1993年当時、45基判明(現在はさらに増えている)。所在地のうちわけは千葉県24基、茨城県11基、埼玉県3基、東京都2基、静岡県2基、栃木県1基、群馬県1基の1都6県に分布。特に茨城、千葉両県を流れる利根川の下流沿岸地域に集中しているのが大きな特徴である(中上敬一氏)。石田年子氏によれば、湯殿山行人が時念仏・十九夜念仏と一緒に広めた念仏行のようで、関東では茨城県が発祥、下総に造塔は多い。月毎に供養する仏が替わるので、毎月集まる日が替わる。その指示書のようなものが「日記念仏和讃」で、下総で老婦人達が行っている念仏講の修行は「オニッキ」が多い。元は茨城なのに茨城県には日記念仏塔は初期しかないように思える。その意味では、利根町の塔は貴重である。

▲ ここで、ハタッと思い出したのが、根本寺コンテンツの 押戸共同墓地の地蔵菩薩塔 。あの十五夜塔の銘文に
「奉造立地藏講日記十五夜供養」があり、「地藏講日記」の意味がよく分からなかったのですが、これで氷解しました。
→ 根本寺の当該個所を修正・追記しました。ちなみに根本寺の塔は元禄13年(1700)年の造立です。

十九夜塔3

十九夜塔3

光背右上「奉造立十九夜念佛」でこれも十九夜塔です。

左に「寛文十庚戌天八月吉日 同行十五人」とあり、
寛文10年(1670)8月という古い造立。

右下の部分が読みづらかったのですが、「ふくのき村」とあるようです。

本体: 高76cm、幅37cm、厚24cm。

無縁塚左手前3基

上からもういちど左折すれば、1回転で、
これは無縁塚入口すぐ左手となり、3基並んでいます。

宝篋印塔が真ん中にありますが、当初、銘文をよく見ていませんでした。
後日、基礎の部分をタワシで擦ってみるとなんとか。
十六夜塔であることが分かりました。

入口すぐ左、この写真の左端の塔が、
4番目の十九夜塔。かなり大きめの塔です。

十六夜塔2

十六夜塔2

風化が厳しいので、文献(榎本正三『女人哀歓―利根川べりの女人信仰』)より。
基礎部分中央に「拾六夜念佛供養成就所」。
その下部左右に「結集男女 三十人敬白」とあるようです。
それらを挟んで左右に「寛文九 酉□□」、つまり寛文9年(1669)と古い造立。

本体: 高162cm、幅49cm、厚44cm。(16/07/20 追記)

十六夜塔2基礎部拡大

十九夜塔4

十九夜塔4

右上「拾九夜念佛供養」、「爲二世安楽也」はいいのですが、
左上「于時延宝五天 十月吉日」がちょっと読みづらいです。
延宝5年(1677)10月の造立。
ほかに「同行卅八人敬白」の文字が見えます。
同行38人はちょっと多いと思いましたが、八ではなくハで、世話人の可能性も。
同行世話人という文言は見かけたことがないのですが、敬白に続く言葉かも。
これはもういちど再確認してこようと思います。
(→ 確認しましたがやはり前記通りか?同行世話人という文言はなさそうです)

本体: 高89cm、幅46cm、厚30cm。

無縁塚中央7基

1回転しましたが、中央にある7基はまだですね。

もういちど入口から前に進み左手を見たのがこの写真。
前列右から2基目が最後の5番目の十九夜塔です。

十九夜塔5

十九夜塔5

これは銘文がわりとシャープに見えます。
右上から「拾九夜念佛供養」と「敬白」。

左に「于時貞享元天甲子 十月吉日」に続いて「同行十七人」。
貞享元年(1684)10月の造立です。

本体: 高60cm、幅34cm、厚23cm。

▼ しかし、時代は若干異なりますが、1600年代後半から1700年初めまで、
比較的古い時代の十九夜塔が、同じ半跏思惟如意輪観音の刻像塔として5基も。
この場所は、スルーしようと、当初思っていたのですが、調べてよかったと思います。
また、「日記念仏塔」という珍しい塔の発見も収穫でした。

▼ また数多くの「古い十九夜塔」に対して、北の福木宿坪集会場では、
如意輪観音から変化したと言われる「江戸後期以降の子安観音塔」が4基もあります。
これは、偶然というにはあまりにも極端な分布の違いに思われます。
この意味は、福木南北で異なった信仰形態があったのかと思わせるほどです。


神木?

ケヤキの大樹 イチョウ

稲荷神社の境内というより、
集会場前とか、共同墓地内になりますので、
「神木」というのはふさわしくないかも。

公孫樹のほうはともかく、
無縁塚入口番人のケヤキの幹は、
ちょっと威圧感があります。

でも、利根タブノキ会のデータには
いずれも掲載されてはいませんね。

力石?

これも疑問符が付くタイトル。まあご参考まで、という紹介です。
銘文はいっさいナシですし、大きさを計測しようにも、地中に埋まっているものがほとんどなのでなんとも。
掘り返して銘文を調べ、正確なサイズを計測・・・費用(体力)対効果が限りなくゼロに近い、むしろマイナスの作業です。
稲荷神社入口に近いほうから順に奥へと以下、紹介していきます。
ひとつ調べてみよう、という有志は、ぜひ結果を教えてください。

力石1・2

手水の右手の2基。奥から。

本体: 高15cm、幅26cm、厚34cm。高15cm、幅42cm、厚40cm。

力石3・4

上記の少し左の2基。

本体: 高18cm、幅32cm、厚29cm。本体: 高(地中)、幅46cm、厚36cm。

力石5

さらに奥。

本体: 高(地中)、幅30cm、厚33cm。

力石6

水道栓のある場所の右、石材が積まれたところの左。

本体: 高18cm、幅32cm、厚29cm。

力石7・8・9・10

集会場前、地蔵菩薩塔延命地蔵塔 との間に4基。

左から本体: 高20cm、幅37cm、厚34cm。本体: 高(地中)、幅30cm、厚30cm。
本体: 高(地中)、幅50cm、厚36cm。本体: 高(地中)、幅35cm、厚38cm。

力石11・12

本殿の裏を見てみると、いくつか。左手に4基ありますが、真ん中2基は小さ目なので省略。

左本体: 高15cm、幅34cm、厚28cm。右本体: 高23cm、幅37cm、厚25cm。

力石13・14

本殿裏、右手の2基。

左本体: 高(地中)、幅43cm、厚33cm。右本体: 高20cm、幅44cm、厚22cm。

力石15

無縁塚内部、入口左手、大師堂の裏手に1基。3基ほど見えますが、中央のものだけを記録。

本体: 高20cm、幅41cm、厚37cm。

路傍の石祠

路傍の石祠

さて、ここ南の福木沖坪集会所へは、
東の 無量寺 方面から戻るようにして辿ってきたのですが、
来る途中、道路の脇にポツンと建っている石祠を見かけました。

下がきれいにコンクリートで整地されています。
どこかにあったものを移したのでしょうか。
道祖神のケースが多いのですが、文字は見えないし・・・。
近隣民家の氏神様かも知れません。


(16/07/20 追記) (16/07/09 追記再構成) (13/11/23・11/02/24 追記) (11/02/22 追記再構成) (06/05/27) (撮影 16/07/17・16/07/07・16/07/04・15/08/23・13/11/17・11/02/23・11/02/16・06/05/05・05/08/13・05/08/09)


本コンテンツの石造物データ → 福木集会所南周辺石造物一覧.xlxs (19KB)