タヌポンの利根ぽんぽ行 蛟蝄神社門の宮周辺

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蛟蝄神社周辺 目次



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更新経過

2013年以来、石仏データの構築に伴い、各コンテンツの見直しを図り、
再調査等を重ねてきました。
当コンテンツもあらたな情報も加え、全面的な再調査の上に、
追記・再構成しました。(16/05/20)


このたび、「やまなみ園の散歩道」の新規記事を追加するにあたって、
「蛟蝄神社周辺」コンテンツを以下の2つに分離し、再構成しました。
蛟蝄神社の「門の宮周辺」と「奥の宮周辺」の2コンテンツ。

再構成にあたって、立木の水神宮は、従来まで、「円明寺周辺」に含めていましたが、
内容追記と同時に、本コンテンツに移管しました。(12/07/07)


次項目で掲載する立木地区周辺地図では大別して、
西端は円明寺とその周辺地区、東端はやじり塚と笠貫沼のある地域。
そして中央部が、蛟蝄神社とその周辺地区です。

やじり塚と笠貫沼のある地域は、立木地区ではなく大房地区ですので、
立木地区としては、当初、以下のように分類していました。
「円明寺」「蛟蝄神社門の宮」「蛟蝄神社奥の宮」の3コンテンツに、
「円明寺周辺」「蛟蝄神社周辺」の2つを加えて、5つで構成。(05/08/09〜12)


立木地区周辺地図

本コンテンツでは、主にこの地図の中央部、蛟蝄神社門の宮の周辺にあるポイントを紹介します。

立木地区周辺マップ

薬師堂

野良薬師

蛟蝄神社(門の宮)のすぐ近くにこんなところがあるとは気が付きませんでした。
神社を最初に訪ねたときより半年以上も経ってから初めて発見したのです。
先に神社の ご神木の公孫樹 を紹介しましたが、そのすぐ左隣に細い路地が北に向かって通っています。
その奥にいくつかポイントを発見しましたが、その最初のひとつが薬師堂です。
『利根町史』には、「野良薬師」として紹介されていますが、その意味合いは不明。通称なのでしょうか。

薬師堂

路地をしばらく行き右折、さらに進むと
左方向にカーブした路になりますが、
その途中右手にお堂が見えてきます。

その左手に3基ほど石祠も見えます。

ここは道路より50cmほど
高くなっているのですが、
写真の右手前の入口には、
3段程度の石段がついています。

堂宇と由緒

薬師堂

堂宇は、瓦葺の流造り。

由緒としては・・・(以下『利根町史』より)

人皇45代聖武天皇の御宇、行基菩薩東行の途次、蛟蝄神社に参籠の折霊夢を受けて、さずかった香木で薬師如来像を造像、入谷津に葦の一宇をしつらえて祀った(『吉浜家文書』)。現在の堂宇は、もとカネツカ山の南にあったものを昭和56年(1981)に移築したもの。

地名がよく分からないのですが、「入谷津」とは?
小字名で、「谷津」の付くところは横須賀地区あたりから
東の立木地区まで広い範囲で付けられています。
「カネツカ山」とは、この場所より北東、
文間小学校の南の丘陵あたりを指しているようです。

扁額と鈴

扁額と鈴

堂の上部に朱書きで
薬師如来」の扁額が掲げられています。
左に「円明寺 第廿五世 智海書 紺野刻」の銘。
神道ではなく仏教ですから
近くの蛟蝄神社より円明寺管轄ということでしょうか。

仏教系とはいうものの、鰐口ではなく、
神社にあるような古い鈴が設置されています。
まあ、よくあることですが・・・。

薬師堂内部

さて中ですが、格子のガラス越しに見えるのですが、扉には鍵がかかっていないようで開きそうです。では失礼して・・・。
後日談 → 2016年5月現在、再訪問してみると施錠されていました。昨今、盗難が多いらしいのでこれが妥当な処置です。

薬師堂内部

薬師如来は、その名の通り医薬を司る仏様で
通常、左手に薬壷を持つのが一般的と言われます。
また単独で祀られることは少なく、脇侍(きょうじ)として
左に日光菩薩、右に月光(がっこう)菩薩、
さらに 十二神将 を従える場合も多いということですが・・・。

この写真では左の仏像も
右のケースに入っている小さな仏様?も、
いずれも薬壷も従者もないようです。

町史の写真にある「薬師如来立像」は、
どうも別の場所に保管されているようです。
「行基菩薩」が香木で造像 したというような
価値のあるものなら、そのほうが安全ですね。

→ 「薬師如来立像」ですが、これは大仏師と称される 杉山林哲 が、文政11年(1828)に再興・作像していることが判明。
「行基菩薩」云々は、泉光寺の木造観世音菩薩立像 と同様、「よくある話」で、あまりあてになりませんね。(13/06/25 追記)

手水舎

手水舎

入口の2.3段の石段を登ると最初に右手に見える手水。
表面には「奉納」とあります。

手水鉢の右側面(下左写真)に「木村兼三郎」とあります。
施主か願主でしょうか。

左側面(下右)はちょっと読みづらいですが、
明治十六未年四月」でしょうか。
正しければ、明治16年(1883)4月の造立。
見た目よりは近世のものですね。

本体: 高29cm、幅60cm、厚29cm。

手水舎右側面 手水舎左側面

石塔3基

石塔3基

さて、奥の3基の石塔ですが、
前に植え込みの垣根があり、
一旦、道路に出てからでないと
撮影し辛い位置にあります。

以降で、道路に立って、
正面右の石祠から紹介しますが、
大震災後にちょっとした変化が・・・。

左は、2016年時の写真。
実は、大震災直後から撮影時まで、
右端の石祠の笠の下の本体部分が
天地逆になっていたのです。
地震で倒れたものを立て直す時に、
間違ったのでしょう。
さほど重くはないので、笠をはずし、
直しておきました。セメントなどで
固定されていたらムリでしたが。

駒形大明神

右端は神道系石祠。左から、正面、右側面、左側面。正面石祠内部に「駒形大明神」とあります。
右側面は「御神馬 奉納 施主 甚五兵ヱ」、左側面「天保十三寅年十月三日」。天保13年(1842)10月3日の造立。
「三日」は吉日が妥当なのですが・・・。「天」の部分は欠損していますが、次の「保十三寅」で享保などではなく天保と判明。

駒形大明神は利根町ではこの1基のみ。駒とは馬のことで、一般に馬の守護神。多くの駒形神社が東日本にあるようです。
また、大日如来や馬頭観音との習合は、まさに2基隣に馬頭観音塔があることや薬師如来のそばにあることと符号します。

駒形大明神 駒形大明神右側面 駒形大明神左側面

下は、台石の正面と左側面。「世話人」16人と「講中」12人の名前が列記されています。
講中は、右側面にも何名か彫られていますが、ここでは割愛しました。(隣の石塔と隣接していて撮影しづらいからです)

駒形大明神台石正面 駒形大明神台石左面

本体: 高49cm、幅35cm、厚27cm。台石: 高17cm、幅40cm、厚28cm。

十九夜塔1

十九夜塔1

表面中央に、「十九夜講」とあります。
したがって「十九夜塔」に分類されるわけですが、
十九夜塔の本尊は、「如意輪観音」で、利根町ではとくに多いです。
ところが、ここに刻像されているのは・・・。

頭上に彫られているのが馬の顔のようで、どちらかというと忿怒相。
1面4臂で、中央で合掌、法輪と刀剣を持っています。
庚申塔の青面金剛に似ていますが、これは馬頭観音でしょう。

十九夜塔なのに刻像されているのが馬頭観音とは妙ですが、
ここでは、次の馬頭観音塔も合わせて3基いずれも「馬」関連のものといえます。
蛟蝄神社の馬喰田伝説と絵馬 等で分かるように
この地域と馬との関係は深いものがあると言えそうです。

光背右に、「明和四亥」、左上に「十月吉日」で、明和4年(1767)10月の造立。
左下には、「講中二十人」の文字が見えます。

本体: 高72cm、幅32cm、厚19cm。

馬頭観音塔

3基目は馬頭観音の文字塔。下左から、正面、右側面、左側面。正面中央に「馬頭觀音位」とあります。
正面右上に「安永七戌」、左上に「正月吉日」で、安永7年(1778)正月の造立と分かります。

右側面「吉濱市□左衛門」とありますが、吉浜家は立木地区の名家。『蛟蝄神社由来記』著者吉浜正次氏は子孫でしょう。

さて、左側面にもうひとつ不可解な年号が記されています。「明和五四月六月十七日」。これはどういう意味でしょう?
明和5年(1768)は造立年より10年も前。干支もなく四月六月十七日の意味もさっぱり分かりません。

馬頭観音塔 馬頭観音塔右側面 馬頭観音塔左側面

本体: 高52cm、幅23cm、厚13cm。

episode 1:謎の女性

薬師堂遠景

この薬師堂を発見したときは夕刻、
タヌポンは発見に気をよくして
帰途に就こうとしました。

ところが、さきほどから
タヌポンの撮影や挙動を少し離れて
見ていた女性がいたのです。

タヌポンがだいたい撮影をし終わり、
気がついてふりむくと、
彼女はなぜか急に顔を背けて
さらに先の道へと歩いていきます。

その先に行くと
円明寺と蛟蝄神社の間を
縦に通る自動車道に出るハズなので
そこからも帰途につけます。
タヌポンも彼女の後を
追うようにして進みました。

上写真は、自動車道から遠景に薬師堂を眺めたところ。薬師堂前の小道をこの写真で右方向に進めば蛟蝄神社脇へ戻ります。左に進めば南北縦に走る自動車道に出ます。(追記10/12/12、写真は09/03/18撮影)

薬師堂前の小道の途中にもう1ヵ所、地図上ではポイントとなる箇所があるハズなのですが、なかなか見当たりません。
夏とはいえ18時半を過ぎ日没間近。まもなく暗くなります。その探索は、次の機会にと思っていたのです。
ところが、自動車道に出る少し手前のところに、右手に広く見渡せる野原があるのですが、
そこに、かの女性が道からそれて入って行こうとしています。あれっ、どこに?と思いました。
しかも、そこに曲がるとき、タヌポンのほうを振り向いて、チラリと確かに見たのです。
タヌポンは女性が入っていった入口のところまで来て、彼女の歩いていく方向を見ると・・・。

野原の奥へ

野原の奥に何が?

女性はそれほど通ってきた薬師堂前の小道に対して
斜めに戻るような角度の方向に野原をどんどん進んで行きます。
入口からは、その先には林が見えるだけで
何かあるようには見えません。

「どこへ行くのだろう?」

ぼんやり眺めていると、
遠くから彼女が、またしても、こちらを振り返り、
一瞬タヌポンのとまどう姿を確認してから、ふと右方向へ。
消えてしまいました。
かなり、夕闇が迫ってきています。

さあ、あなたなら、どうしますか?

臆病、小心のタヌポンのとった行動は・・・。

なんと、ふらふらと女性の後を追いかけて野原に踏み込もうとしたのです!
もしかすると女性が「おいでおいで」などという身振りをしたら、きっと逆にタヌポンは一目散に逃げていたかも知れません。
しかし、タヌポンが足を一歩、踏み出したとき・・・。

その途端!

以下、次号。(続きは、episode 2 で)

土地改良記念碑

さて、もし上記の謎の女性と会わずに、薬師堂前の道を西に進むと。もちろんその場合、「野原」への寄り道はナシです。
円明寺と蛟蝄神社の間の自動車道に出て、ほんの少し北に進むと、交差点の角に大きな碑が建っています。

土地改良記念碑

これは、クリックして拡大できますので、ぜひ読んでくださいね。
朝礼で校長先生のありがたいお話を聞く気分にひたれます。

昭和50年(1975)4月25日の建立。
左に見えるのは、文間小 ですね。

せっかくですから、真正面と裏面の写真も。碑文撰文は、これも利根町の名士、故・吉浜正次氏です。

土地改良記念碑 土地改良記念碑裏面

本体: 高91cm、幅203cm、厚31cm。

立木の水辺公園(仮称)

水辺公園

土地改良記念碑前の道路の向こう側に
北西に伸びる小道があります。
その小道に入ったすぐ左脇にあらたに小公園ができていました。
ここは見通しのいい交差点なので、
その公園がちょうど土地改良記念碑を背にして
真西の方角に見えます。

2005年8月まではまだなかったはずですから、
以下の写真を撮った2008年の8月までの3年の間に
設置されたということになります。

水辺公園 水辺公園

写真にある看板に設置のいきさつが
記されています(クリック拡大参照)。
でも、これでは
「自然環境保護のために
里山の会が設置した」
ということしか分かりません。
設置した日付はともかくとして、
せっかくの設備の名称を
ぜひ付けてもらいたいですね。

「立木の里山」でも「立木里山公園」でもなんでもいいのですが、なにかモノを創ったときは、「だれがつくったか」や
「どうしてそれをつくったのか」の説明(つくった方々はここばかり気にする)などより、まず「ネーミング」です。
そうしないと里山の会のみなさんの苦労もなかなか伝わりにくいのではないでしょうか。
いちど訪ねてみて、いいなと思っても、名前がないと他人に「あそこがいいよ」と伝えられません。
ということで、ここは勝手にタヌポンが「立木の水辺公園」(仮称)としました。

水辺公園 水辺公園

あずまやがひとつだけですが、なかなかくつろげると思います。最後のカットは3月初旬で辺りはまだ冬景色です。

水辺公園 水辺公園

episode 2:皇太神宮発見

さて、前段 からの続きです。

その途端!大きな吼え声

びっくり仰天。ものすごい吼え声が左手から・・・。
見ると大きな檻に入れられた、タヌポンの苦手な毛のない猟犬みたいな大きなイヌが、
檻を壊さんばかりに吼えながらタヌポンを威嚇するのです。

左は、猛犬、右手は謎の女性。そして、いよいよ宵闇が深く・・・。

でも、タヌポンは一度、決めたら進むのです。

そうですね、50mも進みましたか。すると雑草の生い茂る中になにか柵のような囲いが見えてきました。

皇太神宮

ああ、これです。もうひとつのポイント。
皇太神宮(こうたいじんぐう)。

草茫々のなかにひっそりと佇んでいました。
10×20mの金属製の囲いができています。
タヌポンが入ってきた野原からは囲いの入口は
反対方向にあります。

皇太神宮の詳細は、以降、再訪問した時の写真で紹介します。

皇太神宮

本殿石祠

皇太神宮石祠

村内安全」という台石の上に
臙脂色の石祠が建てられています。
石祠内部中央に「天照皇太神宮」とあり、
左に「昭和五十一年九月吉日建 立木村
昭和51年(1976)9月の造立です。
例祭日 旧九月二十一日」も彫られています。

この左隣にもうひとつ石祠があります。
タヌポンの推測では臙脂色の石祠が
建てられる前身ではないでしょうか。

本体: 高103cm、幅51cm、厚60cm。
台石: 高47cm、幅101cm、厚121cm。

皇太神宮2石祠

皇太神宮旧石祠

皇太神宮旧石祠 皇太神宮旧石祠左側面

旧石祠の左側面には、
宝暦十二壬午三月吉日」、
つまり宝暦12年(1762)3月の造立です。

本体: 高68cm、幅39cm、厚50cm。

皇太神宮のいわれ

入口から入って左手に「皇太神宮のいわれ」としてこの施設建設のいきさつが書かれています。(クリック拡大)
『利根町史』と照らし合わせて要約すると・・・。

皇太神宮のいわれ
  • 皇太神宮は伊勢神宮(内宮)の分社として祀られているが、
    建立は不詳
  • 大治5年(1130)、千葉常重がこの地(相馬郡)を伊勢神宮の御厨として寄進
  • 元は吉浜家の守護神であったものを、慶長17年(1612)、
    村持鎮守として同家より譲り渡す
  • 臙脂色の石祠は昭和51年(1976)9月に建立
  • 現在地は「御伊勢台」と呼ばれた高台だったが、平成2年(1990)、採土削平のため一時、蛟蝄神社門の宮境内に遷坐
  • 平成10年(1998)9月、工事が完了し、現在地に遷され、
    記念としてこの碑を建立

伊勢神宮の分社ということですから、祭神は天照皇大神(あまてらす・すめら・おおみかみ)です。

「太」は異体字?

皇太神宮、皇大神宮、どちらが正しいのでしょう?
伊勢神宮の内宮に従うと「」の字になりますが、上の石碑の文字も以下の石祠の中も「」になっています。
神社辞典などには「皇太神宮」はどこにも見つからないのですが、「音」さえ合っていればよし、という傾向があるようです。

皇太神宮石祠内部 皇太神宮石祠内部

龍神の彫刻

蛟蝄神社と関連が深いからなのでしょうか、石祠の左右には、おそらく水龍「みずち」を表す彫刻がなされています。

皇太神宮石祠側面 皇太神宮石祠側面

episode 3:謎の女性再び

さて、最初の夕刻の訪問時に戻って、この石祠の簡単な撮影をしてふと入口を振り返ったとき・・・。

なんと、いつのまにか、またあの女性が!!!

参道

それまでタヌポンの背後にいたのでしょうか?

女性は、タヌポンが振り返ると同時に、くるりと後を向き、
この写真の奥の暗い道へ消えていきました。

さあ、どうしたらいいのでしょう?
この道はいったいどこへ続いているのでしょう?

方向的に考えると、これは先ほどの薬師如来の
前の道路に戻るような感じです。でもここへくる時、
そんな入口など見当たりませんでした。

とすると・・・行止り?

退散

女性が進んで行ったわけですから、行止りではなく、薬師如来の前の道路に続いていると思います。
でも、それなら、さきほどから彼女はいったい何をしているのでしょう。
薬師堂の前から、ぐるりと遠回りして元に戻ってきていることになります。しかも、背後の人間(タヌキ)を意識しながら・・・。
これは、なぜ?

しかし、夕闇がさらに濃くなり、とうとうタヌポンは怖くなってしまいました。
次回というものがあります。なにかあっても、とにかく写真も、もう撮れません。
君子、危うきに近寄らず、です。

そう思って、引き返すことを決めた途端、ぞぞーーーっと、恐怖が一気に拡大し、もう一目散。
そして、またしても、あの犬の声。
その犬のほうに近づいているというのに、犬がいてくれることのほうが心強い気がしたのはなぜでしょうか。

後日

今度は午後、まだ早い時間。
やはり薬師如来の前から、今回は丹念に路を見て行くと・・・。
あの犬のいる入口よりもっと手前のところに、右に入る小路を見つけました。
そこに入ってしばらく行くと以下で紹介する石仏を見つけました。

ところが、その石仏から路は左に折れているので、その先をふとみやると・・・!
あの皇太神宮の入口が見えるではないですか!

皇太神宮の入口が見える

そうです。
先日の夕刻に、引き返した道の先に石仏があったのです。
べつにお化け屋敷も妖怪もなにもいなかったのです。
これは皇太神宮への参道とも言える道なんですね。

十九夜塔2

以下が、発見した石仏。当初、十五夜塔としていましたが、銘文が十九にも見えます。ちょっと紛らわしいです。
でも、如意輪観音が十九夜塔の本尊ですので、ここは十九夜塔とするのが妥当かと。ちょっと曖昧ですが、修正しました。

十九夜塔2

写真下は、石仏上部の拡大。

十九夜供養爲二世安楽」の文字が読めます。
典型的な半跏思惟型の如意輪観音の刻像塔です。

光背左上に、「宝永七寅天」、すぐ左に「初秋十九日」。これも十五にも見えます。
宝永7年(1710)初秋(7月)19日の造立。ほかに左下「立木村 連衆」と読めます。

十九夜塔2上部拡大

本体: 高60cm、幅37cm、厚27cm。

天照大神の化身

いまから思えば、薬師堂を撮影していたタヌポンを見て、あの女性は、
「皇太神宮は知ってるの?」「この石仏はどう?」と、道案内をしてくれたのではないでしょうか?

なんとお呼びしていいか分かりませんが、どうもありがとうございます。怖がったりしてすみませんでした。

それとも彼女はもしかして、天照大神の化身

もう1基、発見

2012年以来、当地をご無沙汰していたら、いろいろな変化があり、また探検家の方とも知り合い、新しい石仏の情報も。
以下左写真に写っているのが新発見の石仏。上記の十九夜塔2は、ここから少し左に進んだところにあります。
この地点から右を振り向くと、下右写真。門の宮へと続く小径。以前は路の左手がもう少し樹木が多かったように思います。
したがって、この石仏は樹々や雑草に埋もれて、見えなかったのではないかと思います。これも2016年「根本さん情報」。

もう1基、発見 蛟@神社門の宮からの道

観音塔

観音塔

この塔は、2ヵ所の重大な部分が剥落欠損していて、
「・・・塔」と断定することができないのが実に残念です。
2ヵ所とは、「刻像の頭部」そして「銘文の冒頭」です。

光背右上「□□夜念佛講衆」と肝心の2文字が欠損。
これが十九や十五などなら、すぐ「十五夜塔」等とタイトル付けできます。
かといって、「月待塔」とするのも念佛の文字があるので付けにくいし・・・。
また像容も、半跏思惟の如意輪観音ではないことは確かですが、
聖観音なのか馬頭観音なのか、よく分かりません。
ただ観音像であることだけは確かなので、観音塔としました。

光背左上に「宝永六丑天 立木村同行□□□」が見えます。
宝永6年(1709)の造立です。

本体: 高65cm、幅31cm、厚19cm。

ソーラー変化

左2012年5月、右2016年4月。4年間のご無沙汰で、このように変わりました。感無量、というほどでもないですが・・・。

ソーラー変化前 ソーラー変化
ソーラー変化

上の光景を、南東、やまなみ園側の高台から見下ろしたところ。

変るもの。変わらないもの。
変えるべきもの。変えてはいけないもの。
変えるしか仕方のないもの。
違う変え方があるもの。
すべては時の経過がその成否を決めるでしょう。

ソーラー変化前 ソーラー変化

立木の水神宮

立木の水神宮

土地改良記念碑と水辺公園の間を南北に走る道を南下して、
「立木橋」をわたる手前にあるのが「立木の水神宮」。
この石塔は、意外と大きくすぐ分かります。
神道系の石祠ではなく、山状角柱で「水神宮」とはっきり彫られています。
背後の自販機がちょっと違和感ありますが、タヌポンはよくお世話になってます。

探索初期のころ、水神宮探しをし、押付新田・上曽根地区で3ヵ所 ほど発見。
このころは、立木新田の水神宮 が分からず、
いろいろ探し回っている途中で、この立木の水神宮のほうを先に見つけたわけです。

利根町全域を見てきた2016現在、水神宮は、石祠だけのものを含めると
全部で18社見つけています。→ 目的別索引 神社編 参照。

『利根町史』を詳しく見てみると、この石祠のことも記載されていました。
しかし、秋に注連縄を張る、ということだけで
造立年とかいっさい不詳ということでしたが・・・。

本体: 高94cm、幅40cm、厚23cm。

造立日・世話人も判明

立木の水神宮右側面 立木の水神宮左側面下部

『利根町史』には写真も掲載されているのに、
編纂のときに調べなかったのでしょうか。
石塔右側面に、造立日が刻銘されています。
慶應元丑年九月廿一日」、
慶応元年(1865)9月21日(写真左)。

また、左側面下部には、
以下、世話人5人の名が記されています。
山田利右ヱ門
□□中山八郎右ヱ門
飯塚与右ヱ門
□□友野□□
飯塚治左ヱ門

現在の蛟蝄神社の宮司さんで
代々神職を継がれているのが友野さん。
これはきっとご先祖ではないでしょうか。

立木の水神宮右側面下部

ちょっと読みにくいのですが、
上記造立年が彫られた右側面下部にも、
別の世話人5名が彫られていました。

玉川□平治
□□白戸□兵エ
□□□兵エ
□□□□右兵衛エ
本谷小左エ門


(16/05/20・13/06/25 追記) (12/07/07 追記再構成) (16/05/16・16/04/29・15/08/08・10/12/12・10/12/05・10/12/04・06/06/11・05/08/12・05/08/11・05/08/09 追記) (05/05/28) (12/06/26・12/05/05・10/12/05・09/03/18・09/03/05・08/08/06・07/07/08・05/08/06・05/07/31 撮影)


本コンテンツの石造物データ → 蛟蝄神社門の宮周辺石造物一覧.xlxs (14KB)