蛟蝄神社で紹介した周辺地図です。このページでは主にこの地図の左方、西部の円明寺近隣のポイントを紹介します。
(05/08/09作成、05/08/10改訂)
東にある蛟蝄神社から円明寺に向かう細道の途中、もうすぐ円明寺という手前に三叉路があります。
その東南の角に道祖神を見つけました。
何か風の吹き溜まりのような場所で少々紙くずなどがちらばっていましたが、それでも細身ながら立派な明神鳥居が建っています。

道祖神であること以外は、由緒等まったく不明です。
(05/05/27) (05/04/23撮影)
円明寺から裏手の細道を東に少し行くと左手に黄色っぽい鳥居を発見しました。奥に文字の読めない石祠が安置されています。
鳥居はもともとは朱色だったのではないかと思います。神明鳥居系の鹿島鳥居の形をしていますが、少し右に傾いていますね。木製のようです。
少し戻って、円明寺裏の道端で野良仕事の休憩をしていたおじさんに聞いてみましたが、この「地区の村のものだ」という答えしか帰ってきませんでした。

→ 道祖神と判明(05/09/10)
この所有者という婦人にお会いしました。ちょうど鳥居裏の掃除をされているところを通りかかったのです。
何を祀ってあるかを尋ねると道祖神という答えが返ってきました。なんでも足の病に効能があるそうです。
また、こんな興味深いことを言われていました。
「道祖神というのはふつう北向きに建てるものなのですが、これは南向きですね。うるさかったのかしら」
前に道があるのでうるさいなら後ろ向きにならないとおかしいなとは思いましたがあえて質問しませんでした。
「道祖神は北向きに建てる」というのは本当でしょうか。いままで見た道祖神の立地を検証してみる価値がありそうです。
しかし、その直後に通りかかった道祖神は、前に見た新舘中学校近くの横須賀の道祖神でしたが、南向きです。
でもこれは比較的新しいもののように思います。婦人の言われることのほうが真実なのかも知れません。
(05/09/10追記)
このあたりはほんとに静かな山里のよう。
8月盛夏なのにおそらく野生と思われるウズイスの鳴く声が聞こえます。
でも、偶然なのか、鳥居のことを聞いたおじさんのすぐ前の木の枝にうぐいすらしき鳥の入った籠を見つけました。
さきほどの鳥居の道をさらに東に進むと、直進と右折のT字路に来ます。
右の路を見てみると50mほど先の突き当たりがさらに右にカーブしているのが見えますが、そのコーナーに何かあるようです。
近づいてみましょう。
今度は縦にスマートな明神鳥居です。銀色のアルミか鉄製のようです。
鳥居の背後に、石祠2基が安置された青い屋根の祠があります。

もっと近づいて見てみましょう。
左の石祠は道祖神と記されているようです。
右は、「奉供養十九夜」とまで読めます。
下部が地中に少し埋まっているようですが、
おそらく「塔」という文字が続いているのではないかと思います。
「十九夜の供養塔」というところでしょうか。
建立日として、文化 亥 九月 と言う文字だけ読めます。
ちなみに文化年間は1804〜1817年です。
ああ、薮蚊がすごく寄ってきました。
石祠の脇を調べるのもたいへんです。ここでは見えませんでした。
上記の鳥居のコーナーを右に曲がるとまた円明寺方面へ戻ることになりますが、タヌポンはその先に何かあるかも、と進んで行きました。
結局、何もなくまた円明寺手前の路から北へ回り、先ほどの名もない鳥居の前の路を東へ・・・。ちょうど一周したことになります。
ところが、T字路に差し掛かる少し手前に今度は左のほうへ進む路を見つけました。
これは舗装もされていない農道のようです。
先に進んでいくと何か怪しい気配のする竹薮にさしかかりました。
しかし、これは断念せざるを得ませんでした。
少し入った先でもう路は途絶えていたからです。
とても先に進めそうもありません。
ところが、もしかすると、この後で、
北のほうの自動車道から登ったときに、
このすぐ先までタヌポンは来ていた可能性があるのです。
そうです。
地元の人のいう「おんたけさん」、御岳塚がどうもこのあたりにありそうなのです。
この話はもう少しあとで。
T字路に戻り東のほうにさらに進むと今度は左右に道が別れたもうひとつのT字路に突き当たります。
ただし、突き当たるといってもその先には舗装されていない農道が続いているので、正確にいえば4つ辻なのですが、
直進方向の農道は、見た感じではしばらくで行止りのようです。
さて右に行くか、左に行くか。
右のほうから試しに行ってみると円明寺前から蛟蝄神社へと続く道に出ました。
そこでまた引き返し、北、つまりT字路の左方面に向かうと・・・。
先に進むと白い花の咲いた樹の奥に洞穴のような暗い路が続いています。
これは多分、北の自動車道に続く路だと思いましたが、進んでみない手はありません。

なだらかな坂道を下っていくと左手に祠が見えてきました。
でも廃祠のようです。が、その右に石祠が3基ほどヤシのような樹の葉っぱに隠れているのが見えます。
しかし、下の右のピンボケの写真でお分かりのように、タヌポンは撮影を断念せざるを得ませんでした。
薮蚊の攻撃が凄まじかったからです。
片手で葉っぱを横に押さえながらシャッターを切りましたがダメです。雑草刈りをするなんて余裕はとてもありませんでした。
また石祠を隠している葉っぱを切り取る道具も持ち合わせていませんでした。(この失敗は2005年8/6付のColumbus Blogで)
防虫スプレーなど装備を整えて、後日、再訪問しましょう。また再訪問の理由が他にも見つかりました。それは後ほど。

この廃祠のところをほんの少しいくと、また左手に、こんどは立て直したらしい祠を見つけました。
でも直近というほど新しいものでもないようです。
少し近づいて中を覗いてみましたが、どうも大師様のようです。
四郡大師のひとつがこんなところにもあったのですね。
ここも薮蚊がすごいので早々に退散しました。
大師像は4体?
後日(上記および以下の記述より約1年後)、再訪問したときまたも藪蚊に襲われながらもなんとか祠の中を撮影。
よく見ると4体の像が安置されています。
(06/09/03追記・撮影)
石塔3基
さて、2日後に防虫スプレーを装備して、再度ここに訪れたタヌポン。
先ほどの廃祠の右にならんだ3基の石塔を撮影しようとしたのですが・・・。
確かに、腕や足などスプレーしたところには蚊はきませんでした。
しかし、スプレーしていないタヌポンの顔をめがけて蚊が突進してきます。
これには、驚きました。
ここは冬にでも剪定ハサミも持って、三度(みたび)、訪れて調べたほうがいいようです。
とりあえず必死の思いで撮りましたが、石塔の左右や背後を調べるゆとりはありません。
庚申塔と言うより仏教関連の石塔のようです。法印・・・という文字が読めます。
いちばん左は享保時代(1716〜1735)のもの、いちばん右は宝永8年(1711)とあります。
それぞれ頭に梵語が彫られていますが、観世音菩薩なのか釈迦如来なのか定かではありません。

実は、この2度目の訪問時に、途中で軽自動車に乗ったこの土地の人らしいご夫婦に会ったのですが、
細い道でバイクとすれちがうときに声をかけてお話をさせてもらいました。
人通りがほとんどなく後続車なども気にする必要がないせいか、ご夫婦のほうから話を止めようとする風には見えません。
タヌポンはもっぱらこの祠のことより次の岩井城や御岳塚のことを尋ねたのですが、
どうもタヌポンが当初、想像していた場所と少々ちがいます。
後で調べてみるとタヌポンはこの道を前述の農道(御岳塚・岩井城館跡に続く道?)と間違えていたことが分かりました。
で、このコンテンツをUPした2日後のきょう(05/08/10)地図等を修正しているというわけです。
岩井城や御岳塚は山の中でとても入って行けるところではないと聞きました。
そうですか、とタヌポンが言っても、2人はまだ何か聞きたいことがあるか?という表情です。
ヘンなやつだなあと思ったのでしょうか、タヌポンに興味を持ったのかも知れません。
そこで少し先の例の祠のことを聞くと、大師ではなく薬師だと言います。
「うーーん」とふたたび聞きかえしますが、やはり、「薬師だねえ」。
地元の人が言うのだから間違いないのでしょうが、後で考えてみると、
もしかして2人は祠のさらに先にある蛟蝄神社裏手の薬師如来のことを言っているのではないかと思いました。
あれならもっときちんとした大きな設備といえます。このご夫婦もあの近くにお住まいなのかも知れません。
それで、とりあえず、いまの時点ではここを従来通り「大師」ということにしておきます。
さきほどの祠の路は裏手の自動車道へというより、東のほうにカーブしていき、
円明寺と蛟蝄神社の丘陵の間を南北に走る自動車道路に繋がっていました。
その道を北上し、左折するとまた円明寺の北方面に戻ることになります。
この道はクルマが通れるとは言ってもすれ違うのは厳しい感じの道です。
少しその道を今度は西方に進むと、左に入り込む路があります。
さて、以下は、2日前(05/08/08)の記述です。
祠のある通りを西の農道と間違えていたため、以下の( 赤字 )部分は実際とは異なります。
左に入り込む路とは、左写真がそうなのですが、これはまだ寒い時期、3月の中旬にタヌポンの奥さんといっしょにクルマで来たときに撮ったものです。
クルマからおりてこの路がなにか怪しいと少し入ってみたのですが、途中で行止りになっていました。
地図にある岩井城館跡とか御岳塚とかはどれなんだろうなあ。
そんなことを思って探してみていたのです。
でも、その後、さらに詳しい地図を見つけて調べてみると、
どうも岩井城館跡とはこの写真で言えば樹木が茂っている中がその位置に該当することが分かりました。
ということは・・・。
さきほどの祠のあった路で言えば、祠のあるところの裏手のほうが該当します。また、御岳塚はその反対側を指しているようなのです。→ 正しくは・・・祠のあった路より西方に、御岳塚、そして城跡が並んでいるようです。
御岳塚はともかく岩井城館跡は「館跡」というくらいですから何か痕跡が残っているかも知れません。
これは先ほどの祠の細道およびそこに入る路の前後をもういちど探索してみる必要があります。
どこかに岩井城館跡に通じる路を発見できるかも知れません。
これは宿題です。さきほどの「再訪問」の理由もこれです。
(05/08/08) (05/08/06撮影)
以下、2日後の再訪問時のこと。
上記の写真の場所を過ぎて自動車道を西にさらに少し進むと、左手の畑で農作業をしている人を見かけました。
で、岩井城のことを聞いてみると、なんと、その人がこのあたりの土地の所有者であり、
城跡の管理等も代々されているとのこと。もしかして殿様の末裔なのでしょうか?
城跡のことや御岳塚がその見晴らし台であったことなどを教えてくれました。
少し戻ったところにある脇道から登って行けるとのことを聞き、タヌポンは俄然、やる気になりましたが・・・。
時刻は4時半、でも殿様は仕事の手をやめてお話をいろいろ聞かせてくれますし、
それも聞きたい気もしますが、はやく塚や城跡に行きたい気もします。
とりあえず行ってみます、とお礼を言って話を切り上げたのですが・・・。
城跡および塚へ続く山路の入口とは・・・
これですよ。
この奥に入っていく気になりますか?!
結局、意を決して進んで行くことにしたのですが・・・。
タヌポンは半ズボン。これがまちがい。
下生えの笹や竹の切り株に脛をぶつけ、傷だらけ。
最初の入口は胸まで届く雑草で踏み分け道も見えません。
闇雲に草を掻き分け進みましたが、
ヘビもいるんじゃあないかとドキドキ。
竹と竹の間にはクモの巣がかかっていて
何度も顔と頭を襲います。
途中で、来るんじゃなかったかなと、
少し後悔したのも事実です。
ようやくいくぶんかは開けてきたところに出ましたが、何とかこれでも道かな、という程度。
かなり歩いた(と思うだけで実際はほんのわずかなのでしょうが)と思うところで、以下のような光景。
盛り土ってこれかなあ?

射程距離にきているようなのですが、決め手がありません。
さらに進んでいきましたが、
どうやら行き先はさきほど円明寺脇の道の農道から入ろうとした入口へ向かっているような感じがしました。
これではちがうのかなあ、と戻ってみましたが、結局、それらしいところは見つかりませんでした。
とても残念ですが、「城跡」というものは地質学的な見方を心得ていないと、見ても分からないのかもという気がしました。
教えてもらって、「あっ、これがそうなの?」というものかも知れません。
もどって顛末をお話ししようと、さきほどの方のところに行きましたがもう帰られたようでした。
これは、季節を代えて再挑戦しようかと思っています。
少なくとも雑草が少なく、薮蚊のいない時期、冬場がいいかと思います。
ちなみに肝心なことですが、岩井城は別名、文間城ともいい南北朝の頃の城らしいのですが、
城主とか詳しいことは不明です。
利根川図志にも掲載されていることを聞きましたがまだ確かめていません。
(05/08/10追記) (05/08/09撮影)
さて、円明寺前の通りからコーナーに道祖神がある路をまっすぐ蛟蝄神社の方向に向かうと、
左手に子育観音を祀った祠があります。
しかし、これは余程丹念に民家を一軒ずつ見ていかないと見逃してしまいそうです。
というのは、路傍とはいうものの道路から少し奥まったところにあり、
その前は草木が祠を隠すかのように繁っていて、とても見えにくいからです。
以下がそうなのですが、これは民家の庭と言ってもいいような場所です。
右手には手水もあります。蛇口はありますが手水自体は古いもののようです。

祠の前面は観音開きのガラスの格子戸になっていますが、簡単な留め金で止めてあるだけで鍵はかかってないようです。
せっかくですから、開けて見せていただきました。
手が4本あるように見えますね。
(クリックすると拡大できます)
千手観音のたくさんの手ほどではないにしろ、その意味するところは何なのでしょう?
多くのひとへの慈愛?
また、如来、菩薩、観音・・・。
それぞれ、どうちがうのでしょうか?
観世音とか観自在と言う言葉もありますね。
神社関連の本を読んで少しだけ分かりかけてきたら、今度は仏教関係です。
これもまったくタヌポンは知りません。
知らなくても済んでしまうから、
いつまでも覚えないし、分かりませんね。
少し勉強してからもう一度コンテンツを見直してみるつもりです。
→ 観音様と弁天様については、羽中地区探索後(06/05/09コンテンツ作成)に少し調べてみました。
「羽中の稲荷大明神ほか」の観音堂「観音様と弁天様(観世音菩薩と弁財天)のちがい」参照。
水神社・水神宮については、上曽根・押付新田地区で3ヵ所ほど見つけ紹介しました。
利根町ではもうひとつ立木新田というところにあるような記述を町史で見ましたが、どうも見つかりません。
立木新田という場所が地図上でよく分からないせいもあります。(後日、発見!立木新田の水神宮)
ところが探索中、円明寺から蛟蝄神社へ向かう途中、前記子育観音の祠を過ぎてしばらく進み、交差点を右折して新利根川のたもとまでくると・・・。
何か石碑のようなものが立っています。
石碑の前は雑草がいっぱい伸びて、さらに河に向かって建つその石碑の前に竹を2本立てて注連縄を張っていたようなのですが、その1本は倒れてしまっています。
日頃、善行など行ったことがないタヌポンではありますが、さすがにこれはひどいと思い、雑草を手で抜き、竹を地中に刺し直してなんとか見られるような形に整えました。
これが、立木新田ではなく、「立木の水神宮」でした。
以下がそれです。
町史を詳しく見てみると、この石祠のことも記載されていました。
しかし、秋に注連縄を張る、ということだけで建立の年代とかいっさい不詳ということです。
さて、それでは、立木新田の水神宮とはいったいどこに?
水神宮の石祠がある立木橋の上に立ち、
新利根川の夕日を見ながらしばしたたずむタヌポンでありました。
(05/08/09) (撮影05/07/31・05/08/06)