タヌポンの利根ぽんぽ行 沼薬師如来と上曽根集会所

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目  次



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当コンテンツは、旧「上曽根地区」コンテンツを2分して再構成したもののひとつです。
もうひとつのコンテンツは「上曽根の稲荷大明神」ですが、
全体の内容が追記等で増えたこともありますが、分離させた最も大きな理由のひとつに、
このコンテンツでの「沼薬師如来」という言葉の発見があります。
当初は、これを単なる「上曽根の薬師堂」として紹介していました。

この「上曽根の薬師堂」が、「沼薬師如来」と呼ばれる伝説をもっていることを
ある本で偶然、知ることができました。
ところが、発見はそれだけではなかったのです。

あの著名なTBS放送の「まんが日本昔ばなし」に「沼薬師如来」がある?

また、沼薬師如来・集会所の背後に「上曽根共同墓地」があり、
その探索を後回しにしていましたが、ここには大野以兄など文化人の墓碑が・・・。

2014年初夏に、再訪問し、石仏関連の追加調査をしました。
新たに判明したことも数多くありました。しかし、まだ宿題は残されています。
解読できない文字や、もっと碑表等を磨けば分かることもありそうです。
とりあえず3日ほどかけて追加撮影し、文字の誤読修正等を以下の項目で行ないました。
「入口石塔と上曽根集会所〜上曽根共同墓地の石仏群」を追記。(2014/06/21)。


利根町西部マップ

上曽根の薬師堂

薬師堂

薬師堂

散歩の途中、集会所の中に
左の建物を見つけたのが最初でした。

流造りですが、鳥居も額もなく、
鈴も鰐口もありません。
見た感じでは、
神社の拝殿・本殿というより、
仏教関係のお堂のような気がします。

あとで地図と町史を調べると、
「薬師堂」であることが分かりました。
ただし、単なる「薬師堂」の名です。

1ヵ所だけ格子が破られたところ、
おそらく賽銭を入れるための
桟の隙間から覗いてみると・・・。

薬師如来と十二神将

薬師如来と十二神将

左は桟の隙間から最初に撮ったお堂の内部の写真。
ミニチュアの神像みたいなものがいくつか飾られています。
中央には厨子の扉が・・・。この時は閉じられていました。
何が保管されているのでしょうか?

左右の像は6体ずつで、全部で12体。とすれば、
これは「薬師如来を信仰する者を守護するという十二神将」
をあらわすものであることはまちがいないように思います
琴平神社:十二神将 参照)。したがって真ん中の厨子の中には
おそらく「薬師如来像」が安置されているのではないか。
と想像しましたが、果たしてどうでしょうか?

薬師三尊像

薬師三尊像と十二神将

2012年にコンテンツ再構成を機に、
もう一度、桟の隙間から、見てみると、
なんと中央の扉が開かれています。
中には2種類の仏像が・・・。

薬師如来は、
眷属の十二神将のほかに、
脇侍として日光菩薩・月光菩薩を従え
いわゆる「薬師三尊像」となります。

向かって左が日光菩薩、
右が月光菩薩で、左写真では、
日光菩薩が見えないようですね。

ともかくも、これらの像が
安置されているということは、
ここが「薬師堂」である、
と断定できるということですね。

後述する「利根町の昔ばなし」では、この十二神将の話も出てきます。また、町史には、薬師堂の本尊として、
「薬師瑠璃光如来」脇侍及十二神将あり、と表記されています。この「瑠璃光」という言葉に注目してください。
「薬師瑠璃光如来」とは薬師如来の正式名称なのですが、これも「利根町の昔ばなし」に・・・。

木鼻

木鼻

左は、薬師堂の柱に彫刻されている木鼻。
なかなか精緻なつくりです。左右にあります。

沼薬師如来

「利根町の昔ばなし」という本があります。
これは、高塚馨氏の著作で、崙書房から昭和53年(1978)4月に発行されています。
高塚馨氏は、利根町の小学校教諭を歴任されてこられた方です。
この著作のなかには、北相馬郡志に掲載されている逸話と、
高塚氏が独自に取材されたものを含めて、17話の伝説が紹介されています。

そのなかのひとつに、「沼薬師如来(上曽根)」という物語を見つけました。
上曽根にはほかに薬師は見当たらず、当コンテンツの薬師は、まさしくこの「沼薬師如来」と言えそうです。
この話は、当時96歳の上曽根の長老に高塚氏が直接取材されたものです。以下、物語のあらすじを紹介します。

「利根町の昔ばなし」の「沼薬師如来」伝説

この伝説は、読んでみると、大きく3つの話に分けられます。まずはそのひとつ。

(1)文明元年(1469)のころ、上曽根の南には利根川続きの大きな沼がありました。
[タヌポン注→ 文明元年・・・昔ばなしというにはあまりにも具体的な年代表記ですね。なにか文献など残っているのでしょうか?]
その沼が突然、「ごうごう」と波鳴りがし、また、黄金の光を発し、夜でも昼のように明るく輝きだしました。

村人は、神の怒りかとびっくりし、神主に祈祷してもらうと、
「沼の中に長い間、薬師如来様が埋まっており、おかに上がりたいのだ」

そこで、村人たちはとりあえず「御堂」を建ててあげようと一生懸命働きました。
そして御堂は建ちましたが、こんどは如来様を上に引き上げなければなりません。
しかし、沼は深く、泥がたまっているし、薬師様の位置も分からず、一筋縄にはいきそうもありません。

村人たちはどうしたらいいか話し合いましたが、いい知恵も浮かびません。その日は休もうということにしたのですが、
夜、名主の権左衛門が寝ていると、枕元に白髪の老人が現れて、
「御堂を造ってくれて感謝する。あすは引き上げてくれるそうだが心配はいらない。われらのほうから御堂にはいる」

翌朝、権左衛門はいち早く起きて、御堂へいくと・・・。昨夜の夢のお告げどおり。
薬師如来をはじめ、脇侍の日光菩薩・月光菩薩や眷属の十二神将まで、ことごとく入室されています。

信じられなかったほかの村人も、御堂のなかを見て、地面に頭をすりつけるようにして伏して拝みました。
この噂は、たちまち近隣から遠方まで伝わり、参詣客はわんさと押しかけてきました。

ふたつめは、上記から「あれから2百数十年経った」あとの続編としての話なのですが、
ここでも具体的な年号が記されていて、それは前記の文明元年(1469)から100年しか経過していない年。
ちょっと矛盾しているのですが、さらに、西暦と和暦元号の整合性がとれていません。
いずれもおそらく誤植など単純な間違いと思いますし、まあ物語の内容には影響しないので問題ありません。
タヌポンの興味は、誤謬のことより、昔ばなしにこのような具体的年号が付いているその根拠です。では本題に・・・。

(2)あれから・・・年経った天正1年(1573)のころ、
[タヌポン注→天正1年(1573)は原文ママ。ちなみに天正元年は1582年、1573年は元亀4年]
あの時の御堂も、何度かの修理を重ねてきましたが、どうにもならないほどにいたんできました。

そんなとき、村の人びとは、同時に奇怪な夢を見ます。

「12歳くらいのぼろぼろの着物を着た小僧が枕元にきて・・・」
「そうそう、それで、この向こうの大沼に、数十年も水に埋もれている大木がある」
「それを引き上げて、薬師堂を再建するようにと・・・」
聞いてみると、村人全員が同じ夢を見たことが分かりました。

「あれは、きっと薬師如来様の分身にちがいない」
ということで、背丈の倍もあるような葦の林をかき分けて、苦労しながらその場所へ。

すると、夢の小僧の言ったとおりの大木が泥に埋まっていました。
しかし、その大木は30人の大人がみんなで押しても引いてもビクともしません。

「まあ、とにかく、ひと休みすべや」
とそのとき、突然、大風が吹き、みんなは「あっ」といったまま気を失ってしまいます。
そして、気が付くと、大木と一緒に村人たちは、薬師堂の前まで運ばれていたのでした。

村人たちは、その木を切り刻み、立派な御堂を再建しました。それが、数年前まで立っていた薬師堂と言われています。

上記2話は、前編・後編という感じですが、もうひとつは、まったく次元のちがう挿話として紹介されています。

(3)布川の城主だった豊島紀伊守の奥方様が、病気で両目が見えなくなってしまいました。

薬師如来様を信じていた奥方様は、17日の間、ここに参籠(神社・仏閣にこもって祈ること)したところ、
最終の夜、白髪の老人が姿を現わし、瑠璃の壷をもち頭上に何度か持ち上げたかと思うと、姿を消してしまいました。
しかしこのとき、奥方様の両眼ははっきりと開いていたのでした。

以上3話の締めくくりとして、以下のように記述されています。

(まとめ)この薬師如来のことを沼から現れ出たというので、沼薬師様と地元の人は呼んでいます。
なお、昔あったという沼のことを、薬師沼とか瑠璃とか呼んでいたそうです。

薬師如来をはじめ、脇侍の日光菩薩・月光菩薩や眷属の十二神将まで、ことごとく入室されたとか、
瑠璃池という沼が昔、存在していた、といったことは、現在の「上曽根の薬師堂」の状況にぴったりです。
ここが、「沼薬師如来」だったのですね。

瑠璃池が、現在のどの地点にあったとかも知りたいところですが、
写真に撮った薬師堂のなかの薬師如来をはじめとした仏像は、実際は、どういう経路で安置されたのかも気になります。
材質などの文化的価値や、提供者・制作者・制作時とか安置された日時等々・・・。
えっ、伝説どおり?うーん、それはそれと割り切りたいところですが・・・。でも、やっぱり、知らぬが花、なんでしょうかね。

「まんが日本昔ばなし」と沼薬師如来

上記の「発見」とほぼ時を同じくして、次のようなことが分かりました。
「沼薬師如来」が、あのTBSの「まんが日本昔ばなし」の1話として採用されていたらしいのです。

「まんが日本昔ばなし」とは・・・

1975年(昭和50年)に開始。毎回日本各地に伝わる昔話が映像化され、市原悦子と常田富士男の両名が一人で何役もの声を使い分ける独特の語りによって紹介する。『クイズダービー』、『8時だョ!全員集合』、『Gメン’75』などとともに1970年代、1980年代のTBS系の土曜夜を高視聴率で支えた。(Wikipediaより抜粋引用)

▼ただし、TBS(および直接の著作権をもつMBS関係各社)は、「まんが日本昔ばなし」に関して、
自社で発行するDVDや著作物以外に関して、一切の取材や問い合わせに応じていません。
いちいち民間人に応えていたらきりがないとは思いますが、氷のように冷たい、にべもない横柄な対応でした(笑)。
こういうところは、さる筋からの問い合わせだと180度コロッと変わ・・・おっと余計な話。

▼ま、正攻法ではなにも情報は得られないのは仕方ないとして、調べたら以下のことが分かりました。
詳細は不明なのですが、茨城県の出典で「沼薬師如来」と題して、1982年9月18日に放映しています。

▼ただ、現代は、Youtubeなどで、違法な掲載がされていて、図らずもタヌポンはそれを見てしまいました。
すると、第一印象では、上記の「利根町の昔ばなし」の内容とはそうとう異なったストーリーに思えました。
しかし、最後まで見た感想では、さきほどの3つの話をうまく組み合わせて、脚色したものにちがいないと。

▼茨城県のほかの地区で、同様に「沼薬師如来」と呼ばれる薬師様がある可能性がないとは言えませんが、
タヌポンは、この「利根町の昔ばなし」の本が「まんが日本昔ばなし」の出典であると確信しています。
「利根町の昔ばなし」の刊行が1978年であることもタイミングはピッタリです。そして・・・。
その証拠と呼べるネタを実はもうひとつ発見しているのです。
その話は、また別の機会に別のコンテンツで紹介する、かも知れません。

▼追伸1:放映された画面等、ここにデザイン的に掲載したいのですが、これは「違法」なので、できないのが残念です。
50年経てばいいんでしたっけ?著作権・肖像権等はいろいろ細かくてむずかしいですね。

▼追伸2:「利根町の昔ばなし」の作者、高塚馨氏は、現在、傘寿を超えておられますがご健在と聞きました。
タヌポンがバイクで訊ねられるなところにお住まいのようです。さて、どうしたものやら・・・。

入口石塔と上曽根集会所

道路沿いの3基の石塔

薬師堂・集会所に入る手前の路傍に
石塔などがいくつか並んでいます。

それぞれはとくに脈絡はなく、
「沼薬師如来」との関連性も
薄いと思われます。

馬頭觀音

馬頭観世音 馬頭観世音塔左側面

中央「馬頭觀世音」の左右には、
慶應三卯年」と「十月十日」、
慶応3年(1867)10月10日の建立です。
馬頭觀世音は、以下参照。
羽中の馬頭観世音

大切にしていた「馬」の供養が一般ですが、
文字の上に彫られているのは
まさしく「馬の頭」です。

施主でしょうか、左側面は「勝村權右エ門」。

本体: 高78cm、幅27cm、厚16cm。

道祖神1

向かって左の背の高いほうの石祠。中央に「道祖神」とあります。

道祖神1 道祖神1右側面 道祖神1左側面

写真中央は右側面で「文化六巳九月吉日 村講中」、文化6年(1809)9月の造立です。
写真右は左側面下部で、「願主 圓□□ 伊左エ門」と最初の僧侶らしき人名の下部1もしくは2文字が読めません。

本体: 高55cm、幅32cm、厚26cm。

道祖神2

道祖神2 道祖神2左側面

背の低い石祠も「道祖神」。
左側面には「天保十㐪九月吉日」、
天保10年(1839)9月の造立、
㐪は、亥の異体字です。

よく思うことですが、宅地開発等々で、
石仏が移動することは多々あると思います。
そんなとき、移動記録というのは、
だれが管理するものなのでしょうか。
だれかが記録を残しておかないと、
いつかはまるで分からなくなるでしょうね。

本体: 高43cm、幅28cm、厚24cm。

上曽根集会所

下は入口正面にある集会所の建物。ここの看板は、珍しく昔風に、右から、「所会集根曽上」のように書かれています。
年配の書の達人が揮毫されたのかも。それとも、そうとうな年代モノ?でも曽の字は、「曾」ではないから・・・。

集会所 集会所看板

境内の石仏

入口の地蔵

集会所の敷地なのか、
薬師堂の境内と呼んでいいのか
分かりませんが、
入って左側、道路に背を向けて、
いくつかの石仏が建てられています。

いずれも、風化していて、
文字等はほとんど読めません。

と、当初記しましたが、
それから何年か後、
2014年に少し精密に調査。
初夏で雑草に悩まされましたが・・・。

十六夜塔1

入口の地蔵 入口の地蔵と台石

最初はこんな様子で、お地蔵様、
ということしか分かりませんでした。
夏場に来ると、とにかく暑いし、
雑草等でつい探索も疎かになります。

今回、まあせっかくの再調査だからと、
立像の足もとの樹木をかき分けてみました。
そして台石の左側面を封鎖していた石も、
ダメ元で取りのけてみると・・・。

なんと・・・!

台石左側面

中央に「奉納十六夜供養佛」、
その左右に「享保五庚子年 十月吉日
上曽根村」「願主 空□□ 西□□」等の文字が・・・。

享保5年(1720)10月建立の十六夜塔と判明しました。
見てみるものですね。
その他の面も調べるとさらに何か分かるかも知れません。
また、もっと下を掘り下げれば願主の名も・・・、
と思いますが、今回はこれでご容赦を。

本体: 高138cm、幅47cm、厚47cm。
台石: 高40cm、幅37cm、厚38cm。

手水

観音塔2基の前にある古い手水石。普通前面に「奉納」等あるのですが、これは最初からないのか、摩耗したのかも不明。
当初は最初から諦めてよく見なかったのですが、左側面をよく見ると・・・。「夏四月」「當村 鈴木甚兵エ」が見えました。
ただ個人名はこの時代は代々受け継がれているようなので建立年の見当はつけられません。鈴木甚兵エさんは他にも…。

手水 手水左側面

十九夜塔1

十九夜塔1 十九夜塔1左側面

地蔵の右隣りの観音塔。
上部を拡大した下左写真で分かるように、
奉待十九夜」と刻まれています。

十九夜塔は如意輪観音が多いのですが、
幕末頃には子安観音へと変化していく場合も見られます。
この場合も赤子を抱いているので、
子安観音・子育観音と呼ばれる像でしょう。

左側面で「天保四年歳癸巳三月吉日
すなわち幕末の天保4年(1833)3月建立が分かります。

本体: 高70cm、幅41cm、厚27cm。
台石: 高17cm、幅46cm、厚45cm。

問題は下右写真。台石部分ですが、単純に読めば右から「上蜩」となるわけですが・・・。
布川に上柳という地名はあるのですが、この場合、どうなのでしょう。「上」の文字の下に何か別の文字が見えます。
もう少し台石を下に掘り起こしてみなければなんとも言えません。うーーん、また宿題ですねえ。

十九夜塔1上部拡大 十九夜塔1下部拡大

十六夜塔2

これも、建立日等々文字関係が読みづらい石仏。刻像されているのはよく見かける「半跏座思惟型」の如意輪観音像です。
上部を濡れ雑巾で拭いたりしてやっと文字が判読できました。右上に「奉造立十六夜念佛供養二世安楽所」。
左上は「延宝二甲辰天十月十六日」で、延宝2年(1674)10月16日の造立。『利根町史』記載の塔はまさにこれでした。

十六夜塔2 十六夜塔2左上拡大 十六夜塔2右上拡大

本体: 高111cm、幅63cm、厚23cm。

四郡大師57番

四郡大師

薬師堂の右横にあるのが大師堂。
いちおう下の写真で分かるように、
57番の札所番号が
中央〜左肩に付いています。

でも、堂のなかが3分割されていて、
3体の大師像が安置されているほか、
札所番号については少し
考えさせられる面があります。

57番札

3堂3額3大師の謎

3種類の額

いままで、各地の四郡大師堂を見て周りましたが、各所で、
ひとつの堂に2体以上の大師像が安置されているのを見ました。

しかし、この上曽根の大師堂は、ひとつの堂になっていますが、
内部が3つに仕切られ、大師像も1体ずつ分離されています。
そして面白いことに、それぞれに額が掲げられているのです。

この額は、実は、いままで各地で見てきたことから判断すると、
「札所番号と連動した御詠歌」が記されたものと言えます。
ということは、57番の札所番号のみしか掲載されていないのに、
別の番号の御詠歌も記されている、ということになります。

果たしてほんとうにそのようになっているのでしょうか。

さて、以下が問題の3つの額ですが、実を言うと、いずれも文字がかすれていてほとんど読めません。
いちばん右の写真は、それでも2005年3月に撮ったもので、断片的に数文字は判読できるかも知れません。
暑かった2004年の夏をそのまま残しているかのように、なおもセミの抜け殻が2つ、くっ付いていました。
真ん中の額に至っては、1文字も判別できません。左の額も実は大差なく、ほとんど読めません。
さて、どうしたらいいでしょう。(便宜上、直下に、当該大師像の写真を掲載しました)

左の額 中央の額 右の額

写真にあるように3つの小部屋に分かれていて、下の写真のようにそれぞれに大師像が1体ずつ安置されています。
いつもながらの疑問ですが、この3体がいずれも空海大師を指しているのかそうでないのかが分かりません。

左の大師像 中央の大師像 右の額3

左大師 本体: 高27cm、幅27cm、厚32cm。台石: 高15cm、幅36cm、厚36cm。
中大師 本体: 高32cm、幅28cm、厚17cm。台石: 高9cm、幅28cm、厚18cm。
右大師 本体: 高23cm、幅23cm、厚17cm。台石: 高11cm、幅23cm、厚18cm。

御詠歌逆引き判読

さて、額の御詠歌の判読について。

いちばん左の小堂には、57番の番号が付いています。それなら、まず、57番の御詠歌を調べてみましょう。

四国八十八ヶ所霊場:第57番札所 府頭山 無量寿院 栄福寺(愛媛県今治市玉川町八幡甲200)

御詠歌:この世には 弓矢を守る 八幡なり 来世は人を 救う弥陀仏

上記を頭に入れて、さきほどの額の文字をじっと見つめてみます。

なんと、これはまさしく同一です。「すくう弥陀仏」部分が分かりやすく、ここだけの一致でも、断定していいでしょう。
これは、ほぼ予期したとおりで、他の地区でも同様なことがありました。問題は残りの2つの額です。

さて、ここで、上記の札所番号と御詠歌に関連して、気になる石塔を大師堂の下で見つけました。それが以下。

札所塔(西国14番札所の石塔)

西国14番札所の石塔 西国14番札所の石塔

表には、「種子のサ」の下に「西國十四番」。右に「天明八戊申年」。天明8年(1788)の建立であることが分かります。
ところが、側面には、「玅能禅定尼 天明六午十(以下欠損)」とあり、2年前の天明6年(1786)が刻まれています。
こちらは女性の戒名のようですので、この日付は建立日ではなく亡くなった日付でしょうか。

四国巡礼遍路になぞらえたものであることはまちがいないでしょうが、問題はなぜこれがここにあるのか、です。
なぜ、西国14番なのか。なぜ、これを、ここ四郡大師57番札所のこの大師堂に置いたのか。

上記の疑問はとりあえず置いておいて、「14番」という札所番号に注目してみましょう。
これを、さきほどと同様、四国八十八ヶ所霊場に照らし合わせてみると・・・。

四国八十八ヶ所霊場:第14番札所 盛寿山 延命院 常楽寺(徳島県徳島市国府町延命606)

御詠歌:常楽の 岸にはいつか 到らまし 弘誓の船に 乗りおくれずば

・・・な、なんと!

堂のいちばん右上の額のかすれた文字のなかに、「・・・ぐぜいのふねに・・・」という文字が見えるではないですか!

ちなみに、「弘誓の船」とは、→ ぐぜいのふね【弘誓の船】(goo辞書):
仏語。衆生救済の誓いによって仏・菩薩が悟りの彼岸に導くことを、船が人を乗せて海を渡すのにたとえた語。誓いの船。

これで、右上の小堂は、少なくとも額部分では、「札所14番」を意識していることが判明しました。
これが果たして、四郡大師としての正式な14番札所なのかどうかは不明ですが、
厄介なことに、利根町内では、タヌポンは14番の札がかかった大師堂を見つけていません。おそらくないと思います。
もし、ここの大師堂が57番札所であると同時に14番札所でもあるとしたら、
もうひとつの、真ん中に掲げられた額の御詠歌がなんであるか、どうしても知りたくなりますね。
その結果によれば、1ヵ所に3つの札所が集まっているという奇怪なことになります。しかも見かけ上、1つの堂宇で。

しかし、中央の額内容判別のヒントは、いまのところどこにも見つかりません。手がかりはまったくナシです。
上曽根の人たちに尋ねてみる?うーーん、いままでの体験ではこれはそうかんたんには分からない気がしますが・・・。

読誦塔1

読誦塔1

堂の右下に2基建っているのはのは一見墓碑のように見えます。

近寄って調べてみると・・・。
左の塔は、「種子サ」の下に「奉讀誦普門品一万巻供羪塔」。

右には、「享和三亥十一月吉日」。左下に「上増根講中十九人」。
享和3年(1803)11月の建立。
上増根は、上曽根の間違いではないかと思いますが、
これも石工の遊び心でしょうか?音さえ合えばOK?

本体: 高74cm、幅28cm、厚18cm。

墓塔

墓塔

読誦塔の右は、中央に「先祖代々 最勝禪定門 妙歎禪定尼
という男女の戒名が見えます。墓碑関連ではないでしょうか。
左右には「天明六午天 十二月五日
天明6年(1786)は建立日と思われます。
最下部に、右から、「施主 江戸 千住 要七」とあります。

巡拝塔1(西国14番札所の石塔)の命日と年数が同じなので、
もしかすると何か関係があるのかも知れません。
江戸は千住の要七が、西国14番札所の石塔の施主でもある、とも考えられます。

本体: 高71cm、幅33cm、厚16cm。

上曽根共同墓地の石仏群

薬師堂などの背後は墓地となっているのですが、墓地の中心に向かう通路の脇に20数基の石仏が並べられています。
これらを1基ずつ撮影し、紹介しようと思ったのですが、全般的に風化が激しくほとんど文字が読み込めません。
ある程度、推測も加えて若干でも説明ができるものだけ、以下、個別に左から紹介します。

墓地の石仏群

読誦塔2

読誦塔2

まず字が読めるのは、左から3番目。
大地震のせいか、奥に倒れたらしい石塔です。

建立日等は分かりませんが、
「種子サ」の下に「普門品供養塔」と彫られています。
普門品(ふもんぼん)とは、法華経の第25品、
すなわち「観世音菩薩普門品」の略称です。

2014年再調査のときも倒れたままでした。
建立年が左右の側面にあるかどうかの確認のため、
結局、この塔を持ち上げて立たせることに。
これくらいならなんとか持ち上がります。

中央写真の左側面「安政二卯年十月吉日」安政2年(1855)10月の建立をまず確認し、次にその真裏の右側面を、
というところで、あれっ?ひっくり返すそんな苦労をするなら、ここでいっそ立ててしまえ、ということになりました。
右側面「願主鈴木五左エ門父 世話人鈴木忠右エ門」を確認。小石をかませておきましたが倒れないかな?

本体: 高74cm、幅30cm、厚16cm。

読誦塔2 読誦塔2左側面 読誦塔2右側面

4番目と5番目はいずれも「百番供養塔」と彫られています。
百番供養塔とは、西国・坂東・秩父の百観音巡拝を記念・供養のために建立したもので、「巡拝塔」の一種です。

巡拝塔1

巡拝塔1

中央に「百番供養塔」。
左右に、「文政十二年 丑十月日」。 即ち、文政12年(1829)10月の建立。

本体: 高63cm、幅30cm、厚18cm。

巡拝塔2

巡拝塔2

これには上部に「種子サ」が刻まれ、やはり「百番供養塔」と記されています。
左右には、「享和二戌年 十二月吉日」、つまり享和2年(1802)12月の建立。

下部には以下の写真のように、
鈴木甚兵衛 □ 同 宇右ヱ門」が見えます。
この名前は、上曽根地区では数多く見られます。

巡拝塔3下部拡大

本体:
高79cm、幅29cm、厚20cm。
台石:
高16cm、幅44cm、厚38cm。

十九夜塔2

十九夜塔2

上記の百番供養塔の2つ隣りの塔。
右上に「奉待十九夜講」とあるので十九夜塔ですが、
通例の如意輪観音ではなく、赤子を抱いているので子安観音です。

右に「同行十九人」、左上に「文政二卯 二月吉日」が読めます。
文政2年(1819)2月の建立。

左下には「女人世ハ人五□□□」とあり、女性の世話人が5名と思いますが、
その下が難読です。

本体: 高58cm、幅27cm、厚20cm。

後半からの丸みを帯びた4基ほどの円柱形の石仏は、「無縫塔」と呼ばれる僧侶の墓と思われます。
塔身が卵形に見えるので「卵塔」とも呼ばれます。しかし、石仏の種類だけで建立日等々詳細はいずれも不明です。
最後に1基、ひときわ大きい庚申塔を紹介します。

庚申塔

庚申塔

最後から3基目のいちばん大きい塔。
これは、中央に青面金剛が刻像された庚申塔です。
下左写真で、「造立 庚申 青面金剛」が微かに見えます。
かなり白くコケが前面についているので、文字はとても見えにくいです。

右上(下右写真参照)には「正徳三癸巳天十一月」。
正徳3年(1713)11月のかなり古い造立です。

上部には「日月」、左右に「2童子」を従えています。
また「邪鬼」を踏みつけ、「三猿」も一番下に描かれています。

左手は、「ショケラ」(合掌女人)の髪を握って
ぶら下げているように見えるのも、青面金剛の特徴のひとつ。
また、「法輪」も持っているようです。

頭上に「蛇」を巻き付けるのもよく見かける特徴ですが、
あるような、ないような、ここではちょっとよく分かりません。
武器についてもふつうは弓矢や戈などを持っているのですが、
これもいまひとつ分かりにくいです。

左下に「拾七人」とあるのは講中の人数でしょうか。

庚申塔左上拡大 庚申塔右上拡大

本体: 高96cm、幅55cm、厚26cm。

参考:ショケラとは

庚申塔に彫られた青面金剛が髪を持ってぶら下げている人物を、石仏関係では「ショケラ」と呼んでいます。
一般にショケラは、半裸の美女を指す場合のほか、餓鬼を示すこともあるようです。
語源的には、ヒンズーの神、シヴァ神の別名である「商羯羅天」からきているという説もあるいっぽう、
道教での三尸虫がショケラであるという解説もあり、人間にとって不都合なものなのか、それとも神なのか。なんとも?
とりあえず、青面金剛がぶら下げているモノをショケラと呼ぶ、ということだけは言えそうです。
また、ショケラとは別に「生首」を提げている青面金剛もいるようです。見分け方も難しそうですが・・・。

******************************************************************************************************

結局、数多く並んだ石仏で紹介できるのは、上記5基だけ。最初より2基ほど詳細が分かりましたが・・・。
もっとじっくり座り込んで、タワシ等で擦ってみると、あと何基か、紹介できるようになるかも知れません。
ただ、それは、もっと涼しい季節でないと、へばります。

上曽根の文化人と共同墓地

薬師堂裏の墓地は、上曽根共同墓地と呼ばれていることが分かりましたので、前記タイトルも修正しました。
探索初期においては、墓地内の一般墓所を調査することはまったく想定していませんでしたが、
利根町の各地域における文化人について言及するに至って、墓碑、とくに寿蔵碑を紹介するのが有効と知りました。
墓碑の銘や寿蔵碑には、文化人の経歴や功績等が記されているだけでなく、碑そのものも文化遺産と呼べます。

上曽根共同墓地にも、利根町の文化を支えた何人かの碑文のある墓碑が存在していることを利根町史等で確認しました。
とくに、初代永々斎を名乗り俳諧の道で知られる「大野以兄」、飯島君之墓銘 で記した「飯島利庸」の墓碑など。
さっそく何度か訪問してみたのですが、飯島家の墓所はいくつかあるものの、「飯島利庸」の墓碑がどうも見つかりません。

小川東作の師中村法純の墓碑

墓地に入って、最初に見つけたのが、中村家の墓所。しかし、探索はいろいろ難航しました。その話はのちほど。
小川東作は布川の名医で、若き日の柳田國男(当時は松岡姓)が小川家の土蔵で過ごしたことが有名です。余談ですが、
柳田國男」・「赤松宗旦」という利根町最大の著名人ページ制作を後回しにしているのが tanupon の特徴です。(笑)
小川東作と柳田國男は年代が少しちがうので直接の接点はありませんが、東作自体の説明は「柳田國男」で紹介予定。
この上曽根墓地では、小川東作の師である中村法純の墓碑についての説明に留めますが、内容は東作の撰文中心です。

中村家の墓所 中村法純の墓碑

左が中村家の墓所。
墓所の左奥に見えるのが、
右写真の当該墓碑です。

墓碑表面は、
安政五戌午年
法印勝應不生位
八月二十九日

台石は「中村氏

難航というのは、文字の読み取りです。
碑表中央の文字がやっと見える程度。
先が思いやられます。

結論から言うと、この上曽根共同墓地での調査は、飯島利庸の墓碑は不明、それ以外は碑文の80%が解読不能という、
惨憺たる結果となりました。tanupon に拓本を取る技術があったとしても、現在の風化はそうとう激しいものに思いました。
ということで、碑文の白文は『利根町の文化学芸碑第1集』から全面的に転載・引用させてもらうことにしました。
さて、法印勝應、中村法純の没年は、碑表から、安政5年(1858)8月29日 ということです。

さて、この墓碑を紹介するゆえんは、碑の左側面から右側面へと続く、小川東作の銘文です。

[左側面](狭くて真正面から撮れません。また碑文も断片的にしか文字が読めません)

[右側面](一字一字拾い読みすれば少しは読めます。しかし画数の多い字、異体字、難読文字は・・・)

中村法純の墓碑左側面 中村法純の墓碑右側面

哭法純師並序
師少精力于學爲人木彊敦厚余幼弱
就受書既而師有飛錫遠遊之志余亦
出學于都下安政乙卯孟春同時離郷
比余返師亦瓢然来皈皈未數日忽然
示寂余聞之悲惋即返行省孤墴煙草


欷歔不能厺聊賦一絶以奠
錫杖雲遊四五年皈来一病終不痊天
乎命乎空懐舊涕涙凮寒墓草前
□□
安政五年戌午秋日
□□□□□□□□□小川作再拝

[読み下し文]
法純師を哭(こく)す並びに序
師少(わか)くして精(もっぱ)ら學に力(つと)む。人となり木彊敦厚なり。余幼弱にして就きて書を受く。既に師飛錫遠遊の志あり。余もまた出でて都下に學ばんとす。安政乙卯孟春同時に郷を離る。比(このごろ)余返る、師もまた瓢然として来り皈る。皈りていまだ數日ならずして忽然として示寂す。余これを聞きて悲惋す。即ち返行して孤墴草に煙るを省(み)る。
欷歔し厺る能わず。聊(いささか)一絶を賦して以て奠す。
錫杖雲遊すること四五年。皈り来りて一たび病みて痊せず。天なるか命なるか空しく懐舊す。涕涙すれば凮は寒し墓草の前。
時 安政五年戌午秋日 小川作再拝

[語意]
木彊(ぼくきょう): 素朴で飾らない。ぶこつ。木強に同じ。(大漢和辞典)
敦厚(とんこう): 誠実で、人情に厚いこと。また、そのさま。(Kotobank)
飛錫(ひしゃく): 僧が諸国を遍歴修行すること。また、その僧。行脚(あんぎゃ)。遊行(ゆぎょう)。(Kotobank)
都: 右記異体字が碑文の文字。
安政乙卯: 安政2年(1855)
孟春(もうしゅん): 春の初め。初春。また、陰暦正月の異称。(goo 辞書)
返: 右記異体字が碑文の文字。
: =帰(かえ)る
示寂(じじゃく): 高僧などが死ぬこと。(goo 辞書)
悲惋(ひえん): 悲しみうらむ。(大漢和辞典)
(こう): 「堭」に同じ。四壁のない建物。合殿。(大漢和辞典)
欷歔(ききょ): すすり泣くこと。むせび泣き。欷泣(ききゅう)(goo 辞書)
: =去(る)
能: 右記異体字が碑文の文字。
一絶(いちぜつ): 一篇の七言絶句の漢詩。碑文では以下に続く「錫杖雲遊四五年 皈来一病終不痊 天乎命乎空懐舊 涕涙凮寒墓草前」を指す。「年」「痊」「前」が韻を踏んでいる。
(ふ): 詩歌をつくる。また、詩歌。(goo 辞書)
(てん): 神仏に物を供えて祭る。供え物。(Kotobank)
(せん): 病気が治る。本復(ほんぷく)する。(goo 辞書)
(かぜ): =風の古字

中村法純の墓碑裏面

左は碑の裏面。「萬延紀元庚申仲秋 建立
万延元年(1860)8月(=仲秋)、没年からちょうど2年目の建立です。

小川東作は、法純に書を学び、安政2年、18歳のころに師とともに江戸に出ますが、
志半ばにして3年後に故郷に帰ることになります。
師もそれを追うように帰郷しますが、間もなく病に倒れ亡くなります。
慟哭しながらこの碑文を撰した東作は、そのとき弱冠21歳でした。

本体 高95cm、幅31cm、厚31cm
台石 高30cm、幅57cm、厚56cm

大野以兄墓碑

「永々斎」の号を相伝名とした利根町俳諧の巨匠「大野以兄」を紹介しておかねばならないと思いました。
しかし、上曽根共同墓地には、墓があるだけで、そこには俳句などは彫られていません。
句碑に相当するようなものがあれば理想でしたが、「以兄」の文字が見つかればいいかと思っていたのですが・・・。

この墓碑探索も、すんなりとはいきませんでした。広くはない墓地ですが、大野家の墓所はいくつかあります。
適当にのぞいて見ただけではまったく見つかりません。墓石をたんねんにみて、3周目あたりでやっと、これかな?
しかし、その風化の度合いは激しく、びっしり付いたウメノキゴケをこすってやっと文字が下に見えるという塩梅。

幸運というか当然なのでしょうが、大野以兄に嫁ぎわずか2年、20歳の若さで病没した先妻の墓碑が同じ墓所内にあり、
ここに以兄の追悼歌が彫られていることを知りました。また、その墓碑にはほかにも漢文が彫られています。
しかしながら、当然、その墓碑は以兄の墓碑よりさらに古いわけで、文字の解読はさらに厳しいと想定されます。

大野家の墓所区画

左が大野以兄とその新妻の墓碑のある区画。
この写真で見える墓碑なら碑文も読めそうですが、
そうは問屋が・・・。

当該2基の墓碑は、左右に見える墓碑の裏側。
小さなスペースに建てられているのです。
つまり、写真に撮ることもなかなか難しいのです。

まずは、右奥にある大野以兄の墓碑から見てみましょう。

本体 高88cm、幅30cm、厚28cm
台石 高26cm、幅58cm、厚54cm

大野以兄墓碑表面 大野以兄墓碑右側面

左は碑表。狭くて斜めからしか撮れません。
隨譽良正覚順清信士
迎誉良正妙覚清信女
右に彫られたのが以兄です。
なお、台石には「大野」とあるようですが、
窮屈で撮る気になれませんでした(笑)。

右写真は同じ場所から見える右側面。
恵誉良理智観信女

予備知識がない状態で(少しあっても?)
この大野家区画正面から入り、
これらをこの位置から眺めたとしたら・・・。
これでは大野以兄の墓碑とは、
断定できないことが
理解できるのではないかと思います。

「恵誉良・・・」の戒名がだれのものか
予め分かっている人なら・・・。

大野以兄墓左側面 大野以兄墓碑裏面

左が左側面。右が裏面。
これらは、墓所区画の背後に回って
撮影したものです。
これでも、指と爪でそうとうコケを
取り除いた後。風が強い日で埃も目に・・・。

左側面は「良健以兄信士」「良修妙善信女
ここで、やっと「以兄」を発見。
予備知識ありで、なんとか読めるかどうか。

裏面は、少し読める文字が
コケ下に現れたりしました。
隨 嘉永二酉年三月十一日
迎 文久二戌年九月十五日
恵 安政元寅年十二月廿二日
多仲改 平左衛門

以兄は、嘉永2年(1849)3月11日没、
ということですね。

さて、これでは、大野以兄の紹介としてはちょっと不十分ですので、別の史料から・・・。

大野以兄と『下總諸家小傅』

大野以兄と『下總諸家小傅』

天保14年(1843)に女貞園が上梓した『下總諸家小傅』(以下『小傅』)に、
大野以兄が紹介されています。

『下總諸家小傅』

『小傅』は、利根川流域の文化人列伝とも言えるもので、
流山から銚子に至るまで、とくに布川・布佐河岸中心に、
俳諧・国学・医師・和歌・挿花ほか多種に亘って、
秀でた人物を50音順に100名取り上げています。
大野以兄は22人目に挙げられています。


上曽根の大野以兄、通稱は平左衛門、永々斎
と號す。酷はだ俳諧を好む。又刀劔の鑒定を能す。
發句に云「小躍をして日の出るや梅の花」「身に
かヽる烟はしらず火串刺(ほぐしさし)」「先(まず)櫃(ひつ)へ入るまで
なり萩の花」「貰ひ乳(ぢ)で育てた子なり竹笥置(いづめおき)」。

以兄は、当初菓子商を営み、後に質屋に転じて財をなしたといいます。
刀剣の鑑定を能くす、というのもそうした目利きがあったものと思われます。
しかし、名刀「関の孫六」を名うての盗賊「江蔵地の留」に盗まれる災難も。

以兄の通称は平左衛門で、前記碑裏面の「多仲改平左衛門」は以兄没後に多仲がその名を継いだということでしょう。
また、永々斎の相伝号は竜ヶ崎北方の小池尚之が2世を、そして押戸の大津家 永々斎3世・蘆村 へと引き継がれます。

なお、『利根川図志』巻4に「網を抜く鮭ひとのしや洲におどる」が掲載されているということですが、これは追加ページで、
「三社より銚子浜一枚を引きし人々の吟」という内容ですが、一般の『図志』にはありません。見てみたいですが・・・

以兄の妻 良隨妙縁信女墓碑

大野家の墓所区画で、右奥の以兄の墓碑と対称の左奥の位置にあるのが、20歳で病死した以兄の妻の墓碑です。

良隨妙縁信女墓碑表面 良隨妙縁信女墓碑左側面

以兄の墓碑より25年以上も古いのですが、
文字はこちらのほうが比較的読めます。

左は、墓表面で、
文政四辛巳年
良隨妙縁信女位
六月 四日
文政4年(1821)6月4日没。

右は、この角度で精いっぱいの左側面。
觀丗音南無佛
與佛有因與佛
有縁佛法相縁
常樂我淨朝念
觀丗音暮念觀
丗音念々従心
起念々不離心

この42文字は実は決まり文句です。

十句観音経

『十句観音経』(じっくかんのんぎょう)は、仏教経典の一。別名を『延命十句観音経』とも言うが、「延命」の二字を付け加えたのは江戸時代の臨済宗中興の祖といわれる白隠である。大乗経典の観音経系経典に属し、わずか42文字の最も短い経典として知られる偽経(=中国や日本などにおいて、漢訳された仏教経典を分類し研究する際に、インドまたは中央アジアの原典から翻訳されたのではなく、中国人が漢語で撰述したり、あるいは長大な漢訳経典から抄出して創った経典に対して用いられた、歴史的な用語)だが、古来ただ何度も唱えるだけでご利益を得られるとされており、人気が高い。(Wikipedia)

十句観音経は以下のように切って読むと分かりやすいようです。
観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法僧縁。常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念念従心起。念念不離心。

和訳(これも Wikipedia より)

観世音。南無仏。(観世音菩薩に帰依します)
与仏有因。与仏有縁。(我々にも仏と同じ因果の法則があり、また縁でつながっています)
仏法相縁。常楽我浄。(仏と法の縁によって、私たちは常に心を清らかにし、楽しく過ごせます)
朝念観世音。暮念観世音。(朝にも夕べにも観世音菩薩を念じます)
念念従心起。念念不離心。(この念は仏心から起こり、また心を離れません)

さて、本題に戻ります。大野以兄の新妻への追悼歌が刻まれているのは、以下の右側面です。写真右は裏面。
これらも、墓地区画の裏側にまわって撮影しました。裏面は「上曽根邑 大野平左エ門」つまり以兄の建立です。

良隨妙縁信女墓碑右側面 良隨妙縁信女墓碑裏面

1行目はともかく、2行目以降、
肝心な部分がどうにも読めません。
以下、文化学芸碑より。

いつとしか いつの月日か黄泉の
  露となるらん かがみとやなれ

  出生中相馬郡古戸村増田氏之産也
  文政二當氏嫁天哉同四年六月以疾去
  享年廿才也則葬先塋之側

中相馬郡古戸村は、現在の我孫子市。
資産家の娘でしたが俗名は不明。
以兄は、後再婚して二女をもうけましたが、
長女ツヤも31歳で父母よりも先に他界。

本体 高106cm、幅33cm、厚33cm
台石 高30cm、幅59cm、厚59cm

▼ さて、飯島利庸の墓碑はいったいどこに?文化学芸碑にあるように、ほんとうに共同墓地に存在しているのでしょうか。
もういちどくまなく探してみる予定です。広い墓地でもないし。墓の移転も考えられないわけではないのですが・・・。
もうひとつの 飯島君之墓銘 も目前にしながら、見分できないもどかしい状態。飯島家とはどうも相性がよくない?(笑)。

飯島利庸墓碑と飯島君之墓銘

墓碑発見!別の場所に

まず、共同墓地を再々々?訪問してみました。飯島利庸の墓碑は、側面に400文字以上の銘文が彫られていますので、
小さな墓碑ではありません。本体部分の高さが140cm近くもあるということで、メジャーを手に大物を物色。すると・・・。
共同墓地内には、該当する大きな墓碑は少なくとも飯島家関連墓所または家名不明区画等にはないことが分かりました。
これは、「飯島利庸墓碑 上曽根共同墓地(所在)」の記述が間違っているか、墓が移転されたかのどちらかです。

共同墓地にない、ということが判明した瞬間に、なぜか tanupon はある不思議なイメージの箇所をふと思い浮かべました。
それは、共同墓地から見て 飯島君之墓銘 を挟んで反対側の地点。道端にポツンと墓碑が1基ある場所からすぐ東。
なんとなく違和感のある垣根等で仕切られ、なおかつ道路に面しているちょっと気になる個人の墓地のことです。

気になる個人の墓地 気になる個人の墓地

沼薬師前の東西に伸びるこの細道をもう何度、バイクで走ったことでしょうか。そのたびに横目で見ていた墓地でした。
共同墓地がここに飛び火、とは思いませんが、飯島君之墓銘 に近いせいか「もしかして」という気を起させたのです。
この「ひらめき」は、ズバリ、正解でした。なんと、それは飯島利庸ゆかりの「飯島家の墓地」だったのです。
上右写真で、中央の墓碑台座に「飯島氏」を見つけ、これは!と思い、その右手に大きな墓碑。これぞまさしく、です。
「違和感」というのは、棕櫚の樹のせいだったようです。墓地にしてはユニークな植樹、きっとなにかいわれが・・・。

飯島利庸墓碑

飯島利庸墓碑 飯島利庸墓碑本体表

2011.3.11の大地震のせいか、
墓碑本体が反時計回りにずれています。

本体 高139cm、幅45cm、厚43cm
台石上 高40cm、幅78cm、厚77cm
台石下 高27cm、幅98cm、厚99cm

表面は、間近で目を凝らすと、
なんとか目視で文字が読めます。

法正院専譽良向方阿傾西清居士
妙好院當譽良繋妙念大姉
得聞院取譽良行道辨居士
照曜院皆譽良精妙宝大姉
勝顕院意譽良知道最居士

最初が利庸の戒名。3番目が養子の藤七で
家名の利兵衛を継ぎます。
明治27年に円明寺より
永代居士号の道辨居士を受けています。

このような利庸とその係累の略歴が、後述の墓碑右側面に長々と記されています。利庸自身の業績には触れていません。
飯島利庸の文化人としての紹介は、やはり 飯島君之墓銘 で示すのが妥当のようです・・・。先に左側面と裏面から。

飯島利庸墓碑左側面 飯島利庸墓碑裏面

[左側面]これもなんとか読めます。
法 明治十年九月二十三日    飯島  利庸
妙 同 四月十八日         妻   むす
得                    飯島利兵衛
照 明治二十七年八月二十四日 妻   すい
勝 同二十二年九月二十二日  若泉幸之助


[碑裏]垣根の背後から撮影。
明治二十七年十月
     建立人 飯島 利兵衛
     彫刻者 大塚岩吉

飯島利庸は、明治10年(1876)9月23日没。
家名を継いだ利兵衛が明治27年(1894)に建立。
幸之助は若泉家に養子に行き夭折したのでしょう。

「彫刻者 大塚岩吉」、ここにも登場しました。蛟蝄神社奥の宮の 石階寄付連名碑直江真佐雄之碑 で見ました。
また、実は 飯島君之墓銘 や、徳満寺の 記念碑 なども彼の手によるもの。当時活躍していたこの地域の石工です。

碑文白文と読み下し文

飯島利庸墓碑右側面

最後に、問題の400文字を超える碑文が記された[右側面]です。
でも、意外と読みやすく、難字もなく、文も比較的平易なものでした。

傾西居士諱利庸精數學多門人別有墓銘妻牟須子北方村飯田三郎右衛門二女
資性温和能治家事老後信佛好誦経明治三年正月十八日没年六十謚曰妙念大
姉藤七其養子而布川村野澤藤兵衛四男也野澤氏者祖曰晴昭小田原北條氏之
族士而万治中定居焉云藤七亦妻飯田氏五女須恵子專勤農事嘉永三藤七時年
廿二詣伊勢神宮巡四國賽神社佛閣在覇旅八十余日歸而益勵業後三年冒家名
利兵衛興産明治十三年新築家屋廿七年中圎明寺主賜飯島氏以永代居士號因
曰道辨居士須恵子順良理内事及晩年朝夕拜祖宗之靈誦経廿七年九月廿四日
没年六十五法名妙宝大姉有子長曰貞藏次曰貞子三曰佐仲四曰幸之助貞藏爲
嗣娶横須賀村高橋惣左衛門三女浅子生子長呼波子嫁於川原代村川村幸作次
稱荘治郎其次稱司馬貞子嫁於北方村飯島權右衛門佐仲襲宗家之廢跡更紋右
衛門娶布川村香取新兵衛二女與志子擧三子長曰富士子次曰輝需三曰継子幸
之助幼而學文及長撃劔布川村山口七藏奇之養而爲羽中村若泉松治嗣子明治
廿二年九月廿二日病没享年二十四謚曰道最居士有一男曰栄治親戚惜之矣

[読み下し文]
傾西居士諱は利庸。數學に精しく、門人多し。別に墓銘有り。妻牟須子は、北方村飯田三郎右衛門の二女なり。資性温和にして能く家事を治め、老後は佛を信じて、好んで誦経す。明治三年正月十八日没す。年六十謚して妙念大姉と曰う。藤七は其の養子にして、布川村野澤藤兵衛の四男なり。野澤氏は祖を晴昭と曰い、小田原北條氏の族士にして、万治中、居を焉に定むと云う。藤七もまた妻は飯田氏の五女須恵子なり。專ら農事に勤む。嘉永三藤七時に年廿二。伊勢神宮に詣で四國を巡り、神社佛閣に賽す。覇旅に在ること八十余日。歸りて益々業に勵む。後三年にして、家名の利兵衛を冒し、産を興す。明治十三年、家屋を新築す。廿七年中、圎明寺主、飯島氏に賜うに永代居士號を以てす。因みに道辨居士と曰う。須恵子順良にして内事を理め、晩年に及んで朝夕祖宗之靈を拜して誦経す。廿七年九月廿四日没す。年六十五。法名は妙宝大姉なり。子有り、長は貞藏と曰い、次は貞子と曰う。三は佐仲と曰い、四は幸之助と曰う。貞藏は嗣と爲り、横須賀村高橋惣左衛門三女浅子を娶る。子を生む。長は波子と呼び、川原代村川村幸作に嫁ぐ。次は次は荘治郎と稱し、その次は司馬と稱す。貞子は北方村飯島權右衛門に嫁ぐ。佐仲は宗家の廢跡を襲い、紋右衛門と更(あらた)む。布川村香取新兵衛の二女與志子を娶る。三子を擧ぐ。長は富士子と曰い、次は輝需と曰い、三は継子と曰う。幸之助幼にして文を學び及び撃劔に長ず。布川村山口七藏これを奇とし、養いて羽中村若泉松治の嗣子と爲す。明治廿二年九月廿二日病没す。享年二十四。謚して道最居士と曰う。一男あり栄治と曰う。親戚これを惜しむ。

※ 語句的に難しいものはとくにありません。家名を「冒し」とか宗家の・・・を「襲い」と聞くと、現代では違和感がありますが、
「冒」には「他家の姓を名のる」、「襲」には「家系・地位などを受け継ぐ」という意味があります。襲名の言葉も納得できます。


▼ さて、懸案の飯島利庸墓碑を紹介できましたが、なにか消化不良の気分です。そう 飯島君之墓銘 のせいです。
あの碑が近い将来、元通りになるとは思えませんし、仮になったとしても、また施錠されれば近くで見られません。
せっかく、文化学芸碑で拓本まで取られていますので、それをお借りすることにしましょう。現物確認したいのですが・・・。
あれっ?そうすると、 飯島君之墓銘上曽根の稲荷大明神 ページではなく、ここに移動させたほうがいいようですね。
でも、そうすると、いままでの叙述上のリンクとかがややこしくなります。どうしようかな。困りました。
あのページはあのままにして、ここに詳細を追加することにしましょうか。別名にしないと混乱しますが・・・。
便宜上、ここでは「飯島君之墓銘その後」としておきましょう。いつか全面再構成するときがくれば一挙にまとめます。


飯島君之墓銘その後

下写真は現在(2013/10/19)の様子。施錠されたままで開いてしまった扉。大地震の恐怖を思い出します。
石碑も、本体は、高166cm、幅168cm、厚22cm(台石 高46cm、幅135cm、厚49cm)と巨大で、
これが台石から落下してきたときの様子はすごかったでしょう。元通りに戻すのはコスト的にもたいへんな作業です。

飯島君之墓銘その後 飯島君之墓銘その後

石碑の右には、以前農協の建物があったように記憶していますが、現在、空き地になっているようです。
ここは、昔は、実は飯島利兵衛宅だったそうです。なるほど、それで近くに墓地があるわけですか。また昭和30年に
四町村合併で利根町が誕生するまでは、その茅葺の大きな農家造りの家が、そのまま旧文村役場になっていたとか。
「飯島利兵衛宅 → 文村役場 → 農協関連建物 → 空き地に石碑だけ」いろいろな歴史があるわけですね。
昭和50年代に利根町に移転してきた tanupon には知る由もない変遷。知ってたら墓碑探しに苦労することはなかった?

飯島君之墓銘裏面一部拡大

左上写真の状態で、しかたなく撮った写真を
逆さまにし、拡大して見てみると左のような文字。

布佐村 大塚岩吉刻
石工 大塚岩吉は布佐の人でしたか。

しかし、写真に撮れるのは裏面の一部だけ。
しばし、なんとかならないものかと眺めていて、
ためしに、石碑の上部に手をかけて・・・。
思わず笑ってしまいました。
びくともせず、肩こりの肩がさらに痛くなりました。
これは未練というものです。
石碑表面の碑文を直に見るのはさっぱりとあきらめましょう。

下は大震災前の2005年当時の様子。施錠され中には入れません。背後にいまはなき農協の倉庫?が建っています。
右は、石碑上部の篆額部分の拓本(文化学芸碑より)。「従五位子爵阿部正」の揮毫です。

2005年時の飯島君之墓銘 2005年時の飯島君之墓銘

碑表の白文

飯島君之墓銘 従五位子爵阿部正功篆額
君諱利庸字子平稱利兵衛姓飯島氏號玉玩下総
國北相馬郡上曽根邨人也其先出干源氏之族河
邉冠者重遠中興祖曰重平曽祖曰重次祖曰松重
父曰藤平君躯幹魁偉性忠厚篤實而頗有豪気幼
時好乗馬及長勤農事尤精筭法始師磐戸清實後
師剣持章行自嘉永二年至明治十年歴二十四寒
暑受業者二百二十人天保六季養野澤氏子藤七
為嗣嘉永六年君委家事子藤七別構一室替心數
理暇則往田躬耕明治四年應村吏請測量下利根
川十年九月二十三日病歿距生文化六年享年六
十有七君又善遠州流挿花好植艸木最愛仙人掌
娶飯田氏生一男夭有孫男三女一銘曰
精技成名不廢躬畊儀範埀後家栄祚久
□□□□□□□□□正五位中村正直撰

阿部正功(あべ・まさこと/1860−1925)明治−大正時代の大名、華族。安政7年1月23日生まれ。陸奥白河藩藩主阿部正耆(まさひさ)の子。甥の阿部正静(まさきよ)の養子となり、明治元年磐城棚倉藩藩主阿部家2代となる。のち子爵。大正14年9月11日死去。66歳。(Kotobank)

安川繁成(やすかわ・しげなり/1839−1906)明治時代の政治家、実業家。天保10年3月生まれ。もと陸奥白河藩藩士。戊辰戦争で岩倉具視にみとめられる。工部大書記官や会計検査院部長をへて日本鉄道監査役や愛国生命保険社長をつとめた。明治31年衆議院議員(憲政本党)。明治39年8月29日死去。68歳。上野(群馬県)出身。本姓は岩崎。(Kotobank)

上記2人は、同郷で旧知の仲だったと言えますね。

中村正直は 近藤君寿蔵碑 でも撰文担当。文学博士・貴族院勅選議員。3人は互いに懇意であったと思われます。

明治十八年九月□□統計院幹事従五位勲五等安川繁成書

[読み下し文]

飯島君之墓銘 従五位子爵阿部正功篆額
君、諱は利庸、字は子平、利兵衛と稱す。姓は飯島氏、號は玉玩。下総國北相馬郡上曽根邨の人なり。其の先は源氏の族河邉の冠者重遠より出ず。中興の祖は重平と曰い、曽祖は重次と曰う。祖は松重と曰い、父は藤平と曰う。君は躯幹魁偉なり。性は忠厚篤實にして頗る豪気有り。幼時より乗馬を好み、長ずるに及んで、農事に勤む。尤も筭(算)法に精し。始め磐戸清實を師とし、後に剣持章行を師とす。嘉永二年より明治十年に至る二十四寒暑を歴て、業を受くる者二百二十人。天保六季(年)、野澤氏の子藤七を養い嗣と為す。嘉永六年、君家事を子藤七に委ね、別に一室を構え、心を數理に替う。暇あれば則ち田に往きて躬(みずか)ら耕す。明治四年、村吏の請に應じて下利根川を測量す。十年九月二十三日病歿。距(去)る文化六年に生る。享年六十と有七。君また遠州流挿花を善くし、好んで艸(草)木を植え、最も仙人掌(さぼてん)を愛す。飯田氏を娶り、一男を生む。夭す。孫に男三女一有り。銘に曰く。
 枝に精しく名を成す 躬ら畊(耕)すを廢せず 儀範後に埀(垂)る 家栄え祚久し
         正五位中村正直撰
明治十八年九月  統計院幹事従五位勲五等安川繁成書

[語意]
躯幹魁偉(くかんかいい): 身体が人並すぐれて大きくたくましい。躯幹は、からだ。また、頭と手足を除いた胴体部分。(Yahoo!辞書) 魁偉は、顔の造作やからだが人並外れて大きく、たくましい感じを与えるさま。また、いかついさま。(Kotobank)
磐戸清實(いわと・きよざね): 磐戸清実墓碑 参照。利庸のほかに中谷の直江弘庵(弘庵直江翁墓碑銘 参照)も弟子。
剣持章行(けんもち・あきゆき): 1790‐1871(寛政2‐明治4)幕末の数学者。通称要七、または要七郎、字は成紀、予山と号した。上野国吾妻郡の沢渡の農家の出である。上野国板鼻の小野栄重(1763‐1831)に数学を学び、後に内田五観の門人となる。数学を好み、関東各地を遊歴して数学を教えた。北総鏑木で客死する。級数、不定方程式、整係数方程式、定積分表など、他の数学者の意表をつく考えを述べ、多くのくふうをこらした。刊行された著書は『探賾算法』(1840)など7冊にもなり、稿本の著書も多い。(世界大百科事典) なお、押戸の大津貞忠も和算を剣持章行に学んでいる(下總諸家小傅と大津貞忠 参照)。
遠州流挿花(えんしゅうりゅう・そうか): 遠州流は小堀政一(遠州)に始まる小堀家本家に伝わる武家茶道であるが、華道においても小堀遠州を流祖とし、江戸文化期に初世貞松斎米一馬が『衣之香口伝折』を刊行し、流の規矩を確立。挿花とは生け花のこと(Wikipedia ほか)
儀範(ぎはん): 従うべき模範。手本。規範。(goo 辞書)。
(そ): 天からくだされる幸福。(Kotobank)

[裏面]と[台石]

2005年にコンデジで撮っていた碑裏の写真。意外と文字が鮮明に見えています。
でも、雑草などがあって台石部分など、すべては見ることができません。以下、一部文化学芸碑より転載。

2005年時の飯島君之墓銘

[碑裏]
河内郡南中島村桜井徳三郎
北相馬郡福木村八島治良兵衛
仝郡羽中村□□□片岡長之助
仝郡上曽根村□□中村安兵衛
仝郡仝村□□□□鈴木芳兵衛
仝郡仝村□□□□飯島嘉兵衛
仝郡仝村□□□□豊嶋庄左衛門
仝郡仝村□□□□武藤又兵衛
仝郡仝村□□□□大野平左衛門
仝郡仝村□□□□鈴木松吉
仝郡川原代村□□下妻藤助
千葉郡高津新田大木光重
□□□□布佐村
□□□□□□□□大塚岩吉刻

[台石]

北相馬郡下曽根新田□□星野清之助
郡高須村□□□□羽田佐兵衛
郡羽中村□□□□若泉文左衛門
郡仝□□□□若泉次郎兵衛
郡布川村□□□□野澤藤四郎
郡仝□□□□鳥居時松
郡川原代村□□□木村新九郎
郡仝□□□□松田政吉
郡羽黒村□□□□中村惣次郎
郡高野村□□□□吉岡茂三郎
筑波郡板橋村□□□□□張谷信逸郎
北相馬郡布川村□□□□白井彌三郎
郡早尾村□□□□矢口多吉
郡布川村□□□□木村忠告
郡仝□□□□香取栄吉
郡横須賀村□□□高橋惣吉
郡下曽根村□□□巻島元之助
郡下曽根新田□□永田岩次郎
郡仝□□□□□永田松五郎
郡須藤堀村□□□矢口喜三郎
郡川原代村□□□松浦小三郎
郡下高井村□□□廣瀬殻一郎

高津新田□□□□□□谷原半平
北相馬郡羽中村□□□古田猪之松
□□□□□□□□古田岩蔵
□□□□□□□□若泉宇之助
□□□□□□□□豊埼由松
郡中田切村□□桜井五良兵衛
郡高須村□□□羽田藤七郎
郡須藤堀村□□山口甚左衛門
郡福木村□□□飯塚清兵エ
郡仝□□□石塚千五エ門
郡立木村□□□古川市平
郡小文間村□□斉藤喬音
郡須藤堀村□□沼尻菊次
千葉郡桑納村□□□□立石藤右エ門
南相馬郡手賀村□□□湯浅勝蔵
河内郡長竿村□□□□礒部利助
北相馬郡下曽根新田大竹泰市
郡豊田村□□□佐藤庄吉
郡仝□□□石山安右衛門
郡仝□□□来栖七兵衛
郡羽黒村□□□梅原忠八
郡布川村□□□白井宗之助
郡仝□□□荒木□□
郡中田切村□□中澤要之助
郡福木村□□□白戸甚右エ門
部立木村□□□木村芳兵衛
郡高須村□□□羽田丈七
郡川原代村□□川村次右エ門
郡藤代駅□□□永田清太良
河内郡西中島村□□□中島政吉
筑波郡萱場□□□□□小谷野峰次郎
北相馬郡羽中村□□□斉藤幸之助
□□□□□□□□片岡常松
□□□□□□□□若泉藤助

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好んで艸(草)木を植え、最も仙人掌(さぼてん)を愛す
これは、もしかすると・・・南国の植物を愛した利庸のために、墓地には 棕櫚の木 を植樹したのではないでしょうか。

(13/10/21 追記・13/10/19・13/09/29・13/09/19 撮影)


(14/06/21・13/10/21 追記) (12/05/22 再構成) (06/08/14 追記) (05/09/06) (撮影 14/06/19・14/06/16・14/06/14・13/10/19・13/09/29・13/09/19・12/05/17・12/04/24・11/01/28・07/01/03・05/07/29・05/03/27)


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