更新経過
前日更新したばかりですが、ほかの記事を推敲しているといろいろ不備が見つかり、
さっそく再調査をして、急遽、追記しました。
天神宮の石祠の造立年やサイズも掲載していなかったし、
庚申塔群の未確定の造立年、左右側面、最下部の情況などが気にかかり、
また、暑い中で、百均ショベルを持って・・・。
でも、成果はバッチリ、想像以上でした。(16/08/03)
天神宮から千葉龍ケ崎線を挟んで斜め向かいに、
やはり徳満寺関連と思われる墓地があります。
ここに、貴重な十九夜塔が。
石仏調査もほぼ完了寸前での大発見でした。(16/08/02)
天神宮のすぐ右隣りの空き地に庚申塔群を見つけました。
これらの庚申塔群は、2014年夏より久しくサイト更新していなかった後、
半年後にやっと再調査して、サイズ等計測し、追記しました。(15/03/22)
利根町に天神様が3つあると聞いて、探しました。
ひとつは 早尾天神社 でこれは町に住んでいる人ならだいたい知っているでしょう。
あと、知る人ぞ知るで、押戸の天満宮。
しかし、もうひとつが「有名な 徳満寺」の境内にあるというので探してみたのですが・・・。
境内をくまなく探したというのに見つかりません。
やっと見つかって、なるほどこれでは分からないハズと思いました。
その答えは以下に・・・。
しかし、見つけたあとで、こんどはあらたな疑問が・・・。(05/05/24)
けっこう大きいですね。
小さな石祠だけではないのに
どうして見つからなかったのでしょう?
実は、徳満寺境内からは
ここへは行けないのです。
天神宮の敷地自体は
徳満寺の所有地かも知れませんが・・。
徳満寺の正規の入口前の道路を
北にわずか20mほどいった先、
道路に面したところにあるのです。
その道路とは千葉龍ケ崎線で
かなり車の交通量が多く、
どちらかというと徒歩では
通り過ぎる機会が少ない場所です。
確かに徳満寺のすぐ近くとはいえ
まったくの盲点でした。
位置関係は下の写真でお分かりになると思います。
徳満寺の入口が写真の左。右手の鳥居が天神宮です。
目と鼻の先です。
天神宮の真裏は、境内ではなく
徳満寺に隣接した保育園だったのです。
これでは境内の施設・史跡等々を
いくら探しても分からないですよね。
なぜ分かったか?
実は徳満寺のご住職(多分?)の方にお尋ねしたのです。
しかし、すんなりと答えていただいたわけではありません。
あっと・・・誤解のないように。ご住職にいじわるされたということではありません。
ご住職自身も最初、「えーと、どれだったかなあ」。
それはそうなんですね。徳満寺はお寺であり、天神社は神社管轄なんですよね。
たとえば「子育て地蔵」のことなど徳満寺のことをお尋ねしているわけではないので恐縮しました。
「昔は、うちの境内にあったようなんですが、ご存知のように明治の廃仏毀釈のせいで・・・」
なるほど。
それでも思い出していただいたようで・・・。
「たしか保育園の時計台の裏手に鳥居があったけどあれですかな」
これが、タヌポンが「徳満寺の天神宮」をやっと発見したいきさつです。
(しかしほんとうはそのあとすぐに見つかったわけではなく、最初、方向音痴のタヌポンは、すぐ左の鳥居に気が付かず、
道路を横切って向こう側の崖に見つけた小さな階段を登ったりするなど「別の探検」もしていたのです)
さて、天神宮ですが、
まあ菅原道真公が祭神であることは当然なのですが、
それ以外は、この「徳満寺の天神宮」の由緒沿革などは
何ひとつ分かっていません。
石祠と鉄製の鳥居がある、それだけです。
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・!!!!
こんなとき、タヌポンはなぜか、
さらなる???を思い浮かべてしまうのです。
早尾天神社、押戸の天満宮そしてこの徳満寺の天神宮・・・。
どうして 天神社、天満宮、天神宮 と
呼び方がちがうのでしょう?
→ 上記の謎は、以下の「神社の呼び方」で解明します。
さらに先日、もうひとつ発見した
円明寺の天満宮の謎。
これらの回答探索はこれからです。
神社の呼び方には「○○神社」「○○神宮」「○○宮」「○○大社」「○○社」・・・といろいろあります。
これらはいったいどういう決まりでそう呼んでいるのでしょうか。
特例が実は多いのですが、一般的な法則としては次の点があげられます。
(以下は、明治神宮のWebsite より抜粋・引用しました)
ということですが、さて、上記の解釈で、菅原道真公の神社はというと・・・。
天満宮は、3に該当し、古来から伝統的に称されているということですね。
天神社は、5で、大きな神社から御祭神を勧請した神社ということですが、祭神はもちろん菅原道真公ですし、
この場合の大きな神社とはどの神社を指すのでしょうか。京都や九州にある北野天満宮のことでしょうか。
この辺りがいまひとつよく分からないし、では、天神宮は、ということになると、やはり不明です。
ここは、神社の呼び方の種類というより、菅原道真公の神社ということに限って、
「天満」と「天神」の言葉の意味から調べてみたほうがいいようです。
菅原道真公は、「学問の神様」とされ、入学祈願の対象とされています。
でもなぜ「天神様」と呼ばれるのかは、学問の神様というのと符合しませんね。
それは、道真公が、恐ろしい雷神としてのもうひとつの顔をもっているからです。
むしろ、天神様とまつられるそのきっかけは学問の神様としてではなく、
怨霊としての菅原道真公の怒りを鎮めるためのものでした。
その怒りの象徴が、道真公の死後に頻発した落雷だったわけです。
すなわち、天神には雷神の意味があり、道真公の死後、火雷天神と呼ばれ雷神信仰と結びついたのです。
ところが、実は、天神とは必ずしも雷神だけではありません。
天神は、もともとは天津神(あまつかみ)といい、天の神ですから、雷神のほかにもたくさんいるわけです。
たとえば、少彦名命(すくなひこなのみこと)は「天使大明神」と呼ばれ、天津神の1柱で、
これを祭神とする神社も「天神宮」「天神社」と呼んだりするのです。
つまり、「天神宮」「天神社」には、菅原道真公を祭神としない神社もある、ということです。
(例:御幸森天神宮、北白川天神宮、五条天神社など)
これは意外でしたね。さらにややこしくなってきましたが、さて、いっぽうの「天満」にはどういう意味があるのでしょうか?
天満とは天満(そらみつ)。道真の怨霊が雷神となり天に満ちた、という意味
表題のように、天神とちがい天満という言葉は、道真公だけに用いられる言葉です。
死後、天神のうちの1柱とされて「天満大自在天神」略して「天満天神」と呼ばれたというわけです。
ですから、菅原道真公を主として祀る神社は、正式にはすべて「天満天神宮」もしくは「天満天神社」となります。
「天満天神」の宮、「天満天神」の社(やしろ)というわけですね。
ちなみに逆の「天神天満宮」「天神天満社」などはありえない名前になります。
「天満天神宮」「天満天神社」の省略形が、天満宮、天神宮、天神社、さらに天満社も
タヌポンの見た「天満宮」「天神宮」「天神社」のすべてが、「天満天神宮」「天満天神社」に帰結するわけですね。
そして、注意することは、「天満宮」はすなわち菅原道真公ゆかりの神社であると言えますが、
天満のついていない「天神宮」「天神社」には、菅原道真公以外の神様を祭神としている場合もあるということ。
その場合の「天神宮」「天神社」は、「天満天神宮」「天満天神社」とは呼べない、ということも言えます。
あと、天満宮、天神宮、天神社があるなら、天満社もあるのでは、と思って調べてみると・・・ありますね。
天満神社というのもあります。でも、天満がついている限り道真公ゆかりの神社であることはまちがいありません。
やっと、懸案の疑問が氷解しましたが・・・・
それでは、さらに追求して、「天満天神宮」と「天満天神社」のちがいは?
・・・これは、どちらも同じ、大差がない、というしかありませんね。
それと、もうひとつ。
天神宮・天神社には、菅原道真公以外の神様を祭神としている場合もある、ということですから、
徳満寺の天神宮の祭神は、はたして菅原道真公でいいのでしょうか?
『利根町史』には、菅原道真公とあります。でも、その確かな根拠はどこにあるのでしょうか?
▼ さて、祭神のことはともかく、この天神宮石祠の概要をまだ紹介していませんでした。以下。
表面は「天神宮」、右側面「昭和四十八年一月吉日建之」、昭和48年(1973)1月の造立。左側面「祭日一月二十五日」。
左は、台石の左側面。
発 起 人
氏子 総代 大貫千代松
区 長 伊藤勝太郎
世 話 人 荻 清作
〃 北島 政吉
〃 五代 薫
〃 川上 鼎
〃 小倉 利雄
本体: 高62cm、幅41cm、厚30cm。台石上: 高29cm、幅48cm、厚46cm。台石下: 高25cm、幅79cm、厚78cm。
(16/08/03 追記・撮影)
徳満寺の更新が目的で訪れて見ると県道からすぐ脇の雑木の陰に6基の石仏を見つけました。
天神宮も盲点のような場所でしたが、ここも見付けにくいコーナーです。雑木でほとんどが隠れていました。
左の写真を撮る準備をするのに
小1時間も、炎天下で
潅木伐採と雑草とりが必要でした。
待ち時間2時間、診療1分の気分。
これは天神宮のすぐ右隣りで、
石仏の右奥は布川保育園の境界柵。
庚申塔がほとんどでしたが、
1基だけ廻国塔がありました。
左から精しく見ていきましょう。
上記の撮影からちょうど4年。どうも気になっていた各塔の下部を10cm程度掘り下げ、再調査してみました。すると・・・。
左写真で分かるように、要するに、
下部にそれぞれ新発見が・・・。
それにしても前回も夏、今回も夏。
炎天下で、どうしてこんなことばかり、
いつもやっているのでしょう。
もちろん、汗だくで、やはり、
蚊の猛攻撃を受けながら、です。
愚痴はともかく、その甲斐あって、
4基に三猿が見つかったほか、
不明だった造立年も1基判明。
もちろんサイズもプラス修正しました。
以下、それぞれ内容を修正追記。
「奉納大乘玅典日本廻國」とあります。
経典を日本66ヵ所の霊場に納めた記念の塔です。
「宝暦十四甲申正月十日」は、宝暦14年(1764)1月10日の造立。
「乃至㳒界平等利溢」とは、真言宗や浄土宗の塔婆でよく用いられている言葉。
この場合の「法界」とは浮かばれない「無縁霊」のことを指し、
それらを慰撫する、つまり、いわば「たたり封じ」の意味がある言葉のようです。
㳒は法の異体字。「平等利溢」の「益」の異体字?が難解です。
日付下「通山了徹沙彌」は行者の名前でしょうか。
塔を掘り下げたため「彌」の字が判明、本体高も10cm プラス修正しました。
本体: 高55cm、幅30cm、厚17cm。
典型的な青面金剛の刻像塔です。邪鬼を踏みつけ、6臂の上のひとつは三叉戟を持ち忿怒相も特徴のひとつ。
「宝輪」「弓」「矢」も持っています。三猿も、塔下部を掘り下げると見えてきました。以下左から、正面、右側面、左側面。
「文字は刻まれてはいないようです」との従来の論述は表面だけの話。左右側面には、造立年も刻まれていました。
実に甘い調査をしていました。右側面に「文化元甲子十月五日」、文化元年(1804)10月5日の造立と判明。
その下に「□左エ門 平兵衛 平吉 米三郎 周藏」、左側面にも「元藏 彦六 要助 五十六」と計9人の名前。
本体: 高71cm、幅29cm、厚21cm。
これも邪鬼を踏み、三叉戟を持ち忿怒相、
頭上には蛇を巻きつけた青面金剛の刻像塔。
中央左手はショケラを持っています。
また、下部に三猿も見つかりました。
上部には、「明和五戊子」と「十一月吉日」。 明和5年(1768)11月の造立。
左側面に「布川内宿同行三十九人」が刻銘。
本体: 高86cm、幅37cm、厚23cm。
上部に梵字のウンがあります。馬頭観音を示す梵字で、
この場合、刻像されているのは青面金剛ではなく
馬頭観音の可能性もあるように思われましたが・・・。
調べてみるとこの梵字は、青面金剛にも使用されるようです。
前述2基にもありましたが、おきまりの「日月」のマークに加えて、
像は、頭に蛇を巻きつけています。まちがいなく青面金剛です。
下部に三猿も現れ、庚申塔としてのアイデンティテイがそろいました。
「奉供養庚申待」「一結」「(同)行爲二世安樂也」「上宿」の文字が彫られています。
内宿・中宿・浜宿は現存しているのですが、「上宿」とはどこでしょう?
→ 上宿は2016年夏現在、調査中。以前、確かに存在していた区画らしいです。
この塔の造立年が知りたくていろいろ探ってみましたが銘文は見つかりません。
本体: 高83cm、幅42cm、厚28cm。
ちなみに左は、本来の青面金剛をあらわす梵字「ウーン」。
うーーん、梵字はいつまでたっても覚えられませんね。
ここにも梵字のウンがあり、「奉供養庚申待同行八人爲二世安樂也」とあります。
刻像されているのは、やはり青面金剛で、邪鬼を踏み、
頭部の髑髏マークが典型的です。日月雲のマークもあります。
三猿が足下に見つかり、「二鶏」も描かれ、庚申塔の要素がオンパレードです。
右に小さく「元禄三庚午十月吉日」は、元禄3年(1690)10月の造立。
左下には、「布川村上宿」とあります。
前述と同様、「上宿」が出てきます。布川にあった区画であることは確実です。
現在のどこにあたるのでしょうか。中宿・内宿とは別のようです。
タヌポンが棲んでいるところが、もしかして、ということもあります。
本体: 高108cm、幅46cm、厚26cm。
当初、半分地中に埋まっていて、
掘り下げましたが、さらに下まで。
「慶應元丑年 八月吉日」、
慶應元年は1865年の8月造立。
ここでの庚申塔で、唯一の文字塔です。
日月雲の浮彫りはあります。
右側面には「講中」。
縦に亀裂が入り、あまり動かせません。
本体: 高51cm、幅23cm、厚15cm。
(16/08/03 追記・撮影)
以下左は、徳満寺の天神宮から、千葉龍ケ崎線を挟んで斜め向こう側にある石段。この上に徳満寺の関連墓地があります。
右写真は石段上から道路を見たシーン。この石段は前から気づいていたのですが、登っても何もなさそうに見えました。
ところが、「根本さん情報」で、「徳満寺の関連墓地のようです」とのことで調査して見ました。しかし、実際は雑木林。
藪蚊ぶんぶん、蜘蛛の巣ばかりの中に、ランダムに墓石がというような感じです。ほとんどが、墓塔のようですが・・・。
→ ここは現在「旧卵塔(墓地)」と呼ばれている墓地と判明しました。(17/06/28 徳満寺住職談)
1基、石田年子氏に「大発見!やはり昔繁栄した地域は奥が深い」とメールをいただいた初期十九夜塔が鎮座していました。
周囲が林に囲まれて風雨にあまりさらされないせいか、保存状態が実にいい、美しい如意輪観音の像容です。
如意輪観音刻像のこうした形での墓塔もよく見かけるので、銘文を見てみると・・・。
光背右上に「寛文元年辛丑」、その下に「同行十四人」。
これを見て、期待がたかまります。十四人とあれば、墓塔ではない可能性があり、
しかも、万治年代直後の寛文元年(1661)という古い造立。
光背左上に「八月十九日」。これは、まさに、初期の如意輪観音浮彫の十九夜塔で、
利根町ではいちばん古く、全国でも山武市の万治3年(1660)に次ぐ2位の塔です。
左下に「弐人」とあり、不可解でしたが、その上に小さく「セハ人」とあるようです。
世話人が2人ということなら理解できます。
こういう貴重な塔が見つかるのなら、この墓地の中を、
もう少し探してみたい気もしますが、墓地というより林の中ですからねえ。
地中に埋まっているのもあるし、銘文みるために掘り起こしなどやってると、
まるでそれは、「墓荒らし」のようではありませんか(笑)。
徳満寺のご住職にいちどお話ししてみたいと思います。
この塔も、境内に遷して、きちんと管理されることを期待しますが・・・。
本体: 高91cm、幅43cm、厚19cm。
この塔の発見をもって、2016年8月1日現在、利根町全域での十九夜塔の調査データが完成しました。
→ 利根町の十九夜塔全62基.xlsx (27KB)
(16/08/02 追記・16/08/02・16/07/31 撮影)
(17/06/28・16/08/03・16/08/02・15/03/22・12/09/05・12/08/29・11/01/18・10/12/12 追記) (05/05/24) (撮影 16/08/03・16/08/02・16/07/31・12/09/05・12/08/29・05/04/08)
本コンテンツの石造物データ → 徳満寺の天神宮石造物一覧.xlsx (13KB)