タヌポンの利根ぽんぽ行 東奥山新田とその東

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更新経過

2013年より石造物データをページ末に掲載するためコンテンツ見直しを。
ただし、利根町という限定で行っているので、このページでは、
東奥山新田水神宮に限っての再調査です。

石造物のサイズ等と若干の追記、写真差し替えを行ないました。(16/06/02)


細かいところは別として、サイト開設以来ちょうど1年ほどで、
利根町の主な地域をひととおりは見てきました(コンテンツは未完成です)。
そして、最後に訪れたのがこの東奥山新田。
詳細な地図がないときには、その存在も不確かで、
また別に北に「奥山」という地域もあるので、なかなかたどり着けない場所でもありました。

経度的には利根町最東部は 加納新田の瑞雲寺跡近辺 になりますが、
感覚的にはこの東奥山新田が利根町のいちばん東という感じがします。

そこで見つけた「水神宮」のすぐ隣には「河内町」の標識があります。
ところが、河内町に少し入ると、近隣にいくつかの見所がありました。
ここではその一部も「その東」として紹介します。(05/09/03)


利根町最東部マップ

東奥山新田は、マップの右下(東南)に位置しています。

利根町最東部マップ

東奥山新田の由緒(もとは宇右衛門新田・奥山新田)

奥山新田東西訳願(吉浜家文書)

この地区が東奥山新田と呼称されるようになったのは
明治12年(1879)からです。
もともとは、江戸時代、この地域の開田権を
一手に引き受けた名主、坂本宇右衛門の名を取り
宇右衛門新田 と呼ばれていました。

後に奥山村の村政が新井清兵衛に移ったころから、
奥山新田 に改称されました。

ところが、同じ北相馬郡の中に同名の村※1がほかにもあり、
明治維新後、郵便業務等に不都合が生じてきました。
そこで、明治9年(1876)茨城県権令※2 の中山信安に
奥山新田東西訳願※3 を提出、同12年に認可され、
東奥山新田 と改称、現在に至っています。

※1 現在の守谷町
※2 ごんれい。県令に次ぐ県の地方長官。明治4年(1871)、権知事を改称して置かれ、同11年に廃止(kotobankより)
※3 右図が「奥山新田東西訳願」(『吉浜家文書』)

上記は、『広報とね』第209号より。(13/06/26 追記)

東奥山新田の水神宮

すぐ隣りは河内町

すぐ隣りが稲敷郡河内町、そして、目の前が、利根川。そんな位置に建っているのが東奥山新田の水神宮です。

すぐ隣りは河内町 すぐ後ろは利根川
水神宮

鳥居の手前は利根川沿いの道路で、
北向きに撮った写真です。

ここへは利根川沿いの道路を
西から訪ねたのではなく、
写真の左後方へと続く細道の先から
辿ってやってきました。
その先には、加納新田の 瑞雲寺霊園茅沼、安兵衛沼 があります。

このコーナーを見つけたときは、
ようやく利根町全域の主なポイントを
制覇したかなという実感がしました。

中山鳥居

水神宮神額

鳥居は御影石製で、反り増しがありますので明神鳥居系ですが、
貫が柱までですから「中山鳥居」という種類のようです。
狸の巻物・鳥居の見分け方参照

左右の柱に「奉獻」とあります。

左は神額。そうとう年代を経たもののように見えますが、
建立年等は不明です。

鳥居本体: 高222cm。神額本体: 高65cm、幅33cm、厚11cm。

拝殿

拝殿

東奥山新田の水神宮の祭神は、
水波能女命(みずはのめのみこと)で、
これは ほかの地域の水神宮 と当然、共通ですね。

木造・瓦葺で、由緒は不詳ですが、
昭和58年(1983)に、
改築されているようです。
これは、本殿内の奥の棟札にも
「昭和58年1月建立」とあり、
一致しました。

棟札

本殿

本殿内部

拝殿と本殿が一緒に
なったような鞘堂ですが、
扉は施錠されていないので
開いてみました。

すると、左の写真のように神棚が2つ。
右のは、どうも稲荷神社のように
見えますがどうなのでしょうか。

東奥山新田の水神宮には、神像
祀られていると町史にありましたが、
この神棚の中にあるとは思えません。
どこか別のところに大切に
保管されているのだと思います。

↑上記のように当初記しましたが、
コンテンツ再編成時に
再訪問してみると。↓

神像

神像

これはまさしく町史に掲載されている神像ですね。

注連縄を上に上げて片手でシャッターを切りました。
ちょっとピンが甘いです。
これが、水波能女命(みずはのめのみこと)というわけですね。
極彩色でなかなかきれいです。
背後の金色の輪は、光背なのでしょうか。
神道の神というより、仏像のような印象もあります。

これが、押戸の大仏師 杉山林哲 の作像であることが、
分かりました。(13/06/25 追記)

鈴

拝殿内部に紐がさがっているので、見上げると鈴でした。
内部にある以上、お参りするときは、
みな扉を開けないとできないわけですね。

外の庇の下とかには下げられなかったのでしょうか。
適当な場所がなかったのかも知れません。

手水

手水

拝殿に向かって右手に古い手水があります。

右側面(写真左下)には、「願主 蝸t治兵衛

左側面(写真右下)には、「安政二夘年正月吉日」、
つまり、安政2年(1855)正月の造立。

本体: 高18cm、幅68cm、厚29cm。

手水右側面 手水左側面

石階

石階

拝殿のある敷地は、石階(いしばし)で、
わずかながら段差をつけてあります。

この石階には、建立日等は刻銘されていないようです。

石碑と石塔

石碑と石塔

石階の手前左に、2基の石碑が並んで建っています。

このうち、右の石塔は、風化が激しく、
前後左右どこを見ても、文字等まったく読めません。

『利根町史』に、二十三夜塔 文政7年(1824)外2基とありますが
他の石仏はあきらかに二十三夜塔ではないので、
可能性としては、これが二十三夜塔とも想定できます。
しかし、町史編纂時期にこの塔の造立年等が読み取れたとは
ちょっと思えないのですが・・・。
とすれば、二十三夜塔はどこに消え、また、
この塔はいつ、どこから、ここに設置されたのか?

稲相月参講三十年紀念碑

稲相月参講三十年紀念碑 稲相月参講三十年紀念碑碑陰

上の右の塔は不明ですが、左の石碑は、
碑表に「稲相月参講 三十年紀念碑
碑陰に「昭和拾壹年拾貮月」が読めます。

さて、記念碑名冒頭の「稲相」ですが、
これはどういう意味でしょう。
当初は、稲作に関係ある?などと・・・。
どうも「稲敷郡+相馬郡」の省略形のようです。
地元地名を熟知してないと分かりませんね。

昭和11年(1936)12月の造立ですが、
稲相月参講三十年紀念の意味を知るには、
碑陰の漢文を解読する必要があります。

明治40年に巡拝講を開始しているようで、
ちょうど30年目に当たるわけですね。

本体: 高119cm、幅62cm、厚10cm。

稲相月参講三十年紀念碑碑陰上部

[碑陰上部]

稲相月参講者始明治四拾
年春故坂本徳次氏爲講元
奉佛篤信諸氏結社而毎歳
巡拜相馬新四國靈場捧信
仰之誠矣由来星霜三十年
此間靈顕加護彌顕著講中
数亦従如仍茲建設紀念碑
紀念本願成就佛徳頌顕併
而記坂本氏之功績焉
 昭和拾壹年拾貮月

以下、左の要旨

稲相月参講は、明治40年(1907)の春から、故坂本徳次氏を中心に始められ、毎年相馬の新四国霊場を巡拝、以来30年の星霜を経て、この間霊験あらたかなるを感謝すると同時に、故坂本氏の功績を称えて、ここに記念の碑を建立する


稲相月参講三十年紀念碑碑陰下部

▼ 碑文中の「相馬の新四国霊場」は通常は取手の長禅寺中心の霊場巡りを指していることが多いようです。
ところが、稲敷郡にはその札所がありません。従って、
この碑文での新四国は四郡大師のことと思われます。

▼ 『利根町の文化学芸碑』で芦原修二氏は協賛者に
取手の大師宿や我孫子旅館が含まれているので、
2霊場の合同講ではないか、と推定されています。

▼ が、取手長禅寺関連はこの2者だけです。
これらは、ビジネス上での協賛者であり、
講は四郡大師単独のものとタヌポンは推定します。

▼ なお、石工の「大塚兼吉」は、
利根町の多くの石碑を手がけている「大塚岩吉」の
子息か弟子ではないかと推定します。

[碑陰下部]

講元
金五円   坂本 一郎  金五円  世 坂巻熊太郎
 仝  世 石嶋惣右衛門  仝   話 根本 熊三
 仝    花沢房治郎   仝   人 川瀬 三二
 仝  話 荒井栄次郎   仝     林田喜三郎
 仝    高橋亀之助   仝加納新田 森田 亀吉
 仝  人 大野倉次郎   仝   世 細村高之助
 仝    柳葉安太郎   仝   話 森川 守治
 仝    伊藤亀之助   仝   人 桜井 忠助
 仝竜町歩 川村千代吉  金一円
 仝  世 仝  幸吉   仝     堀越彦太郎
 仝  話 村野 興平   仝   世 山中 源吉
 仝  人 町田武治郎   仝   話 佐藤 惣吉
 仝丸田  茨城 利作   仝   人 石橋仁三郎
金一円   石橋 薫次  金一円 中谷 飯塚 一郎
 仝惣新田 古山吉五郎  金三円我孫子旅館 鈴木屋
 仝    勝村 堅作  金二円取手    新町屋
 仝  世 井原惣治郎 羽中世話人   金子 春吉
 仝  話 青木 泰助  源清田    小山 仙助
 仝  人 杉山熊治郎 一同一円前口  女人一同
 仝    田中伊之吉  撰文筆者   我蛭 英一
 仝藤蔵川岸有志 牧山 伝吉
 仝    茨城 喜八   石工    大塚 兼吉


二十三夜塔

二十三夜塔

『利根町史』に二十三夜塔云々と記されていたからといって、
これがそうだとは断定できないほどの風化・剥落状態ですが・・・、
それでも「我田引水」「誘導尋問」的にじっと見ていると、
「二拾□夜塔」に見えないでもない・・・などと。

文政七年まではさすがに読めませんが、その代わり、
左上に「六月吉日」が読めるとは皮肉です。
『利根町史』には月日は記されていないので。

まあ、これは、暫定、ということで。

本体: 高58cm、幅29cm、厚19cm。

大日如来塔

大日如来塔

さて、入口にもどって、鳥居に向かって右側、
道路脇に「大日如来塔」が建っています。

中央に、「大日如來」。
下左右に「光明真言百萬」と「念佛百萬」、
その下に、なぜか「願主」だけ。

塔下部が少し土中に埋まっています。最初は、「願」しか見えませんでした。
少し掘り起こしましたが、願主の人名は彫られていないようです。
えっ、もっと下?そんなに勝手に掘れませんよ。でも、気になるなあ。

いちばん右に「文化八辛未四月十五日
文化8年(1811)4月15日造立です。これも「五日」が隠れていました。

大日如来とは、宇宙の根源とされている仏で、
悟りの境地に達し真の仏となった者のことを言います。
これに対し、観音菩薩や地蔵菩薩などは
如来になる前段階の修行者という意味になるようです。

本体: 高70cm、幅34cm、厚20cm。

大師46番

ここにも四郡大師が祀られています。番号札が年季が入っていて、再訪問のときは見逃しそうになりました。

大師46番 大師46番札

いつも思うことですが、堂のなかに2体以上の像が安置されている場合、それぞれ何か意味があるのでしょうか。
四郡大師を統括されている? 徳満寺 のご住職にいつかお尋ねしてみたいところですが、あっと、ここは3体?

大師像 額

右上写真は、堂の上部の額ですが、以前はここに御詠歌か何か記されていたものと思われます。もし御詠歌なら、以下。

四国八十八ヵ所第46番札所 医王山・浄瑠璃寺: 極楽の 浄瑠璃世界 たくらえば 受くる苦楽は 報いならまし

再訪問時、左の大師像の台石に文字が刻まれているのに気が付きました。
ざぶとんが像の重みで持ち上がり、片手でざぶとんを押えながら・・・なかなかうまく撮れないのが難点です。
台石正面は戒名「淨栄禅壽光貞仁信士」「□顔貞光信女」。左側面「文化十一戌十二月四日 桺葉治右エ門
文化11年(1814)は四郡大師発祥以前です。12月4日が命日ということでしょう。

左本体: 高41cm、幅36cm、厚21cm。台石: 高8cm、幅36cm、厚21cm。右本体: 高33cm、幅25cm、厚17cm。

左大師像台石 左大師像台石左側面

さて、まだ日は高いので、東奥山新田のさらにその東、河内町のほうをちょっと覗いてみましょう。
利根川沿いの道をほんの少し行ってみるだけです。

河内町藤蔵地区

不明の神社鳥居

不明の鳥居

50ccの原付バイクで、そうですね、
ものの何十秒も走らないところに、
「あれれっ、木陰に何かあるぞ」。

驚きました。注意して見ていかないと
見逃してしまいますね。

それにしても薮蚊が多そうなところ。
防虫スプレーをかけてから・・・。

樹木に隠れてよく見えませんが
裏からみると意外と
しっかりした造りの明神鳥居です。

鳥居・裏から

神社本殿

本殿

本殿上部の紺色が不気味に鮮やか。
何神社なのでしょうか。
本殿内の眷属像をみると
キツネのようですから稲荷神社?

しかし、内部の様子も
何か古びていて、これもどことなく
不気味さを感じますね。

本殿内

手水2

手水

手水も、年代物のようですし、背後の樹も老木のような・・・。
神さぶるというか、何ともいえない雰囲気です。

いつか河内町の史料本も調べなくてはなりませんね。

さて、もう少し・・・・・ととととと、ほんとにもう少し、わずか数秒で、またしてもポイント発見!

金毘羅常夜燈

金毘羅常夜燈

左に、河内町教育委員会が
設置した立札があります。
これを読むといろいろ分かります。
(画像クリックすると読めます)

まず、この地が、河内町の
生板鍋子新田藤蔵河岸
(まないたなべこしんでんとうぞうがし)
という地名であることが分かります。

藤蔵が「ふじくら」ではなく
「とうぞう」と読むことも意外でしたが、
面白いと思ったのは「生板」です。
「なまいた」ではなく「まないた」とは!

これは「しだらない」が「だらしない」、「あらたしい」が「あたらしい」のように逆転してしまった言葉なのでしょうか。
ちなみに「新しい」は現在でも副詞は「あたらに」とは言わずに「あらたに」と言いますが、それが昔の名残なのですね。

そして、河岸。
ここは明治29年(1897)の常磐線の開通以前は江戸時代の 高瀬舟、そして蒸気船の往来の要衝地であったわけです。

常夜燈はその船の往来のためのもの。金毘羅大権現は航海安全の神様なのですね。
燈籠の竿の部分に象頭山という文字が彫られています。こんぴらふねふねの歌で有名な四国金毘羅宮の山ですね。

藤蔵集会所

藤蔵集会所

さて、金毘羅常夜燈からさらに東に少し進み、
左折してしばらく行くと、藤蔵集会所があります。

ここで、なんと四郡大師を見つけました。利根町以外の大師です。

利根町以外では、他に 龍ケ崎豊田町根柄の大師
同じく龍ケ崎豊田町の 大師11番 を紹介しています。
(もっと他にも見付けているのですがまだ掲載していません)

藤蔵の大師

これは残念ながら番号札はありませんでした。ここでは、大師像2体が安置されています。

大師 大師像

大師脇の石仏など

大師の隣に2基、手前に5基ほど、仏教関連と庚申塔などが建っています。銘文の読めるものをいくつか紹介します。

読誦塔

読誦塔

「奉読誦普門品」「壹千部般若心経五二巻供養塔之碑」とあります。
多くの仏教の経典を読誦した記念の供養塔と思われます。

巡拝塔

巡拝塔

「奉納西国秩父坂東新四国百八拾八所」
「文化□□年」「四月吉祥日」等が読めます。
西国・秩父・坂東の100ヵ所の霊場に加えて、
四国88ヵ所の霊場も巡拝した記念の塔のようです。

庚申塔など

大師脇の庚申塔など

樹木の陰も含めて4基ほど並んでいます。
青面金剛と記された庚申塔の文字塔が左に2基。
右も庚申塔と思われますが、馬頭観音塔の可能性もあります。

道祖神

道祖神様 道祖神様

藤蔵集会所から北に上ると見晴らしの良い交差点に出ますが、そのコーナーに比較的新しい道祖神が祀られています。

平成12年(2000)11月吉日で、「藤蔵集落大師様世話人一同」の名で再建記念碑も建てられています。

以上、東奥山新田のさらに東、河内町生板鍋子新田藤蔵地域のポイントを少しだけ紹介しました。


(16/06/02・13/06/25 追記) (12/08/02 追記再編成) (05/09/03)
(16/05/29・12/07/23・09/04/02・05/08/26・05/08/21 撮影)


本コンテンツ(河内町藤蔵地区を除く)の石造物データ → 東奥山新田石造物一覧.xlxs (12KB)