タヌポンの利根ぽんぽ行 総州六阿弥陀詣

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総州六阿弥陀詣 目次



関連リンク


浅学なタヌポンは最初、その存在の意味はまったく分かりませんでした。
徳満寺 の山門へ向かう石段の途中に建っていたのですが、
「六」って何だろうなあ、と思ったくらいで、それ以上の追求はしませんでした。
当初は、阿弥陀仏の像が6体ほど本堂かどこかに安置されているのだろう、
なんて勝手な想像をしていたのです。

その後、何度か 徳満寺 を訪れたり、ほかのポイントを見ていて、
あるとき、ほかにもよく似たものがいくつかあるのを発見してふと思いました。
6とは、どうも1ヵ所に安置された阿弥陀仏の数を表しているのではなさそうだ、ということを。

調べてみると、「阿弥陀仏六体の安置」ということではなく、「阿弥陀仏のある六ヵ所の寺詣」
つまり「六阿弥陀詣(ろくあみだもうで)」という昔のイベント企画だったのです。
しかもこのイベントは、当時(19世紀前半)、江戸などで盛んに行われていたというのです。

タヌポンが徳満寺等で出会ったのは、その中のひとつである「総州六阿弥陀詣」。
「総州」ということですから、当時、下総に所属していた利根町布川を中心に、
利根川を挟んで現在の千葉県我孫子市や印西市のいくつかの寺社を含んだものでした。

利根ぽんぽ行ということで、原則として、利根町以外の地域については、
利根町探索を終えてからということもあったので後回しにしていましたが、
それほど遠方ではないので、利根町以外を含む6ヵ所(実は11ヵ所)の探索をしてみよう、
ということにしました。


その後、第1稿をUPし、目次再編成の更新をしたころ、ある有用な資料を見つけました。
ところが、その直後に例の大震災が勃発して、久しく更新が途絶えてしまいました。
ようやく1年半を経過して、その資料以外にも、多数の新しい発見や、
誤謬等を正すべき項目も見つかりました。

追加項目のひとつに星野一楽関連の石碑等の掲載があります。これに関しては、
「利根町史」ほか「印西町の歴史」等を参考文献として、引用させていただいたほか。
碑文解読等々に関して、歴史研究家「嘉津山清」、書家「二見達夫」両先生に
ご指導いただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。

(注)当初、石塔等の側面碑文解説について、向かって右を右側面(左を左側面)と称していましたが、
通常石塔自体からみての表記とするのが一般のようなので変更しました。(13/09/07)


参考文献
新編武蔵風土記稿/江戸内めくり/東都歳時記/利根町史第4巻〜6巻/印西町の歴史第八号/神社辞典/北相馬郡志/日本石仏事典/本門寺の石経碑その他石匠窪世祥について/利根町の文化学芸碑/利根川図志


六阿弥陀詣とは

六とは南無阿弥陀仏の文字数

さて、なぜ「六」なのかを説明していませんでしたね。これは「南無阿弥陀仏」の六文字(名号)からとっているのです。
南無阿弥陀仏の六文字にちなんで、阿弥陀如来を安置する六ヵ寺を巡拝するのが「六阿弥陀詣」。

巡拝・巡礼と言えば、四国88ヵ所や西国33ヵ所、秩父・坂東等々いろいろありますが、
これらは空海ゆかりの場所もしくは観音菩薩霊場巡りで、阿弥陀仏に限定した巡拝の例は他にあるのでしょうか。

調べてみると、京都にも六阿弥陀詣があるようなのですが、なんといっても知名度のあるのは江戸の六阿弥陀詣です。
ところが、「武州六阿弥陀」「山の手六阿弥陀」「西方六阿弥陀」と、江戸にも3つの六阿弥陀詣がありました。
しかし、詳細が分かるのは「武州六阿弥陀詣」です。この江戸を代表する六阿弥陀詣について精しく由来を見てみましょう。

武州六阿弥陀詣

武州六阿弥陀詣

江戸時代の後期には、「六阿弥陀詣」は庶民の間で広く
行われていたといいますが、その原点となるものは、
「武州六阿弥陀詣」(江戸六阿弥陀詣)と呼ばれるもの。

左は、「江戸内めくり」に記された一節。安勝子の編述で、
享保13年(1728)12月に発刊されたもの。
現存する東京都(移転も有)の寺社が列記されています。

六阿弥陀詣の発祥は古く700年代という説もありますが、
「総州六阿弥陀詣」発祥の1827年(次項で解説)より
少なくとも100年も古い時期から存在していたわけです。

布川とその一帯にある「総州六阿弥陀詣」との関係が、
どのようになっているのか興味深いものがあります。

六阿弥陀詣の由来

現在の江戸六阿弥陀詣ですら、本尊の阿弥陀仏拝顔はなく、その由来についての案内書も1ヵ所程度で配布されるとか。
そんな中で「新編武蔵風土記稿」には江戸内めくりにも記された第1番西福寺について、六阿弥陀の由来に触れています。

「新義真言宗、足立郡沼田村恵明寺末、三緑山無量壽院と稱す、本尊阿弥陀を置、是世に所謂六阿弥陀の一なり、縁起を閲するに、聖武帝御宇當国の住人豊嶋左衛門清光、紀伊国熊野権現を信し、其霊夢に因て一社を王子村に建立し、王子権現と崇め祀れり、然るに清光子なきを憂い彼社に祈願せしに、一人の女子を産す、成長の後足立少輔某に嫁せしか、奩具の備はらさるを以少輔に辱しめられしかは、彼女私に逃れ出荒川に身を投て死す、父清光悲に堪す是より仏教に心を委ねしか、或夜霊夢に因て異木を得たり、折しも行基當国に来りし故、清光其事を□告しに行基即かの異木を以て六體の阿弥陀を彫刻し、近郷六ヶ所に安置して彼女の追福とせり、故に是を女人成佛の本尊と稱す、當寺の本尊は、その第一なり、次は足立郡小臺村、第三は當郡西ヶ原村、第四は田畑村、第五は江戸下谷、第六は葛飾郡龜戸村なりと云う」

ただし、豊嶋左衛門清光は、治承(1177〜80)の頃の人物なので、行基とは時代がまったく異なるとの指摘があり、
この説は、信用すべきではないとしながらも、西福寺以外にも多少の違いはあるにせよ同様の由来があるとしています。
▼余談ですが、「行基が彫った」というのは余程のステータスとなるのか、最近更新した 泉光寺コンテンツでも矛盾 を。

ちなみに、現在の江戸六阿弥陀詣の実際については、以下。

江戸六阿弥陀詣現況

No 寺院名 所在地 備考
1番 西福寺 北区豊島2-14-1
Tel: 03-3897-1897
西方浄土に生まれ出る徳利益を授ける寺院
2番 恵明寺(旧延命院) 足立区江北2-4-3
Tel: 03-3890-0897
家内安全・息災延命の御利益を授ける寺院として延命寺と名付けられたが、明治9年の合併の際、恵明寺に移された
3番 無量寺 北区西が原1-34-8
Tel: 03-3910-2840
福寿無量に諸願を成就させる寺院
4番 与楽寺 北区田端1-25-1
Tel: 03-3821-0976
我ら一切の者に安える寺院
5番 常楽院
(下谷広小路)
調布市西つつじヶ丘4-9-1
Tel: 0424-84--0900
に一家和の福徳を授ける寺院。関東大震災で消失、上野広小路から池之端に移り昭和8年、調布市に再建
6番 常光寺 江東区亀戸4-48-3
Tel: 03-3681-7023
未来は明を放つ身を得させる寺院
木余 性翁寺 足立区扇2-19-3 本尊は、六阿弥陀の余りの木で作られた木余り如来(木像阿弥陀如来坐像:東京都指定文化財)。足立姫の墓所も
木残 昌林寺 北区西が原3-12-6 本尊正観音は行基作で江戸六阿弥陀彫刻時、同木の末木で像をつくった(新編武蔵風土記稿)

足立姫哀話

さて、上記の由来は、漢文書き下しで分かりづらいので、六阿弥陀参りから生まれた「足立姫哀話」を紹介します。
なお、足立の長者の名前や、足立姫の入水の場所、次女の数、霊木の発見場所等、詳細は諸説あります。

上記で留意しておきたいことは、1本の霊木から6体の阿弥陀仏を造ったこと、六字の名号をひとつずつに刻んだこと、
御詠歌を添えて安置したこと、余った木でも阿弥陀仏を造ったこと、元木という言葉など。以下の説明に関連してきます。

さて、それでは、次項で、「武州六阿弥陀詣」の存在を考慮に入れながら、わが「総州六阿弥陀詣」を見ていきましょう。

参考:山の手六阿弥陀と西方六阿弥陀

「武州六阿弥陀」に比べて「山の手六阿弥陀」「西方六阿弥陀」はちょっとマイナーです。

[山の手六阿弥陀]

1番 2番 3番 4番 5番 6番
四谷御門外
了学寺
四谷大通横町
西念寺
青山熊野横町
高徳寺
青山百人町
善光寺
青山通り久保町
梅窓院
赤坂一ツ木
龍泉寺
新宿区愛住町 新宿区若葉2 港区北青山2 港区北青山3 港区南青山2 港区赤坂3

[西方六阿弥陀]

1番 2番 3番 4番 5番 6番
西久保
大養寺
飯倉
善長寺
三田
春林寺
高輪
正覚寺
白金
正願寺
目黒
祐天寺
港区虎ノ門3 港区東麻布1 港区三田1 港区高輪1 港区白金1 目黒区中目黒5

総州六阿弥陀詣の発願

利根町布川を中心とした「総州六阿弥陀詣」。
それを整備開眼(かいげん)したのは、いつごろで、だれの発案なのでしょうか?

発願者は、星野一楽

文政年間(1818〜)布川に 星野一楽(ほしのいちらく) という人がいました。
常に念仏を唱え周囲の人にも勧めるという信心深い人でした。
あるとき重い病気にかかりそれが治癒したのも仏恩と考え、その報恩のため、
そのころ、江戸でも盛んだった「六阿弥陀詣巡拝」を発願(ほつがん)したのです。

各村々の百万遍講中と相談して、布川徳満寺を中心に以下の11ヵ寺に六阿弥陀の標石を建てました。
文政10年(1827)のことでした。

なぜ、6ではなく11になったのか、その経緯は分からないのですが、他の六阿弥陀と比べてユニークな点と言えます。

6ヵ所ではなく11ヵ所

いずれにせよ、6ヵ所ではなく、少なくとも11ヵ所を訪問しなければなりません。
関連箇所を含めるともっと多くなるかも知れません。以下がその表です。
よく見ると、その半分が利根川を越えて千葉県我孫子市や印西市まで広がっていました。

名称 宗派 所在地 備考・本サイトコンテンツ
一 番 徳満寺 新義真言宗 利根町布川 徳満寺
二 番 延命寺 真言宗 我孫子市布佐
回向所 最勝院 天台宗 印西市発作
三 番 泉倉寺 天台宗 印西市和泉
四 番 長楽寺 天台宗 印西市大森
五 番 三宝院 天台宗 印西市竹袋
六 番 勢至堂 真言宗 利根町布川 如法院不動堂(布川不動尊) へ移動
納経所 来見寺 曹洞宗 利根町布川 来見寺
木余如来 無量寺 浄土宗 利根町中谷 無量寺
懺悔所 念仏院 浄土宗 利根町押付新田 現在廃寺で、泪塚 がある
供養所 瑞光寺 浄土宗 利根町押付本田 押付本田(布川)の水神宮 へ移動

■■なぜ「総州六阿弥陀」は11ヵ所なのか?■■

六阿弥陀現況コースマップ

六阿弥陀現況コースマップ

星野一楽関連の石碑

看湖楼一楽の句碑

徳満寺の地蔵堂脇に、星野一楽の句碑が建てられています。存在は知っていましたがよく調べていませんでした。

星野一楽の句碑 星野一楽の句碑裏面

表面は、

法の庭 その日その日の 落ち葉かな
看湖楼一楽

裏面は、
江戸の隠居
文政庚寅神無月のころ
友人一楽にこはれて筆をとる
八十翁 仏葊
窪世祥鐫

・「法の道」に見えますが、「法の」。
 法は「ほう」ではなく、「のり」と読みます。
・看遊楼ではなく「看楼」
・仙莽(せんもう)ではなく、仏葊(ぶつあん)
・「葊」は「庵」の異体字。・「鐫」は彫るの意。

本体: 高162cm、幅87cm、厚23cm。
台石: 高28cm、幅108cm、厚41cm。

星野一楽の句碑裏面下部 星野一楽の句碑裏面左下

左は石碑裏面の下部写真。
2枚目は左下部分の拡大。
「仏葊」や「窪世祥」の名が
見えます。

石碑の裏面は、
雑木が生い茂っているほか
急坂になっていて、
十分なスペースがなく、
撮影はとても難しいです。

中村仏庵と窪世祥

仏葊 とは、中村仏庵(葊は庵の異体字)で、江戸後期の文人、書家。
一楽が来見寺に阿弥陀経碑を建立する際、その書を依頼し揮毫した人で、この文政13年(1830)10月の句碑ほか、
多くの碑を名匠、窪世祥とともに手がけています。愛知県岡崎市の西光寺に仏庵の先祖の墓所があります。
そこに、なんと、右上部のまだ欠けていない来見寺の阿弥陀経碑の拓本が残されているほか、そこには、
仏庵の菩提寺(深川の法禅寺)に戦前まであったと思われる碑の拓本もあり、窪世祥の名も記載されていたということです。

窪世祥(くぼせしょう) とは、廣群鶴(こうぐんかく)、井亀泉(せいきせん)とともに江戸3大石匠のひとりと言われています。
江戸時代後期、隅田川そばに工房を構え、文化・安政にかけての約50年間に文人等と関わった石碑を多く残しています。
大田区池上本門寺、墨田区の向島百花園等にも窪世祥の彫った碑が残されています。生没年は不明。

五大明王の石碑

これは、琴平神社の入口石段途中の 二の鳥居 左手にある 空き地の石祠群 のなかのひとつです。
上に、五大明王の種子が彫られ、中央に水神と思われる線画が描かれています。
石碑下部は、一部、地中に埋まっていますが、ここに漢文が彫られています。
間違いがあるとは思いますが、読み取ってみます。天保3年(1832)に建立されたようです。

五大明王の石碑 五大明王の石碑下部

海珠山下氿泉新井冽
潤田嬉衆人須識
水天宮擁護祀之天保
歳壬辰
看湖樓主一樂星野敬貞
賦以擬 神廟矣
道侶星野老先生仁惠爲
性即今課同間搆義并以
便溝洫實可謂應先生平
常躬行者抑亦神助之一
而辻矣友人楳塢野長題
    角田川窪丗祥鎸

これは、星野一楽の友人である 楳塢野長(ばいおやちょう)の文で、
海珠山すなわち徳満寺から湧き出ている水が田を潤し、人びとを喜ばせているのは、
水神のおかげで、その神廟を星野一楽が祀ったと解される内容です。
これにも「窪世祥」の名が記されています。角田川は世祥が拠点とした隅田川の意。

この神廟とは、おそらくこの石碑のすぐそばの 水神宮 と思われます。星野一楽は、水神宮の願主でもあったわけですか。

→ 上記の水神宮は延宝2年(1674)12月の建立でした。一楽の時代とは別で、神廟はまた別の建物と思われます。
神廟は、いったいどこにあったのでしょうか。

ちなみに、楳塢野長は、本姓は荻野で、幕臣、本所番場の住で、天守閣蕃を務めた人。星野一楽の友人であると同時に、
中村仏庵とも知己の間柄だったそうです。星野一楽・中村仏庵・楳塢野長そして窪世祥、この4人の縁は深かったのですね。

なお、以上の石碑は、いずれも六阿弥陀石塔を配備した文政10年(1827)より、3年から5年後に建立されています。
多くの石塔を建立しても、まだ星野一楽には、やり尽くせない思いがあったのでしょうか。

水神宮の神額

下は、琴平神社の本殿前にいつも置かれている水神宮の神額。左方には金毘羅大権現の古い神額もあります。

水神宮の神額

ここには琴平神社しかないのに、どうして、
水神宮の鳥居用の神額があるのか、不思議に思っています。

上の 水神宮 石祠は、建立時代がちがうものでした。
ほかに神廟があり、それに鳥居が付帯されたいたのではないか、
そんな推定をタヌポンはしています。

それこそが、星野一楽が造立したものであり、
「海珠山下氿泉新井冽」とあるように、
もう少し、標高の低い位置に湧き水などもあり、
そのそばに建てられていたのではないかと思います。

もしこの仮説が正しいなら、それがどの位置にあったのか、
いつか探してみたいと思っています。

さて、星野一楽関連の石碑は、この他に六阿弥陀関連の11ヵ所の石塔・石碑があるわけですが、さらに1基、
「空居心経碑」という石碑がありますが、これについては、後述の 壱番徳満寺 の「金毘羅神社の心経の碑」で説明します。

■■なぜ星野一楽には多数の石碑を建立できる経済力があったのか?■■

和本「総州六阿弥陀詣」西村屋与八版

▼ さて、「総州六阿弥陀詣」に関して、その案内書として、同名の和本が刊行されました。
星野一楽が発願して標石を建てたその翌年の文政11年(1828)8月のことでした。

▼ これは、江戸馬喰町の東都書林・西村屋与八版として刊行されましたが、
現在、東京大学や東北大学などにわずか4冊ですが、所蔵されています。利根町域では未発見というのが残念ですが、
その貴重な資料の1冊、武蔵野市立中央図書館所蔵のものについて、利根町史で紹介しています。

▼ 以下、その内容にそって、原文の見出し等を引用・転載させていただき、タヌポンの口語訳を入れ、
現在の写真を添えてご紹介することにしましょう。

▼ 和本は、約30ページ程度、上部に地域の絵や行程、作者の歌などを目次的に配し、下部に文章が連なる構成です。
しかし、タイトル毎に、文章が1ページ単位で完結しているわけではなく、次ページに連なって記されています。
しかも、その内容は上部のタイトルや挿絵と完全には一致せず、後半など相当、ズレが生じている箇所もあります。

▼ そこで、ここでは内容的に区切りのいいところで分けて、それに該当する挿絵や歌の部分を配置するとともに、
本文の引用画像は、内容に合致した部分だけを切り取ってつなぎ合わせました
したがって、口語訳は、和本本文の1ページ毎の訳とはなっていませんのでご了承ください。

▽ 余談ですが、この和本刊行は、星野一楽が六阿弥陀石塔を配備したわずか1年後というのは、早すぎる気もします。
六阿弥陀コースが出来た直後に、仮にタヌポン広告社(仮称)がこの和本編集の仕事を請け負ったとしたら・・・
まずは、現地を取材しなければなりませんね。絵師(カメラマン兼グラフィックデザイナー)を連れて、江戸から現地へ。
各地域で各種の情報を得るにはそうとう時間がかかります。その上で、原稿作成ですからね。うーん、どうなんでしょう。
よほど江戸で話題になったとか、もしくは、石塔建立の準備段階から各方面で既に注目されていたのかも知れません。
現代で言えば、四国88ヵ所巡りという一大イベントではなく、日帰りで行ける手ごろな「人気の布川・下総の旅」、
いよいよ来年、就航!なんて、ティーザー瓦版も江戸界隈では、でていたのかも(笑)。

和本巻頭

海珠山望布川之図

総州六阿弥陀詣の創始者、星埜一楽が
布川出身ということもあってか、和本巻頭には、
「海珠山望布川之図」が掲載されています。

海珠山とは、徳満寺のこと。来見寺や琴平神社、
布佐宿や利根川の渡しなども描かれています。

風光明媚で、しかも、文人・俳人が集う文化の香り。
布川一帯は、現代で言えば、小京都のような
イメージのいい街だったのではないでしょうか。
(ああ、そんな布川を取り戻したい!)

■■なぜ布川近辺の「総州六阿弥陀」が江戸でも注目されたのか?■■

和本冒頭

六阿弥陀詣のタイトルの上に、江戸日本橋の絵が描かれていて、布川に至る行程がその左に記されています。
六阿弥陀の石塔を建てた星野一楽ではなく、江戸に住む風流人たちがこの総州六阿弥陀を訪ねる、という設定です。

江戸日本橋 挿絵

江戸日本橋 挿絵

2里 小松川、1里半 市川、28丁 八幡、
2里8丁 鎌ヶ谷、1里28丁 白井、
3里 布佐、とね川 舟わたし有 布川

2里 小松川〜

冒頭

[和本本文口語訳]

六阿弥陀詣 いつぞやお話ししました総州六阿弥陀詣のことですが、幸い山々の桜も真っ盛り、気の置けない友だちと申し合わせて、硯、懐紙など用意して、道筋はまず布川をはじめとしてここで案内を頼んで、壱番の霊場、徳満寺に詣でます。

壱番徳満寺

徳満寺は、〒300-1622 茨城県北相馬郡利根町布川3004 Tel: 0297-68-2442

壱番徳満寺 挿絵

壱番徳満寺 挿絵

南の字から まわりはじめの その元木
一世のうちの ゑんとなるらむ

(南の字から まわりはじめの その元木
一世のうちの 縁となるらむ)

壱番徳満寺 御詠歌

壱番徳満寺

[和本本文口語訳]

(徳満寺には)御朱印地領があり、寺宝の和漢の書画多数ある中でも、嵯峨天皇、弘法大師、菅相丞(菅原道真公)の真筆等 たいへん珍しく拝見いたしました。本堂に安置されておられます 地蔵尊 は、探(湛)慶 作とか。境内に 大師堂天満宮金毘羅神社 の宝前には 心経(しんぎょう)の碑 があります。東南辰の方角には 布川神社。東に 山王神社。北に 八幡山銭亀山台畑通り豊嶋の城跡 と聞きました。町のほうには出船入船が川中を争うように行き来し、とても賑わっており、銚子や鹿島から日々鮮船(なまふね)が着岸し市をなしています。

壱番徳満寺

[タヌポン補足]

嵯峨天皇、弘法大師、菅相丞(菅原道真公)の真筆等

果たして現存しているのかまだ未調査です。

地蔵尊・探(湛)慶

地蔵尊は、徳満寺の 木造地蔵菩薩立像(子育て地蔵) 参照。
湛慶(1173−1256)は鎌倉時代の仏師。運慶の嫡男。

大師堂・天満宮

大師堂は現在の 徳満寺の四郡大師 の堂。
天満宮は 徳満寺の天神宮 のことでしょうか。

壱番の塔は徳満寺の山門へ向かう石段の途中に建っています。

本体: 高172cm、幅39cm、厚24cm。

壱番徳満寺山門への石段

石塔左右側面

壱番石塔の左側面 壱番石塔の右側面

石塔右側面には、以下の文字。
種々重罪 五逆消滅 自他平等 即身成仏
これは、観音句というもっと短いお経です。
文政十丁亥四月建焉」「内宿百萬遍講中
文政10年(1827)4月の建立。
内宿とは、徳満寺のある地域一帯の地名。

左側面は、御詠歌です。
南の字から まわりはじめの その元木
一世のうちの ゑんとなるらむ

この御詠歌は、だれの作なのでしょうか。

「御詠歌」の起源は花山院(968−1008)が
西国三十三所の各札所で
詠まれた御製の和歌を
後世の巡礼者が節をつけて巡礼歌として
歌ったものであるとされています(Wikipedia)。

四国88ヵ所の巡礼にもそれぞれ御詠歌があり、数多くの歌がすべて花山院作とは思えませんが、どうも不詳のようです。
また、京都や江戸の六阿弥陀詣にも、こうした御詠歌が付いているのかどうかも、気になるところです。
→ これについては、後述しますが、「武州六阿弥陀詣の御詠歌」=「総州六阿弥陀詣の御詠歌」が判明しました。
しかし、「武州」で判明している御詠歌は6、その分は同一ですが「総州」は「11」、5句の差があります。

金毘羅神社の心経の碑

金毘羅神社は 琴平神社。写真左には、小林一茶の 金毘羅角力 の句碑が有名ですが、その右隣が心経(しんぎょう)の碑。
写真右は、裏面で、2012年の写真。大震災で下半分が折れてしまい、修復されていますが痛々しい感じです。

本体: 高161cm、幅96cm、厚23cm。

心経の碑 心経の碑裏面

この「心経の碑」は、末尾に「空居」と刻銘されており、特別に「空居心経碑」と呼ばれています。
これを揮毫したのが「空居」という人なのですが、実は、謎の人物でよく分かっていません。
第119代、光格天皇(こうかくてんのう 1771−1840)のご落胤という説もあるそうです。

さて、この碑の裏面ですが、奉献金毘羅大権現のタイトルのほかに、文政10年(1827)秋8月の建立銘。
ほかに、願主として、渡邉彦七と併記して星埜甚兵衛と記されています。これは、星野一楽のことですね。
また、この碑も、先に紹介した名匠「窪世祥」の作であることが末尾で分かります。また、杉野東山の銘もあります。
このため、当初、表面もすべてが東山の揮毫によるものと思っていました。今回は裏面だけの担当だったようです。

なお、裏面の心経講中に記された、浜宿「古田善兵衛」は古田月船でしょうか。『文化学芸碑』では応順寺の月船の墓碑裏に
和右衛門とあり、善兵衛は月船ではないと断定していますが、和右衛門は必ずしも月船の名といいきれないものがあります。

→ 月船は、古田善兵衛と確認できました。「古田月船は伊勢屋善兵衛」参照。(14/04/12 追記)

布川古地図

布川神社・山王神社

同名コンテンツ 布川神社 参照。山王神社は、日枝神社 参照。
右の安政3年(1856)の古地図では、「山王」と記されています。

八幡山と銭亀山

八幡山は 八幡台地区の八幡宮 辺りか。銭亀山は現在不明ですが、古地図では、「山王」の西に「ゼニカミ山」と記されています。

台畑通り・豊嶋の城跡

台畑通りという地名は現在見当たりません。古地図では、小字名で、「臺畑」が記されています。城跡は 徳満寺 参照。

浅草睦会の六阿弥陀詣

浅草睦会の六阿弥陀詣

左は、徳満寺の客殿に掲載されていた講中額。
大正15年(1926)3月22日付で、
浅草睦会のメンバー12名が「総州六阿弥陀詣」を行い、
徳満寺を訪れたことを記念して作成したもののようです。

記されている歌は、以下。

むこふへは ぐぜいのふねで こす布川 
ふたたびもとの みちへたどらん

これは、次章の二番延命寺 挿絵下の歌をもじったものですね。
でも、なぜ壱番のアレンジではなく二番を?
このまま、二番では三番を、という風にするのでしょうか?

弘誓(ぐせい)とは聞いたこともない言葉ですが、仏教用語でしょうか。

→ ぐぜいのふね【弘誓の船】(goo辞書):
仏語。衆生救済の誓いによって仏・菩薩が悟りの彼岸に導くことを、船が人を乗せて海を渡すのにたとえた語。誓いの船。

浅草睦会は多人数

さて、この講中額は、後述の「六番勢至堂」があった隣の如法院不動堂でも、同様のものを見つけました。
ところが、その額では、発起人の磯岡博氏と会長の小野三男次郎氏の2人を除く10人の名前がすべて変わっています。
しかし、六阿弥陀詣の日付は同じ、大正15年(1926)3月22日です。これは、どういうことでしょうか。

浅草睦会の六阿弥陀詣

ここで、「印西町の歴史」(1992年印西町刊)を発見。
榎本正三氏の「総州六阿弥陀詣」の文献が掲載されており、
後述の五番三宝院の「講中額」の存在も確認できました。
驚いたことに、そこに記録されているメンバーも、
やはり発起人と会長の2人を除く10名がすべて異なり、
しかも日付は同じ大正15年の3月22日です。

これは、訪問する場所ごとに幹事や世話係など10名ずつ、
講中額に記録するメンバーを変えていったと思われます。

左は「浅草睦会の六阿弥陀巡礼」と題する記念写真。
「印西町の歴史」同文献より引用させていただきました。
この写真により、この六阿弥陀詣は12人ではなく、
写っている全員の参加であったと考えたほうが妥当です。

全行程5里9丁と長丁場なので、途中参加・交代も
あったかも知れません。

■■江戸からの「総州六阿弥陀」は、果たして1日で巡りきれるのか?■■

二番延命寺

延命寺は、〒270-1101 千葉県我孫子市布佐2318 Tel: 04-7189-2744 国道356号線沿いにあります。

二番延命寺 挿絵

二番延命寺 挿絵

無かふへは ミのりのふねで こすぬまた
二たびもとの みちにまよわん

(向こうへは 御法の舟で こす沼田
再び元の 道に迷わん)

二番延命寺 御詠歌

二番延命寺

布佐 挿絵

あびこへ3里、松戸へ7里

布佐 挿絵

[和本本文口語訳]

これより松戸宿まで7里。この間の荷物を運ぶ人馬で向こう河岸(布佐)はごったがえしています。布佐・布川の数百の人家も一望に見渡せます。大門より石坂を下って内宿に入り、浜宿に程近い渡し場の西に布佐台の 愛宕山 を見て二番延命寺に参拝。虚空蔵尊 は行基の作と聞きました。明神山、和田の城山三河屋新田 を過ぎ、千賀崎 の土手、手賀沼のほとり に出ると、糸を垂れる釣り人や網を打つ小舟、渚には群れをなしたカモメが目の前に見え、とても面白いと思いました。

二番延命寺 延命寺正門 二番延命寺

二番の塔は
延命寺の正面入口の門の
右手に建っていました。

右下は石碑の右側面。
文政10年(1827)建立、
百万遍講中等が刻銘。

冒頭にある言葉は
「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」の著名な一節。

光明偏照十方世界
念仏衆生摂取不捨

(こうみょうへんじょう じっぽうせかい ねんぶつしゅじょう せっしゅふしゃ)

・・・光明は遍く
十方世界を照らし、
念仏の衆生を摂取して
捨てたまわず・・・
仏様の輝く光は十方四方を
遮るものなく遍く照らし、
念仏を唱えるわたしたちを
けっして捨てることなく
お救いになってくださる、
という意味のようです。

本体: 高166cm、幅35cm、厚21cm。

沼田とは

徳満寺壱番石塔と同様、二番の石塔の右側面には、和本に掲載されているのと同様の御詠歌が彫られています。
すなわち、「無かふへは ミのりのふねで こすぬまた 二たびもとの みちにまよわん」ですが、
この歌の中で、舟で行く「沼田」とは、いったいどの地を表わしているのでしょう?
沼の田ということで、手賀沼とかその近隣の湿地帯等を指しているのかと、当初思っていたのですが・・・。
なんと、「武州六阿弥陀」二番の延命寺は、足立区下沼田という地名であったことが分かりました。
これから以下紹介する三番以降の御詠歌にも、同様に、突然、この地区とは関係のない地名が出てくる箇所があります。
これでは、布川近隣の人には、この御詠歌の意味は、一部理解できなかったのではないかと思います。
前の項目で、浅草睦会の講中額の御詠歌が、「こす布川」に変化させてありました。沼田の存在を既に知っており、
江戸をよく知る浅草睦会の人だからこそできたことで、地域だけの変更を試みたというわけです。納得!
ほかにも、この御詠歌には、いろいろな面白い趣向があり、すべて並べてみないと分からないこともあります。

手賀川

[タヌポン補足]

愛宕山

延命寺から50mほど西に行くと愛宕神社があります。

虚空蔵尊・明神山・和田の城山・千賀崎

いずれも不明、未取材。地名等未調査。

三河屋新田

JR成田線布佐駅南に三河屋新田があります。

手賀沼のほとり

現在の手賀川か。(左写真)ちなみに手賀沼は昭和30年代に
この西付近一帯が干拓され縮小しています。

■■二番では睦会は三番の御詠歌を額にしたのだろうか?■■

回向所最勝院

最勝院は、〒270-1361 千葉県印西市発作632 天台宗延暦寺派に属し泉倉寺の末寺。本尊は、阿弥陀如来。

回向所最勝院 挿絵

回向所最勝院 挿絵

元木より 有縁無ゑんの 枝葉まで
ミなことごとく うかふてがぬま

(元木より 有縁無縁の 枝葉まで
皆悉く 浮かぶ手賀沼)

回向所最勝院 御詠歌

回向所最勝院

[和本本文口語訳]

浦辺 のほうを見渡すと向こうに 布瀬明神山、北に 浅間山。麓に続く民家は霞がかかっておぼろ。また 上沼口に築いた千間堤 などゆっくり見物しているうちに、にわかに雲が立ち、驚いて早く家路に就こうと、心も関枠の土橋 を渡り、回向所発作最勝院を参詣。熱田山 の隣の 千海ヶ淵 で、草履ぬぎ岩 などを見て、亀成 を過ぎ、坂をよじ登ると 小倉山。花よりも勝る紅葉の若葉、秋の眺めもさぞかしと思い浮かばれます。

回向所最勝院

回向所の石塔は、最勝院の境内敷地のいちばん手前、
道路に面して建っています。奥に見える建物は発作上集会所。
最勝院は現在は、廃寺となっているのかも知れません。

この塔にも、左右側面に、御詠歌等の文字が彫られています。

本体: 高167cm、幅33cm、厚21cm。

右側面は、
三界萬霊 有縁無縁 草木国土 悉皆成佛
文政十年丁亥四月吉辰焉」「當区百萬遍講中

左側面は、
元木より 有縁無ゑんの 枝葉まで
ミなことごとく うかふてがぬま

特筆すべきなのは、この御詠歌。
「浮かぶ手賀沼」とは、この地だけのものです。
江戸など他地区の六阿弥陀詣には「回向所」はなく、
これは必然的にこの地のオリジナルと言えましょう。

関枠橋
関枠橋

[タヌポン補足]

浦辺・布瀬明神山・浅間山

浦辺は、布佐駅の西南。布瀬は現在は柏市。
布佐駅の西に浅間前という地域があります。

上沼口・千間堤

布佐駅の西、手賀川の北は沼田と呼ばれる地域で、
千間橋が架かっています。

心も関枠の土橋

心も「急く」と「関」の掛詞。千間橋のひとつ下流に架かる橋。
現在の関枠橋(左)は、むろん土橋ではなく、コンクリート製です。

熱田山と熱田神社

熱田山入口

熱田山もしくは熱田神社があるということですが、
最初どこにあるのか分かりませんでした。
回向所最勝院からメイン道路に出た正面が、
小高い丘のようになっています。
その少し左手の小さな沼というか水溜りの陰に、
熱田山への登り口が見つかりました(左)。

しかし、それも近くの人に聞いたからです。
自力ではとても見つからないでしょう。
かなり急な九十九折の石段が約80段ほどついています。
でも、途中からは手すりがついていますので、
思ったほど登るのはたいへんではありませんでした。

熱田神社

山の頂上には、15平方メートルくらいの小さな敷地に、
鳥居はありませんが祠、石祠や燈籠などがあります。

左のように本殿が見つかりましたが、
熱田神社という名が記されているものは見つかりませんでした。
でも、これが熱田神社であることはまちがいないと思います。

千海ヶ淵・草履ぬぎ岩

熱田神社が立つ丘上の下部が貝化石の岩となっていて草履ぬぎ岩と想定される、と町史にありますが、
千海ヶ淵とともに不明です。小さな沼のような箇所が千海ヶ淵なのかも知れません。もっと調査が必要です。

亀成、小倉山

亀成は発作の南。さらにその南に小倉という地域があります。

最勝院の石碑・石塔群

最勝院の六阿弥陀回向所石塔(写真右端)の真後ろには、ズラリ石碑や仏塔類が並んでいます。

仏塔群

最勝院の境内には、発作上霊苑や、いんざい七福神のひとつ、ほてい尊などの碑が建てられています。

手賀川 いんざい七福神布袋尊

大杉神社

大杉神社

ところで、六阿弥陀の石塔のすぐ右隣に神社があります。

熱田神社を探して、その位置が分からず困っていたとき、
鳥居などに神額がないため神社名が分からないことを理由に、
この神社が熱田神社ではないかと「希望的観測」などを・・・。

しかし、これは「大杉神社」であることが後で判明。
総州六阿弥陀詣とは関係ありませんが、紹介しておきます。

■■「浮かぶ手賀沼」御詠歌の作者は、一楽か?■■

三番泉倉寺

泉倉寺は、〒270-1351 千葉県印西市和泉971 Tel: 0476-42-3322 下左は入口門。右は本堂。

泉倉寺門 泉倉寺本堂

泉倉寺は、天台宗48ヵ寺の本寺というくらいですからとても立派なお寺です。泉倉寺自体はすぐ分かります。
最初、泉倉寺から道を挟んだ真向かいに「光堂」という堂があるということで探していたのですが、見当たりません。
いっぽう、同じような場所に「宝珠院観音堂」という名所があるらしく、そこへの道標をいたるところで見かけます。
「光堂」のほうはいったいどうなっているのか、と思いましたが、実はこれは同じものだったのです!

ひとに尋ねず自分で探す

こういう話をする背景として・・・
いまタヌポンは利根町の徳満寺に端を発する「総州六阿弥陀詣」のテーマでここにたどり着いているのですが、
当の泉倉寺にしてみれば、そのテーマの石塔よりさらに文化・歴史上価値があるとされる建物や寺宝を具えているわけです。
初めて、こうしたお寺を訪ね、もしご住職ほかにお会いしたときには、六阿弥陀のことより、
まずは泉倉寺のいちばんのセールスポイントである事柄についてお尋ねするのが礼儀というものでしょう。
いかに過去の経緯においてその寺と関係あることにしても、
別の寺のことや、ましては神社関連の質問を最初にするのは少し申し訳ない気がしますし、
現実に、そうした場合、露骨に心外な顔をされたことも別の寺で経験しています。

三番泉倉寺

そんなわけで、泉倉寺の六阿弥陀石塔は、
お寺の人に尋ねず、なんとか自力で探し出すことができました。
本堂から直進した石橋のたもとで見つけました。(左写真右端)

でも通常、これらは、どうしても境内の中心からは
はずれたところになるのは仕方ないことですね。
泉倉寺の場合はそれでもかなり分かりやすい位置でしたが・・・。

でも、おそらくこのあたりにあるかな、
と推理して探すのもまた楽しいことでもあるのです・・・。

「通称」にちゅうい

「光堂」のほうは、泉倉寺関連の建造物なので、もしお寺の人を見かけたら尋ねてみれば簡単に分かることだったのですが、
境内はだれもいないし、なかなか閑静な場所で人通りも少ないんですね。
たまたまジョギングしていた人に出くわしてこれ幸いと尋ねたのですが、泉倉寺すらも知らないというのでこれは論外でした。

それからしばらくして、六阿弥陀のためではなく、「光堂」探索を主目的とした2回目の訪問で、
お寺の関係者ではなさそうでしたが、初めて見かけた泉倉寺近隣にお住まいと思われる人に尋ねました。
すぐ脇にある小道を入って行けばいいということで、見てみると入口に「宝珠院観音堂」へと記されています。
そこで初めて、「光堂」と「宝珠院観音堂」が同一のものであることを知ったというわけです。
通称と正式名は、だいたいまったくちがう言葉の場合が多いので要注意ですね。

光堂(宝珠院観音堂)の写真等については、この項目、後半で紹介します。

三番泉倉寺 挿絵

三番泉倉寺 挿絵

阿りかたや 阿みたの浄土 にしかはら
三かいしゆじやう のこるものなし

(ありがたや 阿弥陀の浄土 西が原
三界衆生 残るものなし)

三番泉倉寺 御詠歌

三番泉倉寺

[和本本文口語訳]

三番和泉村泉倉寺は天台48か寺の本寺で、元三大師 が客殿に安置されています。境内には、銅製の五重相伝供養塔山王権現地蔵堂釈迦堂があります。光堂(ひかりどう)大同2年 飛騨内匠の作とか。

三番泉倉寺

[タヌポン補足]

元三大師

元三大師(がんさんだいし)とは、良源(りょうげん)のことで、
諡号は慈恵大師(じえだいし)。
平安時代、延喜12年(912)生まれの天台宗の僧。
第18代天台座主で、比叡山延暦寺の中興の祖。

大師像が客殿に安置されているかどうかは未取材。

山王権現

ちょっと見当たりませんでしたが・・・。

この石塔の左右側面。
今度は、左側面に仏教の教理。
阿字十方三世佛弥字一切諸菩薩
陀字八萬諸聖経皆是阿弥陀仏徳

文政十年丁亥四月建」「百萬遍講中

右側面は、
阿りかたや 阿みたの浄土 にしかはら
三かいしゆじやう のこるものなし

もう、「西が原」が何かは分かりますね。
武州六阿弥陀三番無量寺は、北区の西が原です。
総州六阿弥陀詣は、武州の「写し」巡礼と言えそうです。


本体: 高175cm、幅34cm、厚21cm。

銅製の五重相伝供養塔

三番泉倉寺

左、中央が明治に再建された五重相伝供養塔。
クリックすると上部が拡大できます。

地蔵堂

地蔵堂

本堂脇の建物の中に千葉県指定の重要文化財
「木造延命地蔵菩薩坐像」が安置されています(下左)。
したがってこれがある建物(左)が
地蔵堂ということになるのでしょうか。
下右は解説文になります。

木造延命地蔵菩薩坐像 木造延命地蔵菩薩坐像解説

釈迦堂

泉倉寺の庭師の方に聞くと、約100年ほど前に火事で焼失してしまったらしいとのことです。
少し離れた場所にあったとか。本尊のお釈迦様は運び出して本堂かどこかに安置されているとも。

光堂(宝珠院観音堂)

宝珠院観音堂への道標

光堂ではなく、宝珠院観音堂への道標が出ています。
この道標の真向かいが下左の写真。
この細い路地から、光堂(宝珠院観音堂)に向かいます。

堂までは少し道のりがありますので、
表通りからはまったく見えません。

突き当たりにある2つの道標が下の右の写真。
その1つの古いほうには「光堂道」とあります。

どうやら宝珠院観音堂の正式名称は、
近代になって使われ始めたのではないでしょうか。

光堂入口 宝珠院観音堂および光堂への道標
宝珠院観音堂

左が「光堂」
和本では、大同2年(807)
飛騨内匠の作とあります。
しかし、現地での立て看板では
室町後期の建立とされています。
国指定重要文化財です。
道路地図などでも、光堂の名はなく、
宝珠院観音堂の名で記されています。
詳しくは以下をクリック参照。

国指定重要文化財の案内

以下左は観音杉。右は境内下部に下りる石段。光堂は、敷地も意外に広く、見所も多いので、時間の余裕をもって見学を。

観音杉 光堂の石段

大同二年

余談ですが、室町後期と和本の建立年である大同2年(807)との食いちがいが気になってネット検索してみると・・・。
<日本を変えた大同二年の謎> というおもしろそうな記事が見つかりました。

記事によれば、大同二年建立と呼ばれるものが全国に数多くあるそうです。大同年間にいったい何があったのでしょうか。
結論的には、密教を携えて中国から日本に帰国しようとした空海が言った言葉に端を発しているらしいのです。
それは、「少僧、大同二年をもって我が本国に帰る」。詳細は、上記リンクでどうぞ。

飛騨内匠

もうひとつ、大同2年(807)が誇張的な言い方とすれば、付随して言及されている「飛騨内匠」とはなんでしょう。

奈良時代、大宝律令が定められ、ようやく法治国家となりつつあった日本に、税の制度が導入されました。
ところが、山地で農耕がままならず、特産品もない飛騨の国は、全国でも最低ランクのしもじもの国とされてしまいます。
税を免除してもらう代わりに、都において宮殿の建物や寺院等の建築工事をする労働者を提供することになったわけです。

これが「飛騨匠」と呼ばれる人びとであり、その匠の元祖には、止利仏師がいます。
止利仏師(鞍作止利)は、聖徳太子の命を受け、法隆寺の釈迦三尊像をはじめ多くの仏像をつくりました。

和本に記されている「飛騨内匠」は、木鶴大明神とも呼ばれ、飛騨の匠の神様とされる人物です。
何時ごろの時代の人物なのかは不詳ですが、正徳5年(1715)井沢長秀著の「広益俗語弁」に説話が残っています。

いずれにせよ、和本にも「大同2年飛騨内匠の作と承り候」となっており、それらは風聞の域というところでしょうか。

■■「阿りかたや、阿みだの」の「阿」の字の重複の意図は?■■

四番長楽寺

長楽寺は、〒270-1327 千葉県印西市大森2034 Tel: 0476-42-2302

道路から少し参道の細い道を進むと長楽寺の入口。その木の根元には小型の道祖神の石祠がいっぱい。
この先を進んで左手方向に六阿弥陀四番の石塔があります。しかし、かんたんには見つけにくい場所でした。

長楽寺入口 長楽寺入口

また、いろいろ見てまわろうとするその前に、ちょっとしたハプニングというか、奇妙な声を聞きました。

長楽寺の番犬

左は、境内で飼われている番犬。
しきりにタヌポンに吠え掛かるのですが、
その声がかれていて人間が咳をしているように聞こえます。
なんかちょっと可哀想な声です。あまり吼えるので、
声帯をそのように処置されたのでしょうか。

しかし、何度か境内を往復しているうちに吠えなくなりました。
ときどきタヌポンのほうをちらっと横目で見ています。
ヘンなやつだなあ、と思っているのでしょうね。
またこんど訪れてみたくなりました。

いつかまた会いたいね・・・。
→ 以上は2005年、いまは2012年、どうしてるかな?

四番長楽寺 挿絵

四番長楽寺 挿絵

弥なか今 この世てたねを まけたはた
四かも仏花に ミのるうれしさ

(皆が今 この世で種を まけ田畑
しかも仏花に 実るうれしさ)

四番長楽寺 御詠歌

大森 挿絵

白井へ2里 木下シへ1里

大森 挿絵
四番長楽寺

[和本本文口語訳]

程なくして 鹿黒村 に出て、四番は大森の長楽寺へ。境内の 千手観世音 は慈覚大師の作とか。

四番長楽寺

[タヌポン補足]

鹿黒村

泉倉寺の北東。

千手観世音

後述。

六阿弥陀第四番の石塔は、本堂の正面の道を奥に進んだ先。
道の脇の樹木の陰にひっそりと立っていました。
そのさらに奥には、笠木と島木が朽ちた稲荷神社の鳥居。
これらは、「寺」から見放されたものの集まりのような・・・。

2005年に訪問して以来、7年。例のワンちゃんも気になるし、
大震災を経て、その後、どのように変化しているのか、
もういちど訪ねてみたいと思っていますが・・・。

本体: 高171cm、幅37cm、厚20cm。

稲荷神社

「田畑」は「田端」

この第四番石塔の左側面は、「弥なか今 この世てたねを まけたはた 四かも仏花に ミのるうれしさ」。
ここにも、「地名」が出ているではないですか。武州第四番与楽寺は、北区の田端。なるほど、そういうことですか。

右側面、変わらないのは、「文政十年丁亥四月建」と「百萬遍講中」。
仏教の「偈」(げ)は、次のように変化しています。「武運長久萬民豊楽 過去聖霊成三仏果」。
偈とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳を韻文の形式で述べたもの。

本堂と梵鐘

四番長楽寺

左は、入口を進んで右手にある本堂。
ここには、千葉県の有形文化財に指定されている、
応安2年(1369)の銘をもつ梵鐘が安置されています。(左下)
ご住職に頼んで見せていただきました。

住職に会ったのなら六阿弥陀石塔の場所もカンタンに、
と思うかも知れませんが、お会いしたのは探し当ててからのこと。

だからこそ、梵鐘のことも聞き、撮影もできたわけです。
六阿弥陀石塔のことはとくに話しませんでした。

梵鐘のことは本コンテンツテーマとは無関係ですが、
長楽寺とご住職に敬意を表してここに掲載します。

長楽寺梵鐘 梵鐘の解説

晩鐘

晩鐘

印西八景のひとつとなっている晩鐘。
確かにこれ自体を鑑賞するのもいいですが、
鐘楼に登ることができれば眺めもいいかも知れませんね。

これも、六阿弥陀詣とは無関係ですが、紹介します。
和本作成当時にこれが存在していたとしたら、
次の千手観世音のすぐ近くですので、
なんらかの記述があってもよさそうなのですが・・・。

千手観世音

晩鐘の左隣にもうひとつ建物があります。どうも観音様を祀ってあるようです。
千手観世音の名が記されていると思えば、堂の入口の額には長寿観世音と書かれてもいます。

香炉 長寿観世音
千手観世音

堂の中を覗くと・・・小さい観音像が・・・。
確かに千手観世音のようですね。
これが慈覚大師の作なのでしょうか。

ちなみに、慈覚大師(じかくだいし)とは、
円仁(えんにん)のことで第3代天台座主。
延暦13年(794)生まれですからかなり古い時代。
和本のこの記述もちょっとあやしい感じです。

■■三番・四番の和本の当該説明文が少ないのは?■■

五番三宝院

三宝院は、〒270-1325 千葉県印西市竹袋155 Tel: 0476-42-0899 下は三宝院の正門。
敷地は広そうで、ここで六阿弥陀石塔を探すのはたいへんそうだと思いました。実際に、正攻法では・・・。

三宝院門 三宝院門

五番三宝院 挿絵

五番三宝院 挿絵

陀くさんに となへしくちの このしたや
五つともなしに ひらくれんたい

(たくさんに 唱えし口の この舌や
いつともなしに 開く蓮台)

五番三宝院 御詠歌

きおろし川岸 挿絵

きおろし川岸 挿絵

成田4里半 滑川5里 安波7里 佐原9里 香取10里 鹿島10里 息栖12里 銚子18里

成田4里半〜

五番三宝院
五番三宝院

[和本本文口語訳]

ここ(長楽寺)より 古新田 の山路へ向かい、松露や蕨など採って土産とし、別所村の地蔵堂 から五番竹袋の三宝院に詣でます。稲荷山 を下って 狢池(むじないけ) など見て、銚子街道の 木下河岸 で酒肴を取り揃え、折から三社詣で帰りの江戸の風流人らが 圦樋口(いりひぐち) から同船し、順風に帆をあげ、おのおの数杯酌み交わし、酔いも増せば謡小唄に三味肴も出ます。はさみ堤の内川から燕(つばくろ)口 の沖を過ぎると、そこは渺々たる坂東太郎利根川。渦まく水がものすごいのですが、なんとか無難に布川の下の 天地という洲 に着きました。茶店に腰掛けてあたりを見回しますと、北は、開闢以来の筑波山、坤(ひつじさる=南西)に富士の山で江戸の都のかたもなつかしく、乾(いぬい=北西)は日光山、険しい秩父や箱根の山々、向うは六軒、相嶋、中の口も遠く離れて、川下は成田、滑川、阿波、息栖、鹿嶋、香取と未訪問地は多いのですけれど、これらはまたの機会にということで。

この五番の石塔は三宝院の正門ではなく、奥の山門の入口に建てられていました。
境内の中ばかりを探していると、ときには途方に暮れることもあります。実際、日も暮れたりします。

五番三宝院 五番三宝院

左の写真は、右側面。
記されている文字は、
表題にある和本の御詠歌。
すなわち、
陀くさんに となへしくちの このしたや 五つともなしに ひらくれんたい

このヒントがなければ
とうてい判読不能です。
とすると・・・。
六阿弥陀の石塔はすべて、
向かって左側面は
和本の歌が記されている?
調べてみたいですが、
樹木の陰になっているのも
あるんですよね・・・。
(→ 推測は半分正解!)

五番三宝院

[タヌポン補足]

古新田

鹿黒の東。


本体: 高171cm、幅37cm、厚23cm。

五番目が陀で始まる御詠歌

左右はランダムですが、側面のいっぽうが必ず御詠歌となっているのは正解でした。また、御詠歌でない面には、
これまた、お決まりの建立日時と、百萬遍講中の銘。そして、仏教の「偈」(げ)。ただし、偈は変化しています。
この五番石塔の偈は、「一切聖霊生極楽上品蓮臺成正覚 菩提行願不退轉引導三有及法界」。

ところで、いままで、回向所も含めて6ヵ所の御詠歌を見てきましたが、もうそろそろ気が付きますよね。
いくら当て字が多い時代とは言え、「沢山に」の「た」を「陀」と当てるのはおかしいです。でも、これが五番目。
「南無阿弥陀仏」の名号が6文字で、5文字目は・・・そうですね、「陀」です。もう分かりますよね。
回向所の御詠歌は省いて、壱番から五番までの御詠歌の冒頭の文字を並べると「南無阿弥陀」です。
そうなると、後の六番の御詠歌が「仏」で始まっているのは間違いありません。三番の「阿」の不自然さも納得です。

別所村の地蔵堂

地蔵堂への道標

三宝院の正門前に地蔵堂への標識がでています。
標識にそって訪ねたところが、以下の建物。

地図上では以下が地蔵堂と思われるのですが、
本堂には金竜山と記されています。
また、右隣りには熊野神社も併設されています。

和本での別所村の地蔵堂がどれを指しているのか、
ちょっと調査不足です。

以下は、奥に進んで行くと現れる建物を左から右に並べました。いずれにも金竜山と記されています。

金竜山 金竜山 金竜山
木造地蔵菩薩立像?

境内にありますが、これが、木造地蔵菩薩立像?それとも観音像?
すぐ隣りに千葉県指定重要文化財の案内看板が建てられているので、
この像が一見そうなのかとも思いますが、ちがうような気がします。
木造の重要文化財が雨ざらしでいいのかという懸念もありますね。
おそらくは、上記の建物内に安置されているのではないかと思います。

木造地蔵菩薩立像

熊野神社

上記、金竜山に隣接して建てられています。

熊野神社 熊野神社

竹袋稲荷神社

竹袋稲荷神社

三宝院の前の道を挟んで正面にある竹袋稲荷神社。

稲荷山

稲荷山とは、現在のこの神社付近をいうのでしょうか。

狢池(むじないけ)

現存していませんが、木下方面へ下る道を狢坂と呼んでいます。
赤松宗旦の『利根川図志』巻3に、「狢池ならびに狢坂」と題して、以下の文章が載っています。

木下河岸より竹袋へゆく道の左にあり。佐倉風土記に、在印西荘竹袋、方百三四十歩、中有蓴菜(じゅんさい)、池頭有狢坂焉。東國戦記所謂狸坂及狸池是也。今は浅くなりて蓴菜なし。芦菰など生茂り、池の形のみなり。堤を越えて向ふの山に上る所を狢坂といふ。是より竹袋木村なり。

尾瀬でなくても昔はこんなところでも、ジュンサイが採れたのですね。

木下河岸

木下は「きおろし」と読みます。現在も同名の地域、JR成田線の駅があります。

圦樋口(いりひぐち)・はさみ堤の内川から燕(つばくろ)口

不明。いずれも木下河岸の近辺と思われます。

天地という洲

現在の利根緑地運動公園付近。凧あげ大会 が行われるところ。

浅草睦会の講中額3

なんと、三宝院にも浅草睦会の講中額が存在していたことが、この後の第六番勢至堂の講中額発見後に知りました。

浅草睦会の講中額3

出典は「印西町の歴史」より。
次項目の六番勢至堂での額を先に
発見しているため記述は前後しますが、
これを浅草睦会の講中額3として紹介します。
ただし、写真ではなく図表なので、
その部分を引用・転写させていただきました。

内容を見ると、ここで、掲載されている御詠歌は、
武州六阿弥陀のそれとは一変しています。
講中額1は、壱番の場所で、二番御詠歌のアレンジ、
講中額2は、六番の場所で同じ六番のアレンジ。
ほとんど地名だけの変更ですが、
この三宝院の講中額3はまったくのオリジナルです。

陀くさんに となへしくちの このしたや
五つともなしに ひらくれんたい

もろびとヽ みだのみそば乃 三寶院
らいせはひとを すくうみだぶつ

こうなると、二番・三番・四番の講中額もありそう。
どんな歌なのか知りたいですね。

この舌やは下谷のもじり

この五番御詠歌には、とても武州六阿弥陀の江戸地区の地名もじりはないものと思っていました。ところがやはり!
常楽院は、現在、都下調布市に移転したなどで混迷しましたが、もとは「下谷(したや)広小路」の所在。
しかし、このケースでは、単純な地名置き換えのパロディ御詠歌をつくるわけにはいきませんね。なるほど。
浅草睦会のメンバーも、なんとかならないものかと呻吟したのではないかと思います。うーーん、難しいですね。

さて、この講中額も他は前述と同様、大正15年3月22日付。発起人と会長だけが同名で、あとの10人が新顔です。
会長の小野二男次郎は、おそらく三男次郎のまちがいですね。こちらで撮った壱番・六番はいずれも「三男」でしたので。

■■浅草睦会は壱番〜六番だけでなくすべてに講中額作成の可能性も?■■

六番勢至堂

五番三宝院を巡ったあとは、利根川を渡り、再度、利根町に戻ってきます。そして、六番は布川横町。

六番勢至堂 挿絵

六番勢至堂 挿絵

仏たいを めくりしまひし 亀井とや
六しん南無や 阿ミた仏こく

(仏体を 巡りしまひし 亀戸や
六塵南無や 阿弥陀仏国)

六番勢至堂 御詠歌

六番勢至堂

[和本本文口語訳]

柳宿 にかかり、六番は中宿の勢至堂に詣でます。

六番勢至堂

布川横町通り一帯を中宿と呼んでいますが、
ここに不動堂と並んで勢至堂が建っていたということです。
以下写真上は、不動堂裏手の中宿集会所。

現在は不動堂、正式には 如法院不動堂(布川不動尊) だけが
残されていて、その本堂前に六阿弥陀の石塔が立っています。

なお、柳宿 とは、中宿の南に位置。上柳宿・下柳宿地区 参照

中宿集会所 不動堂
六番勢至堂石塔左側面 六番勢至堂石塔右側面

ここも石塔右側面は、御詠歌。
仏たいを めくりしまひし 亀井と
六しん南無や 阿ミた仏こく

やはり6番目の冒頭文字は、
「南無阿弥陀仏」の最後の「仏」でした。
これで、壱番から六番、そろいました。

また、「亀井と」という言葉も地名で、
武州六阿弥陀六番常光寺が
江東区亀井戸だからですね。

左側面は、「天下泰平 国土安穏」と、
文政10年4月建立、百萬遍講中は同様。

以下は、如法院不動堂(布川不動尊)本堂前。右は、5月の祭礼時の写真です。

不動堂 不動堂祭礼時

以下は、如法院不動堂(布川不動尊) コンテンツに掲載しましたが、要旨を再掲します。

浅草睦会の六阿弥陀詣2

お堂に向っての背後のいちばん右上に、以下の小さな額が見つかりました。

六阿弥陀額

これは、壱番徳満寺の項目にもありましたね。
浅草睦会の六阿弥陀詣 の額の続編です。
同じ大正15年3月22日付となっています。
同日に六阿弥陀詣をし、この地に寄ったときのものですね。

ところで、そこには、「布川横町 不動至勢堂」と記されています。
なるほど、大正15年(1926)にはまだ勢至堂はあったのだな、
なんて思ったのですが・・・。あれっ???

そうですね。勢至堂と至勢堂。
これはまちがったのでしょうか。
それともこういう言葉遊びなのでしょうか。

また、ここには歌が詠まれています。

ぶったいを まもり志まひし 北相馬 ろくちんなむや あみだぶつこく

これはすなわち、以下ですが・・・。

仏体を 守りしまいし 北相馬 六塵南無や 阿弥陀仏国

この項目冒頭で紹介した歌(以下)と少しちがいます。でも、明らかにこれをもじったもの。ここだけ変えれば総州版です。

仏体を 巡りしまいし 亀戸や 六塵南無や 阿弥陀仏国

六塵とは

ちょっと勉強: 六塵とは?

六境ともいいます。色・声・香・味・触・法の六境で、心を汚し煩悩を起こさせる境地のこと。

三省堂 大辞林では、六境を、以下のように説明しています。

【六境】〔仏〕 認識判断を行う眼・耳・鼻・舌・身・意のそれぞれの対象となる六つの領域。すなわち、色境・声境・香境・味境・触境・法境の六つ。心の清浄を汚すことから六塵(ろくじん)ともいう。六つの塵(ちり)。六賊。

余談ですが・・・大正15年(1926)には、すでに東京・銀座・資生堂はありますね(1872「資生堂薬局」として創業)。
東京浅草の人たちですから、セイシ堂をシセイ堂とまちがえた?

日頃の嫁いびりへの懺悔として

ところで、三宝院で発見された浅草睦会の講中額3から、この講中額2のメンバーを見てみると急に女性が増えています。
武州六阿弥陀詣にしろ一般に、六阿弥陀詣に参加する女性は、日頃からの「嫁いびり」を懺悔するのを口実の物見遊山とも。
なるほど、事の起こりは、「足立姫」への姑の嫁いびりからでしたね。そんな意味もあってか、こんな川柳も。

六あみだ 皆回るは 鬼婆ァ

■■案内文もわずか1行、勢至堂の実際は闇の中?■■

納経所来見寺

来見寺は、〒300-1622 茨城県北相馬郡利根町布川3080 Tel: 0297-68-2558

納経所来見寺 挿絵

納経所来見寺 挿絵

元木より まいりしすゑは この寺の
むつの阿ミたの くわんゐしくとく

(元木より まいりし末は この寺の
六つの阿弥陀の 願以此功徳)

納経所来見寺 御詠歌

納経所来見寺

[和本本文口語訳]

同じく納経所来見寺は豊嶋頼継侯の草創で、寺宝も多いとか。山門の額 は唐の僧心越禅師の筆跡。左右には修善場枯木堂。阿弥陀経碑があり、なかでも 御松替の梅 というのは、畏れ多くも東照神君家康公が再度御旅館されたことによって、御朱印地とともに賜れたと承りました。

星野一楽が中心となって奉納した「阿弥陀経」の大きな石碑。これゆえに、ここが「納経所」と呼ばれることになりました。

納経所来見寺

碑のタイトル部分に何が記されているか、ですが、
何のことはありません。以下です。

陀 阿 南
仏 弥 無

さて、この石碑も、前述 看湖楼一楽の句碑 と同様、
願主星野一楽・揮毫中村仏庵・石匠窪世祥による造立です。
しかし、文政12年(1829)12月が、あれっ?と思いました。

これでは、案内書である和本の制作年と符合しません。
和本は文政11年(1828)に刊行されていて、
その中に、この「阿弥陀経碑」のことが記されています。
これは、おかしいですね。何かがまちがっているのでしょうか。

もしかすると石碑が制作途中だったのかも知れません。
この辺りは、和本の発行日が早すぎることもあるので、
ちょっと調べてみたいとも思います。

[タヌポン補足]

願以此功徳(がんいしくどく)

願わくはこの(経文の)功徳をもって、と解することができます。
辞書によれば、代表的な回向文(えこうもん)のひとつ。
つまり、仏事を行った功徳を己だけのものにすることなく、
他の人々にめぐらし、分かち与えるための文のひとつ。
読経の最後に唱えるところから、物事の終わりの意にも用います。

阿弥陀経碑左上 阿弥陀経碑左下

左は、石碑の左部分の上部と下部。
確かに文政12年12月建立が記され、
また、仏庵や窪世祥の名が見えます。

中村景蓮が仏庵の正式な名前のようです。

制作している最中に、建立年を間違えることは
あり得ないと思います(あり得るのかなあ?)。
他の石塔が文政10年に間に合ったのに対し、
この阿弥陀経碑は大作なので、完成が
少し遅れたのではないかと思います。
ただ、阿弥陀経碑の制作中ということは、
巷に知れ渡っているので、和本としては、
完成されたものとして記載した、
というのがタヌポンのひとつの推測です。

和本「総州六阿弥陀詣」西村屋与八版の
刊行年が誤植であった、というのも、
出版社としてはあり得ない、という印象です。

御詠歌はどこに

基本的なことなのですが、和本案内書にある御詠歌は、石塔の場合、左か右の側面に刻銘されているのですが、
この来見寺の「阿弥陀経」の石碑には、どこかに彫られているのでしょうか。これを実はまだ確認していません。
この碑に痕跡がないようだと、もし和本が発行されなければ御詠歌は永久にその内容・存在が不明だったことになります。
これは、最近、見落としていたことなので、唯一の手がかりと思われる「阿弥陀経」の石碑の裏表の確認が課題です。

→ 「阿弥陀経」の確認ができました。御詠歌はやはり「ナシ」です。うーーむ、どこかに残されていないのでしょうか。
(書家の二見氏より、元図書館長香取達彦氏作成の完璧な「阿弥陀経」等の資料をいただきました。両氏に感謝いたします)

「阿弥陀経」石碑に関して詳細な資料コンテンツを作成しました→ 「仏説阿弥陀経碑」。

山門の額

山門の額

右は来見寺山門にある扁額。
瑞龍山は、来見寺の山号。
これが、心越禅師の筆によるものでしょうか。
→ どうもそうらしいのですが、するとこれは唐の時代のもの?
(唐:618年 - 690年,705年 - 907年)

→ これは、本編に「唐の僧」とあったからですが、
この場合は「から」もしくは「もろこし」という意味で、
「中国の僧」というでした。明の僧と町史にあったので
おかしいなと思ったのですが、失念していました。

このことも「がらん」さんよりメールでご指摘いただきました。

「東皐(とうこう)心越禅師(1639−1696)。明の僧です。長崎に来朝その後水戸光圀に迎えられた文化人です。あちこちの禅寺の扁額が彼の書となってます」とのこと。ありがとうございます。修正が各所にありたいへん(笑)。(13/01/20 追記)

なお、写真の額が当該の額であることは確認できています。参考 → 来見寺扁額 (13/09/08 追記)

修善場・枯木堂

不明。

御松替の梅

御松替の梅

利根町布川の来見寺にたびたび訪れていた徳川家康。
当時、来見寺境内にあった松が気に入り、
それをもらうかわりに与えたというのが松替の梅。

現在の梅は、無論、当時のものではなく、
何代か経た「子孫の梅」が残っているというわけです。(左写真)

「阿弥陀経」を彫った石碑横、本堂に向かって左手前にあります。

来見寺「松替の梅」 参照。

■■石碑造立より早い和本刊行、1年の矛盾は?■■

木余如来無量寺

無量寺は、本堂が戦後まもなく焼失して廃寺に。近くにあった沼も最近、埋められて、現在は墓地となっています。
石塔は墓地入口左すぐで見つけやすいのですが、難点は敷地の境界にあるため、柵が邪魔をして撮影が困難なことです。
文字数も他の塔より多いこともあって下部が見えづらく、こういうのは困るなあ、という思いですが仕方ありません。

木余無量寺 挿絵

木余無量寺 挿絵

法のふね かよふも夢の 世の中や
無量寿福の 海をわたらん

木余無量寺 御詠歌

木余無量寺

[和本本文口語訳]

馬場東宿 を通り、中道田んぼより見渡すと、羽中村の 応順寺 の御堂は見上げて高く、稲荷山 の松の枝も垂れてとても趣があります。福ノ木村を過ぎて、中谷の木余り如来の無量寺を詣でて寺宝を拝します。 は前の大僧正、雲臥 書とあります。向こうを見渡せば、布鎌の松嶋、平岡山。上り下りの船に唐人沼など筆舌に尽くしがたい絶景です。境内の 蓮池 の蛙の声も面白く、艮(北東)には 文間両社 の松や杉の古木がうっそうと繁り、乾(北西)には羽根野 諏訪神社 の森、続いて 早尾の天神山。北方、奥山、羽黒山 を見渡せます。

木余如来無量寺

[タヌポン補足]

馬場・東宿

布川馬場、東地区。現布川神社近辺を指します。

応順寺

同名コンテンツ「応順寺」参照

稲荷山

応順寺北の 羽中の稲荷大明神 付近のことでしょうか。
それとも、前述の 竹袋稲荷神社 近辺を指すのでしょうか。
前者と考えるのが妥当とは思いますが・・・。

木余(きあまり)とは、仏像を彫った木の残りの先端部分のこと。
それで如来を作ったものと思われます。写真は「木餘」。

無量寺および無量寺の沼に関しては、「無量寺」 を参照。

額・雲臥

無量寺は、現在、廃寺となっています。
したがって、額等の所在がどうなったのか不明です。

境内の蓮池

無量寺の沼のことを指すのでしょうか。
沼は現在は埋められて存在していません。
(いい釣り場だったのに・・・)

文間両社・諏訪神社・早尾の天神山

文間両社とは文間大明神、蛟蝄神社門の宮蛟蝄神社奥の宮の両社を指しています。諏訪神社早尾天神社 参照。

羽黒山

まさか、出羽三山の羽黒山が見えるとは思えませんが・・・。
利根町羽根野の北に龍ヶ崎市羽黒町があり、そのあたりが当時は山になっていて、そう呼ばれていたかも知れません。

木余如来石塔左側面 木余如来石塔右側面

写真は、左が石塔の裏面。
雑木が多くてこの角度がせいいっぱいです。
法のふね かよふも夢の 世の中や
無量寿福の 海をわたらん

おや、下部にも何か文字が見えますね。
中田切村 羽中村 福木村 中谷村

さて、左側面ですが、
具一切功徳 慈眼視衆生
福聚海無量 是故應頂禮

妙法蓮華経觀世音菩薩普門品第二十五
の一節です。

以下は、他のものと同様。
文政十年亥四月建焉」「百萬遍講中

本体: 高165cm、幅35cm、厚22cm。

ところで、基本的なことですが、石塔は「六阿弥陀木餘如来」と彫られています。武州六阿弥陀詣の「写し」としても、
では、その「木餘如来」の詳細は?これも代用品などがあり、火事によってすべて失われてしまったということでしょうか。
他の箇所についても、星野一楽は、石塔だけを設置しただけで、設置寺院等へ阿弥陀仏等の寄進はしたのでしょうか。
おそらくは、ないものと思いますが、巡礼の詣でる対象が阿弥陀仏ではなく、石塔・石碑だけというのも・・・。

■■他の六阿弥陀詣なら阿弥陀仏が存在する?■■

懺悔所念仏院

念仏院は、現在廃寺となっていますが、その跡地に供養塔が建てられ、泪塚と称されています。→ 泪塚 参照。

懺悔所念仏院 挿絵

懺悔所念仏院 挿絵

からへば 量の罪も りぬべし
来この世を のむ念

(永らへば 無量の罪も ありぬべし
未来この世を たのむ念仏)

懺悔所念仏院 御詠歌

懺悔所念仏院

[和本本文口語訳]

中田切(なかたぎり)から野道に出ると、だれもが風流心を覚えて、歌を口ずさみ、遠景の花を愛で、旅の疲れも忘れます。押付新田の懺悔所念仏院では 古い碑 のいわれをうかがいました。

[タヌポン補足]

古い碑

供養塔そのものを指していると思われます。
古い碑のいわれとは、鶴殺し事件 のことでしょう。

簡単な記述にとどめてあるのは
江戸幕府の失態を思い測ったためでしょうね。

懺悔所念仏院

表題の御詠歌はとても面白いですね。
南無阿弥陀仏 の文字をひとつずつ、当て字ですが、
句のなかに入れ込んで作っています。
しかも、分かりやすいように順番になっていますね。
こういう言葉遊びもしているのですね。(上記、朱色 の文字)

無量の文字があるので、
この前の無量寺の場合の歌でも、と思いました。
しかし、この句の「無量の罪」とは、
泪塚の事件の罪を比喩しているのではとも思いました。
それならば、歌の作者が意図した罪は、果たして、
冤罪の罪人の罪か、幕府の罪か。それとも己の罪でしょうか。

懺悔所の石塔は、泪塚を訪れればすぐ分かります。
供養塔は、奥の祠の左後ろに建っています。

泪塚
懺悔所念仏院石塔左側面 懺悔所念仏院石塔右側面

石塔右側面は、御詠歌。
南からへば 無量の罪も 阿りぬべし
弥来この世を 陀のむ念仏

左側面は、往生本縁経、四句の偈。
一念弥陀仏 即滅無量罪
現受無比楽 後生清浄土

後は同様、文政10年4月建立
百万遍講中

供養所瑞光寺

現在、瑞光寺は河川改修のため廃寺となっていますが、
祐天上人の名号石(みょうごうせき)は 押付本田(布川)の水神宮 に移され現存しています。
ちなみに、名号(みょうごう)とは、「南無阿弥陀仏」の念仏のことです。

供養所瑞光寺 挿絵

供養所瑞光寺 挿絵

文巻川 挿絵

文巻川 挿絵

南(な)の字より めぐりてここに うち見れば
草木もうかぶ 仏嶋かな

供養所瑞光寺 御詠歌

枯草に 情の露や かりの宿
ミのりのゑんを 結ぶめでたさ

上の歌は後述「祐天」上人の供養塔銘文、右側面に彫られているものと同じです。


供養所瑞光寺
供養所瑞光寺
供養所瑞光寺

[和本本文口語訳]

桃畑を過ぎると、供養所の押付本田瑞光寺。参詣して、祐天大僧正の名号石を拝むと、六阿弥陀の由緒 が碑に刻まれています。各所の詠歌の額 は、江戸の甘斎翁の筆と承りました。前には 江蔵地 の納屋、後は 新川この土手を境として数十里は寛文年中(1661〜1670)に掘り割り、豊田村に堰 を作りました。以来、羽根野の陣屋前から続く川辺に松ノ木、上曾根、下曾根、その川下に下井、横須賀と続き、八枚橋 のほうを見渡せば立崎までは一里余り、新川 は用水を満々とたたえ、村々に分水しています。数万の民家は喜んで耕作を営んでいます。これはまさに大事なことです。この水上は小貝川の下流、名にし負う文巻川で、戸田井の渡しがあります。古歌に「水茎のかき流せどもながれぬは文巻川といへばなるべし」とあり、千年も変わらぬ歌枕、めでたい御世の行く末も広々と、いま花咲く季節に巡る六阿弥陀。春の夕日のように長い新堤を築き、後の世に贈る供養塚。生きとし生けるものすべての幸せと平和を願うこの身ですが、これも思えば去年の枯れ草の情の露、仮の宿です。この地で川々が落ち合い、波も皺を合わせて下利根川一筋に合流するという睦まじさ。まことに、仏像出現の仏嶋と呼ぶとか。今回一緒に巡拝する人びとは、子孫繁栄、そして長寿、現世の安穏と後世の福徳円満は疑いなしです。これもひとえに弥陀の誓願と承り、いよいよ信心を厚くし、ここに筆をおきます。

六阿弥陀供養塔

供養所瑞光寺 六阿弥陀供養塔

[タヌポン補足]

六阿弥陀の由緒

後述

各所の詠歌の額

廃寺となった瑞光寺のものでしょうか。
現存されているかどうか不明。

江蔵地

利根川を挟んで向こう岸、我孫子市江蔵地。
蝦夷からきた人たちが住んだ町といわれています。

八枚橋

八枚橋

千葉龍ヶ崎線が新利根川に架かる橋(右上写真)。
クルマの往来が激しく、当時の俤は、わずかに橋から見る新利根川の流れぐらいでしょうか。

新川

豊田南用水路か新利根川かどちらかでしょう。

豊田村に堰

これが、元祖の豊田堰ですね。現在は新しく築造されています。小貝川と豊田堰(豊田堰と北浦川水門) 参照

祐天上人銘と花押

供養塔銘文「祐天」と花押

南無阿弥陀仏の文字の下に小さく
「祐天」の名と花押が彫られています。(左参照)
さらにその下には蓮華図があるようですが、風化して見えません。

祐天上人とは

祐天は明蓮社顕誉愚心といい、寛永14年(1637)陸奥国岩城生まれ。修行を重ね、自らによる特色ある筆跡の六字名号は人びとの尊敬を集めるようになり、宝永元年(1704)には小石川伝通院住職を経て、正徳元年(1711)将軍家宣から芝増上寺36世を命ぜられました。増上寺は浄土宗の大本山で上野寛永寺と並ぶ江戸の大寺で、名寺の36世となった祐天は、帰依する人も多く、享保3年(1718)に82歳で没するまで、庶民に与える名号を書き続けたと言います。(印西町の歴史)


祐天寺(東京目黒区)は祐天の没後の開山

祐天(増上寺36世住持)は享保3年(1718)の春ごろから体調が悪化し、同年7月15日に亡くなります。祐天が常念仏を行える廟所を目黒の地に建立する事を望んでいたこともあり、弟子の祐海は目黒にある善久院を百両で購入し、祐天の廟所と常念仏堂を建立します。享保8年(1723年)1月13日、祐天寺の寺号が正式に許可され、祐天を開山とし、祐海は第2世となりました。(wikipedia)


祐天も修行時代は愚か者

利根川図志巻4挿絵

赤松宗旦の利根川図志巻4「成田山新勝寺」の項には、
祐天の修行時代は、経の一句も覚えられないほどの
愚か者だったことが挿話として記されています。

左は、成田不動に「〜剣を一振呑んで臓腑の悪血を吐出し、
新血を生じて生改めて知恵を授かれ云々」というくだりに
描かれている挿絵。

さて、以下は、左から、石塔の「右側面」、「裏面」、「左側面」ですが、右側面以外は目視では判読は難しそうです。

水神宮阿弥陀経碑右側面 水神宮阿弥陀経碑裏面 水神宮阿弥陀経碑左側面

石塔の右側面には、以下の御詠歌が彫られています。これは案内書和本にある後半のひとつで、なんとか読めそうです。
ちなみに、もうひとつの御詠歌(南の字より めぐりてここに〜)が、どこに記されているのかは不明。

枯草耳 情の露や か里能宿 ミ能り乃縁を 結ふ免亭多佐
変体仮名を直し、現代文にすると以下。
枯れ草に 情の露や かりの宿 みのりの縁を 結ぶめでたさ


写真中央、石塔の裏面には、『法華経化城諭品』より、最高の法と言われる法華経の偈が刻まれています。
これは、断片的にしか読めませんが、決まり文句なので、以下。

願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道
(願わくはこの功徳をもって あまねく一切に及ぼして 我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜんことを)

六阿彌陀供養塔白文

左側面には、杉野東山書で供養塔建立の由緒が記されています。これは、ほとんど目視では数文字しか読めません。でも、
tanupon 所属会の会員のおかげで、以下全文、紹介することができます。口語訳も、利根町史第5巻に記されています。
この銘文を撰した上毛国の高雋(こうせん)庶傑については、詳細が不明です。

六阿彌陀供養墖銘竝叙□□□□□□□上毛高雋庶傑撰□□□東山杉埜利恭書
念佛三昧者何思専想寂之謂思専則志一不撓想寂則氣虚神朗故衆定之中功高易進念
佛為先也有貞信之士于此氏星野名一樂世爲下總布川人性澹以樂斯道非啻自樂亦樂
與人士文政癸未嬰病命将不可異夢恍然確悟復故焉尓後貞奨信勵乃發大願心闔郷随
喜唱者沓至尊號如來百億萬遍矣契信之徒胥議安六阿彌陀於近邑且欲碑而傳諸乃為
之銘曰相馬之郡玆卜靈迹無礙光存見利自莫聞兮髣髴微風奏拍覩兮恍惚頻伽止翮
文政十年歳在丁亥十月酉朔十九日辛卯建

読み下し文

六阿弥陀供養墖銘竝(ならび)に叙   上毛高雋庶傑撰 東山杉埜利恭(としゆき)の書

念佛三昧とは何ぞ。思専想寂の謂なり。思い専なれば則ち志一にして撓(たわ)まず、想寂なれば則ち氣虚にして神朗なり。故に衆定の中に、功高く進み易きは念佛を先と為すなり。貞信の士此れに有り。氏は星野、名は一樂。世に下總布川の人たり。性澹にして、以て斯道を樂しむ。啻(ただ)に自ら樂しむに非ず、また人士と樂しむ。文政癸未、病に嬰(かか)り、命まさに不可ならんとす。異夢に恍然として確悟し復故す。尓後、貞奨信勵し、乃ち大願心を發す。闔郷随喜し唱うる者沓至し、尊號如來を百億萬遍す。契信の徒、胥議りて、六阿彌陀を近邑に安んじ、且つ碑にして諸に傳えんと欲す。乃ち、これが為に銘に曰く、相馬の郡、玆に靈迹を卜す。無礙光存見し、利自ずから聞く莫し。髣髴として微風拍を奏するを覩る。恍惚として頻伽も翮を止む。
文政十年歳在丁亥十月酉朔十九日辛卯建

[タヌポン補足]

: =塔、異体字。
思専想寂(しせんそうじゃく) : 中国浄土教の開祖といわれる蘆山の慧遠(334−416年)は、念仏三昧について「序曰、夫称三昧者何、専思寂想之謂也。思専則志一不分、想寂則気虚神朗、気虚則智恬其照、神朗則無幽不徹、斯二乃是自然之玄符、会一而致用也」(『大正蔵』52巻)と述べ、非常に高度な精神状態であることを論文では指摘している。(龍谷大学大学院 八力廣超『中国浄土教における念仏思想』より)
(たん) : おだやか。しずか。(三省堂漢辞海)
斯道(しどう) : 聖人の道。また、の教え。(goo 辞書)。この場合、念仏の道。
文政癸未 : 文政6年(1823)
闔郷(こうきょう) : 闔は「すべての」の意。全村。村じゅう。(三省堂漢辞海)
沓至(とうし) : たくさんどっと来る。(角川新字源)。続々と来る。
(あい) : 相(あい)と同義。たがいに。みな。(三省堂漢辞海)
(ぼく) : 占うこと。
無礙光(むげこう) : 仏の発する智慧や救済力の光が、何物にも遮られないこと。一般には、阿弥陀仏の光明。(三省堂大辞林)
存見(ぞんけん) : 見て忘れず。
(はく) : 音楽のリズム。ひょうし。ここでは曲か。
(みる) : 見る。睹の古字。(三省堂漢辞海)
頻伽 : 迦陵頻迦(かりょうびんが)。極楽浄土に住むという架空の鳥。美しい女性の顔で、妙なる声でさえずるという空想上の霊鳥。(goo 辞書)
(かく) : 鳥の羽の中心にある堅い茎。はね。鳥のつばさ。(三省堂漢辞海)
文政十年〜建 : 文政10年(1827)10月19日建立。

台石

台石正面は「講中」ですが、左右側面には、「胥い議った」村々の名前が刻まれています。下左が右側面、右が左側面。

台石右側面 台石左側面

[右側面]發作新田・龜成村・浦邉村・和泉村・小倉村・鹿黒村・大森村・古新田・中ノロ新田・六軒新田

[左側面]布川邑・押附本田・押附新田・布佐邑・竹袋村・木下河岸・中田切村・羽中村・福木村・中谷村

石塔サイズは、本体 高165cm、幅42cm、厚29cm。台石、高42cm、幅68cm、厚65cm。

(13/10/16 追記・13/10/13 撮影)


さて、この 押付本田(布川)の水神宮 の環境も変化しつつあります。名号石もまた移動する可能性も・・・。

■■もうひとつの御詠歌はどこに?■■

和本巻末表

以下は、西村屋与八版の総州六阿弥陀詣の巻末の表です。

image01
壱 番 布川 二 番 ふさ 回向所 ほつさく
徳満寺より 延命寺より 最勝院より
2番へ8丁
舟わたし有
ゑかう所へ
廿丁
3番へ
15丁余
三 番 いづみ 四 番 大もり 五 番 竹袋
泉倉寺より 長楽寺より 三宝院より
4番へ18町 別所地蔵堂へかけこし5番へ18丁 6番へ30丁舟 わたし有
六 番 ふ川 納経所 ふ川 木餘如来 中谷
勢至堂より 来見寺より 無量寺より
なうきやう所へ2丁 木あまりへ
1里
ざんげ所へ
1里
懺悔所 押附新田 供養所 押附本田 凡道のり
都合5里9丁余
念仏院より 瑞光寺より
くよう所へ6丁 1番へ10丁余 ふみまき川へ8丁
文政11戌子年8月新刊成
東都書林 馬喰町2丁目 西村屋与八梓

総州六阿弥陀の独創性

東都書林の和本を見ながら、総州六阿弥陀の概要を見てきましたが、コンテンツ冒頭で記した一般の六阿弥陀詣と比べて、
「総州」がどう違うのか、六阿弥陀詣の代表格である「武州六阿弥陀詣」との関連はどうなのか等も少し明快になってきました。
もちろん、「京都六阿弥陀」や江戸にあるほかの六阿弥陀詣についての調査は行き届いてはいませんが、少なくとも、
「武州」と「総州」の類似性と相違については、多少なりとも考察できたように思います。

その中で、重用な要素を占めるのが「御詠歌」の存在です。これをもういちど整理し、並べて見比べながら、
「武州」の「写し」としての証左がありながらも、「総州六阿弥陀」の独創性も同時に存在していることを確認したいと思います。

総州六阿弥陀と御詠歌

以下では、便宜上、総州六阿弥陀=総州、武州六阿弥陀=武州と省略して表記しています。

No 御詠歌 御詠歌の所在 武州六阿弥陀との比較・備考
1番 の字から まわりはじめの その元木 一世のうちの ゑんとなるらむ ・和本
・石塔右側面
武州と同一
2番 かふへは ミのりのふねで こすぬまた 二たびもとの みちにまよわん ・和本
・石塔右側面
武州と同一。総州では「沼田」の意味不明。
浅草睦会「むこふへは ぐぜいのふねで こす布川 ふたたびもとの みちへたどらん」で総州版に、ただし1番の額
回向所 元木より 有縁無ゑんの 枝葉まで ミなことごとく うかふてがぬま ・和本
・石塔右側面
「てがぬま」など、総州独自のもの
3番 りかたや 阿みたの浄土 にしかはら 三かいしゆじやう のこるものなし ・和本
・石塔左側面
武州と同一。総州では「にしかはら」が意味不明
4番 なか今 この世てたねを まけたはた 四かも仏花に ミのるうれしさ ・和本
・石塔右側面
武州と同一。「たはた」は「田端」のもじりだが総州でも意味は通じる
5番 くさんに となへしくちの このしたや 五つともなしに ひらくれんたい ・和本
・石塔左側面
武州と同一。「したや」の地名もじりがあるが、意味的には総州でも可。
浅草睦会「もろびとヽ みだのみそば乃 三寶院 らいせはひとを すくうみだぶつ」の総州版
6番 たいを めくりしまひし 亀井とや 六しん南無や 阿ミた仏こく ・和本
・石塔左側面
武州と同一。「亀戸と」は江戸専用。
浅草睦会「ぶったいを まもり志まひし 北相馬 ろくちんなむや あみだぶつこく」で総州版
納経所 元木より まいりしすゑは この寺の むつの阿ミたの くわんゐしくとく ・和本でのみ
・ただし阿弥陀経碑未調査
総州独自
木余如来 法のふね かよふも夢の 世の中や 無量寿福の 海をわたらん ・和本
・石塔左側面
武州「性翁寺」の御詠歌未調査で関連不明、無量とあるのでおそらく総州独自か(無量寺)
懺悔所 からへば 量の罪も りぬべし 来この世を のむ念 ・和本
・石塔左側面
総州独自
供養所 南(な)の字より めぐりてここに うち見れば 草木もうかぶ 仏嶋かな ・和本のみ 総州独自(仏嶋は押付新田にある地名)
枯草に 情の露や かりの宿 ミのりのゑんを 結ぶめでたさ ・和本
・名号石左側面
総州独自

上記の表から言えることは、以下。


(14/04/12・13/10/16・13/09/20・13/09/18・13/09/08・13/07/08・13/04/20・13/01/20・12/08/30・12/08/18 追記) (11/02/19 再構成) (10/02/11・10/01/29・07/05/08 追記) (05/11/05)
(撮影 13/10/13・13/09/20・12/08/13・12/08/04・12/05/08・11/01/28・11/01/24・10/02/20・10/02/19・09/03/11・06/09/02・05/11/17・05/11/04・05/10/09・05/10/28・05/10/28・05/10/09・05/09/19・05/09/17・05/09/10・05/08/20・05/06/12・05/05/28・05/03/27・05/03/19・05/03/13)