目 次
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更新経過
2013年より石造物データをページ末に掲載するため
各コンテンツを順次見直ししていくことにしました。
立木新田のコンテンツはボリュームが少ないので、紹介する石造物もわずかです。
が、今回の再調査で以前の誤謬も若干見つかり修正、写真もいくつか差換えしました。
(15/04/18)
利根町には蛟蝄神社や円明寺のある一帯を立木と呼んでいますが、
これとは別に、立木地区の南の立崎と東端の惣新田の間に
かつて「立木新田」と呼ばれる一画がありました。
現在では立木の地名で統一され、バス停と橋にその名を残すのみになっています。
この地域は寛文7年(1667)、代官となった伊奈半十郎忠常により、
その翌年、惣新田前の野地を立崎村と立木村に割り渡して開墾、
この立木村割当分が立木新田と呼ばれるようになりました。
すぐそばを新利根川が流れていますが、立木新田橋という橋の辺りから、
それまでの用水からようやく小川っぽい雰囲気になってきます。
この風情がなんとなく気にいって、しばしば訪れたりしました。
当初、ここに「立木新田の水神宮」があるということで探索しましたが、
目的を果たした後は、新利根川や惣新田の風情ばかりに気をとられて、
水神宮のポイントは素通りするばかり。7年ぶりかでコンテンツ再構成のため再確認しました。
(12/05/04)
立木新田は、以下のマップの西南の端。少し北に立木新田橋があるのですが、橋はこのマップでは欄外に出てしまいます。
そもそも最初に立木新田を訪問しようと思ったのは、『利根町史』に記された「立木新田の水神宮」を探すためでした。
目次の関連リンクで紹介したように、利根町には石祠だけのものも含めると、水神宮が12ヵ所も設置されています。
利根川・小貝川等による洪水の危険をつねにはらんだ土地ゆえに、水神宮が数多く造立されるのはとうぜんでしょう。
利根町だけでいったいいくつあるのか。探索当初に、水神宮をすべて見つけてみようと思っていたわけです。
→ 水神宮12ヵ所から、最終的に18ヵ所発見。(2016年6月現在)
その過程で、立木橋たもとの「立木の水神宮」と混同してしまい、立木橋の近くをぐるぐる廻ってばかりいたこともありました。
立木橋よりひとつ下流に「立木新田橋」があることを発見、ようやく近くの住人に尋ねてその場所を知ることができました。
それが、左のポイント。
左から大師、右に5基の石祠。
ところが、ここは以前、
惣新田を訪ねたとき、既に
撮影済みのポイントでした。
2005年5月に訪ねたとき、
東南の加納新田から北上し、
惣新田集会所の勢至堂を経て
こちらに向かってきたタヌポンは、
てっきりここも
惣新田地区と思っていました。
実際は、手前数メートル先からが
惣新田地区となるわけです。
したがって、左の
写真のいちばん右にある石祠に
彫られた水神宮の文字を確認
していたのですが、それが、
「立木新田の水神宮」 だったとは!
それでは、あらためて、右からしっかり見ていくことにします。
石祠正面中央に「水神宮」とあり、右側面には「立木新田 女講中」とあります。まさしくこれが当該石祠でした。
祭神はやはり、水の女神である、弥都波能売命(みつはのめのみこと)。
左側面に「文化八未正月吉日」とあり、文化8年(1811)の造立です。
ちなみにすぐ横にブロックがあって、当初の位置では、どうしても文化の文の字が見えませんでした。
石祠本体を少しずらすことによってやっと判読・撮影できました。もちろん、撮影後は正しい位置に戻しました。
本体: 高47cm、幅37cm、厚25cm。
1面6臂、邪鬼を踏む庚申塔の守護神である青面金剛が描かれています。
頭部は髑髏ではないかと思いますが、これがもし馬だとすると馬頭観音かも・・・。
このあたりの判別がまだよく分かりません。
とりあえずは青面金剛の刻像庚申塔としておきます。
上部には日月雲の線彫りがうすく見えます。下部には典型的な三猿もありますね。
合掌した2本の手の他は、法輪・三又戟・弓・矢を持っているようです。
左上に「安永二巳十一月吉日」、右下「立木新田」の文字がかすかに読めます。
安永2年(1773)の造立です。
本体: 高74cm、幅31cm、厚20cm。
中央石祠内部、かすかに「道祖神」が読めます。
右側面に「明和九辰十月吉日」、明和9年(1772)10月の造立。ところで「明和9年」とは→ 明和9年は迷惑な年
ちょっと奇妙なのは、左側面の「奉供羪十九夜」。道祖神で同時に十九夜塔、ということはありえるのでしょうか?
十九夜は、十五夜にも読めるのですが、いずれにせよ道祖神と月待ち信仰との関連がよく分かりません。
本体: 高47cm、幅33cm、厚25cm。
右上に、これも辛うじて、また推定もいれて、
「馬頭觀世音」と記されているのではと・・・。
まあ、刻像されているのは、確かに馬頭観音の坐像に見えます。
造立年等、記されていると思うのですがどうにも文字が読みとれません。
ちなみに馬頭観世音については、以下参照。
→ 羽中の観音堂「馬頭観世音」
本体: 高65cm、幅28cm、厚21cm。
像は、赤子を抱いた子安観音ですが、文字関連が見えません。造立年が知りたいところです。
もし、江戸初期より幕末に近い時期なら、如意輪観音から変化した子安観音です。ある日閃いて右側面を・・・。
左が大師堂ブロックに隠れていた右側面。
「天保十亥十一月吉日」。
天保10年(1839)11月の造立と判明。
やはり江戸後期の造立でした。
立木新田から惣新田にかけては、なにかしら
やさしい雰囲気がただよっています。
惣新田の三夜様(さんやさま)勢至菩薩、
女人講等々、女性のやさしさが
伝わってくるような雰囲気を感じます。
そういえば、探索をはじめてまもないころ、
この場所で、とても気品ある女性から、
「何をお調べになっているの?」と
親しげに声をかけられました。
そんなわけで、この辺りはお気に入りです。
ほかの場所では、だいたい、タヌポンを見て
怪訝な顔をされるんですけどね(笑)。
(15/08/09 追記) (右側面調査・撮影 15/08/08)
本体: 高66cm、幅27cm、厚20cm。
石塔類5基のいちばん左奥にある祠が、大師堂。中には、大師像が安置されています。
大師像本体: 高27cm、幅22cm、厚17cm。
さて、ここでちょっと不可解なことが・・・。大師堂の上部を見ると、37番という札がついています(下左写真)。
ところが『利根町史』の記述では、立木新田の大師は、「第58番札所」となっているのです。では、実際の58番はどこに?
タヌポンが調べたところ、これが実は、この近くの 惣新田の集会所にある大師 がまさしく58番なのです。
下右写真がその証拠。これが不思議です。どうしてこうなったのでしょう?
ちなみに、『利根町史』の惣新田集会所(勢至堂)の項目には付帯設備として大師堂の記述はありません。
想定されることはいろいろありますが、
1.『利根町史』の単純な記述まちがい。勢至堂の付帯設備項目に入れるべきだった。立木新田の37番は未調査だった。
2.『利根町史』発行後に、立木新田から勢至堂へ大師堂の移転が行われた(この場合、37番大師はどこからきたのか?)
真相は、どうなんでしょうね。
ちなみに、この近くにもう1ヵ所、84番の番号札の付いた大師堂 もあります。
同じく惣新田地区ですが、集会所(勢至堂)ではなく、この37番と58番のちょうど中間地点の民家の庭にあります。
37・58・84番の3大師が、もともとどこにあって、どのような移動・異動があったのか。ちょっと知りたいです。
上記のポイントと立木新田橋との位置関係が分かりにくいと思いますので、以下、説明します。
左は、水神宮等のある場所から、
道路を挟んで向こう側(北)向きの画像。
小路が伸びていますが、これを直進すればOK。
すぐに以下の橋が見えてきます。
前方には、晴れた日には、
筑波山が見えます。
真ん中に見える、樹木が茂った塚は、
なんか見覚えがある形だなあ・・・。
これは、もしかして・・・。
なんと、やじり塚 のようです。
ここから、ちょうど見えるのですね。
うん、方角もあっています。
これは気が付かなかったなあ。
橋の上から、東向きに。
のんびりできる空間があります。
さて、立崎地区コンテンツの 付録:石仏新発見! ですが、
県道立崎羽根野線を挟んで、立木新田地区となるため、
本コンテンツで紹介することにしました。
しかし、・・・・。
左が当該4基の石仏です。
中央2基は、いわゆる半跏思惟型の
如意輪観音の刻像塔なのですが、
分かることはただそれだけ、という
さんざんな調査結果に終わりました。
かなり風化が激しく、
文字がいっさい読めないのです。
4基すべて。ひと文字も分かりません。
これでは、十九夜塔なのか、
庚申塔なのか、さっぱりです。
想像するところ、
2基は刻像されてはいますが、
墓碑なのではないかと思っています。
でも、風化が激しい分、
かなり古い時代のものかも知れない、
と思うと、残念です。
(15/08/09・15/04/18・12/07/24・12/05/05 追記) (12/05/04 追記再構成) (05/08/14) (撮影 15/08/08・15/04/16・12/06/17・12/05/05・12/05/01・05/08/13・05/05/07・05/05/04)
本コンテンツの石造物データ → 立木新田石造物一覧.xlxs (12KB)