タヌポンの利根ぽんぽ行 利根町の鎌倉街道−3

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利根町の鎌倉街道 目次



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交差点1右折ルート

これを仮に ルート6 と呼びましょう。

交差点1 を右折するとどうなるのでしょう?
その先に何があるのか。どこにつながっているのか。
まったくの予備知識なしでここを訪れるととてもわくわくします。
ほんとうにこんな探検は町の近くではそうそうできません。
でもここへ簡単には来られない方のために、タヌポンが少しだけご案内しましょう。


鎌倉街道地図

利根町の鎌倉街道マップ

鎌倉街道ルート6攻略・・・交差点1から天満宮まで

天満宮へ通じる細い山道

坂道

交差点1 から右折すると
なだらかな下り坂の山道が
こんどは左方に続いています。
タヌポンがたどった道を
Flashでいっしょに降りてみましょう。

道は、ゆるやかな蛇行をしていますが一本道。
迷うことはありません。
なだらかで逆に登るとしてもそんなに辛いことはないでしょう。

こういうところを歩くと心が洗われるなあ・・・。
なんて空を仰いだりしていると
だいたい水溜りに足がはまって
ズルッとすべってしまうものなのですね。
2、3日前に雨がふったから、下り坂には注意が必要です。
ここにくるには革靴よりやはりシューズでないとダメですね。
タヌポンはズックでしたがどろんこになってしまいました。
でも心がきれいになったから、まあいいです。

とくにイベントはないけれど・・・

土留め

途中で、さりげなく土留めしている箇所があります。
こうしないと大雨が降り続けば道がくずれるかも知れません。
でもコンクリートでがっちり、というのではなく、あまり人工的でない自然な感じなのがとてもいいですね。
右方向、崖というほど傾斜が大きいわけではないのですが、その先に何があるのかはよく分かりません。

坂道

こんな感じも
なかなかいいじゃあないですか。
ずっと続いてほしい
なんて思いますが・・・。


実はこの少し先に
ちょっとしたポイントがあったのですが、
最初にここを通った時には
見落としていました。
後述(戻り道とポイント)します。

沼か池か

坂道を下り切ったところの民家のすぐ手前に沼のようなものが・・・。
こんなのを見ると、
タヌポンがすぐ思い浮かべるのは「魚はいるのかな?」。
でもちょっとそばに近寄るのは難しそうなので
調べるのはやめました。

もちろんここが鎌倉街道からの出口であるだけでなく、入口のひとつであることはもう確実です。

押戸の田園風景

民家の横から細い道路を抜けると・・・素晴らしい景色が眼前に広がっていました。

押戸の田園風景

見晴らしのいい場所に出た、
そのT字路を左折してみました。
もうしばらく行くと天神様があることを
聞いていたのです。

だれにですって?
実はさきほどの道を降りてきたところの
民家の婦人に声をかけられて、
少し話しをしたのです。

こんな真冬にひとりで
こんなところを歩いているタヌポンを
ヘンなやつと思ったのでしょう。
ヒトの家を撮ってたりするし・・・。

鎌倉街道のことを話すとなんとか分かってもらえたようです。
婦人にとっては、鎌倉街道というより、裏山もしくは王子神社のある杜という感じでしょう。

婦人の話では、初詣とかで王子神社へ行ったり春先にタケノコを取りにいくぐらいで、
普段はあまり街道には入らないとのことです。
「だって怖いからね」

ハチなのかヘビなのかそれともチカンなのか・・・もしかして妖怪が・・・。
怖さの元がなにか敢えて聞かずに「そうですね、タヌポンも恐いです」と答えました。

戻り道とポイント

戻り道

いま来た道を振り返って見たところ。
交差点1 への入口、
いや、鎌倉街道への入口(地図上では入口4)、ともいえます。


上記と左写真までは、最初の訪問時のまとめです。
写真も2005年時のもの。それより8年半後のいま、
別の目的で、こんどは下から上へ登ろうとしています。
目的は、ルート6途中にあるポイント探索。
果たして見つかるでしょうか。
以下がその結果です。

フジネリと雷神さま

▼ 町の広報誌によれば、交差点1 から南下するこのルート6で、押戸の南坪に出る谷津をフジネリと呼んでいるそうです。
フジネリとは「富士根入り」がなまったもので、以前はきれいな段々畑になっていましたが、いまは見ての通りの雑木林。
「富士根入り」の語源となった「浅間神社」があると記されていたので、それを探してみようと思い立ちました。

▼ なにもこんな夏の暑い日にそんなことを思いつかなくてもいいのに、そう思うといってみたくなる tanupon であります。
結論からいうと、猛攻藪蚊にビシバシ刺され、このルートの道でありながら蜘蛛の巣に顔中糸だらけにされながら、結局、
浅間社は見つかりません。ルートの途中で、どうしても雑木林の中に入り込んで調べないとムリのようです。
浅間社は大越清右衛門家の氏神とされているので、すでに山中にはなく、大越家の裏庭に移されているのかも知れません。

▼ また、この浅間社の南隣りに、雷神さまと地元でいわれている「大禄天神社」の石宮があるとも記されています。
天明3年(1783)に建てられたものが2基並んでいるそうですが、大禄天とは、神世七代の6番目の面足尊でしょうか。
それとも、神仏混交で仏教系では、6番目の天界、「他化自在天」の事と関係があるのでしょうか。
いずれにせよ、浅間社が見つからないので、これもさっぱり居所不明です。

伝説では、雷さまが近づくと、このあたりから煙が立ち上って合図をするので、南坪には雷が落ちないのだそうです
地形的な自然現象のようで、台地の北側から見て、そのあたりの山からモヤがのぼっている間は梅雨が上らないとか。

▼ ほかにも、鎌倉街道と後述の 毘沙門堂押戸の天満宮 前の道との中間あたりの山中に、
以前より気になっている探索課題の「岡雪庵(こうせつあん)」という明治時代まで使われていたという茶庭の跡や、
永禄3年(1560)の年号を彫った記念碑などあるらしいのですが、これらもどうやって探していいか途方に暮れます。
鎌倉街道と並行して、雑木林の中に道があるとはとても思えないので、これも民家の裏庭にあるのではないかと思います。

▼ そんななかで、このルート6の途中で、ひとつだけ成果をあげる発見がありました。それが以下の 蘭亭先生之墓 です。

☆ NEWS! 2015年春、上記の不明だった「浅間神社」「大禄天神社」「岡雪庵」等々のポイントがすべて見つかりました。
詳しくは後日、新コンテンツで。

→ 新コンテンツ UP しました。「利根町の鎌倉街道−8」 (15/06/30)

蘭亭と寿年

押戸地区の文化人として、画家に蘭亭と寿年(じゅねん)という人がいます。この蘭亭の墓を見つけました。

蘭亭先生之墓入口 成島家の墓

実は、このルート6の道は、最初に道祖神の交差点1から下って来たとき以来の探訪です。上ったのも無論、これが最初。
地図の入り口4から、そうですね、50mくらいでしょうか、登った左手に、小さな降り口の石段を見つけました。(左上)
その先を見ると、墓が4基ほど見えます。以前、上から降りてくるときはまったく気が付きませんでした。
一連の墓は、蘭亭の姓が成島なので、成島家の墓とあります。「蘭亭先生之墓」は、右後ろにありました。

蘭亭先生之墓

表面に「蘭亭先生之墓」とあり、台石に「成島」と彫られています。没後の建立なので、いわゆる寿蔵碑ではありません。

蘭亭先生之墓 蘭亭先生之墓裏面

裏面に、
明治四十三年十一月廿四日寂
良往遊池進士
俗名 保太郎」 「号 蘭亭
東京 飯田町 山内啓二建之

明治43年(1910)11月24日に
亡くなっていますが、生年・行年は不明です。

東京飯田町は明治〜大正期にあった町名、
現在は、九段北、九段南、富士見等の名称。
おおむね現在の飯田橋全域。
山内啓二氏は教育熱心で、蘭亭自身が
たいへん世話になった人物とか。

本体: 高79cm、幅30cm、厚30cm。
台石上: 高19cm、幅43cm、厚42cm。
台石下: 高21cm、幅61cm、厚51cm。

蘭亭の先祖は大名

蘭亭(成島保太郎)の先祖は松平伊賀守の叔父にあたる人で、戦に負けたため、押戸に引込んだといいます。
名主の大越清右衛門がおそれ多いと自分の屋敷を明け渡し、いまのところへ引越したといいます。
松平伊賀守を名乗った歴史上の人物には、豊島頼継がほろんだあと布川城へ入った松平信一の孫の松平忠晴がいます。
忠晴は布川で生まれその子孫が代々伊賀守を継いでいます。これが上田5万8千石の大名松平氏とか。(『広報とね』293号)

寿年

蘭亭と同じ時代に絵を描いていたのが寿年(じゅねん)です。寿年は姓を岡野といい、亀の絵が得意でした。
あるとき蘭亭と腕くらべをしたとき、2人とも修行を終えて山を出るお釈迦さまを描きました。
蘭亭は「私の絵の方がやせている。これが正しい」といったとか。太った釈迦はおかしい、というのでしょうか?
この2枚の絵が、長塚誠道家に残されています。寿年の生没は分かっていませんが、同家に寿年の彫刻した芭蕉像があり、
「明治十五歳(1882)寿年六十八以神代木作」とあるので、文化11年(1814)の生れということです。
寿年は俳句もこなし、徳満寺の 鳴鐘圧死碑 に以下の作品が彫られています。

蓮池や くれてもしばし 花明かり

(13/08/04 追記・13/08/02 撮影)

蘭亭墓碑前の大樹

蘭亭墓碑のある墓地から道を挿んで反対側にある大樹。以前は気が付かなかったのですが、
リスタートの皆さんが大樹の前の潅木類を伐採してくれたおかげでこの雄姿が見えるようになりました。
日本画家の石村さんも、ここで蚊取り線香を炊きながらスケッチされていました。スダジイだと思います。
鎌倉街道の中にはまだ数多くの未発見の巨木があるものと思われます。貴重な財産ですね。

蘭亭墓碑前の大樹 蘭亭墓碑前の大樹

(15/06/12 追記・15/06/08・15/05/27 撮影)


さて、見晴らしのいいT字路から天神様のところへ向かいましょう。

毘沙門堂

毘沙門堂

天神様に着く少し手前。
左手に少し入り込んでところに
古びた木造のお堂があるのを
発見しました。

簡易な注連縄が張られていますが、
神社社殿のようには見えませんし、
鳥居もありません。一見して、
この建物の名前が分かるものは
何もありません。

毘沙門堂

木造のお堂の手前右手にあるのは四郡大師の鞘堂のようです。
大師堂のさらに手前には如意輪観音らしき刻像塔が1基、短い参道を挿んで反対側にも同様の石仏が1基、見えます。

毘沙門天三尊像

お堂の中は

またお得意のお堂の扉の破れた穴から隠し撮り。
何か神様の像が飾られているようですがよく分かりませんね。

どうも毘沙門天の像のようです。(クリックして拡大できます)
『利根町史』によれば、これは「毘沙門天三尊像」ということで、
文化11年(1814)仏師杉山林哲銘とあります。
また、林哲の子宗哲が安政3年(1856)に再興、
ということも判明しました→ 琴平神社「杉山林哲」参照。
(13/06/25 追記)。

また、祭礼が旧正月3日で押戸南坪にてお祭りを行う、とあります。

ここが毘沙門堂なら、では 蛟蝄神社の境内で見た周辺地図 にある「岡雪庵跡」というのは?
これはこの近くの人に聞いてみるなどもっと調べてみないと分かりません。
→ 2015年春、「岡雪庵跡」発見、近日新コンテンツで紹介します。

鰐口

鰐口

堂の前に立ち、上部を見上げると、鰐口がありました。
綱が切れていますから、鰐口としての機能は果たしていませんね。

四郡大師63番

大師堂 大師63番
大師像

祠の中には小さな座布団を何枚か重ねた上に
お大師様が座っていました。
札所番号は63番。
上の写真の垂れ幕の色が左右で異なるのは
撮影時期がちがうため。他の地区でもそうですが、
近所の人が時々取り替えているということですね。

本体: 高33cm、幅27cm、厚17cm。

十九夜塔

十九夜塔

四郡大師の鞘堂の前にある石仏。
典型的な半跏思惟型の「如意輪観音」を刻像した十九夜塔です。

光背最上部に種子キリークが彫られ、
右に「奉造立拾九夜」、そのすぐ右に「念供養二世安楽所
さらにその下には「同行十二人」とあります。

左には「寛文十年六月吉日」。
寛文10年(1670)6月と、かなり古い造立です。

これらの銘文はいずれも風化が進み、
2015年現在では、かなり読みづらくなっています。
再調査で撮った写真では拡大しても文字がほとんど読み込めませんでした。

左は2006年時撮影のもの。
寛文時代の石仏は貴重なので、文字が判読できる過去に撮った写真は
いくつか保存しておきたいと思っています。

本体: 高88cm、幅39cm、厚23cm。

如意輪観音塔

如意輪観音塔

左にあるもうひとつの石仏。
前記と同様、如意輪観音の刻像塔であることは分かりますが、
ウメノキゴケを少しはがしてみても銘文がよく見えません。

断片的に読み込める文字もありますが、
想像するに、戒名の彫られた墓塔のような気もします。

写真拡大で判断するより、よく磨いて拓本でもとらないと
文字解明は難しい気がします。これはちょっとムリかな。

本体: 高53cm、幅28cm、厚19cm。


2009年11月毘沙門堂、改築!

新築の毘沙門堂

毘沙門堂が改築されました。
以前は物寂しい感じでしたが、
前の道路から明らかにそれとわかる
朱色のお堂が建てられました。
敷地周辺の雑木なども刈り取られ
整地もされてすっきりしています。
また防犯カメラなどセキュリティ対策も
とられているようです。

あとで聞いたことですが、
台風かなにかで、以前の建物が、
壊されたということです。
災難でしたね。

お堂の中に毘沙門天が祀られているのではないかと思いますが、通常は見ることはできないようですね。
改築時期[平成21年(2009)11月]は、お堂の裏に掲出された概要を記した棟札で分かりました。
棟札の末尾は、「毘沙門天 南の坪の 守り神 幸多かれと 手を合す」。新旧の写真も掲載されていました。

毘沙門堂新築概要 新旧の毘沙門堂写真

以下左は敷地全体。大師堂の波板交換程度で、十九夜塔など変化ありません。石仏の風化は進んでいますが・・・。

新築の毘沙門堂 大師堂

押戸の天満宮

毘沙門堂から東、わずかの距離のところに、天神様を見つけました。神額には、「天満宮」とあります。
「天満宮」とあるからには、菅原道真公を祭神としている神社と断定できます。
→ 上記の根拠、および天満宮、天神宮、天神社のちがいは、神社の呼び方 で。

ここはルート6の最終地点と仮にしておきましょう。

鳥居

最初に訪れたとき、梅が満開でした。これはとても不思議な偶然。その意味は、天神様と梅の花 で。

天満宮

鳥居の奉納は関悦雄氏によるもの。
平成7年・15年の2回の奉納です。

下は、真夏に来たときの写真。

鳥居は、木造で、神明系。
貫の部分が長いので、
「鹿島鳥居」という種類と思われます。

夏の天満宮

本殿

参道の奥に、まるで山岳系の信仰のように、数段の石段を設け、その上に社殿(本殿)と手水舎が設置されています。

本殿へ 額1

次項で紹介する手水舎の上部にあった額(右上写真)に、社殿は、元禄7年(1694)に建立、明治22年(1889)に改築、
そしてつい最近の平成15年(2003)1月に新社殿ができた旨、記されています。

本殿

本殿は流造り、銅板葺き。

『利根町史』に天神社は創立不詳、
大越家の氏神であった、とありますが、
浅間社の間違いでは?

とはいうものの、大越家は分家ほかありますから、
これはこれで正しいのかも。

元禄7年の社殿建立はかなり古いですが、
なにか文献がのこっているのでしょうか。
また、それが確かであるなら、
天満宮の創立は元禄7年もしくはそれ以前ということになります。

祭神像

祭神像

『利根町史』に、本殿内に菅原道真の座像あり、
ということなので、ものは試しに本殿の扉を見てみると・・・。
なんと、道真公の・・・木像?素材はなんでしょう?

施錠されていませんでしたので、
これは、ということで撮らせてもらいました。

いつ頃の作とか由緒は不明です。
手前下に文書紙片があるようで、
いつか再訪問して見られるなら調べてみたいと思います。

鈴

本殿前の鈴。

次に紹介する改築事業覚書には、
以下のように記されています。

奉納 本坪鈴 紅白鈴紐
蜂谷弘・蜂谷純三郎・蜂谷栄

改築事業覚の額など

社殿の背面には平成15年の新社殿建立時の改築事業覚書等が掲載されています。

改築事業覚書 額2

手水舎

本殿(拝殿)の右手には手水舎があります。手水石表面は、よくある「奉納」。

手水舎 手水石正面

右側面は「天保四年癸巳正月吉日」で、天保4年(1833)正月の造立。「巳」の字はどうして「己」が多いのでしょう?
左側面は「丗話人 宿 七良左エ門・清兵ヱ・久左ヱ門・五兵ヱ」。宿というのは押戸宿という意味でしょうか。

手水石右側面 手水石左側面

本体: 高21cm、幅61cm、厚33cm。

板碑?

何か無造作に置かれてありましたが、いいのでしょうか?内容については宿題です。

板碑? 板碑?

古井戸

古井戸

境内右手の空き地には古井戸が。
井戸というと、朝顔やつるべとられてもらい水
・・・というような俳句(加賀千代女)より、
最近では「リング」の貞子のイメージが強い、
と思うのはタヌポンだけでしょうか?おお怖い〜!

ここも、人が落ちないように金網が張られています。
子供たちやペットなどが・・・でも・・・
ここから、なにものかが飛び出してこないように、かも(笑)。

天神様と梅の花

天神様と梅の花

菅原道真公を祀ったのが天満宮。
全国津々浦々にありますね。
利根町にはほかに早尾にも、
早尾天神社 があります。

しかし、このどちらもタヌポンは
同時期に初めて訪れた上、さらに、
いずれもその境内で偶然に
美しい梅の花を見ることができました。

とても不思議に思いましたが、
梅については偶然ではないようです。

というのは、天神様には必ず梅の花が植えてある ということを初めて知ったからです。
菅原道真がたいへん梅の花が好きだったからなのですが、そういえば大宰府に流刑にあったとき詠んだ歌が有名です。

こち吹かば 匂い起こせよ 梅の花 あるじ無しとて 春な忘れそ

このいわく因縁ある梅の花の開花時に、2つの天神様を初めて訪れることになるなんてとても奇遇な気がします。
早尾天神社 にはなんとことし(2005)の正月でもう梅が咲いていたのです。(Columbus Blog 05/01/03

天満宮からの入口

天満宮社殿背後に見つけました。急峻な崖です。下右写真は、崖の上、鎌倉街道方面を見上げたカット。

天満宮からの入口 天満宮からの入口・崖

おそらくここから鎌倉街道に入れるのではないかと思いますが、お勧めできません。とても危険です。

タヌポンも、もっと若ければチャレンジしますが、いまは諦めます。とてもムリです。昨年よりダイエットしたんですが(笑)。
もし登ろうという方は、自己責任でお願いします。また鎌倉街道は公道ではなく私有地であることをご承知おき願います。

また、ここから登らなくても、この上に何があるかは、最近のルート発見で想像がつきます。

→ 新ルートコンテンツ UP しました!上記の件は 利根町の鎌倉街道−812.天満宮へ続く道?」参照。

日本一のヒヨクヒバ

鎌倉街道そば、押戸の個人邸に、地上10cmで4本に枝分かれした巨大なヒヨクヒバ(比翼檜葉)があります。
利根タブノキ会常任講師、渡辺剛男氏の調べによれば、幹周り6m26cmは日本一ではないかと推定されています。

日本一のヒヨクヒバ 日本一のヒヨクヒバ

ヒヨクヒバはサワラの園芸品種で、葉が糸のように枝垂れるので別名イトヒバとも呼ばれます。
また、この並んで垂れ下がった枝の形が、鳥が翼を広げているように見えることからこの名前が付いたとのこと。
茨城県潮来市清水の三熊神社のヒヨクヒバは幹周4m90cm、樹齢300年で市の天然記念物となっています。
この押戸のヒヨクヒバも、少なくとも町の天然記念物として早く認定されるべきものではないかと思います。樹高15.5m。
(13/06/06 追記・12/10/13 タブノキ会主催イベントにて撮影)


(15/06/30・15/06/13・15/06/12・13/08/04・13/08/02・13/06/25・13/06/06・11/01/26・10/12/20・10/03/17・06/07/08・05/09/12 追記) (05/03/29)
(15/06/13・15/06/08・15/05/30・15/05/27・13/08/02・12/10/13・11/02/23・10/03/16・09/04/03・06/06/19・05/09/17・05/07/31・05/02/27 撮影)


本コンテンツの石造物データ → 鎌倉街道3石造物一覧.xlxs (12KB)