タヌポンの利根ぽんぽ行 円明寺

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円明寺への石段


タヌポンの利根ぽんぽ行のコンテンツを創り始めて間もないときにこの円明寺を訪れてはいたのです。
2004年の晩秋の頃で、とても紅葉が美しく、また驚くほど大量のどんぐりが落ちていてびっくりしたりしました。
(上の写真はその少し後、05年4月上旬撮影)

主にスライドショーなどで境内のこうした自然を紹介していたのですが、いざお寺そのもののことを書こうとすると・・・ほとんど何も資料が見つからないのです。
それには理由がありました・・・。

円明寺所在地:利根町立木1368



タイトル画像は2画像のjavascript処理をしていますが、IE以外では固定1画像のみの表示となりますので、以下、2画像のミニ画像を再掲します。(クリック拡大できます)

円明寺への石段 円明寺山門前

立木地区周辺マップ

蛟もう神社で紹介した周辺地図です。円明寺は立木地区の西方に位置しています。
このページは円明寺のみをご紹介します。その他のポイントは地図上のアイコンをクリックしてください。


(05/08/09地図改訂)


創建2つの説

円明寺山門

約50段ほどの石段を登ると一旦、左右(東西)に走る道路に出ます。寺はそこからまた少し石段を上がった上にあり、円明寺の門が見えてきます。
石段を上がる手前右手に「浄土宗長根山 円明寺」という石碑が建てられています。

円明寺は創建以来、戦いや失火などでたびたびの火災にあい炎上し、古記録や寺宝が焼失してしまいました。
江戸時代も貞享3年(1686)と文政7年(1824)、明治になっても4年(1871)と大火に遭っています。

こうした火災での古記録の焼失が、寺の創建に関する2つの説を生み出しました。

そのひとつは、開山を良栄上人とする説。
もうひとつは、良忠上人とする説。

これについては故吉浜正次氏が「長根山地蔵院円明寺ノ概観」を著していますが、残念なことに研究半ばで他界されました。
この詳細についてはここでは割愛しますが、興味ある方は利根町史第3巻第3節円明寺を参照ください。
町史では・・・
鎌倉の光明寺の寺伝により、建長7年(1255)に良忠上人が当時、この地の勢力者である千葉氏(千葉介頼胤)の協力により創建。
その後、「続浄土全書」の記述により、
応永7年(1400)建初、同9年(1402)円明寺を浄土宗名越派とふまえて良栄上人が開山したとしています。
なお山号の「長根山」は江戸時代の初期に寺の南側山麓に「ナガネ」と称しているところがあり、これにより現在地の円明寺一帯を「ナガネヤマ=長根山」と称したということです。
また、円明寺の院号は「地蔵院」といいます。山号と続けると「長根山地蔵院円明寺」となります。
院号のいわれとしては、建長7年開山の折、千葉介頼胤夫人が延明地蔵菩薩を寄進したことによります。
後にやはり火災に遭い天正6年(1580)、千葉介邦胤夫人が改めて地蔵菩薩を寄進したということです。

要約するとこうなりますが、度重なる火災のためかその他の文献が見つからず、境内の石碑等々のいわれなどほとんどがタヌポンには分かりません。
住職のかたにお聞きすればいろいろ分かるのではないかとは思いますが・・・。
とにかく、春と秋の自然の美しさばかりが印象に残っています。
境内の芝生のなかにゴルフのショートホールに見立てたものがあり、これはちょっとご愛嬌か、という感じでした。


境内の中は未知の世界

山門の向こうに本堂が見えます。本堂の篆額の上に月星型の寺紋がみえますが、これは千葉氏の家紋でもあります。


山門から本堂を 本堂
男女の石像

本堂脇に建てられた男女2人の像は果たして?
→それほど昔ではない前のご住職の方々のようです。
こうした像を建てられるくらいですから立派な方だったのでしよう。


本堂前の篆額は住職だった方の書のようです。右はきれいな本堂中の様子。左右上部に掲げられた絵馬らしきものも気になります。

本堂前 本堂の中

鐘楼であることはもちろん分かりますが碑文などはよく分かりません。

鐘楼

戻って、山門入口手前にある二十三夜塔。右は女人講の文字が読めます。月待講のもののようです。

二十三夜塔 女人講

四郡大師53番

祠とその中に安置されているのは大師様ですよね?左の画像クリックすると番号が見えます。



この額の文字も意味等よく分かりません。大師堂は木陰のなかにひっそりと建っています。

?

利根七福神 布袋尊

布袋尊と石碑・句碑

真ん中の布袋尊だけは利根七福神で紹介しました。

左右に句碑が立っていますが、これもだれの句なのかさっぱり?
(画像クリックして拡大できます)


円明寺の天神

利根町には3つの天神様があるといわれています。
そのひとつは早尾天神社、もうひとつは押戸の天満宮でこれらはすでに紹介しました(05/04/21現在)。
最後のひとつはようやく先日、見つけました。
徳満寺の境内脇にあるということでしたがいくら探しても分かりません。
それで思い余って寺の境内でうろうろしていたら徳満寺の来客のひとりに怪しまれて詰問されました。
おかげでご住職らしき方とお会いすることができてようやくその場所が分かりました。
これはのちほど徳満寺のコンテンツで紹介します。(徳満寺の天神宮 05/04/24UP)
これで3つそろってめでたしめでたし、と喜んでいたのですが・・・。

なんと先日、円明寺を再訪問したとき思いがけないものを発見!

寺の境内に入ってすぐ右手にある少し小高い塚のようになっているところ。手前には手水があります。その塚の上に小さな祠があります。



その祠の中を覗いてみると・・・なんと!!!!

祠の中

これはいったいどうしたことでしょう!

そこにあるのは、天満宮のおそらく鳥居に掲げられるべき神額「天満宮」が真っ二つに割られたもの、そして祠の中央にはなにやら人物の写真のようなものが・・・。


タヌポンはおそるおそるその2つの断片を上下に並べてみました。けっこう重量があります。
まさしく天満宮ですね。左に記された「願主 芳濱氏」と読めるのはいったい何でしょうか?
さて、中の写真らしきものは・・・?
これはさすがに取り出してはいけないように思ってそのままにしておきました。菅原道真公なのでしょうね。
でも古いものではない感じです。
並べてみた額も、そのままでは下に落ちてしまいそうなので元の通りに戻しました。

つなげてみると・・・ 菅原道真公?

さて、これが天満宮であったとしたら、利根町にはつごう4つの天神様があることになります。
しかし神額が割られているとはどういうことでしょう?
明治の「廃仏毀釈」時に円明寺がこのような処置をとったのでしょうか?
なぞです。
とにかく、円明寺は分からないことだらけです。


本日はここまで。
美しい円明寺の景色は後日。ひとつだけ、景色を以下紹介します。

裏参道

(05/04/21)(撮影04/11/13・04/11/23・05/04/08)(続く)



立木三義人


円明寺の西側の墓地には、「立木三義人」と呼ばれる人たちの墓があります。
この人たちはどんなことをしたのでしょうか?当時の経緯を見てみましょう。

3人は円明寺に埋葬され「立木の三義人」として人々から敬慕され後世まで語り継がれていきました。
現在では毎年、春の彼岸に円明寺で法要が行われています。
また、山田利重郎は大正14年(1925)、彼らの徳を讃えて「立木三義人和讃」を作っています。


義人名 戒名 没年 現家号
喜右衛門 良真道性居士 寛政5年12月26日 山田三郎兵衛
次郎兵衛 良高観明信士 寛政5年9月16日 本谷儀兵衛
林七 良好不醜信士 寛政5年12月7日 川上新右衛門

写真は、三義人のひとり川上家の墓所(以上:関口秀明氏著「円明寺」および利根町史第6巻より)



念仏院(泪塚)について


円明寺に深い関わりがあるのですが、所在地が押付新田なのでその関連コンテンツで紹介します。


斬られ地蔵について


円明寺で管理している地蔵様なのですが、これも横須賀地区の新館中学校脇にあるためその項目で紹介します。


円明寺の景色


それでは円明寺の景色です。
春と秋、混在させたシーン。境内、参道、裏参道、そして近隣の桜など・・・。



(05/09/10追記・撮影)
(05/04/24)(撮影04/11/13・04/11/23・05/04/23)


円明寺近隣の道祖神はこちらに移行しました。(05/08/08)