タヌポンの利根ぽんぽ行 利根町の鎌倉街道−8

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利根町の鎌倉街道 目次


新ルート発見!

▼ 発見、と言ってもタヌポンの成果ではありません。
利根町の知人を介してご紹介いただいた方より教えていただいたのです。
でも、その方も、鎌倉街道を清掃・新規の径を開拓されるかたわら、
タヌポンが「見つからないなあ」と記していた(フジネリと雷神さま 参照)ことを
気に留めていただき、それならと探してくださった様子です。
これはとてもありがたいことでしたが、現実において、2つのルートを訪問して、
タヌポンがいくら頑張って探そうとしてもムリな場所であることを痛感しました。

▼ 「利根町の鎌倉街道−1」冒頭でその経緯を記しましたので、
ここではさっそく新発見の2つのルートとその中で見つかったポイントを紹介します。
また、「利根町の鎌倉街道」リンクマップも大幅に追加修正しました。

▼ 鎌倉街道の通常の入口から遠いほうを「新ルート1」としました。
こちらのほうが、2015年春現在、かなり路が整備され、歩きやすく、
また本線からの分岐点も竹の階段が造られ分かりやすくなっています。
2つの内、最初に詳しく調べたルートです。まずはここから説明します。

▼ それに対し「新ルート2」は、もっと手前、交差点1 よりもさらに
正規の入口に近いところから入り込んでいく小径なのですが、
道は細く、雑草等も生い茂っています。ヘビなどの存在も怖い路が最初から続きます。
また、途中からは急に樹海のような場所に出て、
後日、1人で訪ねたときちょっと路を迷ったりしました。
しかし、奥にはいくつかの掲載すべきポイントがあります。

▼ では、驚きの新ルート、開拓者根本さん命名の「哲学の小径」「シダの小径」、
順に以下、Flash を交えて紹介します。

☆ なお、最後になりましたが、掲載しました石造物や鞘堂等の持ち主の皆様へ。
皆様方の大切な氏神様となっているものもあるとお聞きしました。
丁重にお参りしたうえで、無断で撮影等させていただきましたが、
失礼の段、なにとぞご容赦ください。問題等ございましたらご遠慮なくお申し出ください。
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鎌倉街道地図

利根町の鎌倉街道マップ

新ルート1「哲学の小径」攻略

「哲学の小径」とは、その先にある関家茶庭跡地の雰囲気にちなんで、根本さんが命名されたもの。詩人ですね。
この小径のスタート地点は、実は、タヌポンの地図で紹介した Y字路 からの新ルートにあります。
したがって、ルート7の中間地点である以前のY字路は、新ルートが造られたことにより、様相が少し変化しています。
では、交差点1から新しいY字路まで、わずかな道のりですが、まずそこから見てみましょう。

Y字路からH字路へ変化

左は交差点1から中央突破直進コース入口。右はそこから少し進んだ地点。さらに進むと以下のY字路に到達します。

交差点1からルート7へ ルート7途中
2007年のY字路の様子

左は、2007年時のY字路付近の様子。
右手は、この時点では行き止まりだったと思います。
その背後には、広く竹林が広がっていて、
その奥には何かありそうな気配がありましたが、
中まで入って調べる気にはなれませんでした。
仮にもし調べていたとしても、
新ルート発見はできなかったでしょう。
ここは、かなりの労力で木々を伐採していかないと、
とうてい道は開けないもので、
タヌポンひとりの力では到底なしえないものです。

Y字路の現在の様子を、以下に・・・。

2015年のH字路の様子

左図、点線が新開拓された路。
もう少し進んで右手を見れば、
竹細工の階段が見えてきます。

そこから竹林を挟んで、
古墳への街道本線と併行するような
径が続いています。

新ルート開拓により、上空から見れば、
路はYからHへと変化したかのよう。

もちろん、新ルートは、
藪をつつけばそこにあった、
というようなものではなく、
根本さんたちが「境界標」を
ひとつひとつ探しながら、
無数の竹や雑木を刈り取って、
汗とともに切りひらいたものです。

入口は竹階段

前掲の場所からほんの少し前に行くと右手に以下の降り階段が見えてきます。竹が立ててありますのですぐ分かります。
ここを4.5段ほど降りて左折すると、いよいよ「哲学の小径」。本線より2mほど低い位置を走っています。

入口は竹階段 入口は竹階段

この階段付近そのものも開拓前は藪と雑草に覆われていたことと思います。右写真は、階段下から上を見上げたところ。

入口は竹階段 入口は竹階段

さて、「哲学の小径」は、上記階段下から左(東方向)を見たシーンから始まります。
それでは、新ルート2「哲学の小径」スタート地点から、奥深いその路のりを Flash でご案内します。

哲学の小径 Flash

ここでの重要な発見は、何といっても
永禄時代の「岡雪庵の石碑」。

タヌポンが諦めかけていたそれを
根本さんが探検、開拓後に発見、
情報提供・ご案内いただきました。

しかし、そこまでの道のりは深遠。
初めて訪れたとき、これは到底、
タヌポンだけの力ではムリだったことを
痛感しました。

以下、途中のポイントも含めて紹介。

Flash リセットして最初から見る場合は
パソコンの「F5」キーを押してください。

1.哲学の小径スタート地点

哲学の小径スタート地点

こういうところに道がついているとは
だれが想像したでしょうか。

根本さんいわく、

「見つけるためには、町道区分境界杭(赤杭)、民地境界杭(黒杭)を頼りに雑草、竹 藪を切り開く必要がありました」

並々ならぬ努力というしかありません。
(下は落ち葉に隠れた境界杭)

赤杭と黒杭

昔の広報誌に「以前は段々畑」とありますので、畑の管理が滞ったここ数十年で一気に竹が繁茂したものとおもわれます。
従って竹以外の樹木、とくに巨木は当初から存在していて、それが町道に沿って連なっていたとも想像できます。

根本さん、リスタートの皆さんは、こうした樹木に注目しながら、その近辺に境界杭を探して、道を切り開かれたようです。
以下、要所写真を紹介しますが、ここに竹がもし、なかったら、どんな光景になるのか、を想像してみるのも一興です。

以下は、少し進んだ先。ちょうど鎌倉街道本線中央部の古墳手前にある竹林、その裏側の位置にあたるところでしょう。
路の左上には、皆さんが伐採した竹の残骸が数多く載せてあります。この努力なしには「発見」はありえなかったのです。

哲学の小径 哲学の小径

2.切株を左折

2.切株 2.切株
左折後

スタート地点から少し蛇行しながらも路はまっすぐ続いています。
ただし、鎌倉街道本線古墳地点から遠ざかるように
少しずつ東南の方向に向かっている様子。

まず最初に突き当たって、目についたのは左のポイント。
ケヤキの巨木の左に、こげ茶色の得体の知れない木。

スタート地点からここまで200mもないと思いますが、
舗装道路とはちがいます。案内なくしてはとても不安な路。
ここまで切り開くのはたいへんだったと改めて思います。

これは切株、というか、立ち枯れした様子の不明の樹。
まずこれを目印に、左折。すると、左のようなシーン。

3.右折後、左にカーブ

上記からしばらく進むと、また突き当り。こんどは右折(下左写真)。切株地点とあわせると間延びしたクランクという感じ。
このあと、路は左にカーブしながら円弧を描くように進んでいきます(下右写真)。うーーん、こんな空間があるとは!
ちなみに根本さんは、この突き当り右折地点から、北の古墳へと向かう「古墳の小径」も発見されているようです。
ただし、ここではその紹介は割愛します。タヌポンも未体験ですし、私有地のようですので探索は自己責任でお願いします。

3.右折 3.右折後、左にカーブ

4.巨木の並木

4.巨木の並木

円弧カーブの右手には巨木が立ち並んでいます。
カーブした高速道路のように路自体が左に傾いた勾配がついて、
左手は、ここではまだゆるやかですが、崖になっています。

ここは、鎌倉街道本線からかなり離れた地点のように思いますが、
こんなところにも、あきらかな「並木路」があるのには、
ちょっと驚かされました。

5.針桐

5.針桐

カーブの先に立ちはだかっている巨木はハリギリ。
ハリキリなら「さあもう少し、はりきって行こー」なんて
ダジャレもでるところですが、濁音付きが正式名。

ウコギ科の落葉高木で広葉樹。若木は枝や樹幹にとげがあるので
この名があるようですが、老木になると鋭さを失い瘤になるとか。

7−8月、黄緑色の球状の小花が咲くということですが、
ちょっと時期が早かったようです。

5.針桐

6.針桐左手の坂道

6.針桐左手の坂道

ハリギリの根元左から、下り坂の道がついている様子。

根本さんの話では、この先は行き止まりになっているそうです。
ここでは、詳細は割愛しますが、行き止まりと言っても、
この辺りの所有者の家にたどり着くとかで、
こんな様子では、鎌倉街道の入口・出口は、ほかにも
かなり多数あると言えるでしょう。実に奥が深いですねえ。

さて、さきほどのカーブの道に戻って、
ハリギリの樹の少し手前にある樹木の間から、
妙な「石塔」のようなものを見かけました。それが以下。

7.石垣に使う石材?

カーブ道路から見て、これは何かの石塔か、と期待して近づいたのですが・・・なんの銘文も彫られていません。
根本さんの話では、城の石垣に使う石の形に似ているとのこと。城郭建築物にはさっぱりなので???です。
ただ、いずれにせよ、これは初めから自然石としてあるものではなく、他から持ち運んだものと言えそうです。

7.石垣に使う石材? 7.石垣に使う石材?

8.危険な穴

8.危険な穴

上記の石の少し手前にある陥没。

「・・・発見!」と喜び勇んで駆け寄ると、
こうした穴に足を取られて思わぬけがをしてしまいます。

根本さんの話では、畑の芋などの一時保管場所のような穴が、
随所にあるので、要注意とのことです。
ほかでも何ヵ所か、もっと大きなものもありました。

未踏破の路では、雑草や竹の枯葉などに埋もれて、
表面上ではまったく平らに見えるところもあるので、
探索するときは十分、注意しなければなりません。

さて、さきほどのハリギリの大樹に戻って、その右手に方向指示器のような樹を見つけました。

9.方向指示樹

9.方向指示樹

むろん、見出しのような名の樹ではありません。
ハリギリでダジャレできませんでしたので、ここで。
倒木なんでしょうか、名前は分かりません。

根本さんの案内があったので、迷わず・・・でしたが、
そうでない場合は、あなたならどちらに向いますか?

右か、左か。

案内があったので、まずは、左から以下。
まよわず、今回は左、なのは、
クライマックス(岡雪庵の石碑)は、あとのお楽しみ、
という意味合いです。

10.右は崖、下は町

10.右は崖、下は押戸

前述の方向指示樹の背後は、竹林ですが、
ここで、「もし、竹がなかったら」を思い出してください。
もう、かなり本線から南東に進んでいます。
ということは、この竹林の向こうには・・・
毘沙門堂押戸の天満宮 の建つ町並みがあるハズ。


左写真は、方向指示樹を左折して少し進んだ先の右手。
方向的には前記と同様南向き。竹と竹の間が少し空いています。
その隙間から下方に、確かに押戸の町が見えます。
ここ鎌倉街道一帯は、丘陵地です。
竹がなければ、ずいぶんと見晴らしがいいことでしょう。

11.山桜

11.山桜

方向指示樹を左折して行きつく先は、この大樹。
いまは珍しいヤマザクラです。
花弁が小さく、ソメイヨシノにすっかり花見の主役を奪われてしまいましたが、
昔は、桜、花見と言えば、また平安美人が愛でた花は、このヤマザクラでした。
利根町では、諏訪神社のシロヤマザクラ が一見の価値ありです。

11.山桜

さて、ここは、山桜の樹を見て、行き止まりか、と思ったのですが・・・。

12.天満宮へ続く道?

12.天満宮へ続く道か

山桜の樹の右手に、ちょっと急な下り坂道が続いているようです。
これはきっと 押戸の天満宮 に続く道でしょう。

しかし、利根町の鎌倉街道−3で紹介した天満宮で、
天満宮からの入口」を参照してください。
あんな急峻なところにたどり着くと、たまりません。

ここは、ほぼまちがいなく天満宮につながっていると思います。
確認はしてませんが・・・。


さて、それでは、方向指示樹のところに戻り、
こんどは右手に進んでみます。
クライマックスは、いよいよです。

13.関邸茶庭跡

13.関邸茶庭跡

方向指示樹の右手は、すぐに下り坂が見えてきますが、
その途中に、これも他から運び入れたと思われる石が、
無造作に置かれています。

この辺りから右手一帯が、関氏邸の裏山の茶庭跡で、
これらの石は、「茶道」に関連して使用されたものと思われます。

14.竃か、蚊遣火跡か

14.竃か、蚊遣火跡か

上記の散在した石の右手に、
明らかに人の手が加わった
竃のようなものが見つかりました。

サークル状に並べられた石の中央に、
確かに何か存在していた様子ですが、
ボーフラ(湯瓶)、涼炉などが、
ここに置かれたのでしょうか。

茶庭というからには、
お湯を沸かす必要があるので、
涼炉を置く竃ではと推定しました。

他に、こんな屋外での茶席ですから、
蚊遣火のひとつもないと困るでしょう。
そのための設備なのかとも・・・。

もし、中央になにか石仏などが
かつては置かれていたとしたなら、
どんなものだったか知りたいところ。

15.崖を前にして

さらに路を下り、目の前は急峻な崖。こんなところに、何かが設置されているのが見えてきました。これこそ・・・

15.崖を前にして 15.崖を前にして

16.岡雪庵の石碑

16.岡雪庵の石碑

吾齋之中不尚虗禮不
迎來客不送客去相忘
賔主列坐無序不言是
非不論公事閑談古今
靜玩山水清茶好香適
以幽趣之道儀之交斯
此而己 岡雪葊
永禄三庚申  建鐫

[読み下し文]
吾斎の中、虚礼は尚(たっと)ばず、来客を迎えず、客の去るを送らず、賓主相忘れ、列坐に序無く、是非を言わず、公事を論ぜず、閑かに古今を談じ、静かに山水を玩(め)で、清茶の香を好み、以って幽趣に適う、(之れ)道義の交わり、斯く此れ而己(のみ)

▼ これは、永禄3年(1560)、岡雪庵(葊は庵の異体字)によって、建鐫(建てて鐫る)されたものと記されています。
岡雪庵がいかなる人物かは不明ですが、この文章(漢詩)は、若干のアレンジはありますが、出典は、以下と想定されます。

司馬温公(司馬光)の『真率銘』

吾齋之中 弗尚虛禮 不迎客來 不送客去 賓主無間 坐列無序 真率為約 簡素為具 有酒且酌 無酒且止 清琴一曲 好香一炷 闥k古今 靜玩山水 不言是非 不論官事 行立坐臥 忘形適意 冷淡家風 林泉高致 道義之交 如斯而已 羅列腥膻 周旋佈置 俯仰奔趨 輯讓拜跪 內非真誠 外徒矯偽 一關利害 反目相視 此世俗交 吾斯屏棄 

司馬 光(しば こう、1019−1086)は、中国北宋代の儒学者、歴史家、政治家。字は君実。陝州夏県(山西省)の人。号は迂叟。また涑水先生と呼ばれた。諡は文正。温国公の爵位を贈られた。このため「司馬温公」・「司馬文正公」と呼ばれることも多い。祖先は西晋の高祖宣帝・司馬懿の弟司馬孚だといわれている。『資治通鑑』の編者として著名。新法・旧法の争いの旧法派の領袖として王安石と論争した。(Wikipedia)

▼ なお、司馬光といえば、徳満寺等に価値ある石碑を建てている星野一楽が、司馬光の家訓を「欽(うやま)って」いる旨、
楳塢野長が来見寺の 仏説阿弥陀経碑 の碑陰に記しています。(碑陰の読み下し文 の※7参照)

▼ 上記漢詩自体も、冒頭「尚虛禮」が「尚虛禮」と記されたものなど、ところどころが変化している場合もあります。
岡雪庵の銘文では、司馬光では「不論事」となっているのを「不論事」としています。
これなどは、中国と日本での「お上」の呼び方のちがいからあえて変えているのではないかと思います。
また、刻銘の文字で「之道儀之交」の頭の「之」1字が、おそらく不要で、刻み間違いではないかと推定します。

▼ 司馬光の『真率銘』はかなり長い漢詩ですが、岡雪庵のこの碑の詩はその半分しかありません。
でも、ほぼ、内容的には同じ心境・精神を語っているようで、まさに「茶の湯」に通じるような詩です。
こうしたアレンジは、『真率銘』が世に広まった後、中国・朝鮮・日本の様々な文人たちにされてきたように思われます。
『利根町の文化学芸碑』の解説にある杉野東山の書幅や彼が参考にした周公瑕もその例で、元は司馬光『真率銘』でしょう。

▼ さて、岡雪庵ですが、関家のご先祖ではないかと思いますが、永禄3年は戦国時代、茶の湯をたしなむ人と言えば・・・。
千利休が活躍するほんの少し前の時代、茶の湯の創始者である村田珠光からその弟子、武野紹鴎に伝えられた時代。
戦国武将の嗜みとして「茶の湯」が盛んになってくる時代で、堺の商人も同様ですが、地方の一般人ではどうでしょうか。
その意味では、岡雪庵とは、戦国武将の1人であるか、もしくは武士から隠居した身の粋人だったのではないでしょうか。

本体: 高56cm、幅59cm、厚6cm。

17.謎の石碑

さて、本編クライマックスの「岡雪庵の石碑」を紹介しましたが、もう1基、とてもミステリアスなオブジェをご案内します。
以下は、「岡雪庵の石碑」からさらに崖に沿って奥に進んだ地点。勾配も急になり、高所恐怖症のタヌポンは近づけません。
下右は、根本さんが近くに寄って斜め前から撮った写真。石碑が絶壁直前で、しかも表面が崖のほうを向いているのです。

17.謎の石碑 17.謎の石碑

根本さんに、碑陰や、石碑を支えている両脇の石等々、調べてもらったのですが、文字が一切刻まれていません。
しかし、あきらかに、これは人工物であり、意図的に刻銘がなされなかったものか、途中で断念したものか・・・。

「無の境地を表現した」「石工が怖がってここでは刻めないと断った」「石のセッティングだけで資金が枯渇した」等々の理由?

いずれにせよ、銘文が1文字も記されていないので、なんとも説明がつきません。とてもミステリアスな石碑です。
なお、これに近づいて調査・検分するのはたいへん危険です。私有地でもあり、できればご遠慮いただきたいと思います。

本体: 高121cm、幅40cm、厚11cm。(計測:根本氏)

新ルート2「シダの小径」攻略

「シダの小径」の命名も発見者の根本さんによるもの。その意味は、入口付近のシダの群生によるもの。
したがってシダが目印とはいうものの、この径は、正規の鎌倉街道入口からの進行方向とは逆向きに、
斜め右に戻るような方向なので、とても分かりづらく、漫然と歩いていては見逃してしまうような入口です。
この小径をたどっていけば、ずっと奥に、「浅間神社」の鞘堂などがあるのですが、それらを見つけるためには、
町道区分地図などをたよりに境界杭を探していく、という根本さんの方法でしか道が開けなかったような気がします。
それでは、「シダの小径」の入口付近と、その目印などをまず紹介します。

「シダの小径」入口

以下は、「利根町の鎌倉街道−1」で紹介した交差点1の手前にある「苔むした樹」と「隈笹」の再掲。
この中間地点に、実は「シダの小径」の入口があるのです。

苔むした樹 隈笹

以下左は再掲。右は、交差点1から正規入口(八幡宮方面)方向への道を見ながら、左の「シダの小径」入口を撮ったもの。

「シダの小径」入口 交差点1方向から見た「シダの小径」

では、以下の Flash で、入口正面から見てみましょう。

シダの小径 Flash

ここでの重要な発見は、
浅間神社」と「大禄天の石宮」。

利根町の鎌倉街道−3の
フジネリと雷神さま」で記した、
不明のポイントがすべて
クリアになったほか、
新たな石祠も見つかりました。

しかし、これらの発見も、
タヌポンではとてもムリな探索。
なにしろ入口ですら、まったく
思ってもみないところでしたから。

以下、「哲学の小径」同様に
途中のポイントも含めて紹介。

Flash リセットして最初から見る場合は
パソコンの「F5」キーを押してください。

1.シダの小径スタート地点

「シダの小径」入口

これが「シダの小径」入口正面。

「哲学の小径」と比較して、
まだ「ケモノミチ」風ですね。
でも、右手にヒモが張られています。
これを目印として、先に進めます。

2.シダの群生

以下左は、入口すぐの小径を真横から撮ったもの。小径手前の群生です。右は、小径を少し進んだ付近のシダ。
ただ、シダの群生は入口から少し入ったところまでで、そのあとはシダ以外の雑草・竹林が主体となります。

シダの群生 シダの群生

3.枯れ木とケヤキ

枯れ木、なのかどうか分かりませんが、下左の横に伸びた樹と、その近くにあるケヤキが一応の探索目印です。

枯れ木? ケヤキ
ケヤキ

ケヤキから振り返り、以下の左写真方向に進むのが正解。
この辺りは、右手方面にも木々を縫って進めないわけではありません。
下右がその方向ですが、少し先の木々の陰に巨木が見えてちょっと魅力的です。
でも・・・どこかに行きつくとは思いますが、樹海を彷徨うような気分になるかも・・・。
タヌポンは樹海に行ったことはないので実際の気分は分かりませんが(笑)。

→ 2回目の単独訪問で、少し迷い込んであわててしまいました。
民家のほうへ降りるような坂道を見つけましたが、下までは断念しました。
根本さんは、もっと広く探検されているようですが、石造物は発見されていない様子。

ケヤキ背後から左 ケヤキ背後から右

4.雷神社

鎌倉街道入口の八幡宮にあった境内社「別雷神社」と同様、いかずち神社と呼ぶものと思いますが、
全国には「かみなり神社」や「らい神社」と呼ぶ神社もあるとか。この場合、かみなり神社のほうがそれらしく思えます。
というのは、冒頭で説明した「フジネリと雷神さま」での内容では雷に関係がある地域だからです。

後ほど発見する「大禄天神社」が地元では「雷神さま」と呼ばれていた、と広報誌にありましたが、もしかすると、
「雷神さま」とは、この「雷神社」を指しているのではないでしょうか。それならなんの問題もなく理解できます。
大禄天は、天津神であり天神、そして雷神をも意味する場合もありますが、ちょっと違うのではないかと思っています。

4.雷神社 4.雷神社石祠右側面 4.雷神社石祠左側面

さて、上左写真は石祠正面で「雷神社」、中央は石祠右側面で、「押戸邑中」とあります。
最後は左側面で「天明三癸卯十二月十五日」、すなわち天明3年(1783)12月15日の造立。
ところが、この造立年月日は、後述の大禄天神社の2基とまったく同日なのです。3基一緒に造立されたことになります。
それならなおのこと、大禄天神社はともかく、雷神社こそが本来は「雷神さま」と呼ばれるものだったのではと思いました。

本体: 高39cm、幅25cm、厚14cm。

雷神社石祠の正面から前方を見ると

雷神社の石祠が向いている方向に目をやると、前方に何かが見えます。
まるで、石祠がその存在に注意を払わせるかのような向きに建っているような感じです。

竹林の竹の間に、茶色の堂のようなものが見え隠れしています。
これこそが、探し求めていたものに違いありません。
もっと近づいて見てみましょう。

5.浅間神社

5.浅間神社 5.浅間神社鞘堂内お札 5.浅間神社鞘堂内

とくに「浅間神社」と記された額等はないのですが、
鞘堂前に浅間神社の絵馬が取り付けられたり、
内部に「富士浅間大社神璽」の神札が置かれているので、
これが「浅間神社」であることは間違いありません。
神札には「祈弥栄(いやさか)」「為押戸南坪」の銘があります。

本殿に相当する石祠は見当らないのですが、その代用としてか、
力石のような石が鎮座しています。
また、比較的最近の写真額も置かれていましたが、
この鞘堂自体も何度か改築を重ねているようです。
元々の創建がいつかは残念ながら不明です。

本体(石): 高20cm、幅37cm、厚33cm。

以前はこの辺りは美しい段々畑になっていたということですが、畑が仮になくとも竹さえこんなに伸びなければ、
そうとう見晴らしのいい場所だったでしょう。「富士根入り」がなまってフジネリとなったのも浅間神社の存在からです。
ということは、ここから、「富士山」が見えていたことは間違いありません。いまは竹ばかりです。
ちなみに利根町の浅間神社はこれを含めて4社となりました。祭神は木之花開耶姫(このはなさくやひめ)、美女神です。

6.浅間神社の参道

6.浅間神社の参道

浅間神社鞘堂前にはまっすぐの下りの道が通っています。
これはまさしく「参道」と呼べるものです。
ということは、当然ながら、この参道の先には、
神社へ参詣する人がいる、ということになります。

以下がその下り道ですが、途中から急峻になっています。

根本さんの話では、ここからは、「蘭亭と寿年」で紹介した
画家蘭亭先生の子孫である成島家に通じているとのこと。
急な坂道になりますし、この先に進むのは遠慮しました。

6.浅間神社の参道 6.浅間神社の参道

ということで、上右の地点、樹の根元から右折、竹林壁の崖を左手に見ながら少し勾配のついた坂を登ります。
下右の写真のように、視界を遮る崖上の竹林。富士山どころか、成島家への下の参道すら見えません。

参道から右へ 参道右の道の左側崖の竹林
2ヵ所のポイント発見

さて、崖から少し手前に戻るようになだらかな坂を登ると、
坂の上とそこから回り込んで下に降りたところ辺りに、
2つのポイントを見つけました。

それらが以下。
右手の坂の上のポイントから紹介します。

7.大禄天神社

ついに見つけました。「大禄天神社」の石祠2基。こんなに奥深いところにあるなんて、まったくの想定外でした。
大禄天は、一般には第六天といい、日本神話の神代七代の6番目の神、面足(おもだる)尊を指しますが、
神仏習合で、第六天魔王(他化自在天)とも言われます。大六天と記す場合が多く、大禄天は少ないようです。
利根町では初めて登場する祭神ですが、取手市にある「面足神社」をサイト開設まもない時期に紹介しました。

7.大禄天神社

この2基の石祠は、同じ名の石祠で、
一見したところ、右の小さいほうが
最初に造立され、後に左のものが
新しく造られたように見えます。

ところが、これらは造立年月日が、
まったく同一なのです。
講中の資金が多く集まり、2基造立、
ということかも知れませんが、
ちょっと不可解です。

というのは、妙なことを
ひとつ見つけたからです。
そのことは、以下、個別に紹介します。

大禄天神社1

以下は左の大きいほうの石祠。正面中央に「大祿天神社」、右側面には「押戸村□」。欠損の□はおそらく「」でしょう。

大禄天神社1 大禄天神社1右側面 大禄天神社1左側面

さて、問題なのは左側面。「天明三卯十二月十五日」。天明3年(1783)12月15日の造立ですが・・・。
天明3年の干支は「」です。当該刻字は癸の異体字とは思えず、これは明らかな石工の彫り間違いというべきでしょう。
面白いことに、同年同月同日に造立された隣りの石祠には、ちゃんと「天明三卯十二月十五日」となっているのです。
それを、以下、確認してみましょう。

本体: 高54cm、幅37cm、厚31cm。

大禄天神社2

正面はやはり「大祿天神社」。左側面は、少し欠損がありますが、正しく「天明三卯十二月十五日」となっています。

大禄天神社2 大禄天神社1左側面

こういうことから、タヌポンは、
この大禄天神社が同時期に2基もあるのは、
当初の石祠(左)の干支を彫り間違えたため、
石工がお詫びに小さな石祠をサービスで
提供したからではないか、と(笑)。

こう考えるのも、実はまったく同じ日に、
雷神社の石祠も造立しているからです。
全部で3基も造立できる資金があるなら、
大禄天2基ではなく、別の神社石祠を
造ったほうがバラエティに富んでいます。
たとえば、豊作を願う稲荷神社とか、
八幡宮でも天満宮でもいいわけです。
片方の干支に誤謬のある同種の石祠が
2基並んで建てられている、
それがどうにも不可解でなりません。

本体: 高37cm、幅24cm、厚16cm。

8.疱瘡神

8.疱瘡神

大禄天神社の石祠の正面から少し坂を下ると、
崖向きに小さな石祠が見つかりました。

表面には「疱瘡神」とあります。
利根町でこれで5基目の疱瘡神。
いずれも江戸後期から明治の近世の造立です。

小さく見えましたが、地中に10cmほど埋もれていました。
銘文等確かめるために、いったん掘り出して確認の上、
お参りして元通りに戻しました。

本体: 高50cm、幅27cm、厚19cm。

中央は右側面で「世話人 兵左エ門 茂兵エ 武左エ門」の名が記されています。
最後は左側面、「天保十四年卯十二月吉日」。天保14年(1843)12月の造立。

8.疱瘡神 8.疱瘡神石祠右側面 8.疱瘡神石祠左側面

ご注意

3.枯れ木とケヤキ」付近から右手に進むと、ある個所に・・・というルートも根本さんにより発見されています。
しかし、ここではその紹介は割愛させていただきます。その理由は、以下。皆さんも探検・訪問するときはご留意ください。


(15/06/30) (撮影 15/06/24・15/06/22・15/06/13・15/06/08・15/05/30・15/05/27・07/05/05)


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