タヌポンの利根ぽんぽ行 総州六阿弥陀詣

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総州六阿弥陀詣 目次



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浅学なタヌポンは最初、その存在の意味はまったく分かりませんでした。
徳満寺 の山門へ向かう石段の途中に建っていたのですが、
「六」って何だろうなあ、と思ったくらいで、それ以上の追求はしませんでした。
当初は、阿弥陀仏の像が6体ほど本堂かどこかに安置されているのだろう、
なんて勝手な想像をしていたのです。

その後、何度か 徳満寺 を訪れたり、ほかのポイントを見ていて、
あるとき、ほかにもよく似たものがいくつかあるのを発見してふと思いました。
6とは、どうも1ヵ所に安置された阿弥陀仏の数を表しているのではなさそうだ、ということを。

調べてみると、「阿弥陀仏六体の安置」ということではなく、「阿弥陀仏のある六ヵ所の寺詣」
つまり「六阿弥陀詣(ろくあみだもうで)」という昔のイベント企画だったのです。
しかもこのイベントは、当時(19世紀前半)、江戸などで盛んに行われていたというのです。

タヌポンが徳満寺等で出会ったのは、その中のひとつである「総州六阿弥陀詣」。
「総州」ということですから、当時、下総に所属していた利根町布川を中心に、
利根川を挟んで現在の千葉県我孫子市や印西市のいくつかの寺社を含んだものでした。

利根ぽんぽ行ということで、原則として、利根町以外の地域については、
利根町探索を終えてからということもあったので後回しにしていましたが、
それほど遠方ではないので、利根町以外を含む6ヵ所(実は11ヵ所)の探索をしてみよう、
ということにしました。


総州六阿弥陀詣の発願

六とは南無阿弥陀仏の文字数

さて、なぜ「六」なのかを説明していませんでしたね。これは「南無阿弥陀仏」の六文字からとっているのです。
南無阿弥陀仏の六文字にちなんで、阿弥陀如来を安置する六ヵ寺を巡拝するのが「六阿弥陀詣」。

それでは、利根町布川を中心とした「総州六阿弥陀詣」を整備開眼(かいげん)したのは、
いつごろで、だれの発案なのでしょうか?

発願者は、星野一楽

文政年間(1818〜)布川に 星野一楽(ほしのいちらく) という人がいました。
常に念仏を唱え周囲の人にも勧めるという信心深い人でした。
あるとき重い病気にかかりそれが治癒したのも仏恩と考え、その報恩のため、
そのころ、江戸でも盛んだった「六阿弥陀詣巡拝」を発願(ほつがん)したのです。

各村々の百万遍講中と相談して、布川徳満寺を中心に以下の11ヵ寺に六阿弥陀の標石を建てました。
文政10年(1827)のことでした。

なぜ、6ではなく11になったのか、その経緯は分からないのですが・・・。

6ヵ所ではなく11ヵ所

いずれにせよ、6ヵ所ではなく、少なくとも11ヵ所を訪問しなければなりません。
関連箇所を含めるともっと多くなるかも知れません。以下がその表です。
よく見ると、その半分が利根川を越えて千葉県我孫子市や印西市まで広がっていました。

名称 宗派 所在地 備考・本サイトコンテンツ
一 番 徳満寺 新義真言宗 利根町布川 徳満寺
二 番 延命寺 真言宗 我孫子市布佐
回向所 最勝院 天台宗 印西市発作
三 番 泉倉寺 天台宗 印西市和泉
四 番 長楽寺 天台宗 印西市大森
五 番 三宝院 天台宗 印西市竹袋
六 番 勢至堂 真言宗 利根町布川 如法院不動堂(布川不動尊) へ移動
納経所 来見寺 曹洞宗 利根町布川 来見寺
木余如来 無量寺 浄土宗 利根町中谷 無量寺
懺悔所 念仏院 浄土宗 利根町押付新田 現在廃寺で、泪塚 がある
供養所 瑞光寺 浄土宗 利根町押付新田 押付本田(布川)の水神宮 へ移動

六阿弥陀現況コースマップ

六阿弥陀現況コースマップ

和本「総州六阿弥陀詣」西村屋与八版

さて、「総州六阿弥陀詣」に関して、その案内書として、同名の和本が刊行されました。
星野一楽が発願して標石を建てたその翌年の文政11年(1828)のことでした。

これは、江戸馬喰町の東都書林・西村屋与八版として刊行されましたが、
現在、東京大学や東北大学などにわずか4冊ですが、所蔵されています。
利根町域では未発見というのが残念ですが、
その貴重な資料の1冊、武蔵野市立中央図書館所蔵のものについて、利根町史で紹介しています。

以下、その内容にそって、原文の見出し等の一部を転載し、タヌポンの口語訳を入れ、
現在の写真を添えてご紹介することにしましょう。

和本は、約30ページくらいですが、それぞれのページの上部に、
地域の絵や行程、作者の和歌などを目次的に配し、下部に文章が連なる構成になっています。
しかし、1ページ毎にタイトル等がついていますが、文章も1ページ単位で完結しているわけではなく、
次ページに連なって記されています。
しかも、その文章の内容は必ずしも上部のタイトルや挿絵と完全には一致せず、
後半など相当、ズレが生じている箇所もあります。

そこで、ここでは内容的に区切りのいいところで分けて、それに該当するタイトルや和歌を配置し、
ご紹介することにしました。
したがって、和本の1ページ毎の訳とはなっていませんのでご了承ください。

和本「総州六阿弥陀詣」冒頭と巻末表

和本冒頭

六阿弥陀詣のタイトルの上に、江戸日本橋の絵が描かれていて、布川に至る行程がその左に記されています。
六阿弥陀の石塔を建てた星野一楽ではなく、江戸に住む風流人たちがこの総州六阿弥陀を訪ねる、という設定です。

江戸日本橋 挿絵

2里小松川、1里半市川、28丁八幡、2里8丁鎌ヶ谷、1里8丁白井、3里布佐、とね川・舟わたし有布川

[和本本文口語訳]

六阿弥陀詣 いつぞやお話ししました総州六阿弥陀詣のことですが、幸い山々の桜も真っ盛り、気の置けない友だちと申し合わせて、硯、懐紙など用意して、道筋はまず布川をはじめとしてここで案内を頼んで、壱番の霊場、徳満寺に詣でます。


和本巻末表

以下は、西村屋与八版の総州六阿弥陀詣の巻末の表です。

壱 番 布川 二 番 ふさ 回向所 ほつさく
徳満寺より 延命寺より 最勝院より
2番へ8丁 舟わたし有 ゑかう所へ廿丁 3番へ15丁余
三 番 いづみ 四 番 大もり 五 番 竹袋
泉倉寺より 長楽寺より 三宝院より
4番へ18町 別所地蔵堂へかけこし5番へ18丁 6番へ30丁舟 わたし有
六 番 ふ川 納経所 ふ川 木餘如来 中谷
勢至堂より 来見寺より 無量寺より
なうきやう所へ2丁 木あまりへ1里 ざんげ所へ1里
懺悔所 押附新田 供養所 押附本田 凡道のり
都合5里9丁余
念仏院より 瑞光寺より
くよう所へ6丁 1番へ10丁余 ふみまき川へ8丁
文政11戌子年8月新刊成
東都書林 馬喰町2丁目 西村屋与八梓

冒頭の次の壱番徳満寺から巻末直前までの中味を以下、順に紹介します。(木餘如来=きあまりにょらい)

壱番徳満寺

徳満寺は、〒300-1622 茨城県北相馬郡利根町布川3004 Tel: 0297-68-2442

壱番徳満寺 挿絵

南の字から まわりはじめの その元木 一世のうちの ゑんとなるらむ

(南の字から まわりはじめの その元木 一世のうちの 縁となるらむ)

壱番徳満寺

[和本本文口語訳]

(徳満寺には)御朱印地領があり、寺宝の和漢の書画多数ある中でも、嵯峨天皇、弘法大師、菅相丞(菅原道真公)の真筆等 たいへん珍しく拝見いたしました。本堂に安置されておられます 地蔵尊 は、探(湛)慶 作とか。境内に 大師堂天満宮金毘羅神社 の宝前には 心経(しんぎょう)の碑 があります。東南辰の方角には 布川神社。東に 山王神社。北に 八幡山銭亀山台畑通り豊嶋の城跡 と聞きました。町のほうには出船入船が川中を争うように行き来し、とても賑わっており、銚子や鹿島から日々鮮船(なまふね)が着岸し市をなしています。


壱番の塔は徳満寺の山門へ向かう石段の途中に建っています。

壱番徳満寺山門への石段

[タヌポン補足]

嵯峨天皇、弘法大師、菅相丞(菅原道真公)の真筆等

果たして現存しているのかまだ未調査です。

地蔵尊・探(湛)慶

地蔵尊は、徳満寺の 木造地蔵菩薩立像(子育て地蔵) 参照。湛慶(1173−1256)は鎌倉時代の仏師。運慶の嫡男。

大師堂・天満宮

大師堂は現在の 徳満寺の四郡大師 の堂、天満宮は 徳満寺の天神宮 のことでしょうか。

金毘羅神社の心経の碑

金毘羅神社は 琴平神社。下の写真(左)の左、小林一茶の 金毘羅角力 の句碑が有名ですが、
その右隣にあるのが心経(しんぎょう)の碑(右写真)。碑の裏を見ると、文政10年(1827)とあります。

金毘羅神社の碑 心経の碑

布川神社・山王神社

同名コンテンツ 布川神社 参照。山王神社は、日枝神社 参照。

八幡山と銭亀山

八幡山は 八幡台地区の八幡宮 あたりか。銭亀山は不明。

台畑通り・豊嶋の城跡

台畑通りという地名は現在見当たりません。城跡は 徳満寺 参照。

浅草睦会の六阿弥陀詣

浅草睦会の六阿弥陀詣

左は、徳満寺の客殿に掲載されていた額。
大正15年(1926)3月22日付で、
浅草睦会のメンバー12名が「総州六阿弥陀詣」を行い、
徳満寺を訪れたことを記念して作成したもののようです。

記されている歌は、以下。

むこふへは ■■■のふねで こす布川 
 ふたたびもとの みちへたどらん

これは、次章の二番延命寺 挿絵下の歌をもじったものですね。

■のところの文字が判読できないのですが、
くぐせ(屈背)の舟?

二番延命寺

延命寺は、〒270-1101 千葉県我孫子市布佐2318 Tel: 04-7189-2744 国道356号線沿いにあります。

二番延命寺 挿絵

無かふへは ミのりのふねで こすぬまた 二たびもとの みちにまよわん

(向こうへは 御法の舟で こす沼田 再び元の 道に迷わん)

布佐 挿絵

あびこへ3里、松戸へ7里

二番延命寺

[和本本文口語訳]

これより松戸宿まで7里。この間の荷物を運ぶ人馬で向こう河岸(布佐)はごったがえしています。布佐・布川の数百の人家も一望に見渡せます。大門より石坂を下って内宿に入り、浜宿に程近い渡し場の西に布佐台の 愛宕山 を見て二番延命寺に参拝。虚空蔵尊 は行基の作と聞きました。明神山、和田の城山三河屋新田 を過ぎ、千賀崎 の土手、手賀沼のほとり に出ると、糸を垂れる釣り人や網を打つ小舟、渚には群れをなしたカモメが目の前に見え、とても面白いと思いました。


二番の塔は延命寺の正面入口の門の右手に建っています。

延命寺正門
手賀川

[タヌポン補足]

愛宕山

延命寺から50mほど西に行くと愛宕神社があります。

虚空蔵尊・明神山・和田の城山・千賀崎

いずれも不明、未取材。地名等未調査。

三河屋新田

JR成田線布佐駅南に三河屋新田があります。

手賀沼のほとり

現在の手賀川か。(左写真)ちなみに手賀沼は昭和30年代に
この西付近一帯が干拓され縮小しています。

二番延命寺

左は石碑の左横。
文政10年(1827)の建立であることや、百万遍講中等が記されています。

冒頭にある言葉は「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」の著名な一節。

光明偏照十方世界
念仏衆生摂取不捨

(こうみょうへんじょう じゅうぽうせかい ねんぶつしゅじょう せっしゅふしゃ)

・・・光明は遍く十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず・・・
仏様の輝く光は十方四方をさえぎるものなくあまねく照らし、
念仏を唱えるわたしたちをけっして捨てることなくお救いになってくださる、
という意味のようです。

回向所最勝院

最勝院は、〒270-1361 千葉県印西市発作632 天台宗延暦寺派に属し泉倉寺の末寺。本尊は、阿弥陀如来。

回向所最勝院 挿絵

元木より 有縁無ゑんの枝葉まで ミなことごとく うかふてがぬま

(元木より 有縁無縁の枝葉まで 皆悉く 浮かぶ手賀沼)

回向所最勝院

[和本本文口語訳]

浦辺 のほうを見渡すと向こうに 布瀬明神山、北に 浅間山。麓に続く民家は霞がかかっておぼろ。また 上沼口に築いた千間堤 などゆっくり見物しているうちに、にわかに雲が立ち、驚いて早く家路に就こうと、心も関枠の土橋 を渡り、回向所発作最勝院を参詣。熱田山 の隣の 千海ヶ淵 で、草履ぬぎ岩 などを見て、亀成 を過ぎ、坂をよじ登ると 小倉山。花よりも勝る紅葉の若葉、秋の眺めもさぞかしと思い浮かばれます。


回向所の石塔は、最勝院の境内敷地のいちばん手前、
道路に面して建っています。奥に見える建物は発作上集会所。

関枠橋
関枠橋

[タヌポン補足]

浦辺・布瀬明神山・浅間山

浦辺は、布佐駅の西南。布瀬は現在は柏市。
布佐駅の西に浅間前という地域があります。

上沼口・千間堤

布佐駅の西、手賀川の北は沼田と呼ばれる地域で、
千間橋が架かっています。

心も関枠の土橋

心も「急く」と「関」の掛詞。千間橋のひとつ下流に架かる橋。
現在の関枠橋(左)は、むろん土橋ではなく、コンクリート製です。

熱田山と熱田神社

熱田山入口

熱田山もしくは熱田神社があるということですが、
最初どこにあるのか分かりませんでした。
回向所最勝院からメイン道路に出た正面が、
小高い丘のようになっています。
その少し左手の小さな沼というか水溜りの陰に、
熱田山への登り口が見つかりました(左)。

しかし、それも近くの人に聞いたからです。
自力ではとても見つからないでしょう。
かなり急な九十九折の石段が約80段ほどついています。
でも、途中からは手すりがついていますので、
思ったほど登るのはたいへんではありませんでした。

熱田神社

山の頂上には、15uくらいの小さな敷地に、
鳥居はありませんが祠、石祠や燈籠などがあります。

左のように本殿が見つかりましたが、
熱田神社という名が記されているものは見つかりませんでした。
でも、これが熱田神社であることはまちがいないと思います。

千海ヶ淵・草履ぬぎ岩

熱田神社が立つ丘上の下部が貝化石の岩となっていて草履ぬぎ岩と想定される、と町史にありますが、
千海ヶ淵とともに不明です。小さな沼のような箇所が千海ヶ淵なのかも知れません。もっと調査が必要です。

亀成、小倉山

亀成は発作の南。さらにその南に小倉という地域があります。

最勝院の石碑・石塔群

最勝院の六阿弥陀回向所石塔(写真右端)の真後ろには、ズラリ石碑や仏塔類が並んでいます。

仏塔群

最勝院の境内には、発作上霊苑や、いんざい七福神のひとつ、ほてい尊などの碑が建てられています。

手賀川 いんざい七福神布袋尊

大杉神社

大杉神社

ところで、六阿弥陀の石塔のすぐ右隣に神社があります。

熱田神社を探して、その位置が分からず困っていたとき、
鳥居などに神額がないため神社名が分からないことを理由に、
この神社が熱田神社ではないかと「希望的観測」などを・・・。

しかし、これは「大杉神社」であることが後で判明。
総州六阿弥陀詣とは関係ありませんが、紹介しておきます。

三番泉倉寺

泉倉寺は、〒270-1351 千葉県印西市和泉971 Tel: 0476-42-3322 下左は入口門。右は本堂。

泉倉寺門 泉倉寺本堂

泉倉寺は、天台宗48ヵ寺の本寺というくらいですからとても立派なお寺です。泉倉寺自体はすぐ分かります。
最初、泉倉寺から道を挟んだ真向かいに「光堂」という堂があるということで探していたのですが、見当たりません。
いっぽう、同じような場所に「宝珠院観音堂」という名所があるらしく、そこへの道標をいたるところで見かけます。
「光堂」のほうはいったいどうなっているのか、と思いましたが、実はこれは同じものだったのです!

ひとに尋ねず自分で探す

こういう話をする背景として・・・
いまタヌポンは利根町の徳満寺に端を発する「総州六阿弥陀詣」のテーマでここにたどり着いているのですが、
当の泉倉寺にしてみれば、そのテーマの石塔よりさらに文化・歴史上価値があるとされる建物や寺宝を具えているわけです。
初めて、こうしたお寺を訪ね、もしご住職ほかにお会いしたときには、六阿弥陀のことより、
まずは泉倉寺のいちばんのセールスポイントである事柄についてお尋ねするのが礼儀というものでしょう。
いかに過去の経緯においてその寺と関係あることにしても、
別の寺のことや、ましては神社関連の質問を最初にするのは少し申し訳ない気がしますし、
現実に、そうした場合、露骨に心外な顔をされたことも別の寺で経験しています。

三番泉倉寺

そんなわけで、泉倉寺の六阿弥陀石塔は、
お寺の人に尋ねず、なんとか自力で探し出すことができました。
本堂から直進した石橋のたもとで見つけました。(左写真右端)

でも通常、これらは、どうしても境内の中心からは
はずれたところになるのは仕方ないことですね。
泉倉寺の場合はそれでもかなり分かりやすい位置でしたが・・・。

でも、おそらくこのあたりにあるかな、
と推理して探すのもまた楽しいことでもあるのです・・・。

「通称」にちゅうい

「光堂」のほうは、泉倉寺関連の建造物なので、もしお寺の人を見かけたら尋ねてみれば簡単に分かることだったのですが、
境内はだれもいないし、なかなか閑静な場所で人通りも少ないんですね。
たまたまジョギングしていた人に出くわしてこれ幸いと尋ねたのですが、泉倉寺すらも知らないというのでこれは論外でした。

それからしばらくして、六阿弥陀のためではなく、「光堂」探索を主目的とした2回目の訪問で、
お寺の関係者ではなさそうでしたが、初めて見かけた泉倉寺近隣にお住まいと思われる人に尋ねました。
すぐ脇にある小道を入って行けばいいということで、見てみると入口に「宝珠院観音堂」へと記されています。
そこで初めて、「光堂」と「宝珠院観音堂」が同一のものであることを知ったというわけです。
通称と正式名は、だいたいまったくちがう言葉の場合が多いので要注意ですね。

光堂(宝珠院観音堂)の写真等については、この項目、後半で紹介します。

三番泉倉寺 挿絵

阿りかたや 阿みたの浄土 にしかはら 三かいしゆじやう のこるものなし

(ありがたや 阿弥陀の浄土 西ヶ原 三界衆生 残るものなし)

三番泉倉寺

[和本本文口語訳]

三番和泉村泉倉寺は天台48か寺の本寺で、元三大師 が客殿に安置されています。境内には、銅製の五重相伝供養塔山王権現地蔵堂釈迦堂があります。光堂(ひかりどう)大同2年 飛騨内匠の作とか。


[タヌポン補足]

元三大師

元三大師(がんさんだいし)とは、良源(りょうげん)のことで、
諡号は慈恵大師(じえだいし)。
平安時代、延喜12年(912)生まれの天台宗の僧。
第18代天台座主で、比叡山延暦寺の中興の祖。

大師像が客殿に安置されているかどうかは未取材。

山王権現

ちょっと見当たりませんでしたが・・・。

銅製の五重相伝供養塔

三番泉倉寺

左、中央が明治に再建された五重相伝供養塔。
クリックしてすると上部が拡大できます。

地蔵堂

地蔵堂

本堂脇の建物の中に千葉県指定の重要文化財
「木造延命地蔵菩薩坐像」が安置されています(下左)。
したがってこれがある建物(左)が
地蔵堂ということになるのでしょうか。
下右は解説文になります。

木造延命地蔵菩薩坐像 木造延命地蔵菩薩坐像解説

釈迦堂

泉倉寺の庭師の方に聞くと、約100年ほど前に火事で消失してしまったらしいとのことです。
少し離れた場所にあったとか。本尊のお釈迦様は運び出して本堂かどこかに安置されているとも。

光堂(宝珠院観音堂)

宝珠院観音堂への道標

光堂ではなく、宝珠院観音堂への道標が出ています。
この道標の真向かいが下左の写真。
この細い路地から、光堂(宝珠院観音堂)に向かいます。

堂までは少し道のりがありますので、
表通りからはまったく見えません。

突き当たりにある2つの道標が下の右の写真。
その1つの古いほうには「光堂道」とあります。

どうやら宝珠院観音堂の正式名称は、
近代になって使われ始めたのではないでしょうか。

光堂入口 宝珠院観音堂および光堂への道標
宝珠院観音堂

左が「光堂」
和本では、大同2年(807)
飛騨内匠の作とあります。
しかし、現地での立て看板では
室町後期の建立とされています。
国指定重要文化財、国宝ですね。
道路地図などでも、光堂の名はなく、
宝珠院観音堂の名で記されています。
詳しくは以下をクリック参照。

国指定重要文化財の案内

以下左は観音杉。右は境内下部に下りる石段。光堂は、敷地も意外に広く、見所も多いので、時間の余裕をもって見学を。

観音杉 光堂の石段

大同二年

余談ですが、室町後期と和本の建立年である大同2年(807)との食いちがいが気になってネット検索してみると・・・。
<日本を変えた大同二年の謎> というおもしろそうな記事が見つかりました。

記事によれば、大同二年建立と呼ばれるものが全国に数多くあるそうです。大同年間にいったい何があったのでしょうか。
結論的には、密教を携えて中国から日本に帰国しようとした空海が言った言葉に端を発しているらしいのです。
それは、「少僧、大同二年をもって我が本国に帰る」。詳細は、上記リンクでどうぞ。

飛騨内匠

もうひとつ、大同2年(807)が誇張的な言い方とすれば、付随して言及されている「飛騨内匠」とはなんでしょう。

奈良時代、大宝律令が定められ、ようやく法治国家となりつつあった日本に、税の制度が導入されました。
ところが、山地で農耕がままならず、特産品もない飛騨の国は、全国でも最低ランクのしもじもの国とされてしまいます。
税を免除してもらう代わりに、都において宮殿の建物や寺院等の建築工事をする労働者を提供することになったわけです。

これが「飛騨匠」と呼ばれる人びとであり、その匠の元祖には、止利仏師がいます。
止利仏師(鞍作止利)は、聖徳太子の命を受け、法隆寺の釈迦三尊像をはじめ多くの仏像をつくりました。

和本に記されている「飛騨内匠」は、木鶴大明神とも呼ばれ、飛騨の匠の神様とされる人物です。
何時ごろの時代の人物なのかは不詳ですが、正徳5年(1715)井沢長秀著の「広益俗語弁」に説話が残っています。

いずれにせよ、和本にも「大同2年飛騨内匠の作と承り候」となっており、それらは風聞の域というところでしょうか。

四番長楽寺

長楽寺は、〒270-1327 千葉県印西市大森2034 Tel: 0476-42-2302

道路から少し参道の細い道を進むと長楽寺の入口。その木の根元には小型の道祖神の石祠がいっぱい。
この先を進んで左手方向に六阿弥陀四番の石塔があります。しかし、かんたんには見つけにくい場所でした。

長楽寺入口 長楽寺入口

また、いろいろ見てまわろうとするその前に、ちょっとしたハプニングというか、奇妙な声を聞きました。

長楽寺の番犬

左は、境内で飼われている番犬。
しきりにタヌポンに吠え掛かるのですが、
その声がかれていて人間が咳をしているように聞こえます。
なんかちょっと可哀想な声です。あまり吼えるので、
声帯をそのように処置されたのでしょうか。

しかし、何度か境内を往復しているうちに吠えなくなりました。
ときどきタヌポンのほうをちらっと横目で見ています。
ヘンなやつだなあ、と思っているのでしょうね。
またこんど訪れてみたくなりました。

いつかまた会いたいね・・・。

四番長楽寺 挿絵

弥なか今 この世てたねを まけたはた 四かも仏花に ミのるうれしさ

(皆が今 この世で種を まけ田畑 しかも仏花に 実るうれしさ)

大森 挿絵

白井へ2里 木下シへ1里

四番長楽寺

[和本本文口語訳]

程なくして 鹿黒村 に出て、四番は大森の長楽寺へ。境内の 千手観世音 は慈覚大師の作とか。


[タヌポン補足]

鹿黒村

泉倉寺の北東。

千手観世音

後述。

六阿弥陀第四番の石塔は、本堂の正面の道を奥に進んだ先。
道の脇の樹木の陰にひっそりと立っていました。
そのさらに奥には、笠木と島木が朽ちた稲荷神社の鳥居。
これらは、「寺」から見放されたものの集まりのような・・・。

稲荷神社

本堂と梵鐘

四番長楽寺

左は、入口を進んで右手にある本堂。
ここには、千葉県の有形文化財に指定されている、
応安2年(1369)の銘をもつ梵鐘が安置されています。(左下)
ご住職に頼んで見せていただきました。

住職に会ったのなら六阿弥陀石塔の場所もカンタンに、
と思うかも知れませんが、お会いしたのは探し当ててからのこと。

だからこそ、梵鐘のことも聞き、撮影もできたわけです。
六阿弥陀石塔のことはとくに話しませんでした。

梵鐘のことは本コンテンツテーマとは無関係ですが、
長楽寺とご住職に敬意を表してここに掲載します。

長楽寺梵鐘 梵鐘の解説

晩鐘

晩鐘

印西八景のひとつとなっている晩鐘。
確かにこれ自体を鑑賞するのもいいですが、
鐘楼に登ることができれば眺めもいいかも知れませんね。

これも、六阿弥陀詣とは無関係ですが、紹介します。
和本作成当時にこれが存在していたとしたら、
次の千手観世音のすぐ近くですので、
なんらかの記述があってもよさそうなのですが・・・。

千手観世音

晩鐘の左隣にもうひとつ建物があります。どうも観音様を祀ってあるようです。
千手観世音の名が記されていると思えば、堂の入口の額には長寿観世音と書かれてもいます。

香炉 長寿観世音
千手観世音

堂の中を覗くと・・・小さい観音像が・・・。
確かに千手観世音のようですね。
これが慈覚大師の作なのでしょうか。

ちなみに、慈覚大師(じかくだいし)とは、
円仁(えんにん)のことで第3代天台座主。
延暦13年(794)生まれですからかなり古い時代。
和本のこの記述もちょっとあやしい感じです。

五番三宝院

三宝院は、〒270-1325 千葉県印西市竹袋155 Tel: 0476-42-0899 下は三宝院の正門。
敷地は広そうで、ここを探すのはたいへんそうだと思いました。実際に、正攻法では・・・。

三宝院門 三宝院門

五番三宝院 挿絵

陀くさんに となへしくちの このしたや 五つともなしに ひらくれんたい

(たくさんに 唱えし口の この舌や いつともなしに 開く蓮台)

きおろし川岸 挿絵

成田4里半 滑川5里 安波7里 佐原9里 香取10里 鹿島10里 息栖12里 銚子18里

五番三宝院

[和本本文口語訳]

ここ(長楽寺)より 古新田 の山路へ向かい、松露や蕨など採って土産とし、別所村の地蔵堂 から五番竹袋の三宝院に詣でます。稲荷山 を下って 狢池(むじないけ) など見て、銚子街道の 木下河岸 で酒肴を取り揃え、折から三社詣で帰りの江戸の風流人らが 圦樋口(いりひぐち) から同船し、順風に帆をあげ、おのおの数杯酌み交わし、酔いも増せば謡小唄に三味肴も出ます。はさみ堤の内川から燕(つばくろ)口 の沖を過ぎると、そこは渺々たる坂東太郎利根川。渦まく水がものすごいのですが、なんとか無難に布川の下の 天地という洲 に着きました。茶店に腰掛けてあたりを見回しますと、北は、開闢以来の筑波山、坤(ひつじさる=南西)に富士の山で江戸の都のかたもなつかしく、乾(いぬい=北西)は日光山、険しい秩父や箱根の山々、向うは六軒、相嶋、中の口も遠く離れて、川下は成田、滑川、阿波、息栖、鹿嶋、香取と未訪問地は多いのですけれど、これらはまたの機会にということで。


[タヌポン補足]

古新田

鹿黒の東。

五番三宝院

この五番の石塔は三宝院の正門ではなく、奥の山門の入口に建てられています。
左の写真は、横から撮ったもの。記されている文字は、表題にある和本の短歌。
すなわち、「陀くさんに となへしくちの このしたや 五つともなしに ひらくれんたい」

このヒントがなければとうてい判読不能です。とすると・・・。
六阿弥陀の石塔はすべて、向かって左側面は和本の短歌が記されているのかも。
後日、調べてみたいところですが、樹木の陰になっているのもあるんですよね・・・。

五番三宝院

境内のなかばかりを探していると、ときには途方に暮れることもあります。実際、日も暮れたりします。

別所村の地蔵堂

地蔵堂への道標

三宝院の正門前に地蔵堂への標識がでています。
標識にそって訪ねたところが、以下の建物。

地図上では以下が地蔵堂と思われるのですが、
本堂には金竜山と記されています。
また、右隣りには熊野神社も併設されています。

和本での別所村の地蔵堂がどれを指しているのか、
ちょっと調査不足です。

以下は、奥に進んで行くと現れる建物を左から右に並べました。いずれにも金竜山と記されています。

金竜山 金竜山 金竜山
木造地蔵菩薩立像?

境内にありますが、これが、木造地蔵菩薩立像?それとも観音像?
すぐ隣りに千葉県指定重要文化財の案内看板が建てられているので、
この像が一見そうなのかとも思いますが、ちがうような気がします。
木造の重要文化財が雨ざらしでいいのかという懸念もありますね。
おそらくは、上記の建物内に安置されているのではないかと思います。

木造地蔵菩薩立像

熊野神社

上記、金竜山に隣接して建てられています。

熊野神社 熊野神社

竹袋稲荷神社

竹袋稲荷神社

三宝院の前の道を挟んで正面にある竹袋稲荷神社。

稲荷山

稲荷山とは、現在のこの神社付近をいうのでしょうか。

狢池(むじないけ)

現存していませんが、木下方面へ下る道を狢坂と呼んでいます。

木下河岸

木下は「きおろし」と読みます。現在も同名の地域、JR成田線の駅があります。

圦樋口(いりひぐち)・はさみ堤の内川から燕(つばくろ)口

不明。いずれも木下河岸の近辺と思われます。

天地という洲

現在の利根緑地運動公園付近。凧あげ大会 が行われるところ。

六番勢至堂

五番三宝院を巡ったあとは、利根川を渡り、再度、利根町に戻ってきます。そして、六番は布川横町。

六番勢至堂 挿絵

仏たいを めくりしまひし 亀井とや 六しん南無や 阿ミた仏こく

(仏体を 巡りしまひし 亀戸や 六塵南無や 阿弥陀仏国)

六番勢至堂

[和本本文口語訳]

柳宿 にかかり、六番は中宿の勢至堂に詣でます。


布川横町通り一帯を中宿と呼んでいますが、
ここに不動堂と並んで勢至堂が建っていたということです。
以下写真上は、不動堂裏手の中宿集会所。

現在は不動堂、正式には 如法院不動堂(布川不動尊) だけが
残されていて、その本堂前に六阿弥陀の石塔が立っています。

なお、柳宿 とは、中宿の南に位置。上柳宿・下柳宿地区 参照

中宿集会所 不動堂

以下は、如法院不動堂(布川不動尊)本堂前。右は、5月の祭礼時の写真です。

不動堂 不動堂祭礼時

以下は、如法院不動堂(布川不動尊) コンテンツに掲載しましたが、要旨を再掲します。

浅草睦会の六阿弥陀詣2

お堂に向っての背後のいちばん右上に、以下の小さな額が見つかりました。

六阿弥陀額

これは、壱番徳満寺の項目にもありましたね。
浅草睦会の六阿弥陀詣 の額の続編です。
同じ大正15年3月22日付となっています。
同日に六阿弥陀詣をし、この地に寄ったときのものですね。

ところで、そこには、「布川横町 不動至勢堂」と記されています。
なるほど、大正15年(1926)にはまだ勢至堂はあったのだな、
なんて思ったのですが・・・。あれっ???

そうですね。勢至堂と至勢堂。
これはまちがったのでしょうか。
それともこういう言葉遊びなのでしょうか。

また、ここには歌が詠まれています。

ぶったいを まもり志まひし 北相馬 ろくちんなむや あみだぶつこく

これはすなわち、以下ですが・・・。

仏体を 守りしまいし 北相馬 六塵南無や 阿弥陀仏国

この項目冒頭で紹介した歌(以下)と少しちがいますね。でも、明らかにこれをもじったものですね。

仏体を 巡りしまいし 亀戸や 六塵南無や 阿弥陀仏国

六塵とは

ちょっと勉強: 六塵とは?

六境ともいいます。色・声・香・味・触・法の六境で、心を汚し煩悩を起こさせる境地のこと。

三省堂 大辞林では、六境を、以下のように説明しています。

【六境】〔仏〕 認識判断を行う眼・耳・鼻・舌・身・意のそれぞれの対象となる六つの領域。すなわち、色境・声境・香境・味境・触境・法境の六つ。心の清浄を汚すことから六塵(ろくじん)ともいう。六つの塵(ちり)。六賊。

余談ですが・・・大正15年(1926)には、すでに東京・銀座・資生堂はありますね(1872「資生堂薬局」として創業)。
浅草の人たちですから、セイシ堂をシセイ堂とまちがえた?

納経所来見寺

来見寺は、〒300-1622 茨城県北相馬郡利根町布川3080 Tel: 0297-68-2558

納経所来見寺 挿絵

元木より まいりしすゑは この寺の むつの阿ミたの くわんゐしくとく

(元木より まいりし末は この寺の 六つの阿弥陀の 願以此功徳)

納経所来見寺

[和本本文口語訳]

同じく納経所来見寺は豊嶋頼継侯の草創で、寺宝も多いとか。山門の額 は唐の僧心越禅師の筆跡。左右には修善場枯木堂。阿弥陀経碑があり、なかでも 御松替の梅 というのは、畏れ多くも東照神君家康公が再度御旅館されたことによって、御朱印地とともに賜れたと承りました。


星野一楽が中心となって奉納したという、
「阿弥陀経」を彫ったおおきな石碑。
これゆえに、ここが「納経所」と呼ばれることになりました。

碑のタイトル部分に何が記されているか、ですが、
何のことはありません。以下です。

陀 阿 南
仏 弥 無

[タヌポン補足]

願以此功徳(がんいしくどく)

願わくはこの(経文の)功徳をもって、と解することができます。
辞書によれば、代表的な回向文(えこうもん)のひとつ。
つまり、仏事を行った功徳を己だけのものにすることなく、
他の人々にめぐらし、分かち与えるための文のひとつ。
読経の最後に唱えるところから、物事の終わりの意にも用います。

山門の額

山門の額

右は来見寺山門にある扁額。
瑞龍山は、来見寺の山号。
これが、心越禅師の筆によるものでしょうか。


修善場・枯木堂

不明。

御松替の梅

御松替の梅

利根町布川の来見寺にたびたび訪れていた徳川家康。
当時、来見寺境内にあった松が気に入り、
それをもらうかわりに与えたというのが松替の梅。

現在の梅は、無論、当時のものではなく、
何代か経た「子孫の梅」が残っているというわけです。(左写真)

「阿弥陀経」を彫った石碑横、本堂に向かって左手前にあります。

来見寺「松替の梅」 参照。

木余如来無量寺

無量寺は、本堂が戦後まもなく焼失して廃寺に。近くにあった沼も最近、埋められて、現在は墓地となっています。
石塔は墓地入口左すぐで見つけやすいのですが、難点は敷地の境界にあるため、柵が邪魔をして撮影が困難なことです。
文字数も他の塔より多いこともあって下部が見えづらく、こういうのは困るなあ、という思いですが仕方ありません。

木余無量寺 挿絵

法のふね かよふも夢の 世の中や 無量寿福の 海をわたらん

木余如来無量寺

[和本本文口語訳]

馬場東宿 を通り、中道田んぼより見渡すと、羽中村の 応順寺 の御堂は見上げて高く、稲荷山 の松の枝も垂れてとても趣があります。福ノ木村を過ぎて、中谷の木余り如来の無量寺を詣でて寺宝を拝します。 は前の大僧正、雲臥 書とあります。向こうを見渡せば、布鎌の松嶋、平岡山。上り下りの船に唐人沼など筆舌に尽くしがたい絶景です。境内の 蓮池 の蛙の声も面白く、艮(北東)には 文間両社 の松や杉の古木がうっそうと繁り、乾(北西)には羽根野 諏訪神社 の森、続いて 早尾の天神山。北方、奥山、羽黒山 を見渡せます。


[タヌポン補足]

馬場・東宿

布川馬場、東地区。現布川神社近辺を指します。

応順寺

同名コンテンツ「応順寺」参照

稲荷山

応順寺北の 羽中の稲荷大明神 付近のことでしょうか。
それとも、前述の 竹袋稲荷神社 近辺を指すのでしょうか。
前者と考えるのが妥当とは思いますが・・・。

木余如来無量寺

木余(きあまり)とは、仏像を彫った木の残りの先端部分のこと。
それで如来を作ったものと思われます。写真は「木餘」。

無量寺および無量寺の沼に関しては、「無量寺」 を参照。

額・雲臥

無量寺は、現在、廃寺となっています。
したがって、額等の所在がどうなったのか不明です。

境内の蓮池

無量寺の沼のことを指すのでしょうか。
沼は現在は埋められて存在していません。
(いい釣り場だったのに・・・)

文間両社・諏訪神社・早尾の天神山

文間両社とは文間大明神、蛟蝄神社門の宮蛟蝄神社奥の宮の両社を指しています。諏訪神社早尾天神社 参照。

羽黒山

まさか、出羽三山の羽黒山が見えるとは思えませんが・・・。
利根町羽根野の北に龍ヶ崎市羽黒町があり、そのあたりが当時は山になっていて、そう呼ばれていたかも知れません。

ところで、基本的なことですが、石塔は「六阿弥陀木餘如来」と彫られています。
では、その「木餘如来」の詳細は?これも火事によってすべて失われてしまったということでしょうか。

懺悔所念仏院

念仏院は、現在廃寺となっていますが、その跡地に供養塔が建てられ、泪塚と称されています。→ 泪塚 参照。

懺悔所念仏院 挿絵

からへば 量の罪も りぬべし 来この世を のむ念

(永らへば 無量の罪も ありぬべし 未来この世を たのむ念仏)

懺悔所念仏院

[和本本文口語訳]

中田切(なかたぎり)から野道に出ると、だれもが風流心を覚えて、歌を口ずさみ、遠景の花を愛で、旅の疲れも忘れます。押付新田の懺悔所念仏院では 古い碑 のいわれをうかがいました。


表題の句はとても面白いですね。
南無阿弥陀仏 の文字をひとつずつ、当て字ですが、
句のなかに入れ込んで作っています。
しかも、分かりやすいように順番になっていますね。
こういう言葉遊びもしているのですね。(上記、朱色 の文字)

無量の文字があるので、
この前の無量寺の場合の歌でも、と思いました。
しかし、この句の「無量の罪」とは、
泪塚の事件の罪を比喩しているのではとも思いました。
それならば、歌の作者が意図した罪は、果たして、
冤罪の罪人の罪か、幕府の罪か。どちらでしょうか。

[タヌポン補足]

古い碑

供養塔そのものを指していると思われます。
古い碑のいわれとは、鶴殺し事件 のことでしょう。

簡単な記述にとどめてあるのは
江戸幕府の失態を思い測ったためでしょうね。

泪塚

懺悔所の石塔は、泪塚を訪れればすぐ分かります。
供養塔は、奥の祠の左後ろに建っています。

供養所瑞光寺

現在、瑞光寺は河川改修のため廃寺となっていますが、
祐天上人の名号石(みょうごうせき)は 押付本田(布川)の水神宮 に移され現存しています。
ちなみに、名号(みょうごう)とは、「南無阿弥陀仏」の念仏のことです。

供養所瑞光寺 挿絵

南(な)の字より めぐりてここに うち見れば 草木もうかぶ 仏嶋かな

枯草に 情の露やかりの宿 ミのりのゑんを 結ぶめでたさ

上記の下の句は後述「祐天」上人の供養塔銘文、右側面に彫られているものと同じです。

文巻川 挿絵

供養所瑞光寺

[和本本文口語訳]

桃畑を過ぎると、供養所の押付本田瑞光寺。参詣して、祐天大僧正の名号石を拝むと、六阿弥陀の由緒 が碑に刻まれています。各所の詠歌の額 は、江戸の甘斎翁の筆と承りました。前には 江蔵地 の納屋、後は 新川この土手を境として数十里は寛文年中(1661〜1670)に掘り割り、豊田村に堰 を作りました。以来、羽根野の陣屋前から続く川辺に松ノ木、上曾根、下曾根、その川下に下井、横須賀と続き、八枚橋 のほうを見渡せば立崎までは一里余り、新川 は用水を満々とたたえ、村々に分水しています。数万の民家は喜んで耕作を営んでいます。これはまさに大事なことです。この水上は小貝川の下流、名にし負う文巻川で、戸田井の渡しがあります。古歌に「水茎のかき流せどもながれぬは文巻川といへばなるべし」とあり、千年も変わらぬ歌枕、めでたい御世の行く末も広々と、いま花咲く季節に巡る六阿弥陀。春の夕日のように長い新堤を築き、後の世に贈る供養塚。生きとし生けるものすべての幸せと平和を願うこの身ですが、これも思えば去年の枯れ草の情の露、仮の宿です。この地で川々が落ち合い、波も皺を合わせて下利根川一筋に合流するという睦まじさ。まことに、仏像出現の仏嶋と呼ぶとか。今回一緒に巡拝する人びとは、子孫繁栄、そして長寿、現世の安穏と後世の福徳円満は疑いなしです。これもひとえに弥陀の誓願と承り、いよいよ信心を厚くし、ここに筆をおきます。

八枚橋

[タヌポン補足]

六阿弥陀の由緒

後述

各所の詠歌の額

廃寺となった瑞光寺のものでしょうか。
現存されているかどうか不明。

江蔵地

利根川を挟んで向こう岸、我孫子市江蔵地。
蝦夷からきた人たちが住んだ町といわれています。

八枚橋

千葉龍ヶ崎線が新利根川に架かる橋(左写真)。
クルマの往来が激しく当時の俤は、
わずかに橋から見る新利根川の流れぐらいでしょうか。

新川

豊田南用水路か新利根川かどちらかでしょう。

豊田村に堰

これが、元祖の豊田堰ですね。現在は新しく築造されています。小貝川と豊田堰(豊田堰と北浦川水門) 参照

六阿弥陀供養塔銘文

供養塔銘文

南無阿弥陀仏の文字の下に小さく
「祐天」の名と花押が彫られています。(左参照)

また、この右側面には、以下の句が彫られています。

枯れ草に 情の露や かりの宿
みのりの縁を 結ぶめでたさ

左側面には、杉野東山書で供養塔建立の由緒が記されています。
以下、その口語訳を、利根町史第5巻より転載します。

六阿弥陀供養塔の銘と叙
上毛国・高雋(こうせん)庶傑の文
東山杉野利恭(としゆき)の書

念仏三昧とは思専想寂(しせんそうじゃく)のことである。思い専なれば心は一つになって撓(たわ)まず、想寂なれば悩みは空になって朗らかになる。故に、この功徳高く進み易い念仏を先ずするのである。ここに貞信の人があって星野一楽という。下総布川の人で、その性格は無欲でおだやか、もってこの道を楽しんでいる。自ら楽しむだけでなく人も楽しませている。文政6年(1823)病気にかかり命もあわやと思われたとき、不思議な夢をみて、洸然と悟り回復した。以来いよいよ信心に励み大願をたてた。郷人(さとびと)も喜び、弥陀の御名を百億万遍となえ、ともにはかって近村に六阿弥陀を安置し、碑(いしぶみ)を建てこれを諸々に伝えることになった。これはその銘である。 卜(ぼく)して相馬の地を霊跡とするに、無礙光(むげこう)があたりにみち、微風は音楽を奏で、かの霊鳥 迦陵頻迦(かりょうびんが) もうっとりと羽を止めるだろう。
文政10年(1827)10月19日 建

[タヌポン補足]

卜(ぼく)

占うこと。

迦陵頻迦(かりょうびんが)

極楽浄土に住むという架空の鳥。美しい女性の顔で、妙なる声でさえずるという空想上の霊鳥。

さて、この 押付本田(布川)の水神宮 の環境も変化しつつあります。名号石もまた移動する可能性も・・・。


(11/02/19 追記再構成) (10/02/11・10/01/29・07/05/08 追記) (05/11/05)
(撮影 11/01/28・10/02/20・06/09/02・05/11/17・05/10/09・05/10/28・05/11/04・05/10/28・05/10/09・05/09/19・05/09/17・05/09/10・05/08/20・05/06/12・05/05/28・05/03/27・05/03/19・05/03/13)