タヌポンの利根ぽんぽ行 上柳宿・下柳宿地区

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上柳宿・下柳宿地区 目次



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更新経過

2015年秋以降、すっかり更新も途絶えていました。
といっても、身近に強力な情報提供者がいて、
その方から数多くの未発見の石仏の所在を知ることとなりました。
それらの「宿題」を2016年春より少しずつ・・・。
ということで、まずは、下柳南の石仏 をUP。(16/04/29)


コンテンツ末に石造物データを掲出するために、様式に基づいたものを順次、作成しています。
問題は、従来まで、石仏等の法量(サイズ)をそのつど計測していなかったので、
ほとんどすべての地区を、巻尺片手に2013年頃から再訪問をと・・・。
しかし、2014年後半から事情で調査・更新が途絶えていました。

2015年春、調査再開。比較的自宅に近い場所から順次・・・。
再調査すると各種の誤謬なども発見するほか、追加要素も出てきます。
今回、裏にかくれた石仏の紹介や、名称の統一、刻銘文の修正に加え、
いままで取り上げていなかった「力石」も追加しました。(15/03/28)


当初のコンテンツから5年半ぶりに更新しました。
自主的にというより、利根町にお住まいのかたより、
上柳と下柳の場所がまったく逆転していることをご指摘いただいたため、
急遽、更新というか修正しました。過ちは速やかに正さねばなりません。

考えてみれば、どうして?と思われるほど、ひどい勘違いです。わらってしまうほどです。

まちがっていながら、自分で、この上下の地名のつけ方がおかしいのではないか、
などと文句をつけたりしていました。

以下、当初のコンテンツを再掲します。笑ってやってください。

最初にクエスチョンです。地名で「上下」があるのはどういう法則でつけられているのでしょうか?

例えば京都市街区を思い浮かべてください。
北から「上京区(かみぎょうく)」「中京区(なかぎょうく)」「下京区(しもぎょうく)」と並んでいます。
これを見ると、一般に北から上中下が決まるような気がします。

では、今回の上柳宿と下柳宿の位置を下のマップで見てみてください。上が北です。どうです?逆ですね。

調べて見ると、京都の場合、御所が北にあるのでそこを上、とするようです。
京都だけのルールですが、ほかにも例があるかも知れません。

それでは、一般のルールはなんでしょう?

有力な説として、川を基準にしている、というのがあります。近隣の川に対して、上流にあるなら「上」、下流にあるなら「下」。
なるほど、これならなんとか妥当なような気がします。
また、地方からみても、京都など御所に近いほうから上・下とつける、というのもよく聞きます。

ところが、です。わが布川地区の南にあるこの上下の柳宿は、近くを流れる利根川の上流・下流とは反対に付けられているのです。
また、京都もしくは江戸に近いところが下になっています。これは、謎です。

タヌポンの想像では・・・

もともと下柳だけがあり、柳宿と言っていた。
あらたに「上」(この場合は前を通る「道の奥」という意味)のほうに集落ができたので「かみやなぎ」と呼び、
最初からある柳宿のほうを下柳宿としたのではないか・・・。
なあんて勝手な仮説を思い浮かべましたが、果たして真相はどうなのでしょう。だれに聞けば分かることでしょうか?

この両地区は 布川神社大祭 のときにそれぞれ山車を出して競演します。

この地区の見所としては、上柳、下柳、両集会所。大師や石祠などが集まっています。
とくに下柳地区にある2基の十九夜塔は、茨城県でベスト20に入る古い石仏です。
(11/05/31)


布川地区マップ

柳宿地区は布川地区の南にあります。

上柳宿集会所

上柳宿集会所前

それでは、布川柳宿の北のほう、
利根川の上流にある「上柳宿」です。

ここは、集会所と四郡大師だけです。
ちょっと寂しいですが、
ほかに石祠等は見当たりません。

後で分かりましたが、ここには以前に
「東禅寺」があったということです。
東禅寺は、来見寺末寺で、
その創立は不詳なのですが、
ここは明治10年(1877)、
布川小学校が南北に分かれたとき
南校となったとあります。
その後、同14年(1881)に
本校落成後廃校となった旨、
『坂巻家文書』に記載されています。
(『利根町史』第5巻より)。

現在の集会所には、「不動三尊像」が安置されているとのことですが未確認です。

四郡大師81番

四郡大師81番

以下は、番号札と祠の中の大師像2体。
イケメン左に比べて右の像の顔は・・・どうなってるのかしら?

81番札所 大師像2体

左大師本体: 高30cm、幅28cm、厚20cm。右大師本体: 高35cm、幅30cm、厚18cm。

大師堂新築記念の額

大師堂新築記念の額

大師像のそばに、木製の額を見つけました。
見ると、大正14年(1925・干支は乙丑=きのと・うし)1月に
大師堂が新築されたことが記されています。
世話人の名前のほかに、末尾に東禅寺の署名があります。
以前ここに東禅寺があったことは確かなようです。

なお、現在の大師堂は大正14年新築のものとはちがうようです。
というのは、もうひとつ昭和の年代が記された額が
左の隅のほうに見つかりました。
文字がかすれて読みにくいのですが、
大師堂新築と昭和の文字だけはなんとか見えました。

下柳宿集会所

下柳宿集会所前

さて、こんどは上柳宿より南、
利根川でいえば下流である
下柳宿へ行ってみましょう。

表通りから少し入り込んだところに
祠などが立っているのが見えます。
上柳宿より何かいろいろありそうです。

ここも『利根町史』によると、
下柳集会所はもとは
徳満寺末寺の「極楽寺」だったとか。
いまは廃寺となっていますが、
これも創立とか由緒は不明。

釈迦如来(もしくは阿弥陀如来)や
毘沙門天 が安置されているとのこと。
集会所の中には入っていないので
像等の所在は確かめていません。

毘沙門天は、大仏師「杉山林哲」作ということが分かりました。拝見して撮影できればありがたいのですが・・・。
(13/06/25 追記)

地蔵と2つの大師堂

地蔵と2つの大師堂

地蔵と大師の祠が2つ、
並んで建っています。
大師堂が2つ建てられているのは、
利根町にはほかにもありますね。

下柳宿の大師以外では、
以下、5ヵ所あります。

まだ、ほかにもあったような・・・?

地蔵

地蔵

いちばん入口手前にあるのが地蔵。
右手に錫杖、左手に宝珠、が地蔵菩薩像のほぼお決まりのパターンです。

さて、この地蔵にはなにか由緒等あるのでしょうが、資料はなにも見つかりません。

こうした「丸彫り」の地蔵は、
地蔵本体に銘文を刻むのがはばかれるのか、まずなにも記されていません。
台石がセットになっていると、そこに造立年等が記される場合があります。
しかし、この地蔵の台石を調べてみましたがなにも見つかりませんでした。

本体: 高95cm、幅30cm、厚19cm。

なお、地蔵のさらに入口に近いところに、もうひとつ、
説明すべきものがありました。
これまで、それが単なる「石」とおもっていましたが、
ここにも、琴平神社で見た「力石」「さし石」 と思われるものが
4.5個見つかりました。後半でまとめて紹介(下柳宿の力石)します。
なお、利根町は8ヵ所27個の力石があるとのことですが、
(『茨城・栃木の力石』「高島慎助著 岩田書店」による)
この本の編集時とは現在は、個数も変化しているようです。

大師44番

44番大師

2つある大師のうち左のほうがこれ。
四郡大師の44番です。
番号のない右の少し大きめの祠も
やはり四郡大師のひとつでしょうか。
このあたりもいつも不可解に思うこと。

あと、残念ながら、堂の中の大師は、
撮影ができませんでした。
格子の扉が硬くてはずれません。
あまりガタガタやって
もしも壊れたりするとたいへんです。

44番
44番大師像

→ 1年後に再訪問。うまく撮れました。

やってみるものですね。今度はOK。
扉が始めから少し手前に開きかけていたのも幸いしました。

ホントは、奥の石仏をもういちど精しく調べるのが目的でしたが、
こちらの主目的はうまくいきませんでした。
風化していて文字関係がほとんど読み込めませんでした。
むしろ過去に撮った写真を拡大して推定するほうがマシです。

左大師本体: 高30cm、幅27cm、厚18cm。
右大師本体: 高29cm、幅25cm、厚18cm。

44番の額

この44番大師堂の上部に、
文字がかすれてまったく読めない額が掲げられています。
本来なら、四国44番の御詠歌などが、
記されていたのかも知れません。
ちなみに、四国44番札所と御詠歌等は以下。
四十四番札所: 菅生山 大寶寺(すごうざん・たいほうじ)
御本尊: 十一面観音菩薩 真言宗豊山派
御詠歌:
今の世は 大悲のめぐみ 菅生山
ついには弥陀の ちかいをぞまつ

右の大師と大師像

右の大師

左の大師堂よりひとまわり大きいのに
番号札は付いていません。
そのかわり、というのもヘンですが、
こちらは観音開きになっていて、
鍵もないので扉を開いて中を撮影。
それが以下。2体あります。
なぜか2体のあいだが
しっかり仕切られています。
仲のよくない関係でしょうか(笑)。

仕切られた大師像
大師像左 大師像右

左大師本体: 高45cm、幅32cm、厚18cm。右大師本体: 高45cm、幅31cm、厚17cm。

2015年調査時

左は、2015年の像の法量を計測するときに
たまたま見えた台石の側面。

なんと、「大正十四年再建」とあります。大正14年は1925年。
とすると、左の大師も同時再建の可能性大です。

四郡大師は、山本豊栄が徳満寺の恵灯上人に指導を仰いで、
文政元年(1818)には、すべての札所を開設して開眼、
ということで、像の造立も暫定的にすべて1818年としています。

実は、もっと像の台石を調べてみたいのですが、
小ぶりな割には意外と重く、大きく動かすのは困難です。
まわりの小物やゴミ等を掃除して、像をいったん外に下ろさないと
銘文もサイズも詳しくは調べられそうもありません。

また、昨今は、石仏泥棒などもいるようなので、許可なくできそうなことは限られてしまいます。
石仏のサイズも、奥にメジャーが届かなかったり、高さなど座布団に像がめり込んだりしてなかなか正確には測れません。
上記掲載写真で、左の像の台石の側面にも人名らしきものが刻まれていますが、いまは割愛するしかありません。
正式に各地区の区長さんにお願いして調べさせてもらうのがいちばんなのですが、どうも手続きが・・・。悩みの種です。

石仏群

わずか2坪くらいの長方形の敷地を取り囲むように20基以上も置かれた石仏群。入口左からずーーと、眺めてみましょう。

大師右隣の庚申塔・石祠など

古い手水や単なる石塊のようなものもあります。「青面金剛王」と文字で記された庚申塔は、分かりやすいのですが、
それ以外のものは、建立年代はおろか石塔の名称などほとんどが風化で判別しにくいものです。
しかし、ここには、現出している十九夜塔で、茨城県でベスト20に入る古い寛文年代のものが2基もある のです。
以下、その2基を含め、なんとか若干の説明が付けられるものを紹介しましょう。

十九夜塔1

十九夜念仏供養塔

この石仏コーナー入口すぐ左脇の塔。2臂の如意輪観音の刻像塔です。
これは、ベスト10に入ると思われる寛文5年(1665)の十九夜念仏塔。

右に「十九夜念仏一結施主三十人
左に「寛文五年乙巳八月吉日敬白」が見えます。

ちなみに、日本全国で現出している中で最古の十九夜塔は
万治元年のもので、徳満寺にあります
ただし、これは「如意輪観音が刻像されているものでは」の条件付きですが、
そうでなくても、万治から寛文時代の塔は数が少なく貴重なものと言えます。

ある説によれば、茨城県は十九夜塔の発祥地と言われ、
この県南地区に密集しているとのこと。
とくに、如意輪観音の刻像塔が数多く見られます。
もしかすると、もっと絞れば、「布川」が発祥地になるのかも知れませんね。
万治から寛文時代造立の十九夜塔は、大切に保存しておきたいものです。

本体: 高87cm、幅40cm、厚28cm。

勢至菩薩塔

勢至菩薩塔

上記十九夜塔の右隣りの塔。
中央に「奉造立勢至菩薩佛敬白」とあります。
勢至菩薩の文字塔ですが、利根町では珍しいですね。初めてかも。
文字の上には、勢至菩薩を意味する種子「サク」も彫られているようです。

施主下総布川村柳宿」「寛文三癸卯暦九月吉日」の刻銘。
これも寛文3年(1663)9月と古い建立です。
下部に10名ほど施主人名が記されていますが、
これは写真拡大では読み取れません。拓本でも、どうかなあ?

このような板碑形の文字塔は一般に古いものが多いですね。
勢至菩薩は、一般に月待ちでは二十三夜の主尊とされていますが、
銘文には二十三夜の文字は出てきません。

本体: 高104cm、幅43cm、厚28cm。

廻国塔

廻国塔

勢至菩薩塔の右にある塔。
中央に「奉供羪大乘妙典六十六部日本」とあります。

これは経典を日本全国66ヵ国霊場に納めて廻ったことを記念して立てるもので、
廻国塔と呼ばれるものです。
日本の文字の下はおそらく「廻国(もしくは回国)」と続くと思われますが、
塔が少し地中に埋もれているようです。

左右の「元文三戌午年」「十月十有九日」は、
すなわち、元文3年(1738)10月19日ですが、
十有九日とは、漢文の書き下しで語呂をよくするためで、まあ十九日と同じです。
日付を吉日ではなく、19日と明記してあるのはなぜでしょうか。

本体: 高62cm、幅30cm、厚22cm。

庚申塔1

庚申塔1

廻国塔の右は、「青面金剛王」の文字塔の庚申塔。
上部に、日・月・雲の浮彫がなされています。

左の「閏十一月吉日」は読めますが、右の「寛政六寅年」は勘に近い解読。
正しければ、寛政6年(1794)閏11月の造立です。

ところで、庚申塔のとくに「青面金剛」の文字塔についてですが、
利根町では「青面金剛王」がほとんどだったと記憶しています。
ところが、他の地区では、「青面金剛」だけのものが多いように思います。
この傾向は偶然でしょうか。

本体: 高83cm、幅30cm、厚18cm。

如意輪観音塔

如意輪観音塔

青面金剛王の庚申塔と次の馬頭観音塔の間に1基、見えます。
如意輪観音の刻像塔であることはまちがいないようなので、
なんとかならないかと、庚申塔に手を掛けましたがビクともしません(笑)。

右の文字「享保十六亥五月吉日」はなんとか読めます。
享保16年(1731)5月の造立です。
これが、「十月十九日」だったら、文句なく「十九夜塔」と題するところですが、
この状態では、如意輪観音塔というしかありません。

いつか、庚申塔を持ち上げてずらし、真正面から写真を撮る、
その目的だけのために、再度、ここに訪問することになるような予感・・・。
でも、色男には程遠いし、金はさらにないし、力もでぶのくせに非力だしなあ・・・。

本体: 高58cm、幅36cm、厚20cm。(塔が半分隠れているため幅は推定)

馬頭観音塔1

馬頭観音塔1

入口から上辺のコーナーに移り、上記如意輪観音塔の右の少し傾いた塔。

文字がまったく読めないのと、青面金剛かな?という疑問もあり、
ちょっと自信がないのですが、庚申塔とすると少しシンプルすぎるような・・・。

刻像の頭の形で馬頭観音かな、という程度。

本体: 高46cm、幅29cm、厚20cm。

馬頭観音塔2

馬頭観音塔2

この塔は、少し地中に埋まっていますが、
右方に「馬頭觀音」の文字が読めます。
また、上部には馬頭観音の種子「カン」が刻まれています。

左には、「享和元辛酉□月吉日」、すなわち享和元年(1801)の造立。

本体: 高48cm、幅30cm、厚15cm。(塔下部土中のため高さは推定)

馬頭観音塔3

馬頭観音塔3

上記のすぐ右のこの塔も、「馬頭観」が明確に見えるので馬頭観音です。
しかし、下半分ほど地中に隠れています。
こんなに埋め込むのもおかしいので、もしかすると欠損しているのかも・・・。

ただし、これは刻像されていない文字塔のようです。
少し掘り下げて、「天明三」と「五月」が判明。
すなわち、天明3年(1783)5月の造立。

本体: 高48cm、幅30cm、厚15cm。(塔下部土中もしくは欠損のため高さは推定)

無縫塔

無縫塔

無縫塔とは、僧侶の墓という風に言われています。
ここが、徳満寺末寺の「極楽寺」だったというのであれば、
その住職の墓かも知れません。

しかし、何か種子や小さな文字が刻まれている感もありますが、
読み取れるまでにはそうとう苦労しそうなのであきらめました。

ちなみに、無縫塔は、その形から卵塔(らんとう)とも呼ばれます。

本体: 高40cm、幅27cm、厚27cm。


この無縫塔の右から次の庚申塔の背後あたりは、
雑多な石塊、墓塔など、何基か見えますが、
これらの説明は割愛します。

庚申塔2

庚申塔2

このコーナーは結局、馬頭観音塔が5基もあり、
この塔も当初、刻像されているのは馬頭観音かと思いました。

でも、上部の「日月雲」マークもそうですが、
苔の生えた塔下部に「邪鬼」を踏みつけている様子なので、
馬頭観音ではなく、青面金剛と断定しました。

しかしながら、光背の右側には「天あるいは庚」に「上」の文字、
左は「□十一月吉」程度の断片的な文字しか読み取れません。
これも、よくタオル等で擦って磨いてやれば
もう少し文字が判明するかも知れませんが・・・いつか・・・。

本体: 高55cm、幅26cm、厚17cm。


すぐ右に見える塔は、墓塔のようなので説明を省きます。

庚申塔3

庚申塔3

上記の庚申塔から、一気に上辺を終えて右辺の中間部分へ飛びます。
前述のように途中、手水などがありますが、解説する材料が見つかりません。
この庚申塔3の左隣りの2基は、文字・建立日等が鮮明なのですが、
戒名が記された墓塔のようなので、これも割愛します。

さて、写真は、邪鬼を踏みつけた青面金剛が描かれ、
上に一部欠損した日月雲マーク、下には3猿も描かれた分かりやすい庚申塔。
ただ、3猿も中央以外は風化が激しいようで見にくいです。
6臂ですが、合掌している2臂のほかは、
おそらく右手は、三又戟と矢、左手は法輪と弓を持っているようですが、
これも消えかかっていてよく見えません。

光背右に「寛政七 夘年」、左に「十一月 吉日」。
つまり、寛政7年(1795)11月の造立です。

本体: 高74cm、幅26cm、厚17cm。

庚申塔4

庚申塔4

隣りはまた庚申塔です。こんどは「青面金剛王」の文字塔です。

右に「寛」の字が読めて寛政と思いますが年は読めません。
左には「十一月 吉日」、11月の造立。
下部左右に「下柳宿 講中」とあります。

寛政といい、日付といい、もしかすると前記の庚申塔とセットなのかも・・・。

本体: 高68cm、幅27cm、厚17cm。

庚申塔5

庚申塔5

右辺コーナーの右端も「青面金剛王」の文字塔です。

これは、「寛政十戊午年」「十一月吉日」が読めます。
寛政10年(1798)11月の造立です。

本体: 高65cm、幅28cm、厚15cm。

馬頭観音塔4

馬頭観音塔4

コーナー角にもう1基、これも「馬頭観世音」とあります。
馬頭観音の種子も上部に刻まれています。

左に「六月吉日」は読めるのですが、建立年が不明です。

それにしても、ここは、庚申塔と馬頭観音がホントに多いですね。

本体: 高50cm、幅20cm、厚16cm。

馬頭観音塔5

競馬なら3コーナーを回ってさあ直線に入ってまいりました、というところ。
大きめの石仏が3基並んでいます。そのいちばん左は・・・。またしても、「馬頭観世音」です。
下写真は、左から、正面、右側面、左側面。

馬頭観音塔5 馬頭観音塔5右側面 馬頭観音塔5左側面

表面の馬頭観世音の文字の左右にちょっと読み辛いですが「元治二丑年」「三月吉日」とあります。
元治2年(1865)と比較的新しい建立ですが、幕末の元治年間は2年目ですぐに慶応に改元されます。
4月8日に改元したのですが、この塔の造立は3月ですからまさに直前で、元治2年となるわけです。

右の側面には「布川 馬持中」、左には、「女人若者中」と珍しい組織名。
下柳宿には、馬が何頭もいる牧場のようなものがあったのかなと想像しました。

本体: 高73cm、幅30cm、厚25cm。

十九夜塔2

十九夜念仏塔

さあ、いよいよその時がやってきました。
これも、ベスト20に入ると思われる十九夜念仏塔です。
半跏思惟光背型、如意輪観音の刻像塔。

右に「寛文六天十月十九夜」「念仏一結之衆」左に「□□敬白

寛文6年(1666)10月は、十九夜塔としては古いものと言えます。

本体: 高88cm、幅37cm、厚29cm。

時念仏塔

時念仏塔

最後の1基、入口のすぐ右手裏、樹木の隣りの塔です。

中央に刻像されているのは、智拳印を結ぶ「大日如来」。

→ 智拳印 (左手は人差し指を伸ばし、中指、薬指、小指は親指を握る。
  右手は左手人指し指を握り、右親指の先と左人指し指の先を合わせる)


右に「時念佛一結施主同行八十五人」とあり、時念仏塔と思われます。
時念仏については、徳満寺の時念仏塔 を参照してください。

左は読み辛いのですが、「寛文七晉未十月十五日」。
これも、寛文7年(1667)の造立で、古いものです。

ただ、建立日が十月十五日であることと、十五夜塔の本尊が大日如来であること、
この符合から、この塔を「十五夜塔」と当初、記していました。
しかし、「時念仏」と明記されている以上、時念仏塔とするのが正しいかと思います。
時念仏が修行的な要素が強いのに対し、
十五夜など月待ちの催しは娯楽の意味合いが多分に含まれる傾向にあります。

本体: 高109cm、幅44cm、厚30cm。

下柳宿の力石

力石1

以前は「力石」の存在を知らなかったので、
気にも留めていませんでした。
『茨城・栃木の力石』には下柳集会場に4基と記されています。
でも、あきらかにそうと思えるのは、
入口すぐ左にあるこの石と、下左の写真の計2基。

あとはちょっとちがうものか小さい気もしますが、
刻銘も一切なく、よく分からないのですべて紹介します。

力石・さし石のデータは寸法より重さで示すべきと思いますが、
秤を用意して・・・という手間暇はちょっと。

左: 高19cm、幅81cm、厚31cm。

以下、左は、大師堂そばに。右は、石仏コーナーの樹の根元に。これは力石というより、別の石仏の一部のような・・・。

力石2 力石3

左: 高25cm、幅69cm、厚43cm。右: 高32cm、幅43cm、厚37cm。

以下は、集会場の建物裏にあったもの。ちょっと小ぶりで、これが力石、いや「さし石」と呼べるものかどうか。

力石4 力石5

左: 高16cm、幅49cm、厚33cm。右: 高18cm、幅48cm、厚38cm。

2012年大祭の大当番

大当番

2011年が臨時大祭の年でしたが、大震災のため1年延期に。
そして、2012年、下柳地区が大当番として
布川神社臨時大祭が熱く開催されました。

日本画家中村寿生氏制作の掛行燈

大当番地区担当で、下柳の一角に展示された掛行燈。日本画家中村寿生氏制作の大作です。

掛行燈 掛行燈 夜の掛行燈
掛行燈

以下、中村寿生氏より。

昨年、掛け行灯制作に取りかかろうとした矢先の震災で、福島原発の事故がおこり、それを収束させるために「水」をかけるしかないのかと、驚きました。人間は環境を破壊し川や海も汚してきましたが、最後に頼るものはその「水」でした。かつて日本には多くの神がいたように思います。最近私たちは神様に見放されているのではないかとも思います。竜は水神さんの化身として描きました。当たり前におられた神様を、綱で繋いでおかないとどこかへ行ってしまうのではないかという思いで綱で繋がれています。いつまでも神様に見守っていただけることを祈りながら、描かせていただきました。

右側より「龍神繋ぎ図」震災前/「龍神暴れ図」原発事故/「龍神戻り図」原発収束/「龍神座図」現在
使用材料: 本紙 越後門出和紙2.5匁/肌裏 埼玉小川細川紙2.3匁/総裏 埼玉小川細川紙2.3匁
絵の具: 天然鉱物顔料、金泥、墨、膠

なお、この掛行燈は、最終的には布川神社に奉納されることになるのでしょうか。
いずれにせよ、貴重な文化財なので、保管等に十分配慮していただきたいとタヌポンは思います。

山車の倉庫

倉庫?

石塔群の背後に大きな建物があります。
何を格納するものでしょうか?
消防関連のものかな?

→ これはどうも布川神社臨時大祭山車
保管されているとみました。
では、もし、そうだとすると、
上柳地区の山車はどこに格納されている?

小遊園地

小遊園地

集会所裏、大師等の横には
こんな空間もありました。

下柳南の石仏

下柳南土手近辺

2015年5月よりあまりの肥満のため、
一念発起してダイエットウォーキングを始めました。
そのため石仏調査・更新等が滞ったりしましたが、
それはともかく、ウォーキングコースのひとつである道路脇に、
いままでまったく気が付かなかった石仏が・・・。

下柳宿集会場をさらに南下して土手道にぶつかる直前の右手。
左写真の右手に見える石塔です。
これも 鎌倉街道の新ルート 発見でお世話になった
根本さんが発見し、場所を案内してもらいました。
それまでまったく気が付きませんでした。
わき目も振らず必死で歩いていたからかなあ(笑)。

馬頭観音塔6

馬頭観音が多いと先に記しましたが、またまたしても「馬頭觀世音」です。下写真は、左から、正面、右側面、左側面。
大正十年三月建之」「河川工事」「布川町」とあります。
布川が村から町制となったのは明治22年(1889)ですので、大正10年(1921)は布川町でOKです。
この観音塔は、河川工事のために移転したということでしょうか。

馬頭観音塔6 馬頭観音塔6右側面 馬頭観音塔6左側面

石塔左右に、造立に携わったと思われる人が列記されています。
右側面「関口清二郎 酒巻 利助 杉野 豊吉 宮本  幸
左側面「久保田治作 秋本 安治 山本忠二郎 伊藤榮次郎 佐原 新吉

本体: 高58cm、幅24cm、厚18cm。

(16/04/29 撮影および追記)


(16/04/29・15/03/28・13/06/25・12/08/20・12/05/18・11/05/31・05/11/15 追記) (05/11/08) (撮影 16/04/29・15/03/25・12/07/28・12/06/10・12/05/18・11/05/31・05/08/20)


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