タヌポンの利根ぽんぽ行 円明寺

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更新経過

石造物データの構築・掲載のため各コンテンツを見直ししていましたが、
円明寺は改築後にと思っていたら、いろいろあって後回しに。
昨年にはお披露目のイベントもあったようなのですが、参加もできず、
ようやく2016年になって、再調査を。
地震で倒れたままになっていた古い常夜燈が撤去されてしまったのか、
見当らないのが、ちょっと心配です。

新・円明寺

本堂の落慶は、2015年5月17日。
第一印象は、本堂が美しくなったのは無論、
1.駐車場ができた
2.高い供養塔が建てられた
3.銅像が移動した
4.常夜燈が消えた
5.大幅な変化がなくてよかった
(つまりコンテンツ変更が少なくてすんだ)
というところです。(16/06/29)


改装中の円明寺

只今、改装中!

2011/3/11の大地震の影響もあってか、
円明寺はただいま本堂等の改装中です。
本年(2013)2月に上棟式がありましたが、
体調悪く訪問することができませんでした。
盛大な式典だったと聞いています。

右は、現在(13/08/02)の様子。
銅像等便宜上か移動されたりしていますが、
改装後は施設の若干の移動があるのかも。(13/08/15)


開設8年を経過して、少し知識を得たこともあり、
やっと円明寺の本格的な更新作業に入ることにし、ようやくここに再構成UPできる運びに。

今回の更新では、当初のコンテンツで活かした部分はわずか一部で、
90%はまったく新しくなっています。
それでも、まだ、調査が行き届いていない箇所も多々ありますが、
概ね「円明寺」の概要は説明できているかと考えています。(12/08/27)


円明寺に関しては、本サイト開設当初からたびたび訪れ、
コンテンツも比較的早い時期にUPしました。
しかし、その内容は、主に景色的な要素が中心で、円明寺の施設等については、
ほとんど何も触れていないような状態がずっと続いていました。

探索当初から、神道系に興味があり、寺院関連については、
まったくといいくらい言及してはいない時期でした。
解説するにはあまりにも知識がなかったためもあります。(05/04/21)


円明寺所在地: 利根町立木1368 TEL: 0297−68−2530


立木地区周辺マップ

円明寺は立木地区の西方に位置しています。

円明寺境内図

★ 各施設・石塔類・樹木等の画像部分(マウスオーバーで色が変化)をクリックすると、当該説明にリンクします。

円明寺境内図 本堂 寺務所 定礎 山門 社寺号標石 三界万霊塔 二十三夜塔 阿弥陀如来遷座供養塔 本堂前の常夜燈 本堂前の常夜燈 二十五世夫妻銅像 二十五世夫妻銅像 鐘楼 手水「盥嗽」 倒れた常夜燈 利根七福神布袋尊 四郡大師53番 石塔など4基 歴代上人の墓 境内奥の石仏 円明寺裏参道 吉浜隨立院碑 山田松翁歌碑 折戸庵の句碑 吉浜楚孝歌碑 高野誠求翁寿蔵碑 地脇岸逵句碑 文行坂本義貴歌碑 飯塚与右衛門歌碑 関口洋遺詠碑 立木三義人 円明寺の巨木スダジイ群 円明寺の巨木スダジイ群 円明寺の巨木スダジイ群 円明寺の巨木スダジイ群 円明寺の巨木スダジイ群 円明寺の巨木スダジイ群 円明寺の巨木スダジイ群 金木犀 カヤ 3本榎 3本榎 3本榎 円明寺の天満宮 天満宮の手水

浄土宗 長根山 地蔵院 円明寺

山号・院号の由来

浄土宗 長根山 円明寺

山号の「長根山」は、江戸時代初期に
寺の南側山麓を「ナガネ」と称し、
これにより現在地の円明寺一帯を
「ナガネヤマ」と称したということです。
「ナガネ」とは、見晴らしのよい
ゆるやかな坂道という意味のようです。

また、院号は「地蔵院」といいます。
院号のいわれは、建長7年(1255)
開山の折の、千葉介頼胤夫人の
延明地蔵菩薩(木造)寄進によります。
後に火災に遭い天正8年(1580)、
同夫人が改めて地蔵菩薩(木造)を
寄進したということです。

写真の石柱では、院号を省略し、
「浄土宗 長根山 円明寺」とあります。

円明寺への階段

以下の写真の少し南に、新利根川が東西に流れています。そこに架かっている小橋の名前は、「寺下橋」。
この場合の「寺」とは、むろん円明寺のこと。羽中や福木からの人は、いずれにせよ坂道を登って行かねばなりません。

円明寺への階段

円明寺へ行くには、本来はここから
登って行くのが正当なのでしょう。

駐車スペースもあるし、初夏には
ツツジも美しく咲いています。
また、参道としての階段脇は
桜並木ですから、春も絶好の・・・。

でも、真夏のある日、
2.3段登りかけたときに、
ヘビを見かけて、一瞬固まりました。

円明寺への階段

でも、この駐車場が満杯だったことは・・・いまだかつて見たことがありません(笑)。階段を登っている人も見ないですね。
円明寺にはこの階段を登らずに行けますし、実は、山門前の数段の階段すら登らなくても境内に入れる道もあるのです。

定礎はタイムカプセル?

下左は、山門から、すぐ下の道路・階段上を見下ろしたところ。前述の階段を登った右手に石塔のようなものがあります。
これは「定礎」(ていそ)と呼ばれるもので、都心などのビルで、よく壁などに着工年月日等を彫り込んだ板を見かけます。
神社の石段の「石階供養塔」が該当するような気もしますが、円明寺のような箱型になった立派な定礎は、初めて見ました。

円明寺階段新設工事」「施主 円明寺住職 大竹真琴」「竣工 平成3年(1991)8月吉日」等が記されています。

本体: 高80cm、幅58cm、厚56cm。

山門から定礎付近を見下ろす 定礎

工事の前半、あるいは中頃に、竣工までの工事の安全祈願と、建物の永遠堅固などを祈って取り付けられる定礎板。表面には竣工の日付、建物の完成日が刻まれるほか、裏側には定礎箱があり、いくつかの物・・・建築図面、お札や通貨、その日(あるいは当時)の新聞、施主や施工者などの工事関係者の名簿や、出資者の名簿などのようなものを入れるのが一般的です。原則として定礎箱は、建物が壊されるまで開けることはありませんので、タイムカプセルのようなものとなっています。(Wikipedia)

なお、上記写真の右上に写っている石碑は、神風特攻隊員の冥福を祈ったもの。後半で紹介します→ 関口洋遺詠碑

山門

山門

約50段程の前述石段を登ると一旦、
左右(東西)に走る道路に出ます。
円明寺はそこからまた少し石段を
上がった上にあり、山門が見えます。

この道路は、東は蛟蝄神社に、
西は利根(旧新館)中学校前から
横須賀方面につながっています。

左は2016年6月末時。
山門屋根が修理中で、その奥に、
新築された本堂が見えます。

社寺号標石

社寺号標石 社寺号標石裏面

石段を上がる手前右手に
浄土宗 長根山 円明寺
という標石が建てられています。

この標石の裏には、
奉納 と題して、
白戸五平治先祖代々菩提
平成五年十一月吉日 母屋建立
大願成就
当山二十七代真誉正人
 以下
平成十年八月建之
施主 白戸武 白戸快明 とあります。

平成5年(1993)11月に母屋、そして、
平成10年(1998)8月にこの標石が造立。

本体: 高210cm、幅55cm、厚40cm。
台石: 高39cm、幅113cm、厚97cm。

山門前の石碑

山門に入る手前、山門より少し距離を置いて左右に1基ずつ石碑が建てられています。山門に向かって左→右の順に紹介。

三界万霊塔

下の写真は、左から、正面、次は正面中央に描かれた地蔵菩薩の線画の拡大、最後は裏面の銘文部分の拡大写真です。

正面上部に小さく「三界萬靈」と刻まれています。三界とは、仏教語で欲界・色界・無色界をいいます。萬霊とは、
この三界の有情無情の精霊などのすべてを指し、それらを供養するのが三界万霊塔(さんがいばんれいとう)です。
ある地域の三界萬霊塔では、無縁仏などもいっしょに供養している場合もあるそうです。台石には「女人講」。
読みづらい裏面は、「明治十二年三月十八日建之」明治12年(1879)3月18日の造立銘と「世話人 新地 寺内 両坪」。

三界萬霊塔 三界萬霊塔地蔵菩薩 三界萬霊塔裏面拡大

本体: 高86cm、幅82cm、厚12cm。台石: 高35cm、幅75cm、厚30cm。

二十三夜塔

以前は、この塔の背後左に大樹があったようですが、枯死したのか、伐採されたのか、見えません。少しすっきりしました。

二十三夜塔

外から山門を見て右側にある自然石の塔。「二十三夜塔」とあります。

二十三夜の月待塔では、本尊は勢至菩薩と言われています。
とはいうものの、勢至菩薩の刻像塔をまだ見たことがありません。
利根町で見る二十三夜塔は、こうした文字塔のほうが多いようです。
「夜」の字は古文書で悩まされた崩し字。単独で見ると、読めないことも。

銘文は台石表「講中」だけで、本体は正面・裏面共に造立年等がなく、当初は?

2016年再調査で、台石側面(以下、右側面、左側面)を見て、納得。
右測面は講中の構成員の名前が11人列記されています。

酒井善吉 酒井熊治 木村兼三郎 古川やす 飯田角治郎 角田庄兵エ
小山兼助 木村忠七 木村佐之助 角田喜三郎 清水武助

二十三夜塔

左側面に、ようやく「明治十六年十一月廿三日建之」。
明治16年(1883)11月23日の造立。「廿」は左のような異体字。
明治にもなると、干支や吉日の表記も少なくなりますね。

本体: 高87cm、幅56cm、厚11cm。台石: 高28cm、幅67cm、厚29cm。

二十三夜塔台石右側面 二十三夜塔台石左側面

創建2つの説

境内から山門を見返した写真。左は2016年時(山門補修中)。駐車場が新設されています。右は本堂新築前(2006年)。

境内から山門を振り向く2016年時 境内から山門を振り向く2006年時

円明寺は創建以来、戦いや失火などでたびたびの火災にあい炎上し、古記録や多くの寺宝が焼失してしまいました。
江戸時代以後も貞享3年(1686)と文政7年(1824)、明治になっても4年(1871)と大火に遭っています。

古くは応永時代後半(1403〜1428)、万治3年(1660)、寛永年間(1624〜1642)も一部記録に残っています。

こうした火災での古記録の焼失が、寺の創建に関する2つの説を生み出しました。

そのひとつは、開山を良栄上人とする説。もうひとつは、良忠上人とする説。

これについては吉浜正次氏が『長根山地蔵院円明寺ノ概観』を著していますが、残念なことに研究半ばで他界されました。
この詳細についてはここでは割愛しますが、興味ある方は『利根町史』第3巻 第4章第3節 円明寺 を参照ください。
『利根町史』第5巻の要約では・・・以下。

鎌倉の光明寺の寺伝により、建長7年(1255)良忠上人 が当時、この地の勢力者である 千葉氏(千葉介頼胤) の協力により創建。その後、「続浄土全書」の記述により、応永7年(1400)建初、同9年(1402) 円明寺を 浄土宗名越派 とふまえて 良栄上人 が開山したとしています。

私見ですが・・・。
円明寺の周囲は、南側は崖で、現在北側には土塁はありませんが、以前は、コの字型の土塁になっていたそうです。
これでは、円明寺境内はまるでカマドと煙突のような感じで、もし南風が吹荒れるような日に、火災が発生すると・・・。
一気に炎上してしまうのは、火を見るより明らか。この地形的な立地が円明寺の火災の多さの原因のひとつではないかと。

新・本堂

山門の向こうに新・本堂が見えます。以前と比べて、いかにも寺院らしい建物に変わりました。
以前の芝生部分に花壇ができ、手前が広い駐車場となり奥の寺務所等へと続く通路も舗装されています。
対の以前からある常夜燈は少し間隔を広げてほぼ同様の位置にありますが、新たに黒色の雨水桝も設置されました。
左方にあった利根町には珍しい男女の彫像(二十五世夫妻銅像)は、この写真の右手、寺務所の前に移動しました。

山門から新本堂を

(参考)以下は旧・本堂。

旧本堂
本堂

本堂前にニョキッと立っている塔が気になりますね。調べてみましょう。
(以下独り言→ これがあるため、本堂のみを真正面から撮影できない!うーーん、来るのが遅かった!(笑)。立たないうちに本堂を撮れれば・・・)

阿弥陀如来遷座供養塔

阿弥陀如来遷座供養塔

以下、正面、右側面、左側面、裏面の順(写真も同様)。

南無阿彌陀佛 奉修本堂落慶阿彌陀如来遷座供養塔
南無阿彌陀佛 彌陀本誓願極樂之要門定散等囬向速證無生身
南無阿彌陀佛 國豊民安兵戈無用崇徳興仁務修禮譲
南無阿彌陀佛 平成二十七年五月十七日願主現住第二十七世眞譽正人

右側面は、読経の後に唱える「回向文」のひとつ「本誓偈(ほんぜいげ)」というもの。
読みは、「弥陀の本誓願(ほんぜいがんは)極楽の要門なり、定散(じょうさん)等しく回向して、速やかに無生身(むしょうしん)を証せん」
意味は、「阿弥陀仏の本願は極楽往生のための大切な教え(=要門)。諸々の修行によって得た功徳を回し向けて、速やかに無生身を得ましょう」

左側面は、浄土三部経中、仏説無量寿経の一節。「天下和順 日月清明 風雨以時 災歯s起 国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼譲」の後半。
「天下は平和になり、月日は明るく輝き、風や雨はほどよく、災害厄病はおこらず、国豊かに人安らかに、軍隊兵器無用となり、徳をあがめ仁を尊び、礼節を大切にする」

平成27年(2015)5月17日。現住職、眞譽上人が願主として建立。

本体: 高360cm、幅24cm、厚24cm。

阿弥陀如来遷座供養塔右側面 阿弥陀如来遷座供養塔左側面 阿弥陀如来遷座供養塔裏面

月星の寺紋

新しい本堂の庇と屋根の部分に、円明寺の寺紋が施されていました。
よく見ると屋根上は中央に別の新しい紋が。これは別のもので大きく見ることができます。後ほど触れます(→ 雨水桝)。

月星の寺紋 月星の寺紋

円明寺の寺紋は、千葉家の「月星」の紋です。
千葉家が支配した立木の荘所に建長7年(1255)ころ、千葉介頼胤が堂宇を建立、良忠上人が円明寺と号し開山。

したがって、「月星」は千葉宗家の紋で千葉庶流ほかは使用を許されていません。

ところが、円明寺の案内書に、「大本山増上寺は、寺紋の芯に「月星」を据えた変型として許される」の記述。

浄土宗の大本山増上寺は、徳川家の家紋の葵紋で、ちょっと千葉家とは比較にならないと思うのですが・・・。

いずれにせよ、円明寺の寺紋の「月星」はこれほど格別のものであったということなのでしょう。

扁額

本堂入口扉の上の扁額も新しく立派になりました。以下、右が従来のもの。よく見ると、書も銘の内容もまったく同じです。

新・扁額 旧扁額

円明寺の文字の左に、「自中興良印上人」「第廿五卋 廣誉」の銘と 花押 が記されています。

開山・良忠上人、そして、中興名越派の開山・良栄上人を経て、天文年間(1532〜1555)に
中興の良印上人より代数を数え、中興何世と数えます。つまり、良印上人は中興一世になるわけです。
さて、この扁額の揮毫は、良印上人のものの写しなのでしょうか、それとも「廣誉第二十五世」の揮毫?

ちなみに二十五世とは、銅像の方ですね。

「大竹智海」「第二十五世 廣誉」そして、別の資料(『利根町史』第3巻)にある「第二十五世 良照」。
これらは、いずれも同じ人を指しているのでしょうか。俗名・諱・雅号・本名・戒名・通称・・・いろいろありそうで混乱します。

さて、円明寺の寺宝ですが、火災のこともありますので、前の扁額もそれほどの年代物ではなさそうです。
以前扁額の文字の朱は、定期的に塗りなおしというか、額そのものが同内容で造りなおされているようにも思いました。
新しい扁額も、今度は金文字で、これも時が経てば、やはり金文字等同じ内容で造り替えられるのでしょうか。

賽銭箱

賽銭箱

浄財」とあり、以前のものとほぼ同じデザインに見えます。
まだ十分新しく見えましたが、新品に替えられたようです。
本堂がきれいになりすぎると少し古いだけで目立つのでしょうか。

他の地区でも、気に入った賽銭箱がありましたが、
これもなかなかデザインがいいので、好みです。
まさに、海賊船にある宝箱、いや千両箱のような・・・。
ひとつ欲しいですが、ウサギ小屋当家には、入れる宝がないし、
手狭で置いておく場所もありません。悲しい話です。

当家にはこういう形の貯金箱でいいかも。

雨水桝

雨水桝

新たに設置された対の雨水桝。金属製のように見えましたが、何でしょう?
下記のこれも対の常夜燈の内側に入り込むように設置されています。
この分だけ2基の常夜燈の間隔が拡がったようです。

気になったのはここに記されている紋。月星の紋に加えて屋根にもありました。
寺紋が2種あるということでしょうか。

雨水桝と紋

調べてみると
「丸に抱き花杏葉」紋
というようです。

本体: 高107cm、幅100cm、厚100cm。

杏葉紋(ぎょうようもん)

丸に抱き花杏葉紋

杏葉は西南アジア地方から、中国へそして日本に伝わった文様の一種。「ぎょうよう」とは馬の装飾を指す外来語。大名の間に広まり、豊後の大友宗麟が杏葉紋を権威あるものとして使用、一族・有力家臣、立花氏などにも使用を許可。浄土宗の寺院でも用いられる が、これは、開祖・法然が立花氏の出身のため。
きものと悉皆みなぎ「家紋インデックス」より)

本堂前の常夜燈

これは、本堂落慶後は若干移動しただけで本体は変化していません。

本堂前の常夜燈 本堂前の常夜燈

2基1対の真っ白な常夜燈。
2基で正面に一文字ずつ「奉納」。
裏面に「千葉県本埜村 武藤武雄 みよ
昭和六十年六月吉日」、
昭和60年(1985)6月の造立。
新しく見えますがそれでも、かれこれ
四半世紀以上も経過しているのですね。

千葉県本埜村は、2010年(平成22年)
3月23日に印西市に編入合併。
千葉県と聞くと遠そうですが、
意外と円明寺から近距離です。

円明寺境内には、ほかに古い常夜燈が
別に2基あります。後述します。

本体: 高216cm、幅75cm、厚70cm。

寺務所

本堂右に連結して「浄土宗円明寺寺務所」が新築されました。本堂との中間に銅像も移されています。金木犀も健在。

寺務所 寺務所とその周囲

二十五世夫妻銅像

二十五世夫妻銅像

台石表には、「大竹智海師」「大竹敏先生」とありますが、
台石裏には、大竹智海師は「當山二十五世」、
大竹敏先生は、「二十五世令夫人」となっています。

これらの銅像は、昭和57年(1982)1月建立で、
表面題字は「大本山増上寺大僧正 藤井實應」(臺下)。
書は「大房 川村一郎」、「梶谷敏男刻」となっています。

『利根町史』第5巻は平成5年(1993)刊行で、
そこには円明寺住職「大竹真琴」とあります。
この方は、二十五世夫妻のご子息で
第二十六世となられるわけなのでしょうか。
それとも「大竹真琴」=「大竹智海師」?ではないですよね。
門柱裏の「二十六代真誉上人」という表記もありますし・・・。

ちなみに、大本山増上寺の藤井実応大僧正は増上寺84代法主で故人、現在は、第88代の八木季生法主。

二十五世夫妻銅像裏面 二十五世夫妻銅像裏面

左は銅像下の碑の裏側。
前述に加えて、「二十五世大竹智海師」が、
昭和54年(1979)に勲五等雙光旭日章を、
「二十五世令夫人」が翌55年(1980)に
勲六等瑞宝章を賜ったことをはじめとして、
いずれも幼児保育の普及・福祉教育等に
尽力されたことなどが記されています。

「伊藤五百亀」作

銅像本体の裏面に「五百龜」(いおき)とあります。彫塑の伊藤五百亀(1918−1992)の作品。日展作家ということです。

五百龜銘 五百龜銘

智海師本体: 高65cm、幅61cm、厚38cm。台石: 高123cm、幅63cm、厚52cm。
敏先生本体: 高63cm、幅54cm、厚35cm。台石: 高112cm、幅56cm、厚49cm。

落慶記念植樹

落慶記念植樹

金木犀の背後、事務所と庫裡の間辺りに、
落慶記念の植樹がなされました。

「平成二十七年五月十七日」付の植樹です。

樹木の名前は苦手なんですが、
これはもみじでしょうか。
なにはともかく、おめでたいことです。


以下は、参考までに、新・本堂落慶前の記述です。
新しい本堂の内部については、お披露目イベントにも参加してませんし、檀家でもないのでまったく分かりません。
いつか機会があれば・・・。

旧本堂内

本堂内

施錠された扉の汚れた窓ガラスの隙間から、得意の・・・。
ガラス越しですが、意外ときれいに撮れました。
とても美しい堂内で、立て直すのがもったいないような。

いつかは取材したいと思っていますが、課題は、
中央の祭壇に安置されている仏像の名称と由来。
『利根町史』第5巻に、「地蔵尊」の写真がありますが、
これとはちょっとちがうようです。
浄土宗ですから、「木造阿弥陀如来座像」というところ?
そして、壁に設置された2つの絵馬のような額について。

ひんぱんに火災の災禍に遭ってきた円明寺ですから、
昔からの「寺宝」はあまり残ってないかも知れません。
(『利根町史』掲載の「地蔵尊」はどこに?)

てるてる坊主?

旧本堂入口扉の右上に、かなり以前から取り付けられていました。これは、どう見ても「てるてる坊主」ですよね?

照る照る坊主?

近づいて見ると、男女の可憐な顔が見えました。

何か特別な意味があるのかどうか分かりませんが、
愛嬌があっていいですね。あっ、お坊さんと坊主という、しゃれ?
それなら、お坊さんと尼さんということでしょうか。

新築された今は「チョンと切るぞ」になった?
→ 怖い「てるてる坊主」の唄、3番目の歌詞参照。


大震災と再建

2011年3月11日の大震災後

3/11大震災の後で訪問したとき、本堂正面の左右の壁を見ると、
×印の亀裂がいくつも入っていました。
この×印亀裂は、次に大きな地震がくると
建物が倒壊する危険信号ということも何かで聞きました。

しかし、その直後に、「円明寺再建」の噂が・・・。
かなり大幅な再建計画になるようで、時間がかかるとは思いますが
ぜひ完成後の姿を見てみたいですね。

→「次に大きなのが来る前に」めでたく新・本堂が完成しました。
これでひとまず安心ですね。

境内中央右手の施設

鐘楼

鐘楼

山門から境内に入ると、
右手に見えるのがこの鐘楼。

近くに寄って見上げると、
下の写真のように、
梵鐘の縦帯部分に、
「長根山 無量院 円明寺」
の文字が見えます。その左横の
「池ノ間」と呼ばれるスペースに
漢文が彫られています。

梵鐘境内中央向きの面
池ノ間の漢文1

当寺者祈長根山地
藏院円明寺記主禅
師起立之開山者良
栄上人爾来兵戈乱
世衆徒離散成天文
年中良印沙門中興
第壹世至而現世明
治四年依而落雷焼
失之今回相徒協力
一致再建

良栄上人が円明寺を開山した後、
戦乱等を経て天文年間に良印上人が
中興第一世として現在に至るも、
明治4年(1871)の落雷による焼失で
このたび宗徒が一致協力して再建、
とまあ、こんなことが記されています。

文面では、鐘楼の再建というより、
本堂の再建の意味のようです。

池ノ間の漢文2

昭和三十一年八月改築
奉賛会設立仝三十七年
四月十日大本山増上寺
法主椎尾大僧正導師落
慶式挙行
鉄筋コンクリート建七十二坪
総工費金六四六万円
昭和四十五年十一月吉日
    当山第二十五世
    廣 誉 智 海

南無阿弥陀仏

昭和31年(1956)8月に
改築奉賛会を設立、
同37年(1962)4月7日に、
増上寺の椎尾大僧正により、
落慶式が挙行されました。

鉄筋コンクリート建72坪、
というのは本堂のことですね。

昭和45年(1970)11月に、
二十五世の 廣誉 智海 銘で、
この梵鐘が鋳造されたようです。

縦帯部分

茨城県真壁町
鋳物師 小田部庄右ヱ門

上記の「南無阿弥陀仏」と同様、
もうひとつの縦帯部分に彫られた梵鐘鋳造者の銘。
根本寺の鐘楼 でもまったく同様の銘文を見ました。
一般人にはお付き合いのないところですが、
この世界では著名な鋳物師なのでしょう。

梵鐘整備寄附芳名碑

梵鐘整備寄附芳名碑

鐘楼の半分を隠してしまうかのような大きな石碑です。

よくある寄附芳名の碑なのですが、碑の裏表を見てみましたが、
建立日付が見当たりません。
そのため、「梵鐘整備」の意味合いがどの程度の規模のものなのか不明です。
再鋳造したということなのか、補修程度の事なのか・・・。

上の梵鐘の銘文と照らし合わせて考えると、
昭和45年(1970)11月に、
二十五世の 廣誉 智海 銘で行われたことが、
この芳名碑と関連があるように思います。
とすれば、芳名碑の造立も同時期と言えるのではないかと推定します。

本体: 高200cm、幅118cm、厚11cm。台石: 高46cm、幅198cm、厚47cm。

手水「盥嗽」

上の芳名碑の左隣りにある、なかなか立派な手水。草書体の難しそうな手水鉢文字がいっそう品格を漂わせています。

手水「盥嗽」

「盥」は「かん」と読み、「たらい」の意味。楷書でないと困りますね。
もうひとつの文字は、「嗽」(そう)。意味は「うがい」。
「盥嗽」(かんそう)は、ここで口をすすぎ清める、ということですね。
これとまったく逆の並びの「嗽盥」(そうかん)の手水を
惣新田の勢至堂境内 で見ました。こちらは楷書体。

これを造った人はなかなかの文人のようです。

手水右側面の文字(下左写真)も、難物。植木の傍で撮影も難物。

嘉永五龍次壬子禩

これは、意味は単純に嘉永5年(1852)なのですが、「龍次」とか「禩」とか余計(?)な文字が付いています。
「龍次」とは年号の尊称で、「禩」は「年」と同様の文字です。年号の尊称なんて、「嘉永5年様」とでも?(笑)
右側面には他に「冬十一月二十八日」と、「當村 古川由右衛門」の刻銘。この古川さんは、後ほど再登場します。

左側面(下右写真)には、「當山二十世 良泉上人代」「明興院順譽良和清河淨心居士」。
これは、古川由右衛門の戒名なのでしょうか。生前の逆修なのか、身内が供養で建てたのか。

ちなみに、「良泉上人」は、円明寺紹介の年表にも、嘉永6年(1853)五重相伝会の項目で名前が出てきます。
嘉永〜文久年間の幕末、あるいは明治維新の時代に二十世として活躍された上人と言えそうです。

手水「盥嗽」右側面 手水「盥嗽」左側面

本体: 高51cm、幅107cm、厚51cm。

境内の右手には、ほかに母屋や庫裏などがありますが、これらの紹介は割愛します。
なお、山門を入ってすぐ右手に見える樹木に囲まれた小高い塚は 円明寺の天満宮 で、後半で紹介します。

境内中央左手の施設

以下は、本堂落慶以前に撮影した写真で説明します。というのは、地震で倒れた古い常夜燈の姿が見えなくなったことと、
石碑・石塔3基が、これは季節的な面もありますが、紫陽花の潅木の陰になり、これも見えなくなってしまっているからです。

常夜燈のあった場所

左は2016年現在、空疎な空間になっています。
ここに常夜燈が確かあったはずです。
各部の石塊すべてが撤去されたようで、
境内を探してみましたが見つかりません。
いつかどこかに再構築されるといいのですが、
廃棄されてしまったとしたら残念に思います。

もしかすると、この常夜燈に代わるものとして、
本堂前に供養塔が建てられたのかも知れません。

以下は以前の記述です。

倒れた常夜燈

倒れる前の常夜燈 倒れた常夜燈

境内に入って左に見えるのは、古い常夜燈。

左は形のいい、以前の常夜燈の姿。
しかし、あの大震災で現在の姿は右のように。
笠石以上が落ちてしまったようです。
笠石は背後にありましたので後で紹介します。
震災後になってまだ直さないのは、
また地震が起きると危ないからでしょう。

さて、台石の表面には「古川」とあります。
この名はどこかにありましたね。
上で紹介した 手水「盥嗽」 の施主です。
ここでも「當村 施主」とあり、
下左写真の台石左側面の
「由右衛門」の名も一致します。

こうなると、造立時期が知りたくなりますね。
台石と背後の竿石を調べて見ましょう。
手水の造立は嘉永5年(1852)でしたが・・・。

常夜燈台石

下は、常夜燈の台石部分で、左から順に、右側面、裏面、左側面。右側面は、「由右衛門」で表面の古川の名の部分。
裏面は、「大願成就」、左側面は、「當山十九世 良達上人代」「田林直謹書」とあります。造立銘はありませんね。
田林直とは、寺田林直のこと(折戸庵の句碑参照)。中国の文人にならい1文字省略して漢字3文字での名前としています。

台石右側面 台石裏 台石左側面

常夜燈竿石

以下が竿石、左から順に左回りで、正面、左側面、裏面、右側面と見ていきましょう。

笠石正面「常夜燈」 笠石左側面「御領主御武運長久」 笠石裏面「天下泰平国家安全」 笠石右側面「天保十三年歳壬寅夏六月中日」

最初は表面で「常夜燈」、左側面は、「御領主御武運長久」、そして裏面が、「天下泰平国家安全」。あれれ、造立年は?
最後に、右側面。ありました。「天保十三年歳壬寅夏六月中日」。すなわち、天保13年(1842)6月15日。
天保13年は、手水造立の嘉永5年の10年前。住職も、二十世良泉上人の前の十九世良達上人の時代です。
當村 古川由右衛門は同一人物であることは間違いありませんが、手水は戒名があるので施主は親戚かも知れません。

石碑2基と布袋尊

2016年再調査時は、紫陽花の季節。ということで、下写真のような状態で、ほとんど見えません。過去の写真で説明します。

2016年時の石碑2基と布袋尊 2016年時の布袋尊
石碑2基と布袋尊

常夜燈から少し本堂寄りに向かうと、
利根七福神の布袋尊を挟んで、
草書体のような文字が記された句碑、
もしくは歌碑が建てられています。

この2基は、当初から「読めない!」と
諦めていましたが、今回なんとか・・・。
『利根町史』を隅々まで探すと、
この碑に触れている箇所も・・・。

この2基については、後述、
境内にある文化人の墓碑
にまとめて掲載しました。

利根七福神 布袋尊

利根七福神 布袋尊

真ん中のこの布袋尊は 利根七福神 で紹介しました。

本体: 高101cm、幅41cm、厚37cm。

四郡大師53番

利根七福神の存在でも分かるように円明寺は利根町の主要なスポットであり、四郡大師の札所となるのは当然かと思います。
しかし、この大師堂は境内から外向きにまるでそっぽを向くように建てられています。しかも、あまり日の当たらない暗い場所。
円明寺が浄土宗で、空海大師の真言宗ではないから、こういう対応となるのかな、などと勝って読みしましたが・・・。

ところが、2016年久々に大師堂の中を覗いたら、美しく着飾られた大師様が・・・。落慶のおこぼれにあずかったようです。

大師堂 大師53番札 大師像

大師本体: 高40cm、幅30cm、厚19cm。

当初、堂の上部に以下の額がありました。四国53番の御詠歌でもなく意味不明の文言ですが、現在見当たりません。

堂上の額 額紛失

境内左手前の施設

山門から入りすぐ左手に向かうと、実は裏参道へと続き、ここからは階段を登ることなく境内に入れるのです。
裏参道のことは後で紹介しますが、山門から裏参道への途中左に、何基か石塔類が見えます。

石塔など4基

石塔など4基

いちばん左は、草木に隠れて
常夜燈が1基あります。

これらの4基は関連があるのか、
たまたまここに設置されただけなのか
不明ですが、左から順に
見てみましょう。

石灯籠

草木に阻まれて真正面からは撮れません。と言ってもどの面が石灯籠の「正面」なのか難しいところ。
下左の写真角度が唯一全貌が撮れます。下に「願主 行正法子」とあり、仏門に帰依する人の造立のようです。
下中央は、「奉寄附石燈籠一基」。この面が「正面」でしょうか。「妙玄信女」の戒名のような文字も左に見えます。
下右は、「爲二親施入結縁乃至法界 菩提」。両親ほかすべてに仏の導きがあるようにという意味でしょうか。
この隣りに「道實信士」の文字もあります。この男女の戒名は願主「行正法子」の両親なのかも知れません。

石灯籠 石灯籠 石灯籠

本体: 高150cm、幅53cm、厚52cm。

石灯籠

さて、もうひとつ、また不可解な文字の建立銘。
旹元禄十二己卯天七月自恣日

最初の文字「旹」と、「自恣日」が、いままで見たこともない文字です。

旹=時

「旹」とは「時」の古字で「じ」と読みますが、「于時」と同様、年号の頭に付く文字。
「自恣日(じしにち)」とは、仏語で、僧侶の夏修行の最終日、7月15日のこと。
この修行を夏安居(げあんご)といい、4月16日から7月15日までの3か月間で、
冬の場合は、10月16日から翌年1月15日で、冬安居(とうあんご)と言います。

うーーむ、仏教の世界は、難しい言葉がやたらと出てきますねえ。

おっと、忘れるところでした。ということで、この造立銘は、
「元禄12年(1699)7月15日」でした。

余談ですが、では、冬安居の最終日には別名があるのでしょうか?
こういうことが気になってしまうのがタヌポンです。冬の自恣日?

本体: 高150cm、幅53cm、厚52cm。

常念仏塔

南無阿彌陀佛」の下に「常念佛塔」とあります。常念仏とは、たえまなく念仏を唱え続けることを言うそうです。

常念仏塔

常念仏(じょうねんぶつ)と言えば、円明寺に関連の深いことで、泪塚 の件があり、
常念仏院鶴捕寺という寺が以前に円明寺末寺として存在していました。

泪塚の「押付新田の鶴殺し事件」と関係のある塔なのかも、と思いましたが、
以下のように造立は、「文化十一甲戌年十月仏願日
文化11年(1814)10月は、事件からかなり後の時代。でも何か関連があるのかも。

ちなみに、仏願とは、仏が一切衆生を救おうとして立てた誓願のこと。

常念仏塔

本体: 高135cm、幅40cm、厚26cm。

六地蔵塔1

下左写真に「奉造立六地蔵尊」とあるので、これが正面かと思います。他にこの面では左に「爲結縁法界菩薩」が彫られ、
さらに下部には「願主 浄□法子」と「布鎌村宿□□」。布鎌とは利根川を越えた我孫子市地区ですが遠くはありません。
次の右横の面(下写真中央)には「于時元禄十二己卯六」とあり、元禄12年(1699)6月の建立が分かります。
下右写真以降、4面あるわけですが、刻像された地蔵像は多少違いますが、文字は刻まれていません。

六地蔵塔1 六地蔵塔1 六地蔵塔1

本体: 高116cm、幅48cm、厚39cm。

逆修供養塔

逆修供養塔 逆修供養塔

表面には「南無阿彌陀佛」とあり、
下部には小さく多くの人名(戒名?)が
列記されています。右の面を見ると、
「逆修菩提也」という文字が見えるので、
生前からの一家全員のための塔のようです。

ちなみに浄土宗関連の墓は、
「○○家の墓」という文字が
大きく正面にくることはなく、
すべて「南無阿弥陀仏」メインです。

墓地を初めて訪れて場所の分からない
目当ての墓を探そうとすると
1基1基、墓の側面などを
見ていかないと見付けられません。

不肖タヌポンの郷里の墓も浄土真宗で、
遠目で見ると、すべて「南無阿弥陀仏」。
しばらく行かないで墓探しに苦労しました。

本体: 高158cm、幅47cm、厚47cm。

さて、上記4基の場所から北の奥に向かうと、珍しい大きな虚(うろ)のあるカヤの木やエノキなどの大樹が立ち並んでいます。
それらの紹介はまとめて後で紹介しますが、この辺りは墓地ばかりで特筆するものはないのではと当初思っていました。

歴代上人の墓

歴代住職の墓

以前は知識もなく素通りしていましたが、現在は、
この墓所が他の一般人の墓とは違うことが分かります。

それは、「僧侶の墓」の特徴である紡錘形の「無縫塔」と
呼ばれる墓塔が数多く立ち並んでいるからです。

とはいっても、すべてが無縫塔というわけではなく、
石柱のものや自然石型の石塔も何基か見られます。

タヌポンのここでの探索課題は・・・。
開山の良忠・良栄の上人2名と、中興一世の良印上人、
手水・常夜燈造立に関連する十九世・二十世の上人、
そしていちばん最近の墓は何世かの確認などです。
果たしてうまく見付けられるでしょうか。

まずは、銘文が見やすいと思われる、中央供養塔の背後の4基、左にある真新しい2基から順に見てみました。

二十六世

26世の墓 26世の墓裏面

真新しい2基は、左から、
二十六世と二十五世の墓塔でした。

二十六世正面は、「當山第二十六世
誠蓮社實譽上人然阿顕良真琴老和尚位

裏面には、遷化(高僧の他界)日と建立日
平成五年十二月二十日遷化 三十一歳
平成六年七月 円明寺檀徒一同建之

『利根町史』にある住職、大竹真琴氏は
二十六世で、もう他界されていたのですか。
31歳とはちょっと早世ですね。

歴代上人には頭に「良」が付くので、
良真が妥当かと思えば「實譽上人」とあったり
良照の場合は「広誉正人」となっていたり…。

なんかよく分からなくなってきました。
ここは、ほかの墓塔も調べてみないと・・・。

本体: 高100cm、幅41cm、厚41cm。

二十五世

25世の墓 25世の墓裏面

正面は、「当山第二十五世」「中興深蓮社正僧正広誉正人観阿慈光良照智海大和尚位」と、とても長〜いです。

平成元年十月二十三日遷化 八十歳
平成二年十月二十三日 円明寺檀徒一同建之」が裏面。ちょうど1周忌での建立です。

この大和尚が銅像になっている方です。

本体: 高100cm、幅41cm、厚41cm。

二十四世

24世の墓 24世の墓裏面

中央供養塔の真後ろに隠れている塔。
長根山第二十四世」「成蓮社正僧正良具上人無阿總觀淨譽憲大和尚位

裏面は「昭和三十年十一月檀徒一同建之

本体: 高97cm、幅41cm、厚41cm。

二十三世

23世の墓 23世の墓裏面

無縫塔ではない自然石型の塔は、歴代上人のものではないと思っていたら・・・。
當山二十三世
功蓮社良徳上人少僧都林海老和尚」。
これは、二十三世良徳上人の墓塔ですね。

裏面はちょっと読みづらいですが、
最初に辞世の和歌のようなものが・・・。
紫の雲に我身をまかせつつ
今日み佛の國に生まる

從明治九年至同四十一年在院三十二年
紀念明治四十一年十二月建之
とあり、円明寺に31年間在院したことと、
明治41年12月の造立が分かりました。

本体: 高128cm、幅46cm、厚19cm。

一般墓塔

このコーナー入口右手に並んだ3基の墓塔(左写真)は、
嘉永や天保の文字がみえるので、幕末のものと思われますが、
いずれも、歴代上人のものではないようです。
円明寺関係者であることは間違いないようですが。

この歴代住職のコーナーは、他の墓塔はまだ未調査です。銘文が読みづらくなっているものばかりでしょうが、
蚊のいない季節に、いつかよく視てみたいと思っています。開山した上人の墓は果たして残っているのでしょうか。

境内奥の石仏

上記の歴代上人のコーナーを過ぎてさらに奥に進むと、左手に数多くの石仏が置かれている場所がありました。

境内奥の石仏

探索当初、この付近にも当然、
訪れていたわけですが、当時は
神道系の石祠に関心があったのと、
仏教関連の知識があまりにも
欠落していたためか、
素通りしていた地点でした。
現在、見てみると・・・。

前列・後列・その他すべてで
30基以上ありそうですが、
ちょっとみたところ無縁仏か、
風化で不明なものが大半です。

特筆できるものは、
3.4基程度でしょうか。

十六夜塔

十六夜塔

上の写真では前列左から2基目の塔。
2016年では、3基目に移動していました。

よく見かける如意輪観音の半跏思惟刻像塔です。
光背右上から「十六夜念佛供養」で、十六夜塔なのですが、
十六夜の本尊は本来、阿弥陀如来や聖観音。
利根町の如意輪観音好きの傾向がここにも表れています。

光背左に「享保十六亥天十一月吉日」の文字が見えます。
享保16年(1731)年11月の造立です

本体: 高55cm、幅35cm、厚22cm。

六地蔵塔2

六地蔵塔2

後列中央付近に見える塔。
これも山門から入ってすぐ左で見たような六地蔵塔のようです。
近くに寄って見るのは難しそうなので詳細は不明です。

2016年調査時はさらに雑草に埋もれていました。
塔の一部に戒名らしきものが彫られていましたが、
ほかに特筆するほどのものは見つかりませんでした。

本体: 高95cm、幅43cm、厚43cm。

読誦塔

読誦塔 読誦塔裏面

こんどは一気に後列右端まで飛びます。

最上部にキリークの種子が彫られています。
奉讀誦阿弥陀経萬部塔」とあるのは、
阿弥陀経を一万部唱えた記念の塔。
天下和順日月清明」は
廻国塔などこういった塔にお決まりの言葉。
左右に「天明二壬寅年十一月五日」。
つまり天明2年(1782)11月5日。
吉日ではなく日付も刻銘されているのは、
読誦完了の日ということでしょう。

右測面には「願主現主 忍譽傳澄
世話人 弓解嘉兵衛」とあります。

本体: 高72cm、幅22cm、厚17cm。

石橋供養塔

これも右端、前列にあります。正面に「石橋供養塔」。しかし、石橋とは、何を意味しているのでしょう?不可解な1基です。

石橋供養塔 石橋供養塔右側面 石橋供養塔左側面

写真いちばん右は左側面、「寛政八丙辰二月吉日」、すなわち寛政8年(1796)2月の造立。

真ん中は右側面、「万人講中」、不鮮明な最下部「世話人十五人 六百人女人中」と読めますが、600人とは・・・。
こういう石仏で人数が記される場合「同行12人」とか多くとも「同行76人」などで、ちょっと多すぎる気がします。

本体: 高65cm、幅21cm、厚23cm。

寺下橋

それはともかくとして、石段ではなく、「石橋」ですよね。
境内に池と橋のある庭園でもあったのでしょうか。
ほんとうに橋を建造したのなら村全体の一大事ですが。

もしかすると、南の「寺下橋」の建造とか・・・。
右写真は、現在の寺下橋。下を流れるのは新利根川。
前方400〜500m北に円明寺があります。

二十六夜塔

二十六夜塔

上記の石橋供養塔のすぐ左に、利根町では珍しい像容の塔。

小ぶりですが、日輪を表す円光を背負い、蓮華座に趺座、
金鈴や五鈷杵、弓矢などを持っている様子なので、当初「愛染明王塔」と判断。

しかし、台石に何か刻銘されているようで、少し掘ると・・・。
いやいや結構、深く埋まっていて、「二十六夜」とあり、二十六夜塔と判明。
二十六夜の本尊は愛染明王なので合致します。

台石右に「文化三丙寅三月」すなわち文化3年(1806)3月の造立。
左に「講中十二人」とあります。

写真の台石の横線以下が埋もれていた部分で、
「二十」の意味が当初分かりませんでした。なるほど二十六夜塔でしたか。
さらに掘り下げ、台石の左右側面が見えれば、施主等が記され、
それが「染色業」に関連する人、ということも分かるかもしれません。
でも、これでとりあえずは内容が分かりました。

本体: 高27cm、幅27cm、厚18cm。台石: 高30cm、幅27cm、厚18cm。

馬頭観音塔

馬頭観音塔

ほかに何かないかと、ふと石橋供養塔の背後を覗いて見ると、
ある塔の光背右下に「吉日」の文字目にはいってきました。

小ぶりな塔なので持ち上げることも可能。近づいて、汚れ等をとり見てみると・・・。
合掌した姿と頭部に特徴のある突起、坐像ということから馬頭観音と判断。
光背右には「文化五辰正月吉日」、すなわち文化5年(1808)正月の造立。

本体: 高45cm、幅23cm、厚13cm。


上記石仏群のあるところから、こんどは右手の本堂のほうに回りこんでいくと、巨大な黒い石碑が見えてきます。
ただし、これは戦没者の慰霊碑のようですので、ここでは紹介を割愛させてもらいます。

さて、この項で最初に紹介した4基の塔の部分から北の奥に向かわずにさらに西に進むと裏参道に続きます。

円明寺裏参道

「円明寺裏参道」の石柱が立っていますが、石柱前の道路は南北に走っていて、左が町営霊園となっています。
ここには石段などありませんので、ラクをしたい人はこの石柱のそばを右折すれば境内に入れます。
下右写真の道を北上すると「円明寺周辺コンテンツ」で紹介した 円明寺裏参道北の抜け道 に向かうことになります。

円明寺裏参道 円明寺裏参道

円明寺裏参道道標 本体: 高86cm、幅23cm、厚15cm。

裏参道の西南の方角にも、道路を挟んで、円明寺の墓地が続いています。
墓地には、ある事件の被害者であり、同時に後世、「立木三義人」と呼ばれるようになった人たちの墓があります。
これについては、後述(立木三義人)します。

境内にある文化人の碑

利根町の歴史を少し学んでみると、江戸から明治にかけて、数多くの文化人を当町が輩出していることが分かりました。
「大房は田舎の江戸よ」と言われたり、当時の著名人が盛んに行き来したりしたなかなかの文化的環境であったようです。
その痕跡として、円明寺境内のなかに数多くの文化人の墓碑・石碑があることを知りました。以下、紹介します。

山門から入って境内左手のいちばん奥から手前に戻るような順序で見ていきます。

吉浜隨立院碑

左手通路の奥、南向きに巨大な碑があります。立木村で代々名主を務めた吉浜家第19代当主、吉浜文公の墓碑です。
この碑が建てられた当時、幕府からは繰り返し倹約令が出されており、見上げるようなあまりに立派な碑であったためか、
それに違反すると「立木村惣百姓中」の名で訴え出る人がありました。その訴状は一宮藩邸の門に届けられたといいます。
しかし、吉浜家は一宮藩の相馬郡役所のような役目をしていたため、訴状はそっと吉浜家に渡されお咎め無しですんだとか。

本体: 高146cm、幅45cm、厚44cm。台石上: 高40cm、幅76cm、厚74cm。台石中: 高50cm、幅111cm、厚109cm。
台石下: 高40cm、幅148cm、厚142cm。台石を含めると高さが276cmと確かに巨大です。

吉浜隨立院碑 吉浜隨立院碑表

碑の表面には「隨立院樂譽良音西酬居士」の戒名。台石正面上は「吉濱」ですが、台石正面下には「門生中」とあります。
門生中とあるからには、吉浜文公の遺族ではなく、門人たちが建てたもので、文公の生前なら 寿蔵碑 になります。

吉浜隨立院碑裏と左側面

左写真の右にある面は碑の裏面で、横書き「随機意」とあり、
その下に、以下の2種の日付が記されています。
文政十三年庚寅六月九日没」、つまり文政13年(1830)6月9日没。そして、
嘉永改元歳次戊申冬十一月」「門人等謹建䂖」。
これは嘉永元年(1848)11月に門人たちが石碑を建てたということです。

しかしながら、『利根町史』その他には、吉浜文公は、
安政5年(1858)4月3日、71歳で没した とあり、この碑はやはり、
それより10年前の生存中に建てられた門人たちによる「寿蔵碑」と推定されます。
では、「文政13年(1830)6月9日没」とは、だれの没年なのでしょうか?

ところで、左写真の左方は碑の左側面で、2人の女性の戒名が記されています。
意徳院現譽良顯智興大姉」「機應院音譽良皷妙菅大姉
これらは、吉浜文公の母や妻ではないかと推定しますが、もしそうなら、
前者もしくは後者の没年が文政13年(1830)6月9日なのかも知れません。

なお、この碑は、文広の弟子達が、一朱(一六分の一両)二朱と小銭を持ち寄って
建てたもので、その弟子は当町域はむろん、現在の牛久、取手、龍ケ崎、河内、
印西、我孫子、栄と広範囲に亘っています。文公の影響力の大きさが分かります。

上田流書道の系譜

吉浜隨立院碑右側面

左は石碑の「右側面」。文公の歌が刻まれています。
人多(さわ)に思ひ焦してくれし
碑は縄ゆふ道の余りなるらむ  文廣

文広は名主として村政に当たる傍ら、随立堂と号して書を教えていました。
門人とはつまり書の門人であり、随立堂の書は上田流と称した御家流の一流派です。

その系譜の初代は信州上田の「内藤素水」で「随柳堂」と号しました。
小野道風が柳にとびつく蛙を見て発奮した故事からこの号をつけたとか。
以後、この系譜につらなる書家は「随」と「素」の文字を号に用いました。
2代目「随古堂内藤素鏡」3代目「随花堂松原素元」で、この3人が「上田三筆」です。

随花堂の弟子に随元堂福島素貞がいて、この人の弟子になったのが吉浜文広です。
書の号を随立堂素正といい、つまり文公は4代目随元堂福島素貞に続く5代目です。
そして文公の後を継ぐ6代目は、奥山村出身の「隋文堂素徹」本名は長島七之助。
文公素正門の第一人者で、後に吉浜家に迎え入れられて、与五右衛門を襲名、
吉浜家第21代当主となります。さらに、その弟子、大房村の坂本八十郎は、
素徹の娘婿となり、7代目隋義堂素行となると同時に、これも与五右衛門を継ぎ、
吉浜家第22代当主になります。しかし、上田流相伝はこの人で終わります。

出身 本名(別名) 備考
初代目 隋柳堂素水 信州上田 内藤素水 上田流元祖。書の奥義を極めた小野道風の故事で隋柳堂を号に。
 2代目 隋古堂素鏡 信州上田 内藤素鏡 素水門隋一の高弟。上田流中抜群の能書家といわれる。
 3代目 隋花堂素元 三州岡崎 松原惣五郎 岡崎城主本田出雲守の家来。1〜3代は上田三筆(上田三毫)。
 4代目 隋元堂素貞 勢州丸亀 福島半蔵正命 丸亀城主石川主殿頭の家来で、御留守居役・御祐筆役を勤める。
 5代目 隋立堂素正 総州立木村 吉浜文公 吉浜家19代。福島半蔵(素貞)の弟子。半蔵は文公の姉の夫の父。
 6代目 隋文堂素徹 総州奥山村 長島七之助 与五右衛門を襲名し吉浜家21代となる。後述の吉浜楚孝である。
 7代目 隋義堂素行 総州大房村 坂本八十郎 素徹の娘婿となり、与五右衛門を継ぎ吉浜家22代となる。

ところで、上田には、江戸時代の初めに布川城に入った松平信一の子孫が藩主として入っていました。
この上田藩と、同じ信一の子孫である上山藩(山形県)は、毎年、蛟蝄神社に絹布を奉献し続けてきました。
信州上田を元祖とする書の流れが立木に伝わったのは、蛟蝄神社が取り結ぶ縁であったと考えられます。

▼ さて、吉浜隨立院碑に向かって左側、こんどは西土塁を背にした石碑を見つけました。これが次の山田松翁墓碑です。

山田松翁歌碑

吉浜文広が活躍したのは文化、文政、いわゆる化政時代(1804〜)で、松翁も同時代の地方文化を担った一人でした。
名は惟清、通称は武兵衛といいますが、松翁の業績についてはあまり詳しくは分かっていません。
絵をよくし、幕府の仕事で日光へ行くことがありましたが、そのときは、籠に「御用」の札を立てたといいます。
その立札と、書画が2点山田家に残されています。歌碑の真正面にある立派な山田家の墓は、関係があるのでしょうね?
台石に「山田」、碑裏面に「明治十一年十一月廿九日 山田忠義 建立」とあります。
明治11年(1878)11月29日、子孫の山田忠義が建立したものですが、これは山田松翁の没年とはちがうようです。

山田松翁歌碑 山田松翁歌碑上部 山田松翁歌碑上部拓本

上の写真右は、碑表上部の拡大写真とその拓本です。松翁91歳の辞世の歌が刻まれています。
画業とは別に、若くして飯岡村(現成田市)の歌人神山魚貫(なつら)に入門し勉学したと言われています。

戒名は、「崇壽院譲譽良徳興仁松翁清居士
碑上部の歌は、
おもひきや むつの衢(ちまた)を 逃れ来て 月もろともに 西へ行とは」  「九十一齢 山田松翁書

歌の意味は、以下のような感じでしょうか。
「六道(死後に赴く6種の迷いの世界)から逃げ出して、月と一緒に西方極楽浄土に行けるとは思いもよらないこと」

以下、碑表下部の戒名と、裏面のおそらく没年と思われる文字を対比してみます。なぜか没年が欠落しているのもあります。

山田松翁歌碑下部 山田松翁歌碑裏

[碑表下部]
(山田松翁の戒名に相当)
譲興院釋尼妙詮大姉
圓鏡院浄譽良道智巌清居士
浄鏡院操譽良放智光大姉
華好院賓譽良珠光耀清居士
西勝院踊譽良方妙樂大姉
浄心院諦譽良戒香薫大姉
鶴林院挺譽良安道徹居士
廣徳院念譽良一行億居士
光色院珍譽良璢妙璃大姉
深心院發譽良至妙誠大姉
珠香院貞譽良柔妙軟大姉
影譽夢智静童女

[碑裏]
崇 文政七申年八月九日
譲 寛政八辰年七月廿二日
圓 文政十亥年十一月廿四日
浄 文政十三寅年五月廿八日
華 元治元子年九月廿日
西 嘉永二酉年四月九日
浄 (刻字なし)
鶴 明治十一寅年一月十二日
廣 文政元寅年七月廿九日
光 天保十亥年七月九日
深 天保十一子年六月十二日
珠 明治十寅年十二月十三日
影 明治十寅年十二月七日


碑裏の「崇 文政七申年八月九日」は
表の松翁の戒名「崇壽院譲譽良徳興仁松翁清居士」に
対応するものでしょう。
したがって、松翁は 文政7年(1824)8月9日没 で、
この碑は、没後50余年後に建立されたものと思われます。


本体: 高153cm、幅91cm、厚20cm。
台石上: 高29cm、幅122cm、厚46cm。
台石下: 高36cm、幅152cm、厚57cm。

▼ 次に、境内左通路から、また中央左の 石碑2基と布袋尊 の場所に戻って、歌碑と句碑を見てみます。

折戸庵の句碑

左は石碑正面。中央はその拓本(『利根町の文化学芸碑』より)。下右は、石碑の裏面。本体: 高150cm、幅69cm、厚10cm。

折戸庵の句碑 折戸庵の句碑表面拓本 折戸庵の句碑裏面

蔦の手の はなれて秋の わかれかな 折戸菴 と表面にあります。

折戸菴とは、大房の子安神社近くに折戸「下り所(おりど)」という小字名があり、そこにあった私塾と考えられています。
子安神社一帯は蛟蝄神社から降りて来る道があることから「おりと」と呼ばれたとも言われていますが、
そこあった菴といえば、現在はなりなりましたが、位置的には子安神社境内にあった「大宝院」が適合するとのことです。
その塾の師が、伊予松山藩出身の 黒川艮平(くろかわごんぺい)と推定されています。

碑の裏面には、「南豫松山産」が記され、「桂蓮社林譽上香阿寶周」も刻銘、これは折戸菴を示すものとされています。

そして、「嘉永二年歳在己酉秋九月」、嘉永2年(1849)9月の造立ですが、
筆弟建焉」ということから、これは、まさに黒川艮平の弟子による 筆子塔 です。

ほかに、「貞順尼」「蛟城田林直書」「高橋一守鐫」などの文字が見えます。この中で、蛟城田林直とは、
寺田林直(てらだりんちょく)で、蛟蝄神社を崇信し「蛟城」と号し、折戸菴の塾頭であり同時に大房村の名主でした。
その名は、蛟蝄神社奥の宮境内の 文間明神祠碑 でも見かけましたね。篆書と隷書を得意とする独学の書家。
この名は、前述の倒れた 常夜燈台石 にも刻銘されていました。苗字の「寺」を省略して刻銘しています。
末尾の貞順尼とは、おそらく折戸菴の妻だった人ではないかと思われます。

吉浜楚孝歌碑

楚孝吉浜先生絶筆之歌 楚孝吉浜先生絶筆之歌拓本

楚孝吉濱先生絶筆之歌」と題して、
以下の歌が記されています。
我はいま 此世さるべし わすれても
 みちなひがめそ をしえにしこら

「みちなひかめそ」は「道を曲げるなよ」の意。
吉浜家第21代与五右衛門を襲名した楚孝が、
門弟に正しい道を進めて教えた辞世の歌です。

吉浜文公の 上田流書道の系譜 で説明したように、
名主役を務めながら、6代目「隋文堂素徹」として
文公の私塾を引き継ぎ、後進指導に当たりました。
また、吉浜家は、数々の功績とともに、
吉浜家文書など貴重な文献を残しています。

この歌の左には「正斎柳田貞亮書」とあります。

本体: 高195cm、幅99cm、厚40cm。

明治十一年十一月念九日」とは、明治11年(1878)11月29日のこと。「念」は「二十」の意で用いられます。
あれっ?この日付は・・・先に紹介した 山田松翁歌碑 の建立日とまったく同じですね。こんなことって・・・。
間違いないですね。同時にしめしあわせて建立したということでしょうか?それともお互いに遅れをとっては・・・ということ?

従五位加納久宜篆額拓本

歌碑上部に刻まれた文字は、「従五位加納久宜篆額」とあるように、
この地の領主である「上総国一宮藩」最後の藩主、加納久宜が揮毫。
加納久宜は、従五位から、維新後、政治家から司法界に転じて
大審院検事、東京控訴院検事などを務め子爵となり、
最終的には従二位勲二等に叙せられています。

2013/3/11の大震災後、石碑は以前よりちょっと右に傾いたような・・・。

▼ さて、大房出身の文化人が登場しましたが、こんどは再度山門左手の手前に戻ると大房関連の碑が3基見つかりました。
境内左手の 歴代上人の墓 のコーナーよりもさらに手前の位置、土塁を背に並んでいます。

高野誠求翁寿蔵碑

下左の正面には「至誠院厚譽良親善友清居士」、中央は左側面でこれは女性の戒名で「光昭院明誉良鏡妙輪善大姉」。
これでは、一見して、単なる墓碑のように見えてしまいます。下右にある2枚の写真で、やっと寿蔵碑と分かります。
上が、碑前の線香立てでしょうか「門生建」とあり、台石の右側面には「門人等出皆助之」と記されています。

しかし、その内容を詳しく知るためには、石碑の右側面に彫られた約35×13行の漢文を読み下さないと・・・。

本体: 高106cm、幅47cm、厚45cm。脚部: 高47cm、幅67cm、厚65cm。
台石上: 高40cm、幅90cm、厚88cm。台石下: 高36cm、幅120cm、厚116cm。

高野誠求翁寿蔵碑 高野誠求翁寿蔵碑左側面 高野誠求翁寿蔵碑碑前 高野誠求翁寿蔵碑台石右側面

漢文約450字の末尾には、「久留里侍講鷲津宣重光撰」「高野充行書」とあります。結論から言えば、この碑は、
高野誠求(たかのせいきゅう)が、孫の充行(みつゆき)を使者として、久留里藩の侍講(じこう)である鷲津重光に
撰文を依頼して建てられたものです。高野充行は、蛟蝄神社奥の宮の 高野充行歌碑 でも紹介しています。

高野誠求は、現利根町大房の人で書家、文人。名は誠、字は盛明、通称勝次郎。誠求とは、その書室(家塾)の号です。
幕末の大房には、寺田塾、菊地塾、坂本塾、高野塾などが並立し、学問の高さを誇っていました。誠求は、代々名主を務め、
書を良くし自宅に塾を開き、近郷の人々など多くの門人がいました。寛政7年(1795)生、明治10年(1877)81歳で没。

碑文を作った鷲津宣光は、文政8年(1825)尾張生まれ、儒者、維新の勤皇家。字は重光。明治朝廷に重く用いられ、
権辨事・宣教判官等を歴任し、司法書記官にまで進み明治15年(1882)58歳で他界。儒者としては最高の栄誉でした。

文字を記したのが書家、歌人として名を成した充行。号は昂粛、竹の舎。明治45年(1912)没、79才。

以下、『利根町の文化学芸碑』第3集ほかを参考として原文・読み下し文を掲載します。

高野誠求翁寿蔵碑右側面

高野誠求翁寿蔵銘
高野誠求翁使孫充行来請其寿蔵之銘曰凡民生無爵死族葬不封不表古之制也後世
其制廢苟有資産者皆得表石封墓則孝子慈孫思親之至情欲託辭以傅不朽固宜然彼
状其先行大率多溢美而撰銘誌者又據此綴輯成文往往先情實欺天罔人其弊極矣我
不欲子孫襲是弊故預為壽蔵欲及未死見之願子為我銘之噫余謬以文章知于世屡為
人作傅誌而褒揚有所未至則子孫□□致言甚或私塗改之余懲此未習熟其為人雖徴
以厚幣一切却之今翁所請獨反是則其又可却以未習熟乎翁名誠字盛明通稱勝次郎
誠求其書室号下総大房村人曽祖甚右衛門君諱昌雄祖兵右衛門君諱将房父甚右衛
門君諱昌明世為里正翁生寛政乙卯十二月二十四日娶川村氏生二男一女長曰喜内
宣賢次曰周蔵兌郷女適川村長右衛門為人温恭儉勤自奉菲薄好施予人宗族郷黨多
所周恤耕暇勤學築書室于宅後環栽以竹起臥其中邑之子弟従翁受業者常数十人書
聾與竹韻琅琅相和翁欣然自得不知老之将至壽蔵在立木村圓明寺以十二月二十四
日封之實文久二年銘曰 辭簡而質一宇不苟與其譽於前孰若無毀於後爰樹貞珉長
根之阜大書深刻以傅不朽
                     久留里侍講鷲津宣重光撰  高野充行書

□□部分は、Webでは表現できない文字。言偏に尭の文字が2字続けて彫られています。(読み下し文の右画像参照)

読み下し文

高野誠求翁寿蔵碑右側面拓本

高野誠求翁寿蔵銘
高野誠求翁、孫充行をしてその寿蔵の銘を来たり請わしむ。曰く凡そ民生まれて無爵にて死すれば、族葬して封せず表さざるは古の制なり。後世その制廢れ、苟くも資産ある者は皆石に表し墓に封ずるを得たれば、即ち孝子慈孫の親を思うの至情は、辞(ことば)に託して以て、不朽に伝えんと欲するは固より冥(うべ)なり。彼のその先行を状するに、大率(おおよそ)溢美(いつび)多し。而して銘誌を撰する者も又此に拠り、綴輯(てっしゅう)して文を成す。往往にして情実を失い、天を欺き人を罔(もう)す、その弊極れり。我は子孫に是の弊を襲うを欲せず。故に預め寿蔵を為(つく)り、いまだ死せざるに及んで之を見んと欲す。願わくは子我がために之を銘ぜよと。噫、余謬(あやま)ちて文章を以って世に知らる。屡(しばしば)人のために伝誌を作る。而して褒揚いまだ至らざる所あらば、即ち子孫□□として言を致し、甚だしきは或は、私かに之を塗改(とか)す。余此に懲りていまだその人となりに習熟せざるは徴するに厚幣を以ってすると雖も、一切之を却(しりぞ)く。今翁の請うところ独り是に反すれば、則ちそれ又却(しりぞ)くるにいまだ習熟せざるを以ってすべけんや。翁名は誠。字は盛明。通称勝次郎。誠求はその書室の号なり。下総大房の人なり。曽祖は甚右衛門君、諱は昌雄。祖は兵右衛門、諱は将房。父は甚右衛門君、諱昌明。世々里正たり。翁寛政乙卯十二月二十四日に生る。川村氏を娶り、二男一女を生む。長は喜内、宣賢と言い、次は周蔵、兌恭(たいきょう)と曰い、女は川村長右衛門に適(ゆ)く。人となり温恭倹勤にして自ら菲薄を奉じ、好んで人に施世し、宗族郷党に周ねく恤(じゅつ)するところ多し。耕(たがやす)暇(いとま)には学に勤め書室を宅後に築き環(めぐら)し栽(うえ)るに竹を以てし、その中に起臥す。邑の子弟翁より業を受く者常に数十人。書声竹韻と与に琅琅として相和す。翁欣然として自得し、老のまさに至らんとするを知らず、寿蔵は立木村円明寺にあり、十二月二十四日をもって之を封ず。実に文久二年なり。銘に曰く、辞(ことば)簡にして質なり。一字も苟もせず。その誉れを前に与かると、後に毀(こぼ)つなきと執若(いずれ)ぞ。爰に貞珉を長根の阜(おか)に樹(た)て、大書して深く刻み、以って不朽に伝う。久留里侍講鷲津宣重光撰 高野充行書

不明な文字

[略注]
※ 溢美(いつび): 褒めすぎること。過賞。
※ 綴輯(てつしゅう): 取り集めてまとめること。
※ □□(じょうじょう?): 石碑を読み込むと右のような文字。辞書にもなく、不明です。
※ 厚幣(こうへい): 賜物をはずむこと。
※ 非薄(ひはく): 粗末で劣っていること。才能などの乏しいこと。
※ 恤(じゅつ): あわれむ。憂える。心配する。困っている人に金品を贈る。
※ 琅琅(ろうろう): 玉や金属が触れ合って鳴るさま。また、音の美しいさま。
※ 自得(じとく): 満足し、安んじること。
※ 貞珉(ていびん): 硬くて美しい石。石碑。ここでは寿蔵碑。
※ 長根の阜(ちょうこんのおか): 長根は、長根山(ながねやま)円明寺の岡(境内)のこと。

地脇岸逵句碑

高野誠求翁寿蔵碑のすぐ左には、地脇家の墓碑が2基並んでいますが、左が地脇岸逵(ちわきがんき)句碑です。
台石に、「地脇」とあります。以下、中央は、表面の拡大、右写真は碑の裏面です。

墓碑正面には、戒名が2つ並んでいます。表面に凹凸がありちょっと読み辛いです。
真行院得譽良慶哉逢擧逵清居士」と、「真行院照譽良輕光澤妙阿善大姉」、岸逵夫妻のものと思われます。
碑の裏面は、「真 明治十一戊寅年新三月二十五日没」。岸逵は、明治11年(1878)3月25日に亡くなりました。

地脇岸逵墓碑 地脇岸逵墓碑拡大 地脇岸逵墓碑裏面
地脇岸逵墓碑

左は、台石右側面で「大房村 地脇吉郎左衛門 擧重建之」。

地脇岸逵は、右隣りの墓碑の本家、地脇源左衛門家から分家し
「ベッソ」といわれていました。「ベッソ」は別荘の意味で、
屋号は台石にある「吉郎左衛門」。


本体: 高78cm、幅37cm、厚35cm。台石: 高37cm、幅69cm、厚66cm。

地脇岸逵墓碑右側面 地脇岸逵墓碑右側面拓本

左は、墓石の右側面。

うっかりと とをりすぎけり 花の山 七十三翁孝逵

地脇岸逵73歳時の句ですが、辞世の句でしょうか。

ついついうっかりしているうちに、
花のような美しいものを見逃してしまい、
いつしか73歳になってしまった・・・。

人生老いやすく・・・、浮生は夢の如く・・・、
タヌポンもつい先日、昆虫採集をしていたような・・・。
人生とはそんなものでしょうか。

本家、地脇源左衛門家は、大房六軒党のひとつ。
大房地区は、6人の農民によって聞かれ、
その子孫を「六軒党」と呼んでいます。
六軒党というものの、7軒あったりします。
前記、高野家も、次の坂本家も六軒党のひとつです。

文行坂本義貴歌碑

地脇岸逵句碑の左は、これも大房出身、「大房六軒党」のひとり、「坂本塾」を開いていた文行坂本義貴の句碑があります。
碑の表には「文行坂義貴墓」とあります。坂本の「本」を省いてあるのは、中国の慣例にならったものとか。
また、左側面の碑文中には「文孝之碑」とあり、文行は「文孝」とも書いたようです。

文行坂本義貴墓 文行坂本義貴墓裏面

碑裏(左2枚目写真)は以下。

大悟院良廊生忍居士
嘉永元戌中年 七月二十七日

廊生院良然貞悟大姉
天保十三壬寅年十月二十五日

義貴は嘉永元年(1848)7月27日没で、
いっぽう、碑の左側面碑文(後述)文末には
天保五年(中略)書かしむ」とあり、
この碑の建立は、天保5年(1834)。
つまり、これは生前に建てた墓というわけで、
いわゆる寿蔵碑です。また、台石には大きく
弟子造立」と彫られていますから、
筆子塚と言ってもいいでしょう。
また、右側面(後述)には(辞世の)歌もあり、
タイトルは、坂本義貴歌碑とも、寿蔵碑でも、
筆子塚でも、どれでも成立しますね。

本体: 高116cm、幅41cm、厚41cm。台石上: 高32cm、幅60cm、厚58cm。台石下: 高42cm、幅91cm、厚86cm。

足利二つ引き家紋

碑裏の戒名の上に彫られている家紋は、左の「足利二つ引き」か「丸の内に太二つ引き」に見えます。
引両紋(ひきりょうもん)は、輪の中に横に1〜3本の太い線を引いたもので、足利氏や新田氏の家紋です。
碑裏の紋が「足利二つ引き」紋なら、坂本家の祖先が、足利尊氏につらなるということで、合致します。

碑の左右側面には、漢文の白文が彫られています。読み下しを含めて『利根町の文化学芸碑』第3集より引用・転載します。

右側面の碑文と和歌

文行坂本義貴墓右側面 文行坂本義貴墓右側面拓本

    自東都住故郷  坂文孝
  去東都住故郷時吾六十餘年正遅
  欲仕君今無那老照明鏡白髪如絲
いつまでか万代かけて思ふらん
石に契りをのこす言の葉  義貴
       大膳名改
        坂本重郎右衛門源義貴

[読み下し文]
東都より故郷に住みて 坂文孝
東都を去って故郷に住む。時に吾六十余年。正に遅し。君に仕えんと欲せしも今や無那(いかんともするなし)。老いて明鏡を照らしみるに白髪糸の如し。

いつまでか 万代かけて 思ふらん
石に契りを のこす言の葉 義貴
大膳名を改め 坂本重郎右衛門源義貴

左側面の碑文

文行坂本義貴墓左側面

夫天地開而萬物生人者為萬物之霊於是循其性之自然即聖人之所教之道不
可須臾離人之所当行也故為天下之法則斉家冶国知有教而不知所以身行囚
従師而学之有独存者哉為我当世之師開口為天下之法誠有忠志之心者不成
身於外矣吾思得道者不至蘊奥得道而有惑不請教而不能解矣不可無師矣貴
賤長少之所存則師之所教也嵯乎応聖人且従師亦歎後世聖経賢傅之教難得
矣是故択師而教子讀聖人書而浅見薄識而不能以盡知数千載之前然家斉国
治而天下平者心之徳也存亡治乱者本于身非精深不能識也弟子曰竊建余為
貴文孝之碑於廟而欲使残後世乎信哉義哉天助我宣哉故謂書作師説以于石
我辞而不獲止遂述其概而天保五年甲午仲冬丙子哉生明甲子令高文仲書
          隨孔堂 至徳斉貴文孝 印印 徳信斉高文仲謹書 印印

文行坂本義貴墓左側面拓本

[読み下し文]

それ天地開いて万物生る。人は万物の霊たり。是の循(めぐり)はその姓の自然なるに於て、即ち、聖人之教える所の道にして、 須臾も人を離るべからざる所当行なり。故に天下之法則と為し、家を斎(ととの)え、国を治むるに知有り。教え知らざる所、以って身を行い師に従って之を学ぶ。独存者有るや、我が為当世之師は口を開いて、天下之法と為す。誠に忠志之心有者、身成ざる。外に於てのみ。吾れ思う。道を得たる者蘊奥に至らず、道を得て惑あるに教えを請けずして解する能わざらんや。師無からざるべけんや。貴賤、長少之所存、即ち師之教うる所也。嵯乎聖人に応じ且つ師に従って亦後世を歎く、聖経賢伝の教得難く、是故に師を択んで子を教え、聖人の書を読んで、浅見博識にして以って知り尽す能わず。数千載の前然、家を斎え、国を治めて天下を平らかにするは心の徳なり。存亡、治乱は本身の精深にあらざるに識る能わざる也。弟子曰、窃かに貴文孝之碑を廟に建て後世に残さんと余名を使わしむ。乎信なるかな、義なるかな。天の助我も宣かな。故謂に石に師説を書作する。我辞したるも止むを獲ず、既にして其を述ぶる。天保五年甲午仲冬丙子哉生明甲子高文仲に書かしむ。 隋孔堂 至徳斎貴文孝 印印 徳信斎高文仲謹書 印印

この碑に関しては、前述の 吉浜隨立院碑 によく似た「事件」があったようです。
この建立から2年後の天保7年(1836)、地頭の役人が検分に来てこの墓石を見て、「けしからん」ということになりました。
農民が院居士号を付けた立派な墓石を、しかも、年貢を出すべき畑をつぶして墓にしたのは許しがたいというわけです。
坂本家では困って墓石をすべて取り崩す請書を差出し、仕方なく墓石を土に埋めておいたとか。(『利根町史』第2巻)

▼ さて、大房出身の名士たちの墓碑が続きましたが、次は立木出身の「梅翁」と名乗った、歌や書をよくした人の紹介です。
ただし、この碑は、境内の手前左方、後述する 立木三義人 の墓の手前の位置にあります。

飯塚与右衛門歌碑

立派な墓地区画に2基の墓碑が立っていますが、今回注目するのは向かって右の碑です。台石に「飯塚」とあります。

飯塚与右衛門家墓碑 飯塚与右衛門家墓碑

本体: 高179cm、幅39cm、厚36cm。台石上: 高39cm、幅73cm、厚71cm。台石下: 高36cm、幅100cm、厚97cm。

飯塚与右衛門家墓碑裏面

上右写真、碑表には、男女の戒名が記されています。
最勝院広誉良施飯阿萬善清居士
正念院施誉良広求阿妙與善大姉

左は碑裏ですが、


明治三十五年十月建      與右衛門

とありますが、最と正は戒名の冒頭1文字で
この下に本来は没年が記されるものと思われます。
明治35年(1902)10月、与右衛門の建立ですが、
以下に紹介する「梅翁」の次代の当主と推定されます。

碑の右側面と左側面にそれぞれ1首ずつ和歌が彫られています。
いずれも「梅翁」作ですが、幕末から明治にかけての飯塚家当主であったこと以外には詳細は不明です。
前述の 山田松翁歌碑 の松翁が歌人の神山魚貫(なつら)に師事したこともあり、同門であったかも知れません。

飯塚与右衛門家墓碑右側面 飯塚与右衛門家墓碑右側面拓本

右側面

よしあしをいわす うきよをわたらまし
いりのミふねの 風にまかせて 梅翁

飯塚与右衛門家墓碑左側面 飯塚与右衛門家墓碑左側面拓本

左側面

あさかすみ たつきのやまの うめの花
いろかふかくも 人をさそへり  梅翁


関口洋遺詠碑

以下は、「文化人」ではないのですが、山門前にいちおう石碑となって数多くの碑文が記されていますので紹介します。
この碑は、山門前道路の外側向きに建てられています。「流 星」と碑の上部に記されたほうが表になります。
ここは、周囲の樹木の木洩れ日がいつも当たる場所のため、撮影が難しい碑です。さらに比較的建立が平成年代で新しく、
碑面に光沢があるため、真正面から撮ると、またしてもタヌポンの無様な姿が映り込んでしまいます。
少し横から撮ったものを紹介しているのはそういう理由でして、と、前置きはここまでにしまして・・・。

碑表

関口洋遺詠碑「流星」

流 星

 夫れ大東亜戦争に於て生還期し難き特攻作戦屡次決行せらる殊に
神風特別攻撃隊第七御盾隊流星隊は昭和二十年七月二十五日より八
月十五日に亙り本邦東南方洋上に接近本土を反覆爆撃中の敵機動部
隊撃滅のため愛機流星に搭乗木更津基地を勇躍出撃必死必殺の体当
り攻撃を敢行大型航空母艦一雙巡洋艦二雙を炎上せしめ悠久の大義
に殉す海軍上等飛行兵曹関口 洋の遺詠に曰く        

   國のため散るひとひらは惜しまねと
       あたには散らし大和櫻は

 特別攻撃隊の若武者ともの平常の覚悟斯の如し然れとも戦勢日々
我れに非なり卒然詔書渙発せらる嗟己んぬるかな大詔を奉載屈就し
戈を納む鬼哭啾々爰に古来称名四辺に遍き長根山地蔵院円明寺の聖
城に碑を建て英霊の冥福を祈る銘に曰く            

   邦家危殆  回天悲願  必死必殺  突入敵艦
   玉音拝聴  飲泣偃武  盡忠燦々  遍照六合

※ 渙発(かんぱつ)とは詔勅を広く国の内外に発布すること。この場合は国民すべてが哭いた敗戦の玉音放送です。
※ 称名(しょうみょう)は、阿弥陀仏の名号の南無阿弥陀仏を称えることで、「四辺に遍き」は、円明寺が浄土宗の寺として著名であることを示しています。
※ 偃武(えんぶ)とは武器を伏せて使わないこと。戦争がやみ、世の中が治まること。敗戦では仕方ありません。
※ 遍照六合(へんしょうりくごう)、「六合」は上下と東西南北の六つの方角。天下。世界。つまり、全世界に光があまねく満ちあふれている様。

碑裏

関口洋遺詠碑裏面
神風特別攻撃隊第七御盾隊
第一次流星隊
森 正一 郡田英男 小沢長三郎 向島重徳
石川恭三 関口 洋 斉藤七郎 本田只美
第二次流星隊
林 憲正 茨木松夫 笹沼正雄 横塚新一
曽我部譲 田中喜芳 島田栄助 吉野賢示
小松文男 野辺貞助 高須孝四郎 栫 和夫
第三次流星隊
元 八郎 砂川啓英 上大迫克己 山中 誠
西森良臣 引寺富士人 田中憲一 酒向公二
第四次流星隊
縄田准二 中内 理
   平成三年七月二十五日  関 口 秀 明 建之
     扁 額 円明寺中興第二十六世 実誉上人書
        関口秀明撰文 笠間市稲田 田辺誠司書

碑文は、神風特別攻撃隊 第七御楯第一次流星隊に配属し、殉死した関口洋の兄、関口秀明氏(故人)によるものです。
平成3年(1991)7月25日の建立ですが、この日は、21歳の若さで逝った故人の命日にあたります。
そして、碑文中の辞世の歌は、故人が出撃する直前に両親に宛てた遺書に付記されたものだったそうです。

タヌポンの義父(故人)も実は特攻隊員の生き残りで、明日飛ぶというその日に玉音放送を聞き、戦死を免れました。
義父の話では「特攻隊員などに志願するのは愚か者」などとある先生に言われたと笑っていましたが、
若者たちにそんな無謀な志願をさせてしまった当時の政府もしくは軍部に大きな失態があったと言わざるを得ません。

本体: 高177cm、幅92cm、厚16cm。台石: 高41cm、幅165cm、厚58cm。

立木三義人

円明寺の西側の墓地には、「立木三義人」と呼ばれる人たちの墓があります。
この人たちはどんなことをしたのでしょうか?当時の経緯を見てみましょう。

3人は円明寺に埋葬され「立木の三義人」として人々から敬慕され後世まで語り継がれていきました。
現在では毎年、春の彼岸に円明寺で法要が行われています。
また、山田利重郎は大正14年(1925)、彼らの徳を讃えて「立木三義人和讃」を作っています。

義人名 戒名 没年 現家号
喜右衛門 良真道性居士 寛政5年(1793)12月26日 山田三郎兵衛
次郎兵衛 良高観明信士 寛政5年(1793)9月16日 本谷儀兵衛
林七 良好不醜信士 寛政5年(1793)12月7日 川上新右衛門
墓

写真は、三義人のひとり川上家の墓所(以上:関口秀明氏著『円明寺』および『利根町史』第6巻より)

念仏院(泪塚)について

円明寺に深い関わりがあるのですが、所在地が押付新田なのでその関連コンテンツで紹介します。

斬られ地蔵 について

円明寺で管理している地蔵様なのですが、これも横須賀地区の布川(旧新館)中学校脇にあるためその項目で紹介します。

円明寺の巨木

円明寺の境内および境内周辺は、巨木の宝庫。度重なる火災に耐えた巨木や焼失したもの、いろいろありそうです。

スダジイ群

スダジイ

円明寺に訪れるとまず驚かされるのが
山門横に立ち並ぶスダジイの巨木群。

樹高25.5m、幹周4m31cmで、
樹齢推定500年ということですが、
逆算すると江戸時代以降の火災には、
この樹齢のスダジイはなんとか
耐えている計算になります。
火に強い性質があるようです。

スダジイ

金木犀

キンモクセイ

この金木犀を撮りたくて一眼レフを
買ったと言えばオーバーですが、
結果は見ての通り。うまく撮れません。

愚痴はともかく、この金木犀は
利根町最大ですね。ニュータウンや
役場横にもありますが・・・。

樹高16.m、幹周1m98cm。これも
推定樹齢500年ということですので、
円明寺中興以降はしっかりと
その歴史を眺めてきているようです。

この香りがすると、秋を感じますが、
うちの奥さんは好きじゃないそうで、
人の好みはいろいろありますなあ。

(06/09/24 撮影)

カヤ

カヤ

境内西側、歴代上人の墓の隣りに聳えています。
下の写真のような大きな虚(うろ)があっても樹勢の衰えはまったくないそうです。

樹高27.5m、幹周3m38cm。

実は食べられるとのことで、いちどここで拾ったことがあるのですが、
炒らないとだめのようで面倒だったから試さないままになりました。

カヤ

3本榎

エノキ

左は、「ムクエノキ」という札がついているのですが、
下の写真の左と中央の大樹がエノキなのかどうか。

次に紹介するケヤキのある場所に、3本榎が立っているという記述があるのですが、
ケヤキとエノキの差がいまひとつ・・・。

とりあえず、3本榎のデータとしては、樹高27m、幹周3m28cmということです。

エノキ

ケヤキ

境内西の土塁の外側にちょっとした広さの芝生地があります。その土塁側にケヤキらしい大樹が見えます。
秋には美しく黄葉するのですが、「利根町の巨木とタブノキ」では、ここに3本榎があるとされています。
もっと、境内寄りのところなのでしょうか。もう少し、きちんと調べて撮らなければなんとも・・・。

ケヤキ ケヤキ

他にも境内には、アカガシ、ムクノキ、イチョウなどの巨木があるようで、これらは巨木探索でまた調べたいと思います。

※ 上記の巨木データは、「利根町の巨木とタブノキ」(利根タブノキ会刊行)によります。

円明寺の天満宮

境内右手の塚

小高い塚

山門から境内に入ると、
すぐ目に入る右手奥の小高い塚。

左は現在の様子ですが、以前、
本殿の祠の中をのぞいてみると、
真っ二つに割れた神額と、
菅原道真公らしい写真パネルが。

本殿内部

天満宮本殿 改築

本堂落慶と時期を同じくして、天満宮の本殿も改築されました。門扉は閉ざされ、もうあのパネルの存在は確認できません。
ちなみに、正徳2年(1711)に、境内に立木村持鎮守天満宮を建立、という記録が『吉浜家文書』に残っています。

新本殿 新本殿

神額

神額 神額裏

本殿前の神額は、重ね合わせてみると
天満宮」となります。

額表面には、「願主 吉濱氏」とあり、
これは吉浜家文書の吉浜氏と思われます。

神額の裏を見てみると、
文久三𠅆」とあり、
文久3年(1863)の造立。
このころは鳥居もあったのでしょうか。
なお、𠅆は「亥」の異体字です。

本体: 高47cm、幅24cm、厚9cm。

常夜燈の断片

常夜燈の断片

本殿の右手に何か文字の記された石塊があります。

よく見ると、象形文字のような「燈」の刻銘。
石塊の右辺には、「国家」という文字も見えます。

これらは、常夜燈の竿石部分の残骸のようです。
国家は「国家安全」とおそらく彫られていたでしょう。

不明の石塔一部

不明の石塔一部

写真のきのこは、単なる偶然。本殿のすぐ前に、なぜか
下部が地中に埋まっているかのような石塔の断片があります。

石仏・石塔の破損した断片は、どこでも見つかりますが、
これが不思議なのは、なぜ本殿の真ん前にあるか、です。
こういう場所に石塔を立てることはまず考えられません。
邪魔ですし、いかにも不自然です。
前の常夜燈の一部がここに落ちていると仮定しても、
どうしてそのままになっているのか・・・。
まあ、ここは本殿内も何年も手を加えられた痕跡はないのですが。

また勝手な推測ですが、これが実は本殿石祠で、
当初はこの石祠を取り囲むように祠があったとか・・・。

天満宮の手水

もうひとつ、天満宮の塚にあるポイントはこの手水。塚の入口左に右向きで置かれています。

天満宮の手水 天満宮の手水右側面

正面は1字見えませんが「奉納」と推定できます。右側面は「良泉上人代寺内坪女人講中」。
左側面に造立年が記されていると思うのですが、残念ながら樹木と塚の土に埋まってちょっと読み込めません。
しかし、良泉上人は、手水「盥嗽」 の刻銘にも登場した幕末時代の二十世上人。神額造立時期とも符合します。
この手水も、おそらく嘉永〜文久年間の幕末あたりに造立・奉納されたものではないかと推定されます。

天満宮の手水左側面

2016年、植え込み・雑草を刈りこみ、
土中に埋まった左側面部手前を少し掘ってみました。

文久二□ 二月□
文久2年(1862)2月造立、予想は当たりました。

本体: 高30cm、幅63cm、厚38cm。

付録:盆踊り

盆踊り

2007年の夏にたまたま訪問したら・・・。

境内に多少ゆとりがあるなら、こういうのはいいですね。
徳満寺でも、地蔵祭り で境内が活用されています。
本来、寺院とはこうあるべきものではないかと・・・。


(16/06/29・13/08/15・13/01/20 追記) (12/08/27 再構築) (05/09/10・05/08/08・05/04/24 追記) (05/04/21) (撮影 16/06/29・16/06/20・16/06/19・16/05/25・13/08/12・13/08/09・13/08/02・12/08/24・12/08/20・12/08/19・12/06/26・11/05/08・11/02/05・10/03/16・07/09/08・07/08/11・06/11/03・06/09/24・06/09/23・06/09/16・06/09/10・06/09/02・05/10/23・05/10/07・05/09/17・05/09/10・05/04/23・05/04/08・04/11/23・04/11/13)


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