蛟蝄神社で紹介した周辺地図です。このページでは主にこの地図の中央から東端地域のポイントを紹介します。
(05/08/26地図改訂)
蛟蝄神社のすぐ近くにこんなところがあるとは気がつきませんでした。
蛟蝄神社を最初に訪ねたときより半年以上も経ってから初めて発見したのです。
先に神社のご神木の公孫樹を紹介しましたが、そのすぐ隣に細い路地が北に向かって通っています。
その奥にいくつかポイントを発見しましたが、その最初のひとつが薬師堂です。
路地をしばらく行くと右方向への曲がり、さらに進むと左方向にカーブした路になりますが、その途中の右手にお堂が見えてきます。その左手に3基ほど石祠も見えます。
ここは道路より50cmほど高くなっているのですが、写真の右手前に3段程度の石段がついています。
手水舎
石段を登ると最初に右手に見えるのがこの手水。
かなり古いものに見えますが、詳しいことは分かりません。
薬師如来
以下がお堂です。鰐口ではなく鈴がついています。立派な篆額に朱書きで「薬師如来」と記されています。
これには「円明寺 第廿五(25)世 智海書、紺野刻」と銘されています。(クリックして拡大できます)
神道ではなく仏教ですから近くの蛟蝄神社より円明寺管轄ということでしょうか。

さて中ですが、格子のガラス越しに見えるのですが、扉には鍵がかかっていないようで開きそうです。
ではお参りしながら、失礼して・・・。
薬師如来は、その名の通り医薬を司る仏様で通常、左手に薬壷を持つのが一般的と言われます。
また単独で祀られることは少なく、脇侍(きょうじ)として左に日光菩薩、右に月光(がっこう)菩薩、さらに十二神将を従える場合も多いということですが・・・。
この写真では右の仏像も左のケースに入っている小さな仏様?も、いずれも薬壷も従者もないようです。
うーん。勉強不足で分かりませんね。
これも宿題。
石祠など3基
さて、石祠ですが、これはすぐ目の前に植え込みの垣根があり、一旦、石段から道路に出てからでないと撮影し辛い位置にあります。
左から・・・。
馬頭観音
明和 丑 四 六月十七日
十九夜講
明和四 亥 十月吉日
駒形大明神
御神馬奉納 施主 甚兵ヱ
というのが辛うじて読めます。
駒形大明神とはタヌポンは利根町探訪で初めて見ましたが、駒ヶ岳と関係あるのでしょうか。
駒とは馬のことですから、一般に馬の守護神とされているとのことで、多くの駒形神社が東日本にあるようです。
また、大日如来や馬頭観音とも習合するとは、
まさに隣に馬頭観音があることや薬師如来のお堂そばに建てられていることと符号しますね。
不思議な女性の登場
さて、タヌポンは最初、この薬師堂を発見したときは夕刻だったので、これに気をよくして帰途に就こうとしました。
しかし、そのとき、さきほどからタヌポンの撮影をそばで見ていた女性がいたのです。
タヌポンがだいたい撮影をし終わり、気がついてふりむくと、彼女は急に顔を背けて先の道へと歩いていきます。
先に行くと円明寺と蛟蝄神社の間を縦に通る自動車道に出るハズですのでそこからも帰途につけます。
タヌポンも彼女の後を追うようにして進みました。
上写真は、自動車道から遠景に薬師堂を眺めたところ。薬師堂前の小道をこの写真で右方向に進めば蛟蝄神社脇へ戻ります。左に進めば南北縦に走る自動車道に出ます。(追記10/12/12、写真は09/03/18撮影)
薬師堂前の小道の途中にもう1ヵ所、地図上ではポイントとなる箇所があったのですが、なかなか見当たりません。
その探索は、次の機会にと思っていたのです。
ところが、自動車道に出る少し手前のところに広く見渡せる野原があるのですが、
そこにかの女性が道からそれて入って行こうとしています。
しかも、そこに曲がるとき、タヌポンのほうをチラリと確かに見たのです。
タヌポンは女性が入っていった入口のところまで来て、彼女の歩いていく方向を見ると・・・。
女性はさきほど通ってきた薬師堂前の小道とは斜めに戻るような角度の方向に野原をどんどん進んで行きます。
入口からは、その先には林が見えるだけで何かあるようには見えません。
「どこへ行くのだろう?」
ぼんやり眺めていると、遠くから彼女がこちらを振り返り、一瞬タヌポンの姿を確認してから、ふと右方向へ。
消えてしまいました。
少し、夕闇が迫ってきています。
さあ、あなたなら、どうしますか?
臆病、小心のタヌポンのとった行動は・・・。
なんと、ふらふらと女性の後を追いかけて野原に踏み込もうとしたのです!
もしかするとその女性が「おいでおいで」などという身振りをしたら、
きっと逆にタヌポンは一目散に逃げていたかも知れません。
しかし、タヌポンが足を一歩、踏み出したとき・・・。
以下、次号。
なんて思わせぶりですが、この続きは、前に記した以下の蛟蝄神社より東にあるポイント「やじり塚」「笠貫沼」の後に。
(05/08/11) (05/07/31・05/08/06撮影)
→ この続きは・・・なんて記述しましたが、「やじり塚」「笠貫沼」は大房地区コンテンツのほうへ移転させました (06/06/11) ので、この続きは、次の「庚申塚」の後になります。
→ この続きは、次の「庚申塚」の後になります、なんて言っておきながら、庚申塚の直後に「北用水樋門」を追記しました (10/12/06) ので、この続きは「北用水樋門」の後になります。(ふう、よく変わるなあ)
蛟蝄神社南のほうから北上すると、あたりはのどかな田園風景。
そこを左に曲がれば奥の宮という、T字路の突き当たりにさしかかりました。何かあります。
左の小屋はゴミ捨て場なのですが、右の木陰に何か見えますね。何でしょう?

庚申塚。
台座に講中連名、とあります。
碑の裏に建立日が彫られているようなのですが、
明治時代であることしか判読できませんでした。
台座横の石塔や石も何かいわれがあるのでしょうか。
(05/08/26追記) (05/08/13撮影)
利根町指定有形文化財
上記の庚申塚のT字路を南に折れると左に幅1mほどの用水に沿って農道のような小道が続いています。
それを200mほど向かうと白い標識や案内看板の立った水門のような施設が見えてきます。
これが、利根町の有形文化財に指定されている「北用水樋門」(きた・ようすい・ひもん)です。所在地は利根町立木2308-1。
水門のような、と形容しましたが、名称は耳慣れない 樋門(ひもん)です。
同じ水門という言葉でも、土木の世界では、水門、樋門・樋管、堰、閘門etc. と機能や構造で細かく分類されています。
基礎知識として、まず、水門、樋門・樋管、閘門から説明しましょう。
水門とは 橋のように堤防の両岸にわたって設置されることが多い比較的規模の大きな施設。
樋門・樋管とは 堤防の中に水路が埋設されているもの。水門より小規模。樋門・樋管はほぼ同じだが、樋管のほうがさらに小規模のものを指す場合がある。
閘門とは 水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置。
ということなのですが、ときどき水閘という妙な言葉も出てきたりします。
これは、古い言葉でほぼ水門と同義の言葉のようです。また単に水位を調節する装置という意味の場合もあるようです。

レンガ(煉瓦)造りということだけでとくになんの変哲もない水門のように思えますが、
これがなぜ有形文化財に指定されるほど価値があるのでしょうか。
その答えは、右上の看板の写真をクリックして説明を読んでもらえば分かりますが、
以下、看板の内容とは少し観点を変えて説明しましょう。
なんの変哲もないレンガ・・・と言いましたが、実は、このレンガ造りこそ、有形文化財に指定されるそもそもの理由。
レンガ造りの建物・施設は、とくに珍しいというわけではありませんが、ヨーロッパなど海外の建造物と比較すると日本はかなり少ないと言えます。
レンガは製造方法が簡単なので、外国では数千年もの歴史をもっているのにくらべ、なぜか日本では、土木建築の主要な材料としては近代になるまで出現してきません。
やっとレンガが日本で盛んに採用されるようになったのは、明治中期ですが、その隆盛の歴史もなんと大正末期にかけてのわずか40年間で、以降は、コンクリートの登場で、土木建築の構造材としての地位は完全に失墜してしまいました。
なにしろ地震に弱いというのが致命的でした。その象徴的なものが関東大震災で、壊滅的な打撃以来、レンガ建築は小規模な建物を除いて激減していくことになり、現在に至っては、レンガは構造材として使うことを禁止されています。用途としてはもはや装飾材としての価値しかないものになっているのです。
さて、この北用水樋門も、明治32(1899)年に造られたということですが、当時はさぞ美しい外観だったことと思います。
コンクリートの無粋な建造物よりやはりレンガは趣がありますね。
現代のレンガ建築としては、まず東京駅。それから横浜赤レンガ倉庫、富岡製糸場、西では大阪市中央公会堂、江田島旧海軍兵学校、今村カトリック教会などが有名です。
タヌポンは東京駅はよく見ていますが、それ以外では、なんと江田島の旧海軍兵学校は昔、取材で行ったことがあります。すっかり忘れていましたがレンガ造りでしたっけねえ?
わずか40年程度しか本来の機能をもち得なかった北用水樋門。
短くも美しく・・・というところでしょうか。
北用水樋門について、利根町役場の公式ウェブで紹介されている説明を以下、転記します。
明治20年代〜40年代頃まで新素材として煉瓦とセメントが普及し、それまで水門は竹や木でつくられ壊れやすく農民にとって不安なもので、立木村に明治32年にできた「北用水樋門(通称:小水門)」は夢のようでした。その後、鉄筋コンクリート工法の発展により全国的に煉瓦造りの水門は破壊されていきますが、小水門は役目を終えながらも小さな美しい姿で歴史を物語っています。
左写真は、上の写真の場所よりさらに南、
道路を越えた反対側から見た樋門の様子です。
案内看板の説明に、小水門「北用水樋門」に対して大水門と呼ばれた「立木締切水閘」は
昭和57(1982)年、姿を消したとあります。これを読むとタヌポンはこんなことを思うのです。
などと思いましたが、実は、この「北用水樋門」の南東に水門橋という橋があり、その近辺がどうも「立木締切水閘」があった場所のようです。何か碑が建っていたかも知れません。とすれば、南用水樋門というのはなさそうですね。北用水というのは、立木締切水閘の北の方角にある、あるいは立木締切水閘から北を流れる用水という意味かも知れません。
(10/12/06) (07/06/17・10/12/05撮影)
おっとっと、待ってください。なんと、立木締切水閘の碑とか、2005年の8月にちゃんと写真を撮っているではないですか。
一眼レフを手に入れる前のコンパクトデジカメの時代で、すっかり忘れていました。
では、さっそく紹介しましょう。これはまさしく、水門橋のたもと(もしくは近く)にある記念碑です。
→ 水門橋の近くは近くなんですが、どちらかというとすぐ南にあるもうひとつの小橋、立木橋およびそれに並列する立木橋側道橋のすぐ近くにありました。水門橋と立木橋の中間と言ってもいいんですが・・・。
※立木橋という名の橋は、西の土地改良記念碑のある道路をまっすぐ南下したところ(立木の水神宮のあるところ)にもありますのでご注意。

ここに記されている「立木締切圦樋橋」とはなんでしょう?圦樋とは難しい漢字ですが「いりひ」と呼びます。
三省堂 大辞林によれば、「いりひ」とは、
水を引き入れたり出したりするために設けた水門の樋(とい)。樋口(ひぐち)。
とあります。
なんのことはない、水門そのものですね。つまり「立木締切圦樋橋」とは、「立木締切水門橋」という意味になりますね。
この近辺が、すなわち「立木締切水閘」だったにちがいありません。
ただ、新利根川にかかる橋である現在の水門橋から、豊田南用水にかかる橋の立木橋までのどの位置に、
立木締切水閘が該当していたのかは分かりません。どこでしょう?

ところで・・・。
「北用水樋門」の案内看板には、「立木締切水閘」が昭和57(1982)年に消失したとあるのに、
この「立木締切水閘」の事訳には昭和59(1984)年、新利根川の改修事業により撤去とあります。
いったいこの2年の差は何なんでしょうか?
(10/12/09追記)(10/12/06) (05/08/13・05/08/27・10/12/09撮影)
さて、前段からの続きです。
びっくり仰天。ものすごい吼え声が左手から・・・。
見ると大きな檻に入れられた、タヌポンの苦手な毛のない猟犬みたいな大きなイヌが
檻を壊さんばかりに吼えながらタヌポンを威嚇するのです。
でも、タヌポンは一度、決めたら進むのです。
そうですね、50mも進みましたか。すると雑草の生い茂る中になにか柵のような囲いが見えてきました。
ああ、これです。もうひとつのポイント。
皇大神宮(こうたいじんぐう)。
草茫々のなかにひっそりと佇んでいました。
10×20mの金属製の囲いができています。
タヌポンが入ってきた野原からは囲いの入口は
反対方向にあります。
以降は再訪問した時の写真で紹介します。
村内安全という基台の上に臙脂色の石祠が建てられています。その左隣にもうひとつ石祠があります。
入口から入って左手に「皇大神宮のいわれ」としてこの施設建設のいきさつが書かれています。(クリックして拡大できます)
町史と照らし合わせて要約すると・・・。
- 皇大神宮は伊勢神宮(内宮)の分社として祀られているが、建立は不詳
- 大治5年(1130)、千葉常重がこの地(相馬郡)を伊勢神宮の御厨として寄進
- 元は吉浜家の守護神であったものを、慶長17年(1612)、村持鎮守として同家より譲り渡す
- 臙脂色の石祠は昭和51年(1976)9月に建立
- 現在地は「御伊勢台」と呼ばれた高台だったが、平成2年(1990)、採土削平のため一時、蛟蝄神社門の宮境内に遷坐
- 平成10年(1998)9月、工事が完了し、現在地に遷され、記念としてこの碑を建立
とあります。
伊勢神宮の分社ということですから、祭神は天照皇大神(あまてらす・すめら・おおみかみ)。
旧暦の9月21日に祭礼が行われるということです。

石祠の中には蛟蝄神社のお札や紙垂などが無造作に置かれていました。いちどそれを取り出してみると黒地に白文字で「天照皇太神宮」などの文字が彫られていました。もちろん、お札などきれいに入れ直しましたよ。
しかし、皇太神宮、皇大神宮、どちらが正しいのでしょう?
ここでは伊勢神宮の内宮に従って「大」の字にします。上の石碑の文字も以下の石祠の中も「太」になっているのですが・・・。
ひょっとしてまちがい?神社辞典などの文献には「皇太神宮」のほうはどこにも見つからないのです。

蛟蝄神社と関連が深いからなのでしょうか、石祠の左右には、おそらくこれは水龍でしょうね、「みずち」を表す彫刻がなされています。
さて、左(下の写真では右)のもうひとつの石祠は不明ですが、タヌポンの推測では臙脂色の石祠が建てられる前身ではないでしょうか。

さて、最初の夕刻の訪問時に戻って、この石祠の簡単な撮影をしてふと入口を振り返ったとき・・・。
なんと、またあの女性が!!!
それまでタヌポンの背後にいたのでしょうか?
女性は、タヌポンが振り返ると同時に、くるりと後を向き、この写真の奥の道へ消えていきました。
さあ、どうしたらいいのでしょう?
この道はいったいどこへ続いているのでしょう?
方向的に考えると、これは先ほどの薬師如来の前の道路に戻るような感じです。
でもここへくる時、そんな入口など見当たりませんでした。
とすると・・・行止り?
とにかくこの奥には何かがあります。
しかし、夕闇がさらに濃くなり、とうとうタヌポンは怖くなってしまいました。
次回というものがあります。
君子、危うきに近寄らず、です。
そう思って、引き返すことを決めた途端、ぞぞーーーっと、恐怖が一気に拡大し、もう一目散。
そして、またしてもあの犬の声。
その犬に近づいているというのに、犬がいてくれることのほうが心強い気がしたのはなぜでしょうか。
さて、後日。
今度は午後、まだ早い時間。
やはり薬師如来の前から、今回は丹念に路を見て行くと・・・。
あの犬のいる入口よりもっと手前のところに右に入る小路を見つけました。
そこに入ってしばらく行くと以下の石塔を見つけました。
ところが、その石祠から路は左に折れているので、それをふとみやると・・・!
あの皇大神宮の入口が見えるではないですか!

そうです。
先日の夕刻に、引き返した道の先にこの石祠があったのです。
べつにお化け屋敷も妖怪もなにもいなかったのです。
これは皇大神宮への参道とも言える道なんですね。
いまから思えば、薬師堂を撮影していたタヌポンを見て、あの女性は、
「皇大神宮は知ってるの?」「この石祠はどう?」と、道案内をしてくれたのではないでしょうか?
なんとお呼びしていいか分かりませんが、どうもありがとうございます。
怖がったりしてすみませんでした。
それとも彼女はもしかして、天照大神の化身?
さて、再度、円明寺と蛟蝄神社の間の自動車道に出て、少し北に進むと、交差点の門に大きな碑が建っています。
これは、クリックして拡大できますので、ぜひ読んでくださいね。
朝礼で校長先生のありがたいお話を聞く気分にひたれます。
土地改良記念碑前の道路の向こう側に
北西に伸びる小道があります。
その小道に入ったすぐ左脇にあらたに小公園ができていました。
ここは見通しのいい交差点なので、
その公園がちょうど土地改良記念碑を背にして
真西の方角に見えます。
上の写真を撮った2005年の8月まではまだなかったはずですから、
以下の写真を撮った2008年の8月までの3年の間に
設置されたということになります。
上の写真にある看板に設置のいきさつが記されています(クリック拡大参照)。
でも、これでは「自然環境保護のために里山の会が設置した」ということしか分かりません。
いつも思うのですが、設置した日付はともかくとして、せっかくの設備の名称をぜひつけてもらいたいですね。
「立木の里山」でも「立木里山公園」でもなんでもいいのですが、なにかモノを創ったときは、「どうしてそれをつくったのか」の説明などより、まず「ネーミング」です。そうしないと里山の会のみなさんの苦労もなかなか伝わりにくいのではないでしょうか。いちど訪ねていいなと思っても、名前がないと他人に「あそこがいいよ」と伝えられません。
ということで、ここは勝手にタヌポンが「立木の水辺公園」(仮称)としました。

あずまやがひとつだけですが、なかなかくつろげると思います。
最後のカットは3月初旬撮影で辺りはまだ冬景色です。

(10/12/05修正追記) (10/12/04追記) (08/08/06・09/03/05・10/12/05撮影)
(05/08/12) (05/07/31・05/08/06撮影)
(06/06/11再編成)