タヌポンの利根ぽんぽ行 総州六阿弥陀詣

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六阿弥陀


浅学なタヌポンは最初、その存在の意味はまったく分かりませんでした。
徳満寺の山門へ向かう石段の途中に建っていたのですが、「六」って何だろうなあ、と思ったくらいで、それ以上の追求はしませんでした。当初は阿弥陀仏の像が6体ほど本堂かどこかに安置されているのだろう、なんて勝手な想像をしていたのです。何度か徳満寺を訪れたりほかのポイントを見ていて、あるとき、ほかにもよく似たものがあるのを発見してふと思いました。
6とは、どうも1ヵ所に安置された阿弥陀仏の数を表しているのではなさそうだ、ということを。

調べてみると、「阿弥陀仏六体の安置」というより「阿弥陀仏が安置された六ヵ所の寺詣」という昔のイベント企画だったのです。しかもこれは当時(19世紀前半)、江戸などで盛んに行われていたというのです。

タヌポンが徳満寺等で出会ったのは、その中のひとつである「総州六阿弥陀詣」。
当時、下総に所属していた利根町布川を中心に、利根川を挟んで現在の千葉県我孫子市や印西市のいくつかの寺社を含んだものでした。
利根ぽんぽ行ということで、原則として、利根町以外の地域については、利根町探索を終えてからということもあったので後回しにしていましたが、それほど遠方ではないので、利根町以外を含む6ヵ所(実は11ヵ所)の探索をしてみよう、ということにしました。

徳満寺六阿弥陀仏石塔 徳満寺六阿弥陀仏石塔

タイトル画像は2画像のjavascript処理をしていますが、IE以外では固定1画像のみの表示となります。2画像のミニ画像を左に再掲します。(クリック拡大できます)


総州六阿弥陀詣の発願

「六」とは「南無阿弥陀仏」の文字数。


さて、なぜ「六」なのかを説明していませんでしたね。これは「南無阿弥陀仏」の六文字からとっているのです。
南無阿弥陀仏の六文字にちなんで、阿弥陀如来を安置する六ヵ寺を巡拝するのが「六阿弥陀詣(もうで)」。
それでは、利根町布川を中心とした「総州六阿弥陀詣」を整備開眼(かいげん)したのは、何時頃で誰の発案なのでしょうか?

文政年間(1818〜)布川に星野一楽という人がいました。常に念仏を唱え周囲の人にも勧めるという信心深い人でした。
あるとき重い病気にかかりそれが治癒したのも仏恩と考え、その報恩のため、その頃、江戸でも盛んだった「六阿弥陀詣巡拝」を発願したのです。
各村々の百万遍講中と相談して、布川徳満寺を中心に以下の11ヵ寺に六阿弥陀の標石を建てました。
文政10年(1827)のことでした。
なぜ、6ではなく11になったのか、その経緯は分からないのですが・・・。
いずれにせよ、6ヵ所ではなく少なくとも11ヵ所を訪問しなければなりません。
しかし、その半分が利根川を越えて千葉県我孫子市や印西市まで広がっていました。


一番

徳満寺

新義真言宗

利根町布川

二番

延命寺

真言宗

我孫子市布佐

回向所

最勝院

天台宗

印西市発作

三番

泉倉寺

天台宗

印西市和泉

四番

長楽寺

天台宗

印西市大森

五番

三宝院

天台宗

印西市竹袋

六番

不動堂

真言宗

利根町布川

納経所

来見寺

曹洞宗

利根町布川

木余如来

無量寺

浄土宗

利根町中谷

懺悔所

念仏院

浄土宗

利根町押付新田

供養所

瑞光寺

浄土宗

利根町押付新田


さて、その案内書として、「総州六阿弥陀詣」という和本が刊行されました。
星野一楽が発願して標石を建てたその翌年の文政11年(1828)のことでした。
これは、江戸馬喰町の東都書林・西村屋与八版として刊行されましたが、
現在、東京大学や東北大学などにわずか4冊ですが、所蔵されています。
利根町域では未発見というのが残念ですが、
その貴重な資料の1冊、武蔵野市立中央図書館所蔵のものについて、利根町史で紹介しています。
以下、その内容にそって、原文の見出し等の一部を転載し、タヌポンの口語訳を入れ、現在の写真を添えてご紹介することにしましょう。

六阿弥陀現況コースマップ



総州六阿弥陀詣 西村屋与八版 冒頭と巻末

和本は約30ページくらいですが、それぞれのページの上部に、地域の絵や行程、作者の和歌などを目次的に配し、下部に文章が連なる構成になっています。
しかし、1ページ毎にタイトル等がついていますが、文章も1ページ単位で完結しているわけではなく、次ページに連なって記されています。しかも、その文章の内容は必ずしも上部のタイトルや挿絵と完全には一致せず、後半など相当、ズレが生じている箇所もあります。
そこで、ここでは内容的に区切りのいいところで分けて、それに該当するタイトルや和歌を配置し、ご紹介することにしました。
したがって、和本の1ページ毎の訳とはなっていませんのでご了承ください。


和本冒頭


六阿弥陀詣のタイトルの上に、江戸日本橋の絵が描かれていて、布川に至る行程がその左に記されています。六阿弥陀の石塔を建てた星野一楽というより、江戸に住む風流人たちがこの総州六阿弥陀を訪ねる、という設定となっています。


江戸日本橋 挿絵

2里小松川、1里半市川、28丁八幡、2里8丁鎌ヶ谷、1里8丁白井、3里布佐、とね川・舟わたし有布川


[和本本文口語訳]
六阿弥陀詣 いつぞやお話ししました総州六阿弥陀詣のことですが、幸い山々の桜も真っ盛り、気の置けない友だちと申し合わせて、硯、懐紙など用意して、道筋はまず布川をはじめとしてここで案内を頼んで、壱番の霊場、徳満寺に詣でます。


和本巻末


以下は、西村屋与八版の総州六阿弥陀詣の巻末の表です。

壱 番 布川 二 番 ふさ 回向所 ほつさく
徳満寺より 延命寺より 最勝院より
2番へ8丁 舟わたし有 ゑかう所へ廿丁 3番へ15丁余
三 番 いづみ 四 番 大もり 五 番 竹袋
泉倉寺より 長楽寺より 三宝院より
4番へ18町 別所地蔵堂へかけこし5番へ18丁 6番へ30丁舟 わたし有
六 番 ふ川 納経所 ふ川 木餘如来 中谷
勢至堂より 来見寺より 無量寺より
なうきやう所へ2丁 木あまりへ1里 ざんげ所へ1里
懺悔所 押附新田 供養所 押附本田 凡道のり
都合5里9丁余
念仏院より 瑞光寺より
くよう所へ6丁 1番へ10丁余 ふみまき川へ8丁
文政11戌子年8月新刊成
東都書林 馬喰町2丁目 西村屋与八梓

冒頭から巻末のでの中味を以下、順に紹介します。

壱番徳満寺

壱番徳満寺

壱番徳満寺 挿絵
南(な)の字から まわりはじめのその元木
一世のうちの ゑんとなるらむ


[和本本文口語訳]
(徳満寺には)御朱印地領があり、寺宝の和漢の書画多数ある中でも、嵯峨天皇、弘法大師、菅相丞(菅原道真公)の真筆等たいへん珍しく拝見いたしました。本堂に安置されておられます地蔵尊は、探(湛)慶作とか。境内に大師堂天満宮金毘羅神社の宝前には心経(しんぎょう)の碑があります。東南辰の方角には布川神社。東に山王神社。北に八幡山と銭亀山台畑通りは豊嶋の城跡と聞きました。町のほうには出船入船が川中を争うように行き来し、とても賑わっており、銚子や鹿島から日々鮮船(なまふね)が着岸し市をなしています。

壱番徳満寺山門への石段

[タヌポン補足]
嵯峨天皇、弘法大師、菅相丞(菅原道真公)の真筆等: 果たして現存しているのかまだ未調査です。
地蔵尊: 木造地蔵菩薩立像(もくぞうじぞうぼさつりつぞう)。徳満寺のページ参照。湛慶(1173-1256)は鎌倉時代の仏師。運慶の嫡男。
大師堂と天満宮: 大師堂は現在のこれ。天満宮は徳満寺の天神宮のことでしょうか。
金毘羅神社の心経の碑: 金毘羅神社は琴平神社。下の写真(左)の中央、小林一茶の金毘羅角力の句碑が有名ですが、
その右隣にあるのが心経(しんぎょう)の碑(右写真)。碑の裏を見ると、文政10年(1827)とあります。

金毘羅神社の碑 心経の碑

布川神社、山王神社: 後日、紹介。
八幡山と銭亀山: 八幡山は八幡神社あたりか。銭亀山は不明。
豊嶋の城跡: 台畑通りという地名は現在見当たりません。城跡は徳満寺のページ参照。

二番延命寺

二番延命寺 二番延命寺

二番延命寺 挿絵
無(む)かふへは ミのり(御法)のふねで
こすぬまた(沼田)
二たびもとの みちにまよわん


布佐 挿絵
あびこへ3里、松戸へ7里

右の画像は石碑の左横



延命寺

[和本本文口語訳]
これより松戸宿まで7里。この間の荷物を運ぶ人馬で向こう河岸(布佐)はごったがえしています。布佐・布川の数百の人家も一望に見渡せます。大門より石坂を下って内宿に入り、浜宿に程近い渡し場の西に布佐台の愛宕山を見て二番延命寺に参拝。虚空蔵尊は行基の作と聞きました。明神山、和田の城山三河屋新田を過ぎ、千賀崎の土手、手賀沼のほとりに出ると、糸を垂れる釣り人や網を打つ小舟、渚には群れをなしたカモメが目の前に見え、とても面白いと思いました。


手賀川

[タヌポン補足]
愛宕山
: 不明。
虚空蔵尊: 未取材。
明神山、和田の城山: 地名等未調査。
三河屋新田: 成田線布佐駅南に三河屋新田があります。
千賀崎: 未調査。
手賀沼のほとり: 現在の手賀川か。(左写真)ちなみに手賀沼は昭和30年代にこの西付近一帯が干拓され縮小しています。


回向所最勝院

回向所最勝院

回向所最勝院 挿絵
元木より 有縁無ゑんの枝葉まで ミなことごとく うかふ(ぶ)てがぬま(手賀沼)


[和本本文口語訳]
浦辺のほうを見渡すと向こうに布瀬明神山、北に浅間山。麓に続く民家は霞がかかっておぼろ。また上沼口に築いた千間堤などゆっくり見物しているうちに、にわかに雲が立ち、驚いて早く家路に着こうと、心も関枠の土橋を渡り、回向所発作最勝院を参詣。熱田山の隣の千海ヶ淵で、草履ぬぎ岩などを見て、亀成を過ぎ、坂をよじ登ると小倉山。花よりも勝る紅葉の若葉、秋の眺めもさぞかしと思い浮かばれます。


関枠橋

[タヌポン補足]
浦辺: 布佐駅の西南。
布瀬明神山: 布瀬は現在は柏市。
浅間山: 布佐駅の西に浅間前という地域があります。
上沼口、千間堤: 布佐駅の西、手賀川の北は沼田と呼ばれる地域で、千間橋が架かっています。
心も関枠の土橋: 心も「急く」と「関」の掛詞。千間橋のひとつ下流に架かる橋が関枠橋(左)。現在はコンクリート製です。
熱田山: 熱田神社があるということですが最初どこにあるのか分かりませんでした。 回向所最勝院からメイン道路に出た正面が小高い丘のようになっています。その少し左手の小さな沼というか水溜りの陰に熱田山への登り口が見つかりました(下左)。

しかし、それも近くの人に聞いたからです。自力ではとても見つからないでしょう。かなり急な九十九折の石段が約80段ほどついています。でも、手すりがついていますので思ったほど登るのはたいへんではありませんでした。頂上には、15uくらいの小さな敷地に、鳥居はありませんが祠、石祠や燈籠などがあります。
熱田神社という名が記されているものは見つかりませんでした。

熱田山入口 熱田神社

千海ヶ淵・草履ぬぎ岩: 熱田神社が立つ丘上の下部が貝化石の岩となっていて草履ぬぎ岩と想定される、と町史にありますが、千海ヶ淵とともに不明です。
亀成、小倉山: 亀成は発作の南。さらにその南に小倉という地域があります。


回向所最勝院の石碑(右端)の真後ろには、ズラリと石祠が並んでいます。



手賀川 手賀川
大杉神社

石祠の奥には集会所があり、その前は最勝院の境内となっています。
いんざい七福神のひとつ、ほてい尊などの碑が建てられています。
いっぽう、六阿弥陀の石碑の右隣は大杉神社。
熱田神社の位置が分からないとき、この大杉神社のまちがいではないかと思ったりしました。
鳥居以下本殿などがある境内となっています。

三番泉倉寺

泉倉寺は、天台宗48か寺の本寺というくらいですからとても立派なお寺です。最初、泉倉寺から道を挟んだ真向かいに「光堂」という堂があるということで探していたのですが、それらしいものが道路からは見当たりません。いっぽう、同じような場所に「宝珠院観音堂」という名所があるらしく、そこへの道標をいたるところで見かけます。「光堂」のほうはいったいどうなっているのか、と思いましたが、実はこれは同じものだったのです!

こういう話をする背景として・・・
いまタヌポンは利根町の徳満寺に端を発する「総州六阿弥陀詣」のテーマでここにたどり着いているのですが、当の泉倉寺にしてみれば、そのテーマの石塔よりさらに文化・歴史上価値があるとされる建物や寺宝を具えているわけです。初めて、こうしたお寺を訪ね、もしご住職ほかにお会いしたときには、六阿弥陀のことより、まずは泉倉寺のいちばんのセールスポイントである事柄についてお尋ねするのが礼儀というものでしょう。いかに過去の経緯においてその寺と関係あることにしても、別の寺のことや、ましては神社関連の質問を最初にするのは少し申し訳ない気がしますし、現実に、そうした場合、露骨に心外な顔をされたことも別の寺で経験しています。

そんなわけで、泉倉寺の六阿弥陀石塔は、お寺の人に尋ねず、なんとか自力で探し出すことができました。しかし、これらは、どうしても境内の中心からははずれたところになるのは仕方ないことですね。泉倉寺の場合はそれでもかなり分かりやすい位置にありましたが・・・。「光堂」のほうは、泉倉寺関連の建造物なので、もしお寺の人を見かけたら尋ねてみれば簡単に分かることだったのですが、境内はだれもいないし、なかなか閑静な場所で人通りも少ないんですね。ジョギングしていた人に聞くと泉倉寺の名も知らないというので論外でした。 六阿弥陀のためではなく、「光堂」探索を主目的とした2回目の訪問で、お寺の関係者ではなさそうでしたが、初めて見かけた近隣の人に尋ねました。すぐ脇にある小道を入って行けばいいということで、見てみると入口に「宝珠院観音堂」へと記されています。そこで初めて、「光堂」と「宝珠院観音堂」が同一のものであることを知りました。光堂(宝珠院観音堂)の写真等については、この項目、後半で紹介します。


泉倉寺の門と本堂。

泉倉寺門 泉倉寺本堂

六阿弥陀石碑。

三番泉倉寺 三番泉倉寺

石碑の拡大写真。右は石碑の真横からの写真。

三番泉倉寺 三番泉倉寺

三番泉倉寺 挿絵

阿(あ)りか(が)たや 阿みた(だ)の浄土 にしかはら(西ヶ原) 三かい(三界)しゆじやう(衆生) のこるものなし


[和本本文口語訳]
三番和泉村泉倉寺は天台48か寺の本寺で、元山大師が客殿に安置されています。境内には、銅製の五重相伝供養塔山王権現、地蔵堂、釈迦堂があります。光堂(ひかりどう)は大同2年飛騨内匠の作とか。


[タヌポン補足]
元山大師: 未取材。
銅製の五重相伝供養塔: 以下、中央が明治に再建された五重相伝供養塔。クリックして拡大できます。

五重相伝供養塔

山王権現: 未取材。

地蔵堂: 本堂脇の建物の中に千葉県指定の重要文化財「木造延命地蔵菩薩坐像」が安置されています(下右)。したがってこれがある建物が地蔵堂ということになるのでしょうか。坐像写真クリックすると解説文になります。

地蔵堂 木造延命地蔵菩薩坐像

釈迦堂: 泉倉寺の庭師の方に聞くと、約100年ほど前に火事で消失してしまったらしいとのことです。少し離れた場所にあったとか。本尊のお釈迦様は運び出して本堂かどこかに安置されているとも。
光堂: 道を挟んで泉倉寺の向かい側、細い路地の奥にあります。堂までは少し道のりがありますので、表通りからはまったく見えません。下の右の写真はその途中後半から境内を見たもの。

光堂入口 光堂への道
宝珠院観音堂

左が「光堂」
和本では、大同2年飛騨内匠の作とありますが、これは調べると西暦807年。
しかし、現地での立て看板では室町後期の建立とされています。国指定重要文化財、国宝ですね。
(クリックすると解説文となります)
道路地図などでは、「宝珠院観音堂」の名で記されています。


四番長楽寺

道路から少し参道の細い道を進むと長楽寺の入口。その木の根元には小型の道祖神の石祠がいっぱい。この先を進んで左手に石塔があります。が、その前に、ちょっとしたハプニングがありました。

長楽寺入口 長楽寺の番犬

右上は、境内で飼われている番犬。
しきりにタヌポンに吠え掛かるのですが、その声がかれていて人間が咳をしているように聞こえます。
なんかちょっと可哀想な声です。あまり吼えるので、声帯をそのように処置されたのでしょうか。
しかし、何度か境内を往復しているうちに疲れたのか吠えなくなりました。地面に腹をつけるような姿勢を取り、何かしきりに背筋を伸ばしながら、ときどきタヌポンのほうをちらっと横目で見ています。ヘンなやつだなあ、と思っているのでしょうね。またこんど訪れてみたくなりました。


四番長楽寺

四番長楽寺 挿絵

弥(み)なか(が)今 この世て(で)たねを まけたはた(田畑) 四(し)かも仏花に ミのるうれしさ


大森 挿絵

白井へ2里 木下シへ1里

[和本本文口語訳]
程なくして鹿黒村に出て、四番は大森の長楽寺へ。境内の千手観世音は慈覚大師の作とか。

[タヌポン補足]
鹿黒村: 泉倉寺の北東。
千手観世音: 後述。

六阿弥陀第四番の石塔は、本堂の正面の道を奥に進んだ脇の樹木の陰にひっそりと立っていました。そのさらに奥には、笠木と島木が朽ちた稲荷神社の鳥居が建っていました。下は、入口を進んで右手にある本堂。

四番長楽寺

千葉県の有形文化財に指定されている、応安2年(1369)の銘をもつ梵鐘。これは本堂の中に安置されています。
ご住職に頼んで見せていただきました。

長楽寺梵鐘 梵鐘の解説

印西八景のひとつとなっている晩鐘。

梵鐘の解説

千手観世音

晩鐘の左隣にもうひとつ建物があります。どうも観音様を祀ってあるようです。
千手観世音の名が記されていると思えば、堂の入口の額には長寿観世音と書かれてもいます。

香炉 長寿観世音
千手観世音

堂の中を覗くと・・・小さい観音像が・・・。確かに千手観世音のようですね。
これが慈覚大師の作なのでしょうか。



五番三宝院

五番三宝院

五番三宝院 挿絵

陀(た)くさんに となへしくちの このした(舌)や 五(い)つともなしに ひらくれんた(だ)い(蓮台)


きおろし川岸 挿絵

成田4里半 滑川5里 安波7里 佐原9里 香取10里 鹿島10里 息栖12里 銚子18里

この五番の石柱は三宝院の正門ではなく、奥の山門の入口に建てられています。
下の写真は、横から撮ったもの。


五番三宝院

[和本本文口語訳]
ここ(長楽寺)より古新田の山路へ向かい、松露や蕨など採って土産とし、別所村の地蔵堂から五番竹袋の三宝院に詣でます。稲荷山を下って狢池(むじないけ)など見て、銚子街道の木下河岸で酒肴を取り揃え、折から三社詣で帰りの江戸の風流人らが土入(土偏に入)樋口(いりひぐち)から同船し、順風に帆をあげ、おのおの数杯酌み交わし、酔いも増せば謡小唄に三味肴も出ます。はさみ堤の内川から燕(つばくろ)口の沖を過ぎると、そこは渺々たる坂東太郎利根川。渦まく水がものすごいのですが、なんとか無難に布川の下の天地という洲に着きました。茶店に腰掛けてあたりを見回しますと、北は、開闢以来の筑波山、坤(ひつじさる=南西)に富士の山で江戸の都のかたもなつかしく、乾(いぬい=北西)は日光山、険しい秩父や箱根の山々、向うは六軒、相嶋、中の口も遠く離れて、川下は成田、滑川、阿波、息栖、鹿嶋、香取と未訪問地は多いのですけれど、これらはまたの機会にということで。

下は三宝院の正門。クリックして拡大できます。

三宝院門

[タヌポン補足]


古新田: 鹿黒の東。
別所村の地蔵堂: 以下参照。


地図上ではここが地蔵堂なのですが、本堂には金竜山と記されています。また、熊野神社も併設されています。


金竜山 熊野神社
木造地蔵菩薩立像

境内にある木造地蔵菩薩立像。
千葉県指定重要文化財。(解説は画像をクリック)


竹袋稲荷神社

三宝院の前の道を挟んで正面にある竹袋稲荷神社。


稲荷山: 現在の竹袋稲荷神社(左)付近か。
狢池(むじないけ): 現存していませんが、木下方面へ下る道を狢坂と呼んでいます。
銚子街道の木下河岸: 木下はきおろしと読みます。現在も同名の地域、JR成田線の駅があります。
土入樋口: 不明。
はさみ堤の内川から燕(つばくろ)口: 不明。
布川の下の天地という洲: 現在の利根緑地運動公園付近。


六番勢至堂

六番勢至堂 挿絵

仏たいをめく(ぐ)り しまひし亀井と(亀井戸)や 六しん(六塵)南無や 阿ミた(だ)仏こく(国)


[和本本文口語訳]
柳宿にかかり、六番は中宿の勢至堂に詣でます。


六番勢至堂

布川横町通り一帯を中宿と呼んでいますが、
ここに不動堂と並んで勢至堂が建っていたということです。
現在は不動堂だけが残されていて、
その本堂前に六阿弥陀の石柱が立っています。
なお、柳宿とは、中宿の南に位置します。




納経所来見寺

納経所来見寺 挿絵

元木より まいりしすゑは この寺の むつの阿ミた(だ)の くわんゐしくとく(顔以此功徳)


納経所来見寺

星野一楽が中心となって奉納したという「阿弥陀経」を彫ったおおきな石碑。これゆえに、ここが「納経所」と呼ばれることになりました。



[和本本文口語訳]
同じく納経所来見寺は豊嶋頼継侯の草創で、寺宝も多いとか。山門の額は唐の僧心越禅師の筆跡。左右には修善場、枯木堂。阿弥陀経碑があり、なかでも御松替の梅というのは、畏れ多くも東照神君家康公が再度御旅館されたことによって、御朱印地とともに賜れたと承りました。


[タヌポン補足]
山門の額: 以下の篆額参照。
修善場、枯木堂: 不明。
御松替の梅: 松替の梅等、来見寺のページ参照。




石碑の横、本堂の西(写真では手前)に松替の梅があります。右は篆額。これが、心越禅師の筆によるものでしょうか。


木余如来無量寺

木余無量寺 挿絵

法のふね かよふも夢の 世の中や 無量寿福の 海をわたらん


木余(きあまり)とは、仏像を彫った木の残りの先端部分のこと。それで如来を作ったものと思われます。
無量寺および無量寺の沼に関しては、「無量寺」を参照。

木余如来無量寺

[和本本文口語訳]
馬場、東宿を通り、中道田んぼより見渡すと、羽中村の応順寺の御堂は見上げて高く、稲荷山の松の枝も垂れてとても趣があります。福ノ木村を過ぎて、中谷の木余り如来の無量寺を詣でて寺宝を拝します。額は前の大僧正、雲臥書とあります。向こうを見渡せば、布鎌の松嶋、平岡山。上り下りの船に唐人沼など筆舌に尽くしがたい絶景です。境内の蓮池の蛙の声も面白く、艮(北東)には文間両社の松や杉の古木がうっそうと繁り、乾(北西)には羽根野諏訪神社の森、続いて早尾の天神山。北方、奥山、羽黒山を見渡せます。



[タヌポン補足]
馬場、東宿: 布川馬場、東地区。現布川神社近辺を指します。
羽中村の応順寺: 参照「応順寺
稲荷山: 応順寺北の稲荷神社付近のことでしょうか。それとも前述の竹袋稲荷神社近辺を指すのでしょうか。
額は前の大僧正、雲臥書: 無量寺(同ページ参照)が現在、廃寺となっていますので額等の所在がどうなったのか不明です。
境内の蓮池: 無量寺の沼のことを指すのでしょうか。
文間両社: 文間大明神。蛟もう神社の門の宮、奥の宮の両社を指しています。
羽根野諏訪神社: 諏訪神社のページ参照
早尾の天神山: 早尾天神社のページ参照


柵と樹木があって石柱の下部が読みづらくなっています。


懺悔所念仏院

懺悔所念仏院 挿絵

(な)か(永)らへば 量の罪も(あ)りぬべし 来(未来)この世を (た)のむ念


この句はとても面白いですね。南無阿弥陀仏の文字をひとつずつ当て字ですが句のなかに入れ込んで作っています。
しかも、分かりやすいように順番になっていますね。こういう言葉遊びもしているのですね。(上記、朱色の文字)

懺悔所念仏院

[和本本文口語訳]
中田切(なかたぎり)から野道に出ると、だれもが風流心を覚えて、歌を口ずさみ、遠景の花を愛で、旅の疲れも忘れます。押付新田の懺悔所念仏院では古い碑のいわれをうかがいました。



[タヌポン補足]
古い碑: 鶴殺し事件・泪塚関連の碑でしょうか。簡単な記述にとどめてあるのは江戸幕府の失態を思い測ったためでしょうね。泪塚ページ参照





供養所瑞光寺

供養所瑞光寺 挿絵

南(な)の字より めぐりてここに うち見れば 草木もうかぶ 仏嶋かな

枯草に 情の露やかりの宿 ミのりのゑんを 結ぶめでたさ

注)この下の句は後述「祐天」上人の供養塔銘文、右側面に彫られているものと同じです。


文巻川 挿絵


現在、瑞光寺は河川改修のため廃寺となっていますが、
祐天上人の名号石(以下)は旧押付本田(現利根町布川)の水神社に移され現存しています。

供養所瑞光寺

[和本本文口語訳]
桃畑を過ぎると、供養所の押付本田瑞光寺。参詣して、祐天大僧正の名号石を拝むと、六阿弥陀の由緒が碑に刻まれています。各所の詠歌の額は、江戸の甘斎翁の筆と承りました。前には江蔵地の納屋、後は新川。この土手を境として数十里は寛文年中(1661〜1670)に掘り割り、豊田村に堰を作りました。以来、羽根野の陣屋前から続く川辺に松木、上曾根、下曾根、その川下に下井、横須と続き、八枚橋のほうを見渡せば立崎までは一里余り、新川は用水を満々とたたえ、村々に分水しています。数万の民家は喜んで耕作を営んでいます。これはまさに大事なことです。この水上は小貝川の下流、名にし負う文巻川で、戸田井の渡しがあります。古歌に「水茎のかき流せどもながれぬは文巻川といへばなるべし」とあり、千年も変わらぬ歌枕、めでたい御世の行く末も広々と、いま花咲く季節に巡る六阿弥陀。春の夕日のように長い新堤を築き、後の世に贈る供養塚。生きとし生けるものすべての幸せと平和を願うこの身ですが、これも思えば去年の枯れ草の情の露、仮の宿です。この地で川々が落ち合い、波も皺を合わせて下利根川一筋に合流するという睦まじさ。まことに、仏像出現の仏嶋と呼ぶとか。今回一緒に巡拝する人びとは、子孫繁栄、そして長寿、現世の安穏と後世の福徳円満は疑いなしです。これもひとえに弥陀の誓願と承り、いよいよ信心を厚くし、ここに筆をおきます。


八枚橋

[タヌポン補足]
六阿弥陀の由緒: 後述
各所の詠歌の額: 廃寺となった瑞光寺のものでしょうか。現存されているかどうか不明。
江蔵地: 利根川を挟んで向こう岸、我孫子市江蔵地。蝦夷からやってきた人たちが住んだ町といわれています。
八枚橋: 千葉龍ヶ崎線が新利根川に架かる橋(左写真)。クルマの往来が激しく当時の俤は、わずかに橋から見る新利根川の流れぐらいでしょうか。
新川: 豊田南用水路か新利根川かどちらかでしょう。
豊田村に堰: 豊田堰として現存しています。小貝川と相野谷川参照


六阿弥陀供養塔銘文

供養塔銘文

南無阿弥陀仏の文字の下に小さく「祐天」の名と花押が彫られています。
この右側面には、以下の句が彫られています。

枯れ草に 情の露や かりの宿
みのりの縁を 結ぶめでたさ


左側面には、杉野東山書で供養塔建立の由緒が記されています。
以下、その口語訳を、利根町史第5巻より転載します。

[転載]
六阿弥陀供養塔の銘と叙 上毛国・高雋(こうせん)庶傑の文 東山杉野利恭(としゆき)の書
念仏三昧とは思専想寂(しせんそうじゃく)のことである。思い専なれば心はひとつになって撓(たわ)まず、想寂なれば悩みは空になって朗らかになる。故に、この功徳高く進み易い念仏を先ずするのである。ここに貞信の人があって星野一楽という。下総布川の人で、その性格は無欲でおだやか、もってこの道を楽しんでいる。自ら楽しむだけでなく人も楽しませている。文政6年(1823)病気にかかり命もあわやと思われたとき、不思議な夢をみて、洸然と悟り回復した。以来いよいよ弥陀の御名を百億万遍となえ、ともにはかって近村に六阿弥陀を安置し、碑(いしぶみ)を建てこれを諸々に伝えることになった。これはその銘である。卜(ぼく)して相馬の地を霊跡とするに、無石疑(むげ:げは石偏に疑)光があたりにみち、微風は音楽を奏で、かの霊鳥迦陵頻迦(かりょうびんが)もうっとりと羽を止めるだろう。
文政10年(1827)10月19日 建


[タヌポン補足]
卜(ぼく): 占うこと。
迦陵頻迦(かりょうびんが): 極楽浄土に住むという架空の鳥。美しい女性の顔で、妙なる声でさえずるという空想上の霊鳥。



(07/05/08追記再構成)(05/11/05)(撮影05/10/09・05/10/28・05/11/04)