タヌポンの利根ぽんぽ行 加納新田1

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目  次


更新経過

石造物データをページ末に掲載するため 各コンテンツの見直しをしました。
加納新田1では、石造物全体の再調査で、従来記述の誤謬等を正し、
サイズ測定、銘文解読等を行ないました。(16/06/12)


当初のコンテンツを見直し、7年ぶりに大幅な追記再編成をしましたが、
その過程で、若草大橋料金所の東に新しいポイントを発見しました。
この1では、立崎の信号から中坪の集会所までのポイントを紹介します。(12/07/19)


利根町の最東部、加納新田。新田というくらいですから水田が多いのですが、
ここへの入口は東西に走る県道、取手東線。かなり頻繁なクルマの往来があります。

加納新田の奥に向かう県道左手の水田等は惣新田管轄になりますので、
加納新田自身の「田畑」は県道南側に立ち並ぶ民家の裏側になります。

クルマの騒音もあってか垣根を高くした、立派なお屋敷のような家が並んでいます。
そんな民家の間にひっそりとまるで隠れているかのような鳥居も見つかりました。(05/08/29)


利根町最東部マップ

利根町最東部マップ

加納新田と「ねねこ河童」

加納新田は、寛文期(1661〜1672)に美濃国岐阜町出身の加納久右衛門によって開発されました。
現在もその子孫の一族の方が住んでおられます。

ねねこ河童
この加納家に「ねねこ河童」という珍しい女河童像が保存されているそうです。
彼女は関八州の河童の総元締として多くの河童たちの上に君臨していました。
利根川流域を転々と歩き回り、女だてらに暴れ者として悪名も高かったといいます。
それでも、何か悟るところがあって、ある日きっぱりと悪事から足を洗ったといいます。
(『利根町史』日本の伝説3、および高塚馨著『利根町の昔ばなし』より)
上記の物語は、TBSの「まんが日本昔ばなし」でも放映されました。
←左カッパ像は加納家蔵『利根町史』より転載/右は赤松宗旦著『利根川図志』より→
ねねこ河童

加納家の「ねねこ河童」像はすでに紛失されたという話を聞きました。また、多くの問い合わせや物見客で、
加納家はたいへんな迷惑をこうむったとのことです。まあ、これは「ファンタジー」としてとらえたほうがいいでしょう。
本件に関する加納家への問い合わせ等は、ご遠慮くださいますよう、タヌポンからもお願いいたします。

ところが、上記の利根町の河童とはまったく関係ありませんが、実は以前に、ある実直そうな人から、
「タヌポンさん、河童というのはホントにいるんですよ」と真顔で言われました。
しかも、現実にいまも生きている河童がいる、というのです。タヌポンは、自分が実際に見ないとまあ信じませんが・・・。

見当たらない稲荷神社

立崎の信号から県道取手東線を東にしばらく行ったところ。地図上では確かにこの辺りのハズなのですが見当たりません。
加納新田上坪梶ヶ山の地名で、加納新田を切り開いた加納久右衛門家の氏神だったと『利根町史』には記されています。
樹木が繁った塚のようなところがあやしいのですが、撤去したかどこかへ遷したのかも知れません。
樹木の間にはとても入れそうもありません。周囲も見回しました。これ以上は、ちょっと諦めるしかありませんね。

郷土資料館の方にこのことをお話ししたことがあります。それから何年か経って別件で、再訪問したときに・・・。
「あの稲荷神社はやはり撤去されたらしい」と聞きました。タヌポンとその質問を覚えていてくださったようです。
こちらはすっかり訊ねたことを忘れていたのですが・・・。ありがとうございました。ということで、神社はもう存在していません。

見当たらない稲荷神社 見当たらない稲荷神社

利根東部農村集落センター

利根東部農村集落センター

上坪バス停を過ぎて加納新田バス停にくると
右手が開けた場所に着きます。
この辺りまでも小字名でいえば「上坪」になるようです。
ここには比較的新しく見える集落センターが建っています。

その真向かいには少し離れて集会所(?)が建っているのですが
センターに比べるととても小さなものです。

2度目かの訪問時(2005年)に、このセンターで
自治会系統のお仕事をされているS氏に、
いろいろ加納新田の由緒などについて教えていただきました。
その節はありがとうございました。

ほ場整備事業記念碑

ほ場整備事業記念碑 ほ場整備事業記念碑拡大
ほ場整備事業記念碑・碑陰

センターの正面、広場の中央におおきな記念碑が建っています。
元竹内藤男茨城県知事書の「美田豊穣」というタイトルで
この地域一帯の圃場(ほじょう)整備事情を記念したものです。

余談: それにしても文部科学省はなぜ「圃場」を
間の抜けた「ほ場」などと書かせるようにしたのでしょう。
いつもながらのより分かりにくくする「簡明さ追求の愚行」。
タヌポンはこのような文化の低俗化には賛成できません。
こんな中途半端な熟語を残すのなら、耕地とか、
いっそ cultivated land としたほうがいいでしょう。
お歴々の名前はクリック拡大参照。

本体: 高175cm、幅263cm、厚32cm。

大師堂と石仏5基

大師堂と石仏5基

小さな集会所らしき建物の左には、
大師堂と5基の石仏が並んでいます。

この大師には調べてみましたが
番号札が付いていません。
センターのS氏に聞いても
分からないということでした。

番号のない大師堂は
ほかにもたくさんあります。
番号が本来あるのにたまたま札が
付いていないのかも知れません。
正確なことは、いつか 徳満寺
ご住職に聞いてみたいところです。

ところが、この大師堂の中を
調べてみると・・・。

大師33番

堂の中は3つに仕切られていて、それぞれ次の下の写真のように3体の大師像が安置されています。
ところが、その中のひとつの大師像の台石に「第丗三番」と彫られているのです。
これはいったいどういう意味でしょう?文字通りなのか、それともどこかからの借り物なのか、未公認仮設定なのか?
ちなみに現在(2016年春)までにタヌポンが利根町全域で調べた大師堂で、33番札所はまだ見つかっていません。

→ 2016年再調査で偶然、お会いした近隣の方に聞くと、「ああ、ここは33番だよ」ということでした。

大師堂 大師33番

台石に番号が記されているのはいちばん左。ほかの2基にはなにも刻まれてはいません。

大師像左 大師堂中央 大師堂右

大師左本体: 高36cm、幅27cm、厚19cm。大師中: 高33cm、幅26cm、厚16cm。大師右: 高31cm、幅21cm、厚13cm。

石仏5基

石仏5基

いちばん右にひときわ大きい石仏。
台石だけがやけに大きいだけかも?

ところが、これだけが、観音塔としか、
タイトルが付けられません。

ともあれ、左から順に見てみましょう。

十九夜塔1

十九夜塔1

光背右に「十九夜女人講中」とありますので十九夜塔です。
如意輪観音の刻像塔ですが、赤子を抱いています。
光背左には「享和元酉九月吉日」が見えます。
享和元年(1801)9月の造立で、この時期としては、
すでに如意輪観音から子安観音への変化が見られるようです。

十九夜塔は、一般には半跏思惟型の如意輪観音が多いのですが、
それが次第に江戸後期には子安観音に変化していくとともに、
月待から安産を願うものへの信仰が高まるという研究結果もあるようです。
そうなると、この銘文の「十九夜」女人講の名も次第に消滅していくのでしょうか。

台石部分に「賀納上組」とあります。
賀=加であり、現在の加納下坪地区に該当しているようです。

本体: 高62cm、幅29cm、厚18cm。

十九夜塔2

十九夜塔2

これもよく見かける半跏思惟型の如意輪観音の刻像塔です。
銘文は「奉造立十九夜講中」で、十九夜塔。

光背左上から、「宝暦六丙子九月吉日
宝暦6年(1756)9月の造立。

本体: 高73cm、幅31cm、厚18cm。

子安観音塔1

子安観音塔1

赤子を抱いている像容なので子安観音塔と言えますが、
風化・剥落がひどくて、造立年代が分かりません。
光背右下に「四月吉日」だけ読めますが、上は剥落しています。

また左上も欠損で、「女人講中十一人」は読めますが、
その上に「十九夜」等が付くのかどうかは不明です。
「十九夜」等が付けば、「十九夜塔」と呼ぶのですが・・・。

台石部分に「加納上組」とあります。

本体: 高66cm、幅31cm、厚20cm。

廻国塔

廻国塔 廻国塔右側面

中央に「大乘妙典六十六部供養塔」。
これは、一般に「廻国塔」と呼ばれるもので、
仏教の経典を日本66ヵ国の霊場に納める
巡礼を行った記念に建てられるものです。
六十六部とは、六部と省略されることもあり、
廻国修行者の意味があります。

左右に「宝暦二壬申歳九月吉祥日
宝暦2年(1752)9月の造立です。

右側面「願主 田中七右衛門」とあります。

本体: 高69cm、幅29cm、厚15cm。

子安観音塔2

左から、正面、右側面、左側面。像容はこれも赤子を抱いた子安観音塔ですが、表面にはなにも銘文が見えません。
右側面は「明治十四年十一月吉日」で明治14年(1881)10月と近年の造立。

左側面は「加納上組女人講中」とありますが、一番下の大きな台石には「萬人講」とあります。
どうも、この大きな台石は、子安観音塔とは別次元のものではないかと思います。本体: 高64cm、幅26cm、厚18cm。

子安観音塔 子安観音塔右側面 子安観音塔左側面

この地区にある石仏は、廻国塔が1基ありますが、それ以外の4基には、みな女性の意思が強く感じられます。
研究書等には、単純に「安産祈願」と記されている場合が多いですが、水子供養や、飢饉などで早世したわが子への思い、
あるいは疾病等々もっと悲惨な事例、そのようなことすべてに関して祈りを捧げたものではないかと思います。

以上が加納新田の入口、小字名で言えば「上坪」にあたる地域のポイントです。次はさらに東に「中坪」地区へ向かいます。

稲荷大神

集落センターから県道をさらに東へ。加納新田東のバス停を越え、次のバス停に着く直前のところ。
当初のコンテンツUP後に、加納新田東・バス停のすぐ先に若草大橋へ向かう広い右折道路ができました。
この見通しがよくなった交差点をさらに直進、東に向かいます。すると右手に、一瞬、真っ赤な鳥居がチラッと見えます。
それが、稲荷大神(いなりおおかみ)。よく見ないと見逃します。でもクルマの往来が激しいので脇見運転に、ご注意!

稲荷大神 稲荷大神

台輪鳥居

台輪鳥居

これです。
稲荷大神(いなりおおかみ)。
キツネと狼をあわせたような名前、
と不謹慎なことを言ってしまいました。
大神は「たいしん」とは
読まないようですね。

鳥居の全容を撮りたいのですが、
これがせいいっぱいなのです。
鳥居の真正面は幅が
わずか1m強ほどしかありません。

反り増しが鋭角の明神鳥居系ですが、
台輪があるので台輪鳥居と言います。
鳥居の見分け方 参照)
朱塗り鉄製です。

注連縄がはられ奥に本殿が見えます。

鳥居背面全景

鳥居の全容をお見せするには、
こうして裏から撮影したものでないと・・・。

前が狭いのが分かりますよね。右手が入口です。
下は、神額のUP。

神額

下写真は左から、鳥居右柱の裏側と左柱の背面。「加納中坪一同」「平成3年(1991)3月建立」が記されています。

鳥居右柱背面 鳥居左柱背面

本殿

これが、本殿。見た感じは大師堂とそっくりですね。以前は朱塗りではなかったのですが、2016年にはこの通り。
祭神は、宇迦之御魂神(倉稲魂命=うかのみたまのみこと)。これについては 惣新田の稲荷神社 で説明しました。

本殿

さて、ここでひとつタヌポンは?を感じました。それは・・・以下。

開かない扉

下の写真をよく見てください。本殿の扉が半開きになっています。
が、それ以上、開かないのです。
上部のヨコの桟が邪魔をしているのです。

それとも、盗難除けか何かの理由で、
これは本来、あえてこうした造りにするものなのでしょうか?

でも、これでは中の掃除もできないじゃあないですか。
どこか別の秘密の扉があるとか?どうも腑に落ちません。

そもそも、本殿石祠をどうやって中に安置したのか?
地下鉄はどうやって列車を入れたかと同様のミステリーですね。

稲荷大神本殿扉

本殿石祠

稲荷大神本殿石祠

中の祭神、石祠です。「稲荷大神」と彫られています。

しかし、もう少しきちんと片付けられないものでしょうか。
それともほんとうに扉が開けられなくて
動かそうにもそうできないのでは?

タヌポンとしては、石祠の計測や、両サイドを見て、
造立時期など調べられるとありがたいわけなのですが、
扉が開けられないのではなんとも・・・。

また通りかかることがあれば、
こんどは本殿裏に隠し扉がないかどうか調べてみます。

本体: 高39cm、幅28cm、厚23cm。(推定)

→ 後日、確認。どうも左右と裏、あるいは底も見てみましたが、隠し扉はないようです。では、あの開かない扉はなぜ?

神木?喪失

神木?

本殿右隣には、以前はこんな大樹が。
ご神木かどうかは分かりませんが。

ところが、8年ぶりに訪れたら、
右下写真のように伐採されていました。

利根タブノキ会のお話では、この樹もタブノキだそうです。
伐採されたということは神木ではないのかも?ということですが、
伐採の理由は・・・落雷か何かで焼失したのでしょうか?
形のいい樹だったのに残念ですね。

神木? 神木伐採後

ミニ手水?

ミニ手水? ミニ手水右側面

本殿の足元にこんなものを見つけました。表面に「奉納 稲荷神社」、右側面に「根本喜兵衛」の銘。

何かに似ていると思ったら手水の形。片手を入れるだけで精一杯の大きさです。手水ではないですよねえ。では、何?
・・・・もしかしてキツネ専用の手水(笑)。・・・・線香立て、というところでしょうか?本体: 高16cm、幅21cm、厚12cm。

中坪集会所近辺

北隣りは河内町

北隣りは河内町

加納のバス停と中坪集会所付近は、
南側(左写真右側)は加納新田の町が
さらに東に続いていますが、北側は
すぐ隣りが稲敷郡河内町となります。

この北側手前には大師堂などがあり、
その真向かいの南の民家の庭内には
大きな石碑などが見えます。

北側集会所脇の大師堂のほうから
以下、見ていきます。

中坪集会場と大師堂

大師

ここの集会所も大きくはありません。
集会所左にちょっとした空間があり、
木立の前に大師堂が建っています。

その斜め前に3基の石塔が見えます。

中坪の大師

中坪の大師 中坪の大師像

この大師も札所番号が不明です。

堂のなかは上品なお顔の大師像です。
持ち物は定番、右手に五鈷杵、左手に数珠。

大師像本体: 高29cm、幅24cm、厚17cm。

水神宮など3基

水神宮など3基

大師堂と直角に並んだ3基の石塔。
一見して分かる地蔵もありますが、
風化が激しいものもあります。

その風化の進んだ左の塔から、以下。

不明の石塔

不明の石塔

何かひと文字でも手がかりはないかと探してみましたが、ダメでした。
とりとめのない線が見えるだけでまったく読めません。これは、ギブアップです。

左写真を何回かクリックして、拡大画像を見て、文字をイメージします。
よくある文字は、 道祖神・庚申塔・青面金剛王・馬頭観世音・水神宮・天満宮・・・。
どうですか、何かイメージできませんか?

元画像で、色をグレースケールにしたりして、いろいろやっていると、
突然、文字がイメージされてくることがあります。
でも、これは、どうにも・・・。

しかし、いままでさんざんこんなことやってきたので、
ヤマ勘でいうと「馬頭観世音」ではないかなあ、と。

本体: 高63cm、幅25cm、厚17cm。

加納新田の水神宮

加納新田の水神宮 加納新田の水神宮裏面

加納新田で初めて見る水神宮です。
ひよっとすると、加納新田では、
これ1基だけかも知れません。

自然石の表面に「水神宮」、
背面には、「明治二十七年三月」と
細村藤八」。
明治27年(1894)3月の造立です。

本体: 高42cm、幅38cm、厚5cm。

地蔵菩薩塔

地蔵菩薩塔 地蔵菩薩塔左側面

地蔵菩薩の刻像塔です。
丸彫りではなく光背があるのですが、
表面には銘文が見つかりません。

左側面に、「常泉禪定門 位」とあり、
禅宗の戒名のようですので、
地蔵菩薩塔というより、
墓塔なのかも知れません。

ほかに、「慶応元丑年七月三日」。
慶応元年(1865)7月3日が命日かも。

本体: 高64cm、幅29cm、厚18cm。

さて、集会所から道路を挟んだ真向かいに民家がありますが、その庭に3基並んで石碑等が建てられています。


民家前の石碑等

石碑等3基

大きな石碑と普通の石碑、
その左に、石祠と手水・・・。

道路に面した一般民家の庭に、
これらが設置されているのですが、
個人所有のものとは思えません。
集会場の設置場所が狭いので、
民家庭先を借りているのでしょうか。

以前、大震災前は、手水と石祠は、
重なり合っていなかったと思います。
手水が左にずり落ちてきた?
大石碑も少し傾いているような・・・。

左から1基ずつ見てみましょう。

道祖神

道祖神

手水の背後にある道祖神。

以前は、石祠内部に、もう少し明白に「道祖神」が読めました。
いまは見づらくなっています。

ということで、左右側面も含めて、他の銘文は不明です。

本体をヒモでくくっているのは、大地震で折れた、というわけではなく、
それ以前から、こうなっていました。

本体: 高51cm、幅36cm、厚30cm。

手水

表面は「奉納」。古い手水と思いきや、裏面(写真右)に「明治三十五年九月」。明治35年(1902)9月の造立。

手水 手水

左右側面に5人ずつ女性の名前。下左は右側面「細村志め 長代志の 佐藤まさ 落合ちよ 山中たつ」。
左側面は「根本まさ 鈴木かね 木アまつ 齋藤かつ 細村志ま」。「中組女人講中」などの銘文があってもよさそうですが。

手水右側面 手水左側面

本体: 高25cm、幅48cm、厚20cm。

護国教会大師結願紀念碑

護国教会大師結願紀念碑

大きな石碑の左にあるのは、表面中央に題する「護國教會大師結願紀念碑」。
右には、「昭和十二年四月十五日」、昭和12年(1937)4月15日の造立です。

結願(けちがん)の意味等は、惣新田「四郡大師結願紀念碑」 を参照。

それにしても、利根町東部の惣新田と加納新田で結願記念碑を見ましたが、
他の地区では見たことがありません。これは何か理由があるのでしょうか。
これについては、根本寺でも発見した結願紀念碑 を参照。

海老原俊溪落款

中央左には「社長少僧正海老原俊溪拜書」と左のような落款印。
下は「紅蓮」。これは徳満寺第二十五世住職俊溪和尚の雅号です。

石碑の碑陰にはおそらく関係者の名前が数多く刻まれていると思います。
でも、石碑背後は見た通りの雑木・雑草。人様の庭で勝手に伐採は・・・。
ということで、これに関しては、割愛します。いつか機会があれば・・・。

本体: 高115cm、幅52cm、厚8cm。

加納新田備閘碑

備閘とは、閘門を設置する、つまり水門等治水対策のことでしょうか。以下のようにびっしりと漢文が記されています。
終わりに、「明治23年(1890)10月上浣」の日付があります。上浣とは上旬の意。

また、「下総 秋場祐撰并書」、この人は中谷の 弘庵直江翁墓碑銘 の撰文と書を担当した同一人物と思われます。
また石工「大塚岩吉」は、利根町文化人等の数多くの石碑を手掛けています。

加納新田備閘碑

加納新田備閘碑     茨城縣知事従四位勲三等安田定則篆額
加納新田介于下利根新利根本流之間地極早瀑螺以隄防設溝閘以排淤水毎
驟雨淫霖下利根暴漲閘中閉塞積渣泛溢禾黍之田變爲魚蝦之區卒免佗邨喜
豈我獨悲凶矣相本浅次郎笠井清次郎鈴木喜助等深慨之與戸長高橋清次郎
相議曰下利根之暴漲非新利根之比而閘口今在下利根所以疎水不利若移之
新利根則彼免水防之勞費心得積瀼之注瀉可溝一擧兩得矣衆大喜欲聚徒興
役而新利根旁近邨落紛起難之乃與惣新田井原仲右衛門勝邨作右衛門議爲
鑿溝二道以通新利根毎道設閘償其工費郡長永田盛信君及郡書記㙒邨喜八
郎氏臨視而賛焉懇諭曲盡難者遂解明治二十年一月請之縣廳十二月得名以
翌年四月竣工費尺凡八百餘金嗟呼此舉雖出諸子之勤勞苟非有永田君翊賛
亦安能得遂其素志哉部民深感載欲醵金𠜇石以表其功笠井清次郎與余有舊
及其來請文𠀚敢辭書以告後人 銘曰設溝閘門通水利杭稲熟兮誰之賜
明治二十三秊十月上浣          下總 秌場祐撰并書
                         大冢岩吉𠜇字

本体: 高196cm、幅163cm、厚17cm。

補注
安田定則:(やすだ さだのり、1845−1892)は、幕末の薩摩藩士、明治期の官僚・政治家。官選茨城県知事、元老院議官、貴族院勅選議員。通称・泰助。(Wikipedia)
=他の異体字・=野の異体字・𠀚=不の異体字・=年の異体字・=秋の異体字・𠜇=刻の異体字・=塚の異体字

下左は、表面上部の篆額。これも本文同様「秋場祐」の書。下右は碑陰。発起人等の名前が列記されています。
貴族院議員になったばかりの子爵 細川興貫 が総工費800余円のうちの実に3分の1である264円を拠出しています。

加納新田備閘碑上部篆額 加納新田備閘碑碑陰下部

                      發起人
                        加納織之助
                        石塚傳右衛門
                        櫻井儀兵衛
                        市田長太郎
  茨城縣屬                  森田喜左衛門
   技手 井上正路          生板村 大野 宇平
 表書ニ八百餘圓者加納新田           中村 文世
 時價反別ヘ正當賦課ス其多           内田兵三郎
 額出金者ヲ録ス                古合 浅吉
一金二百六拾四圓 正五位子爵 細川興貫     山中 勘助
                        櫻井 喜助
                        關口 正助
                        堀越 峯治
                        秋元勘右衛門
                        石橋 春治
                        堀越縫之助
                        癘 熊吉
                        井原勘之助
                        松永 政助
                        野口 惇吉

補注
細川興貫:(ほそかわ おきつら)常陸谷田部藩の第9代藩主。慶応4年(1868)上京し、京都警護を務めて新政府に恭順。明治2年(1869)版籍奉還で谷田部知藩事となる。明治3年(1870)藩庁を茂木に移して茂木藩を再立藩、明治4年(1871)に茂木知藩事に任じられた。直後、廃藩置県により知藩事を免職。明治17年(1884)子爵。明治23年(1890)貴族院議員。明治40年(1907)9月11日、東京府浅草の今戸で死去。享年76。(Wikipedia)

馬頭観音塚

これは、最近(2012年)発見したポイントです。『利根町史』の地図を見て「あれっ?こんなところに」と思って調べました。
県道取手東線より南に1本内側の道路から、右手に若草大橋の料金所が見える地点に行きます。そこを南下します。

右手に若草大橋料金所 馬頭観音塚への入口

すると、右手に、こんもりとした塚が見えてきます。近くの人に聞くとペットのお墓になっているそうです。
バイクであちこち行ったり来たり、周りましたが、地元の方の親切なご協力もあり、やっと発見できました。
塔の背後の白い板は、何か記してあった立て札でしょう。「ここにペットを捨てるな!」とか・・・。

馬頭観音塚 馬頭観音塚

馬頭観音塔

左から正面、右側面、左側面。正面中央に「馬頭觀丗音」、左右に「文久二戌年九月吉日」文久2年(1862)9月の造立。

馬頭観音塔 馬頭観音塔右側面 馬頭観音塔左側面

右側面には、世話人3名の名前が刻まれています。「丗話人 喜左エ門 市左エ門 佐左エ門」。
左側面に「當村上組中」。この地域は中坪地区と思いましたが、「上組」となっていますね。

本体: 高63cm、幅26cm、厚19cm。


(16/06/12・12/07/24・12/07/21・12/07/19 追記再編成) (10/01/30・05/09/03追記) (05/08/29) (16/05/29・12/07/23・12/06/17・12/05/01・12/04/29・05/08/28・05/08/27・05/08/26・05/05/07・05/03/21 撮影)


本コンテンツの石造物データ → 加納新田1石造物一覧.xlxs (15KB)