利根町羽中(はなか)1431番地にある応順寺。
羽立山(うりゅうざん)と号し、初代教慶院釈清信[正保2年(1645)入寂]により、
天正16年(1588)に開基された浄土真宗のお寺です。
八重咲きの名木「八ッ房の梅」があるなどとても美しいお寺。
小林一茶と親交のあった古田月船(げっせん)や
布川の書家杉野東山などの文化人の記念碑・墓などがあります。
所在地:利根町羽中1431 TEL:0297−68−3284
▼ ご注意 異体字表記について:
後半の杉野東山ほかの墓碑において、野の異体字使用のため、
杉
上記と記されるべきところ、PC環境によっては「杉 ・」と表示される場合もあります。また、
法=
上記の法の異体字も「・」となってしまう場合もあります。
ほかにも表示されない文字がある可能性もありますのでご注意ください。
利根町中南部は探索がいちばん遅くなった地区で、コンテンツができていないところが多かったのですが、
その中でも、応順寺は早期に訪れ、比較的早い時期にコンテンツを作成しました。
その後、文化人の墓碑などを大幅に追記し、再構成しました。
応順寺へのアクセスですが、tanupon の場合、布川から取手東線を東に行き羽中の交差点を右折しました。
でも、少し手前に広い通りが南に通じていますので、そこを利根浄水センター方面に向かうほうが分かりやすいですね。
途中で、以下の写真のように応順寺参道入口の目印がありますので、そこを左折すればOKです。
左の写真からまっすぐ奥に進むと寺があります。山門の前に続く参道になります。
右はその参道入口の位置から後を振り返ったところ。一面がたんぼです。
山門入口正面。
いつ訪れても、「美しい」という印象。
社寺号標柱、左に、「羽立山應順寺」。
右は、「浄土真宗大谷派」。
標柱: 高240cm、幅60cm、厚45cm。
tanupon はまったく無知で、
宗派などはちんぷんかんぷんですが、
京都にある東本願寺を
本山とする派のようです。
また東本願寺というのは通称で、
正式には「真宗本廟」というそうです。
いっぽう、東京都台東区には、
1981年に大谷派から離脱・独立した
東本願寺派の本山があるとのこと。
はあ、そうですかと
答えるしかないのが悲しいかぎり・・・。
写真は2013年6月撮影。門の左に大きな岩と古田月船(後述)の句の案内が新たに設置されました。
門の裏を見てみると、建立日等が記されていました。
平成九年五月吉日建立
第十七世釋雅弘代
贈 雑賀石材店
平成9年(1997)5月建立。
そんな前ではないので釈雅弘氏は現在のご住職でしょうか。
雑賀石材店は 来見寺 の前にあります。
浄土真宗といえば、親鸞、と習いました。
門を入った左手のすぐ裏に親鸞聖人の碑が建っています。
御誕生 八〇〇年
親鸞聖人
立教開宗 七五〇年
慶讃記念事業ブロック塀建立
昭和四十八年十一月吉日
第十六代住職 了昭
檀徒一同
本体: 高80cm、幅41cm、厚11cm。
親鸞聖人生誕800年、立教開宗750年を記念したもの。昭和48年(1973)に、第16代住職・檀徒一同による建立。
親鸞聖人は承安3年(1173)生まれということですから、1173+800=1973 ぴったり符合しますね。
ブロック塀建立銘のほうが古いので、前記門柱は住職の代が変わって、建て替えられたか新規に追加されたものとなります。
境内に入り、正面に見えるのが本堂。
応順寺の由緒としては、
初代教慶院釈清信により、
天正16年(1588)に開基。
寺宝として、「御絵伝」があり、
これは宗祖親鸞の行跡を描いたもの。
11月初旬に開催される報恩講にて
一般公開される、とありますが、
訪ねたことはありません。
写真など撮らせてもらえるんかしら?
→ 間近でなければOKのようです。
前記の件について、応順寺には、寺宝として宗祖親鸞聖人の行跡・一生を描いた「御絵伝」について、
11月初旬に開催される報恩講で一般公開されることを確認しました。写真撮影も離れたところからなら、とお聞きしました。
2013年は文化の日にあたり伺おうかと思いましたが所用ができたのと、檀家でもないのでちょっと遠慮してしまいました。
ひんぱんに開帳できないのは、セッティング自体がたいへんな作業でもあるからとのこと。なるほど、それはそうですね。
あと阿弥陀如来立像も安置されているということですが、どうしたら見られるかは不明です。
いずれにせよ、寺宝の撮影等は、気長に機会を待つことにします。いつか実現できる日がくるかも知れません。
左は、本堂の篆額。
門に書いてある「羽立山応順寺」をしっかり頭にいれていれば、
これが「羽立山(右から)」と書かれていることぐらい
すぐ分かりそうなものなのに、
tanupon は最初、山の字を「坐」なのかなと思い、
また「立羽」を「翊」なのかなあと勝手に推測し
「翊坐」っどんな意味?と頭をひねっていました。
三国志で呉国の盟主孫権の弟に孫翊という武将がいて、
その翊の文字がやたら印象に残っていました。
応順寺を訪れた当時、光栄のシミュレーションゲームの三国志に
はまっている最中だったのです。おっと、また脱線しました。
この篆額の文字も、布川の書家杉野東山が天保10年(1839)6月17日付で記したもののようです。(東山71歳時)
杉野東山をその門弟たちが祀ったという「筆子塚(ふでこづか)」があると『利根町史』に書いてあったのですが、
どこなのかよく分らないので思い切って寺の方(ご住職かも?)に聞いてみました。
そのときに、篆額の文字の読み方も教えてもらいました。杉野東山等は後で紹介します。
さて、2013年の現在なら篆額の左側の文字も少しは解読できるように・・・なったかな?では、拡大して見て・・・
時天保十年在己亥六月十七日
爲 廣澗玅智獻額焉
法眼 杉 𡌛 東 山 謹 篆
施主 荒木邑 田口文太夫
天保十年の後の「在」の意味が不明でしたが、天保十年を天保十歳と記せば、よく見る「歳在」となるわけで、
この場合、天保十年が己亥の位置にあたる、という意味になるのでしょうか。
また、廣澗玅智とは名前?またその上の1字が読めませんでしたが、「爲」のようです。1字開けはいわゆる闕字でしょうか。
廣澗玅智のために額を献ず、という意味になり、廣澗玅智とは当時の住職の号かなにかでしょう。
杉野さんは、どうして「𡌛」なんて異体字を使いたがるのでしょう?荒木村の田口文太夫さんとは?疑問ばかり・・・。
本堂脇の石段左にある大岩。
庭園作りに欠かせないものですが、
tanupon のような下賎なものには、
これ、高いんだろうなあ、と。
運び賃だけでもたいへんだし、なんて。
自宅にもほしいですが、
ネコの額の庭にはとても置けません。
これも、本堂脇に建てられていたものですが、あれっ?おかしいですね。
左が、2005年当時のもの。下が、2011年に撮ったもの。
位置は同じですが、変わっていますね。
左は・・・7重の塔?右は・・・13重?
十三重の塔といえば、昔学生時代に一人旅した奈良の談山神社を思い出します。
さて、境内入口にもどって、
門から入るとすぐ前の左手には、
ミニ石庭のような感じで、
石の縁台が置かれています。
ちょっと座るのがもったいない気がしますが、
まだ少々寒い時期で冷たそうだったからも少しありますね。
縁台の左手前に立っているのが、水子供養塔。昭和61年(1986)8月の建立。tanupon には幸いにも縁のない塔です。
本体: 高109cm、幅43cm、厚43cm。台石: 高61cm、幅43cm、厚43cm。
水子供養塔の左隣りには 利根七福神 のひとつ。
応順寺では、不老長寿の神様、寿老人が建てられています。
本体: 高104cm、幅39cm、厚30cm。
寿老人・水子供養塔の後方にある鐘楼。正覚(しょうがく)という文字が見えますが、これは仏の悟りという意味ですね。
無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)の略で、「覚り」を超える、仏の真の「悟り」ということです。うーん、難しい話。
上にのぼって詳しく見てみました。
「正覺大音」と「響流十方」が見えます。
「しょうがくだいおん・こうるじっぽう」と唱え、
「正覺の大音、響き十方に流る」
と読み下します。
これは、浄土真宗・宗祖の親鸞聖人が
「真実の教え」と讃えた「仏説無量寿経」の
「讃仏偈(さんぶつげ)」の中の言葉です。
意味は、
悟りの声は高らかに、
すべての世界に響きわたる。
ぐるりと一周してみました。銘文により、初めて応順寺の院号が分かりました。青龍院の「青」は誤読かも知れませんが・・・。
茨城県北相馬郡利根町
真宗大谷派
羽立山青龍院應順寺
願主第十七世住職坂上雅弘代
施主 門信有縁之衆徒中
平成五年六月
ほかに檀家の総代の方たちや、建立関連の委員の名前が彫られています。平成5年(1993)6月の鋳造です。
総代の筆頭に「杉野平八」とあり、後述の杉野東山・杉野家墓碑等で紹介します。
応順寺の境内墓地には、利根町でも特筆すべき2人の文化人の石碑があります。
そのひとりは、小林一茶が何度もこの地を訪れ、宿泊も重ねた俳人の古田月船(ふるたげっせん)の碑。
もうひとりは、幕末の利根町で数多くの扁額や石碑の銘文を揮毫している書家の杉野東山(すぎのとうざん)です。
この杉野東山に関連する杉野家のいくつかの墓碑や、ほかにも特筆に値するものを、以下であわせて紹介します。
門を入って右手の奥へ回り込むようにして進むと、南の塀を背にして古田月船の石碑が2基立っています。
左が月船碑。句碑ですが、月船のかんたんな説明文も。右は墓碑ですが、右側面に月船の句が彫られています。
月船は布川の問屋の隠居ではないか、と柳田國男が推測していますが、それが事実かどうかは分かっていないようです。
とにかく小林一茶と親しく、江戸にも名を知られた風流人だったようです。以下、『利根川図志』の柳田國男の解題抜粋です。
「一茶が頻々と此地へ往来したのは、日記を見てゆくと文化の中頃過ぎ、即ち幼年の赤松氏が父母に伴われて、暫く江戸の片ほとりに出て住んで居た間などであつたが、爰には早くから幾人かの俳友があつて、消息相通じて居たらしいことは、「霞の碑」という句集からも窺われる。江戸にも其名を知られた古田月船は、一茶が布川に於ける東道※の主人であつた。多分は問屋の隠居であらうと、根據は無いけれども私はさう思つていた。其想像は當つていたが、是も代替りをして子孫はもう残つて居ない」
※ 東道(とうどう): 「東道の主」の略。東方へ赴く旅人をもてなす主人の意。(goo 辞書)
まず右側の古田月船墓碑、[碑表]から。
深諦院釋教意善念居士
應信院釋妙意滉瀁大姉
五水菴釋東淵月船居士
晃信院釋教心正貞大姉
家紋は、丸に隅立て四つ目結紋。
3番目の戒名が月船です。
号の五水菴、そして月船の文字が見えます。
その前の2つは父母のものでしょうか。
左側面に、没年が記されていますので、
見比べてみます。
本□体: 高92cm、幅39cm、厚38cm。
台石上: 高36cm、幅69cm、厚66cm。
台石下: 高36cm、幅99cm、厚95cm。
[左側面]と[裏面]
左側面はちょっと読みづらいですが以下。
(末尾は没年の西暦年数)
深享和元辛酉年八月五日(1801)
應文化四丁卯年十月九日(1807)
五天保八丁酉年正月二十日(1837)
晃天保十五甲辰年五月廿三日(1844)
この年齢差から推定すると、
ちょうど親子関係のように思われます。
さて、それでは、碑裏ですが、
和右エ門
のみ彫られています。
「俗名」あるいは「建之」等がいっさいなく、
和右エ門だけで、建立年も不明です。
これはいったいだれを指しているのでしょう。
ふつうなら碑裏の「和右エ門」は、この碑を建立した月船夫妻の子供・子孫というのが妥当なのですが、
古田月船には子が無かったと言われています。そうすると、この墓は当初、父母のために月船が建てたと考えられます。
その場合、和右エ門が建立者で、これがすなわち月船の俗名ということになるわけですが・・・。
『利根町史』や『文化学芸碑』等では月船は古田和右エ門であろうとされていますが、これはあくまでも推定です。
月船は羽中古田家本家の出で親から勘当されたという説もあり、そうなると最初の2つの戒名がだれのものかも気になります。
いっぽう、月船が和右エ門であるなら、琴平神社の空居心経碑裏面に彫られた「古田善兵衛」は月船とは別人となります。
それとも和右エ門・善兵衛の2つの通称があったとか。このあたりは、もっと調べてみないと真相は分からないようです。
月船が善兵衛であることが判明しました。以下は、「天理大学附属図書館綿谷文庫」に所蔵されている『諸國俳士録』。
この古文書に、「月舩 布川 伊勢屋善兵衛」と明記されています。これは、もう疑いないものというしかありません。
この史料の存在を教えてくれたのは、小川芋銭研究家でもあり、いつも歴史・史実等を冷徹に判断される香取達彦氏。
昨年、琴平神社の空居心経碑裏面の「古田善兵衛」が『文化学芸碑』等で月船ではないと言及していることを話すと、
言下に「いや、それは月船です。まちがいありません」と断定されるので、その根拠をお尋ねしました。
氏は、かなり以前に二松学舎大学の国文学教授との話でこの史料の存在を知ったと言います。氏のすごいところは、
それを聞いてわざわざ奈良県天理市まで赴いて、数多くの中からこの史料を確認。コピーをとられたということです。
また、応順寺でも過去帳で、月船に孫がいることなどを調査され、子がいないというのは俚説に過ぎないことを指摘。
この意味では、前述の柳田國男が『利根川図志』解題で「代替りをして子孫はもう残つて居ない」も誤解を招く発言です。
この点、香取氏は、赤松宗旦が出典を明記しているのに対し、柳田國男はそれを怠っていることを批判しています。
月船に子がいない、というのは親ほどの特筆すべき業績を残した子はいない、という程度の意味だったのでしょうか。
後述する沢近嶺が、師である月船を「父のように慕い」臨終を看取ったという話も「実子」の影を薄くさせています。
ところで、月船も以下で紹介する杉野東山の本家筋の「伊勢屋」とは、もしかして親戚? ではないでしょうね。
もうひとつ、では、古田月船墓碑の碑裏、和右エ門 とはだれのことなのか、気になりますね。(14/04/12 追記)
[右側面]
五水菴
月船
花守が
余所(よそ)の花見る
月夜かな
天保8年(1837)正月20日、
81歳でこの世を去りました。
この句は月船の代表作と言われています。
この碑は比較的新しく、下右[碑裏]に、平成十二年夏(2000)の建立が記されています。
ほかに「応順寺 第十七代住職 坂上雅弘建之」「芦原修二 文」「中川善春 書」「雑賀一郎 刻」と記されています。
本体: 高127cm、幅92cm、厚20cm。台石: 高39cm、幅135cm、厚52cm。
□□□□□□□咲梅の
□□□□□うしろに不二の御顔哉
□□□□□□□□□□□□□月船
布川河岸の古田月船は、当地方の
文化を担った者の一人である。俳
人小林一茶を支援し、一茶の月船
亭泊りは前後四十数回、二百八十
余日に及んだ。また取手の歌人沢
近嶺は、少年時代月船に俳諧を学
び、生涯父とも慕ってその最後を
みとった。天保八年一月二〇日没。
辞世に、花の春八十一年の飯と汁。
墓石には、花守が余所の花見る月
夜かな、とある。
辞世句中、八十一年は「やそひととせ」と読みます。
小林一茶の布川宿泊は合計289回を数え、その内49泊は月船亭。月船は一茶の親友でもあり援護者でもありました。
井上脩之助著『一茶漂白』(1995年崙書房刊)に布川行脚や月船の記事が紹介されています。(→ 小林一茶と利根町)
碑文の沢近嶺は、子のない(風聞)月船を父と慕った取手宿(現茨城県取手市)の国学者。
月船の最後をみとったちょうどそのときに、自宅が火事で焼失してしまうという悲劇にあいます。
失意の中、『春夢独談』を書き上げ、月船の後を追うかのように翌天保9年に亡くなります。
左は、『春夢独談』の月船の死去に関する記述。(千葉県デジタルアーカイブより抜粋)
沢 近嶺(さわ・ちかね): 天明8年(1788)〜天保9年(1838)。国学者。取手宿で食料雑貨を商う家に生まれる。若い頃江戸に出て、著名な国学者村田春海(しゅんかい)の弟子となり、「錦門(きんもん)の三傑」(村田春海の優秀な弟子3人)の内の一人と称された。後に取手に戻り家業の商家を継ぎながら、学問・研究に励んだ。しかし天保8年の取手宿の大火で家が焼け、収集した蔵書や書きためていた原稿をすべて失ってしまった。失意に沈むも気を取り直して、唯一の著作となった「春夢独談(しゅんむどくだん)」を書き上げ、天保9年に死去した。取手市内念仏院に墓と昭和18年に県南読書会によって建てられた歌碑がある。(大好きいばらき生活文化情報ネット より)
さて月船碑の前方には、杉野家の墓などがいくつかあるのですが、それは後ほどにして境内左手の東山碑に向かいます。
本堂に向かって左手の方向(北)に進んで突き当たると、小高くなったところに「東山碑」と「亀趺墓」が立っています。
下写真の中央が「東山碑」。その右が珍しい「亀趺墓」で、これは2人とも夭折した東山の息子萬吉夫妻の墓碑です。
杉野東山は、明和6年(1769)布川に生まれました。
東山は号で、諱(いみな、つまり本来の名前)は利恭。
生業は搾油。当時、菜種油を絞るのがとても繁盛しました。
碑には、性格が正直で飾り気がなく見栄を張らず、また、
人を笑わすのも得意だったということが書かれています。
最初は趣味として習字をとくに好み、50歳になってから
家業を子息につがせ、もっぱら書道三昧の生活に入ります。
それまでも、仕事を終えた後、楷書1000字、行書1500字、
草書3000字を毎晩欠かさず、修練していたといいます。
達筆の名声はたちまち上がり子弟は800人にも達したとか。
晩年の嘉永4年(1851)83歳で、揮毫依頼を喜んで受け、
筆を持ったまま亡くなったと言われています。
布川杉野家の初代は、伊勢の薬師駅(宿場)に住居していた杉野孫三郎の次男で、正徳五年(1715)16歳のときに
布川に来て 杉野六兵衛 家に奉公しました。伊勢と布川の両杉野家は親戚なのかどうかはよく分かりませんが、
伊勢から遠く布川まで移ってくるということは、布川の地が当時から商業的にも栄えていたことを物語っていると言えましょう。
この杉野孫三郎の次男(名前は不詳)は、弱冠22歳で独立し、伊勢屋平八 を名乗る穀物商となります。
平八には、娘2人と息子1人いましたが、穀物商を継いだのは長女の‘きわ’で、これが本家筋となり、
息子のほうは 杉野忠右衛門 を名乗って分家し、上柳宿で搾油業を始めます。
伊勢の杉野孫三郎から見て孫にあたる杉野忠右衛門が、「菜日庵野叟」(さいじつあん・やそう)を号とした国学者・俳人で、
「くたびれも 薩埵峠※や 春の海」の句を残しています。
そして、その子が後に書家として名を残す 杉野東山 です。明和6年(1769)生まれ、嘉永4年(1851)没。
東山も、書のかたわら俳句も嗜み、父の号「菜日庵二世」を名乗っています。
※ 薩埵峠 (さったとうげ)は静岡市清水区由比町にある峠。薩埵は、来見寺 道了堂 の本尊、道了薩埵と同字。
仏語で、衆生の意味のほかに、「菩提薩埵」の略、つまり菩薩を表す言葉。
ここで、後述の東山碑と杉野萬吉夫妻墓誌から分かる事実も踏まえて東山の家系を図式で表してみます。
杉野孫三郎 ━━ 次男 ━━━┳ 長女きわ(本家) (伊勢在住) 伊勢屋平八1 ┃ ┃ (穀物商) ┃伊勢屋平八2 布川杉野家初代 ┃(養子) ┃ ┗ 杉野忠右衛門1 ┏━━ 杉野東山 ┏ 吉蔵(他家より養子に) (菜日庵野叟) ┃(杉野忠右衛門2) ┃(杉野忠右衛門3) (下柳宿搾油業) ┃ ┃ ┣ 仙吉(小畑久兵衛) ┃ ┃ ┣━━━━━━━┫ ┣━━━━━┫ ┃ ┣ 萬吉(杉野忠右衛門4) 杉野氏 ┃ 鳥井義重の女 ┃ ┃ ┃ ┃ 清女(飯田氏次女) ┗━━ 杉野嵩雲 ┗ 女
▼ 『広報とね』(第225号)には、杉野東山の墓は応順寺ではなく、なぜか印西の小林新田にあると記されていました。
近い縁者がそこに住んでいた云々とありますが、後述する応順寺の杉野家の墓は東山とは別のものでしょうか?
→ 『利根町史』第4巻に、この墓が小林新田の細井氏方の墓地にあり、正面が「釈浄教信士、釈妙教信女、不退位」
右側面に「布川住施主杉野忠右衛門」、左側面に「享和三癸亥六月二十八日」とあり、東山の没年とは合いません。
杉野東山の墓は、やはり、碑裏に戒名が彫られた以下の「東山碑」でしょう。碑裏の銘文で確認してみましょう。
この碑は後述のように東山の門人たちが東山の没後に建てた「筆小塚」であり、
寿蔵碑ではないので、当然ながら書家の東山自身が揮毫したものではありません。
仮に生存中の寿蔵碑であったとしても、自分のための碑ですから、
撰文揮毫はやはり別の人でないとおかしいでしょうね。
いままで、各所で数多くの東山の銘文を見てきたので、以下の題額も含めて、
「東山碑」が、別人が揮毫したものであることになぜか違和感を感じてしまいます。
本体:
高178cm、幅105cm、厚30cm。
台石:
高41cm、幅168cm、厚70cm。
[碑裏]
致清軒釈深㳒淨智居士□□文化元子年
□□□□□□□□□□□□六月廿二目
至淨軒釋廣潤妙智大姉□□天保十亥年
□□□□□□□□□□□□六月十七日
曻泰院釋東山利恭居士
□□□□□□□□□□□□
昇順院釋妙榮智晃大姉
東山夫妻の戒名が彫られていますが、没年はいずれも未刻です。
没後に建てた「筆小塚」なら少なくとも東山は
没年を入れ込んでも不思議はないのですが・・・。
父の杉野忠右衛門(菜日庵野叟)は、文化元年(1818)6月22日没。
戒名「致清軒釈深㳒淨智居士」中の「㳒」は法の異体字です。
母は、天保10年(1839)6月17日没。
小林新田にある「杉野忠右衛門」の墓の没年は、享和3年(1803)6月28日。
菜日庵野叟より前に他界しているこの人物はいったいだれなのでしょうか。
推測ですが、もしかすると、この東山碑裏の戒名は、東山の父母ではなく、他家から当初養子にきた吉蔵夫妻のもので、
小林新田の墓が初代「杉野忠右衛門」である東山の父のものではないでしょうか。そうでないと時間差が説明できません。
[碑表白文]
東山居士性真率朴直不脩邊幅時又談笑諧謔使人解頤毎聞人之言輒信而不
疑人亦不忍欺之平生無他嗜好唯好臨池技晝日桔据營作産業夜則學字毎宵
所臨以楷體一千字行體千五百字草軆三千字為課終歳不懈年五十辭産業専
力於筆札以顔魯公為表準昕夕勉勵有所自得聲名頗籍子弟従學者前後八百
餘人居士益以為娯樂時或飄然游四方其對人唯書法是談談渉他事則黙而不
應索書者陸續不絶有索則輙欣然揮洒顧問佳否於其人以為佳則與之以為否
則改書至再三而不倦也村中嘗失火闔邑七百餘竃一掃為燼居士亦罹災擧家
什為烏有人皆號哭相吊而居士恬不置意坐論書法而巳其處事出於人意表不
以得喪動心者大率此類嘉永四年三月三日或来索字居士欣然染翰揮數十紙
忽然而僵手尚不釋筆而終不起嗚呼哀哉居士諱利恭杉野氏稱荘助東山其號
下總布川村人以搾油為業以明和六年生得壽八十三釋追號日昇泰院窆於羽
中村應順寺塋次考稱忠右衛門號菜日庵為人風流善國學得高玄岱書法妣杉
野氏弟稱嵩雲以善畫聞居士娶鳥井氏常州龍﨑人名義重之女也久而無子養
吉蔵為嗣後擧二男二女長仙吉為江都小畑氏螟子稱久兵衛次萬吉稱忠右衛
門先歾門人相謀醵金立石以圖不朽而請文於余余識居士久矣其請豈可辭乎
哉乃叙其行略係以銘曰
氣逸兮超塵套性直兮脱世風誰是終身莫逆唯有陳玄毛公
嘉永五年歳次壬子嘉平月□□讃岐□河田興撰□□栁田貞亮書□橋一永鎸
撰の河田興、書の栁田貞亮、石工の橋一永は、いずれも過去見てきた石碑等にはない初登場の人たちで、不明です。
→ 河田興と栁田貞亮の詳細が分かりました。(情報提供『がらん』氏)以下、デジタル版 日本人名大辞典より
河田迪斎(かわだ・てきさい)1806−1859 江戸時代後期の儒者。文化3年1月15日生まれ。近藤篤山に師事。江戸で昌平黌にまなび、佐藤一斎の養子となる。のち林家の塾頭につき、嘉永7年(1854)ペリー再来航の際、林復斎にしたがって条約文を起草した。安政6年1月17日死去。54歳。讃岐出身。名は興。字は猶興。通称は八之助。別号に屏淑、恵迪斎。編著に「水雲問答」。
栁田正斎(やなぎだ・しょうさい)1797−1888 江戸後期−明治時代の書家。寛政9年生まれ。柳田泰雲の祖父。江戸の昌平黌でまなぶ。書に興味をもち、趙子昂、王羲之を手本として一家をなした。明治21年9月30日死去。92歳。下総香取郡出身。名は貞亮。字は節夫。著作に「歳華小牘(さいかしょうとく)」など。
下から2行目の「氣逸兮超塵套 性直兮脱世風 誰是終身莫逆 唯有陳玄毛公」は比較的珍しい六言絶句です。
兮は漢文の助字のひとつで古い詩・韻文に見られます。音はケイですが読み下しでは矣などと同様、読みません。
2文字出てきますが、後者は左のように異体字を用いています。書家なのか石工の技か不明ですがよくやるなあ、と。
また、この碑文では、ほかにも左のようなWebでは表現できない異体字が彫られています。
左はそれぞれ「處=処」「逆」の異体字です。(白文ではWeb表現できない異体字を青字で示しています)
[読み下し文]
東山居士性は真率※朴直※、邊幅※を脩めず。時に又談笑し、諧謔※人を使て頤(あご)を解かしむ。人の言を聞く毎に輒(すなわ)ち信じて疑わず。人亦之を欺くに忍びず。平生他に嗜好無し。唯臨池※の技を好む。晝日桔据※産業を營作し、夜則ち字を学ぶ。毎宵臨む所、楷體一千字、行體千五百字、草軆三千字を以て課と為し終歳※懈(おこた)らず。年五十にて産業を辭し専ら筆札※に力(つと)む。顔魯公※を以て標準と為す。昕※夕勉勵し自得する所有り。声名頗るなり。子弟を籍き従って学ぶ者前後八百餘人。居士益(ますます)以て娯樂と為す。時に或は飄然として四方に游ぶ。其の人に對するに唯書法是れ談々たり。他事に渉れば則ち黙して應えず。書を索(もとむ)る者陸續※として絶えず。索る有れば則ち輙(たちま)ち欣然として揮洒※し、顧みて佳否を其の人に問う。以て佳と為れば則ち之に與う。以て否と為れば、則ち書再三に至って改め倦まざる也。村中嘗て火邑を闔(おお)い、七百余竃(かまど)を失う。一掃して燼と為る。居士も亦罹災し、家什※擧げて烏有※と為る。人皆號哭し相吊※く。而るに居士恬として意に置かず。坐して書法を論ずるのみ。其事に處するや人の意表に出で、得喪を以て心を動かさざる者、大率(おおよそ)比類なり。嘉永四年※三月三日或来りて字を索む。居士欣然として翰※を染め、數十紙に揮(ふる)う。忽然として僵(たお)れ、手は尚筆を釋(と)かず終に起たず。嗚呼哀しき哉。居士の諱は利恭、杉野氏なり。荘助と稱し東山は其の號なり。下總布川村の人。搾油を以て業と為す。明和六年※の生を以て壽(ことぶき)八十三を得たり。釋追號して昇泰院と曰う。羽中村應順寺の塋次(えいじ)に窆(ほうむ)る。考は忠右衛門と稱す。號は菜日庵。人と為り風流。國學を善くし高玄岱※の書法を得たり。妣※は杉野氏、弟は嵩雲と稱し畫を善くするを以て聞ゆ。居士鳥井氏を娶る。常州龍ヶ﨑の人。名は義重之女なり。久しうして子無く、吉蔵を養うて嗣と為す。後に二男二女を擧ぐ。長は仙吉、江都小畑氏の螟子※と為り久兵衛と稱す。次の萬吉は忠右衛門と稱し先だって歾※せり。門人相謀りて金を醵(きょ)し、石を立て以て不巧を圖(はか)り、文を余に請う。余居士を識ること久し。其の請い豈辭する可けん哉。乃ち其行略を叙し、係るに銘を以て曰く
氣逸なれば塵套を超え、性直なれば世風を脱す。
誰か是れ終身逆らう莫(な)き。唯陳玄※毛公※にあり。
嘉永五年歳次壬子嘉平月 讃岐 河田興撰 栁田貞亮書 橋一永鎸※
[語意]
※ 真率(しんそつ): まじめで飾りけがないこと。また、そのさま。(Yahoo! 辞書)
※ 朴直(ぼくちょく): かざりけがなく正直なこと。すなおで素朴なこと。また、そのさま。(goo 辞書)
※ 邊幅(へんぷく): (=辺幅)。外面から見た様子。外見。うわべ。みなり。(三省堂大辞林)
※ 諧謔(かいぎゃく): こっけいみのある気のきいた言葉。しゃれや冗談。 ユーモア。(goo 辞書)
※ 臨池(りんち): 書法、書道をいう語。また墨池ともいう。後漢の張芝(ちようし)が池に臨んで書を学んでいると、池の水が真っ黒になったという話が、西晋の衛恒の《四体書勢》その他に見え、これから転じたもの。(Kotobank)
※ 桔据(けっきょ): 忙しく働くこと、骨折ること。(歴史民俗用語辞典)
※ 終歳(しゅうさい): 一年中。年中。(goo 辞書)
※ 筆札(ひっさつ): 紙と筆。書法。(goo 辞書)
※ 顔魯公(がんろこう): 顔真卿(がん・しんけい、709−785年)。字は清臣、中国唐代の屈指の忠臣であり代表的な書家でもある。(Wikipedia)
※ 昕(キン・コン・あさ): 日がのぼるころ。朝。(goo 辞書ほか)
※ 陸續(りくぞく): (=陸続)。あとからあとからと絶えないで続くこと。(Weblio辞書)
※ 輙(たちまち): 碑文の字は下。輙もしくは前述の輒の異体字。(漢辞海)
※ 揮洒(きしゃ): 思いのままに筆をふるうこと。揮灑(きさい)と同。(Kotobank)
※ 家什(かじゅう): 家庭で使う道具類。家具。(goo 辞書)
※ 烏有(うゆう): 全くないこと。何も存在しないこと。《烏(いずく)んぞ有らんや、の意》(Kotobank)
※ 吊く(なげく): 吊は本来は弔の異体字。弔はなげく、かなしむ、の意。(漢辞海)
※ 嘉永四年: 1851年。
※ 翰(かん): 書いたもの。文章。手紙。(Kotobank)
※ 明和六年: 1769年。
※ 高玄岱(こうげんたい): 慶安2年(1649)−享保7年(1722)は、江戸時代前期の儒学者、書家・篆刻家。(Wikipedia)
※ 妣(はは): 亡くなった母。考(こう)は亡くなった父。
※ 螟子(めいし): 養子。螟蜻子とも言う。《ジガバチが青虫(=螟蜻)を養い育てて自分の子とするという故事から》(goo 辞書)
※ 歾(ぼつ): 没の異体字。
※ 陳玄(ちんげん): 陳は古い、玄は黒で、墨の異称。(大漢和辞典)
※ 毛公(もうこう): 前漢の博士。詩を伝えた。(大漢和辞典)
※ 鎸: 鐫と同。ほる。刻むの意。
碑文後半で、東山の子に関する説明がなされていますが、これは後述の 杉野萬吉夫妻墓誌 で詳しく見てみましょう。
筆子塚(ふでこづか)
左は「東山碑」の台石。「門人中」と記されています。
讃岐の人、河田興の撰した碑文では、以下のように記しています。
「門人相謀りて金を醵し、石を立て以て不朽を図り・・・」
こうした趣旨の石碑等は、いわゆる筆子塔(塚)といわれています。
注)「醵」とは「きょ」と読み、お金を集めること。
筆子塚とは: 江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算や実務教育を教わった教え子が、師匠が死んだ際にその遺徳を偲んで、自分たちで費用を出し合って建てた墓である塚、または供養塔。明治に入ってから建てられた例もある。師匠塚・筆子塔・筆子碑という場合もある。(Wikipedia)
(参考)東山関連コンテンツ
杉野東山関連のコンテンツは、本ページ前記の「羽立山の篆額」ほか、以下に列記しました。
→ 徳満寺(地蔵堂の扁額)/揮毫時期不明
→ 浅間神社(開山は杉野東山)/文政2年(1819)年8月揮毫(東山51歳)
→ 浅間神社(杉野東山句碑)/揮毫時期不明
→ 琴平神社(空居心経碑・碑陰)/文政10年(1827)揮毫(東山59歳)
→ 総州六阿弥陀詣(金毘羅神社の心経の碑・碑陰)/文政10年(1827)揮毫(東山59歳)
→ 早尾天神社(楳華碑、発見!)/文政13年(1830)年揮毫(東山62歳)
→ 応順寺(羽立山の篆額)/天保10年(1839)6月17日揮毫(東山71歳)
→ 琴平神社(杉野東山篆額)/天保15年(1844)正月揮毫(東山76歳)
→ 応順寺(杉野家墓石)/天保15年(1839)3月揮毫(東山76歳)
→ 如法院不動堂(杉野東山の扁額)/嘉永3(1850)揮毫(東山82歳)
→ 泉光寺(扁額1)/揮毫時期不明
→ 泉光寺(扁額2)/嘉永3年(1850)10月揮毫(東山82歳)
このほか、利根町以外で印西市丸山観音墓地の「香取朋之夫妻の墓碑」弘化2年(1845)5月揮毫(東山77歳)もあります。
東山碑碑文に「弟は嵩雲と稱し畫を善くするを以て聞ゆ」とあるように、東山の弟に「嵩雲(すううん)」という画家がいます。
布川の 琴平神社 にその絵馬が奉納されています。嵩雲の絵馬としては、下左写真の1点だけが判明しています。
左が嵩雲が描いた「水難救助図」の絵馬。琴平神がおぼれている子供を救う様子が描かれています。
嘉永4年(1851)琴平神社に奉納されたもの。右は「搾油図」の絵馬。当時の搾油作業が生き生きと描かれています。
しかし、この「搾油図」が杉野嵩雲作とは「利根町の絵馬展」のパンフレット※には明記されていません。
でも実家(兄である東山の生業)が搾油業であるなら嵩雲の絵である可能性は高いと思うのですが、どうも違うようです。
どちらの絵馬も利根町の有形文化財に指定されています。(※利根町教育委員会編集発行 2005年02月開催時配布)
この記事は琴平神社のコンテンツで紹介しましたが、ここにも同じものを転載します。
下総諸家小伝では、嵩雲は銚子の今宮の在となっていますが、最終的に今宮に居を構えたのでしょうか。
この「今宮」という地名は、後述する杉野萬吉夫妻墓誌銘文の思わぬところに出てきます。
もしかすると・・・と思わせる内容なので、その話はのちほど杉野萬吉夫妻墓誌[語意]で。
天保14年(1843)に女貞園が上梓した『下總諸家小傅』(以下『小傅』)に、
杉野東山・嵩雲兄弟が、並んで掲載されています。
『小傅』は、利根川流域の文化人列伝とも言えるもので、
流山から銚子に至るまで、とくに布川・布佐河岸中心に、
俳諧・国学・医師・和歌・挿花ほか多種に亘って、
秀でた人物を50音順に100名取り上げています。
杉野東山・嵩雲は51・52人目に挙げられています。
布川の杉野利恭。字は原父、東山と號す。又耕
硯堂の號あり。書をよくす、八躰※を得たり。
今宮※の杉野忠吉。通稱は嵩雲、松替と號す。丹
青※の技を善す。兼ねてその説に詳し。東山の弟。
※ 八躰(はったい): 漢字の8種の書体。諸説あり、漢代の「説文解字」では、秦の八体として大篆・小篆・刻符・虫書・印(ぼいん)・署書・殳書(しゅしょ)・隷書を挙げる。(大辞林) ※ 今宮(いまみや): 銚子の内。※ 丹青(たんせい): 絵の具。彩色。絵画。また、絵の具で描くこと。たんぜいとも。(Kotobank)
「東山碑」右隣りには、亀が石塔を背負った珍しい墓碑「亀趺墓」(きふぼ)が建っています。この形については後述します。
この碑は、若くして世を去った杉野東山の息子夫婦、杉野萬吉夫妻の墓誌です。
子が久しく生まれず、養子を迎えた東山ですが、遅れて2男1女に恵まれた東山。
その子に31歳の若さで先立たれ、その妻も翌年30歳で病没します。
実子が生まれたとき東山は48歳。その喜びは悲痛な運命をもたらしました。
杉野萬吉夫妻の墓誌を建てた東山も、その翌年に他界することになります。
[碑表]
歸命尽十方無礙光如來
歸 命 無 量 壽 覺
南無不可思議光如來
帰命尽十方無碍光如来
(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)
は十字名号と呼ばれ、
南無不可思議光如來
(なむふかしぎこうにょらい)
は九字名号と呼ばれます。
中央の歸命無量壽覺は、
「南無阿弥陀仏」の漢訳。
[右側面]
嘉永紀元申
誘信院釋淨晃智照居士
二月廿四日
靈位
嘉永二年酉
教貞院釋玅圓成證大姉
二月廿七日
本□体: 高102cm、幅36cm、厚36cm。
台石上: 高36cm、幅72cm、厚70cm。
台石下: 高31cm、幅100cm、厚94cm。
[台石]は、「杉𡌛」。𡌛は野の異体字です。東山揮毫の額等でも多用されていますが、異体字のほうが正式なのでしょうか。
→ この字はどうも、「杉𡌛」ではなく「杉㙒」のようです。『がらん』氏よりの指摘ですが、いずれにせよ異体字ではあります。
下は左から、[碑表][碑表拓本][右側面]。碑表の篆書はとても読めない文字がいくつかあります。
[左側面]これはかなり拡大しないと読みづらいです。
誘信院釋淨晃智照居士者俗稱號萬吉利道東山居士之息男
也兄弟悉赴他家仍之雖麁子継家督成人温恭篤實而深夜激
業側踏絲以可稱之人也不幸短命而嘉永元申二月廿四日没
享年三十壱歳教貞院釋玅圓成證大姉者俗稱清女銚子今宮
飯田氏之次女也嫁而成杉野氏室孝信賢貞而頗有淑姿是亦
夫没後逢疾病薬石無効随而蓋然同二年二月廿七日享年三
十歳噫嘻悲哉孰人不惜四隣聞之哀慟況於老人夫婦悲嘆断
腸絶言語孔子大聖失伯魚儒是號天命老少不定不論貴賤子
不敏而慈人之憐與夭折聞建碑石焉悲涙満水忠固陋以辨與
終始云爾□嘉永三庚戌二月建焉□妙泉寺釋了觀謹撰
この碑が建てられたのは嘉永3年(1850)2月。東山82歳のとき。
碑文を書いたのは妙泉寺の釋了觀という人ですが、寺も人物も詳細は不明。
・・・書と記されていませんが、やはり東山が揮毫したのでしょうね。
[読み下し文]
誘信院釋淨晃智照居士は俗稱萬吉、利道と號す。東山居士の息男なり。兄弟悉く他家に赴き、これに仍り麁子※と雖も家督を継ぐ。人と成り温恭篤實にして、深夜激業、側ら絲を踏む、以てこれを稱すべき人なり。不幸短命にして嘉永元年二月甘四日没す。享年三十壱歳。教貞院釋玅圓成證大姉は俗稱清女、銚子今宮※飯田氏の次女なり。嫁して杉野氏の室となる。孝信賢貞にして頗る淑姿※有り。是亦夫の没後疾病に逢い、薬石効なく随って蓋然同二年二月廿七日、享年三十歳。噫嘻悲しき哉、孰※か人惜まざる。四隣※これを聞き哀慟※す。孔子大聖、伯魚※を失い、儒是れを天命と號す。老少不定※貴賤を論ぜず、子不敏にして慈人この夭折を憐れむか、焉(ここ)に碑石を建てると聞く。悲涙満水、忠なれど固陋辨※するを以※てか終始爾(しか)云う。
嘉永三庚戌二月焉に建てる。 妙泉寺 釋了觀謹んで撰す。
[語意]
※ 麁子(そし): 庶子の当て字。嫡子以外の実子。(文化学芸碑)。当て字なのに右のような異体字を本文で使用。
※ 銚子今宮: 東山の息子萬吉の妻の出身地。これは東山の弟、嵩雲の住んだ地。年齢からいえば嵩雲が取り持つ縁かも知れませんが、逆に萬吉の結婚を期に嵩雲が今宮に移り住んだ可能性も考えられます。
※ 淑姿(しゅくし): 優美な容姿。(漢辞海)
※ 噫嘻(ああ): 感嘆詞 悲しみ・嘆息を示す。(中国語辞典)
※ 孰(たれ): たれ。いずれ。(漢辞海)
※ 四隣(しりん): 前後左右の家や人。(goo 辞書)
※ 哀慟(あいとう): 哀しみ、泣き叫ぶこと。(ウィクショナリー)
※ 伯魚(はくぎょ): 1.孔子の子。(孔子より先に死んだ)2.子を思う父。(文化学芸碑)
※ 老少不定(ろうしょうふじょう): 人の寿命に老若の定めのないこと。(goo 辞書)
※ 固陋(ころう): 頑固で視野が狭く、道理をわきまえないさま。また、自分の考えに固執して柔軟でなく、正しい判断ができないさま。頭が古くかたくななさま。(goo 辞書)
※ 以(もって): 本文は以の異体字。(漢辞海)
亀趺墓(きふぼ)
杉野萬吉夫妻墓誌の台座はとても奇妙な亀の形をしています。これは亀趺(亀石)墓と呼ばれる珍しいものです。
しかし、これを見ていると何かちょっとした違和感を感じませんか?
これが、亀?なんて思いますよね。
体はともかく、顔というか頭というか、
どうもどこかちがうような・・・。
そう見える原因は・・・。
この亀には、ふつう無いはずの「耳」があるからです。
神社には狛犬やキツネなどさまざまな動物が
神の使いとして飾られています。
この神の使いを「眷属(けんぞく)」と呼んでいるのですが、
そのなかには亀も含まれていて、
そういう場合の亀には、なぜか「耳」がついているというのです。
応順寺は神社ではなくお寺なのですが、
この亀もそうした眷属の一種なのでしょうか。
調べてみると、これは亀そのものではなく、亀に似た中国伝説上の動物「贔屓」(ひいき)であることが分かりました。
中国の道教の教えで、不老不死の仙人の住む「蓬莱山」があり、この蓬莱山を支えているのが、7匹の亀、「贔屓」です。
贔屓の特徴として、耳・目・口が大きく、耳目でしっかり世間を見、口で人に助言するという訳です。
亀趺墓の「趺」とは石碑の台のことで、亀型である「亀趺」は、中国では1500年以上前から用いられています。
贔屓(ひいき)は、中国における伝説上の生物。石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と言う。中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ている。重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。日本の諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺だが、その由来は、柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れるからに他ならない。
「贔屓」を古くは「贔屭」と書いた。「贔」は「貝」が三つで、これは財貨が多くあることを表したもの。「屭」はその「贔」を「尸」の下に置いたもので、財貨を多く抱えることを表したものである。「この財貨を多く抱える」が、「大きな荷物を背負う」を経て、「盛んに力を使う」「鼻息を荒くして働く」などの意味をもつようになった。また「ひき」の音は、中国語で力んだ時のさまを表す擬音語に由来する。(Wikipedia)
さて、ここで、再度、境内中央に戻り、本堂に向かって右側の墓碑で、杉野家本家・総元締の墓碑等を見てみましょう。
山門から入って右手、鐘楼の左側の四角に囲われた1区画に、少し丈のある石幢が見えます。
これは、伊勢屋平八の本家やその分家である杉野忠右衛門家関連ではなく、
先に布川で成功した、いわゆる布川杉野家総元締のシンボル的な石幢です。
しかし、碑文を読むと、この総本家杉野家も、やはり伊勢州の出です。
同じ伊勢出身で、杉野なら、遠縁以上の関係であったものと推察されます。
また、伊勢の杉野孫三郎の次男が、正徳五年(1715)布川に来て
杉野六兵衛家に奉公して、初代伊勢屋平八となるわけですが、
奉公先の杉野六兵衛家の始祖は享保3年(1718)に80余歳で没すとあり、
その差はわずか3年です。親子で寛文年中(1661〜1673)に布川にきたので、
杉野孫三郎次男とは実質40数年程度の差になりますが、
この期間での親子の努力は並々ならぬものがあったのではないでしょうか。
この布川杉野家総元締、杉野六兵衛は、鍋屋六兵衛とも言われ、
布川河岸で問屋を営むほか金融業も行う豪商に発展し、幕末時には、
赤松宗旦の『利根川図志』の上梓に多額の融資等で大いに貢献しました。
本□体: 高156cm、幅36cm、厚36cm。
台石上: 高36cm、幅67cm、厚66cm。
台石中: 高33cm、幅96cm、厚91cm。
台石下: 高14cm、幅127cm、厚122cm。
なお、この石幢は、7代目杉野六兵衛により、天保12年(1841)7月に建立。撰文と書は、江戸の梅塢野長が担当。
[碑表]
南無阿弥陀佛
摸刻真宗中興蓮如上人真筆
浄土真宗中興の祖、蓮如上人の真筆を摸刻した名号。
「興」の字は「奥」に見えますが、興の異体字です。
この異体字は下の右側面でも登場しています。
蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。本願寺第8世。本願寺中興の祖。同宗旨では、「蓮如上人」と尊称される。諱は兼壽。院号は信證院。明治15年(1882)に、明治天皇より「慧燈大師」の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。親鸞の直系とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いた。(Wikipedia)
杉野氏其先住伊勢州玉垣村新三郎某子某来當
郷布川遂成一家實係寛文年中享保三年十二月
没享年八十餘歳葬羽中村應順寺法名釋子西元
應順道場興造之力西元焉依以故為歴世墳院云
七世孫胤六兵衛名温字子肅幼名新兵衛常陸州
新治郡高濱村笹目傳右衛門三子而人為杉野氏
之胤嗣為其歴世香火乞求無量壽寶號於尊貴建
石幢於羽立山應順寺實天保十二年七月也詞曰
應順時機□六字名號□擬三昧王□建創徳長
此来萬祥□坐立翺翔□□東都梅塢長文并書
[読み下し文]
杉野氏、其先(せん)は伊勢州玉垣村に住(すまい)す。新三郎某、子某、當郷布川に来たり、遂に一家を成す。実に係るに寛文年中※なり。享保三年※十二月に没す。享年八十餘歳。羽中村應順寺に葬る。法名釋子西元。應順道場※これを興造するに力(つと)めしは西元なれば、焉(これ)に依り、故に以て歴世の墳院と為す。七世の孫胤六兵衛と云う。名は温、字は子肅、名は新兵衛。常陸州新治郡高濱村笹目傳右衛門の三子にして、杉野氏の胤嗣と為る。其の歴世に香火※を乞求※せんと、無量壽※の寶號※を尊貴し、羽立山應順寺に石幢※を建つる。實に天保十二年※七月也。詞に曰く、應順に時機あり、六字名號※を三昧王※に擬し、徳長かれと建創す。此に萬祥来たりて、坐立※翺翔※せん。東都梅塢長※文并に書
[語意]
※ 寛文年中: 1661〜1673年
※ 享保三年: 1718年
※ 道場(どうじょう): 本来は梵語のbodhi-manda(菩提樹下の金剛座)の訳語で、仏道修行の場を指した。(Wikipedia)
※ 香火(こうか): 仏前などでたく焼香の火。また、その香り。(三省堂大辞林)
※ 乞求(きっきゅう): 請い願う。希望する。(漢辞海)
※ 無量壽(むりょうじゅ): 《(阿弥陀仏の寿命が無量であるところから》阿弥陀仏のこと。無量寿仏。(Kotbank)
※ 寶號(ほうごう): 仏・菩薩の名。(goo 辞書)
※ 石幢(せきどう): 石塔の一。六角または八角の石柱と、仏龕(ぶつがん)・笠・宝珠などからなる。(goo 辞書)
※ 天保十二年: 1841年
※ 六字名號(ろくじのみょうごう): 六文字の名号。すなわち「南無阿弥陀仏」。(この場合、蓮如上人の真筆を模刻したこと)
※ 三昧王(さんまいおう): 三昧王三昧(さんまいおうざんまい)の略。最も優れた三昧のこと。(Wikipedia)
※ 坐立(ざりつ): すわったり立ったりすること。(Weblio日中中日辞典)
※ 翺翔(こうしょう): 鳥が空高く飛ぶこと。羽を上下に動かし羽ばたくのを翺。翼を広げたまま動かさず滑空するのを翔という。(漢辞海)
※ 梅塢長(ばいおちょう): 総州六阿弥陀詣 五大明王の石碑・仏説阿弥陀経碑・碑陰 等参照。
バッソンは、生魚の振り売り商人だったと言われていますが、資料は無く、口伝えによる狂歌だけが語り継がれています。
何代目か不明ですが、布川河岸きっての資産家であった鍋屋六兵衛が、女中の手違いから雑巾で顔をふいてしまった時、
バッソンが詠んだ次の歌で、六兵衛が喜んだという話が残っています。
雑巾も 逆さに読めば 金に蔵 店も福々 奥も福々
次に、杉野家六字名号石幢の左隣り(東)に、
2基並んで建っている墓碑を見てみます。
これらは、いずれも、杉野東山の本家にあたる、
「伊勢屋平八」関連の墓碑です。
左奥のほうから、以下、見てみます。
下の[台石]にはやはり「杉𡌛墓」と異体字が使用されています。
この墓石は、分家の東山が、本家「伊勢屋平八」のために
碑表の文字を揮毫したことが分かっていますが、
碑の左右側面に記された戒名等がだれに該当するのかは不明です。
天保15年(1844)3月に杉野榮治郎が建立していますが、
これは何代目の「伊勢屋平八」なのでしょうか。
本□体:
高95cm、幅31cm、厚31cm。
台石上:
高30cm、幅55cm、厚51cm。
台石下:
高27cm、幅77cm、厚73cm。
[碑表]杉野家六字名号石幢と同様、真宗定番の「南無阿弥陀佛」を、こんどは、分家の東山が草体で揮毫しています。
南無阿弥陀仏
三寶弟子㳒眼杉野東山拜書
[右側面]
釋子歡良證栄上首
釋尼妙教超順信女
釋尼妙應晃接信女
[左側面]
釋値覺天保十二丑歳正月十六日
妙□□天保十四卯年十二月十一日
晃□□安政二乙卯元四月口九日
徳壽院釋清淨喜心居士□昭和十六年一月十一日
清慈院釋妙安晃信大姉
[碑裏]
天保十五辰三月建焉
□□□□□杉野榮治郎
左から、[左側面]、[右側面]、[裏面]。裏面以外は少し読みづらいです。
碑の左側面の碑文に「四代目平八」の文字が見えますが、
杉野平蔵は、4代目伊勢屋平八(照曜軒)の次男で、
江戸に出て亀島町に店名を松屋という米穀商を開きました。
ちなみに『杉野氏系譜』によれば4代目平八(照曜軒)は通称を太七といい、
近江国守山吉身宿遠藤佐兵衛の男で、杉野家に聟入りし荒物商を営んだとのこと。
やはり[台石]の文字は
「杉𡌛」です。
本□体:
高98cm、幅35cm、厚34cm。
台石上:
高33cm、幅65cm、厚64cm。
台石下:
高27cm、幅87cm、厚82cm。
[碑表]
慧明院釋皎月淨照居士
慈明院釋眞月玅照大姉
普光院釋玉峯智雲童子
上部に家紋が彫られているのですが、
「丸に揚羽蝶」紋を別の杉野家の墓で見ました。
『文化学芸碑』掲載拓本ではちょっと違うように見えます。
杉野家がすべて同じかどうかは未調査です。
[右側面]
皎 弘化三丙午年八月十五日
真 弘化三丙午龍八月廿六目
玉 天保十四癸卯正月十二目
弘化3年は1846年、
天保14年は1843年。
[左側面]
慧明院者俗稱謂平蔵四代目平八
法名照曜軒之次男也住于江都龜
嶋町以於松屋爲與肆號不幸而没
妻共卒嗣子于先早世仍是後終絶
弘化四龍丁未秋八月樹焉
[読み下し文]
慧明院、俗稱を平蔵と謂う。四代目平八、法名照曜軒の次男なり。江都龜嶋町に住す。松屋を以て肆號と爲す。不幸にして没す。妻も共に卒す。嗣子は先に早世す。是に仍り後終絶す。弘化四龍丁未秋八月焉(ここ)に樹つる。
杉野家の墓碑以外で、境内の南東の区画でほかにも2基ほど、以下紹介します。
[碑表]
先祖代々墓
[台石]
市川氏
この市川家とは布川でガソリンスタンドを経営されている(先代が故市川繁雄・平成六年没)の家である。初代が元禄年間に来たというから、今から約三百年前である。生国伊勢の国の名を屋号として「伊勢屋庄右衛門」を名乗り、縮めて「伊勢庄」を通称とした。残されている記録によると明治になるまで代々庄右衛門で通している。建碑した人を特定するのは難しいが明治九年卒の釋恵遵(俗名庄造)或は明治十四年卒の釈清観(俗名忠造)あたりらしい。初代は当時の豪商鍋屋五兵衛の店で働いていたという。五兵衛の墓も応順寺に建てられている。
先祖の生国「伊勢」を名乗っている家に材木商を営んでいられる「伊勢平」がある。姓は杉野だが代々「平七」を襲名している。いまだに伊勢(三重県)の先祖出生の家と交際されているという。(『文化学芸碑』古田吉夫氏)
本体: 高77cm、幅34cm、厚34cm。台石: 高30cm、幅52cm、厚52cm。
「左側面」
文久元辛酉五月
初老にして亡跡をかへりミる
入てから思ひ殘れり
三日の月
[右側面]
市川氏其先勢州河原田之産也来布川
興家元禄中也妻先没正徳中先祖九十
有餘卒宝暦中號浄慶久傅家也父上曾
根鈴木氏之次男常嗜酒善友母賢婦而
修内父天保七申没號観了母亦嘉永二
酉没号妙觀當主尊祖建碑是孝子之志
聊以辨濫觴云爾□□應索釋了觀誌
[読み下し文]
市川氏の其先は勢州(伊勢国)河原田の産なり。布川に来り家を興せしは元禄中なり。正徳中妻先に没す。先祖、九十余歳宝暦中に卒す。浄慶と號す。久しく家を傅う。父は上曽根鈴木氏の次男。常に酒を嗜み、善き友とす。母は賢婦にして内を修め、父は天保七中年に没す。観了と號す。母また嘉永二酉年に没し、妙觀と号す。當主、祖を尊んで碑を建てる。これ孝子の志にして聊か以て濫觴を辨ずのみ。索めに応じ釋了觀誌す。
鐘楼のすぐそばに建っています。これも詳細は、『文化学芸碑』古田吉夫氏の解説を以下に。[碑表]「片岡古與之碑」
古与(こよ)は初代伝兵衛(現当主操)の後妻である。伝兵衛は文化年間、片岡伝右衛門(現当主稔)の長男として生れたが惣領の姉が家を継ぎ、伝兵衛は分家して屋敷続きの隣りに家を構えた。こよは竜ヶ崎市北方の大谷太左衛門(現当主勝男)の参女で文化14年(1817)に生れ、天保14年(1843)26才で嫁いでき、明治30年(1897)80才で没した。こよは裁縫に堪能で多くの子女に教授した。碑の裏側に建立に携わった親達の名が刻まれている。地元はもちろん、高須、布鎌などからも通ってきてい、こよの評判のよかったことがわかる。碑は戦後の台風で倒れ、頭部を欠いたが鐘楼再建(平成5年=1993)に合せて修復された。家にはこよ愛用の火熨斗が残されているという。
本体: 高153cm、幅137cm、厚20cm。台石: 高30cm、幅168cm、厚42cm。
以下は、[台石]の拡大とその拓本。右は、石碑の[裏面]です。
台石は、
「裁縫門弟」
碑裏には、
「明治二十九年三月
施主 片岡清蔵」
明治29年(1896)3月建立。
片岡清蔵とは子供?夫?
これは、没年より1年前、
生存中の建立です。いわゆる
寿蔵碑なのでしょうか?
碑裏には、数多くの門弟たちの名が刻まれているということですが、撮り逃しました。というか、気が付きませんでした。この写真の範囲には写っていないようです。もっと下部に列記されているのでしょうか?
ところで、応順寺を最初に訪れたのが2月、そして3月で、梅を見るには絶好の時期だったのですが、
花が小枝毎に房状に八重咲きするという名木「八ッ房の梅」があるとは後で知ったことでした。
とても美しい梅の写真を撮ってきましたが、どうも以下はすべて「八ッ房の梅」ではないことが分かりました。
本堂の右手奥のほうにあるようなのですが、ちょっとお寺のかたの了解なしには入りづらい感じです。
いつか機会があればと思いますが、咲く時期は、どうなんでしょうね。水戸家からの拝領とかいろいろ説のある梅のようです。
4月に再度、訪れたときこんなモミジも見つけました。常時、紅葉している種類?
下はウメノキゴケみっしりの梅。境内の樹木草花はとても手入れが行き届いています。
これが、「八ッ房の梅」の木です。お寺の婦人に案内していただきました。
残念ながら、6月末の時期外れですので、肝心の花はお預けです。
また、相当風雪に耐えている様子で、支えなど手入れが必要とのこと。
水戸家からの拝領であるとか、水戸の家臣の食べ捨てた実から生じたとか、
由来話もいろいろあるようです。(『広報とね』第236号より)
しかし、この梅の木の前に山門から最短距離で来るわけにはいきません。
猛犬が待ち構えているからです。「噛みつきます」とのこと。
その季節がきたら、きちんとお寺にご案内をお願いするのが無難です。
東山碑の背後にある公孫樹。
利根タブノキ会の調査では、幹周が386cm。
これは、利根町では43位ですが、
樹種別で公孫樹では、6位にランクされる巨木です。
応順寺開基当時からのものとの言い伝えもあるようです。
(『広報とね』第236号より)
昔の『広報とね』に左の応順寺周辺地図が掲載されています。
応順寺の南に東西に「土井大炊堤跡」が記されています。
これは、寛永のころに佐倉藩主の土井大炊頭利勝が
築いたためにこの名が付いています。
土井大炊頭が佐倉に入ったのは慶長15年(1610)で、
寛永10年(1633)には古河が移っていますので、
この堤はそれまでに築造されたものと思われます。
地図で「庚申沼」が記された辺りから東も堤跡になっていますが、
中谷や福木の「沖」や「土手」と呼ばれている地域は
この堤防に沿って形成された集落ということです。
この「土井大炊堤跡」や沼が現在どうなっているか見てきました。
以下左は、地図上の浄化センター入り口との交差点から東向き、布川方面を見た写真。右に用水路が流れています。
右の写真は、庚申沼から少し先の地点で、西向きに中谷・福木方面を眺めたもの。とくにどうということはない風景です。
ところで、土井大炊頭は佐倉に入る年は高3万2400石ですぐに老中に昇格、古河に移封したときは16万石に加増。
堤築造時でしょうか、たびたび加増され、移封直前の14万2000石は、幕末まで続いた佐倉藩としては最高の石高でした。
土井大炊堤に沿って、西から庚申沼、擂鉢沼(すりばちぬま)、道勾(どうこうぬま)が、飾り付けたように並んでいることから、
この土手が「かんざし道」と呼ばれたという説があります。ただ、小字名の「神出」の「かんだし」の意味という説も。
どちらが正しいかはともかく、現在、この3沼は、跡形もなく消えて見つかりません。
どこが沼か、と思うくらいの変貌。
いちばん古くに埋められた沼のようです。
これは、比較的最近の地図に表示されていたので、
期待して探しにいきましたが、ご覧の通り。
ヘラぶな釣りのことばかり考えてしまう tanupon なので、
残念に思いますが、仕方のないことでしょうね。
道勾沼も同様でした(下左)。ちなみに「勾」とは「まがる」の意味なので、この沼に沿って道が曲がっていたからと思われます。
今回の探索は、あまりにも収穫がないので、背後というか西の浄化センターを撮影(右写真)。
上記の3沼は、いずれも、利根川の洪水の時にできた「切れ所沼」です。
これらの沼では、昔から、魚の住みついたころを見計らって「汲み替え」がされてきました。
「汲み替え」とは、水を汲み干して魚を捕獲することをいいます。
ところで、この道勾沼の汲み替えに際して、布川の狂歌師バッソンが詠んだ歌が唱いつがれています。
そのとき、水は汲んでも汲んでも湧き出してきて、何日がかりの大仕事になっていたのを見聞きして詠んだもの。
道勾と 思案はすれど 水は干ず 欲が深いか 水が深いか
バッソンは「抜村」や「場損」とも書かれますが定説はなくカタカナで記される珍しい人物。
幕末の布川横町に住んでいたということですが、数多くのユニークな歌を作っています。
別の機会にバッソン作の特集を掲載したいと思っています。
(13/06/29 追記・13/06/27 撮影)
名称は「利根浄化センター」正確に言えば「茨城県利根流域下水道事務所」
所在地は〒300-1622 茨城県北相馬郡利根町布川3番割 TEL: 0297-68-3301
URL: http://www.pref.ibaraki.jp/doboku/ryuge/tone/
このコンテンツとは違和感があるし、
利根浄化センターの所在地は
応順寺のある羽中地区ではなく、
布川になるのですが、
応順寺から500mほど南下すれば
すぐの場所なので、
ここに掲載しました。
家庭で台所や洗濯、
トイレなどで使った水を集めて処理し、
きれいになった水を
川などに流すための施設です。
Webを見るまで知りませんでしたが
見学もできるようです。
ここでは桜の見所として紹介します。
下左は北東方面から建物を眺めたカット。右は無量寺方面から西方へ向かった場合。
花見もいいですが、敷地内にはこんな池もあるんですね。
これは敷地の東南の方角にあり、
敷地の外から回り込んで撮影しました。
tanupon が見学するとしたら、
浄化センターとしての機能より、
こういう自然の風景を見たり撮ったりしたいんですが、
それではいけないんでしょうね。
(10/12/11) (09/03/05・09/04/07 撮影)
(14/04/12 追記・13/11/29 再構成・13/06/29・13/06/26・11/02/10・10/12/10・05/04/26・05/04/23 追記) (05/04/19) (撮影 13/11/17・13/06/27・11/02/05・05/04/23・05/04/16・05/03/19・05/02/13)
本コンテンツの石造物データ → 応順寺石造物一覧.xlxs (14KB)