タヌポンの利根ぽんぽ行 立崎地区

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目  次


更新経過

2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
立崎地区は、小字名で、上坪・中坪・下坪と3ヵ所あり、
それぞれに鳥居のある道祖神が立てられています。
また、集会場や旧龍蔵寺の立崎共同墓地には各種の石仏も多く、
加えて、利根川沿いの遊歩道下にも水神宮などもあり、
再調査してみると、数多くの修正と新発見項目も見つかり、
延べ制作時間をかなり要してしまいました。(15/08/11)


古い『広報とね』(235号)に以下の記述を見つけました。

立崎は、立木崎から生じた地名と考えられています。立木から南へ向けて堅い地盤があり、この上に砂州が生じました。ここを州山と呼び、龍蔵寺が建てられました。創建された年月は不明ですが、地形から考え、上曾根の薬師堂と同じように室町期までさかのぼるかもしれません。


最初に利根町に越してきたとき、バスの終点に立崎という文字があったことから、
立崎地区が利根町のいちばん東なのではないかと思っていました。

利根町は広いのですね。そのさらに東には惣新田や東奥山新田などもあるんですから。

ところが、惣新田・加納新田などがいちばん東にあることを知ったら、
こんどは先にそちらに行きたくなり探索し始めたため、立崎地区は後回しになってしまいました。

ここの見所は、石祠だけでなく鳥居も備わった道祖神。
中谷地区との境界だけでなく、県道立崎羽根野線の道路沿いにも見かけました。
『利根町史』には、さらにもう1ヵ所記載されているのですが、これがなかなか見当たりません。
でも、再編成の機会に念入りに探索、ようやく見つけました。
おそらく利根町で未発見の鳥居はこれが最後のものと思うと、感慨深いものがあります。

ほかに見所としては、立崎共同墓地に一風変わった5基の祭神を祀った祠があることと、
立崎集会所にある4体の大師像を祀った大師堂と石仏など。
さらに、再編成探索で、利根川土手沿いの水神宮も新規に発見しました。

遅くなったとはいえ、最初にUPしたコンテンツはすでに6年前で、
大地震も経過して、目次を含めて再調査、大幅に更新・再構成しました。(12/06/19)


利根町中南部地区マップ

立崎は、この地図の右端(東)、南北に横断している地域です。

利根町中南部地区マップ

立崎上坪の道祖神(道陸神)

台輪鳥居

西隣の中谷地区との境界あたりで見つけた道祖神。2005年8月訪問以来、6年半のご無沙汰で、新築鳥居を発見しました。

立崎上坪の道祖神(道陸神)

鳥居の形は、神明系から明神系、
台輪鳥居へと変化しています。

本体: 高260cm、幅270cm、厚39cm。

2005年発見当初は、下写真のように
木造の鳥居がいい味出してました。

旧立崎上坪の道祖神(道陸神)

建立と神額

鳥居柱裏面

まだ美しいので震災直後かと思いましたが、平成21年(2009)12月の建立。
新しいので、大地震でも無事だったようですね。

下は、神額の部分ですが、「道祖神」と彫らないのでしょうか?
そういえば、『利根町史』に、立崎地区の道祖神は、
「道陸神(どうろくじん)さま」と呼ばれているようです。
「道祖神」と彫るか「道陸神」と刻むか、迷ったとか・・?

神額

道祖神は、別名道陸神やサエノカミ、サイノカミ、セーノカミなどとも呼ばれますが、そういえば、
鳥居や石祠などに「道陸神」や「塞之神」と記されたものは見たことはありません。通称だけに用いる言葉なのかも?

本殿

道陸神の祭神は、久那戸神(くなとのかみ)。祭礼としては、1月26日、10月26日前後の日曜日。

本殿

本殿は、外観は、以前と変わらず木造のままなのですが、
しかし、本殿の中の石祠を見てみると・・・。

下左が現在。右が2005年当時。ちょっとちがいますね。
上部の石祠本体が寸詰まりになっています。
まったく別のものなのか、大地震のせいで、
中央が欠損した上下をつなぎ合わせたものなのか?

→ これは本体を単に横に寝かせて置いてあるようです。
大地震のとき落ちてしまって不安定なので、
暫定的に横にしたのがそのままになっているのでは?
でも、これでは御幣も一部折ったりしてますし、
左右には穴がないのでうまく刺さらないでしょう。

本殿石祠 旧本殿石祠
本殿石祠右側面と台石

笠をとりあえずはずし、本殿石祠を検分すると・・・。
本体内部には「道祖神」、右側面に「立ア上組女人講中」とあります。
向きを正規に戻し、笠を元通りに直します。本体はやはり縦にすべきでしょう。
もう、地震対策はいいんではないでしょうか。

石祠下の台石は変化していません。表面に記されているのは・・・。
立竒上組 女人講中
天保九戌二月吉日
天保9年(1838)2月の造立と分かりました。
立竒は立崎、上組とは街区名の上坪に該当すると思われます。

本体: 高36cm、幅30cm、厚20cm。台石: 高28cm、幅33cm、厚26cm。

立崎中坪の道祖神(道陸神)

宗忠鳥居

県道立崎羽根野線を立崎の交差点から北に少し進むと、左手の道路脇に突然、白い鳥居が見えてきます。
これは、神明系の宗忠鳥居。額束はありますが、やはり神額は無く、一見したところ不明の鳥居です。
『利根町史』には「木造」とありますが、明らかに金属(鉄)製です。再建と思いますが建立日は不明です。

鳥居本体: 高190cm、幅(島木)190cm、厚20cm。

立崎中坪の道祖神(道陸神) 立崎中坪の道祖神左

中を覗くと、3基の石祠があり、左右の小さめの石祠には、「道祖神」の文字が見えます。(右上写真)
『利根町史』によれば、中央の本体も含めて、立崎地区の道祖神、「道陸神(どうろくじん)さま」です。
道祖神(道陸神)の祭神は、共通で、久那戸神(くなとのかみ)と言われています。

なお、右写真の石祠の下にある神札入れの紙封筒の上に手書き文字が見えます。これについては後述 日待ち 参照。

本殿石祠

下は、左から、中央の本殿石祠の右側面と左側面。左右の2基の小さい石祠は、もっと前からの造立かも知れません。

立崎中坪の道祖神本殿石祠右側面 立崎中坪の道祖神本殿石祠左側面

右側面には、「立ア村 女人講中

左側面には、「文化五□十月」。
文化5年(1808)の造立です。
□は「辰」の文字が妥当ですが、
どうもそのように見えません?

中央石祠本体: 高40cm、幅29cm、厚24cm。
左石祠本体: 高22cm、幅13cm、厚8cm。
右石祠本体: 高22cm、幅12cm、厚9cm。

天日大御神?

天日大御神? 天日大御神?

上写真は、左2012年、右2005年。2012年は震災のためか中央の石祠の笠が落ちています(2015現在は元通りに)。

さて、問題は、2005年時の本殿内部。中央の石祠に取り付けられた「天日大御神」と記されたお札。
さて、これはいったい何でしょう。天日大御神とは聞いたことがありません。何と読むのでしょう。

タヌポンは最初、見間ちがえて「天」を「大」の字に読んでいました(「だいにちおおみかみ」でも意味不明なのですが)。
そのうえで、最初、これは「天照大御神」(あまてらすおおみかみ)が正しいのではないか、と推測しました。
というのは、天照大御神は別名、「大日孁貴神」(おおひるめのむちのかみ)とも呼ばれるということです。
大日の字なら「天照大御神」と「大日孁貴神」をミックスして「大日大御神」としたのかも知れない、などと。

ところが、よく見ると、「大日」ではなく、「天日」ですからねえ。まったくちがいますね。
でも、字の省略で、照を日としたのかも知れません。そうすると、「天日大御神」=「天照大御神」というわけです。
昔は結構、略字にしたりくずしたりすることが多いようですし、立崎の「嵜」や「竒」の字のような例もあります。

孁

ちなみに、「天照大御神」は、「大日孁貴神」だけでなく
「天照大日孁貴神」(あまてらすおおひるめのむちのみこと)などとも呼ばれるそうです。
字が読みにくい場合は左(←)を。難しい漢字ですね。

この「天日大御神」をどう読むか、またなにを意味しているか、はいまだに不明ですが、
これは、あくまで、例年、管轄の神社から拝受する「お札」ということであり、
受け取る神社側の祭神とお札の神様とはイコールというわけではないことが分かりました。
したがって、ここはやはり、祭神を久那戸神とする道祖神(道陸神)であるということです。

立崎下坪の道祖神(道陸神)

利根町最後(誤)の鳥居発見

立崎下坪の道祖神(道陸神)

いやあ、この鳥居を見つけたときは、
おもわず歓声をあげましたね。
なにせ、おそらく、利根町探訪での、
未発見の最後の鳥居だと思います。
(→ 訂正します、もう1基発見!
もちろん、これから新規に
建立されるものは除いての話です。

立崎地区は探索が少し甘かったのか、
見落としが多かったようです。
でも、これも、1本脇道に入ったところ、
やはり分かりにくい路地にあるのです。

道祖神の鳥居が3つある記事をもとに、
地図の「路傍祠」をたんねんに探し、
その結果、やっと発見できました。

もし、未掲載でほかに鳥居があれば、
「ごめんなさい」というしかないですが、
その場合はぜひ 教えてください

立崎の上坪・中坪・下坪という旧地名(小字名等)も、そこに住んでいる方に訊ねても「知らない」という返事も多く、
ここの発見時も最初に尋ねたA婦人は「ここは後にも先にも立崎だよ、・・・坪?なに、それ?」というだけ(笑)。
そんなわけで、前記の県道脇の道祖神も、この下坪の道祖神発見までは、中坪か下坪かは分かりませんでした。
それが、ようやく・・・。やはり、探訪・探索には、古地図も必要ということがいまさらながらよく理解できますね。
えーと、この道祖神のところに行く方法?立崎の交差点から1本西の脇道を南に少し。地図を参考に探してみてください。

台輪鳥居2

ここの鳥居は上坪の道祖神とまったく同様の明神系の台輪鳥居ですね。神額も同様に何も彫られていません。

立崎下坪の道祖神(道陸神)台輪鳥居

石もしくはコンクリート製ですが、
『利根町史』には「木造」とあり、
町史編纂調査後の再建でしょう。

もしかすると上坪の道祖神の鳥居と
同時期かも知れません。
→ 参考[平成21年(2009)12月]
祭礼なども上坪と共通していますし。

本体: 高190cm、幅227cm、厚32cm。

立崎下坪の道祖神(道陸神)台輪鳥居神額

本殿石祠2

祭神は、これも共通の久那戸神(くなとのかみ)。以下は、左から順に、本殿石祠右側面、正面、左側面です。
石祠正面内部には「道祖神」。通称「道陸神」の場合でも、刻まれるのは道祖神と決められているものなのかどうか?

本殿石祠右側面 本殿石祠 本殿石祠左側面

右側面は「文政六未年七月吉日」で文政6年(1823)7月の造立。左は「下組女講中」。下組は下坪と同意でしょう。

本体: 高47cm、幅35cm、厚22cm。

祭礼と風習

ふたまたになったジャガイモのお供え

立崎やその周辺地区では、大根・ナスなどの農作物で、
ふたまたになったものを食べるのをきらって、
道祖神に供えるという風習があるそうです。
まさに撮影時に、これはジャガイモ(ん?生姜?)でしょうか。
ふたまたになっていますね。ほかでも見たことがあります。
単なるお供えではなかったのですね。

さて、ここでも、上坪と同様、
1月26日、10月26日前後の日曜日に祭礼が行われ、
「どうろく神のお日待ち」をしているということです。
(『利根町史』、昭和53年現在での調査による)

しかし、タヌポンに親切にいろいろ教えてくださった下坪のもうひとりのB婦人の話では、少なくともこの立崎下坪では、
もうだいぶ前から「お日待ち」は行われなくなっているということです。何10年前かは確かに経験されているとのこと。

日待ち

日待ちとは、文字通り、日の出を待つという意味ですが、「待ち」は、「祭り」という説もあります。
村の人びと(=講)が、一定の日に決められた場所に集まり、夜通しで忌み篭りなどして日の出を拝む行事です。
広義では月待ち・更新待ちも日待ちの一種とされ、これらを記念して造立される塔を「日待ち塔」と総称する場合もあります。
信仰的なものから、次第に人びとの娯楽へと変化し、また日の出を待たずして散会するなど多様な変化もあるようです。
歴史資料館の人の話では、2012年現在でも、利根町の一部の地域では、「お日待ち」行事が行われていると聞きました。

立崎共同墓地(龍造寺)

長岡山龍造寺

龍造寺は、由緒は不詳ですが、宗派は新義真言宗で、徳満寺 の末寺でしたが、現在廃寺となっています。
廃寺となったのがいつごろなのか、『利根町史』には記されていませんが、立地的にはこの立崎共同墓地に一致しています。
廃寺と記されているのにもかかわらず、施設として、コンクリート造り、堂内に 千手観音不動尊像 を安置、さらに、
寛政3年(1791)銘の鰐口 があり、寺宝として 東照大神宮位牌 あり、と記されています。
『利根町史』には、共同墓地としての記載はまったくなく、「龍造寺としての堂宇」がまるでどこかに存在しているかのように、
千手観音立像 など写真付きで紹介されていますが、これらはいったい現在、どこに安置されているのでしょうか。
以下で紹介する、記念碑の背後に、小規模の建物がありますが、もしかするとそれを指しているのかも知れませんが・・・。

記念碑(立崎共同墓地の由来)

共同墓地記念碑 共同墓地記念碑背面

廃寺となった龍造寺の敷地は、明治12年(1879)より共同墓地として区画され、各所有者によって相互管理され、
昭和63年(1988)4月には再々整備されて、現在に至っている、というようなことが記念碑の碑文に書かれています。
[上右写真は記念碑の裏面。記念碑自体は、再々整備された同年の昭和63年(1988)8月の建立となっています]

本体: 高74cm、幅126cm、厚12cm。台石: 高81cm、幅156cm、厚75cm。

北相馬郡志と龍造寺

北相馬郡志と龍造寺

野口如月著の『北相馬郡志』の東文間村の項目には、
名所旧跡として、龍造寺の桜について触れられています。

名勝及舊跡 臥櫻、大字立崎龍藏寺の境内にあり、目通り一丈餘、地上に横臥する處より此名あり、枝張四十坪餘、附近住民、此の櫻花の開、不開により播種する者多し。

現在は、その面影はまったくありません。枯死してしまったと思われます。

冒頭に記した『広報とね』(235号)にも、龍蔵寺には、
昭和初期まで「伏せざくら」と「州山の松」という大樹があった、と記されています。

墓地の入口近辺には、地蔵菩薩塔が何基か並べられていたり、
記念碑の奥には庚申塔も3基、設置されていますが、
注目されるのは、墓地入口左手奥に、仏教系とは区別された、
5基の祭神を並べて祀る立派な堂が建っていることです。
まず、この神道系の施設から以下、紹介します。

5つの祠

神道系石祠類が保管された祠ですが、震災後の写真が以下。扉がはずれ内部も破損、すっかり変貌してしまいました。
右下が、当初訪問時の写真で、見比べると一目瞭然です。以下の説明は、最初に訪問したときの様子から記しました。

5つの祠

この立派な建物にわずか5基の石祠が
大事そうに安置されていました。
扉はガラスが嵌め殺しになっていて
開けられそうもありません。
これは余程貴重なものなのでしょうか。
中を直に見てみたかったのですが
ガラスもあり撮影は困難です。
それでも、なんとか撮って順番に紹介。

旧5つの祠

左から、不明の石祠(蛟蝄神社お札)、天神(飾り物)、水神宮(石祠)、八幡大菩薩(石祠)、青麻三光宮(石祠)

蛟蝄神社 天神 水神宮 八幡大菩薩 青麻三光宮
取り外された扉

震災後、取り外された扉が祠の左手に置かれていました。
扉自身の破損がひどかったものと思いますが、これを眺めていて、
もしかして、これは鍵などなしに取り外しできるのかなと。

扉を上下にガタガタやってるとなんとか開けることができました。
それなら内部の石祠がこんなに破損しない前に撮影できていれば
・・・と思いましたが仕方ありません。
以下、とくにひどかったいちばん左の石祠などは、
ジグゾーパズルのようにつなぎあわせたりして撮影しました。

不明の石祠

下左は震災後の無残な様子。その断片を見ながら、以前見た蛟蝄神社のお札と、石祠側面をつなげて並べてみました。
石祠自体がなんであるかは不明ですが、「寛政四壬子八月吉日」とあり、造立は、寛政4年(1792)8月が判明しました。

四社明神 蛟蝄神社のお札と石祠の側面
四社明神

当初、中の石祠に蛟蝄神社のお札が張り付いていたので、
安易に蛟蝄神社と記してしまいました。
しかし、どうもそう簡単には決められないようです。

この石祠本体表面も、かなり風化していて、
最初天地がどうなのかすらも、判断が付きませんでしたが、
何度かひっくりかえしたり、じっと眼を凝らして見ていると
どうも、縦に4行、祭神の名前が列記されていて、
下のほうの文字だけ「・・・神宮」や「・・・宮」もしくは「・・・神」
のように刻まれているように見えてきました。

これは、もしかして「四社明神」と呼ばれるものではないか?
しかし、これは推定の域を脱せず、不明というしかありません。

本体: 高50cm、幅37cm、厚31cm。

天神(飾り物)

天神

天神は、菅原道真像が2体、飾られているだけで、
とくに石祠など見当たりません。

扉が破損して脇に置かれていますが、
像自体は以前と変化ないようです。

石祠がない以上、文化的価値としては、
左のほうの像が何か由緒があるのかなと思いますが・・・。

右の像は、これと同じようなのをどこかで見たことが・・・
どこだったかしら?・・・うーーん、そうそう、思い出しました。
円明寺の境内の塚の上にある祠の中です。
似て非なるものかな?→ 参考・ちょっとちがうか?

水神宮

水神宮

左は石祠表面。内部に「水神宮」と彫られています。
表面右には、「寛政七卯年」とあり、寛政7年(1795)の造立です。

下の写真は、左から順に、石祠右側面と左側面。

右側面には「願主 立崎 □□ 甚□」。
立崎の2名の願主名が記されているようですが、
左側面には、別の2村からの名前が各1名ずつ刻まれています。
中谷村 利右エ□」と「福木村 儀兵□」。

本体: 高35cm、幅24cm、厚12cm。

水神宮石祠右側面 水神宮石祠左側面

八幡大菩薩

八幡大菩薩 八幡大菩薩左側面

石祠表面「八幡大菩薩」と鮮明に読めます。
八幡神は、応神天皇と同一とされる、
誉田別命(ほんだわけのみこと)を祀り、
八幡大菩薩は神仏習合での神号です。

石祠左側面には、「昭和十四年正月吉日」、
昭和14年(1939)正月の造立。
北相馬郡東文間村大字立ア」の銘も。
ノモンハン事件等、日ソ対立が激しくなる年。
戦いの神への祈りは、平和のためには
できれば避けて通りたいことですが・・・。

本体: 高41cm、幅28cm、厚19cm。

青麻三光宮

青麻三光宮

表面に「青麻三光宮」とあります。
うーーむ、これは知らないと読めませんね。少し調べてみました。
青麻は「あおそ」と読み、青麻三光神社が各地にあるようです。
この祠発見時では初耳でした、こんな名前の神社は。
後に、二宮神社でもう1基、見つけました。

祭神は、造化三神の筆頭、
天御中主大神(あめのみなかぬしのかみ)、
そして三貴神のうちの2柱である
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)や
月夜見大神(つくよみのかみ)ということです。
一説には、青麻神は「中風」にご利益があるとか。

3/11大地震では、石祠の笠が下に落ちたようで、2015年現在もこのままです。写真中央は石祠の右側面。右端は左側面。
右側面、右に欠損があり一部文字が見えません。當村右下の文字はおそらく左の「主」とつながり、「願もしくは施」と推定、
すなわち「當村 (願)主 □□□□□ 矢口市郎兵エ 高須能右エ門 小林伊右エ門」の4名が刻まれているようです。
左側面は「嘉永五子年」で、この石祠は、嘉永5年(1852)の造立。

青麻三光宮石祠笠 青麻三光宮石祠右側面 青麻三光宮石祠左側面

台石には多数、名前が刻まれています。正面は「當村」と14名、右側面は「世話人 福木村」数名、左側面「世話人」数名。
左右側面の名前は角度が悪く、ほとんど読み込めません。左側面は立崎村ではなく、中谷村の世話人の可能性があります。

青麻三光宮台石右側面 青麻三光宮台石 青麻三光宮台石左側面

台石正面の14名は、右から「高濱甚・小泉茂・浅野久兵エ・坂本常右エ門・糸賀齋右エ門・同 三郎エ門・瘤R惣兵エ・岩戸七左エ門・横田重左エ門・大越平左エ門・小泉儀左エ門・同 徳兵エ・糸賀繁藏・土屋竹右エ門」。

本体(笠を加えたサイズ): 高76cm、幅53cm、厚47cm。台石: 高24cm、幅48cm、厚39cm。

庚申塔3基

5つの祠の右に石仏が3基並んでいます。いずれも塔の下部に三猿もしくは邪鬼が彫られていますので庚申塔です。
風化が進んでいますが、真ん中の庚申塔の表面右に辛うじて元禄8年(1695)の文字が見えます。(下右写真参照)
『利根町史』には、庚申塔として、寛文13年(1673)ほか3基とありますが、計4基では1基足りず、数が合いません。
寛文時代の石仏はそうとう古いので、以下の右端の板碑型庚申塔の可能性が強いですが、果たしてどうでしょうか。

3庚申塔 元禄8年(1695)銘

庚申塔1

庚申塔1

邪鬼を踏んだ青面金剛が刻像された庚申塔です。
像は1面4臂で、上の2臂は左手が定番の三又戟ですが、
右手は金剛杵でしょうか、ちょっと分かりにくいですね。
下の2臂は左手が弓、右手が矢と、これも定番です。
邪鬼の下は、三猿がありそうな気もしますが、よく見るとなさそうです。

せっかく光背があるのに、左方に「十月吉日」しか読み込めません。
造立年が知りたいところですが、光背部分を磨きあげれば・・・。
風化も進んで、かなり古いものにも見えますが、
これが『利根町史』の寛文時代のものとは断定できません。

本体: 高83cm、幅37cm、厚19cm。

庚申塔2

庚申塔2

これも、青面金剛の庚申刻像塔ですが、
こんどは三猿は見えますが邪鬼は踏んでいないようです。
1面6臂で、上は宝剣と法輪、中央は合掌、下は弓矢といずれも定番。
また、上部左右には、日月雲の浮彫もかすかに見えます。

さて、銘文ですが、コケが白く一面に覆っていて見づらいですがなんとか・・・。
光背右上に「元禄八乙亥年」、左上に「十月十九日」、
つまり、元禄8年(1695)10月19日の造立。
この日付は十九夜塔によく出てくるものですね。
無論、これは『利根町史』に記された庚申塔ではないことは明らかです。

光背の下部右には「立ア村」、左下には「同行廿人」とあります。

本体: 高102cm、幅46cm、厚28cm。

庚申塔3

庚申塔3

下部に三猿があり庚申塔であることは確かですが、銘文がとても読みづらいです。

梵語ウン

中央上部、板碑型特有デザインのくぼみ部分に種子が彫られています。
青面金剛を表す梵語ウン(左図)なら文句なしですが、明瞭ではありません。

種子の下に「奉造立庚申供養二世安樂也敬白」とあります。
そして、その右が「寛文十三癸丑年」、左に「十一月吉日」。
すなわち、寛文13年(1673)11月造立。これが『利根町史』言及の庚申塔でした。
ただ、寛文13年は9月21日に改元して延宝時代に変わります。
したがって、11月造立のこの塔は、正確に言えば、延宝元年となるところです。

なお、塔の下部、三猿の真上あたりに、多数の文字が彫られているようです。
これは小さく雑然としていて、判読ができません。講中・世話人の列記と思われます。

本体: 高93cm、幅38cm、厚23cm。

六地蔵塔と8基の謎

墓地の入口から直進してすぐ左に縦に並んでいるのが、下の石仏。見るとすべて地蔵菩薩塔のようです。
六地蔵塔なら意味があるのですが、都合8基。ところが左から4基目に「奉建立六地藏尊」と光背に刻まれています。
8基のうち6基が六地蔵塔である可能性が高いと思われましたが、六地藏尊の銘文があるのはその1基だけでした。
ほかの5基がそろっているのかどうか。それも連続して並んでいるのかどうか。調べてみる必要があります。

調査の結果、光背の形が似ていて、銘文に「立ア村男女講中」とあるものが該当するのではないかと推定しました。

地蔵8基

また、六地蔵の特徴として、
仏像図絵にある以下の一例を参考に、
各塔の像容を見比べてみました。

仏像図絵の六地蔵

  1. 地持地蔵(護讃地蔵)
    両手で念珠を持つ
  2. 陀羅尼地蔵(弁尼地蔵)
    右手施無畏印、左手引摂印
  3. 宝性地蔵(破勝地蔵)
    合掌
  4. 鶏亀地蔵(延命地蔵)
    右手錫杖、左手如意珠
  5. 法性地蔵(不休息地蔵)
    両手で柄香炉を持つ
  6. 法印地蔵(讃竜地蔵)
    両手で幢幡(どうばん)を持つ

以下、上写真の左から個別に説明します。

地蔵菩薩塔1

地蔵菩薩塔1

これは、他の像とは異なり、光背型ではなく丸彫りのようです。
しかも、地蔵塔によくある「首なし地蔵」。
定番である、右手に錫杖、左手には宝珠、の地蔵菩薩塔。

丸彫りの場合、台石もないと銘文がない場合がほとんどで、
これでは造立年等まったく分かりません。
当然ながら「六地蔵塔」の1基には該当させられません。

本体: 高70cm(首欠損)、幅26cm、厚22cm。

六地蔵塔(1)

六地蔵塔(1)

光背の形と左下に「立ア村講中」とあるので、
この塔を六地蔵塔の1基と推定しました。
右手に錫杖、左手に如意珠を持つところから、
鶏亀地蔵(延命地蔵)に該当するものかと思われます。
如意珠(如意宝珠)は、仏教において様々な霊験を表すとされる宝の珠のことで、
下部が球形、上部が円錐形に尖った形となっています。

(→ 何度も言うようだけれどボクはぜんぜーん関係ないからね

光背右上から「□□普生童女」と娘子の戒名が記されています。

問題は光背左上の「文化元甲子年」。
文化元年(1804)ですが、これが塔の造立年とすると、
ほかの六地蔵塔も同様と推定されます。
というのは、造立年が刻まれた六地蔵塔該当の塔はこれ1基だけなのです。

この地の六地蔵塔には、造立年もそうですが、
そもそも何基が残存しているのか等々、かなり暫定的な推論をせざるを得ません。

本体: 高59cm、幅29cm、厚16cm。

地蔵菩薩塔2

地蔵菩薩塔2

この塔は、光背の上部が鋭角的で、
次に紹介する「奉建立六地藏尊」銘の光背の形とは若干、異なって見えます。
また、像容では「合掌」しており、この3基右の塔の合掌と重複します。

さらに、光背右下に「元禄四」、「正月」の文字が見え、
元禄4年(1691)正月と少し古い造立の塔。
もし、この塔を六地蔵の構成1基と仮定すると、
当然、前の六地蔵塔(1)と、造立年が大幅に異なり、矛盾が生じます。

その上、「立ア村講中」関連の銘も見当たりません。

この塔を六地蔵塔の一部とするには、かなり不揃い感がありますので、
別の独立した地蔵菩薩塔としました。

本体: 高58cm、幅28cm、厚17cm。

六地蔵塔(2)

六地蔵塔(2)

これが、中途半端な8基という塔数に対して、六地蔵の存在を明示してくれた塔。

光背右に「奉建立六地藏尊」と明快に刻まれています。
当初、龍蔵寺墓地訪問時は、各地蔵塔をよく調べもしなかったので、
8基の数に気を取られて、六地蔵の存在をまったく想定していませんでした。

光背左には「立ア村 老若男女 願主 観随」とあります。
しかし、造立年の銘文は見つかりません。
六地蔵塔(1) の1基で示しているから重複刻銘は蛇足、ということなのでしょうか。
同時に「願主 観随」もこの1基のみ。僧侶らしき名の観随が共通願主と思われます。

地蔵の像容は、ちょっと手の辺りが明快ではなく、
当初、両手がそれぞれ何かの印を結んでいるのかと思いました。
仏像図絵の六地蔵 で言えば、陀羅尼地蔵(弁尼地蔵)、
その右手施無畏(せむい)印、左手引摂(いんじょう)印であれば
ぴったりなのですが、手・印の形が違うように見えます。

よくよく像容を眺めていると、どうも念珠を持っているようにも。
念珠が正しいとしたら、この像は、地持地蔵(護讃地蔵)に該当することになります。

本体: 高60cm、幅29cm、厚18cm。

六地蔵塔(3)

六地蔵塔(3)

この地蔵も、前記とは別次元で不明なところがある塔です。

光背左に「立ア村男女講中」とあり、
この刻銘は一連の六地蔵塔の様式に合致します。
また、全体的な形も前掲の 六地蔵塔(2) とよく似ています。

問題は、仏像図絵の六地蔵 を参照したときの、持ち物と地蔵の種類です。
以下の(4)(5)(6)が比較的、持ち物・像容が見やすいので、
地蔵の種類をそれぞれ当該のものにあてはめやすいのですが、
前述(1)(2)とあわせて、残った候補は、
「陀羅尼地蔵(弁尼地蔵)右手施無畏印、左手引摂印」になります。

しかし、この像の手は印を結んでいるというより、
何か香炉のようなものを持っているように見えます。薬壺かも知れません。

六地蔵の持ち物は様々な組み合わせがあるようなのですが、
仮に香炉だとすると、後述の六地蔵塔(6)の柄香炉との重複が気になります。
施無畏(せむい)印、引摂(いんじょう)印とは関連がない像であるなら、
陀羅尼地蔵(弁尼地蔵)とは言えないのかどうかが不勉強で分かりません。

本体: 高61cm、幅28cm、厚17cm。

六地蔵塔(4)

六地蔵塔(4)

この塔も、光背左に「立ア村男女講中」とあり、
形状も一連の六地蔵塔に類似ということで、六地蔵塔(4)としました。

ただし、光背右に「良臺香範童子」と、
六地蔵塔(1)と同様に、子供(男子)の戒名が彫られています。

地蔵の像容は、合掌の形なので、
仏像図絵の六地蔵 では、宝性地蔵(破勝地蔵)に該当します。

本体: 高48cm、幅28cm、厚15cm。

六地蔵塔(5)

六地蔵塔(5)

これは、光背の右に「立ア村男女講中」が刻まれています。
全体の形も六地蔵のひとつとして、十分に該当するものと思われます。

像容として、地蔵が幢幡(どうばん)を持っています。
幢幡とは、竿の先に吹き流しを付けた荘厳具のことで、
仏像図絵の六地蔵 では、法印地蔵(讃竜地蔵)が該当します。
両手で持った幢幡の吹き流しの方向は
右でも左でもとくに決まりはないようですが、
この場合、塔に向かって左方向に図柄をデザインしたので、
立ア村男女講中を刻むべき本来の位置を、
左から右に変更を余儀なくされたというところでしょうか。

本体: 高60cm、幅28cm、厚16cm。

六地蔵塔(6)

六地蔵塔(6)

最後の右端の地蔵も六地蔵のひとつと推定されます。

この像容は風化で少々見づらいですが、持ち物として、
柄のついた香炉、つまり柄香炉を、向かって左方向に両手で掲げているようです。
前記の幢幡のように吹き流しはないため、
光背左下の定位置に「立ア村男女講中」が、
六地蔵の構成員であることを示しているかのように、刻まれています。
ただ、この文字の書体が少しほかとは異なるように見えます。

ともかく、柄香炉を両手に持つ地蔵ということで、
仏像図絵の六地蔵 の法性地蔵(不休息地蔵)が該当します。

本体: 高61cm、幅28cm、厚18cm。

以上、8基の地蔵を個別に見てきましたが、六地蔵の6基は残存しているようですが、各地蔵の詳細な名称は不確定です。

法印俊治筆子塚

『利根町の文化学芸碑』第4集に元・町史編纂委員の高塚馨氏が「利根町では最古の筆子塚」であろうと記しています。
それが、この立崎共同墓地にあるということで、さっそく探してみたのですがどうも見つかりません。
まあ、そんなことはよくあるので、諦めて惣新田方面への出口(=入口)に向かうと左手にそれらしきものが!(下写真)
なんのことはない、入口を入ってすぐ右手にあったのに、奥の墓地の中ばかり探していました。でも見つかってよかった!

墓地入口右手 法印俊治筆子塚
法印俊治筆子塚

上右写真の中央の墓碑が当該の筆子塚。台石に「筆子中」とあります。(下写真)
左が碑表で、以下のように彫られています。上部は水天の種字、व と思われます。
       享和元酉天
種子(バ)権大僧都法印俊治位
       九月二十一日

法印俊治筆子塚台石

享和元年は西暦1801年。
権大僧都や法印で、当然、
俊治が僧侶であることが
分かります。
権大僧都の地位は以下。
僧階について 参照。


法印俊治筆子塚左側面 法印俊治筆子塚右側面

左から左側面と右側面。
俊治の主要な弟子が2名記されていますが、
写真ではかなり拡大しないと
読みづらいと思います。

[左側面]
俊治弟子
    明蓬法子位

[右側面]
俊治弟子
    秋圓法子位

法印俊治筆子塚台石上左側面

左は台石上段の左側面。
立崎村の門弟と思われる名前が列記されています。

立崎村
宮本 清七
土屋 佐右エ門
同 利三郎
小林 冨八
矢口三五郎
西峯猶右エ門
杉山 林助

また、台石上段の右側面にも、以下の名前が彫られています。
浅野 易治・同  幸治・下村柳右衛門・荒井 栄七・立木新田 上原 新助・太古 忠助・鬼沢 勇吉
さらに、台石上段の裏面には、俊治生家  岩戸七左エ門 とあり、現在の岩戸義男氏の家ということですが、
権大僧都法印俊治についてはよく分からないとのこと。200年以上も経過していますので、まあ、ムリもないことですよね。

本体: 高94cm、幅32cm、厚32cm。台石上: 高28cm、幅51cm、厚52cm。台石下: 高28cm、幅67cm、厚67cm。

力石?

墓地入口の多数の石塊

共同墓地入口左には、左のように、
多数の石塊が置かれています。

そこそこ大きいものもあるようですが、
「力石」や「さし石」と呼ぶには、
小さいような気がします。

「漬物石」なら十分でしょうが(笑)、
昨今、それを必要とするご婦人は
少なくなったような・・・。

なお、柱が2本写っていますが、
無論、鳥居ではなく、単なる電柱です。

立崎集会所の大師と石仏

立崎集会所外観

ここに初めて訪れた2005年は、
夏でしたが、日没少し前で、あまり
時間の余裕がありませんでした。

とくに鳥居などの神社はなく、
大き目の大師堂がひとつと
その周囲に、石仏がいくつか。
それで、足早に写真を撮っただけで、
早々に帰途につきました。

立崎の大師

立崎の大師

4年後に再訪問したときも、
この大師堂には札所番号はないと
思い込んでいたので、気が付かず、
3つの番号があることを知ったのは、
2012年になってからでした。

ただし、正確にいえば、
2つもしくは3つなのですが、
少なくとも2つは確定しています。

左の写真では分からないのですが。

大師49番と54番

大師札所番号

垂れ幕をあげてみると、49番と54番の番号札が見えます。
しかし、内部は3つの小部屋に分かれていて、
それぞれに下の写真のように大師像が安置されています。
真ん中には2体の像も同時に置かれています。

さきほど2つもしくは3つの札所番号という話をしましたが、
『利根町史』に、それが記載されているのです。
49番と54番のほかにもうひとつ8番。
しかも、この記述は、前記の龍造寺の項目で、
大師堂として「中坪集会所にあり」と記されています。
これは、元々は龍造寺に3つの札所があり、
後にこの立崎(中坪)集会所に移動したともとれます。

大師像左 大師像中央 大師像右

本体(54番): 高39cm、幅29cm、厚22cm。本体(49番左): 高33cm、幅24cm、厚12cm。本体(49番右): 高40cm、幅23cm、厚17cm。
本体(番号なし): 高34cm、幅25cm、厚18cm。

真の大師8番札所は?

大師堂が龍造寺の境内から集会所へ移動した、もしくは、集会所敷地自体が龍造寺境内と同等に扱われたかはともかく、
問題は、8番札所の存在です。実は、すでにこのサイトで、別の場所を8番札所として紹介しているのです。
それは、羽中の稲荷大明神の大師 です。この場合、69番札所と隣接していますが、確かに番号札が掲載されています。
しかし、立崎集会所大師堂には8番の番号札はありません。『利根町史』の龍造寺項目に3つ併記されているだけです。

  1. 『利根町史』の記述がまちがっている
  2. 羽中の稲荷大明神の大師8番札所がまちがっている(『利根町史』の記述は正しい)

もし、1だとしたら、立崎集会所の大師堂になぜ3つも仕切りがあるのか。
もし、2だとしたら、立崎集会所の大師堂になぜ8番の札がないのか。
いろいろ疑問が残りますが、タヌポン推定では、『利根町史』の記述ミスで立崎集会所の3つの仕切りはとくに珍しくない、
こんな感じでしょうか。いずれにせよ、この四郡大師の札所番号についてはほかの地区でも不明のことが多々あります。

石仏7基

石仏7基

大師堂に向かって右手、
集会所の建物との間に
7基の石仏が並んで
設置されています。

風化が激しく、
ほとんど不明のものもありますが、
多くは仏弟子の墓塔もしくは、
月待の供養塔のようです。
神道系のものはないようです。

以下、左端の塔から見ていきます。

墓塔1

前面右下(下写真左参照)および背面下部も欠損(下中央右側面参照)のため、銘文が一部不明です。右端は左側面。

墓塔1 墓塔1右側面 墓塔1左側面

正面中央は、上部に大日如来の種子[ア]が彫られ、その下に僧侶の名らしき「淨心□□」とあります。
左右には「天保」と「二月初六」が見え、天保年間(1830〜1844)と2月6日の意味合いだけ読み取れます。

寄の異体字

右側面は、欠損があり推定も含みますが、「當村世話人 年寄中 建立之」と刻まれているようです。
年寄の「寄」は、左のような異体字を使用。立崎の「ア」のようにこの時代は、この記し方ばかりです。

左側面は「下総國北相馬郡寺田村□」。□はおそらく「産」で、淨心□□の出身地と思われます。
寺田村とは、現在の取手市。1889年(明治22年)に寺田村と桑原村が統合し寺原村となり、1955年取手町に編入。

本体: 高61cm、幅27cm、厚20cm。

不明の塔

不明の塔

当初、これも僧侶関係の墓塔かと思ったのですが、造立日に「吉日」とあり、
どういう意味合いの塔なのかよく分からなくなりました。
また、上に笠が載せられていますが、縦になったり横になったり、
どうも本体とセットになっているものではないような気もします。

ともあれ、銘文を右から読み込んでみます。
理覚光栄信士
森谷町願主
安室妙詮
村宗右エ門

1行目末が「信士」と読めるのでやはり戒名であり、墓塔なのでしょうか。

森谷町というのも、現在の守谷なのかどうか、村ではなく町というのも不可解です。

5行目に「文政元寅十一月吉日」とあり、文政元年(1818)11月の造立。

本体: 高45cm、幅29cm、厚19cm。

馬頭観音塔

馬頭観音塔

像容では、邪鬼や三猿などが見えないので青面金剛ではなく、
馬頭観音像ではないかと推定。

光背右上は「文政十年」と読みましたが、
干支もなく、「十」が明快ではありません。
とりあえず文政10年(1827)の造立は暫定です。

本体: 高39cm、幅25cm、厚16cm。

十九夜塔

十九夜塔 十九夜塔右側面

光背右上は「奉待十九夜女人講中」。
十九夜の月待ち塔と思いますが、
像容は通常は「如意輪観音」が主尊。
これは赤子に乳を与えているので、
子安観音に変化したものとも推定されます。

右側面に「寛政七卯十一月吉日」。
寛政7年(1795)11月の造立ですが、
まだ如意輪観音とするのが妥当かも・・・。

本体: 高63cm、幅27cm、厚18cm。

十六夜塔

十六夜塔

これは銘文が明快に読める「如意輪観音」の刻像塔。光背右から、
十六夜女講中三十二人
立ア村 中組 下組
安永八己亥年 十月吉日

立崎の中坪と下坪の女性32人が集まって、
十六夜の月待ち供養を行い、
安永8年(1779)10月にこの塔を造立した、という意味ですね。

十六夜塔の本尊は、如意輪観音ではないのですが、
如意輪観音の好きな利根町ならではの刻像です。

本体: 高76cm、幅27cm、厚20cm。

墓塔2

墓塔2

上部に種子、阿弥陀如来(キリーク)が彫られているようですが、
刻銘文字のほとんどが解読不能です。

左のほうの1行が「惠□□□□信女」と読めるので、
2名の戒名を列記した墓塔の一種と思うのですが・・・。

本体: 高49cm、幅24cm、厚17cm。

墓塔3

墓塔3 墓塔3左側面

これも上部にキリークのある墓塔。
若干、下部がセメント下に埋もれています。

表面中央に「淨圎法子位」と戒名があり、
左右に「文政十三寅天 正月二十三日」、
つまり文政13年(1830)1月23日の造立。

法子とは、仏法上の子。つまりは弟子のこと。
得度の弟子、伝法の弟子それぞれを
意味する場合もあります。
そういった人のお墓ということでしょう。
ちなみに文政13年は12月10日に
改元して天保元年となります。

左側面は、セメントがはずせそうなので、
取り外してみると最下部が読めました。
相模國相甲郡 棚沢村 俗名弥七」。
相甲郡棚沢村は、現在の神奈川県厚木市。

本体: 高67cm、幅27cm、厚18cm。

庚申塔と墓塔など

庚申塔と墓碑など

大師堂の左手にも
4基ほど石仏が見られます。

左写真で後ろ向きの2基が庚申塔。
正面には樹木がありよく見えません。
庚申塔であること等、調査したのは、
実はかなり後のことでした。

こちら向きの2基は、墓塔と仏塔関連。

左は2009年3月時点の写真ですが、
これが、2年後に様相が一変します。

大地震後の庚申塔と墓塔など

左はさらに3年後の2012年時の写真。

おそらく2011年3月11日の地震で倒れたのだと思いますが、
おかげで、前記左の2基が庚申塔であることがよく分かります。
右にあった墓塔のほうは、奥に見える石塊がそうなのですが、
この時点では、紛失してしまったものと思っていました。
実は、こちらのほうは裏向きにひっくり返っていたのです。

これら4基を詳しく見てみるのは2015年になってから。
倒れたり、裏返しになったりしていますので、
撮影できる角度に動かすのにヒーヒーいいました(笑)。

以下4基、庚申塔のほうから説明します。

庚申塔4

庚申塔4 庚申塔4左側面

1面6臂の青面金剛が刻像された庚申塔。

上部に日月雲の浮彫が施され、青面金剛は、
邪鬼を踏み、棒と法輪、弓矢を持っています。
邪鬼の下には、二鶏も描かれているようです。

左側面を見ると「寛政十二庚申九月吉日」、
寛政12年(1800)、庚申の年の9月造立。
下に、「立ア村 講中」も見えます。

あっと、これは驚きです。
最下部にうっすらと見えるのは「猿」?
もし、三猿や二猿だとしたら、
正面ではなく、側面に彫られているのは、
初めて見ました。

本体: 高69cm、幅35cm、厚21cm。

庚申塔5

庚申塔5

最下部に三猿が明確に分かる、縦長の駒形庚申塔です。
三猿の上には二鶏も見えます。

上部には日月雲の浮彫があり、その下に3行で多くの文字が彫られています。

中央に、青面金剛の種子ウンがあり、その下は、
奉供養庚申待成就爲二丗安楽也」。

上部左右に「享保元丙申天 十一月吉日」、
享保元年(1716)11月の造立です。

下部左右には「立ア村 同行廿七人」も刻まれています。

本体: 高96cm、幅32cm、厚17cm。

墓塔4

石仏2基 庚申塔5

以前の墓塔らしき塔が見えないので紛失したのかと思っていたら、裏返しになっていました。
この大きさならなんとかひとりでも持ち上げられます。せっかくですので、台石の上に・・・。

中央上に、阿弥陀如来の種子のキリーク。その下に「覚誉宗心法子」。やはり、仏弟子・お坊さんの墓塔ですね。

左右に「享保六辛丑 四月廿四日」。享保6年(1721)4月24日歿のようです。造立日としておきます。

本体: 高60cm、幅28cm、厚17cm。

五輪塔水輪?

五輪塔水輪?

左の円柱は、五輪塔や仏塔関連の破損した一部ではないでしょうか。

五輪塔だとしたら、水輪あたりが候補ですが、
「水」をあらわす梵字とはちょっとちがうような・・・。

宝篋印塔の塔身あたりかも知れません。要するに、不明です(笑)。

本体: 高40cm、幅26cm、厚24cm。

立崎集会所

立崎集会所

「立崎集会所」の看板が掲げられています。
『利根町史』に「中坪集会所」という言葉が出てきますが、
「上坪集会所」や「下坪集会所」は存在しているのでしょうか。

土手下の水神宮

『利根町史』の地図に、立崎地区の南、利根川土手に近い位置に水神宮という表記を見つけました。
いままで、バイクで土手の上を何度か走ったりしていましたが、それらしいものは見つかっていません。
それで、立崎下坪道祖神を見つけたときにお会いしたB婦人に、「この近く土手の方向に水神様はありませんか?」。
訊ねてみるものですね。「それなら、いま工事中だけど途中までなら行けるかも」と教えていただきました。
大地震関係の修復工事がまだ続いているのか、バイクでは途中までで、土手に上がる道は通行止めになっています。
でも、徒歩ならなんということもなさそうなので、土手まで登ってみました。そして、下流方向を見てみると・・・。

以下の左写真がそれですが、すぐ前方に赤い旗が2本立っています。あの辺りがあやしいですね。近づいてみます。

土手から水神宮を 土手下の水神宮

そして、旗の立った地点まで行き、土手下を見た写真が右上。
ちょっと見づらいですが、2mほど下に確かに2.3基の石祠らしきものが草に埋もれています。
『利根町史』の記述とB婦人の話をあわせて判断すると、まず「水神宮」の石祠にまちがいないと思います。

宿題

見ると、かなり下のほうまで、大きく縄で囲われています。下にもなにかあるのでしょうか。
しかしながら、ここの探索は足場も悪く、あまりに雑草が繁茂しすぎてその範囲も広大です。
この右上の写真すらも、これでも土手上から近くにあった鉄棒で雑草を少しなぎ倒した上での撮影です。
残念ですが、石祠の詳細や、もっと下の河川敷での調査は後日の宿題としました。
雑草の枯れる冬場か、草刈の道具等々装備を整えてからでないといまのタヌポンでは体力ももちません。

ということで、この「水神宮」は、要再調査ですが、水神宮の石祠が存在していることだけは確定できそうです。

宿題完了

違う目的で向かったのですが、町の草刈りがされていたのと以前は通れなかった土手の道が一部通れるようになったので、
例の場所に行って見ました。あの場所も草刈りされたことを期待していたのですが、結果は下左写真のとおり。

土手から水神宮を

当該場所だけ、雑草が刈り取られていません。
担当の人も何か大切なものを刈ってはいけないと思い、
縄で囲われた部分は除外したのでしょう。

でも、周りの雑草がなくなったのと、以前より心なしか
囲われた内部の雑草の背丈も低くなったような気がします。

現実に以前ははっきりしなかった石塔の数も
こんどは2基だと明確に分かります。
しかし、向きがこちら向きではない様子です。
思い切って坂を下って向こうから石塔を見てみるしかないですね。

水神宮2基

表面に回りこんで見てみると、幸い石祠のなかに「水神宮」が読み込めます。これで確定しました。
右の石祠のほうが古そうで分かりにくいのですが、なんとか「水」の文字は読み込めます。上部の丸いものは蜂の巣です。

土手から水神宮を 左水神宮左側面

左の石祠だけ左側面に「文化七午八月吉日」すなわち文化7年(1810)8月造立が分かりました。
右の石祠は、ちょっと風化が激しく文字の痕跡が見つかりませんでした。でも、これでまあ「宿題完了」です。

再々調査、難航

前記2基の石祠をもういちど詳しく調べようと2015年夏に土手の遊歩道に行ってみたのですが、目印の旗が見えません。
何回も往復し、若草大橋が見えるところまで探しましたが、雑草刈り前のためか、まるでそれらしきものが見つかりません。
以前にはなかった2本のポールが立っているところがありましたが、単純に真上から見ても右写真のような感じです。
ほかの調査目的地もあったので、次回は剪定ばさみ持参で、草刈りを覚悟で来るしかないと思い、一度は断念しました。

目印の風景 目印の風景

2日後、以前撮った写真を印刷持参して似ている景色を検討すると、まさに上記の2本のポールの位置が該当します。
石祠がまったく見えませんが、とにかく、剪定ばさみで草刈りから始めました。すると、やっとそれらしきものが・・・。
2基の石祠のサイズを測るのが主目的でしたが、以前は分からなかった銘文が判明し、苦労のかいがありました。以下。

水神宮1

向かって左の石祠。左から順に、右側面、正面、そして左側面の写真。正面は前述通り「水神宮」です。

水神宮1右側面 水神宮1 水神宮1左側面

右側面が新たに判明。「立ア村中 願主 儀左エ門 安左エ門」。左側面「文化七午八月吉日」で前回調査時と同様です。

本体: 高53cm、幅39cm、厚23cm。

水神宮2

もう1基、右のほうの水神宮。左から、右側面、正面、そして左側面の写真。前回不明だった銘文を見つけました。
右側面は見づらいですが「施主 □□」、左側面は「□六夜講中七人」とあるようです。

水神宮2右側面 水神宮2 水神宮2左側面
水神宮2正面拡大

左は正面の拡大写真。

中央は、やはり「水神宮」でしょう。

両脇左右に「寛政七卯年」「十一月吉日」、
つまり、寛政7年(1795)11月の造立と判明しました。

本体: 高48cm、幅24cm、厚22cm。

目印の景色

目印の風景

だいたいのデータはそろったので、
もう再訪問することはないとは思いますが念のため。
竹の旗ではなくポールが立っているので、
以前より耐久性があるとは思いますが、背景の写真を。
川向うは印西市。遠くに茶色の何かの建物が見えます。

これが石祠を検分できる最小限度の草刈後の写真ですが、
1mほど下ると急に勾配がついてくる坂なので、
この角度では石祠は下に隠れていてまだ見えません。

降りるときは足場に注意しないと危険です。
もうちょっとなだらかなところに石祠を立ててほしかったです。

あーーー、それにしても、8月盛夏の炎天下、手動式剪定ばさみで草刈りすることになろうとは!いつも、なぜかこんなことに。


付録:石仏新発見!

再編成のための調査でもうひとつ発見がありました。立崎中坪の道祖神(道陸神) から県道を挟んで斜め左の畑のなかに。
左下がその新発見した石仏方面を見たカット。右下は、逆にその石仏のある地点から道祖神の鳥居を見たもの。
このポイントは、県道より東で立崎地区ではなく、立木(新田)区域になるので、詳細はそちらで紹介する予定です。
コンテンツが出来次第、ここからリンクを貼りますので、少々お待ちください(少々ではないかも?)。

立木新田「石仏4基」 コンテンツ追記しました。しかし・・・内容は・・・。

立崎中坪の道祖神から石仏を見る 石仏地点から立崎中坪の道祖神を見る

(15/08/11 追記再構成) (13/11/20・12/08/31 追記・12/06/19 追記再構成) (06/05/07) (撮影 15/08/10・15/08/08・15/05/04・13/11/17・12/08/30・12/06/17・12/05/05・12/04/29・12/04/25・09/03/18・05/08/26・05/08/14・05/08/13・05/05/07・05/03/21)


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