![]() 利根町で蛟もう神社と並ぶ重要な歴史をもつ布川神社。
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祭神と配祀
布川神社の祭神は、久々能智之命(くぐぬちのみこと)。古事記では、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)が生んだ木の神とされています。「久々」とは植物の茎を表しています。この神を祭神としているのは利根町の神社では布川神社だけです。
配祀として、水波能女命(みずはのめのみこと)、久那斗神(くなとのかみ)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀っています。水神宮、道祖神、弁財天などの祭神となっている神々ですね。
由緒沿革
さて、由緒沿革です。
古く鎌倉時代の寛元年中(1242〜1246)豊島摂津守の建立。
別当徳満寺院の記録では、享保19年(1734)正一位布川大明神とあります。
明治維新の際、つまり明治元年(1868)布川神社と改称しました。同2年には神祇官銅鏡1面を進めて神体となす、と町史にあります。
神事、尋橦
例大祭は旧暦6月14日、15日、16日の3日間行われ、初日に神輿が〆切(現在は内宿)の御仮殿(おかりや)に遷座し、16日最終日に本殿に還御、このときに境内で尋橦(つく)の舞(まい)が開催されました。
尋橦は元禄の頃(1688〜1703)から明治末にかけて行われていましたが、明治42年(1909)以降は途絶えています。
尋橦とは、船型に長さ8間(14.4m)ほどの帆柱を立て、雨蛙の面をつけ竹弓を持った舞人が、柱の上に登って種々の舞をまうというものです。このとき童子が鶴・亀・鹿・猿・龍などの面をつけ船中で地舞をまったということです。
鳥居
御影石造りの明神鳥居。柱の裏(写真右)に寛政4年(1792)4月(建立)と記されています。これは鳥居正面から見て左の柱の裏です。ちなみに相対する右の柱の裏には「大々講中」とあります。

石段

数えてみるといちばん下から鳥居のところまでは8段、それから上の境内までは66段なので計74段のはずなのですが、いちおう77段と称されています。
右の提灯が立てられているのは3年に1度の布川神社臨時大祭時です。このとき、「禊(みそぎ)」と言って若衆が水を浴びながらここを7往復する儀式が行われます。タヌポンは若衆ではないのでそんなことはやりません、いや、やれません。若かったとしても能力的にとてもムリです。1往復がやっとでしょう。また布川地区の中でも特定の地域に限定した伝統的な行事ですのでその資格もありませんから大丈夫(?)です。
→ 布川神社臨時大祭「禊」参照
狛犬と手水


狛犬1対は、寛政元年(1789)の作。狛犬は風化すればするほど味わいが出てきますね。
さて、手水ですが、文化12年(1829)正月の奉納。
江戸は小網町の布川屋●●衛門、布川世話人十●人、と記されています。(●は不明)
小網町とは現在の中央区日本橋小網町でしょうね。布川屋というのはおそらく布川の利根川での船荷を扱う商人というところでしょうか。
ところで、上の境内にはとくに手水は別に見えないようなのですが、拝殿前、常夜燈の前に1対設えてある新しい箱型のものが何なのか分かりません。後日、それが手水(に代わるもの)なのかどうかも調べてみようと思っています。


石段を上がりきったところに左右に石燈籠(ほかに拝殿前に少し新しい常夜燈があります)と並ぶようにして利根町指定文化財の標柱が立っています。(写真左の奥に写っている石祠は後述する「舩魂宮」です)
いずれも布川神社に所蔵されている絵馬の名前が記されています。
「神功皇后と武内宿禰」、「宇治川先陣争い図」、「天の岩戸」の3点。これ以外にもいくつか飾られているようなのですが、とくにこの3点が価値があるということでしょうか。こういうところの判断というのは専門家でないとよく分かりませんね。
布川神社に納められている絵馬は以下。全部で7点。利根町では蛟もう神社と並ぶ最大の点数です。利根町ではすべてが文化財に指定されている琴平神社の3点ほか全部で25点があるということです。(絵馬の写真は以下、「拝殿の額と絵馬」でご覧ください)
布川神社所属の絵馬
| 名称 | 作者 | 年代 | 寸法cm(縦×横) | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 神楽図 | 春川 | 99.0×60.0 | ||
| 宇治川先陣争い図 | 春川 | 慶応元年(1865) | 92.5×157.5 | 町指定文化財 |
| 胡笳歌図 | 藤井春川 | 88.0×166.5 | ||
| 天の岩戸図 | 玉峨 | 慶応元年(1865) | 120.0×155.0 | 町指定文化財 |
| 神功皇后と武内宿禰図 | 玉峨 | 慶応元年(1865) | 100.0×60.5 | 町指定文化財 |
| 八岐大蛇退治図 | 玉峨 | 慶応2年(1866) | 58.0×89.0 | |
| 鶴・孔雀図 | 玉峨 | 安政6年(1859) | 38.0×60.0 |
(利根町の絵馬:編集・発行 利根町教育委員会 平成17年1月26日 より抜粋)
絵馬作者「玉峨」の謎
天の岩戸図などの作者の「玉峨」を調べてみると・・・江戸時代後期の画家「東 東洋(あずま とうよう)」の号というのがあります。陸奥生まれで仙台四大画家の一人、京都で表絵師狩野梅笑門下に入り、その養子となるほか円山応挙や池大雅にも師事。寛政年間には法眼に叙され、85才の高齢で歿、ということなのですが、この東 東洋は、宝暦5年(1755)〜天保10年(1839)の人物。絵馬の制作年代の慶応元年(1865)はおろか慶応元年(1865)は歿後となってしまいます。これはどういうことなのでしょう?別人なのでしょうか?
真相はどうなのでしょうか?
さて、「春川」および「藤井春川」のほうですが、これは同一人物でしょうね。ちなみに号を春川と名乗った画家として、幕末・明治の日本画家 「狩野友信(かのう とものぶ)」があげられます。明治45年(1912)に70才で歿したということですから、天保14年(1843)生まれとなります。宇治川先陣争い図が1865年の作ということで、この年には狩野友信なら23歳で若いように思えますが、16才の時将軍家茂より奥絵師に任命されていますから十分、可能性はありますね。開成学校や東京大学予備門・東京美術学校(現東京芸術大学)教授等を歴任したということですからぐっと現代に近い感じがしますね。
拝殿

これが拝殿。クリックすると拡大できます。
普段は扉は開いていません。下は大祭時。
拝殿前の常夜燈は撮り忘れました。次回に。
その横にある1対の神紋のついた箱のようなものは何でしょう?これも中を今度撮ってきます。



さっそく拝殿前に行って撮ってきました。(本日06/07/22)
左上、雨水が溜まっていますが・・・これも手水の一種なんでしょうか?
右上は常夜燈。その前に見えるのが文化財の絵馬を解説している標識です(左)。
以前はこれはなかったですね。上の拝殿の写真を見てください。これは昨年(2005)1月のものですが、同じような写真で3月19日のものがありますがそれにも写っていません。ここ1年の間に建てられたのは間違いないですね。
拝殿の額・鈴と絵馬
額

左は拝殿上部に掲載されていた布川神社の由来が記された額。クリックして拡大できます。
この内容は冒頭で紹介しましたのでここでは割愛します。
右の額は、「正一位布川大明神」の額。

左は、「布川神社」明治15年(1882)作。右はその上部の鈴。
絵馬

拝殿内部には、絵馬や額などがたくさん掲げられています。
写真右は左から順に「宇治川先陣争い図」、「神功皇后と武内宿禰」、「天の岩戸」の利根町指定文化財の3点が並んでいます。
写真左は、写真右のすぐ左で、「宇治川先陣争い図」が重複して右に写っていますが、中央左に見える小さめのは絵馬なのかどうか分かりません。布川神社所蔵のもう1点の「鶴・孔雀図」ではありません。「鶴・孔雀図」はここに紹介した写真4点には写っていませんね。

写真左は左端から「神楽図」と「胡笳歌図」。写真右は、中央に「八岐大蛇退治図」。

天照大神は男?
利根町指定文化財の「天の岩戸」絵馬の中では、天照大神(あまてらすおおみかみ)があごひげを生やした男神として描かれています。一般に天照大神とは女神というふうに相場は決まっていると思いましたが、これはとても奇異な感じです。
しかし、天宇受売命(あめのうずめのみこと)の嬌声で、岩戸をつい開けてしまい、その扇情的な踊りに幻惑されてしまう天照大神とは男神である、と作者「玉峨」が考えたとしたらそれも一理あるかなとタヌポンは思いました。(狸の巻物「神代の物語4. 天岩戸隠れ」参照)
本殿

本殿は、日吉造りという建築様式。
日吉大社が典型で、正面と側面の三方に庇がついていて屋根を背面で切り落としたような形の様式のようです。
日吉は「ひえ」と「ひよし」の両方の読み方があるようです。
本殿の周りの瑞垣の一部に切り株があり、除去できなかったのかそのまま残して瑞垣が造られていました。
下は祭礼時に見た祭壇。こうなっているんですね。
もしかするとここには本来、ご神体である「神祇官銅鏡」が安置されているのかも知れません。この撮影時はちょうど布川神社臨時大祭3日目で、ご神体がまだ神輿の中に納められたままで戻ってきていないときです。

本殿裏の石祠

本殿の真後ろに建っていたのがこの石祠。見ると(クリックして拡大できます)、「正一位布川大明神」とあります。嘉永3年(1850)建立ということですが、もともとこの場所にあったものなのでしょうか。大昔、本殿のなかったときにこのような石祠(とせいぜい鳥居)だけの時代があって、その名残として嘉永時代に再建造されたのでは、などと想像しましたが、果たして真相は?
基底に「氏子中」とありますが、文字に装飾がなされているせいか、はじめ「子」は「学」、「中」は「米」または「栄」などと読んでしまい、???という感じでした。
昔は、妙なところに点をつけた漢字がたくさんあります。これもそうなのでしょう。ちなみに「中」というのは「講中」と同様に仲間・集団を表す言葉のようです。
はてな?→ 町史ではこの石祠が「境内社」の項目に列記されています。ほかのものはともかく、これは布川神社そのものを表している石祠だと思いますのでこれを境内社のひとつと呼ぶのはなにかおかしい気がします。
でも、これは境内社の定義をタヌポンが理解していないだけで、「形」として別の石祠や堂宇になってさえいれば本殿と同一のもの、あるいはその前身であった旧石祠すらも境内社と呼ぶ、そんな定義なのかも知れません。
また、これとは別に、以下で紹介する利根町では布川神社で初めて見かけた「舩魂宮」という石祠が、今度は、町史で境内社の項目には入っていなくて別項目として取り上げられているのです。これは舩魂宮が通常の神社関連のものとは別格のものだからというような意味だからなのでしょうか。舩魂宮の由緒がいまひとつ不明なのでこのあたりも謎といえば謎です。

布川神社の境内社としての八坂神社です。境内社なのに鳥居まであります。境内社ではなく本社なのに鳥居のない神社がたくさんあるというのに・・・。
クリックすると朱文字の神額のUPになります。立派です。
利根町には大房・蛟もう神社奥の宮の裏手にも八坂神社があります。これは境内社ではなく本社です。
うーーーん。・・・・うーーーん。
さきほどから何か気になる思いが・・・。
何かこれと同じものを見たような・・・。デジャヴュ?
いや?
そうそう、思い出しました。
「八坂神社と境内社」同じような光景。
それは琴平神社です。おなじような石段の途中の右手を少し入ったところ。境内社なのに鳥居まである・・・。
氷解しました→琴平神社「境内社とは」参照

鳥居改築記念碑が建っています。
平成16年(2004)9月。まだ新しいですね。
八坂神社本殿

八坂神社の本殿。祭神は、建速須佐之男神(たけはやすさのおのかみ)。これも全国共通。
実は本殿にカメラを向けたとき、思わず、「ギョッ」としてしまいました。あまりにも異様なのでこの写真ではカットして掲載しましたが、本殿に向かって左下に何故か人形が・・・。
この下の写真です。クリックして見てください。どうしてこんなものが・・・。謎です。気味が悪いですねえ。
チャイルド・プレイという映画がありますが、見方によってはかわいい人形も不気味に見えるときがあります。髪が伸びる日本人形なんかも・・・。ヒェーーッ!

見つからない境内社
さて、町史には、八坂神社のほかに以下の神社が境内社として存在していることが記されています。
あわてんぼうで、探し物のヘタなタヌポンは実はこれらがどこにあるのかいまだに分かりません。(06/07/22現在)
再度、訪問して念入りに隅々を調べてみるつもりなのですが、判明したらご紹介します。
三峯神社、秋葉神社、愛宕神社と続けて記されているのでそれに続く祭神名は3社に共通なのかどうか不明です。三峯神社と愛宕神社はなんとなく共通でもありうる気がしますが、秋葉神社は火之迦具土命(ひのかぐつちのかみ)が祭神なのではないでしょうか?
→ なんと愚かなことを!火産霊命(ほむすびのみこと)というのが火之迦具土命(ひのかぐつちのかみ)のことなんですね。イコールです。別名です。ぜんぜんちがう名、こりゃあ分かりません!それとも、共通につく「火」で推理すべきでしたか?
でも、それでは三峯神社と愛宕神社も火之迦具土命(ひのかぐつちのかみ)を祭神としている?このあたりは疑問です。
本日、ものすごい薮蚊に攻められながら少し調べてみましたが、上記のいずれも見つかりません。あるとすれば、石段途中の鍵のかかっている小屋の中や、本殿の内部とか、そういうところしか思い当たらないのですが、どこか見落としているのでしょうか?
次回、もう一度調べてみてもいいのですが、手がかりがつかめません。崖になったところで雑草生い茂っている場所などは・・・相当、重装備でいかないとかゆくてたまりませんね。冬場までおあずけでしょうか。(06/07/22追記)

これが問題の舩魂宮。
千鳥破風※の石祠です。
明治7年(1874)布川川岸「舩持中」により航行安穏を祈願し、奉納された、と町史にあります。
石祠には「舩王宮」と記されています。
この場合の祭神とはいったい誰、何になるのでしょうか?
タヌポンは冒頭で紹介したいまは行われていない「尋橦(つくまい)」の神事と関係あるように思うのですが・・・。
また、これは見当はずれだと思いますが、奈良時代後期の文人に淡海三船(おうみのみふね)という人物がいて、「舩王」と称されたとあります。が、どうも関係ないようですね。
写真で、基底の舩持中の舩の部分が欠落していますが、これは最近のことのようです。町史の写真ではきちんと写っていますので。
※千鳥破風(ちどりはふ)とは、末広がりの三角形をした屋根の造りを言います。三角形の千鳥に似せているという意味でしょう。破風とは本来は破風板のことで建物の屋根の妻側、三角形のところに山形に取り付けられた板のことを指します。
利根七福神と絵馬立て


布川神社にも利根七福神のひとつ「恵比寿天」があります。その右手、拝殿に向かって左の燈篭の前に絵馬立てがあります。たまたま見かけたとき記名入りで「妻の病気、早くよくなりますように」とありました。神社にお参りするほどの病気、ご主人の願い通り一刻も早く回復されますようタヌポンもお祈り申し上げます。
左は社務所。拝殿に向かって右手にあります。

蛟もう神社の門の宮および奥の宮両方の境内にも同じような石柱が立っています。
「中臣一万度行事」・・・こちらは「中臣一万度行司」になっているようですが、これが何を表しているのか皆目、見当がつきません。
これは石段を上がって右手、文化財標柱のさらに右奥に、なんと外向きに建てられています。
石段脇の石塔類

鳥居の右手から奥、ちょうど集会所の建物の背後にあたる位置に庚申塔などの石塔類がいくつか並べられていました。

ほかに石段途中に常夜燈も1基、見つけました。これは八坂神社のすぐ手前にあります。石段を挟んで反対側にあるのが右の写真にある小屋。何が格納されているのでしょうか。

利根町のなかで石段を登った上に境内がある神社・仏閣がいくつかあります。お寺では円明寺、徳満寺、神社では、蛟もう神社と琴平神社、日枝神社、八坂神社そしてこの布川神社。それも登った境内の地面の高さで別の道路や建物などにつながっていたりする場合もあります。円明寺、徳満寺はひとつ上のメインの道路へ、琴平神社は徳満寺の境内へ、蛟もう神社奥の宮は裏参道の道へとそれぞれ続いています。そして、布川神社の場合は布川小学校の校庭へとつながっています。つまり石段下の布川神社前の道路よりは高い位置に布川小学校が建っているというわけです。
そういうわけで、布川小学校の生徒たちにとって布川神社の境内は遊び場のひとつであり、タヌポンの娘もかつてはそこで遊んだひとりでした。
布川小学校の桜
学校、とくに全国の小・中学校はだいたいが桜の名所なのではないでしょうか。
この布川小もとてもきれいな花を咲かせてくれます。
まあ、いわゆる「花見酒」はさすがにできませんので、花見の名所にはリストアップされないのでしょうね。
通りに面して小広場を挟んで布川馬場集会所が建っています。その前右手に真横を向いて建っている祠が四郡大師です。


布川地区の要所、布川神社ですから当然、ありますね。62番です。ただし堂内の大師像は1体だけ。

左は馬場集会所と大師堂。右は右奥に見える建物が集会所です。
この広場で夏は盆踊りなどの催しが開かれます。3年に1度の大祭時もこの広場は重要な役割を果たします。
それでは、2005布川大祭へどうぞ。
(06/07/22)(撮影06/07/22・05/08/09・05/07/31・05/07/30・05/07/29・05/07/17・05/05/29・05/04/08・05/03/19・05/01/18)

布川小学校前から北に少し進み最初の角を左折してしばらく行くと左手に布川台集会所があります。
建物の横に道祖神の鳥居がありました。集会所は道祖神の社務所ともなっています。
布川台の道祖神

中央の石祠が祭神で久那戸神(くなどのかみ)。文久3年(1863)正月の建立。
ほかに左に2基、右に1基、石祠があります。(クリック拡大できます)
すぐ左の石祠は寛政6年(1794)2月、右は安政2年(1855)建立の道祖神です。
いちばん左の石祠の詳細は不明です。

祭神の両脇の道祖神石祠の中には、小さなキツネが飾ってありました。
(06/07/23)(撮影05/11/16・05/04/03)